カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「現存在の外に」2017年8月14日(月)

「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」これは、千葉恵教授の出版予定の『信の哲学』の最後の章でハイデガーとの比較で記されている文章です(原稿736頁)。すなわち、「ハイデガーにおいてはあくまで現存在の内側から自ら解錠(決意)しようとするところに」違いを認めています。さらにそこに「ルターが恩寵に訴える」と付け加えています。

なぜ最後にハイデガーが取り上げられているかというと、ハイデガーの実存理解が実はそのルターの信仰理解の枠の中でなされているからです。 すなわち、 ハイデガーの存在の本来性と非本来性の理解が、 ルターの義人と罪人という枠組みからきているというのです。 興味深い視点です。同じドイツでのルターのパウロ書理解が、人間理解の枠になって、ハイデガーに伝わっていることになります。

そんなことに気付かされながら読んだのですが、ストレートに自分のなかでよみがえってきたことがあります。それは千葉先生が現在哲学教授として教えられている北大の学部でハイデガーを自分なりに一生懸命読んでいたときのことです。当時の大学は学生紛争の中でしたが、ハイデガーの実存分析に惹かれました。すでに信仰を持っていたのですが、信じている自分の心の中のことは不明瞭な闇に覆われていました。信仰者として存在している自分の内側はどうなっているのか、分かったようで分からない曖昧模糊とした状態でした。それでハイデガーの実存分析に関心を持ったのかも知れないと思い起こすことになりました。

しかしその時点でも、だからといって自分のなかに真理があるとは決して思いませんでした。真理は自分の外にあると認めていました。私という「現存在の外に」に真理はあるのす。それでもそれを信じている自分の内側はどのようになっているのか、どこかつかみ所ないままでした。ハイデガーの『存在と時間』には、存在の「本来性、非本来性」から始まって「覚悟性」とか「関心」とか「配慮」とか「決断」という表現もあって、一生懸命に読みました。今その本をふりほどいてみるとほとんどの頁に赤線が引いてあります。

ここにきてハイデガーにまた興味が湧いてきたのですが、それ以上に、ハイデガーの実存理解がルターの信仰理解の枠の中でなされているとすると、ルターの信仰理解、特に信仰義認の理解をしっかりと捉えておくことが、興味以上のこととなってきました。「ルターが恩寵に訴える」というのは、「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた」ことを認めつつ、その外にあるものも自分内側のこととして、すなわち、信じている自分の信仰のこととして体系付けてしまうことを意味しています。自分の信仰も恩寵に寄ることで神の啓示をも自分のなかに引き込んでいるのです。

千葉教授の提示する「信の二相」は、神の側と人の側の言語網を区別することで、その関わりを解明していることです。具体的にはローマ書1-4章と5-8章のそれぞれの言語網を打ち立て、その上でその関わりを明確にしています。ルターはその区別を認めていても、こちらの信仰をもとに信仰理解を打ち立てたのです。「神の前の現実とわれわれの生身の現実を分離しないことにこそ正しい信仰理解があるというルターによる主張が問題なのである。」(原稿691頁)宗教改革500年を迎えて問い直されている信仰義認の問題点です。

それは神学そのものの問題でもあります。「外に」ある真理をこちら側に引き入れて神学体系を打ち立てていくことが二千年の教会の歴史で繰り返されてきたからです。教派とその教理はそれぞれの信仰理解のうえに築かれてきたのです。千葉教授は「神学の前提の密輸入」と呼んでいます。そうだとすると自分の神学を勝手に持ち込まないで、ローマ書を読んでいくという作業は想像以上に困難な作業であることが分かります。千葉教授ローマ書理解はその試みをしています。

そして、その読み直しがハイデガーの捉え直しにもなります。聖書の読み直しが哲学の捉え直しに繋がると言えます。ユダヤ人哲学者レヴィナスが、ハイデガーの実存理解に対して、「他者」を視点に入れてきたことと無関係でないのです。自分のうちには真理はないからです。「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」このことを神の前と自分の前の現実として認めて、なお聖書を読み直していく責任があります。

