カテゴリー別アーカイブ: ウィークリー瞑想

「イースターの故に、復活のからだを」2017年4月19日(水)

イースターの日に夫婦で1コリント15章を英語と日本語で読みました。少しずつ互いに歳を取ってきて身体の衰えを覚えるときになっています。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(44節)この朽ちるからだがあるので、当然のように朽ちることのない御霊のからだもあると主張されています。

「血肉のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「魂(プシュケー)で表され、「御霊のからだ」は「からだ(ソーマ)」と「霊(プネウマ)」で表されています。前回取り上げた「肉」はいずれ消滅するものですが、「からだ」は朽ちるものから朽ちないものへの変化を被ることのできるものとして描かれています。「肉のよみがえり」ではなく、「からだのよみがえり」です。「肉の贖い」ではなく、「からだの贖い」です。

「信の哲学」を標榜される千葉教授は、この「復活のからだ」についてのパウロの言表を意味論的に分析することで、「肉」と「血肉のからだ」の違いから、さらに変えられていく「霊のからだ」への変換を、パウロの心身論として展開しています。文字通りに「魂体(魂的身体)と「霊体(霊的身体)」と言い表します。「魂体もあるなら、霊的なものもある」と訳します。この霊的身体をいずれ被ることになることで、アダム以来の人間の本来のあり方の回復を見ています。人間として完成された姿を「魂体」から「霊体」への変容のうちに見るのです。パウロがキリストの復活のうちに人間のあるべき姿を見ていると言うのです。

このことは、N.T.ライトが新天新地を創造の完成されたあり方と見ていることに通じます。単に朽ちる世界を去って天国に行くことが救いの目的ではないのです。国籍はそこにあっても、「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」(ピリピ3:20)いるからです。復活のからだをいただいてキリストともに新しい天と地で治めていくのです。

千葉教授が大学の出版局から出す予定の原稿から、「復活のからだ」についてその一部を紹介します。「肉は受肉を介して『キリスト・イエスにおける生命の霊』との何らかの関わりがある限り、、、肉のおいて心が霊を受容する能力を持っている。最後のアダムであるキリストは、『生命を創る霊』であるとされている。そのキリストはイエスとして受肉された本人であった。、、、人間の肉は滅びるが、連続性においてある人間の完成が霊体においてよみがえるとするなら、その一つの保証はナザレのイエスの復活により与えられるであろう。肉の弱さを克服したイエスが霊体との連続性を明らかなものとしたと言える。」

このようなことが学問の世界で知的な作業として真剣に論じられているのです。「復活のからだ」が当時のギリシャ哲学との関わりで、パウロが切り開いた新しい人間観として熱く語られているのです。パウロの生きた語りを聴くような思いです。まさにパウロも千葉教授も私も生かされている福音の力なのです。パウロはそれゆえに「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債」(1:14)と受けとめたのです。それは私たちの責任でもあります。

上沼昌雄記

「イースターを前に、この『肉』は」2017年4月11日(火)

イエスは受肉をしていたので死を確実に味わいました。そして復活によってその「肉」と「死」を乗り越えて「復活のからだ」を纏われました。「復活のからだ」は「霊(プネウマ)」と「からだ(ソーマ)」結びついて表現されています。ですから「からだ」を持っていたのですが閉じられた戸を通り過ごすことも、食べることもできました。実はイースターの前なのですが、その「復活のからだ」ではなく、生身のからだである「肉」について考えさせられています。

というのは、「神学者たちによって等しく『肉』が二義的な概念であると主張され、、、自然的な生物的な存在者と罪性を帯びた本性を持った存在者との両義的であると主張されてきた」ことに対して、千葉教授は「中立的な人間を支える生物的な構成要素」としてだけ「肉」を捉えているからです。それは意味論的分析の結果と言われます。

何ともチャレンジなのは「神学者たちによって等しく」と言われて、神学を囓ってきた者として、言われてみればどことなしに「肉」をそのように二義的に理解してきたし、説明をしてきたのは確かだと認めざるをえないからです。そう説明するほうが分かりやすいというか、受け入れやすい面もあるのも確かです。千葉教授は、それは「暗黙の神学的前提の密輸入」とまで言われます。それで考えさせられています。

