カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「私には、自分のしていることがわかりません。」2017年10月19日(木)

これはローマ書7章15節の新改訳聖書の第三版の表現です。『新改訳聖書2017』でどのように変わっているのか分からないのですが、罪の縄目に苦しむ心の表現として、パウロに同調するように、心の深くにしっかりと留まっていてます。自分の意に反して自分が動いてしまってどうすることもできない心の状態を言い表していると納得し、心の深くでその通りと繰り返してきました。別の言い方では、この言い回しは的確に自分の心を言い表してくれると納得してきました。納得してきたので、それ以上の言い回しが可能なのか考えもしませんでした。
 千葉教授は意味論的分析を施して次のように訳しています。「というのも。われが[最終的に]成し遂げるところのものをわれは認識していないからである。」単に漠然と何かを「している」ではなくて、「成し遂げるところのもの」と明確な目的語を伴った文章であると指摘しています。そしてその目的語とはその前の13章で「罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって」で言われている「死」であると言います。興味深いのですが、ブルトマンはそれを認め、ケーゼマンは認めていないと注のように加えています。さてそれではN.T.ライトはどうなのかと思って彼の注解書をみたのですが触れていないようです。
 実はこの前後で「行う」とか「実行する」という別のギリシャ語が使われていて紛らわしいところですが、17節でも「成し遂げる」が明確に目的語を持って使われています。第三版では「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」となっています。この表現も何度も繰り返し自分の心に言い聞かせ、そのまま心の襞にしっかりと留まっていて、このローマ書7章の理解の手がかりとしてきました。しかしそれは漠然としたものではなくて、すでに13節から始まって「死を成し遂げている」心の状態を語っているという指摘に衝撃を受けました。自分の言葉でも行為でも、自覚していなくても、確かに肉の結ぶ実として死をもたらしていることが分かるからです。
 肉にある私たちは罪の結果としての生物的な死を迎えます。それでも内なる人として神の律法を喜んでいて、そこに御霊の執り成しが働いて霊の実を少しでも結ぶ人生をいただいています。ローマ書8章2節で「いのちと御霊の律法」を「罪と死の律法」に対していただいているからです(第三版では「原理」となっていますが、前後関係から「律法」とるべきところ)。その内なる人に御霊をキャッチするヌースが働いて、そのヌースの刷新(「心の一新」ローマ書12:2)によって外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。
 そうでありながら肉がそのまま動き出すと知らないうちに「死を成し遂げている」ことに、恐れながら気づきます。その死とは、人との関わりでは、その人との間に死をもたらすだけでなく、その人を生かせないという意味でもその人を死に向かわせてしまうことがあります。どうしても批判的に人を見てしまいその人が生きる道を閉ざしてしまうことがあるからです。妻や夫に対して、子供に対して、親に対して、友に対して、近隣の人に対して、教会の兄姉に対して、牧師に対してどこかで「死を成し遂げている」のです。
 これは消極的な言い方なのですが、私たちの務めは積極的にその人を生かしていくことにあります。そのためにはこちらが死ぬこともあるのです。しかし視点を変えれば、キリストともにすでに十字架で死にましたと過去形で言えることです。その死を体験しているものとして、さらに積極的に人を生かしているのか、知らないうちに人に「死を成し遂げている」のか恐れを覚えるところです。今までの自分の言葉や行動で死を成し遂げてしまったことに気づきます。
 しかし「いのちと御霊の律法」をいただいているものとして、どのようにしたら死ではなくその人にいのちを成し遂げることができるのか、歳とともに考えています。正直結構難しいことですが、まだ遅すぎないと言い聞かせています。なぜならばそのために生かされているからです。またそのためにこそ「イエス・キリストのピスティス」が神との間の媒体となってくれたからです。
上沼昌雄記
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「イエス・キリストのピスティスを介して」2017年10月12日(木)