上沼昌雄記

Masao Uen

「アウグスティヌスのことで」2017年8月3日(木)

2013年11月6日付けで「アウグスティヌスの誘惑」という記事を書きました(以下に添付)。それに対して親しい友人が心配してレスポンスをくれました。<今回の「瞑想」をたいへん興味深く読みました。「こんなこと、言ってしまって大丈夫だろうか」と案じながらです。「神聖ニシテ侵スベカラザル」存在がアウグスティヌス(主義)であると思います。もちろん、ルターもカルヴァンもウエストミンスターも「権威」には違いないのですが、アウグスティヌスは別格ですよね。その彼がギリシア哲学に深く影響されていること、そして、そのことが現代のキリスト教とキリスト者のあり方を歪めていることは、まぎれもない事実ではないでしょうか。誰かが言わなければならなかったが、なかなか言えなかった。「神聖ニシテ」ですから。でも、N.T.ライトも語り始めて、だいぶ見通しもよくなってきた。今回の「瞑想」もその流れにつらなる大事な発言と受け止めて、読ませてもらいました。>

記事の要点は、アウグスティヌスの「真理は人間の内部に宿っている」と見る視点が、結局は心の安らぎ、平安を第一とするこちら側の信仰に重点が置かれ、それが2千年のキリスト教になってしまっているのではという、一つの問いかけです。いくつかレスポンスをいただいたのですが、上記の友人のものは「そんなことを言って大丈夫?」という危惧と、また共感を示してくれたので、それ以降心に残っていました。

北大の千葉教授はローマ書の意味論的分析を施した上で、その後の神学史上の問題にメスを入れています。その一つとしてアウグスティヌスに関して次のような解説があります。「アウグスティヌスは自ら敬虔であろうとしてかえって自らの心的状態に拘泥してしまったと言える。」(原稿615頁)その具体的な箇所としてローマ書1:17の「信仰から信仰へ」のアウグスティヌスの理解を取り上げています。

この「信仰から信仰へ」のテーマについては、昨年末の12月27日付で取り上げたのですが、N.T.ライトと千葉教授は、神の真実・Faithfulness から私たちの信仰と捉えています。それに対してアウグスティヌスはどちらも私たちの信仰ととっています。しかし考えてみれば、このアウグスティヌスの理解が2千年の聖書理解にもなっていたわけです。どうしても私たちの心的状態のこととして聖書を見てしまうのです。信仰義認もこちらの信仰のことと見てしまいます。それはルターにまで繋がっていると言えます。

千葉教授のローマ書の意味論的分析が語っている視点は、人間の側の信仰のあり方を否定しているのではなくて、神の側のことをすべてこちらの信仰のこととして捉えることに喚起を促しているのです。パウロはローマ書で神の側のことは神の前でのこととして1-4章で語られ、その上で、5-8章で肉の弱さを持つものとして私たちの信仰のあり方を語っていると分けています。その間を結ぶのが3:22の「イエス・キリストの信実」です。(ガラテヤ書2:16、3:22もその意味合いになります。)

神の前のことは神のこととして完結していて、こちらの信仰でどうにかなるものではないのです。肉の弱さを持つ私たちは聖霊の助けによってその神の啓示に信仰によって結びつくのです。その意味での関わりのことを千葉教授はローマ書7章8章で肉のテーマとともに細かく分析をしています。だからといって神の啓示の完結性が変わることはないのです。

4年ほど前にアウグスティヌスのことで思い切って書いてみました。友人が心配してくれたのですが、それでキリスト教界から閉め出されることはありませんでした。むしろ何かがおかしいのではという、共鳴に近い問いかけをいただいています。この友人に今回の原稿を読んでもらいましたら「信仰のミーイズムの源泉」と呼んでいました。もしかしたら、アウグスティヌスにまで遡って、聖書理解はどうなっているのかと問いかけて良いのかも知れません。ローマ書そのものが、アウグスティヌスやルターの衣を脱いで、もう一度捉え直されることを待っているからです。

