カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「新世代クリスチャンは、、、」2018年6月15日(金)

 今回の5週間の日本の旅の最後に、かつて親や教会に反発していたが、今はクリスチャン二世として同じような二世に伝道している方と、しばし意見を交換する機会がありました。親や教会に反発している二世は、戻ろうと思っても戻るところがないとあっさり言われました。なるほどと思うと同時に、クリスチャンとしては他の生き方があるのか分からなかったこともあり、衝撃的でした。
 シカゴに戻り、義樹家族のところに落ち着きました。その家族の行っている教会の32歳の若い牧師の祈りを義樹が聞いていて、20名近い牧師団の祈りとは異なっていることに気づき、N.T.ライトの聖書理解に近いように思うと伝えたら、その通りと会話が弾み、自分の父親がN.T.ライトの翻訳『クリスチャンであるとは』をしていることを話したら、驚いていたことを話してくれました。
 それで日本でのことを話したら、戦後のベビーブーマーの子供たちで1980年代から2000年の初めに生まれた世代をミレニアムズ(世紀末に生まれたので)と呼んで、新世代クリスチャンに対する教会の取り組みを語ってくれました。すでに社会学的な検証もなされていて、それに基づいた書物も出ています。
 ベビーブーマーとミレニアムズのそれぞれのクリスチャンのイメージが異なっていることを統計を下にまとめた本を義樹が紹介してくれました。その詳細に入ることはできないのですが、六つのテーマで新世代クリスチャンが抱いている親たちの教会に対する視点を紹介しています。すなわち伝統的な教会とクリスチャンのことです。
 1.偽善的である
 2.信者の獲得だけに焦点を当てている
 3.同性愛者に蔑視的態度をとる
 4.過保護である
 5.余りにも政治的である
 6.人を裁きやすい
 これらの視点に対して新世代クリスチャンの姿勢を紹介しています。それについては改めて取り上げてみたいと思いますが、どうして伝統的なキリスト教がそのような姿勢を取ってしまうのかに同世代人として関心があります。伝統的にはこの世を離れて霊の世界に生きて、そこでの理想的なあり方が可能なものとしているのですが、新世代クリスチャンはそこに偽善性を見抜いているのでしょう。
 そこには先の32歳の牧師がどこかでN.T.ライトの聖書理解に惹かれるところと無関係ではなさそうです。新天新地の再創造を聖書の目的と設定するときに、この世に対する責任も生まれてきます。「みこころが天になるように、地にもなさせたまえ」と祈る責任が伴ってきます。自分たちだけがこの世から隔離されて特別なものとみることはできないのです。この世に神の民としてのあり方を示していく責任があるのです。
 義樹たちの教会はそのような視点を持った若い牧師を新世代クリスチャンに届くために雇っていると言うことです。日本でもそのことに気づいて、自分の体験を踏まえて新世代クリスチャンを掘り起こしている働きに接することになりました。新世代クリスチャンの誕生は新しい聖書理解をもたらしています。
 上沼昌雄記
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「千葉先生の講演を聴く」2018年6月4日(月)

