カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「愛によって働く信仰」2019年2月11日(月)

 山の教会の2か月前の役員会のことでした。役員でなくても参加できるのでルイーズと一緒に座りました。牧師は用事でいませんでした。そのためもあったのか、中高生の教会学校を担当している姉妹が、ホームレスや生活に困っているひとのために衣類や身の回りの品を二つほどの部屋に集めて提供している姉妹に向かって、教会学校の部品を置く部屋が必要だから移すようにと、結構高飛車に言い出しました。悪いことに役員会の代表がその姉妹の主人で、それに同調して、街の施設を使った方が良いとか、結構執拗に迫ってきました。
 いわゆる慈善事業と思われることを数年前に始めたときに、私もそれほど関心がなかったのですが、山の教会はこの姉妹の働きで街での評判を獲得してきました。ホームレスの人たちも来るようになったのです。私たちも月一度必要な品を買って献品するようにしました。それに対してのこの夫婦のある面で攻撃に対して、多くの人がそれに反発するようになりました。どこかで自分たちで教会を動かそうとするところがあって、共感を得られないことが積み重なってきました。1月の終わりの教会総会でこの夫婦は教会を去ることを表明しました。
 いわゆる慈善事業をしている姉妹とルイーズが電話で何度か意見を交換していました。その姉妹を応援する意味で私はガラテア書5章6節のみことばを送りました。「キリスト・イエスにあっては、、、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(新改訳3版)昨年7月18日のこの欄「信と愛」でも紹介いたしました。
 シカゴの飛行場に義樹が迎えに来てくれて、40分ほどの車の中で、F3という男性グループの土曜日の朝の運動の後の交わりと祈りの時にホスピタリティのことで話をすることになっているということで、千葉先生の「信の哲学」では「信と愛」とが密接に結びついていることを説明して、その関連の聖句を紹介すると伝えました。金曜日の夜に準備をしているときにその一覧表を渡すことができました。
 土曜日の朝8時半頃戻ってきて、摂氏零下15度にもかかわらず60人ほどの男性が公園に集まったと言うことです。話の内容を説明してくれて、最後にこのガラテア書の「愛によって働く信仰」の聖句を紹介したと言いました。F3の最後にFaithを掲げていますが、キリスト教信仰とは限定していないとのことです。しかし、義樹が自分の立場で自由に語ることができます。その話のレスポンスも何通か届いているようです。
 同じ土曜日の凍り付くような北大の構内で千葉先生の講演会がありました。参加した友人が感想を送ってくれました。<「イエス・キリストの信仰によって完成された神の義と憐れみ」を信じ、人の前での相対的自律性(不完全な連続)に対して「お前は何者なのか」問い続け、「神が義人と見なしてくれた神の前での自己完結性」に感謝し、熱心を持って応答し続ける生き方。「信は実践なり」という千葉先生の言葉の背景が少し理解できたような気がしました。、、、会場は満席の参加者で、学生からの質問も出され「熱い」講演会でした。>
 「信は実践なり」とはまさに「愛によって働く信仰」のことです。信仰と行いとを区別していないことを意味しています。それはまさに中世のトマスと宗教改革のルターの論争点になったのですが、千葉先生の「信の哲学」はその調和を可能にします。
 山の教会の役員会でも福音と慈善を区別し、当然福音宣教が優先するような主張でしたが、両面が必要です。教会はそれに気づいているのです。「信と愛」は神にとっての根本的なあり方であり、人間の心魂にとっても根本的なあり方だからです。当然認知的・人格的に十全な神に対して、認知的・人格的に不十全な人間の格闘としての「信と愛」なのです。
 上沼昌雄記
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「聖書研究?!」2019年1月31日(木)

ウイークリー瞑想

「聖書研究?!」2019年1月31日(木)