上沼昌雄記

 

「信じる力」2017年7月4日(火)

何と『騎士団長殺し』の最終頁の直前で「信じる力」という表現が使われ、しかも長編小説の最後のセンテンスが「きみはそれを信じた方がいい」で終わっています。なぜこの小説の最後で「信じる」ことが出てきたのかは、多分作者は自然に出てきたのですよと言うのでしょうが、読み手としては好奇心をそそがれ、どのような道筋なのか推測することになります。

「信じる力」は、主人公「私」とは鏡で逆に観たような登場人物の免色渉に、「私」が自分に言い聞かせる言葉です。最後のセンテンスは自分の小さな娘と信じている子に語った言葉です。実は免色さんにも自分の子どもではないかと思っている13歳の女の子がいます。それで「私」と免色さんのストーリーが交差するのです。というのは、免色さんはその女の子に近づくために「私」に接近してきたからです。肖像画を描く「私」に自分の肖像画を描いて欲しいという依頼をもって。「私」はその女の子の絵画教室の先生でもあったからです。

このような経緯にいたる物語が実は、次の書き出しで始まっています。「その年の5月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた。」そこには当然なぜ「騎士団長殺し」なのかと思わせる、それなりに複雑な経緯が含まれています。その経緯には、当然名前のある妻から離婚を迫られた「私」が、多分「私」自身が気付かない複雑なやりとりの中で、自分を信じていく、自分に信実になっていく過程が含まれています。そこには『騎士団長殺し』という絵画とその創作者が大きな役割を担っています。

免色さんは経済的にも困ることがなく、すべてが計算尽くで、すべてを願い通りに行えると信じている人物です。しかもそのような情報管理の仕事をしています。独身なのですが、ある時に関わった女性が産んだ子がその13歳の女の子ではないかと思い、何とか接近しようとするのです。しかしこの女の子は、免色さんは何かを隠し、何かの策をいつも持っていると見抜くのです。すなわち信頼ができないのです。逆に「私」には信頼して話してくるのです。そのような人との信頼関係が生まれてくることで、「私」は人生への確かさを感じます。

免色さんはいろいろあって最後に自分は無であると「私」に向かって告白します。「あなたは望んでも手に入らないものを望だけの力があります。でも私はこの人生において、望めば手に入れるものしか望むことができなかった」(下巻269頁)と言います。そこには自分を打ち破るものは何もありません。自分の可能性の中でしか生きられないのです。免色さんは、「私」の中に望むこと、信じる力を認めたのです。確かに自分を打ち破り、傷つけられることがあっても、「私」は「信じる力」を得たのです。離婚を突きつけられた妻の妊娠にも、「信じる力」が働きます。

その山の上の住処の天井裏から見つかった『騎士団長殺し』という絵画のタイトルが示していることが、文字として記されている通りに起こることで、すなわち血が流されることで、しかも「私」の手で起こることで、信じる世界が抜き差しならないものになります。目に見え、手に触れる世界だけでなく、それを超えた世界への関わりになります。その信じることをこの世界でしっかりと責任を持って生きることになります。

ローマ書で「自分が良いと認めることによって、さばかれない人は幸福です」(14:22)と言われています。その前後に「信仰」のことが語られているのですが、そのことに通じそうです。信じることには信じるという認知行為と、信じるその人の人格的あり方が深く結びついているからです。

上沼昌雄記

「私とは、他者とはー『騎士団長殺し』を読んで」2017年6月27日(火)

2回目を時差ぼけと闘いながら読んでいて、36歳の主人公の「私」には名前がないことに気付きました。姓名を名乗る場面があって、名乗ったと記されているのですが、姓名は記されていません。他の登場人物にはしっかりと名前が付いています。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を引き継いでいる名前も伺えます。この主人公が名前のある妻に離婚を突きつけられてからの10ヶ月に及ぶ出来事が物語となっています。そして登場人物が似たような状況を抱えて「私」に関わってきます。むしろその「他者」に振り回されるようでありなが、無自覚のうちに主人公は自分の人生に対して責任を負っていきます。