その密輸入しやすい箇所を言語分析的に網羅した上で、イエスの受肉と贖罪の関わりで表現されているローマ書8:3の「罪の肉の似様性」 に触れています。 新改訳では「罪深い肉と同じようなかたちで」となっていてすでに神学的理解が密輸入されてしまっています。この8:3は、3:20の「業の律法に基づくすべての肉(新改訳「だれひとり」)」と同様に肉が理解されていて、「業の律法のもとには罪であることを逃れられない肉の 似様性」において神は御子を遣わしたと理解しています。現実にイエスの受肉の「肉」が初めから罪に汚れていることはないのです。ただ「肉の弱さ」(6:18)を抱えているのです。

この「肉」の中立性の具体的な表現がガラテヤ2:20と言います。大変微妙なギリシャ語の言い回しです。私はキリストとともに十字架につけられて。もはや私が生きているのではない。「今われ肉において生きているところを、われは、われを愛し、わがためにご自身を引き渡した神の子の信(信実)において、信(信仰)において生きている。」すなわち、「肉」において生きることが「信仰において」生きることを可能にしているのです。肉の中立性のゆえに「信仰において」生きることが出来るというのです。むしろ「信じること」の責任が問われることになります。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」(ローマ14:22)

「肉」を二義的に理解して、初めから罪性を帯びたものと捉えていくのは、ギリシャ的な霊肉二元論を初めから受け入れていることを意味しているためかも知れません。ですから、その罪深い肉の状態から解放されて天国に行くことが聖書の教える救いの理解と当然のように受け入れられてきた面があります。ギリシャ的な世界観を知らないうちに密輸入して、それが聖書的と言い張ってきたと言えます。

パウロは逆に、そのギリシャ的な世界観がすでにあの地中海で支配的であったなかで、創造の秩序において相対的自立性を持つものとして「肉」を捉えていたように思われます。肉はそれ自体としては自己保存をはかるのですが、その制約の下でなお「信仰において」生きることが出来るのです。当然信じないことも起こるのです。そのような人間の相対的な中立性を支えているというのです。

千葉教授はこの理解のもとに心身論(霊肉論)、すなわち、「霊」と「ヌース」としての「内なる人」と「肉」との複合的構成をさらに分析しています。「心」と「良心」もそこに含まれています。その「心」の深くに働く神の霊をローマ書8章の課題として展開しています。

この制約と弱さを持つ肉のからだから霊のからだへの移行を可能にしてくれるのがキリストの復活です。ただイースターを前に、この「肉」を中立的に捉えることは、罪理解と同時に人間理解の方向転換が求められるのだろうと思わされています。

上沼昌雄記

「真実と信実と信仰と」2017年4月6日(木)

3月末にシカゴ郊外でファミリー・イベントがありました。その帰りにダラスに寄って、12月初めにサンディエゴの動物園で結婚式を挙げた義弟夫婦を訪ね、四泊五日滞在いたしました。実はちょうど昨年のその時から話が始まって、しかも彼はダラス、姉妹は山形ととんでもないほど離れていたのですが、間に立ってくれたご夫妻から紹介を受けて、その旨を義弟に伝え、その年のうちに結婚式を挙げたのでした。そんなことを互いに思い起こしながら、どうしてこのような結果になったのか、姉妹のおいしい手作りの日本食をいただきながら、日本語と英語を混ぜ合わせながら、感謝と驚きをもって語り合いました。

土曜日の晩も遅くまで話し合って、さて次の日の朝はどうしようかと言うことで、二人が今までに行かれた教会の話を伺いながら、姉妹が、折角牧師(私のこと)が来ているのですからここで礼拝を持ちましょうと言うことになりました。それも良いことと思い引き受けました。その朝は大雨が降っていましたので外に出る必要もありませんでした。始めるときに義弟がそれでは妻が賛美をしますと宣言をしました。姉妹は声楽家でもあります。「十字架のかげに」を独唱してくれ、皆で「アメージンググレース」を賛美しました。

ローマ書3章22節の「イエス・キリストの信」を取り上げました。千葉教授の40年にわたるローマ書研究から教えられていることと紹介して、その箇所で「神の義」が「イエス・キリストの信」によって示されていて「すべて信じる人」が義とされることから、「イエス・キリストの信(ピスティス)」とそれを信じる「私たちの信仰(ピスティス)」が二段構えで表現されていることを確認しました。さらに神の「義」とイエス・キリストの「信」が一つのこととして捉えられていることも確認しました。

