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「ニーチェとキリスト教—— ニーチェはキリスト教が好きなのか、嫌いなのか?」

初めに

いまさらニーチェ(1844-1900)に関してそのような問いを立てることはできないところがある。特に「神の死」とか「反キリスト」と、キリスト教を真っ向から否定するような過激な発言をしたわけで、いまさらニーチェがキリスト教を好きなのか、嫌いなのかと問う余地のないところである。ニーチェを取り上げること自体が危険思想と思われても仕方がない。それでいてどのような意味でニーチェが「神の死」とか「反キリスト」と言っているのか、関心とか興味ということより、頭のどこかにへばり付いていて取り除くことができない邪魔者である。

無視することもできる。しかし哲学とか、思想とか、キリスト教に関わる本を読んでいると必ずどこかでニーチェのことが出てくる。むしろ頻繁に目にし、耳にする。神は死んだと叫んでいるニーチェはいまだにどこかで生き続けている。現代思想のお邪魔虫のようにいつもそこにいる。何か分かったように思想を語れば、それを横目であざ笑っているかのようにそこにいる。

特に、ことあるごとにどこでもニーチェはキリスト教を取り上げている。これほどキリスト教を直接に語っている哲学者もいない。当然西洋の哲学者は誰もがどこかでキリスト教のことを語らざるを得ないのであるが、ニーチェはあたかも目の敵にしているかのようである。「キリスト教こそ、これまでの人類の最大の不幸である」(反キリスト51)と平然と言いのけている。ニーチェにとってキリスト教は、良い意味でも悪い意味でも放っておけないのである。

当然ニーチェがどのような意味合いでキリスト教を批判しているのかが問題になる。言い方を変えれば、どのような意味合いでのキリスト教をニーチェが取り上げているのかが問題である。そのような問題設定が可能になると、ニーチェの言っているキリスト教は本来のキリスト教なのかどうか、再批判が必要になる。その可能性を少しで探ってみたい。

ニーチェ、その人となり

ニーチェがルター派の牧師の子どもとして生まれたということが、この際どのような意味合いを持ってくるのか、それは興味深いことである。代々のルター派の牧師の子どもである。少年時代は牧師になる志を持っていたようである。当時のドイツのルター派が、どのような文化を築き、どのような雰囲気を持っていたのか、想像を超えるほどの影響力を持っていたのだろうと思う。次のような発言もしている。「プロテスタントの牧師はドイツ哲学の祖父であり、プロテスタンティズム自身がその原罪 peccatum originale である。」(反キリスト10)

ルターとルター派は厳密には区別されなければならない。ただここでルターに関して言えることは、つまり、ニーチェがルターをキリスト教の代表のように見ていることである。そしてルターをパウロと結びつけていることである。その間にアウグスティヌスを置いているといっても良い。ルターを通してのキリスト教といっても過言でない 。すなわち、パウロ理解もルターを通して見ていると言える。この意味では、ニーチェのキリスト教批判のひとつの方向性を見ることができる。

それでこちらも何とも気になって、ニーチェを放っておくことができない。何と言っても、ニーチェを哲学者と呼んで良いのか分からなくなる。カントやヘーゲルだとその哲学が体系的に書かれているので、大変であるが、かじりついていると少し分かったような気になる。それに比べて、ニーチェは文明批評をしているのか、歴史分析をしているのか、戯曲を書いているのか、詩的哲学書を書いているのか、ともかくどのようなカテゴリーも気にしないで思いつくまま書いている。それでいて何かしっかりとしたものが貫いていて、訴えるものがある。

ともかく体系的に書いているわけでない。何か訴えるものがあって、それを思いつくままに書いている。体系がないというか、そのような体系的なものを避けている。次のようにも言っている。「キリスト教は一つの体系であり、一つの考えまとめあげられた全体的な物の見方である。」(偶像の黄昏9-5)そのような体系的なキリスト教を避けている。それでこちらも体系的なアプローチなしに、勝手な視点でニーチェを読むことができる。『これがニーチェだ』(永井均著、講談社現代新書)という本もあるが、「勝手なニーチェ」と言うところである。