N.T.ライトFB読書会に属していて、そこに『新改訳聖書2017』が書店に並んでいる写真が掲載されていました。いよいよ出たのかという感動と同時に、そこでローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」がどのように訳されているのか気になりました。ということを察してくれたように札幌の小林牧師が「イエス・キリストの真実」と脚注に載っていると教えてくれました。ガラテヤ書2:16も同じように脚注に載っていると確認してくれました。本文では多分従来通り「イエス・キリストを信じる信仰」となっているのだと思います。この秋の日本の旅を延期していますので、本文を手にするのは先になります。
 現在の聖書学の成果を踏まえて少なくとも脚注に載せてくださいと文面でお願いしたこともあって、気になっていたことでした。聖書理解の一つの前進であると思います。それでも「イエス・キリストのピスティス」なので訳語として「イエス・キリストの信実」でもよいのではないかとも思います。おそらくローマ書3:3に「神のピスティス」が出てきますので、それに合わせたのでしょう。それではなぜ「イエス・キリストのピスティス」がそれほどまで大切かというと、神の啓示の媒体に関わるからです。それはまた信仰義認の理解に関わるからです。特にローマ書3章21節から26節は、神の義が「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されていることを説明しています。信じられないほど注意深くパウロは提示しています。
 それで分かることは、従来通りの「イエス・キリストを信じる信仰」だと、神の義が私たちの信仰を媒体としていることになり、すなわち、私たちの信仰で神の啓示が左右されることになり、それはあり得ないからです。ただ歴史的にもルター以来それが私たちの信仰形態になっていて、私たちの信仰の心の状態のことが第一の関心事になっていると言えます。それに対して神の義はまさに「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されたもので、神の啓示の神の前での完結性が語られているのです。それに基づいて初めて私たちの信仰が可能になるのです。そのように捉えと多少気が楽になります。
 N.T.ライトFB読書会のコラムにも書いたのですが、ライトは「イエス・キリストのピスティス」の「の」を主格の属格ととります。すなわちイエスが信じた信仰 (faith) となります。それに対して北大の千葉教授はその「の」を帰属の属格ととります。すなわちイエス・キリストに初めから属していた属性 (faithfulness) となります。千葉教授は「イエス・キリスト」の称号が行為の主体に用いらることはないと言います。さらに「神の義」が「イエス・キリストのピスティス」を媒体としていることで、一般に訳されている「何の差別もない」は、「神の義」と「イエス・キリストのピスティス(信)」には「何の分離もない」となると言います。すなわち、神にとって信と義は一つであるとことの宣言なのです。
 23節から26節まではその信義が一つであることの説明だと言います。どのように説明されているのか千葉教授訳をたよりに、ギリシャ語テキストに当たりながら(千葉教授とのやりとりも入れて)確認してみると、「ご自身の義を現すため」という表現が2回繰り返されていていることが分かります。すなわち、神の義がイエス・キリストのピスティスを媒体に現されたことで、私たちの信仰の対象が明確になったのです。信仰義認の信も義も一義的には神のものなのです。それは私たちの心の動きとは関係がないのです。その心との関わりに関して千葉教授は、パウロが特にローマ書7章と8章で、3章での啓示の自己完結性とは別に語っていること見ています。いわゆるパウロの心身(霊肉)論です。その区別を確認しないで初めから結びつけてしまっているために神学的理解の混乱を来していると言います。
 「イエス・キリストを信じる信仰」という従来の訳はその混乱の元とも言えます。もしそれがルターのドイツ語訳から出ているとすると、『新改訳聖書2017』の2017年が意味している宗教改革500年周年は、いまだ聖書理解の途上のこととして捉えるべきです。その意味でも確認してみたい箇所がまだあります。例えば、続きのローマ書3:27の従来の「行いの原理」「信仰の原理」は原典通りに「行いの律法」「信仰の律法」になるべきと思うのですが、どうなっているでしょうか。ローマ書10:4の「キリストが律法を終わらせた」は「キリストは律法の目標」になっているのでしょうか。
 ともかく多くの方々の努力によって新しい翻訳が実現しました。日本の宣教の新しい展開を開くものと思います。同時にさらなる聖書の学びをともに続けていきたいと願います。
上沼昌雄記

「内なる人としては」2017年10月4日(水)

前回「肉にあって信仰を持つ」テーマで、友人の牧師のリコーダー奏者である息子さんのことを書きました。その息子さんのお父様から以下のメールをいただきました。承諾をいただいてそのまま記載します。
 
