「肉なる者はだれも」2020年4月19日(日)

日本でも緊急事態宣言が出され、緊張感が増していることと思いますが、日々どのようにお過ごしでしょうか。私たちは、シカゴ郊外で長男の義母の葬儀が終わった3月13日前後から外出自粛令がでて、すでに5週間自宅待機といっても、子供たちの家に居候のように身を潜めています。私たちはすでに高齢者に属していますので、散歩以外は外出を控えています。

それでも今はネット社会ですので、必要な情報をそれなりに得ることができます。ニューヨーク州クオモ知事の会見は日課のように視聴しています。統計を示して患者数の動きを説明し、それに沿っての対応を促し、励ましていく姿に希望もいただいています。日本のニュースもできるところで確認して、皆さんがどのようなことを思いで生活されておられるのか想像しています。

私は日本とアメリカの動きだけをネット情報を頼りに追っているだけですが、今の状況に世界中の人が対面させられていることに変わりはありません。どこの国民でも、どの人種でも、どのような宗教体制の中に生きている人でも、同じように直面させられています。世界的な経済力が増し、人の動きがグローバルになり、今回の新型コロナウイリスがあっという間に地球を覆うことになりました。しかし経済は停滞し、先行きの分からない不安定な中に置かれています。

この困難の中で同時に信仰者として、単に慰めと励ましをいただくための信仰では事が済まない事態に直面しているのではないかと思わされています。微妙なことなのですが、人を造り、世界を創造し、新天新地を約束している神の御手がどこにあるのかを考えざるを得ない状況に置かれていると言えるからです。その答えは簡単には出せないのですが、全人類への神の関わりを、身を潜めながらなのですが、思い巡らしています。子供たちとも話し合ってもいます。

その考えるひとつの手がかりをローマ書3章20節の「信の哲学」の千葉訳でいただいています。この箇所は、その後の21節から終わりの31節までで「信仰義認」のテーマを語っているすぐ前で、その意味で大切な箇所です。「というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」と、神が罪ある者と看做していると理解しているのです。確かに文字通りに「罪のエピグノーシス」という表現なのです。新改訳2017では「罪の意識」、協会共同訳では「罪の自覚」と訳していますが、私たちが意識し自覚していなくても、神がそのように看做している認識なのです。

その前の文章では、「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう」と、明確に「すべての肉は」と言われています。新改訳2017では「人はだれも」と本文で訳しているのですが、別訳で「肉なる者はだれも」としています。すなわち、神の視点から見れば、肉なる者はだれも罪ある者と看做されていることが分かります。そして続いての箇所で、そのための神の救いの手立てとしての信仰義認であることが分かります。

同様に、私たちがそれを意識していようと、自覚していようとに関わらず、神の視点からは「すべての肉は」罪を犯していることが、ローマ書5章12節からも分かります。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫き通したのである。」ここで例えば遺伝のように伝わっているという説明もいらないのです。神が「すべての者が罪を犯した」と看做しているからです。

「信の哲学」はローマ書1章18節以下の神の怒りの啓示に関しても、神の側のこととして、すなわち、神が世界をどのように見ているかを提示されていると見ています。それは、私たちの意識や自覚の問題というよりも、神の啓示の自己完結的なあり方と捉えています。それが聖書を通して語られ、理解可能なのものとして提示されていると言うのです。

今回私たち「肉なる者だれも」が直面していることも、私たちの意識や自覚を超えている意味では、神の側のこととしてその意味を考えることが求められていると言えそうです。それが何かとは軽々しく言えないことですが、ただ今回のことを通して「肉なる者はだれも」が直面させられていることに、ユダヤ人も異邦人も、信じる者も信じない者も、謙虚に向き合うことが求められているのかも知れません。そんなことを思いながら日々生活をしています。

上沼昌雄記

「いつものイースターとは違うのです」2020年4月9日(木)

 ニューヨーク州クオモ知事は、昨日の会見の最後で、その夕刻から始まったユダヤ人の過越の祭のことに触れていました。神がかつてユダヤ人を過ぎ越されたことを思い起こすことと、それは同時に希望であることに短く触れて会見を終えたのです。アメリカで最もユダヤ人の多い州の知事としての配慮なのでしょうが、私たちにはその過越の祭は、エルサレムに入城されたイエスの十字架と復活を歴史的に結びつけてくれることになります。特に復活によって示された希望を語っています。
 クオモ州知事は今日の会見でも、統計を示して、死者数は増加しているのですが、感染者と緊急病棟への人数が減少していることから、かすかな希望が生まれていると述べています。だからといって安心できる状態ではなく、続いて社会的距離を厳格に保つように警告しています。そうでなければ二次感染が起こると繰り返して注意しています。それでも統計が示していることから、かすかな「希望」が見えて来ているのは大きな励ましです。
 今はイリノイ州にいるのですが、近隣の人たちもかなり厳格に社会的距離を保っています。多分同じようにその効果が出ているようです。すでに私たちも3週間自主隔離状態ですが、少しでも「希望」が生まれていることで励まされています。
 前回は「信仰と愛」の相補関係のことを取り上げたのですが、ご存じのように「希望」は、その信仰と愛の間に挟まれて聖書では登場しています(1コリント13:13)。あたかも信仰と愛を結びつける役割を希望が担っているかのようです。ネット勉強会で「信仰と愛」のことで経験していることを書いてくださいとテーマを出したのですが、皆さんそのことで格闘していると記してくださいました。胃が痛くなるとも書かれていました。
 「信仰と希望と愛」は、品性のことを取り上げたときにもローマ書5章初めから紹介したのですが、そこでもこの順序で出てきます。信仰の故に神の栄光への望み、それは艱難と忍耐と品性と希望となり、その背後での神の愛が取り上げられています。ここでは、信仰と愛の故に希望が与えられていると言っているかのようです。この箇所は驚くべきこと述べていますので、是非確認してください。
 そしてなりよりも、その望みは、イースターを迎える週でのキリストの受肉と十字架とともに、死者の復活の故に、ローマ書8章で、今は肉を持つ者として呻きの中にありながら、「私たちのからだが贖われることを待ち望む」(23節) ことを可能にしてくれます。しかもその続きで、「私たちは、この望みとともに救われたのです」(24節) と言うことができます。
 私たちは、キリストを信じるこの信仰によって救われているのですが、それは文字通りに私たちの特権です。しかし、この希望は今のこの困難の時に、神の取り扱いとしてすべての人にとっても望みとして与えられていると見ることができます。というより、すべての人が必要としている希望と言えます。なぜなら、直接的には今の困難においての希望であっても、その希望は、肉を持つ者の誰もが願うからだの贖いを約束しているからです。信じることは、取りも直さず、その意味で希望をもたらしてくれます。
 それで自分の家族に対しても、友人のためにも、全世界の人のためにも、ローマ書15章13節に沿って次のように祈ることができます。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」新改訳2017では「信仰による」ですが、「信の哲学」は目的語を持たない動詞形で端的に「信じることにおける」と使われていると指摘しています。それは、幼子の信仰に匹敵するものであり、信じることがすべての人に必要だからです。同じように、希望もすべての人に必要だからです。それがなければ生きられないのです。当然愛もそうです。
 キリストの十字架も復活もすべての人のためです。教会の中だけに留めておくことはできません。この困難の時に、どこに希望があるのか訴えるときです。いつものイースターとは違うのです。
 上沼昌雄記