私は自分が全部話す必要がないと思って、何かふさわしい質問がないかと考えました。このピスティスは同じ3章の3節で「神のピスティス」とも使われています。「神の信仰」とは訳せません。「神の真実」です。イスラエルの不真実があっても「神の真実」は変わることがないからです。そうすると「神のピスティス」は「神の真実」と、「イエス・キリストのピスティス」は「イエス・キリストの信実」と「私たちのピスティス」は「私たちの信仰」となります。「信実」は広辞苑にも載っています。英語ではfaithfulnessとfaithです。「私たちの信仰」は「私たちの信実/真実」ともなります。

それで、信実/faithfulnessであることが人間としての自分にどのような意味があるでしょうか、と問いを出し、しばらく思い巡らす時を持ちました。「イエス・キリストの信実」によって「神の義」が明らかにされ、私たちも義とされたのですが、その信実が生きている上でどのような意味を持っているのか分かち合いました。それぞれ思わされたことを語ってくれました。私は義父の信仰を思い出しました。特に義父の葬儀で、それまで義父がしてきたことが、本人は何も語らなかったのですが、参列者の口から途切れることなく延々と出てきたのでした。義父の信仰であり、信実さの表れであり、真実なことでした。

義父の召天の3日前に義弟もダラスから飛んで来てくれて、父の最後と葬儀には立ち会ってくれました。そのことが彼の中でどのようなインパクトを残したのかは知るよしもないのですが、彼自身の信実さがほとばしり出てくる契機になったのかも知れません。結婚に導かれた姉妹もその家族も彼の優しさと真実さに惜しむことなく賛辞を送っています。私たちが滞在していたときにちょうど結婚四ヶ月に至ったのですが、二人が信頼し合い寄り添いながら生活を始めていることをこの目で見ることができました。むしろ新婚四ヶ月での二人の間の信頼と信実さには目を見張るものがあります。

上沼昌雄記

「陽気に誘われて隣人と立ち話を」2017年3月20日(月)

気温が上がってきて外で過ごす時間も増えてきました。今は冬の雨の後で地を覆う緑が一番美しいときです。その前の日曜から夏時間になり日が沈むのが一時間延びたこともあってカリフォルニアの太陽の下で、過ぎる週末の午後は隣人との立ち話で思いがけない時を過ごしました。

土曜の午後はまだ終わっていない枯れ木と落ち葉を燃やす作業をしました。夏場の山火事対策としてできる限り敷地内をきれいにしておく必要があります。地続きのジェフリーさんの家との間にはフィンスがあるのですが、その近くの枯木と落ち葉を燃やしました。彼らも自分たちの大きな木を切り倒してレンタルの機械で来シーズンの薪を切っていました。

互いに一息ついたところでフェンス越しに話が始まりました。冬の間閉じこもって千葉教授のローマ書研究の原稿を読んで記事を書いている話をしましたら、自分の教会の牧師のある聖書箇所の理解について紹介してくれました。後半は妻のルイーズも加わって近状を報告し合うことになりました。私たちを信用してくれて別の隣人とのいざこざで心を痛めていることを話してくれました。

日曜の午後は4時にルイーズと散歩に出ました。道の向こうの少し先のスティーブがドライブウエイをきれいにしているときで、全く久しぶりに会いました。半年ぶりかも知れません。その前は3年ほど失業をしていて家にいたので、結構会うことがありました。信じて神の導きを待つようにとルイーズが励まし、その結果いまは自分が一番したいと思っていた仕事に就いて忙しくしていると喜んで報告してくれました。

彼も私たちがどうしていたのか関心があって聞いてきましたので、義弟のスティーブンが結婚に導かれた話を始めました。興味深く聞いてくれました。その間車で帰ってくる近所の人が車越しに話をしたり、私たちの立ち話を奥さんから聞いてその御主人のダンさんがトラックで駆けつけてしばらく会話に入ってくれたり、ジェフリーご夫妻は教会から戻ってくるときに通過して、再度夕方に出かけるときに「まだ話している」と笑顔で通過していったりして、義弟の結婚式までの話はとぎれとぎれで3時間かかって話し終えることになりました。