 <今晩、息子に一本取られました。ハンセン病に罹患した後に、インドに向かい、ヒマラヤ山麓の麓でハンセン病患者に仕えたジェニー・リードというすばらしい婦人宣教師がいます。彼女は自分が患った病を意識しながら、ラスキンという人のことばを引用して、次のように述べています。
 
 「人生という楽譜には、ところどころ休止符があります。人間はそれを、時々「曲」の最後だと早合点します。この休止符は、神がその楽譜の中で、病気や事業の失敗などをおいて、強制的に賛美の合唱をやめさせて、しばらく休ませるためのものなのです。そうであるのに、人間はそれを、神にささげるべき音楽が絶たれてしまったと思って、嘆き悲しむのです。神さまは、ご計画なしに、人生の楽譜をお書きにはなりません。この曲を練習して、どこで休止符に出会っても、うろたえないようにしたいものです。『求めなさい。そうすれば、神さまは、タクトを振り続けてくださるでしょう。』」
 
 どうにかイスに座れている息子に先のことばを紹介しました。脱ステロイドのリバウンド症状で全身かきむしり、低血糖症で動けず、指も腱鞘炎となりリコーダーも持てず、一日中部屋に籠り、布団の中にいることが多い息子を励ますために。息子の反応はというと、息子はしらっとしています。特に感銘を受けた様子もありませんでした。そして声も余り出せずひそひそ声で(家内の通訳を介して)こう言ったのです。「オレは違うと思う。休止符ではなくて展開部なんだ。オレはこれまでの中で一番賛美ができんだ」と言うのです。私は、「今は大変でも次につながる休みの時、希望はあるよ」と励まそうとしたわけですが、「休止符」ではなく「展開部」「賛美」という以外なことばに、えっ、先を行っている、と、しばらく言葉が出ませんでした。私の負けでした。
 
 読んで一瞬、自分が同じような肉の苦しみに遭ったらどうなるのかと思いました。気力がくじけてしまうだけでなく信仰もなくなってしまうかもしれないと思いました。病で思いがけない人生に遭遇することを「展観部」と受け止める視点が自分の中で出てくるとは正直思えませんでした。どうしてこの息子さんはこのような病の中でそれに圧倒されないで、なお神を見上げ賛美をささげる信仰を得ているのだろうかと思わざるを得ませんでした。
 
 ただ不思議なことに、続いて千葉教授のローマ書7章の心身論(霊肉論)を読んでいて、22節の「なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法に喜んで同意しているからである」(千葉訳)の「内なる人間」の意味づけを詳細にわたって解き明かされている場面に接したのです。その「内なる人間」が肉の中にある部位としてあって、肉の欲求とは別に信仰の場として与えられているという説明が、この息子さんに当てはまるのではないかと思わされました。肉は弱さを抱え、限界があり、病を負い、いずれ死を迎えるのですが、その肉に神の律法に喜んで同意する部位が与えられていると言うのです。
 
 そしてその「内なる人間」の隠れた機能のようにヌースが働き、しかもそこはいつも「ヌース(心)の一新」(12:2)がなされる場なのです。それは8章に入って「心のうめき」を覚えるところであり、御霊のうめきを感じ取るところなのでしす。まさに御霊の執り成しが「ヌースの一新」によってなされる場が「内なる人間」と言えるのです。
 
 「内なる人間」と「肉」との対比で人間を見る千葉教授の心身論は、キリスト教に侵入しへばりついている霊肉二元論では説明しきれない人間の内面とその機能を浮き彫りにしてくれます。肉は弱さがあり、限界があっても、その内側になお信仰をいただき、神の霊によって一新される部位をいただいているのです。それはなんと言っても希望です。この息子さんのように痛みと苦しみの中で同じ姿勢をとれるのか自信はないのですが、少なくとも私の「内なる人間」がなお神を喜び、神を見上げてくれるのだと言い聞かせることができます。
 
上沼昌雄記

「肉にあって信仰を」2017年9月27日(水)