一ヶ月ほど前に山の教会のスティーブ牧師が説教で、自分は30年エホバの証人の中にいて、もちろん誤った理解であったが、それなりに聖書のテキストには真剣に取り組んできたと話し出しました。クリスチャンや牧師達よりも聖書を知っていることを誇りしていた言います。しかし、職場で聖書を一生懸命に読んでいたクリスチャンがいて、当然自分の理解が正しいと思ってチャレンジをしたのであるが、自分よりも聖書を知っていて、自分の理解の誤りを正されることになって、その意味での正しい聖書信仰に立ち返ることができたというのです。

多少納得しかねることもあって、先週の礼拝後に、そのように聴いたのだがその通りですかと聞きました。もちろん誤った理解であったが、いわゆる彼らの聖書の一字一句には真剣に取り組んできたと言われました。そして今真の救い主であるイエス・キリストに出会って、そのことが記されている聖書にはもっと真剣に取り組んでいると言います。それで妻と一ヶ月前の説教のCDを聴いて納得しました。

長い間普通の仕事に就いてから牧師になったのですが、メッセージをこの10年ほど聴いていて、旧約聖書の物語の理解、新約聖書との結びつき、そしてキリストによる以外に救いのないことの理解の深さと真剣さに驚かされます。30年エホバの証人の中にいたことが、今聖書に対する姿勢として生きているのです。

この話を一昨日、ミニストリーの理事でみくにレストランの創業者の荒井牧師に、ランチをいただきながら話しました。というのもこの荒井牧師にうちにも、何か教派の枠を超えて聖書の神が生きて働いているからです。牧師の使命を最大限に果たしながら、8店舗千人の従業員をかかえる寿司レストランを展開しています。私より3年ほど早く33年前に熊本からサクラメントに移られました。

学んだ日本の神学校では、信仰体験を強調して祈りの生活が中心でしたが、ご自分はその中で神から「一生かけて聖書に取り組むように」いう召しを受けたというのです。それで英語の注解書を取り寄せ、しかも10年かかって独学でギリシャ語を学んだと言います。残念ながらヘブライ語には至らなかったようですが、いまだに聖書を取り組み、真理を見いだしていく楽しみを体験していると言います。確かに30年の交わりをいただいていますが、いつも新鮮は視点を持たれているその秘密が分かります。

40年にわたって大学の哲学教授としてパウロのローマ書に取り組んでこられた千葉惠先生のお母様が93歳で召されて、先週告別式がありました。そのお母様の信仰を綴った文章を送ってくださいました。無教会の塚本虎二の聖書研究会でのお母様はギリシャ語も「主の祈り」を暗唱するまでに学ばれたというのです。その信仰は、キリストのピスティスのように、家族と隣人に捧げられるものであったと言います。「信の哲学」の生きた姿を千葉先生はすでにお母様の中で見ていたことになります。

当然千葉先生がギリシャ語読みとして献身をすることになったのは、塚本虎二の聖書研究会とお母様の影響でした。お母様のギリシャ語辞書を今でも使っているとのことです。それでも伝統的なローマ書理解に何かの欠陥を感じるようになり、アリストテレスのロゴスとエルゴンの相補関係をたよりに40年の探求の後に、特にローマ書3章21節から31節の解明にたどり着きました。次のように述べています。

「アリストテレスであれパウロであれ、テクストに対する尊敬、献身、信頼はやはり無教会の伝統、親譲りのものであったと今になって思うのです。テクストが不明瞭に思えるとき、多くの研究者が非難するなか、そんなはずはない、彼らは明瞭に理解できるはずだという信のもとに、2千年解けなかったアリストテレスの「本質」と「完成(エンテレケイア)」という概念、そしてパウロの「信(ピスティス)」というヨーロッパの精神史、哲学、神学の基礎的な概念についに自分なりの解を与えることができました。」

神学校では当然誰もが聖書を大切にすることを教えられ、ギリシャ語、ヘブライ語でテキストを読んでいく作業を身に着けます。それでも、それぞれの教派の理解の枠を確認するだけに留まってしまいがちです。聖書だけを生涯かけて取り組んでいくよりも、教派の教理を説き擁護することに終わってしまいます。

