カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「その通りと判断する心(ヌース)」2018年10月8日(月)

 私たちは日常の生活のあらゆる場面で「その通り(アーメン)」と判断しながら生きています。その判断したことに関しては、自分だけが納得しているときもあります。イエスを主と認めて受け入れることもその中に入ります。誰もが認めることでなくても、自分の心の深くで納得して受け入れるのです。受け入れることで当然心に変化が起こってきます。
 今回アメリカでの最高裁判事候補の10代の時のスキャンダルに関して、それを訴えた女性の証言と、それに反論した判事の答弁を聞いた人々がどのような判断をしたのかを観察しながら、私の中でなるほどと納得する心があります。すでに何十年も前のことなので関係者の記憶も定かでもなく、そのまま承認されることになり、それで良いと思っている人が多いのですが、どこかで納得できない心がそのまま人々の中に残っていることに、私の心が納得しています。
 その「心」は聖書によれば、一般に言われている心(カルディア)ではなく、判断力、識別力を伴った心(ヌース)が使われています。代表的なのがローマ書12:1です。「心(ヌース)を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。、、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」文章の流れからは、見分けることができるように、心を新たにすると言われています。単なる心(カルディア)は、どちらかと言えば受動的な心の態勢を意味していますが、ヌースとしての心は「その通りと判断する心」を意味しています。信じる心はこのようなものです。
 このヌースがローマ書7章24節の「私は本当にみじめな人間です」の言い回しの前後で2回使われています。後の25節はこの章の最後になっていますが、「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と対比しながら、神の律法を嘉とする心(ヌース)を認めています。その前の23節ではその対比が、「からだには異なる律法があって、これが私の心(ヌース)の律法に対して戦いを挑み」となっています。それはさらにその前の22節の「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいます」から来ています。すなわち、肉で生きているのですが、その「内なる人」のさらにそのうちにヌースとしての心が神の律法を認め、仕えていると言える部位があるからです。
 ここのでやり取りで、脱線しそうになるのですが、2017年版で23節の「心」には星印がついていて脚注で「別訳『理性』。25節も同様」となっています、しかし、ヌースが「理性」と訳されている箇所はどこにもなく、前後関係で「知性」「思い」と訳されているケースがあるだけです。「知性」とすべき所をタイプミスで「理性」になってそのままになってしまったのでしょうか。重箱の隅をほじくるようなことはしたくないのですが、大切な箇所なので取り上げてみました。
 というのは、肉では罪の律法に仕えている自分のこの肉のからだの「内なる人」のさらにそのうちにヌースとして神の律法を認め、それを喜んでいる心があることを語っているからです。そのヌースとしての心が「これは大丈夫」「その通り(アーメン)」と自分自身を促してくれることで、信仰者としてなおこの地上で神の子としての責任を持って歩めるのです。単純に「理性」とはとれないのです。
 しかし、そのヌースは肉の中のことなので、肉の働きに閉じ込められて、動かされて、ヌースの機能不全に陥りがちです。1章28節で「神を知ることをに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」と語っています。識別し、判断する機能を失ったヌースになってしまったのです。
 また逆に、自分のヌースを過信することはできません。聖霊の助けが必要です。そのことを8章で語っています。聖霊が内なる人のヌースに働くときに、ヌースが御霊の実を結んでいくことを、肉を持ったままで体験できるのです。しかし、聖霊が働かないで、ヌースが肉に覆われて機能不全に陥ることもあるのです。
 この意味での心(ヌース)のあり方を確認することは、祈り心で何が神に喜ばれることなのかを求め、この地上での神の子としての責任を果たしていくために、その心を日々新たにして歩んでいくことになります。その時には御霊にも適合しながら「その通りと判断する心」に納得しながら歩むことのだと思います。
 上沼昌雄記
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「あまりにも霊的な」2018年9月20日(木)