「肉」のテーマに関して必ずレスポンスをくださる友人の牧師がおります。というか少し前に「ヌース」を取り上げたときにもレスポンスをくださり、その折に「肉」はどうなのでしょうと問いかけてくれたのです。ヌースは「心」とか「思い」「知性」と現行訳で表現されていますが、人間の内面でどこかで超感覚的なものにヒットする部位といえます。そのヌースをどこかに含んでいるのがこの肉です。ですからどちらも四六時中、しかも死ぬまで付き合っているあまりにも身近な存在といえるのか機能です。あまりにも身近で同時にどのように捉えたらよいのか惑わされるものです。しかし聖書はヌースのことも肉のことも結構語っています。
 この牧師とやりとりをしながら、一度息子さんの病のことを話してくださったのを思い出して、いかがですかと尋ねました。かなり詳しく返信してくれました。「全身赤くただれ汁が出て、裸で全身を掻きむしりながら、うめき苦しんでいました。文字通りヨブでした」という時があり、今でも回復の戦いの中で時にはこのような日々、また闇の夜を送られているようです。「夜中、手を挙げて、もう耐えられないから天に召してください、というような仕草もしていたようです。しかし、彼の口から、神への不信のことばはいっさい出ません」と記してくださいました。父親として息子さんが肉の病の戦いの中でどこかで「神と向き合っていた」時があったと認めています。
 この「肉」のことは、千葉教授がパウロの心身(霊肉)論として取り上げている論考を読みながら教えらていることです。綿密に筋立てを持って取り上げてくださっているので、今まで不明であったこの肉の意味合いで気づかされる面が多くあり、つまみ食いをするように取り上げています。そのつまみ食いの一つが、有名なガラテヤ書2章20節の千葉教授の意味論的分析です。神の前に置いては「私」はキリストともに死んでいるが、人としては「私」はなお「肉」にあって生きているのです。しかもその「肉」において「信仰」を持って生きていると言うのです。
 「肉おいて信仰を持つ」と言われ、確かにそうだ、肉を離れて信仰を持っているわけでないという当たり前のことに、何か慰められる思いをいただきました。肉の領域とは別に信仰の領域がどこかにあるような錯覚を持ってしまいがちなのですが、まさにこの肉において信仰をいただいているという、見方によっては当たり前のことなのですが、そうなのだと不思議に納得をいただきました。
 同時にやりとりをしている牧師の息子さんのことを思い出したのです。肉の試練にありながら、なお信仰を持って回復のための戦いを続けているのです。苦しみ激しさの故に、ヨブの奥さんのように神を呪って死んでしまえと思うこともあり得ることです。しかしこの息子さんはまさに苦しい肉において神を見上げ、待ち望む信仰を自分の生きる姿勢としています。それでいいのだという響きが届いてきます。肉は病を負い、死を迎える弱さを抱えているのですが、その肉において信仰を持っているのが響いてくるのです。
 なおその「信仰」のことをガラテヤ書2章20節は、とても微妙な言い方で大切なことを伝えています。直訳的には「神の御子の信実によって信仰に生きている」と言えそうです。私たちを愛して命を捨ててくださった神の御子のピスティスの故に、「私」も「信仰」によってこの「肉」にあって生きているというのです。単なる信仰の強さでも頑張りでもないのです。こちらの信仰の前にイエス・キリストの信実の歩みがあったのです。そのキリストと神の前にあってはすでに死んでいると認めるのです。その上でなお人としてはこの「肉」において「信仰」をいただいているのです。
 同時に「肉」をいただいている「私」としては、信じることも信じないことも自由なのですが、神のなされたことにおそらくこちらのヌースがヒットして、信仰が芽生えたのでしょう。そうであれば、肉としては弱さがあり、限界があり、病を負い、死を迎えることがあっても、この肉において信仰を持って生きることは、見方を変えれば、まさに恵みなのでしょう。肉だけであったらどこにも行けないからです。私たちには「御霊のからだ」に変えられる約束があるのです。
 それでもこの牧師の息子さんが少しでも回復されることを祈ります。この牧師のお父さんのように鋭い感性を持っている青年のようです。その感性と信仰が生かされる日が来ることを信じて祈るのみです。
上沼昌雄記

「この私の肉は、、、」2017年9月13日(水)

「肉」も神の創造の作品であるが、どうにもならないほど罪の性質を担っていて。その葛藤の中で信仰者として生きていて、そのために「きよめ」に直面し、またそのためにどのように生きるのがよいのかという信仰書が書かれ、さらにまたそのために説教もしてきたと言えます。

