「いつものイースターとは違うのです」2020年4月9日(木)

 ニューヨーク州クオモ知事は、昨日の会見の最後で、その夕刻から始まったユダヤ人の過越の祭のことに触れていました。神がかつてユダヤ人を過ぎ越されたことを思い起こすことと、それは同時に希望であることに短く触れて会見を終えたのです。アメリカで最もユダヤ人の多い州の知事としての配慮なのでしょうが、私たちにはその過越の祭は、エルサレムに入城されたイエスの十字架と復活を歴史的に結びつけてくれることになります。特に復活によって示された希望を語っています。
 クオモ州知事は今日の会見でも、統計を示して、死者数は増加しているのですが、感染者と緊急病棟への人数が減少していることから、かすかな希望が生まれていると述べています。だからといって安心できる状態ではなく、続いて社会的距離を厳格に保つように警告しています。そうでなければ二次感染が起こると繰り返して注意しています。それでも統計が示していることから、かすかな「希望」が見えて来ているのは大きな励ましです。
 今はイリノイ州にいるのですが、近隣の人たちもかなり厳格に社会的距離を保っています。多分同じようにその効果が出ているようです。すでに私たちも3週間自主隔離状態ですが、少しでも「希望」が生まれていることで励まされています。
 前回は「信仰と愛」の相補関係のことを取り上げたのですが、ご存じのように「希望」は、その信仰と愛の間に挟まれて聖書では登場しています(1コリント13:13)。あたかも信仰と愛を結びつける役割を希望が担っているかのようです。ネット勉強会で「信仰と愛」のことで経験していることを書いてくださいとテーマを出したのですが、皆さんそのことで格闘していると記してくださいました。胃が痛くなるとも書かれていました。
 「信仰と希望と愛」は、品性のことを取り上げたときにもローマ書5章初めから紹介したのですが、そこでもこの順序で出てきます。信仰の故に神の栄光への望み、それは艱難と忍耐と品性と希望となり、その背後での神の愛が取り上げられています。ここでは、信仰と愛の故に希望が与えられていると言っているかのようです。この箇所は驚くべきこと述べていますので、是非確認してください。
 そしてなりよりも、その望みは、イースターを迎える週でのキリストの受肉と十字架とともに、死者の復活の故に、ローマ書8章で、今は肉を持つ者として呻きの中にありながら、「私たちのからだが贖われることを待ち望む」(23節) ことを可能にしてくれます。しかもその続きで、「私たちは、この望みとともに救われたのです」(24節) と言うことができます。
 私たちは、キリストを信じるこの信仰によって救われているのですが、それは文字通りに私たちの特権です。しかし、この希望は今のこの困難の時に、神の取り扱いとしてすべての人にとっても望みとして与えられていると見ることができます。というより、すべての人が必要としている希望と言えます。なぜなら、直接的には今の困難においての希望であっても、その希望は、肉を持つ者の誰もが願うからだの贖いを約束しているからです。信じることは、取りも直さず、その意味で希望をもたらしてくれます。
 それで自分の家族に対しても、友人のためにも、全世界の人のためにも、ローマ書15章13節に沿って次のように祈ることができます。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」新改訳2017では「信仰による」ですが、「信の哲学」は目的語を持たない動詞形で端的に「信じることにおける」と使われていると指摘しています。それは、幼子の信仰に匹敵するものであり、信じることがすべての人に必要だからです。同じように、希望もすべての人に必要だからです。それがなければ生きられないのです。当然愛もそうです。
 キリストの十字架も復活もすべての人のためです。教会の中だけに留めておくことはできません。この困難の時に、どこに希望があるのか訴えるときです。いつものイースターとは違うのです。
 上沼昌雄記

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