 ある書物の翻訳を試みています。すでに最初の訳業を終えて読み直しをしています。最初の訳業は従来の新改訳聖書を下にしています。新しい訳、2017年版が出ましたので、読み直しをしながら訂正をしています。その度に2017年版でどのように改訂されているのか、関心を持って観ています。その作業でローマ書15章初めの箇所に出合いました。
 その2節が次のようになっています。「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」従来の新改訳聖書のときには、神学生としてその裏方の作業に多少関わりましたので、文章表現や句読点の改訂にそれなりに納得しています。しかしこの2017年版の文章で、正直驚きました。「霊的な」に星印がついていて、脚注で「補足」となっているのです。
 同じ言い回しが、その前の14章19節でもあります。「ですから、私たちは、平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」ここでも「霊的」に星印がついていて、脚注で「補足」となっています。その「霊的成長」の「成長」は「教会の成長」「神の建物」(1コリント14:5,3:9)とも「キリストからだを建て上げるため」(エペソ4:12)とも表現されています。これらは初めから神やキリストや教会との関わりで表現されているので、「霊的な」と補足する必要はなかったとなるのでしょうか。
 ローマ書14章19節と15章2節を含む箇所も、神の国での「聖霊による義と平和と喜び」(14:17)のことを語っています。「信仰から出ていないことは、みな罪です」(14:23)とまで言われています。神の国のことを語っているので、それは当然「霊的な成長」となると理解しているのでしょうか。そうであってもあえて「霊的な」を補足する必要があるのかなと思わされます。それなりの神学的な読み込みではないかと思います。「原典に忠実」という標語にも合わないようにも思います。
 神の国は、神の創造と新創造の関わりで意味が出てきます。そこには万物の刷新、万物の和解が含まれています。神の国の民は「みこころが天になるように、地にもなること」を少しでも担う役割が与えられています。私たちの聖霊の助けによる成長は、人として生きるすべての面で現れてきます。そこには人としての成長を互いに助けていく責任があります。イエスの山上の説教もそのために与えられました。
 その神の国の祝福を私たちがあえて「霊的な」と括弧でくくることは、意味を限定することになります。捉え方によっては、この現実の生活とは関わらない「霊的な」世界に自分たちが住んでいることを語っていることになります。信仰を持っているいわゆる「霊的な」人だけのものと限定することになります。「霊的な」世界に逃避することにもなり、それを「誇り」とすることにもなります。そのことのゆえにクリスチャンが嫌われることにもなります。
 千葉恵教授の「信の哲学」は、ローマ書理解に関して「聖霊」がいつ、どのように使われているかを意味論的分析で注意深く解明しています。それはまさに注目に値することです。N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』の答えとして、それは「真の人間になること」と言います。それには目を覚まさせられました。神の愛と平和が少しでもこの地で実現されるためにキリストによる救いをいただいているからます。自分が天国に行くことも、いつキリストの来臨が起こるのかは、神の側のことです。それを待ち望むつつ、なおこの地でなすべき責任があります。
 それは聖霊の助けでなされることですが、あえて「霊的な」と付け加える必要のないことです。そうすることで、自分たちをこの世とは関わらない特別の者と見なすことはできないのです。「あまりにも霊的な」聖書の読みと思えるのですが、皆様はどのように思われますか。
 上沼昌雄記

「伝道者の書という書」2018年9月17日(月)