千葉教授の原稿の4章はパウロの心身論を取り扱って、前回読んだときから気になっていたことですがあります。それは、パウロは「肉」の一義性、すなわち、神の創造による生物的な面だけを語っているという千葉先生の提示で、それをどのように理解したらよいのか考えさせられ、再度注意して読んでいます。それに対して、肉を生物的面と罪性の両面性、すなわち「肉」の二義牲の理解は神学者達が持ち込んだものだと言うのです。それは意味論的分析をしてこなかったためと言います。

と言われて気付くことは、肉を初めから悪のように見てしまったら、それはギリシャ哲学の霊肉二元論、善悪二元論をそのまま受け継いできたことになります。もちろん、肉は元々は神の創造の作品で良いものであったが、アダムの罪の結果、その原罪が遺伝的に受け継がれてきて、肉は悪のように言われているが、それもまた神学者達によって主張されてきたためだと言うのです。意味論的分析からは導き出せないと言います。

私もその神学者達の中に含まれるのかも知れないのですが、確かに「肉」の二義性と、原罪の遺伝的伝達は、あたかも神学的前提のように受けとめてきたところがあります。釈明するとすれば、肉の生物的な面だけでは、現実に肉による誘惑や弱さをどのように受けとめたらよいのか分からないし、パウロも肉のこの面を認めているように思うからです。経験的にも肉の弱さと限界を知らされているからです。

この夏も山火事対策で家のまわりの落ち葉や枯れ木を取り除く作業を炎天下でしました。以前にはこれは一日か二日で終わったと思うものが、今は何日かに分けてしなければなりませんでした。肉によるからだの衰えは、残念ですが避けることができません。それもアダムの罪によることなのか、神の創造において定まったことなのか、どのように理解することがパウロの「肉」の言語の使用にあっているのか、これも暑い中、また秋風に吹かれながら考えています。ただ「肉」の一義性を認めたら聖書理解に慎重にならざるをえないことが分かります。

ローマ書8章4節以下で「肉」と「御霊」とが対比されています。その前の3節ではキリストの受肉のことでパウロは「罪の肉」ではなく「罪深い肉と同じような形」と大変微妙な言い方をしています。さらにその前の7章の最後の25節で「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と律法との関わりで「肉」を使っています。肉そのものが罪ではないとすると、ここでの意味合いをどのように理解するのか、何か今までとは違ったアプローチが必要のようです。

千葉教授が意味論的分析の必要な箇所としてローマ書3:20とガラテヤ書2:16を取り上げています。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に神の前に義と認められない」と言い方で、簡単に「だれひとり」と当たり前のように訳されているが、文字通りには「すべての肉」であるので、あえて「肉」が「律法を行うこと」との関わりで使われていることを分析する必要があるというのです。そのように言われると確かに、肉によっては律法を全うできないが、御霊によることで「律法の要求が全うされる」(ローマ8:4)と言われていることの意味が浮かび上がってきます。

確かにこの辺は注解書をどれだけ読んでもでて来ないことです。暗黙のうちに肉の罪性と原罪の遺伝的伝達を取り入れて何とかパウロの表現を理解しようとしていることが分かります。ただ、札幌の小林牧師が松木治三郎という人が「肉は肉である。それ以上でもそれ以下でもない」と言われてことを教えてくれました。それでもその肉が罪とどのように関わるのかは言語学的に分析しているわけでありません。むしろ神学的な説明で終わっています。

千葉教授が提案される「肉」の一義性を取り入れると、端的にこの自分の肉がそのまま悪でも罪でもないと自分に言い聞かせることができます。それだけでも今までない自分を見るような思いがします。同時に恐らくこの「肉」が一番罪に陥りやすいのだろうと分かります。またそれだけ自分の肉の取り扱いに責任も出てきます。多分、簡単に肉は罪だと言って逃げないことでもあるようです。それはパウロの生き方でもあったのかも知れません。

それにしてもこの歳になって新しい視点を取り入れて聖書を直すのも大変な労力が必要です。 肉体をむち打って取りかからなければなりません。それでも今まで触れられなかった領域に踏み込むような思いがあります。 私は原稿の段階で読んでいるのですが、出版に向けて急ピッチで作業が進んでいるようです。出版されてからこの4章を中心に、関心のある方々と学び会ができ、共に研鑽を積むことができればと願ってもいます。

