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「魂の根源的態勢としての信」2020年6月17日(水)

「信の哲学」は、私たちがキリスト教信仰として、特別な心的状態として捉えているピスティス(信、信仰)を、すべての人の魂の根源的あり方として捉えていることに特徴があります。その意味で 「哲学」なのです。その例証として、アリストテレスの魂の根源的態勢の理解とパウロの心魂論(霊肉論)の相違関係に注目するのです。それは、2千年のキリスト教で誰もしてこなかった知的冒険でもあります。

興味深いのは、「アリストテレスは善き生を成功した視点から実践知・賢慮により構成されると主張するに対して、パウロは信によると主張する」と指摘されていて、パウロの場合には「アリストテレスに見られない魂の分節としての『肉』や『霊』の部位」(『信の哲学』上巻348頁)が取り上げられていると言うのです。すなわち、哲学では魂を理想的な完成像として見ようとしているのに対して、パウロは魂を揺るがし、また助けをもたらす「肉」と「霊」を見逃していないことです。人間に対してのパウロの現実的な視点です。

実は、テキスト『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』において、、アリストテレスを取り上げている2章から、パウロのことを取り上げている3章と4章への移行は、自分の中では不明確であったので、もう一度2章を読み直しながら、パウロへの結びつきを考えてきました。その内容はなかなか文章化できないのですが、納得する面は多くあります。もしかすると、私自身の「魂の根源的態勢としての信」の機能に、今の情勢に対して、納得できる面があるからかも知れません。

今回の新型コロナウイリスは、全人類的な課題として突きつけられました。誰も逃れられないのです。免疫学とその対策に関しては世界をリードしていると思われたアメリカで、最大の感染者と死亡者を出しています。その中でどのように対処するのが良いのか、すなわち、誰も教えてくれないので、自分でアンテナを張り巡りして情報を得て、自分なりに判断することになりました。

すでに何度か書いてきたのですが、州としては最大の感染者と死亡者を出すことになったニューヨーク州クオモ知事の会見は、毎日の統計をグラフで示し、それに沿って対応を明確に提示していくのです。それに加えて、感染対策の専門家のファウチ医師の説明も明確で、素人でも納得できるものでした。すでに3か月以上経っているのですが、振り返って、それは多分私の中の 「魂の根源的態勢としての信」が、説明を聞きながら、その内容に納得でき、さらに、説明してくれている人にも、この人は信頼できるという促しが働いたのだと思います。現実に、ニューヨーク州は感染者と死亡者が未だに減少している状態です。

さらにこの困難の中で、ご存じのように、アメリカでの人種差別の問題が再熱しました。当初は分かりきれなかったのですが、娘が100年前のミネソタ州デルースという小さな町でのリンチ(私刑)事件の記事を書いて、3人の黒人が無実の罪で白人の暴徒によって殺されるという事件があったことを知りました。そのようなリンチ事件は、南部では結構あったようですが、北部の町で起こったことで衝撃的であったようです。100年経って、同じミネソタ州のミネアポリスでの今回の事件に対する背景があったことを知りました。

それで、このアメリカでの人種間の 「不信」の深刻さは、図りがたいものであることが分かりました。どのように信頼感を回復できるのか、アメリカが想像以上の課題を抱えていることを知りました。指導者の役割は大きいのですが、それは同時に、アメリカの教会に課せられた神からの責任のように思います。自分の「信仰」、自分たちの 「信仰」で満足しているわけにはいかないのです。

信仰、信頼、真実、信実、誠実と訳されるピスティスは、例えば、夫婦関係や家族関係にとっての根本的なあり方です。そこが崩れたら、人格的な破壊をもたらします。「信の哲学」は、そのために神の真実・ピスティスがあり、イエス・キリストの信実・ピスティスがあることを、ローマ書から解き明かし、それを基盤に人類の生き方を提示しています。特に、「肉」 と 「霊」の 「内なる人」である魂の関わりを捉えている7章と8章の意味論的分析と、その分析を施している「信の哲学」の提唱者にも、私の 「魂の根源的態勢としての信」が相応しているのです。

上沼昌雄記

「『種の起源』を読みながら」2020年6月2日(火)

前回の「科学と信仰」で紹介した『ゲノムと聖書』の著者であるフランシス・コリンズ医師に刺激されたところもあるのですが、ダーヴィンの『種の起源』を読み出しています。光文社版の文庫本を数年前に日本で手に入れていました。その時にある集会で話をしたのですが、その主催者で、科学関係の博士号を二つ持っていてその面で活躍されてから、牧師になられた方が、「科学と信仰」のテーマになったときに、進化論を攻撃するか否定する牧師でダーヴィンの『種の起源』を読んだっことのある人はほとんどいない言われ、刺激されて購入したのでした。