今回千葉教授のローマ書のテキストの意味論的分析によってテキストそのものに引き戻されました。神学の枠組みでは見落とされた世界を見せられました。聖書研究の際限のなさを示されました。そんな思いの中で、スティーブ牧師のメッセージでの告白、荒井先生の対談での発言に納得させらた次第です。聖書研究は、尽きることのない神の奥義に接するときであり、そこからいのちと愛が生きてくる場でもあります。

上沼昌雄記

「雨上がりの午後に」2019年1月19日(土)

雨続きの数日でしたが、昨日の午後は太陽は出ていなかったのですが、雨も上がり、気温もそんなに下がっていなかったので、妻といつもの散歩に出ました。道を下ったところに小川が流れているのですが、その手前には池があって雨のシーズンの時だけ水が貯まります。その道の反対側は行き止まりなので近隣の人が使うだけですので、散歩の途中でよく近隣の人に出会います。昨日はしばらくぶりにこの欄に何度か登場したスティーブが車で下ってきて、立ち話が始まりました。昨年の4月には「長雨の後に」、一昨年の3月は「陽気に誘われて、、、」で、同じように結構長い立ち話をしたのです。

いつも父親とうまくいかないことを正直に語ってくれます。昨日はその前に、いわゆる「福音派」の現政権に対する対応のことで、その理解の違いでかなりヒートした議論となりました。私も自分の経験から議論に加わり、現政権の姿勢が聖書に反することを語りました。実はスティーブもアメリカの教会のあり方にはとても批判的なのですが、現政権が今まで手を付けていなかったことに取り組んでいることを評価しているのです。しかし現政権が社会だけでなく、家族も夫婦も分断することを平気でして来たことを、そのまま近隣との間で経験する危機に直面しそうになりました。

それでこの際と思って、私が取り組んでいる、どうして西洋のキリスト教は自己中心の信仰になってしまっているのかについて、説明を始めました。それが取りも直さず、ローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティス」を、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳すか、「イエス・キリストの信実」と訳すかの違いから来ていることを説明したら、彼は真剣に耳を傾けてきました。すなわち、いわゆる信仰義認論で、信じることで義とされるという伝統的な理解では、神の義の啓示より、信じる私たちの心のあり方に重きが置かれてしまうが、「イエス・キリストの信実」と捉えることで、「神の真実」と「イエス・キリストの信実」が一つであることが私たちの信仰の基であることをすんなりと理解してくれたのです。

このテーマに40年取り組んできた千葉先生の本のタイトルが『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』で、信仰には信じる対象である神とキリストへの「理解」と「信頼」によることで、その「理解」と「信頼」は人との間でもその通りに成り立つので、千葉先生が「信の哲学」と呼んでいることをさらに説明しました。その「信頼」ということで、それまで政治のことで議論をしていた雰囲気が変わって、まさにお父さんと信頼関係が回復してきたことを話し出したのです。何か御霊の風が一瞬にして私たちの心を溶かしてくれて、それまでの意見をただ主張する雰囲気から、互いの話に耳を傾ける心に変えられました。そして、そこで出てきたことは今までとは全く違った話でした。

お母さんが一年前に亡くなったのですが、その前後でのお父さんとの関係は最悪の状態でした。昨年の「長雨の後に」で記しました。それからしばらくしてお父さんが人が変わったように心を開いて接してくれるようになったというのです。そして今まで聞いたことがなかったのですが、どうもお母さんがそのように仕向けてきたのではないか、すなわち、父親との間を裂くように仕向けてきたのではないかと気づいたというのです。お父さんもお母さんが亡くなってからそのことに気づいたようでした。今まで彼の話にはお母さんのことはほとんど出てきませんでした。彼も訳も分からずにただお父さんに反抗していただけだったのかも知れません。そのことに50年間気づかなかった自分を責めているのです。

以前彼にアドバイスを求められたときに、Listen to your wifeと勧めました。その通りで彼の奥様は彼の家族のダイナミズムに気づいていたようです。自分が気づかなかったことに恥じているようでしたが、続いて奥様の話に耳を傾けるようと勧めて、2時間近くの路上での立ち話を終えました。近隣の人が何人か車で通過したのですが、心配しながら、また微笑んでいました。彼の一人息子が大学を卒業して仕事探しをしているようなので、そのことも祈ると伝えて別れました。