上沼昌雄記

「御霊に導かれて?」2017年9月4日(月)

「御霊に導かれて」という言い回しに疑問符を付けると、そのようなタイトルを付けているこちらこそ疑問符を付けられそうなのですが、この言い回しが使われているガラテヤ書5章25節の訳に注目したいからです。現実的には注目させられたのです。新改訳では「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と表現され、新共同訳てでは「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と表現されています。

千葉教授の『信の哲学』の800頁の原稿の後半、理性と信仰、アウグスティヌスとペラギウス論争、アンセルムスの贖罪論、ルターとトマス、そしてハイデガーと、それぞれにおける「信」の意味づけの箇所を読み終わって、再度ローマ書理解の箇所に挑戦しています。特に4章でパウロの心身論を取り上げています。肉とからだと魂と霊の関わりを取り上げている何とも興味深い箇所です。それは当然当時のギリシャ哲学者のテーマでもあったからです。宇宙の根源の解明に繋がることでした。

その宇宙の根源的要素 [地水火風]を言い表すストイケイアというギリシャ語をプラトンもアリストテレスも使っていて、この同じ言い回しをパウロも使っているのです。当然パウロは大切なことを言い表したいために使っています。すなわち、コロサイ書では「御子」をガラテヤ書では「霊」を、哲学者が考える宇宙の根源的要素に代わるものと捉えていると言えます。ところがそのストイケイアが、新改訳では「この世の幼稚な教え」、新共同訳では「世を支配する諸霊」と訳されていて、ポイントがはぐらかさかれた感じが否めないのです。

このストイケイアの動詞形ストイケオーをパウロが4回使っていることに千葉教授は注目しています(ローマ書4:12、ガラテヤ書5;25、6:16、ピリピ書3:16)。その中のガラテヤ書5章25節の訳を取り上げていることになります。その前で「御霊の実」が取り上げられていて、その続きでその「御霊」との関わりを語っているからです。しかもこの動詞形はどうしても宇宙の根源的要素に対応することを意味していることになるので、新改訳のように「御霊に導かれて、進む」という受動的なニュアンスはなく、むしろこちら側の対応の姿勢を語っていると思われます。千葉教授は「われらは霊に適合し続けもしよう」と訳しています。

英訳ですと、KJVとNKLVで、’let us also walk in the Spirit’, RSVで‘let us also walk by the Spirit,’ NRSVで ‘et us also be guided by the Spirit,’ NIVで‘let us keep in step with the Spirit’ となってい ます。N.T. ライトは ‘let’s line up with the spirit’ と訳出しています。NIVとライト訳は千葉教授訳に近くなります。

この箇所の訳にこだわるのは、似たような表現が゙別にあってその意味合いが゙異なるからです。ロー マ書8章4節で「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」と言われているのですが、この場合には、 「御霊」に前置詞が付いていて、動詞も普通に「歩む」を表すもので、その通りに「御霊に従って歩む」となります。それは、御霊の導きを待ってそれに導かれて歩むことを意味しています。そ れに対してガラテヤ書5章25節の意味合いは、御霊が、哲学者たちが理解した宇宙の根源的要素に対しての神の創造と新創造における根源的要素を意味していて、それに合わせてこちらが責任を持って対応していくことが求められることが分かります。

御霊の促しによって信仰を決断した体験を持っています。今でも御霊の呻きと執り成しをいただい ています。そしてさらに御霊の導きをいただくために心を整え静まることをします。それは御霊に 導かれる受動的な態度となります。それと同時に御霊に対してこちら側が自らを合わせていく姿勢が可能であることが分かります。ただ静かに待つだけでなく、神の創造と新創造の根源的要素として御霊を捉えていくことで、それに対応し適合することです。

神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊とは、たとえば、1コリント15章のキリストの復活の箇所で言われている「血肉のからだ」から変えられていく「御霊のからだ」のこと、それを支えるローマ書8章で言われている「罪と死の原理(律法)」から解放された「いのちを御霊の原理 (律法)」のことです。この新しい世界に対応して自分の生き方を変えていくことになります。