 過ぎる土曜日の午後に北大のキャンパスで1時間半にわたる千葉先生の講演会がありました。ちょうど大学祭で、クラーク像の向かいにある木造の古河講堂の周りも多くの人たちが集っていました。今回の講演会の案内を拡大コピーした立て看板を千葉先生ご自身が立てていました。一人でも多くの人に福音を紹介したいという先生の強い思いが伝わってきました。
 講演会に先立ち、先生ご夫妻が昼食に招いてくださり、総勢10名の方々と南門の目の前にある「博多ぶあいそ」というレストランで、ぶあいそでも美味しいランチをいただきました。友人の竹本牧師と小林牧師も参加してくれました。講演会には、古河講堂の一つの教室でしたが、50名ほど詰めかけてくれました。在校生と卒業生、市内の数名の牧師と何人かの教会員、そして看板を見ての飛び入りもあったようです。
 自己紹介として、クラーク先生のこと、そしてクラーク聖書研究会創設の時のミッシェル宣教師の第二の札幌バンドの思い、ご自身のご家族の内村鑑三との関わりを語られ、それが今回の「信の哲学」へと結びついていることを話してくれました。
 すでに黒板には話される内容が先生によって画面一杯にチャートとして描かれていました。螺旋状に実存の多面性を描き、人間の総合的自己理解、すなわち、人間とはという問いを導入として語り出しました。その人間が生きている時の流れにおいて、律法は過去と未来に葛藤や不安をもたらしても、福音は永遠の相を持って、時との和解を愛という相で関わってくることを、時の矢印で説明してくれました。愛には恐れがなく、自由であるので、永遠の相を持って時との和解が可能であると、興味深い説明をされました。
 神の信、イエスの信の自発性のゆえに、身代わりはあっても、いわゆる刑罰代償ではないと説明されました。「業の律法」が「信の律法」に代わったので、刑罰代償はあり得ないと言います。すなわち、それは「業の律法」に戻ることになると言います。これはローマ書3:21-31での神の義の啓示、イエス・キリストのピスティスによる媒介、律法の意味づけとの関係で「信の哲学」の要にもなります。
 もう一つの興味深いチャートが描かれていました。肉と体と罪、その「外なる人」と、ヌースとしての「内なる人」とそこに働く聖霊との関わりが、白と黄色と赤のチョークで説明されていました。ローマ書7章のことで、今回の日本で私も格闘しながら語ってきたところでしたので、大変助かりました。
 先生の説明は論理的ですが、長い聖句を暗記されていて、それを語るときには霊に満たされ、窓際に向かって歩みながら、目を天に向け、上よりの導きをいただいていることが分かります。大学祭の音楽が外から聞こえてくるのですが、それに負けない声量で福音を説明される先生の姿は、アテネのアレオパゴスで哲学者たちと論じたパウロの姿を想像させるものがありました。
 竹本牧師は、その日の早朝に教会員の方が召され、葬儀の準備のために、昼食会と講義の三分の二を聞かれて帰られたのですが、昨日はこちらがその教会で説教することになり、夕方おいしい回転寿司をいただくまで、当日の感激を語ってくれました。小林牧師はギリシャ語のテキストをコピーしてこられ、ローマ書3:22に関して千葉先生に質問をされていました。
 講義は録音されていますので、何らかの形で聞けるように手配してくれるものと思います。私ももう一度チャートを思い出しながら聴きたいと思います。40年かけた発見的探求のエッセンスを聞くことになりました。1400頁の『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』を90分でまとめ上げたものと言えます。
 大学祭の賑やかなキャンパスでしたが、木造の古河講堂の一室で、ローマ書に記されている神の啓示の奥義がパウロの時代にどのような提示されたのかを彷彿させる貴重なひとときでした。
 上沼昌雄記

「訳語『律法』は」2018年5月31日(木)

 今回日本で中部牧師セミナー、関西凸凹神学会、秋田牧師リトリート、相模大野キリスト教会JWTC集会で、ローマ書3章と7章を取り上げてきました。その両方で使われている「律法」の意味合いについて話しながら明確になってきた面と、訳語のことで気になってきたところがあります。今回は3章を取り上げてみます。
 3章ですと何と言っても22節の「イエス・キリストのピスティス」がポイントになりますが、新改訳聖書2017では脚注に別訳「イエス・キリストの真実によって」と入れてきました。それなりに前進とも言えるのですが、態度保留ともとれるところです。それに対して新共同訳の新しい訳「聖書協会共同訳」では本文に「イエス・キリストの真実を通して」と入れて、態度表明を明らかにしているようです。そこは「神の義」の啓示を目的にした箇所であることから、そのように取るべきだとネットで明言しています。
 このことに続く27節で「誇りが取り除かれた」ことの理由として、「どのような種類の律法によって」かと問うところで、新改訳聖書2017では「行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです」と訳出しています。前の版では「原理」と訳していました。脚注ではその可能性を認めています。それに対して聖書協会共同訳では「法則」とそれ以前の訳を踏襲していることが分かります。同時にそれでは「イエス・キリストのピスティス」の理解と合致しないのではと思わされます。
 この27節の律法の意味合いは、初めに21節で、「律法には関わりなく、律法と預言者によって」という律法の区別を踏まえていて、「どの律法によってか」と言われていることです。しかもその「信仰の律法」とは22節の「イエス・キリストのピスティスによる」ところの「信仰」のことなので、「原理」とか「法則」とかは訳せないことです。
 