小さな家の二階の片隅でこの数年読んでいた『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が家から飛び出して、雨上がりの午後の散歩の途中で体験することになりました。「神の義と真実」に加わる「イエス・キリストの信実」は、分断された社会も家庭も回復する神の力です。そこには「愛によって働く信仰」が息づいているからです。まさに「イエス・キリストのピスティス」の理解を実践的に感じるときでした。すなわち、「理解」であるロゴスと実践である「信頼」のエルゴンの相補作業、共鳴和合を路上で体験したのです。

上沼昌雄記

「神に怒ること」2019年1月10日(木)

雑誌”Christianity Today”の1,2月号に’Can Anger at God be Righteous?’(「神に怒ることは義とされるか?」)という興味深い記事が載っています。特に興味を注がれることになったのは、8年前に書いた『怒って、神にーヨナの怒りに触れて』という本がこの春に日本で出版されることになって、その再校正の原稿を読んでいたからです。そして同じ視点で書かれていることが分かりました。即ち、神に怒ることなどはクリスチャンとしてはとても考えられないという、特に福音派の固定概念に対して、取り上げている聖書の箇所は違うのですが、神に怒ることは神とのとてつもない信頼関係に基づいていると展開していることです。

この記事の著者は改革派の神学校の教授ですが、5年前に癌と診断され厳しい治療の中で、神学生が詩篇102篇5,6節をもって自分のことを祈っていてくれることが分かって、詩篇の中で絶望し、恐れ、神に怒りを表していく場面に思いが向き、さらにその続きの23,24節も読んで、神に文句を言うことも許されていることが分かり、心の安定を得ていくことにるのです。

5 私の嘆きの声で

  私の骨は肉に溶けてしまいました。

6 私はまるで荒野のみみずく

  廃墟のふくろうのようです。

23 主は、私の力を道の半ばで弱らせ、

私の日数を短くされました。

24 私は申し上げます。

「私の神よ、私の日の半ばで、

  私を取り去らないでください。

  あなたの年は代々に至ります。

この著者は、詩篇ではその3分の1が、失望し、怒り、恐れている場面が展開されていながら、知らないうちにそのような思いを持つことすら信仰的でないと教えられ、自分でもそのように思ってきたことを認めています。そのように言う福音派の一人としてジョン・パイパーを挙げています。神に怒りを表すことはどのようなことがあっても”sinful emotion”と言っているということです。直接の引用箇所を明記していないので、それ以上は分からないのですが、感覚的には納得できることです。

実際に8年前にヨナ書から神に怒ることについて書き出したのも、同じような動機からです。その前に「ヨナ書に示された神の『永遠の愛(ヘセド)』」という副題の本で、不信仰のヨナ、不信仰な私たちを正すことがヨナ書のテーマと言われている方の本を読んで、大変な違和感を持ったからです。何といってもヨナ書はヨナが怒ったままで終わっていて、それでいてどこかで神の計画はしっかりと果たされているので、それでいいのではないかと思ったのです。

それで、ともかくヨナになったつもりで書きました。三日三晩の魚の腹の中でヨナが何を思い、また吐き出されてニネベに向かう旅で何を思ったのかも記されていないのですが、勝手にヨナになったつもりで書いてみました。そうしたらヨナの怒りをしっかりと受け止めておられる神に出会うことになりました。ヨナを用いてご自分の計画を果たされる神の前で、怒ったままでヨナ書が終わっていることに納得できたのです。

友人の坂本献一牧師が原稿を読んでくださり、丁寧なコメントをくださり、私の「闇の本」の続きと位置づけてくださいました。言われてさらに納得をいただきました。すでに再校正も終わり、本の表紙のデザインも決まりました。もう少ししましたら出版予定日と出版社も報告できると思います。新しい年が「神に怒ること」で始まりました。何の意味があるのだろうかと佇んでいます。