ニーチェには晩年に『この人を見よ』と言う本があって、その目次が何となくニーチェの人柄を語っている。「なぜわたしはこんな賢明なのか」「なぜわたしはこんなに利発なのか」「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」「なぜわたしは一個の運命であるのか」。自信過剰、自意識過剰と言ったらよいのか、普通の精神の持ち主では書けないこと、言えないことを言いのけている。その意味合いはどうであれ、ここでは自分のキリスト教批判にそれなりの自信を持っていたのであろうと言うことで留めておきたい。

ニーチェの主要著書と年代は以下の通りである。
『悲劇の誕生』 1872年
『反時代的考察』 1876年
『人間的あまりに人間的』 1878年
『曙光』 1881年
『悦ばしき知識』 1882年
『ツァラトゥストラはこう語った』 1885年
『善悪の彼岸』 1886年
『道徳の系譜』 1887年
『偶像の黄昏』 1888年
『反キリスト』 1888年
『この人を見よ』 1888年

ニーチェは最後に精神錯乱を起こして廃人のように亡くなった。それが世紀の変わり目の1900年であった。その20世紀にふたつの世界大戦を通して、西洋の没落が文字通りに起こったことを考えると、何とも象徴的なことである。

「神の死」の場面

ともかく読んでいて、ニーチェはキリスト教が好きなのか、嫌いなのか、何とも言えなくなる。どうも、自分が生まれ育った西洋のキリスト教が虚偽を纏っていることに耐えられないで怒っているかのようである。「初代キリスト教徒が口にするあらゆる言葉が虚言であり」(反キリスト47)と言う。「わたしが虚言と名付けるのは、見ているものをみようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。」(同55)その結論は「信仰とは、何が真であるかを知ろうと欲しないことである」(同52)となる。

ニーチェはともかく、自分が一時は信じていたものが、虚偽であると気づいて、そのことで怒っているかのようである。その怒りが神に向けられているかのようである。 ニーチェの「神の死」は有名であるが、どのような場面を設定して語っているのか注目しておきたい。

君たちはあの狂人のことを聞かなかったか。白昼ランプに火をともして、市場に走ってきては、たえまなく「おれは神をさがしているのだ! おれは神をさがしているのだ!」と叫んだ男のことを。市場にはちょうど、神を信じていない人々が大勢集まっていたので、彼はたちまちひどい笑い者になった。ある者は「神さまが行方不明になったとでも言うのかい?」と言い、別の者は「神さまが子どもみたいに迷子にでもなったのかい?」と言った。(中略)彼らは口々にわめき立てて、彼を嘲笑した。狂人は彼らの中に割っては入り、あなのあくほど彼らを見据えて、叫んだ。「神がどこへ行ったかって? おれがおまえたちに教えてやろう! われわれが神を殺したんだ。おまえたちとおれたちだ! われわれはみんな神殺しの犯人なんだ」(悦ばしき知識125)

「神の死」は神が死んだからではなく、私たちが神を殺したからであると言う。神を信じている者も、神を信じていない者も、西洋の社会の誰もが神殺しの犯人なのである。神を自分たちの枠の中に押し込めて、窒息死させてしまったからである。先にキリスト教は体系であるとニーチェが指摘していたが、その体系とは哲学的・形而上学的な抽象概念による体系のことである。すなわち、聖書そのものの世界というより、ギリシャ哲学の影響を受けた上での神の理解なのである。「神」がその体系の中に閉じ込められてしまっていて、そのような「神」は死んだと言う。むしろ窒息死させられたのである。

そのような神への信仰は、本来の人間の力をそいでいると見ている。 嬉々として生きているべき信仰が、ギリシャ哲学と融合することで、哲学的・形而上学的な抽象概念の体系になっていることに耐えられないのである。そのような信仰自体が虚偽であると言い放っている。それは「病気」であるとまで言う。「キリスト教的神概念は、、、地上で達せられたもののうち最も腐敗した神概念の一つである。」(反キリスト18)