 年をとってきたこともあって、「伝道者の書」で語られていることに、どういう訳か、すんなりと納得できます。この書の続きの「雅歌」を学んでいるときに、初代教会のクリスチャンたちが、「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の続きを、人生における、青年期、壮年期、老年期として読んでいたことを知りました。それで「伝道者の書」は、中年になって人生のむなしさを感じてきたときのことと思っていたところがあります。しかし実際に、それなりに年を重ねてきて、語られていることに「それで良いのだろうな」と言い聞かせています。
 自分を指導してくれた先達たちもほとんど召されています、その方々は戦争を体験しておられて、想像もできない困難の中を通られました。それなりの複雑な思いを持って地上の生涯を終えられたのだと思います。私は戦争の終わる5ヶ月前に生まれました。どのような行きがかりか、60年代の大学紛争の中を通されました。そのためにどうしても権威に対して反抗的な思いがあります。そうでありたくないと思っても、権威主義的なことには反発をしてしまいます。それが生きる力であった面もあります。しかし、次の世代の人には格別に意味のあることではありません。それで良いのだと思います。
 ロス郊外で2週間ほど95歳の義母の面倒をみて家に戻ってきました。夏の暑さとは打って変わって、朝晩は寒いほどです。夏の間は雲一つなく晴れ上がっていますので、陽もそのまま山並みに消えてゆくのですが、この二日ほどは雲が立ちこめていたために、この時期には珍しく、真っ赤に染まった夕陽を見ることになりました。「伝道者の書」の著者も同じ夕陽を見てきたことになります。何という繰り返しなのでしょう。
 義母の面倒をいつも見てくれている義妹が、東京のクリスチャン・アカデミーの同窓会でミシガンに出かけ、ついでにシカゴの私たちの二組の子供家族との交わりを持って、帰ってきました。その同窓会に立ち寄った方が、自分がなぜ同窓会だけではなく、キリスト教との関わりを避けてきたかを話したと、伝えてくれました。その方のお父さんというのは、当時の日本では宣教師として、伝道者として際立っており、また誰からも尊敬されていました。しかし、子供たちは宣教のゆえに無視されてきただけでなく、それなりの暴力を受けてきたと言うことでした。宣教の名の下になされた一切の労苦も、むなしさの中に消えて行くかのようです。
 その義母のところで、普段は余り食べることのない、アイスクリームと好物のアップルパイを結構食べました。私のために、義母と義妹が用意してくれたところがあります。寝る前に自分で用意して一人でアイスクリームを食べるのもよいものでした。むなしい人生で与えられた楽しみの一つです。神の配慮と言うべきなのでしょう。「伝道者の書」の著者が見つけた処世術なのでしょう。
 その楽しむことの中に、自分の妻と生活を楽しむことが含まれています。悲観的で消極的な夫と、楽観的で積極的な妻である私たちも、何とか生活をエンジョイするすべを学んでいます。そうでないとせっかくの人生も勿体ないと思うようになっています。またそうでないと、この広大な国で孤立し隠遁してしまいます。現実にはシカゴまで孫たちに会いにドライブをすることにもなっています。むなしい人生に与えられていることですが、申し訳ない思いにもなります。
 信仰によって望みをいただいて生きているのですが、少しだけ視点を変えたり、ちょと立ち止まって振り返ってみると、むなしさも絶望も闇もすぐ後ろに潜んでいることに気づきます。楽しみの日々と同時に、闇の日も多くあることを忘れることはできません。それが人生なのだと納得します。「伝道者の書」は不思議な書なのでしょう。
 上沼昌雄記

「ダニーボーイ」2018年9月3日(月)

 先週の木曜日にアリゾナ州でのジョン・マケイン上院議員の葬儀をテレビで観てから、関心があって、続いての首都ワシントンへの国主並みの軍隊式移送、金曜日の国会議事堂の回廊での弔問式、土曜日のベトナム戦争記念碑でのマケイン夫人による献花、続いての国立大聖堂での追悼式と追うように観ました。ある場面はユーチューブで繰り返して観ることになりました。
 最初の葬儀で4名の人が弔辞を述べました。その中の一人がベトナムの捕虜収容所でのことを紹介してくれました。もう一人はプロフットボールの黒人選手でした。残りの二人は民主党に属する人でした。ジョン・マケインは名だたる共和党員でした。この人選に何とも興味を覚えました。それも生前に決めていたことと言うことでした。国立大聖堂での追悼式でも二人の前大統領が弔問を述べたのですが、一人は共和党のブッシュ大統領で、もう一人は民主党のオバマ大統領でした。それも生前にお願いしてあったと言うことです。
 ジョン・マケインは筋金入りの共和党員と言えるのだと思いますが、実際の政治活動は、自分の信念に従って党派を超えて活動したようです。それゆえに「一匹狼」と呼ばれたのですが、誰とでも真剣に語り合い、友情関係を気づいたようです。選挙で勝ったオバマ大統領はよく二人で大統領執務室で家族のことも含めて語り合ったと言うことです。そして選挙で勝っても、最後には自分に褒め言葉を全国民の前で言わせるのだからマケインの勝ちだと弔問で述べたものです。
 この一連の行事の中で印象的であったのは、3時間近い大聖堂での追悼式の終わりがけに、これもジョン・マケイン自身が計画したことのようですが、「ダニーボーイ」が演奏され、歌われれたことです。聖書箇所も賛美歌も彼自身が生前に決めていたことのようですが、その中でアイルランド民謡ですが、戦地に子供を送り出す母親の思いを歌った「ダニーボーイ」が歌われ、心打たれました。そしてこの場面を繰り返し観ることになりました。
 何度もその「ダニーボーイ」の場面を観ながら聴きながら、大げさですが、ジョン・マケインという人の人間性に触れることができました。そこには当然ベトナム戦争の捕虜収容所での過酷な体験もあったわけです。人間として持つ悲しみにも苦しみにも痛みにも触れるその人間性は、国家も党派も教派も人種も身分も超えるものでした。それゆえに、党派を超えて友情関係を気づくことができたのです。「ダニーボーイ」はジョン・マケインのもう一つの原点だったのでしょう。
 昨日の日曜日の海軍兵学校のチャペルでの個人的な追悼式と墓地での埋葬式は家族葬と言うことで観ることはできなかったのですが、上空を海軍の飛行隊が飛来してくる場面はテレビで観ることができました。4機で飛来してきたのですが、途中で一機が垂直に飛び去って消えていきました。ジョン・マケインへの海軍式敬意ということでした。国家元首にはなれなかったのですが、それ以上の敬意を軍隊からも受け、その移送のすべても軍隊式に厳粛なものでした。
 アメリカ精神というものがあるとしたら、それは国家も党派も教派も人種も地位も超えて、誰もが尊厳と敬意を持って取り扱われるもので、ジョン・マケインはそれに真剣に取り組んだ人と言えるのでしょう。そのアメリカ精神がアイルランド民謡の「ダニーボーイ」とともに日本人の私に響いてきたのでした。
 上沼昌雄記