上沼昌雄記

「美しく問うー発見者の喜び」2018年12月31日(月)

この一年を振り返って、パウロのローマ書のテキストに関して「発見者の喜び」を多少味わっています。昨年はテキストに対して「美しく問う」ことを経験して、そのテーマで2017年12月27日付けでこの欄を締めくくりました。年が明けて2月末に『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が刊行されて、千葉惠教授の40年にわたるアリストテレスとパウロにおける「信の哲学」の在処を書籍として確認することができるようになりました。

この書の最初のアリストテレスの部分と後半の下巻の神学の歴史的課題についてはなかなか取り組めないで、その間で取り上げられているローマ書理解にのめり込んできました。というかそこから出られないで私なりに「美しく問う」作業を勝手にしてきました。すなわち、千葉先生はどうしてこのような理解をされているのかと驚かされ、探求が始まるのです。一つの探求が次の探求を呼び出してくれて、その作業が今でも続いています。現時点ではその作業はローマ書の原典のテキストがどうして千葉先生の理解をもたらしているのかと、原典とのにらめっこに導いてくれています。

書籍の最後に付録として千葉訳ローマ書が載っています。ですので作業は従来訳と千葉訳との比較にもなっています。幸いに邦訳も新改訳聖書2017と協会共同訳が相次いで刊行されていますので、楽しい作業でもあります。その訳語のことで千葉先生に一つ質問がありました。私の問いを真剣に受け止めてくださり、このクリスマスから年末にかけて綿密にテキストから解説してくれています。それはローマ書3章20節から28節までのローマ書の中心と言われる箇所に関わることです。

そのやり取りを通して千葉先生が「美しく問う」ことから始まって「発見的探求論」を展開して「発見者の喜び」に溢れていることが分かります。このプロセスはアリストテレス自身が万物の探求に用いた手立てのようです。そしてパウロも神の啓示の理解の手立てとしていたようです。すなわち、神の啓示がどのように証しされているのかを発見してその喜びを伝えているというのです。千葉先生はパウロの発見者の喜びを何度か取り上げ、次のように述べています。

<二千年前のパウロは、彼が発見者の喜びのなかで伝えようとした人類に比類のない新しい出来事を「イエス・キリストの信(ピスティス)」(3:22)と名づけた。パウロが発見したのは水ではなく、また人間の神への信仰でもなく、それはイエス・キリストにおいて出来事になった神の子の信と神に義と看做されたナザレのイエスというひとの信であった。義は信により伝達される。神は自らが義であることを、そして信じる者を義とすることをこの信を通じて啓示した。>(120頁、参照:62,63頁、117,18頁)

そしてこのパウロが発見した「イエス・キリストの信(ピスティス)」を含むローマ書3章の20節から28節までには、さらに千葉先生ご自身が発見した今まで誰も見いだしたことのないパウロの世界が展開されています。同時に千葉先生の発見者としての喜びも伝わってきます。そしてその喜びで研究を続けておられるのが分かります。参考のために千葉訳を紹介します。関心のある方は従来訳と比較をし、さらに原典に当たっていただければ、「美しく問う」ことから始まって、「発見者の喜び」を味わえることと思います。

<20)それ故に、業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。21)しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者達により証言されているものであるが、22)神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒体であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。23)なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24)キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受ける取る者たちなのであって、25,26)その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。27)それでは、どこに誇りがあるか、閉め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。28)かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。>

この年許されて「発見者の喜び」を少しでも味わうことができました。それでもいつでも「美しく問う」テーマがあります。探求者としての歩は続きます。新しい年もともに励みたいと願います。

上沼昌雄記

「パウロにとって受肉は」2018年12月17日(月)

「ことばは人 [直訳「肉」] となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ福音書の受肉についての宣言です(1:14)。ことばがストレートに肉となったというこの現実を「ギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」説得的にローマ書で説明しているパウロは、しかしこの「肉の弱さ」のゆえに律法が果たし得なかったことがあると認めて、神による御子の「受肉」を8章3節で語っています。