ニーチェには「生への意志」に対しての強い信念がある。キリスト教的神概念は、神を抽象概念にすることでそれをそいでいる。すなわち、神をこの世から切り離して「彼岸」に追いやってしまっているからである。それは「生の矛盾」であり、「此岸」に対する誹謗である。「神において無が神と化し、無への意志が神聖なり」(同)となってしまう。

この世の否定、此岸の誹謗、それはヨーロッパのニヒリズムの始まりでもある。 キリスト教がヨーロッパのニヒリズムの元凶なのである。ヨーロッパがキリスト教の病に感染しているのである。しかしここまで来るとニーチェの中には、本来の神のあり方を認めているし、真剣に求めているとも言える。哲学的な抽象概念に汚染されない聖書の神を求めていると言えるのかも知れない。その叫びが聞こえるようである。

ニーチェの批判するキリスト教とは

ニーチェのキリスト教批判の背景が少し明らかになったが、それを代表するのがニーチェの有名な「キリスト教は民衆のためのプラトニズムである」という提言である。『善悪の彼岸』の序文で言っている。ニーチェが批判しているキリスト教、それは、プラトニズム化されたキリスト教である。まさに西洋のキリスト教である。この2千年来の西洋のキリスト教である。聖書をプラトニズム化したものである。それは聖書そのものではない。

プラトニズムは、イデアと現象、善と悪、霊と肉の二元論の世界である。その力関係は当然、イデア>現象、善>悪、霊>肉となる。その結果は、現象の世界よりイデアの世界、肉の世界より霊の世界がより善なる世界となる。言い換えると肉の世界、現象の世界は悪なのである。時間・空間のこの世界より、時間・空間を越えた永遠の世界を理想的な世界と見ている。そして、すべてがそこに集約される。

このようなプラトニズムを、キリスト教が受け継いで理念的な世界と感性的な世界の二元論として一般化していると観ている。しかしニーチェにとって、感性的な世界を越えた理念的な世界は実現不可能な世界でありばかりでなく、化現の世界であり、虚偽の世界である。その虚偽の世界を理想としてきたれヨーロッパは、初めからニヒリズムを抱えることになった。

ニーチェのキリスト教批判は明らかに、このプラトニズムに裏付けられたキリスト教に対してのものである。このことがまとめて論じられているのが『道徳の系譜』である。「善と悪」「よいとわるい」、「負い目」・「良心の疚しさ」、そして「禁欲主義的理想」という三つの面で論じられている。初めの善悪のことと、三番目の禁欲主義のことは、キリスト教がプラトニズムで身を装ってきたことを観れば結びつくことが分かる。すなわち、キリスト教自体が身体的なこと、感性的なことを悪と見なして、精神的なこと、理念的なことを善と見なしているので、身体的なこと、感性的なことを避ける禁欲主義が当然の帰結として出てくる。

しかしニーチェの説明の仕方には、ひとつ凝ったところがある。単なる理屈ではなく、感性に訴えてくるところがある。一番目の「よいとわるい」に関して、「弱い者と強い者」の対比を持ってくる。すなわち、自分がこのように弱いのは強い者が悪いからだと逆転をするのである。結果は弱い自分の方がよいことになるという心理的な逆転である。その強い者に対する恨み、嫉妬、反感をよしとする。その感情をルサンチマンという。「憤慨、怒り、敵意、恨み」を訳される英語の resentment である。

この感情を抱えているのがキリスト教徒であるとニーチェはみる。「自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的は方向—これこそまさに反感(ルサンチマン)の本性である。」(道徳の系譜1-10)「反感を持った人間は、正直でもなければ無邪気でもなく、また自分自身に対する誠実さも率直さももたない。」(同)どこかで痛いところを突かれているような感じになる。