比較できないのですが、光文社版は読みやすく、何よりもダーヴィンが自然をしっかりと観察して、その有り様をそのまま語っていて、むしろ楽しみながら記述しているように思い、引き込まれるところがあります。同時に、あの古代の哲学者であるアリストテレスにも『自然学』という書物があって、自然の成り行きを観察して、ある意味でそのまま記述しているところがあります。その観察の姿勢は 「魂」の世界にまで及んでいるのです。アリストテレスは紀元前350年頃に、ダーヴィンは1950年頃に、その間二千年以上かけ離れていながら、それぞれ自然をじっくり観察して、書き記している姿が浮かんできます。

そんなことを感じながら読んでいるのですが、もう一つ思わされるというか、気温が上がってきて自然との関わりで対面させられていることがあります。幸い自然に囲まれているので、植物だけでなく動物とも共存しているところがあります。鹿とリスは我が物顔で自分の住処のようにしています。それは良いのですが、結構悩まされるのが蟻の侵入です。気温が上がってくるのに合わせるように、どこからか蟻が家に入ってきます。いろいろな対策をするのですが、それをすり抜けるように入ってきます。以前には羽アリが居間の窓の上から侵入してきてて、悩まされました。

今回は洗面所の壁の上の、屋根との隙間から入って来るのか、すでにそこに巣を作っていて、温かくなって卵からふ化してからか、洗面台の上の壁に出現しだしたのです。壁の上面の一部が黒くなるほど出てきて、何かを探っているかのようなのです。その時に洗面台近くに下りてきた蟻を一匹でも捕まえると、ほとんどその瞬間に、その上一面の蟻が動き出して、あるものはその上の隙間に隠れ出すのです。あっという間のことです。次のこちらの動きを探っているかのようでもあります。

大分前になりますが、以前にこの欄で、 「三匹の蟻」という記事を書いたことがあります。三匹の蟻が、洗面所に出てきて見守っていたのですが、どこかで連絡し合って、ともに安全であると分かってから引き上げていったのです。蟻たちはどのようにコミュニケーションをしているのか不思議に思いました。今回もこれだけの蟻がほとんど瞬間的にどのように連絡し合えるのか、感心するばかりでした。一匹の蟻がいなくなったことで、周りの蟻が気づいて、何かのシグナルを送って、早く隠れろと伝えているかのようです。自分に科学的なセンスがあれば、そのコミュニケーションのシステムを探ることになるのでしょうが、ただ感心しているばかりです。

以前羽アリ時にもしたのですが、外からその屋根と壁の隙間と思えるところに薬をスプレーで繰り返し吹きかけて様子を見ています。かなり効果があるようなのですが、完全ではありません。蟻との対面はこれからも続きそうです。

それにしても自然をしっかりと見つめることは、信仰の世界を同じように見つめることを助けてくれそうです。「私の信仰(ピスティス)」の前に、「神の真実(ピスティス)」と「イエス・キリストの信(ピスティス)」が神の啓示として提示されていて、その創造と救済の世界をじっくりと観察することができるからです。

それは翻って、もう一つの自然の動きである新型コロナウイリスの動きを観察する中でも、神の啓示のあり方を観察することになるのだろうと、この時期に思わされています。「科学と信仰」のテーマはこのことが発端だからです。

上沼昌雄記

「科学と信仰」2020年5月14日(木)

2ヶ月半ぶりに家に戻ってきました。別の用事でシカゴ郊外の子供たちのところに伺ったのですが、それからすぐに自主隔離の状態になりました。その間私なりに情報を得ながら対応を考えざるを得なくなりました。その情報源としてニューヨーク州クオモ知事の会見と、感染症の専門家のファウチ医師の説明は助かりました。クオモ州知事は感染者数と死亡者数を毎回グラフで示してくれ、ファウチ医師はまだ解明されていない今回の新型コロナウイリスの危険性について分かりやすく説明してくれました。

目に見えない、しかし確実に人に感染し、死をももたらすこの事実にどのように対応するのが良いのか、考えざるを得なくなりました。クオモ州知事のグラフはニューヨーク州のことなのですが、うなぎ登りにグラフが上り、対応の効果が出てからしばらく頂点に達したクラフが平坦状態を繰り返し、そしてゆっくりと下りだしたのです。それでも死者数は一日500名前後を繰り返していました。ただこの統計の動きだけは毎日欠かさないで見ていました。

そしてファウチ医師は対応をしっかりしなければ、第二波の感染、さらには第三波の感染の可能性を示唆していることにも、私の直感がそうだろうなと納得させてくれるのです。一つにはニューヨーク州やカリフォルニア州ではグラフは下がってきているのですが、アメリカ全体では下がっていないからです。死者数はすでに8万を超えているのです。しかも増えているのです。