その「肉の弱さと受肉」ということで昨年のクリスマスメッセージとして2017年12月18日(月)付けで取り上げました。肉は神の創造により良いものとして、すなわち中立的なものとして造られていながら、罪の攻撃の対象になり、罪が寄生し住み着いてしまいました。それゆえに律法が果たし得なかったこととして「受肉」が神の業として必要でした。

「肉」のテーマには「罪」と「律法」が絡んできます。そのことを7章までで知恵によって説得的に説明をしてきて、この8章3節で御子の受肉を文字通りには千葉訳によれば「罪の肉の似様性において遣わすことによって」と微妙で考え抜かれた表現が用いられています。すなわち、「罪の肉の」と属格が二つの続いているのです。英訳はほとんどsinful fleshとしており、おそらく邦訳もそれに倣って「罪深い肉」と形容詞と訳しています。この場合には肉が初めから罪であるような意味合いを持ってしまいます。

パウロは「罪」が「肉」をターゲットして攻撃し、巧みに住み着いてしまった現実を見抜いています。そこに「律法」が絡んで来て、どうにもならない自分の惨めさを直視してきました。ここでのパウロの人間論は「ギリシャ人にも」とあるのですが、当時の哲学的論証にも耐えうるものと言えます。「罪の肉」では律法を全うすることは叶わないことを熟知している上で、神は御子をその「罪の肉」で遣わされたのですが、そのままでは罪のないイエスと矛盾することになります。それで「罪の肉の似様性において」とその違いを言い表しています。また単なる「肉の似様性」でもないのです。なぜなら「肉」そのものになられたからです。数日前に出た協会共同訳では「同じ姿に」となっているようですが、ここは新改訳聖書2017の「同じような形で」と少なくとも違いを言い表さなければならないところです。

「罪深い肉」と形容詞としてではなく、文字通りに「罪の肉の」と捉えることは、まさにその「罪」と「肉」の関わりに格闘しているパウロにとっては必然であったように思えます。その証拠にそれに続く文章で、千葉訳で言い表されているように、「そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである」と、受肉の目的での「罪」と「肉」の関わりを言い表しているのです。すなわち、「罪の肉の」のその「罪に関して」と取り上げて、「その肉のおいて [その] 罪を審判したから」と説明をしているのです。「罪深い肉」ではその関わりが見えなくなってしまいます。

ここで注目して良いのは、受肉のテーマがその目的である十字架の意味づけに結びついていることです。しかしそこで審判を受けたのは罪であって、肉をとられたキリストではないことです。その違いを言い表すためにパウロがあえて「罪」と「肉」を区別して、二つの属格で結びつけて「罪の肉の似様性」と表現したと言えます。罪の刑罰であって肉はそのために必要であったのです。すなわち、罪のない肉が必要だったのです。

千葉訳で「罪に関して」と言い表されている表現は、N.T.ライトも注解書で指摘しているとおりに、レビ記16:15での「罪のささげ物」の70人訳に合っているので、sin offeringととることもできそうです。それで新改訳聖書2017は「罪のきよめのために」としているのだと思いますが、このことでは新改訳聖書3版のままで「罪のために」としておいた方が原典に沿っているように思います。

さてここは受肉のテーマなのですが、そのまま十字架における刑罰代償のテーマが関わってきます。少なくともここで分かることは神が処罰したのは「罪」であると言うことです。そのために「肉」が必要だったのですが、「罪の肉の似様性」として肉の姿です。そこに「身代わり」を認めることができます。

さらにこの8章3節の濃縮した受肉と十字架の宣言が、次の4節でその目的が結びつけられるのです。すなわちそれは、「律法の要求」が御霊に従って歩む者たちのうちで満たされるためなのです。律法にできなくなったことが、今それが実行される道が、受肉と十字架に続く復活とペンテコステによって開かれたのです。そこには肉と御霊との葛藤はあるのですが、内なる人に働く御霊の約束のゆえに、律法の要求である神と隣人を愛することが実現していくのです。