「肉の働き」2018年8月27日(月)

 前回「信仰の働き」のことで、その「働き・エルゴン」が、一般に「業、行い」と訳されて「信仰」と対比的に使われているのですが、むしろ信仰そのものが「働き」をうちに含んでいるので「信仰の働き」で良いのではないかという、多少こだわりを取り上げました。その続きで、ガラテヤ5章19節で一般に「肉の行い」「肉の業」と訳されている箇所も、「肉の働き」で良いのではないかとこだわっている次第です。
 この「肉の働き」は、エルゴンの複数形のエルガとなっています。「肉の数々の働き」のことで、淫らな行い、汚れと続いて列挙されています。すなわち、肉がそのまま働いたら、その働きの結果として出てくることがあげられています。その前にある「肉の欲望」(16節)に対応します。この前後は「御霊に従って歩む」ことが取り上げられていますので、肉のままで生きたらばどのような結果になるのかを語っていることになります。飲酒運転で刑を受けたメルヴィンのことを思うのですが、それは自分のことでもあります。
 しかしこの場合に、「肉」を初めから「悪」とみる必要はありません。それは聖書の語っていることではなくて、ギリシャ的な善悪・霊肉二元論の影響から来ていることです。しかしこの影響は残念ながらキリスト教に根強く入っています。肉の世界を離れて霊の世界に、あるいは天に行くということが救いであるかのように、私たちの中で思われ、浸透しています。
 「肉」は端的に神の創造の作品です。ただ「肉の弱さ」があり、悪が肉を捕らえて、住み着いてしまったために、肉のままでは残念ながらその働きの実は目を覆いたくなるものです。この辺の事情はパウロという人も個人的な体験として分かっていて、注意深く考え、ローマ書7章を中心に慎重に取り上げています。5節でかつて肉にあったとき「律法によって目覚めた罪の欲情(直訳:律法による罪の欲情)が、、、働いた」からと接続詞を持って説明しています。
 律法は、パウロにとってはモーセの十戒で、具体的にその十番目の「むさぼってはならない」になりますが、私たちにとっては2:15の「良心」としての「律法の働き」(「律法が命じる行い」ではなく)のことになります。神のかたちに造られた私たちの中に、何が良いことで神に喜ばれることなのかを見分ける感性をいただいています。しかし、「罪」が戒めによって欲情を起こし、からだを罪の虜にするのです。肉の中で「律法の働き」があり、罪はそれを捕らえて欲情を引き起こし、その様々な欲情が「働いて」、「肉の働き」として数々の結果を現してくるのです。
 それでも自分のうちでは、律法そのものは罪ではなく、本来「いのちに導く」ものであることが分かっています。それで自分としては「したくなくこと」をしていることで苦しみます。「うちに住んでいる罪」を直視するのですが、さらにどこか深いところで「内なる人」として「神の律法」を喜んでいるのです。キリストによる救いと御霊の助けを信じることができるからです。
 7章の終わりでパウロはまとめています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えています。」「心(ヌース)」とは「内なる人」の中心で神の律法を認めることのできる識別力です。「仕える」は6章での「義の奴隷」「罪の奴隷」と対応します。残念ながら、肉には「律法の働き」があり、罪がその機会を捕らえて欲情が働き、「罪の奴隷」としてしまい、それが「肉の働き」として悪臭を放つのです。
 それでも「内なる人」は、その深いところで心(ヌース)として神の律法を喜んでいます。「御霊の実」をこの体で結ぶことができるからです。悪臭を放つ「肉の働き」を「御霊の実」が覆い尽くして、かぐわしい香りを放つ者へと変えてくださるのです。「肉の働き」は自分中心の世界ですが、「御霊の実」は人を生かします。メルヴィンは激しい日中の仕事が終わってから、自分の小型トラックを出して教会の人の引っ越しを手伝ったと、教会の人から聞きました。
 上沼昌雄記