そんなこともあって今が家に戻るタイミングと判断して、3日のドライブをして無事に戻ってきました。ただ私たちはすでに高齢者でもありますので、給油と宿泊での接点以外は避けてきました。また途中の天候も感謝なことに守られました。ワイオミング州はロキー山脈の高地ですので、5月でも雪に見舞われるときがあります。ともかく続いて自主隔離の状態での生活を覚悟しています。

ただ今回の全人類が対面させられている新型コロナウイリスが何であるのかと言うことで、今までにない思考回路を巡らすことになっています。ある牧師は神が守ってくれるからと言って今まで通りに集会を守ってきたのですが、牧師自身が感染して亡くなったというニュースも耳にしています。終息してからのことですが、このウイリスの起源についても知りたく思います。

そんな試行錯誤の中で、ファウチ医師のことを記したときに、ファウチ医師が属しているアメリカ国立衛生研究所の現所長のフランシス・コリンズ医師のことを二人の友人が教えてくれました。一人はそのコリンズ医師の名著『ゲノムと聖書』の訳者の中村佐知氏で、もう一人は前秋田大医学部耳鼻科教授の石川和夫医師です。中村氏はファウチ医師とコリンズ医師は親しい友人であること、石川医師はそのコリンズ医師が自分の信仰の証しを語っているユーチューブを教えてくれました。

そしてその中村氏から訳書である『ゲノムと聖書』をいただいていることを思い出して、家に戻ってすぐに読み出しました。その昔生命倫理のことで本を書いたことを思い出しながら読みました。無神論者から信仰者への道筋と、科学と信仰の調和をまさにヒトゲノムの開発者としての経験を踏まえて語ってくれます。同時に私は次の視点にも関心を持ちました。「信仰を持つ私にとって、ヒトゲノム配列を明らかにしたことは、さらなる意義があった。神はDNAという言語を用いて生命を生み出した。ゲノムは、その言語によって書かれている本である。」(119, 120頁)

実際にコリンズ医師がヒトゲノム配列を見ながらといって良いのか、その元のDNAを「神の言語」と表現し、ゲノムをその言語で書かれた「本」と言い表している興奮が伝わってくるようです。まさに『ゲノムと聖書』の原題はThe Lauguage of Godなのです。その言語で書かれた「本」であるゲノムを訳者は「解説書」としています。何といってもコリンズ医師は憚ることなく「神はDNAという言語を用いて生命を生み出した」と言うのです。

この理解に基づいて「現代科学の理解」と「神を信じる信仰」との調和が可能であると見ています。ユーチューブでもこの辺を何とも嬉しそうに語っています。元々数字の苦手の私にとって「科学と信仰」を考えるというか、考えざるを得ない状態になってきました。実際に「三一億もの文字からなるDNAコード」(120頁)と言われてもピンとこないのですが、このテーマに挑戦する以外にないようです。自主隔離の間にどこに導かれるのでしょうか。

上沼昌雄記

「肉なる者はだれも」2020年4月19日(日)

日本でも緊急事態宣言が出され、緊張感が増していることと思いますが、日々どのようにお過ごしでしょうか。私たちは、シカゴ郊外で長男の義母の葬儀が終わった3月13日前後から外出自粛令がでて、すでに5週間自宅待機といっても、子供たちの家に居候のように身を潜めています。私たちはすでに高齢者に属していますので、散歩以外は外出を控えています。

それでも今はネット社会ですので、必要な情報をそれなりに得ることができます。ニューヨーク州クオモ知事の会見は日課のように視聴しています。統計を示して患者数の動きを説明し、それに沿っての対応を促し、励ましていく姿に希望もいただいています。日本のニュースもできるところで確認して、皆さんがどのようなことを思いで生活されておられるのか想像しています。

私は日本とアメリカの動きだけをネット情報を頼りに追っているだけですが、今の状況に世界中の人が対面させられていることに変わりはありません。どこの国民でも、どの人種でも、どのような宗教体制の中に生きている人でも、同じように直面させられています。世界的な経済力が増し、人の動きがグローバルになり、今回の新型コロナウイリスがあっという間に地球を覆うことになりました。しかし経済は停滞し、先行きの分からない不安定な中に置かれています。

この困難の中で同時に信仰者として、単に慰めと励ましをいただくための信仰では事が済まない事態に直面しているのではないかと思わされています。微妙なことなのですが、人を造り、世界を創造し、新天新地を約束している神の御手がどこにあるのかを考えざるを得ない状況に置かれていると言えるからです。その答えは簡単には出せないのですが、全人類への神の関わりを、身を潜めながらなのですが、思い巡らしています。子供たちとも話し合ってもいます。