8章は御霊の執り成しと呻きが取り上げられ、それがまた勝利への道となるのですが、しかし、7章の終わりでの惨めさの告白から勝利に至るためにはどうしても御子の受肉が必要であったことを、何とも短い表現で言い表しているのが8章3節です。クリスマスは単に御子の誕生のお祝いで終わってしまうことはできないのです。惨めさがあり呻きがあり、そして賛歌があるのです。

上沼昌雄記

「罪の意識?」2018年12月10日(月)

 これはローマ書3章20節で、律法によって「罪の意識」が生じると述べられている箇所ですが、千葉訳は、[神による]と括弧付きで補足して「罪の認識があるからである」としています。そのように捉えていることに前から気づいていたのですが、今回その意味合い、すなわち、神の側のこととして、神が罪と認めていることに納得しています。人間の側での罪の意識や自覚ではないのです。これは、しかし、ローマ書のテキストの読みの革命と言えます。
 まずは「罪の認識」と訳されるエピグノーシスは、単なる意識や自覚ではなくて、しっかりと罪と認める知識のあり方を語っています。それは神がご覧になって「律法によって」は罪ありと認めていることです。私たち人間の側での罪の意識の強弱を語っているのではないのです。しかしこの面で従来訳の「罪の意識」だと、自分の罪の意識を絶えず探る神経衰弱的な状況になります。それは堂々巡りに陥るだけです。
 さらにここでは、「業の律法によっては<すべての肉>は<神の前では>義とされないからです」と「神の前」でのこととして語られていることからも、神による「罪の認識」であることは結びつきます。そのことを傍証するように、この箇所にはgarという接続詞が付いていて、「神の前で」のこととしての前の文章を説明していることからも分かります。新改訳はこのような接続詞を訳さない場合があります。
 また誰が義と認められないかと言えば、文字通りには「すべての肉」です。新改訳2017は「人はだれも」として、脚注に直訳として「肉なる者はだれも」としているのですが、文字通りの直訳は「すべての肉は」です。ここは「すべての肉は」として、肉における罪の関わりをパウロが繰り返し捉えていることに注目しべきです。すなわち、罪が肉に働きかけ、肉に寄生し、肉に住み着いていることをパウロが自分の問題としても捉えているからです。その「すべての肉」を神がどのように見ているかを語っているのです。
 さらにこの「すべての肉」の「すべて」は前の19節で「すべての口」がふさがれ、「すべての世界」が神に服するために対応していて、神の視点で「すべての肉」は罪あると認識されていることなのです。この意味でこの箇所は、1章18節から始まる不義の中で生き続ける者のなされてる「神の怒り」の啓示を締めくくっています。「義人はいない、一人もいない」(2:10)という神の宣告をまとめているのです。その上で3章21節から神により義人の宣告に移るのです。ローマ書におけるパウロの説明の筋道が浮かび上がってきます。
 おそらくローマ書理解の一つの混迷は、「罪のエピグノーシス」を「罪の自覚、意識」と捉えてきたことによると言えます。内村鑑三は「罪の認識」と訳しているのですが、意味は人間の側での罪の認識となっています。ルターもそのようです。ですので、その上に成り立っている義認論も罪の意識の強さによるかのように捉えられています。伝道集会も罪の意識を駆り立てることで成り立っています。神の側での罪人と義人の認識を私たちの心的なことと混同してきたことによるのです。どうしても堂々巡りに陥ってしまいます。
 最後にこの箇所について千葉先生が述べていることを記します。「われわれすべてが罪人であるのは神の判決による神の前の現実であったのであり、われわれがそう意識するかは二次的なことであった。、、、自己自身を内的に省みて、罪があると思うから罪人であるのでは決してない。」(下巻315頁)これは、単なる神学的主張ではなく、テキストの分析から導き出されています。それは革命的です。
 「すべての肉」が出てきました。降誕節のテーマはその「肉」に御子であるイエスがなったことです。8章3節の「受肉」のテーマを避けることができません。チャレンジしてみます。
 上沼昌雄記