「聖書と西洋古典」2019年9月4日(水)

 昨日届いた雑誌「クリスチャニティー・トゥデイ」で、アメリカで聖書と西洋古典の両方を教えるキリスト教主義の学校が増えていると、主要記事で取り上げているのが目にとまり、興味深く読みました。聖書だけで十分と思われていたことへの反省もあって、西洋古典としてホメロス、アリストテレス、ダンテ、チョーサー、シュエークスピア、トルストイ、フォークナーが教室で読まれていると、具体的な名を挙げていました。
 記事を読みながら「アメリカの反知性主義」という本のことを思い起こしていました。いわゆるリバイバル運動で始まったキリスト教保守主義が、戦後少しずつ知的回復の動きを見せてきているのですが、それでもこのアメリカの教会の反知性主義は根強いのだろうと実感しています。記事でイギリス人のC.S.ルイスが少しずつアメリカで受容されてきた経緯を説明しています。記事にはないのですが、同様にイギリス人であるN.T.ライトに対するアメリカの教会の反撥には、「アメリカの反知性主義」の名残を感じてしまいます。
 戦後アメリカの宣教師によってもたらされた福音派の世界観にも、聖書だけで十分でそれ以外は異教のものとして敬遠されたことを覚えています。映画を観ない、小説を読まないと、真剣に語られていました。信仰を持ち成長していく過程で、ヨーロッパの宣教師とも接してもいたのですが、多少その面ではゆったりとしていたように思います。
 この記事は、しかし、それなりに聖書信仰を持って歩んできた自分の歩みを多面にわたって振り返ることを促してくれます。聖書だけで充分だろうと思いつつ、それでも大学で西洋哲学、特にハイデガーを選んだこと、しかもその時期が60年代の大学紛争の時であったこと、聖書信仰の牙城のように思われている神学校で学び、その後の伝道者としての歩を続けていること、アメリカに移住して村上春樹に出会ったこと、ハイデガーの対局のユダヤ人哲学者のレヴィナスの世界を通して、N.T.ライトの聖書理解に共鳴し、今千葉恵教授との出会いによってローマ書のテキストそのものに向かう作業をしていることの意味を考えています。
 ローマ書のテキスト理解で一つのことを思わされています。3,4章で「信仰・ピスティス」が何度も出てきて、しかも使われ方が多様であり、複数の前置詞とのつながりで表現されたりしているのですが、新改訳2017ではほとんど一律に「信仰によって」として、あたかも私たちの信仰で神の世界が決まったしまうかの印象を与えてしまいます。それは同時に、こちらの信仰の世界に人を閉じ込めることにもなります。無反省のままで聖書信仰を主張することになります。一つの反知性主義といえます。
 記事のなかに、例えば信仰者として、人とは何者なのか、なぜ世界は存在しているのか、どうして無ではないのか、人の目的は何か、と問うことは、キリスト教信仰をより包括的なものにして、生かされている時代にキリストの使者としての使命をより有効に果たすことができると記されています。そのように問うことに意味があることで、安易な答えは思考を停止させてしまうだけでなく、キリスト教そのものを無色なものにしてしまいます。
 千葉教授との会話で、聖霊のことが出てくると訳の分からない世界に入ってしまうのではないですかと言ったことに、もっと知的にならないといけないと言われたのをよく覚えています。テキストがある限りのあくまでも知的な探究が必要であり、しかも可能であることを言われたのです。そしてその通りにローマ書5章から8章まででの聖霊の意味合い、位置づけの解明は深い平安をもたらしてくれます。
 実際にパウロは、旧約聖書は自己薬籠中のものとして知っていたのですが、パウロにとっては古典というより、より身近なものとしてギリシャ哲学を知っていて、その対話のなかで福音を提示していることが分かります。それだけ豊かな奥行きのある福音になっています。
 上沼昌雄記