その考えるひとつの手がかりをローマ書3章20節の「信の哲学」の千葉訳でいただいています。この箇所は、その後の21節から終わりの31節までで「信仰義認」のテーマを語っているすぐ前で、その意味で大切な箇所です。「というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」と、神が罪ある者と看做していると理解しているのです。確かに文字通りに「罪のエピグノーシス」という表現なのです。新改訳2017では「罪の意識」、協会共同訳では「罪の自覚」と訳していますが、私たちが意識し自覚していなくても、神がそのように看做している認識なのです。

その前の文章では、「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう」と、明確に「すべての肉は」と言われています。新改訳2017では「人はだれも」と本文で訳しているのですが、別訳で「肉なる者はだれも」としています。すなわち、神の視点から見れば、肉なる者はだれも罪ある者と看做されていることが分かります。そして続いての箇所で、そのための神の救いの手立てとしての信仰義認であることが分かります。

同様に、私たちがそれを意識していようと、自覚していようとに関わらず、神の視点からは「すべての肉は」罪を犯していることが、ローマ書5章12節からも分かります。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫き通したのである。」ここで例えば遺伝のように伝わっているという説明もいらないのです。神が「すべての者が罪を犯した」と看做しているからです。

「信の哲学」はローマ書1章18節以下の神の怒りの啓示に関しても、神の側のこととして、すなわち、神が世界をどのように見ているかを提示されていると見ています。それは、私たちの意識や自覚の問題というよりも、神の啓示の自己完結的なあり方と捉えています。それが聖書を通して語られ、理解可能なのものとして提示されていると言うのです。

今回私たち「肉なる者だれも」が直面していることも、私たちの意識や自覚を超えている意味では、神の側のこととしてその意味を考えることが求められていると言えそうです。それが何かとは軽々しく言えないことですが、ただ今回のことを通して「肉なる者はだれも」が直面させられていることに、ユダヤ人も異邦人も、信じる者も信じない者も、謙虚に向き合うことが求められているのかも知れません。そんなことを思いながら日々生活をしています。

上沼昌雄記

「いつものイースターとは違うのです」2020年4月9日(木)

 ニューヨーク州クオモ知事は、昨日の会見の最後で、その夕刻から始まったユダヤ人の過越の祭のことに触れていました。神がかつてユダヤ人を過ぎ越されたことを思い起こすことと、それは同時に希望であることに短く触れて会見を終えたのです。アメリカで最もユダヤ人の多い州の知事としての配慮なのでしょうが、私たちにはその過越の祭は、エルサレムに入城されたイエスの十字架と復活を歴史的に結びつけてくれることになります。特に復活によって示された希望を語っています。
 クオモ州知事は今日の会見でも、統計を示して、死者数は増加しているのですが、感染者と緊急病棟への人数が減少していることから、かすかな希望が生まれていると述べています。だからといって安心できる状態ではなく、続いて社会的距離を厳格に保つように警告しています。そうでなければ二次感染が起こると繰り返して注意しています。それでも統計が示していることから、かすかな「希望」が見えて来ているのは大きな励ましです。
 今はイリノイ州にいるのですが、近隣の人たちもかなり厳格に社会的距離を保っています。多分同じようにその効果が出ているようです。すでに私たちも3週間自主隔離状態ですが、少しでも「希望」が生まれていることで励まされています。
 前回は「信仰と愛」の相補関係のことを取り上げたのですが、ご存じのように「希望」は、その信仰と愛の間に挟まれて聖書では登場しています(1コリント13:13)。あたかも信仰と愛を結びつける役割を希望が担っているかのようです。ネット勉強会で「信仰と愛」のことで経験していることを書いてくださいとテーマを出したのですが、皆さんそのことで格闘していると記してくださいました。胃が痛くなるとも書かれていました。
 「信仰と希望と愛」は、品性のことを取り上げたときにもローマ書5章初めから紹介したのですが、そこでもこの順序で出てきます。信仰の故に神の栄光への望み、それは艱難と忍耐と品性と希望となり、その背後での神の愛が取り上げられています。ここでは、信仰と愛の故に希望が与えられていると言っているかのようです。この箇所は驚くべきこと述べていますので、是非確認してください。
 そしてなりよりも、その望みは、イースターを迎える週でのキリストの受肉と十字架とともに、死者の復活の故に、ローマ書8章で、今は肉を持つ者として呻きの中にありながら、「私たちのからだが贖われることを待ち望む」(23節) ことを可能にしてくれます。しかもその続きで、「私たちは、この望みとともに救われたのです」(24節) と言うことができます。
 私たちは、キリストを信じるこの信仰によって救われているのですが、それは文字通りに私たちの特権です。しかし、この希望は今のこの困難の時に、神の取り扱いとしてすべての人にとっても望みとして与えられていると見ることができます。というより、すべての人が必要としている希望と言えます。なぜなら、直接的には今の困難においての希望であっても、その希望は、肉を持つ者の誰もが願うからだの贖いを約束しているからです。信じることは、取りも直さず、その意味で希望をもたらしてくれます。
 それで自分の家族に対しても、友人のためにも、全世界の人のためにも、ローマ書15章13節に沿って次のように祈ることができます。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」新改訳2017では「信仰による」ですが、「信の哲学」は目的語を持たない動詞形で端的に「信じることにおける」と使われていると指摘しています。それは、幼子の信仰に匹敵するものであり、信じることがすべての人に必要だからです。同じように、希望もすべての人に必要だからです。それがなければ生きられないのです。当然愛もそうです。
 キリストの十字架も復活もすべての人のためです。教会の中だけに留めておくことはできません。この困難の時に、どこに希望があるのか訴えるときです。いつものイースターとは違うのです。
 上沼昌雄記