これだけでは人生相談で終わりそうですが、実際の物語は、熟練した小説家によって細部にまで手が加えられていて、どの場面にも緊張感が漂っています。さらに「騎士団長殺し」と上田秋成の『春雨物語』の「二世の縁」とが関わり、ナチス高官暗殺未遂事件と南京大虐殺が関わり、さらにその上でイデアとメタファーを取り上げてきます。また、名前のない主人公を肖像画家と仕立てることで、登場人物の描写が絵画のように際立ってきます。文章にも人を寄せ付けない威厳があり、全体として洗練されていて、近づきがたい気品が備わっています。

それでいて誰もがどこかで経験しているというか、思い迷っていながら手を付けられないままであったものが、老練な小説家によって手塩にかけられ、納得のいくものになっています。だれもが夫婦の問題を抱え、時には離婚の危機に陥ります。また別のことで挫折を経験します。そうすると、名前のない「私」は、名前を隠すことで、誰でもである私になります。それはあたかも、ローマ書7章でパウロが「私」を登場させていることに通じています。「私は本当にみじめな人間です」と嘆く「私は」パウロであり、私であり、イスラエルであり、全人類ひとりひとりとなります。この辺は熟練した村上春樹が意図的に仕立てたことなのでしょう。

しかし、その「私」は妻から離婚を迫られることから始まって、友人の父で高名な画家が使っていた家に間借りすることで、その裏手の祠から聞こえる鈴の音と、あたかも自分を放っておかないかのように、そして自分を揺さ振るかのように、「他者」は自分の「意に反して」関わってきます。レヴィナスが言う通りです。その「他者」が善なのか悪なのか、「私」はぎりぎりのところで判断が迫られます。イデアは、多分、善のイデアといって良いのでしょうが、「騎士団長」として「私」を導いてくれます。「私」は悪なる人物を描くのですが、それ以上描いたら悪をこの世に引き入れることになると気付いて、未完のままの終わらせます。その識別力を身に着けることで、「私」は善に対する信仰を増し加えていきます。その「信じる力」(下巻540頁)が、「私」を妻の元にもう一度導いていきます。

36歳の名前のない「私」に、その二倍の年を重ねた名前のある私を重ねながら『騎士団長殺し』を読みます。「私」の10ヶ月のうちに起こったことが私の長い人生でも起こるし、むしろ起こると信じて生きることになります。私において信じることがその意味を問われるからです。

上沼昌雄記

「日本の旅で出合った本」2017年6月19日(月)

2月に発売された村上春樹の『騎士団長殺し』を友人の坂本牧師が取り寄せていてくれ、日本に入ってすぐに最初の100頁ぐらい読みました。しかし旅に出ていて、読み終わったのは3週間後でした。その折りには残りを一気に読みました。一言、落ち着かない本です。どこに自分が導かれるのか宙づりにされるからです。この変ちくりんなタイトルの本が読者をどこに導いているのか、何せイデアとメタファーが出てくるのですから人ごとではありません。ある意味で村上春樹の今までの世界の繰り返しなのですが、そこにイデアとメタファーを入れることで、今までにない世界を展開しようとしているようです。その解明は落ち着いて読み直してから考えてみます。

名古屋で最初の牧師の学び会で河野勇一先生とコラボをさせていただきました。先生の40年の牧会と聖書の学びの成果として『わかるとかわるー神のかたちの福音』が同じく2月に出されたからです。一言、見事な本です。なぜかと言えば、聖書理解で難しいと思いわれる箇所を40年にわたって丹念に調べ、ご自分の結論を控えめに出しているからです。自分の神学的な理解の押しつけではないのです。それでも諸説を丁寧に紹介しながらご自分の理解が聖書全体を理解する上で確固たるものであることをしっかりと語っています。牧師達は説教をする聖書箇所をこの本の「聖句箇所索引」からあたって、そこにどのような神学的な意味が含まれているか確認することができます。