このことに裏打ちされて、二番目の「負い目」・「良心の疚しさ」が出てくる。すなわち、理念として善をどんなに説いても、そのために禁欲主義を唱えても、肉体を持ち、感性で動かされている人間として、現実に罪の意識、罪責感をより強く持つ。そこにルターに代表される、信じれば救われるという信仰義認が教理として前面に出てくる。ニーチェはそれに対して嫌悪感を持っている。そのように良心の疚しさを鼓舞して信仰を導くことに、西洋精神のいやらしさを観ている。「良心の疚しさは一つの病気である」(同2-19)ニーチェは、その病気の原因が神にあるとする。そこに神自らが犠牲になることで負い目を取り除いたとみている。

かくしてついにわれわれは、はしなくも、責め苛まれた人類がそれによって当座の慰安を見いだすようになったあの逆説的な、恐るべき方策の前に、キリスト教の天才的な詭策の前に立っていた。その詭策とはこうだ、——神自らが人間の負債のためにおのれを犠牲に供し給う、神みずからがおのれ自身に弁済をなし給う、神こそは人間自身の返済しえなくなったものを人間に代わって返済しうる唯一者であり給う、−−債権者みずからが債務者のために犠牲となる、それも愛からして(信じられることだろうか?−−)、おのれの債務者への愛からして!(同2-21)

その結果、この神に対して人間は限りなく負い目を負うことになる。それだけでなく、ニーチェは、「神に対する負い目、この思想は人間にとって拷問具となる」(同2-22)とまで言っている。そしてその拷問の至る所は、まさに三番目の禁欲主義的理想である。自分を苛みながら、理念の世界での観想生活を夢見ることになる。ギリシャ哲学のストア派の禁欲主義である。キリスト教に見られる禁欲主義である。それは生を否定することであり、キリスト教と西洋文明のニヒリズムでもある。

このことはしかし、振り返ってみるに、身近なこととして経験させられる。ひとつは私たちが耳にする説教や伝道メッセージである。私たちが如何にだめなものであるのかを強調して、神の恵みを説くやり方である。私たちの罪意識を駆り立てて、キリストの十字架による救いを説くやり方である。その背後にはニーチェが指摘するように、どこかでどうにもならない自分の方がよいのだという思いが動いている。それゆえに神が負い目を取り除いてくれるといういやらしい思いである。それに対してニーチェは嫌悪感を感じている。しかし2千年の教会にとって当たり前のことになっている。

さらに信仰を持って一生懸命にやっているのに実際には惨めな思いに苛まれていて、どこかで神に対しての怒りを積み重ねていることがある。表面的にはクリスチャンらしく寛容に振る舞っているが、思い通りに行かないで後悔と反感を内側に深く抱えている。ルサンチマンの感情である。そのようなクリスチャンの働き人の姿を結構身近に感じる。どこかで自分のことのように思わされる。ニーチェの批判するキリスト教が自分のうちに宿っている。

反キリストとは誰か

それでは誰が反キリストなのかという問いに対して、ニーチェは逆説的に、それでは誰が本当のキリスト者なのかということで、その意味でストレートに語っているところがある。

もとに話をかえして、私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。——すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解である。——根本においてただ一人のキリスト者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである。「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が生きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき福音」、禍音であった。「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしをみているとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである。(反キリスト39)

ただ一人のキリスト者が過去にいた。その人は十字架で死んだ。このニーチェの叫びに似た声明をどのように捉えるのが適切なのか、躊躇するところである。というのは、ある意味でのキリスト教の本来の姿をニーチェがどこかで思い描いているととれるからである。続く文章で次のように言っている。「今日そうした生は可能であり、ある種の人たちにとってはその上必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的なキリスト教は、いかなる時代にも可能であるだろう、、、信仰ではなくて、行為」(同)としてと、説明を加えている。