そのとぎれとぎれの中にはこの隣人スティーブの親と家族の話も出てきます。今までは拒否されてきた父親のことで55歳になっても苦しんでいるという話が繰り返し出てきました。今回はその父親が歳を取ってきて自分の財産の処理を彼にまかせると家族の前で言ってくれたと言って、親との和解をいただいたことを嬉しそうに話してくれました。彼には大学生のひとり息子がいるのですが、自分の父親と同じことを繰り返したくないと思って育ててきたことが分かります。ルイーズはそのことで彼を誉め励ましてきました。

3時間の立ち話で暗くなって肌寒くもなってきたのですが、千葉教授のローマ書3章の「イエス・キリストの信・信実」の話をしましたら興味を示してくれて、その関係で書いた英文の記事を送る約束をして、散歩に出たのですがそのまま戻ってきました。近隣の人のために毎晩祈っているのですが、このような豊かな時を神は与えてくださったのだと妻と感激しながら家に入りました。

上沼昌雄記

「『罪の律法』を見つめる『私』」2017年3月13日(月)

前々回『平気でうそをつく人たち』との関わりでローマ書7章に触れました。それをそのまま英訳して家族に送りました。取り上げているテーマが多すぎるのではと正直な反応をいただきました。それでポイントを整理してテーマも”Spiritual Laziness?”として英語関係の人に送りました。その英文の添削で妻がローマ書7章に関して質問をしてきて、さらに「罪の律法」がどのような流れで出てくるのか、千葉教授のローマ書研究に沿いながら探ることになりました。その流れを見ることで浮かび上がってくるものがあります。

7章の終わりにかけて「罪の律法」が出てくるときに、一つには「神の律法」との対比で、もう一つには「心(ヌース)の律法」と対比で語られています。さらに、24節の「惨め、私、人間」の三語で表現されている嘆きのあとに、最後の25節で「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と対比されています。

律法に関してこのような対比をさらに3章と次の8章で見ることができます。3章は22節で、イエス・キリストの信による神の義の啓示が明確されたあとに、ユダヤ人が頼りにしていた律法の誇りが取り除かれたと語るときに、どういう原理(律法)によってか問いかけ、「行いの原理(律法)によって」ではなく「信仰の原理(律法)」(27節)によってと対比されています。ここは現行訳の「原理」ではなく、あくまで「律法」と訳すことで流れを見ないといけないところです。8章の初めではでは7章を受けて、「いのちの御霊の原理(律法)が、罪と死の原理(律法)から、あなたを解放した」(2節)と対比が語られています。ここでも流れを捉えるために「原理」ではなく「律法」と訳すべきです。まとめると次のようになります。

信仰の律法 ―行いの律法 (3:27)
神の律法―罪の律法 (7:22, 23, 25)
心(ヌース)の律法―罪の律法 (7:23, 25)
いのちの御霊の律法―罪と死の律法 (8:2)

律法学者であったパウロにとって「律法」は一義的には「神の律法」であり、具体的にはモーセの律法です。しかしその「律法の行い」(3:28)では義とされないで、イエス・キリストの信による神の義を信じることでのみ義とされる、この基準に従って「律法」を見直し、提示し、論証していると言えます。「行い」や「業」でない内面化された意味での「信仰の律法」はそこから出てき、それに対応するように7章で「心(ヌース)の律法」が出てくるのでしょう。律法を行うことでは義とされない、それでも「内なる人としては、神の律法を喜んでいる」(22節)、それで「私の心の律法」(23節)となるのでしょう。

律法はどのようなことがあっても神のものであり、それは「聖なるもの」(12節)です。その時に、その聖なる律法が死をもたらしたのかという問いが出てきます。「絶対にそんなことはありません。」(13節)それを成し遂げたのは罪であると冷静に見ています。ここで一度罪と律法が区別されます。内なる人は明らかに神の律法を喜んでいる、しかし同時に罪が自分のうちに住んでいる、どこかと自問し、「私のからだの中に」「異なる律法」(23節)として住みついていると言うのです。それが死をもたらすのです。「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が」(5:12)入ったのです。誰もが避けることのできない死です。それを支配しているのが「古い文字」(7:6)と結びついた「罪の律法」なのです。