「信仰の働き」2018年8月20日(月)

 創造と新創造の大きな枠で聖書を読み解いているN.T.ライトが、その枠の中でのクリスチャンの行動について、すなわち、倫理とも言えることに、パウロが語っている勧めと、信仰と希望と愛のことと、御霊の実のことに言及しながら真剣に取り上げています。その信仰と希望と愛の三本柱のことが、1コリント書13章以外にも取り上げられていることを紹介しています。
 その一つである1テサロニケ書1:3を、昨年出た新改訳聖書2017で確認いたしました。従来の新改訳聖書とは異なった言い回しになっています。「信仰の働き」が「信仰から出た働き」に、「愛の労苦」が「愛から生まれた労苦」に、「望みの忍耐」が「望みに支えられた忍耐」となっています。原語では従来の新改訳聖書のように「の」で二つの単語が繋がっているだけです。
 ここでは「信仰の働き」が「信仰から出た働き」になっていることだけを取り上げてみます。おそらく分かりやすく「信仰から出た働き」と説明を加えた訳になっているのでしょうが、その説明自体が神学的な読み込みと思われるからです。というのは、この信仰・ピスティスと働き・エルゴンは、対に使われていることがあって、特にそのエルゴンが「行い」や「業」と捉えられて、ピスティスとの対比、すなわち、信仰と行いという二元的な理解が支配的になっているからです。
 例えば、ローマ書3:27では、信仰と行いが律法と結びついて。「行いの律法」と「信仰の律法」と対比されています。しかし、一見信仰と行いが対比されているように思われるヤコブ書2章では「行いのない信仰」はないことが強調されています。すなわち、信仰と行いは対比されるときと、帰一的に使われるときがあるのです。それはエルゴン自体が信仰とは切り離せないで、信仰自体が働きを起こすものと理解できるからです。
 その意味合で、ローマ書2:15の新改訳の従来訳も2017訳も「律法の命じる行い」となっているのですが、文字通りに「律法の働き」ととると前後関係に合ってきます。すなわち、律法自体がうちに持っている働きが「心に記されている」ことに「良心」も納得できるのです。「律法の命じる行い」だと、律法と行いが初めから対比され、二元的に理解されていることになるからです。すでに一つの神学的な前提になっています。エルゴンの使われ方を無視していると言えます。エルゴンは「律法」そのものの働きを担っています。
 同じ意味合いで、エルゴンがロゴスと対で使われているケースがローマ書15:18にあります。「キリストは、ことばと行いにより」と、対比ではなく相補的に使われていることが分かります。1テサロニケ1:3の「信仰の働き」もその意味合いで捉えることができます。「信仰から出た働き」だと、どうしても二元的な区別を前提とした歴史的な神学の枠から出ていることになります。
 このことに沿ってパウロは、「希望の神が、信仰による (文字通りには動詞形で単に「信じることにおける」という働きを意味している)すべての喜びと平安であなたがたを満たし」(ローマ15:13)と言い、さらに「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によって働く信仰なのです(ガラテヤ5;6)と言っています。この意味でも「信仰の働き」と、そのままとることができます。
 多少テクニカルな説明を「信の哲学」を提唱する千葉先生の意味論的分析の助けをいただいてしてきたのですが、信仰そのものにすでに働きが備わっていると捉えると、先の動詞形のように「信じること」に思いを合わせることで、そこに働きとして信仰が現れてくるとなるので、信仰とは別に行いを考える必要がなくて、肩の荷を下してホットできます。信じることで、望みが湧き、結果として愛の実を結ぶ、それで良いのではないかと思います。
 そんなことでこだわっているのですが、さらにこだわりが許されれば、新改訳聖書2017の言い回しを従来の新改訳聖書の表現に戻していただいても良いのではないかと思います。そうすると「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」と歯切れも良く、リズム感も出てきます。原典にも忠実になります。まだ暑い夏の夕べに勝手に思っていることです。
 上沼昌雄記