「真正のキリスト教、根源的なキリスト教」がまだ可能であると言うことで、ニーチェが描いているキリスト教がどのようなものなのか、それこそ興味の惹かれるところである。しかし、ニーチェはそれを提示するかわりに、そこから離れてしまった「悪しき福音」に対しての批判に思いが向けられている。しかもその離れていくことになった元凶に対して批判の矛先を向けている。その誰かが「反キリスト」なのである。

それは誰か。ニーチェによればパウロなのである。すなわち、先の引用にあるように、本来のものから反対のものになってという「キリストによる救済の信仰」を生み出したのがパウロなのである。私たちには当然のようになっている信仰義認に当たることを、ニーチェはパウロによって導き入れられた最大の不幸と見ている。当然ルターの信仰義認論にも関わってくる。

ニーチェは元々文献学者であった。当時の支配的なギリシャ哲学のストア派とエピキュロス派の二元論の中で、パウロ自身が作り上げたキリスト教にすり込んだ二元論を見抜いている。キリスト教をそのような二元論で置き換えていったパウロを「天才」と呼んでいる。それはあの「ダマスコの瞬間」であったと言う。「彼はそのとき、『この世』を無価値たらしめるには、不死の信仰を必要とするということを、『地獄』という概念がやはりローマを支配するにいたることをーー『彼岸』でもって生は殺されるということを、とらえたのである。」(同58)

ただ一人のキリスト者が生きた生き方が信仰の対象になったときに、それは信じるこちら側の魂の救済が目的になる。そこに霊肉二元論が侵入してくる。「生の重心が、生のうちにではなく、『彼岸』のうちに、——無のうちにーー置き換えられた」(同43)のである。「パウロはあの全存在の重心をこの生存の背後にあっさりと置き移した、——『復活した』イエスという虚言のうちへと。根本においてパウロは救世主の生を総じて利用することができなかった。」(同42)

「キリストによる救済の信仰」は、このように「彼岸」を目指している。霊魂の不滅を求めている。それはプラトニズムが求めているものでもある。そしてプラトニズムが求めていたものがキリスト教によって大衆化されたのである。ただ私の魂の救いが目的になる。「霊魂の救い」はニーチェ曰く、「世界は私を中心としてめぐる」ことを容認している。「キリスト教がこのうえなく徹底的にこれを蒔きちらしてしまった。」(同43)そこにルサンチマンの感情が当然出てくる。しかし女々しいのである

パウロによって神もねつ造されてしまった。ニーチェの宣告がある。「パウロの創造する神は、神の否定なり dues, qualem Paulus creavit, dei negatio。」(同47)反キリスト、それはパウロであり、パウロに始まるキリスト教である。それは紛れもなく2千年来のキリスト教である。

ニーチェのキリスト教批判を超えて

ニーチェが見ているキリスト教は、明らかに、プラトニズム化されたキリスト教である。
二元論を元にした世界観である。感性よりイデアの世界を、肉の世界より霊の世界を、より善なるものとする世界観である。感性、肉の世界を悪と見なしていくものである。そこに「魂の救済」が入り込んでくると当然、感性、肉の世界を離脱してイデアの世界、霊の世界への帰還が目標になる。プラトニズムでは、それは「知」を通してなされる。グノーシス主義である。

ニーチェはこの枠組みがキリスト教神学の骨子になっていると見ている。キリスト教の神はイデアの世界での神であり、キリスト教の救いはこの世からの離脱であり、天国志向である。しかし現実のキリスト者の生活はその理想の世界には届かないで、その合間にルサンチマンの感情、憤慨と恨みと憤りの感情が支配してくる。それは不健康であり、病気である。ニーチェはそのような神の死の宣告することで乗り越えようとした。

ニーチェが亡くなったのは世紀の境目の1900年である。ニーチェの預言のように、1900年代ヨーロッパはふたつの世界大戦、そしてホロコストを通して西洋の神の死を経験する。2千年来のキリスト教の没落である。ヨーロッパでの出来事である。アメリカは観念としては「神の死の神学」を生み出したが、経験的には世界大戦後は特に福音派の興隆をもたらした。そこから遣わされた宣教師たちによって日本の福音派の教会が成り立っている。ニーチェの西洋のキリスト教批判を理解するのを難しくしている。しかし、アメリカではない、やはりヨーロッパの聖書学者、神学者によって、日本の福音派にも、ニーチェに始まるキリスト教批判を受け止めつつもう一度聖書理解を捉え直す動きが少しずつ広まっている。