「愛を信じる」 2020年4月4日(土)

昨日のニューヨーク州クオモ知事の会見の録画を寝る前に視聴しました。3月30日(月)の会見で、全米の医療関係者に助けに来て欲しいと訴えていましたので、そのことに触れるのかと思って関心を持っていました。その通りに20万の全米の医療関係者が反応してくれていると報告していました。別のニュースではそのために輸送機の提供をある航空会社が申し出ていると伝えています。

そしてその時に約束したように、他の地域で必要になったら今度は自分たちが医療関係者を送りますと繰り返していました。今自分たちが格闘していることは、全米のどこかでこれから経験することなので、必ず役立ちます、そのように助け合うのがアメリカですと訴えていました。

一昨日になると思いますが、ニューヨーク州では人工呼吸器があと6日で底をつくことを訴えていましたが、その対応として州内の病院で余裕のあるところから借り出すための知事としての指令を出したとも言っていました。その器具の輸送のために州兵が当たるとも言っていました。

このような具体的な対応を州知事がしていることに励まされたのですが、会見の続きの記者たちとの質疑応答の最後で、知事がフランスから来ていた記者を逆指名しました。その質問と応答の場面を何度も聞き返すことになりました。

質問は、知事の実弟でテレビ局CNNのニュースアンカーであるクリス・クオモが感染していて、それでも自宅の地下から毎日状況を放映しているのですが、その弟さんのことと、彼らの父親でニューヨーク州知事を3期務めたマリオ・クオモから何を教えられたのかというものでした。その父親はアメリカの政界でも結構有名人でした。

弟は報道関係者としての使命を果たしていると、その返答は淡々としたものですが、このような個人的なことも会見で出てくるのも何とも印象的なことです。父親のことではしばらく合間をおいて、ウインストン・チャーチルとも親しくて、「決して諦めるな」(Never give up)と教えられていたこと、そして「愛を信じること、愛は恐れも憎しみも自己中心にも打ち勝つものです」と言い、それを今私たちは実践しているのですと会見を締めくくったのです。

昨夜はこの場面が脳裏に出てきてなかなか寝付かれなかったのですが、それはこの数年取りかかっている「信の哲学」の結論にも当てはまると納得して多少興奮したからです。それで朝一番に書いてみようと思って取りかかっています。実は「信の哲学」に関心のある方々とネット勉強会を12月から始めているのですが、この3月のテーマは「信と愛の相補関係」でした。その部分をまとめて紹介いたします。

<「信の哲学」は、ロゴスとエルゴンの相補性を大切にしています。ロゴスとしてのキリストとそのキリストの働きであるエルゴンの相補関係です。パウロもローマ書15章18,19節で次のように言っています。「なぜなら、われは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわれを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである。」

さらにこのロゴスとエルゴンの相補関係を顕著に語っていることばとして、ガラテヤ書5章6節の「愛を媒体にして実働している信が力強い」を取り上げます。このことはすでにその著『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の序文で取り上げられていて、「信と愛の統一理論」(上巻4頁)と言っていますが、ある意味で、「信の哲学」の結論とも言えます。(なお上巻19,41,46,55,133,136,517,570,796頁を参照ください。)

この点に気づいたときに、それは何よりも「信の哲学」の提唱者の千葉先生の生き方でもあると納得しました。「信の哲学」に惹かれたのは信と愛の融和を千葉先生が生きていることが分かったからです。信仰は目に見えなくとも、愛は実として目に見えるのです。その信仰は神のピスティスとイエス・キリストのピスティスを元にしています。

この信仰と愛、信と愛の相関関係のことで、今まで格闘したこと、思わされたこと、経験させられていることがありましたらお分かちください。>

そして何人かの方から真摯な返答をいただきました。その方々にも昨日のニューヨーク州知事の「愛を信じること」を父親から教えられ、そのように実行していることをお伝えできればと思いました。

上沼昌雄記

「品性・品格、再び」2020年3月26日(水)