この学び会のあとの名古屋市内で『聖書信仰』の著者の藤本満師の講演会がありました。河野勇一先生の紹介で藤本先生ともお話しができました。その折りにCLCで『聖書信仰とその諸問題』を購入しました。旅をしながら読み、旅をしながら感想を書きました。一言、残念な本です。特に河野勇一先生の本でまさに聖書信仰とはこのようなものだと感嘆していたので、ただ自分たちの立場を擁護するために「聖書信仰」を唱えているだけで、自分の母校でもあり、かつて教師として関わった神学校の教師会の出版物としては、何とも残念な思いです。

そしてすでに6月1日付で出ていた『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話編』を先週の月曜日にいただきました。 雑誌『舟の右』に載った大頭眞一牧師の12の物語に、一つのレスポンスを書きましたので10部いただきました。その12の物語をもう一度読みました。一言、神学を楽しめる本です。この著者の大頭牧師は、話している時はただ調子を会わせているだけようなのですが、 文章を書くと途端に茶目っ気が出てくるようで、時差攻撃、場差攻撃を当たり前のようにして、思いがけないときに私の名前が飛び出してくるのです。私の名前はともかく、聖書の登場人物のことかと思うと、アウグスティヌスの話になったりするのです。それも当たり前のように場面を変えてくるので、こちらも何処に置かれているのか一瞬分からなくなります。神学の雲の中に知らないうちに導かれている感じです。ともかく不思議な本ですが、楽しむことができます。

といっても旅をしながら読んだので、落ち着いてからじっくり味わいたいと思います。それだけの価値のあるものです。何よりも千葉恵教授の「信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か」の最終原稿の製本されたコピーをいただきました。この夏の学びの教材です。ギリシャ語テキストに対面させられます。そして宝に出合います。

上沼昌雄記

「ローマ書7章を男性集会で」2017年5月31日(水)

過ぎる日曜の夕方秋田県下の十文字の教会で12名の男生と男性集会を持ちました。湯沢、十文字、大曲、そして秋田から集っています。一つのグループでの男性集会としては最も多く回数を重ねています。それでお互いには心の中のことまでわかり合っています。この男性集会を励ましてくださった兄弟が高齢のため参加できない状態になりました。この方によって男性集会がここまで来ました。

今回はローマ書7章をストレートに取り上げました。24節の「私は、ほんとうにみじめな人間です」というのは感覚的には分かるのですが、そこにいたる7章の道筋にどこまで同意できるのかとなると、それほど明確でないのかも知れないと思って、一緒に辿ることにしました。

初めに9節で「罪が生き、私は死にました」と過去形で言われていることに、パウロはそこで何を具体的に「罪」としたのかは明確でないのですが、私たちの中で確かに罪が生きというか、罪が突然に力を持って自分を捉え、その虜になって罪を犯してしまったことは否定できません。その結果死が自分と自分の家族にまで及んで行ったことを知らされています。しつこいようなのですが、そうなのではないですかと何度も聞きました。具体的なことは何も語らなくてもその事実を認めていました。具体的に語ってくれた兄弟もいました。

さらに19節で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と、今度は現在形で書かれているのですが、今の自分の状態はどうでしょうかと、これもしつこく尋ねました。否定する人はだれもいません。何がどうなのかは具体的には語れなくても、確かにそうだといううなずきがあります。実際に今闘っているかのような雰囲気も伝わってきます。肉の思いに捕らえられていて、同時に御霊の促しを感じていて、このままではいけないと思っているのが分かります。

この7章だけにパウロは「私」を登場させています。それをイスラエル、あるいは人間一般、さらに信仰前の状態、あるいは信仰者の状態と、いろいろな考えがあります。それがどうであっても、この7章だけに「私」を登場させているパウロはその「私」に当然同意しているので、その通りと認めていることになります。その「私」にこちらの私も同意できるのです。男性12人も同意できるのです。「私」はそれだけのインパクトを持っています。