ストイケイアの動詞形ストイケオーが使われている他の三つの箇所もその「適合する」ことの意味 合いを明確にしてくれます。ガラテヤ書6章16節ではその前に「新しい創造」のことかが語られ、 その「基準に適合する」ことであり、ピリピ書3章16節でそれぞれ達したところがあって、その 「基準に適合する」ことになります。ローマ書4章12節はアブラハムの信仰の「足跡に適合する」 ことになります。すなわち、自分を適合させる対象があるのです。それに対しての責任ある姿勢が行き方となるのです。

この意味でガラテヤ書5章25節の「御霊に適合する」ことは、単なる知的な対応でも、また単なる神秘的な対応でもなく、神の創造と新創造の理にかなったあり方に対応していくことになります。 また単なる受動的な対応ではなく、神の霊の世界を聖書から思い巡らしながらその基準に適合して生きることになります。それゆえにさらに、聖霊による感情的な対応に対しても引け目を感じる必要はないのです。神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊の世界をしっかり見据えて対応していくことです。それは、「主の御霊のあるところには、自由もあります」(2コリント3:17)と言われている生き方でもあります。

上沼昌雄記

「神学と政治とは」2017年8月28日(月)

前回のハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から来ているという「現存在の外に」の記事に関して、秋田の友人から以下のようなレスポンスをいただきました。 許可をいただきそのまま載せます。<「外」にある真理を「内」に引き寄せると、自分を客観視する事ができなくなって、遂には、「私の話す言葉は、神の言葉である」と言うような牧師がでて来たり、所謂聖職者と言われている神学の大家が人を苦しめたり、殺戮を黙視したり、というような現実と繋がって来るのでしょうか。何となくわかるような気がします。>

それに対して<それは「何となくわかるような気がします」ではなく、まさにその通りです。私が回りくどく言っていることを見事に言い当ててくれました。>と返事を出しました。それに続いて思っていることをそのまま書きました。秋田の友人とは長い付き合いなので分かってくれると思いました。多少加筆訂正しましたが、以下の通りです。

<私は神学に長く関わって来ているのですが、いつも躊躇がありました。それはこちら側の都合の良い読み方でないかと思ってきたからです。言い方を変えると、自分の神学のためには聖書からどのようにも言えるのではないかと思ってきました。たとえばある教派の特質的な神学テーマの説明を読んで、こじつけと思うのですがそれなりに筋が遠ていることに驚きもしました。どの神学書を読んでも似たような感じを持ちました。それで誰かの神学に傾倒することができませんでした。

この辺は政治にも似ています。世界があり、人々の生活があり、それぞれの歴史があるのですが、それを自分の内に取り組んでイデオロギーを立てて人を煽動することに似ています。聖書があり、そこに神の歴史があり、神の民の物語があるのですが、それをこちら側の説明のために解釈をして取り込んでしまう神学と似ています。神学と政治の近さ、それは牧師と政治家のメンタル近さにも通じています。自分たちの都合の良いように筋立てができるのです。そのように話もできます。

そんなこともあって、神学専門なのですが、哲学を信仰と一緒にしないで、それぞれそれなりに学んできました。今回ハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から出ていると千葉教授から教えられ、逆に眼が開かれました。ルターによって外なるものが内側に閉じ込められて展開して、それが人間理解にもなっているのです。それはアウグスティヌスからきているとも言えます。その解明は神学だけをしていては決して見えないことです。一度神学の枠に入ってしまうとそれが神の世界になってしまい、絶対化してしまうからです。

私は神学をして来ていながら、神学の脱構築か、再構築のための反神学をして来たように思います。それがミニストリーの中心であったかも知れません。反神学であったので信仰を自分の内なる密かな決断として保つことができたのかも知れません。それでそれなりに自由に考えることができたのかも知れません。そんなことを思っています。ありがとうございます。>

このようなやり取りをしてから二つのことが気になっています。一つは、今回のやり取りの発端であったハイデガーの人間理解がどこかでナチスに加担することになってしまったこと、それは同時に当時のドイツの教会のことでもあったことです。まさに政治との関わりです。もう一つは、「反神学」というのは、哲学者の木田元に『反哲学入門』という本があって、それに合わせて使っているのですが、更なる説明が必要であろうという点です。今週は夏の終わりの熱風が入って来て集中して考えられないので、秋風の吹くのを待つことにします。残暑厳しい折、ご自愛ください。

上沼昌雄記