イギリスの現役の聖書学者であり、歴史家でもあるN.T.ライトが、この批判を受け止めつつ聖書全体をイスラエルの歴史の流れで捉え直している。Simply Christian (2006)であえてひとつの章を「イスラエル」に当てている。そのはじめでエルサレムのホロコスト博物館を訪ねたときのことが記されている。そのようなことがキリスト教文化といわれるヨーロッパで起こったことを真摯に受け止めている。N.T.ライトの作業はプラトニズム化されないキリスト教を提示することであると言える。

ニーチェのキリスト教批判は神学者に向けられている。理念・理想の世界を追求しているがそれは「傲慢という神学者本能」(反キリスト8)であって、「万事に対してゆがんでおり、不誠実」で「癒しがたい虚偽の姿」(同9)と言って憚らない。神学を試みているものとして全面的に否定できない現実である。論理を操り、詭弁を弄してしまうからである。

ニーチェのもうひとつの神学者に対する批判がある。「神学者のいま一つの標識は彼らの文献学への無能力である。」(同52)そのとおりとしか言えない。ニーチェは元来古典文献学者であった。N.T.ライトは歴史学者であり、文献学にも通じている。そのことを思うとライトが提示していることはニーチェの批判にも耐え得ることが分かる。

キリスト教の立場から書かれた英文のニーチェ研究がある。ひとつは北アイルランドの神学者 Stephen Williams の The Shadow of the Antichrist (2006) で、もうひとつはホイートン大学の哲学教授 Bruce Benson の Pious Nietzsche (2008) である。興味深いことにふたりとも、ニーチェのキリスト教批判に応えうる聖書学者としてN.T.ライトをあげている。注目に値する。

信仰義認が聖書の究極の目的でないとするライトの理解に関してアメリカの神学者から批判が出た。そのことであるインタビューにライトが応えている。信仰義認だけであればそれは me and my salvation だけを求めているだけで、神と神の計画を見ていないと言っている。ニーチェが「霊魂の救い」は「世界は私を中心としてめぐる」こと容認しているということに当てはまる。哲学と神学は自己義認の世界だからである。キリスト教が自己愛の信仰になってしまっている。

おわりに

自己愛のキリスト教信仰とは矛盾である。しかし現実である。その行き詰まりを経験している。また多くの人が、クリスチャンに対して、教会に対してその矛盾を見抜いている。そして、クリスチャンホームの二世が親の信仰から離れてしまう。

また、ホロコストを経験した西洋の教会は文字通り死んでしまった。どのように再生させるか、まさに死活問題である。それはキリスト教のことだけでなく、西洋文明そのものの死活問題でもある。

それゆえにニーチェが消えることなく顔を出してくる。「いまさらニーチェ」なのであるが、「いまだにニーチェ」である。「真正のキリスト教、根源的なキリスト教」とは、とんでもない問いをいただいている。

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「イチロー」2007年9月10日(月)

 イチローのメジャーリーグでの活躍には眼を見張るものがある。アメリカという国で生活し、格闘し、もがいている者としてイチローは魅力的な存在である。家のテレビは3つのチャンネルしか観ることができず、野球中継といっても地元のチームの放映が中心なので、イチローの試合を観ることはほとんどない。幸いオールスター戦で、外野のフェンスに直撃したボールが逸れた間に本塁まで駆け抜けた状景と、その後MVPの受賞のインタビューは聞くことができた。それで、インターメット上で紹介されるイチローの活躍と彼の語録のようなものをそれなりに気にしながら読んでいる。