 それはさらに3章の最後の31節で、「信仰によって律法を無効にするのか」という問いに対して、「決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになるのです」という結論に結びつくことです。「信仰の律法」とは信仰によって確立される律法のことで、それは「行いの律法」、すなわち、文字としてのモーセの律法ではできないことです。それを「原理」「法則」と訳することはできないし、その可能性を認めることもできないことです。それがローマ書理解の混迷をもたらしてきたと言えます。
 この3章でのいわゆる信仰義認のテーマは、こちらが義とされることがメインではなく、そうすることで「神の義」が明らかにされることが目的で、さらに、それは義とされた私たちを通して、神の律法がこの地に果たされていくためであることが分かります。神の義と神の律法の成就は結びついていることと言えます。「原理」「法則」と取ってしまうとその結びつきが切れてしまい、しかもあたかも「私たちの信仰」で律法を確立するかのような意味合いになります。
 律法全体ははガラテヤ書5:14では、「隣人を愛すること」で全うされると言われています。そうすると、律法の成就は「隣人を愛すること」という具体的なことで果たされることが分かります。そこに神の義の現れと取ることができます。パウロはこの結びつきをしっかりと捉えています。長い間混迷していたローマ書理解を整理する道が開かれてきたと言えそうです。
 この2日土曜日の午後に、北大のキャンパスでクラーク聖書研究会とKGK主催で千葉恵教授の講演会が開かれます。そのテーマが「信の哲学ー福音と律法」です。札幌市内の友人の牧師たちも参加してくれます。期待しています。
 上沼昌雄記

「ユーレカ (見つけた!)」2018年5月8日(火)

 カリフォルニアには「ユーレカ」という町やストリートがあります。ウィキペディアでは次のように記されています。「Eureka(エウレカ)はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である。」素晴らしい意味合いの表現ですが、カリフォルニアでは1849年のゴールドラッシュで、金を「見つけた!」という感嘆詞が由来となって使われています。

 探し求めていたものをようやく見つけ出した時の喜びがこの言葉にはあります。古代ギリシャの学者が自然の成り行きを見つけ出し、そのシステムを言葉で言い表すことができた喜びが伝わってきます。私たちの住まいの近くでは未だに金を探し求めている人たちがいます。見つけたときの喜びは想像できます。

  ユーレカは「見つけた」で過去形なのですが、現在形でパウロがローマ書7章21節で使っていることが分かりました。すでに書かれているのですが、この言葉が使われていることを「見つけた」感じがしています。新改訳では次の通りです。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」多分もっと短く次のようにも言い表せます。「そのように、善をしたいと願っている私に、悪が宿っている律法を見つけます。」
 律法は善なるもので霊的なものであって、それを行いたいという願いはあっても成し遂げることができないで、逆に願っていない悪を行ってしまう自分に気づいて、「自分のうちに、すなわち、私の肉のうちに」(18節)悪が宿っている律法を見つけるのです。「律法」は新改訳では「原理」、新共同訳では「法則」となっているのですが、すぐ後に何度も「律法」のことが出てきますので、それに合わせて「律法」と理解して、しかも23節には「罪の律法」と出てきますので、その意味で取ることができます。
 この意味での律法を見つけるのですが、どこで見つけるかというと「善をしたいと願っている」自分のうちにおいてなのです。自分のうちは、自分の肉のうちなのですが、次節では、さらにその肉のうちの「内なる人」としては「神の律法を喜んでいる」からと語っている、その内なる人を見つけるのです。私にうちに悪が宿っているのですが、さらにそのうちに「内なる人」として神の律法を喜んでいることを見つけるのです。
 この7章での著者であるパウロの語りの筋を追うのは簡単なことではないのですが、この箇所でそれまでの語りのまとめをしているようで、特に「見つけます」と言い切ることで、探し求めていた自分のうちの葛藤の理由を言い当てているかのようです。見つけなければ、そのまま闇に覆われてしまって、そのままで終わってしまうのですが、見つけたことで、そこから抜け出すことができたのです。
 ここでは「見つけます」と現在形なのですが、私たちもどこかで過去形で「ユーレカ」と感嘆詞をあげたように、罪と悪に支配されたままではなく、神の律法に喜んで向かっていく「内なる人」がいることを見つけて、驚き感謝したことです。そこに聖霊が働いて「内なる人」が日々新たにされることを経験できるからです。その喜びの源泉がこの節から伝わってきます。
 上沼昌雄記