「愛を信じる」 2020年4月4日(土)

昨日のニューヨーク州クオモ知事の会見の録画を寝る前に視聴しました。3月30日(月)の会見で、全米の医療関係者に助けに来て欲しいと訴えていましたので、そのことに触れるのかと思って関心を持っていました。その通りに20万の全米の医療関係者が反応してくれていると報告していました。別のニュースではそのために輸送機の提供をある航空会社が申し出ていると伝えています。

そしてその時に約束したように、他の地域で必要になったら今度は自分たちが医療関係者を送りますと繰り返していました。今自分たちが格闘していることは、全米のどこかでこれから経験することなので、必ず役立ちます、そのように助け合うのがアメリカですと訴えていました。

一昨日になると思いますが、ニューヨーク州では人工呼吸器があと6日で底をつくことを訴えていましたが、その対応として州内の病院で余裕のあるところから借り出すための知事としての指令を出したとも言っていました。その器具の輸送のために州兵が当たるとも言っていました。

このような具体的な対応を州知事がしていることに励まされたのですが、会見の続きの記者たちとの質疑応答の最後で、知事がフランスから来ていた記者を逆指名しました。その質問と応答の場面を何度も聞き返すことになりました。

質問は、知事の実弟でテレビ局CNNのニュースアンカーであるクリス・クオモが感染していて、それでも自宅の地下から毎日状況を放映しているのですが、その弟さんのことと、彼らの父親でニューヨーク州知事を3期務めたマリオ・クオモから何を教えられたのかというものでした。その父親はアメリカの政界でも結構有名人でした。

弟は報道関係者としての使命を果たしていると、その返答は淡々としたものですが、このような個人的なことも会見で出てくるのも何とも印象的なことです。父親のことではしばらく合間をおいて、ウインストン・チャーチルとも親しくて、「決して諦めるな」(Never give up)と教えられていたこと、そして「愛を信じること、愛は恐れも憎しみも自己中心にも打ち勝つものです」と言い、それを今私たちは実践しているのですと会見を締めくくったのです。

昨夜はこの場面が脳裏に出てきてなかなか寝付かれなかったのですが、それはこの数年取りかかっている「信の哲学」の結論にも当てはまると納得して多少興奮したからです。それで朝一番に書いてみようと思って取りかかっています。実は「信の哲学」に関心のある方々とネット勉強会を12月から始めているのですが、この3月のテーマは「信と愛の相補関係」でした。その部分をまとめて紹介いたします。

<「信の哲学」は、ロゴスとエルゴンの相補性を大切にしています。ロゴスとしてのキリストとそのキリストの働きであるエルゴンの相補関係です。パウロもローマ書15章18,19節で次のように言っています。「なぜなら、われは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわれを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである。」

さらにこのロゴスとエルゴンの相補関係を顕著に語っていることばとして、ガラテヤ書5章6節の「愛を媒体にして実働している信が力強い」を取り上げます。このことはすでにその著『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の序文で取り上げられていて、「信と愛の統一理論」(上巻4頁)と言っていますが、ある意味で、「信の哲学」の結論とも言えます。(なお上巻19,41,46,55,133,136,517,570,796頁を参照ください。)

この点に気づいたときに、それは何よりも「信の哲学」の提唱者の千葉先生の生き方でもあると納得しました。「信の哲学」に惹かれたのは信と愛の融和を千葉先生が生きていることが分かったからです。信仰は目に見えなくとも、愛は実として目に見えるのです。その信仰は神のピスティスとイエス・キリストのピスティスを元にしています。

この信仰と愛、信と愛の相関関係のことで、今まで格闘したこと、思わされたこと、経験させられていることがありましたらお分かちください。>

そして何人かの方から真摯な返答をいただきました。その方々にも昨日のニューヨーク州知事の「愛を信じること」を父親から教えられ、そのように実行していることをお伝えできればと思いました。

上沼昌雄記