「理事の妻たち」2018年8月13日(月)

A wife of noble character is her husband’s crown.
しっかりした妻は夫の冠。(箴言12:4)
The wise woman builds her house.
知恵のある女は家を建てる。(14:1)
He who finds a wife finds what is good and receives favor from the Lord.
妻を見つける者は幸せを見つけ、主から恵みをいただく。(18:22)
Houses and wealth are inherited from parents, but a prudent wife is from the Lord.
家と財産は先祖から受け継ぐもの。賢明な妻は主からのもの。(19:14)
A wife of noble character who can find? She is worth far more than rubies.
しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりはるかに尊い。(31:10)
 過ぎる金曜日の午後1時から理事の一人が経営される「みくにレストラン2号店」でミニストリーの理事会を開きました。お客さんで一杯のお店の一角のテーブルをそのために用意してくださいました。おいしい刺身やロールや焼き物をいただきながら歓談をして、用意した書類に従って議題を確認しました。新しい動きと変化を説明し、決算と予算の承認をいただきました。その書類の一つにいつも聖書箇所を選んで載せます。上記はそのために選んだものです。
 箴言を読んでいて気づいた箇所です。最後の31節の箇所は結構有名なのですが、すでに箴言全体で繰り返されていることに気づきました。パラレルな表現方法を使っていますので、最初の12:4では、「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」と対比されて「しっかりした妻は夫の冠」と言われています。21章では9節と19節で「争い好きな女と一緒にいるよりは、、、」とあり、その対比で「知恵ある女」「賢明な妻」が語られていることが分かります。
 「しっかりした妻」と表現されている英文noble characterから、私の妻は「高貴な」という意味合いの方が強いのではないかと言いました。現行の新共同訳では「有能な」となっています。英語欽定訳ではvirtuous「有徳な、貞淑な」となっています。ヘブライ語原語からは「高貴な」ともとれそうです。そして事実そのような妻は「高貴な」雰囲気を漂わせています。
 これらの記述はそのまま4名の理事たちの妻たちに当てはまると思い、一枚の用紙にまとめました。今回の理事会を妻たちへの感謝の場としたかったのです。理事たちは多少恥ずかしかったようですが、その場にいた理事の一人の妻は喜んでくれました。私の妻は議題のいくつかの英文をチェックしてくれたので議事の内容は分かっていたのですが、この聖書箇所のことは伏せていましたので、用紙を受け取って嬉しいようであり、驚いたようでした。
 4名の妻たちはなんと言っても輝いています。その笑顔は美しく、会話は弾み笑い声が絶えません。そして控えめです。主人たちを支え、子供たちをしっかりと育てています。ミニストリーを陰で支えてくれています。さらに御霊による自由を身に着けています。縛られている感じがありません。発言するときにはしっかりと意見を出します。そのような控えめな「高貴さ」を漂わせています。それは主人たちにも伝染しているようです。
 見渡すに、そのように輝き、控えめで、自由を身に着けている妻たちは、ミニストリーの理事たちの妻たちだけでなく、ミニストリーに関わる人たちの妻たちにもそのまま当てはまります。日本を北から南に旅をしながら関わり、交わり、お世話になる方々の妻たちも輝き、控えめで、自由を身に着け、高貴さを漂わせています。その人達との交わりと会話を思い出します。そのような情景が宝物のように浮かんできます。それは永遠の祝福を味わえる至福の一時でもあります。
 上沼昌雄記