「心魂の内奥に何が生起するのか」2018年4月12日(木)

 これは千葉先生の新刊『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』(上下巻)の第二部4章「パウロの心身論」の副題の表現です。「内奥」を「ボトム」とも言い換えていますが、私たちの内面の深くで起こっていることの探求であるることが分かります。「信の哲学」と呼ぶ意味合いもそこにあるのでしょう。身体を持つ誰でもが、自分の内面深くで起こっていることに関心があるので「哲学」の可能性が出てくるからです。
 御著書を送っていただいて全体を見回しながら「信(ピスティス)」を哲学の対象とされる千葉先生の意図を少しでも理解したく思いました。私の中には「心魂の内奥」はまさに「闇」ではないかという叫びがあります。この時期に7年前に書き上げたヨナの怒りの原稿を出版してくださる話があり、ヨナがあの魚の腹の中で過ごした闇の記述を何度か読み直しました。一度研究室にお訪ねしているときに、そこはもうどうにもならない世界ではないのでしょうかという私の発言に、千葉先生が真顔で、もっと知的にならないといけないと言われました。
 そんなことがあって、原稿の段階からこの心魂のボトムでの記述に関心を持ってきました。書物として受け取ってからこの4章に至るには、2章でのアリストテレスの『魂論』の展開を確認しなければと思い、しばらく格闘しました。その2章の副題も「不可視なロゴス『魂』の探求」となっています。目次から分かるのは、「魂の根源的態勢」としてアリストテレスの「実践知」とパウロの「信」の関わりの解明になりますが、私の説明能力を超えています。
 それでも分かることは、パウロが「信」を心魂の内奥の根源的態勢をと見なすとしても、その前に「神のピスティス」と「イエス・キリストのピスティス」が神の啓示の自己完結性としてあり、その上で、それに対応するものとして「私たちのピスティス」が分節していることです。その上で総合が次の課題です。この分節を明確にした上での「私たちのピスティス」の心魂のボトムでのあり方の探求なのです。そうでないとこちらの心的動きが優先してしまって、その投影としてテキストを読み込んでしまうからです。アウグスティヌスもルターもそれぞれ内面の信仰理解はずば抜けているのですが、先の分節なしに、テキストを読み込んでしまっていると言えます。
 千葉先生は「神学的枠組みの密輸入」と呼んでいますが、それを避けるための手立てはテキストそのものの解明にあるとします。神のピスティスの解明をし、その上でパウロのピスティスがどのように対応しているかをテキストに沿って解き明かす作業です。こちらの心の動きとは関係なしにと言えるのですが、テキストの解明によって明らかにされるパウロの心魂のボトムでのあり方は、不思議にこちらの心に反響して、納得を与えてくれます。それが知的な作業であると言われたのだと思います。
 千葉先生の書の3章はローマ書1-4章、4章はローマ書5-8章の言語分析です。この4章の初めで、3章を踏まえての展開をまとめています。「これまでの言語分析の成果を踏まえつつ、パウロにおける心魂の様々なエルゴン(働き)に対する言及の分析を通じて、はたして信が心魂のボトムにおいて遂行される神に対する根源的な信任、移譲行為であり、さらにそこから相互の愛や神の観想に至る一切の秩序ある生が生み出されうる魂の根源的態勢であるのかのさらなる探求に向かう。さらに彼の独自の主張として、叡智や霊の刷新がそこにおいて生じる「内なる人間」が提示され、通常の心身論の対象である身体をかかえた自然的存在者の生の原理としての肉を秩序づけるとするが、その統一理論がいかなるものであるかを探求する。」(上巻624頁)
 具体的にローマ書7章での言語分析には今までにない視点が展開されます。「律法」、「肉」、「私」、「うちに住む罪」、「内なる人」、「心(ヌース)の律法」、「罪の律法」、「みじめな人間」とパウロが言い放つ心魂のボトムの発語には細心の注意を払う価値があります。こちらの心魂が対応していくからです。
 上沼昌雄記