 ニューヨーク州での新型コロナウイリスの感染者の急増は、医療機関の崩壊の危機をもたらしているようで気になって、今朝のクオモ州知事の会見の実況中継に耳を傾けました。現状を数値で説明しながらゆっくりと語りかけているのですが、現実の厳しさをしっかりと伝えていました。必要な情報を聞くことで、州政府がしっかりと対応していると分かって多くの人は安心するのではないかと思いました。
 そして最後に個人的な意見として語ったことにさらに注目させられました。このような困難なときは誰もが共有していることで、しかも医療関係者はいのちの危険を冒して奮闘していること、また社会生活の維持のために多くの人が疲れを忘れて働いていること、食糧供給のために日夜働いていることに触れ、そのような人への感謝の意を伝えていました。さらに、このような困難なときは人の品格が現れ出てくるときであり、さらに自分たちの品性を養うときであると締めくくっていました。
 正直このような会見で品性・品格のことが取り上げられていることに、驚いたのですが、どこかでこの国のスピリットがまだ生きているかのようで安心もしました。少し前の大統領の会見で、ひとりの記者がこのような困難なときに不安に駆られている国民に何かメッセージがありますかと質問したことに、「おまえは悪い記者だ、それが私のメッセージだ」と罵倒した場面を見て愕然としたことがありましたので、クオモ州知事のメッセージに慰めをいただきました。
 私たちは3月の初めに別のことでシカゴ郊外の長男宅に来たのですが、アメリカ全土での感染の広がりを受けて外出禁止令まで出てくることになりました。同じシカゴ郊外の長女宅に移動したのですが、時々散歩に出るくらいで外出を控えています。ここの子供たちはカトリックの学校に通っています。子供たちに愛、忍耐、寛容、親切などの徳を毎月のテーマにして教えていることを知りました。プロテスタントでは、どちらかというとそれらは信仰と行いの対比で、行いに属するものとして軽視されてきた面があります。
 そのことは気になっていたのですが、あのN.T.ライトも気になっていたようで、Virtue Reborn「徳の再生」という本を書いていることを知りました。しかも、拙訳『クリスチャンであるとは』、中村佐知訳『驚くべき希望』に続く三部作と位置づけてます。それで訳出したいと思い頑張って、初訳は終わっています。プロテスタントである私たちの見失っている徳の意味合い、すなわち、律法の意味、山上の説教、御霊の実などのことを聖書全体から調和をもって書いています。私たちに必要な本です。何とか出版にこぎ着けられればと願っています。
 品性・品格、そして徳のことを端的に語っているのが、ローマ書5章初めの艱難、忍耐、練られた品性、希望と続く箇所での、「練られた品性」のことです。「見分ける」という動詞の名詞形です。まさに今の困難の中で、忍耐をもってどのようにすべきなどかを見極めていく判断力を意味しています。
 「信の哲学」では、この判断力の機能を担う場としてローマ書7章の終わりで出てくるヌースを見ています。肉においては罪の奴隷なのですが、その肉を持つ者の「内なる人」の根底の機能としてヌースを見ています。邦訳では「心において神の律法に仕え」となっているのですが、まさに「ヌースにおいて」なのです。そのヌースにおいて神の律法を喜ぶ面を認め、そこに聖霊が働いてその実を結ぶことができるのです。その意味で12章の初めでは「ヌースの一新」のことを語っています。
 今朝クオモ州知事のメッセージを聞いて思い巡らしたことです。またこのよう困難の時にしっかりとした判断力を持って舵を取っていくときに希望も生み出されてきます。大統領の会見でこの国は終わりだと思ったのですが、まだ希望があることが分かりました。
 上沼昌雄記

「<信の哲学>と聖霊」2020年3月4日(水)

