「<信の哲学>と聖霊」2020年3月4日(水)

 この数週間で日本が、そして世界がどのようになるのか、息を潜めて見守りながら日々を送ることになっています。そしてどこに、どのように新型コロナウイリスが伝染していくのか分からないままに、アメリカの地でも現実的な問題になってきています。被造物の呻きに御霊自らがどのように執り成してくださるのか、少なくとも考えさせられます。
 「信の哲学」が信仰・ピスティスをも哲学のテーマとしているときに、それは、私たちの手の届かないことに対しての信頼という次元の人間の営みが、人であるすべての人にとって必要不可欠の要素であることを認めていることになります。すなわち、あることを信じ、それを信頼して行くことで私たちの日常の生活が成り立つだけでなく、明日も大丈夫であり、子孫たちも大丈夫であると言い聞かせることができます。
 しかし被造物の呻きが、私たちが積み上げてきた科学技術ではまかないきれない状態になることもあり得ます。創造の作品を創造者の意図に沿って「治める」ことは、私たちに人間に任されているというか、責任として委ねられていることです。しかしそのための識別力を失って肉の思いのままに用いていくときに、神の怒りの啓示は、神の義の啓示と同じように、すでに神の手の内で定められていることを啓示の歴史が語っています。
 私たちの生活がグローバル化して、人の動きと情報が世界的なレベルで駆け巡っているときに、一つの出来事を全人類が同時的に体験することになり、一つの事柄が全人類の事柄として避けることができない状態になっています。かつてイスラエルの民だけのことと思っていたことが、歴史的には全人類の課題として突きつけられたこともあります。歴史の動きを変えることにもなっています。
 神の義の啓示の向こうには神の怒りの啓示があります。しかし、神の義の啓示が地に実現することを神ご自身が望んでいることは理に適ったことです。そのためには私たちの「肉の弱さ」を補う神の手立てが必要です。罪の手に陥ってしまった「肉の思い」とは別の手立てが必要です。神はそれを「御霊の思い」として備えています。
 私たちの「肉の弱さ」は、造られた被造物の弱さでもあります。その意味で肉の呻きは被造物の呻きでもあります。そして神はその呻きを聞き届けておられ、御霊自らが執り成してくださる手立てを備えてくださっています。肉を含めて被造物が創造者の意図に従ってその成り立ちを完成するためには、霊という神の側の息吹が必要なのです。新しい創造の業は、罪に支配されてしまったこの世においては、新しい神の息吹として必要なのです。
 御霊は神の息吹ですが、新創造の力として機能するのです。それは御霊がイエスを死者の中から甦らせた力でもあるからです。しかもその復活のからだを「御霊のからだ」とまで呼んでいるのです。それ故に私たちは被造物の呻きを持っているのですが、希望があります。そうでなければこの地はむなしく消え去ってしまいます。
 「信の哲学」はこの御霊の機能をも哲学のテーマとしています。なぜなら、この世界の存続のためには霊の介入なしには考えられないと観ているからです。それは聖書が提示していることであり、同時に、神の息吹による刷新は世界が希求していることでもあるからです。そして今の時に、誰でもが願い求めていることです。
 上沼昌雄記

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