「長雨の後に」2018年4月8日(日)

 ここ北カルフォルニアでも「長雨の後に」という言い回しが珍しいほどに、一昨日金曜日は一日雨が降り続きました。日本での梅雨時の雨降りを思わせるものでした。昨日土曜日の朝まで降りしきりました。午後からは待っていましたとばかりにカルフォルニアの太陽が出てきて、気温も上がってきたようでルイーズと散歩に出ました。
 住まいの下の方に雨降りの時だけ水がたまる池があります。下の方から漏れていくので夏場は枯れてしまうのですが、この長雨の後は、池はあふれていました。その情景を観るのも散歩の目的でした。同時にその池の脇で誰かが、近隣から出てきた枯れ木を燃やしていることが、立ち上る煙から分かりました。池のさらに下方に流れている小川が長雨の後であふれるほどであることを確認して、たき火のところに戻ってきました。
 昨年の3月20日付けで「陽気に誘われて近隣と立ち話を」という書いたのですが、その近隣のスティーブが山のようにたまってきた枯れ木を燃やしていました。冬の間は余り会うこともなく、彼のお母さんのことを心配していたのですが、話が始まった途端に焦燥しきった感じで、お母さんの死に面してのお父さんと家族の対応を事細かに語り出しました。すでに50歳代に達しているスティーズの話にはいつも父親のことが出てます。父親に認めてもらいたいという強い願望と、父親からの精神的に暴力的と言えるほど拒絶です。
 話し上手というか、ともかく身振り手振りで、お母さんの死の日の出来事、その場で父親から浴びせられた罵声、スティーブの一人息子の前での父親の態度、どの場面でも、彼がどれほど父親に認められたいのかが分かり、同時にどのようにしても父親から拒絶されてします状況を繰り返し語ってくれました。完膚なきまでに打ちのめされた姿を観ることになりました。神を信じていて、なお「死の影の谷」を歩んでいるのです。
 ルイーズが彼の話を真剣に受け止め、どのようにしても父親にコントロールされるだけだから距離を置くように繰り返し説得しました。心優しい彼にはそのようなことは考えられなかったようです。私も思いがけなく、「奥さんの話を聞くように」と勧めました。そうしたら彼の奥さんもルイーズと同じように、どのようなことをしても父親にコントロールされだけだから、関わらないようとけんか腰で言っていたと話してくれました。それは彼に一条の光を与えたようでした。
 昨年も彼の家の前で立ち話をしていたときに、近隣の人たちが入れ替わりに立ち寄って会話に加わってくれたのですが、今回も近隣の男性がたき火の煙を観て、飲み物持参で会話に加わってくれました。そういうときはキャンプとか猟の話になり、スティーブも猟が好きですので、嬉しそうに語っていました。そこにもう一人の男性が彼も飲み物持参で参加してきました。しばらく楽しい話が続きましたが、自然に会話のグループが二つに分かれて、私たちはスティーブと話の続きをしました。
 その中身はその前に話したことの確認になったのですが、ともかく距離を置いて、父親の巧みな操作に乗らないようにと、境界線を明確にすることで逆にこれ以上コントロールされない意思表示をするように励ましました。彼の奥さんも同じように思っていることを確認して、本人もようやく納得したようでした。続いて祈っていることを伝えて、すでに暗くなりかけているその場を後にしました。
 彼の話の中で父親も同じような環境で育ってきたようで、同じようなことが下の弟さんにも現れているようですが、スティーブはその繰り返しはしたくないとしっかりと自分に言い聞かせています。その通りに彼の一人息子とは兄弟のような麗しい関係を築いています。そんな側面を観てルイーズはいつも励ましています。
 珍しい「長雨の後に」思いがけないタイミングでしたが願っていた会話をいただきました。からだもかなり冷え切ったので、急いで家に駆け込みました。
 上沼昌雄記