7章というか、むしろローマ書全体と言えるのですが、難しいというか、私たちにとってどうしても不明瞭なのは「律法」のことです。7章の初めと終わりでパウロは律法のことを語っています。モーセの律法を背景にしているのですが、どのように語ったら伝わるのか、いまだに苦闘しています。男性集会でもこの点を触れないでいるので、パウロの意図を正確に伝えることになるのか、集会が終わって考えています。

7章の初めは婚姻関係を律法に当てはめています。それなりに分かります。終わりになると、「神の律法」「別な律法」「心の律法」「罪の律法」(22,23節)と立て続けて出てきて、最後には「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節)と締めくくっています。その「心」はヌースなのです。それこそ、その「こころは?」とパウロに聞いてみたいところです。そして「肉」とはと問いが残ります。

男性集会でローマ書7章を取り上げたのですが、意図したことが充分に伝わったのかということと同時に、こちらが7章でのパウロの意図を十分に理解しているのかと自問させられます。何とか理解の突破口をいただいて男性集会で男性だけでその意味をじっくりと噛みしめたいと思わされています。十文字の教会で男性集会のことを心に留めたくださった高齢の兄弟のためにも。

上沼昌雄記

「イースターの故に、復活のからだを」2017年4月19日(水)

イースターの日に夫婦で1コリント15章を英語と日本語で読みました。少しずつ互いに歳を取ってきて身体の衰えを覚えるときになっています。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(44節)この朽ちるからだがあるので、当然のように朽ちることのない御霊のからだもあると主張されています。

「血肉のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「魂(プシュケー)で表され、「御霊のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「霊(プネウマ)」で表されています。前回取り上げた「肉」はいずれ消滅するものですが、「からだ」は朽ちるものから朽ちないものへの変化を被ることのできるものとして描かれています。「肉のよみがえり」ではなく、「からだのよみがえり」です。「肉の贖い」ではなく、「からだの贖い」です。

「信の哲学」を標榜される千葉教授は、この「復活のからだ」についてのパウロの言表を意味論的に分析することで、「肉」と「血肉のからだ」の違いから、さらに変えられていく「霊のからだ」への変換を、パウロの心身論として展開しています。文字通りに「魂体(魂的身体)と「霊体(霊的身体)」と言い表します。「魂体もあるなら、霊的なものもある」と訳します。この霊的身体をいずれ被ることになることで、アダム以来の人間の本来のあり方の回復を見ています。人間として完成された姿を「魂体」から「霊体」への変容のうちに見るのです。パウロがキリストの復活のうちに人間のあるべき姿を見ていると言うのです。

このことは、N.T.ライトが新天新地を創造の完成されたあり方と見ていることに通じます。単に朽ちる世界を去って天国に行くことが救いの目的ではないのです。国籍はそこにあっても、「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」(ピリピ3:20)いるからです。復活のからだをいただいてキリストともに新しい天と地で治めていくのです。

千葉教授が大学の出版局から出す予定の原稿から、「復活のからだ」についてその一部を紹介します。「肉は受肉を介して『キリスト・イエスにおける生命の霊』との何らかの関わりがある限り、、、肉のおいて心が霊を受容する能力を持っている。最後のアダムであるキリストは、『生命を創る霊』であるとされている。そのキリストはイエスとして受肉された本人であった。、、、人間の肉は滅びるが、連続性においてある人間の完成が霊体においてよみがえるとするなら、その一つの保証はナザレのイエスの復活により与えられるであろう。肉の弱さを克服したイエスが霊体との連続性を明らかなものとしたと言える。」

このようなことが学問の世界で知的な作業として真剣に論じられているのです。「復活のからだ」が当時のギリシャ哲学との関わりで、パウロが切り開いた新しい人間観として熱く語られているのです。パウロの生きた語りを聴くような思いです。まさにパウロも千葉教授も私も生かされている福音の力なのです。パウロはそれゆえに「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債」(1:14)と受けとめたのです。それは私たちの責任でもあります。

上沼昌雄記