「内なる人」としては「神の律法」を喜んでいて、同時に「肉では罪の律法に仕えている」この葛藤を導くために、パウロは「私・エゴ」を導き出したという千葉教授の興味深い表現があります。確かに「私・エゴ」は7章だけに登場して姿を消します。8章では聖霊が登場してきてそれは信じるものだれにでも当てはまるのです。そこでは「神の律法」は「いのちの御霊の律法」になり、「罪の律法」は「罪と死の律法」になります。

この葛藤が聖霊のとりなしの中でどのように取り扱われるか、まさに8章のテーマですが、ここでは7章に限って、「肉「において「罪と死の律法」に仕えている「私」は、アダム以来の「私」であって、千葉教授はそのために24節で「惨め、私、人間」の三語で、「私」と「人間」が対等に表現されていると言います。確かにそれは誰にでも当てはまることです。 パウロはそのような論法を展開しているのです。 当時のギリシャ哲学にも耐えうるものです。「死」は誰にでも当てはまるからです。

「古い文字」として機能する「罪の律法」を見つめる「私」は、パウロであり、私であり、生きている人すべであります。その「罪の律法」が自分の肉の中で働いていることを見つめる心のさらに底で、「いのちの御霊の律法」が働いているのを見つめることになるのです。

上沼昌雄記

「『反知性主義』という本を読んで」2017年3月7日(火)

友人が一昨年、森本あんり著『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んでコメントをくださいました。それで昨年末に購入して持ってきました。旭川の友人がさらにこの本を読んで先週コメントをくれました。それで読んでみました。分かる面と、何か話の持っていき方がこれで良いのかと思わされました。

ただ昨年購入したときと現在アマゾンで見られるこの本の帯の文句が変わっていることが分かりました。今は「トランプ大統領を生み出したイデオロギーの根源」となっています。一面当たっていますが、この本の内容に関しては納得できない面もあります。

どの面かというと、知性主義と反知性主義の対比がこの本でそれほど明確でなく、むしろ入り交じった上で話が進んでいきます。多分地理的には、ヨーロッパとアメリカ東部が知性主義になるようです。それ以外の中西部と西部は反知性主義のようです。教会的には、いわゆる正統派が知性主義で、福音派が反知性主義になります。

話はキリスト教での反知性主義として信仰復興運動、リバイバルがその例として繰り返しだしてきます。それが地理的に東部でも受け入れられるようなことに著者も耐えられないかのようです。著者のアメリカでのキリスト教体験によっているようです。それは著者自身のアメリカの地理的体験にもよっているのでしょう。

それを感じたのは、4章で映画「リバー・ランズ・スルー・イット」をアメリカの反知性主義を知るために出してきたことです。リバイバル運動を起こした人たちの学歴やマナーのなさをその例として出して来るのですが、この映画のもとの本はシカゴ大学の英文学教授であった人が故郷のモンタナに帰ってきて書いた実話です。東部で勉強したとかの視点が繰り返されています。この映画はモンタナの自然の美しさに魅了されます。ブラッド・ピッドの出世作です。文句なしにお勧めします。それこそアメリカを知ることができます。

アメリカに移り住んで28年になります。カリフォルニアですので反知性主義の行き止まりになるのかも知れません。子どもたちが中西部に住むようになってアメリカ大陸を何度かドライブして体験することになりました。広大な自然のワイオミング州にはことばが出ないほどです。モンタナ州はその上にあり、一度通過したことがあります。アメリカはこの広大な大地を、政治的にも農業的にも工業的にも征服したのです。アメリカの力です。知性がなければできないことです。

思い出すことがあります。アメリカに移り住んで不思議なことに自分で小さな家を建てることになりました。経験は全くありませんでした。教えられ、また見よう見まねでしたが、筋道がしっかりあることが分かりました。早い時期に床下の配管をするのですが、そのためには出来上がったときの水回りを理解していなければなりません。知性がなければできないことでした。

そんなこともあって、読後感はすっきりしません。ただこの本はすでに1963年にでたリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』を下にしているので、子どもたちも興味がありそうなので、回し読みして、再度考えたいと思います。ただこの日本語の本の新しい帯の文句は当たっている面がありますが、むしろ前回書いた「怠惰とナルシズム」のほうが当たっているように思います。どちらにしても考えさせられる状況なのです。避けられないのです。