 この数週間で日本が、そして世界がどのようになるのか、息を潜めて見守りながら日々を送ることになっています。そしてどこに、どのように新型コロナウイリスが伝染していくのか分からないままに、アメリカの地でも現実的な問題になってきています。被造物の呻きに御霊自らがどのように執り成してくださるのか、少なくとも考えさせられます。
 「信の哲学」が信仰・ピスティスをも哲学のテーマとしているときに、それは、私たちの手の届かないことに対しての信頼という次元の人間の営みが、人であるすべての人にとって必要不可欠の要素であることを認めていることになります。すなわち、あることを信じ、それを信頼して行くことで私たちの日常の生活が成り立つだけでなく、明日も大丈夫であり、子孫たちも大丈夫であると言い聞かせることができます。
 しかし被造物の呻きが、私たちが積み上げてきた科学技術ではまかないきれない状態になることもあり得ます。創造の作品を創造者の意図に沿って「治める」ことは、私たちに人間に任されているというか、責任として委ねられていることです。しかしそのための識別力を失って肉の思いのままに用いていくときに、神の怒りの啓示は、神の義の啓示と同じように、すでに神の手の内で定められていることを啓示の歴史が語っています。
 私たちの生活がグローバル化して、人の動きと情報が世界的なレベルで駆け巡っているときに、一つの出来事を全人類が同時的に体験することになり、一つの事柄が全人類の事柄として避けることができない状態になっています。かつてイスラエルの民だけのことと思っていたことが、歴史的には全人類の課題として突きつけられたこともあります。歴史の動きを変えることにもなっています。
 神の義の啓示の向こうには神の怒りの啓示があります。しかし、神の義の啓示が地に実現することを神ご自身が望んでいることは理に適ったことです。そのためには私たちの「肉の弱さ」を補う神の手立てが必要です。罪の手に陥ってしまった「肉の思い」とは別の手立てが必要です。神はそれを「御霊の思い」として備えています。
 私たちの「肉の弱さ」は、造られた被造物の弱さでもあります。その意味で肉の呻きは被造物の呻きでもあります。そして神はその呻きを聞き届けておられ、御霊自らが執り成してくださる手立てを備えてくださっています。肉を含めて被造物が創造者の意図に従ってその成り立ちを完成するためには、霊という神の側の息吹が必要なのです。新しい創造の業は、罪に支配されてしまったこの世においては、新しい神の息吹として必要なのです。
 御霊は神の息吹ですが、新創造の力として機能するのです。それは御霊がイエスを死者の中から甦らせた力でもあるからです。しかもその復活のからだを「御霊のからだ」とまで呼んでいるのです。それ故に私たちは被造物の呻きを持っているのですが、希望があります。そうでなければこの地はむなしく消え去ってしまいます。
 「信の哲学」はこの御霊の機能をも哲学のテーマとしています。なぜなら、この世界の存続のためには霊の介入なしには考えられないと観ているからです。それは聖書が提示していることであり、同時に、神の息吹による刷新は世界が希求していることでもあるからです。そして今の時に、誰でもが願い求めていることです。
 上沼昌雄記

「誇り、誇ること」2020年2月5日(水)

 妻とヘブル書に続いてヤコブ書を読んでいます。昨晩はその4章でした。16節のことばで顔を見合わせることになりました。「ところが実際には、あなたがたは大言壮語をして誇っています。そのような誇りはすべて悪いものです。」実は、その夕刻に聴いた現大統領の一般教書演説で感じていたことで、二人で納得したからです。テレビがないのでラジオで聴きました。
 実はこの「誇り」「誇ること」については「信の哲学」に接してからずっと心にかかっていました。いわゆる信仰義認論の箇所と言われるローマ書3章22節から26節で、イエス・キリストの信を介して神の義の啓示の道が開かれたことが明記されていて、その上でその適用のように、27節で「それでは私たちの誇りはどこになるのでしょうか」と自問をしています。いきなり出てくるようなのですが、すでに2章23節で「律法を誇りとする」ユダヤ人のことが念頭にあることが分かります。
 その誇りは「取り除かれました」とあっさりと言い切るのです。言い切れるだけの道が開かれたからです。「どの律法を介してか」と、律法を誇る者に、逆にどの律法によるのかと切り返すのです。そこで明記しているのが、「業の律法」ではなく「信の律法を介して」いるからと、22節で出てきた「イエス・キリストの信を介して」を根拠にしていることが分かります。
 実はこの27節の訳は新改訳の三版では「どういう原理によってでしょうか」となっています。それで「行いの原理」か「信仰の原理」かと言うことで、どのような原理を見いだせばよいのだろうかと、長い間考えていたのですが、不明瞭のままでした。そのノモスを端的に「律法」と理解していくと流れが分かってきます。キリストは律法の目標(10:4)であり、「信の律法」とは「キリストの律法」(1コリント9:21)でもあるからです。
 そしてこの「誇り」「誇ること」は、パウロ自身にとっても、特にコリントの教会の人たちとのあいだで大きな課題でありました。誇りは人間としての潜在的な欲求でもあるからです。神の律法をいただいていることだけでも、また割礼を受けていることも、あるいは少しでも良い働きや業に関わったことでも、黙っていることができないで口に出してしまい、特権のように誇るのです。
 「信仰による」ことも誇りにもなるのです。宗教的なことが誇りの対象にもなってしまうのです。「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」(1コリント13;3)とまで言っています。その意味でも信仰義認論で単なる「信仰のみ」ではなく、「イエス・リストの信を介している」と、私たちの信仰以前のことを根拠にしていることを忘れることはできません。それは「肉なる者がだれも神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1:29)と言われているのです。それで「誇る者は主を誇れ」(1:31,2コリント10:17)と繰り返され、また、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ書6:14)とも言われています。
 それで、「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」があっても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」(1コリント13:3)とまで断言するのです。それはたとえ「主を誇る」「十字架を誇る」ことであっても、愛がなければとも言えるのでしょう。「愛は自慢せず、高慢になりません」と続いて言われています。演説で結構キリスト教用語が使われていたので余計に気になりました。それで妻と顔を見合わせて暗い気持ちになったのです。
 「信の哲学」は結論のように「信と愛」の相補性を大切にします。それは神において「義と愛」の相補性があると観ているからです。また、そこに神と私たちの相補性も生まれてくるからです。「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によってはたらく信仰なのです」(ガラテヤ書5:6)と言われているとおりです。「信の哲学」は繰り返し取り上げています。
 この週はウイークリー瞑想を二つ書くことになりました。時々黙っていられなくなることがあります。
 上沼昌雄記