「アテネでのパウロの議論が聞こえてくるよう」2018年3月19日(月)

 過ぎる週に千葉先生から、刊行された御著書『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』(上下巻、北大出版会)を送ってくださったと連絡が入りました。恐縮をし、光栄に思いました。そんなこともあって今まだいただいた原稿と論文を少し整理してみました。最初の原稿と最終原稿を北大の研究室でいただき、校正原稿の前半部を送っていただき、この1年半ほど格闘してきました。その前にいただいたいくつかの論文、ネットからプリントした論文もあります。そしてまもなく届く完成本を思いながら、パウロがあのアテネのアレオパグスで哲学者たちと論じたその議論が聞こえてくるような感覚をいただいています。
 「死者の復活のことを聞くと」(使徒17:32)とあるように、パウロは哲学者たちに合わせて福音を安売りするようなことはしていません。その福音がどのように啓示されているのかを当時の共通語で提示し、しかもその提示は誰の心魂にも分かる言語でなされ、特に当時の哲学者たちにはアリストテレスから学んだ仕方で分かるようになされていると分析しています。それは「ことば(ロゴス)と行い(エルゴン)」(ローマ15:18)によることで、このロゴス(理論)とエルゴン(実践)の相補性がアリストテレス哲学の基本として、両者の言語提示に共通性があると観ているからです。
 千葉先生はこのパウロの語りを意味論的分析という手法で解き明かしています。その手法を説明できないのですが(こちらの能力を超えていて)、結果的に提示されていることは、パウロが福音をどのように語ろうとしているのかが見えてくるのです。変な言い方なのですが、それだけです。言い方を変えると、千葉先生の神学が展開されているわけでないのです。パウロの極意みたいなものを千葉先生が獲得して、そこから今までにない神学を展開しているのではないのです。聖書解釈学のための「一つの基礎作業」だとあっさりと言います。
 それなりにローマ書の注解書、最近ではN.T.ライトのものも読んできましたが、どこかでパウロの中のある視点を見つけ出して、それを自分の中で展開しいている面があります。注解者の神学がそこに残るのです。そのような見方、読み方が出来るのかと驚くのですが、テキストでのパウロの語りはそんなに残らないのです。バルトのローマ書は、まさにバルトの神学と言えます。ルターのローマ書もその面はあるのではないでしょうか。内村鑑三のローマ書は、千葉先生が言及していますで興味深い点です。
 『信の哲学』には千葉神学は出てきません。テキストだけが残ります。微妙な言い方なのですが、テキストが神学の展開を拒んでいると言えます。テキストの語りの意味にこだわっていると言うのが適切なのかも知れません。中心的な3章22節の「イエス・キリストのピスティス」では、「イエスのピスティス」でも、「キリストのピスティス」でもないことにも意味を見いだしています。
 7章での「うちに住む罪の自覚」「内なる人の喜び」「心(ヌース)の律法の目覚め」「惨めな私の嘆き」、それは当時のストア派の哲学者たちがなんとか獲得しようとした「平常心(アパテイア)」に訴えるものでした。8章での「御霊のうめき」は、たとえ人生で苦しみがなくならなくても、逆にキリストの苦難に預かることで、それが人生であるとパウロが語っているのです。まさに基礎作業なのです。
 そのような作業を40年積み重ねてこられて出てきたのは、テキストにおけるパウロの語りです。著書が届いて、もう一度初めから読み直すのを楽しみにしています。想像するだけで、哲学者たちと論じ合っていたパウロの語りが響いてきます。
 パウロは哲学者たちの前で臆することも、妥協することもなく、神の啓示の提示のあり方を、彼らが使っていた言葉で語ったのです。その語りは、あのローマ帝国を変えることになり、宗教改革を起こし、今も新しい改革を起こしています。そのようなあり方の原点を『信の哲学』で確認することになります。それはまさに堅い食物をかむようなことですが、今までにない味わいをいただくことになります。
 上沼昌雄記