上沼昌雄記

ウイークリー瞑想 「『平気でうそをつく人たち』という本」2017年2月23日(木)

昨年来メディアを通して耳にするニュースとそれに対する反応をそれなりに聞いて、この『平気でうそをつく人たち』という本のことを思い出します。1983年にアメリカで出版され、日本では1996年に翻訳出版されました。現在は文庫本にもなっています。この本のことを思い出させられるのは、気持ちの良いものではありません。平気でうそをつくことが当たり前の時代になってしまったかのようです。うそでも事実でもどちらでも良いのだというささやきまで聞こえます。

自分の非を認めることを絶対に拒否し、それを認めるなら死んだほうがましだと思い、その責任を他に転嫁することに関しては悪魔的な知恵を持っていると、著者のスコット・ペックは言います。しかもそのような人は身近にいるのだと、自身の精神科医としての経験から語ります。何と最後までひとりの患者にだまされたと言うことです。このような人は自己批判に耐えられないので、失敗したときには、敵を見つけ出し攻撃することで責任逃れをすると言います。

この邪悪性が悪の根源と見ています。その精神構造は怠惰とナルシズムです。自分の邪悪性を認めるよりもスケープゴートを探します。それが集団になったのがナチス・ドイツのことと言います。ホロコーストのあとにレヴィナスが「他者」を視点に哲学を始めたのが分かります。

千葉教授のローマ書研究は、類をみないほどの言語分析をしています。「ローマ書」が語っている言語の意味論的分析に終始しています。釈義を徹底しているだけで、適用は考えないで、テキストそのものに語らせていると言えます。そうすることで何となく抱いていた不明瞭さが除かれる面があります。

ローマ書7章は「私」が出てきます。ナルシズムのことかと思わせるのですが、その「私」のうちに住みつく罪を見つめるのです。怠惰ではできないことです。他人への責任転嫁どころか、自分の「内なる人」を避けないでじっと見つめます。7章は結婚における律法の役割を明確にすることで始まっています。すなわち、相手が生きている間は律法の権限が生きているが、キリストとともに死ぬことで律法から解放されている、それでもなお罪を認めないわけにいかないのです。その罪と律法との関わりで「私」はどうなっているのかと考えます。

7節と13節で、相手の論点に対して「絶対にそんなことはありません」という言い方で、二段構えで論が展開していると言います。「律法は罪なのか」、そうでないとすると「この良いものが死をもたらしたのか」に共に「否」をいうことで、実は「私」のなかに「神の律法」と「罪の律法」(21-25節)が共存していると認めるのです。律法は罪でない、しかし、「罪の律法」が私のうちにある、その現実を見つめているので「私は、本当にみじめな人間です」としか言えないのです。ナルシストどころでありません。怠惰ではできません。身を削るようなことです。

千葉教授はこの二段構えの論法において、後半が現在形であるに対して、前半が過去形で書かれていることに注目します。しかも律法と罪が擬人化されていることもあり、創世記3章の蛇の擬人化に対応し、「戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺く」(11節)ことになったと見ます。その蛇が欺いたように、私たちのうちに「神はほんとうに言ったのか」(創世記3:1)という「罪の律法を立てる」と見ています。

それは「異なった律法」(23節)で、認めたくないが、認めなければさらに自分を欺くことになります。そこには当然葛藤があります。8章での「うめき」です。しかしそれは御霊の内住によって「イエス・キリストの信」のゆえの「神の義」が少しでも御霊の実として結んでいくことになります。そのようにパウロが論法を展開していることを明確にしています。それゆえに当時のユダヤ思想にもギリシャ思想にも「ローマ書」は耐えうるものと見ています。

もしかすると3章22節における安易な信仰義認の理解が、その後のパウロの論法に従うことを不可能にしてしまって、一面的な信仰者の理想像で生きることに思いを向けさせてしまったのかも知れません。怠惰とナルシズムは、その意味では、私たちの中に住みついてしまったかのようです。これはアメリカの教会が直面している問題と言えそうです。かつてドイツの教会がそうであったように。

上沼昌雄記