「村上春樹とブルース・スプリングスティーン」2020年2月3日(月)

 前回の記事を読んでくださった方が、村上春樹がブルース・スプリングスティーンのことを書いていると記してくださいました。私もその文章を随分前に読んだことがあるのですが、もう一度読み返してみました。何が村上春樹をしてブルース・スプリングスティーンの文章を書かせたのか分かりました。物語性です。
 ロック歌手であるブルース・スプリングスティーンとそのバンドの熱狂的な演奏をビデオで観ることができるのですが、そこで歌われている歌詞の内容に村上春樹自身が「何よりも何よりも、、、唖然とさせられた」と言います。それは私も、前に書いたとおりに、「ストリート・オブ・フィラデルフィア」を聴いているときに、その内容はブルース・スプリングスティーン自身のことを歌っていると思ったことで、納得できます。
 しかもライブ演奏では、その歌詞のある部分を、特に繰り返しの部分を、会衆にも歌わせてしまうのです。My Hometownという曲をロンドンの会衆の前で歌っているビデオがあります。彼が祖父の車に乗って、これがおまえのHometownだよと教えられたことを、自分が父親になって同じように子供を車に乗せて、これがおまえのHometownだよと言い、そのリフレインのMy Hometownの部分を、イギリス人と繰り返しながら何度も歌うのです。誰の心にも故郷はあります。その一体感を生み出しています。
 村上春樹はそれを「物語の共振性」と言います。ロックの音楽にこれほどのストーリー性が与えられたことはないとまで言います。手前勝手ですが、聖書の物語も多くの人にその共振性をもたらしてきたと言えます。ヨブの苦難の物語、ヨナの怒りの物語、伝道者の書のむなしさの告白が共鳴をもたらしてきて、今でももたらしています。あのローマ書にもパウロの物語を感じ取ることができます。それがなければ聖書がここまで受け入れられることはなかったのです。
 村上春樹がもう一つブルース・スプリングスティーンの物語性の中に観ていることは、「物語の開放性」です。歌詞とその演奏で、生々しい感触と光景と息づかいを聴衆に与えても、物語そのものは開いたままで終わっていて、安易は結論づけを拒んでいると言うのです。何とも興味深い観察です。
 ひとつ分かることは、村上春樹とブルース・スプリングスティーンは1949年生まれで同年配です。ブルース・スプリングスティーンが60年代の症候群には巻き込まれないで、70年代、80年代苦闘をしながら自分の芸術性を磨き上げてきただけでなく、それぞれの時代の症候に呑み込まれないだけの大きな物語を持っていたからだと言います。その時代を代表する音楽家で終わることがなく、それを乗り越えるだけのものを持っていたからだと言います。そのための苦闘をブルース・スプリングスティーンがして来たと見抜いています。
 それは村上春樹自身のことを語っているかのようでもあります。しかも興味深い言い方をしています。つまりそのためには時代や階層を超えた「救済の物語」にまで昇華していく必要があるというのです。人間的にも、芸術的にも、道義的にも、ひとつ上に段階の上る必要を認めています。物語がただその人のものではなく、「より大きな枠から切り取られた物語」であるからだと言います。「救済の物語」とはその意味なのでしょう。
 村上春樹の最近の作品で「信じる力」を小説の終わりでの新たな展開としていることを書きました。ブルース・スプリングスティーンはカトリックの背景を隠さないので、信じることが報いられること、信仰と愛に望みをかけることを遠慮なしに歌い上げています。「主よ」と呼びかける歌詞を当たり前のように入れて、バンドも聴衆も一緒に歌わせてしますのです。それだけの資質と品格を苦闘と忍耐を通して身に着けてきたからなのでしょう。
 村上春樹もブルース・スプリングスティーンもすでに古希を過ぎています。二人の夢の対談が実現して、今までの芸術と人生を語り合うようなことが起こったら何が出てくるのだろうかと、勝手に心ときめかせています。
 上沼昌雄記