 イチローが達成した記録には、2004年の年間最多安打のように、聞いたこともないような全く過去の選手との比較が出てくる。つい最近は7年連続200本安打の記録を達成している。今朝のインターネットでも昨日の試合で、年間「200本安打、100得点、30盗塁」を同じように7年連続で達成しているが、イチローだけだと言う。そのたびに随分古い記録との比較が出ている。

 イチローは攻守、走塁、どの面でも長けている。そのための大変な努力をいているのだと思う。メジャーリーグは年間162試合である。一試合一本のヒットでは年間200本にはならない。途中で怪我をしたら終わりである。ヒットのない試合もある。しかも最大3時間の時差のあるアメリカ大陸を横断しながら、その上引き分け試合がないという、長丁場を耐えなければならない。体力のあるアメリカ人選手でも疲労困憊する。

 どこかのインタビューの記事で、試合中でも力を抜いているようなことを言っている。いつも力を入れていたら疲れてしまう。力を抜いて風の流れれに身を任せて、浮いていることで体力の消耗を避けている。同時に力を入れるときには最大限出せるようにしている。確かにバッターボックスでもすんなりと立っていて、特別構えているようでもない。ほとんどのバッターが身構えているのでよく分かる。またイチローはどう見ても走りながら打っているように見える。打った瞬間に右バッターより3,4歩ほど先にいる感じである。

 ディゲームでセンターに上がったフライを、捕球の姿勢を見せていながら、ボールはその向こうに落ちた状景を覚えている。インターネットの記事で、フライが太陽の中に入ってしまって見えなくなったのを、あたかもとれるような姿勢を取って2塁か3塁の走者を釘付けにするためだったと言っている。最近2塁に盗塁して、これは間に合わないと分かって、ベースの前で立ち上がって、2塁手ヤンキースのジーターのタッチを避けたが、審判がそれを見ていなくてアウトにされた記事を、想像しながら読んだ。

 誰もがよい成績を残そうと大変な努力をしている。しかも力があり、体力がある。アメリカ人とペンキ塗りの仕事をしたことがあるのでよく分かる。野球という一大ゲームの可能性を誰もが最大限に延ばそうとしている。バリー・ボンズはホームラン記録を塗り替えた。日本人選手も頑張っている。メジャーリーグは今までになくエキサイトしている。

 イチローは、そんな可能性が最大限に追求されているなかで、それを乗り越えるだけの能力を備えているのと同時に、考えられる可能性だけでは見えない、何か野球というゲームのなかでそれでもなお見落とされている面を、瞬間的にか直感的にか感じ取って、その隙までプレーをしているようなところがある。そのように思えて仕方がない。ただ頑張って頑張って乗り越えようとしているのであれば、息切れしてしまう。息を抜きながら、もうこれ以上可能性がないと思われるメジャーの試合のなかで、どこかに見落とされている面を見抜いている。今までに見たこともないようなプレーに観客が興奮している。

 イチローは曲芸師でも、忍者でもはない。野球の本道を身に着け、その中心を歩んでいる。その可能性を最大限に探っている。同時に野球の大筋から外れたというか、見落とされているというか、隠れているというか、考えられないというか、ともかく窮め尽くしてもなお見えない可能性を、多分直感的に感じ取っている。それに瞬間的に、本能的に体がついている。その結果、メジャーリーグに大きなズレを引き起こしている。今までにない揺れを起こしている。新鮮なエキサイトを引き起こしている。

 神学はメジャーリーグよりもはるかに古い2千年の歴史がある。学問として神学に関わった人の数は抜きんでている。提示された神学も数え切れない。学としての神学の可能性を今でも追求している。体系として整っている。何も新たに付け加えることのないほどである。聖書としてのテキストがあり、神学としての枠組みがあり、体系がある。誰もが2千年の神学の歴史の重みのなかで生きている。福音派は福音主義という神学の枠を持っている。その枠は抜き差しならないほどしっかりとしている。

 神学に歴史があり、枠組みがしっかりしていればいるほど、それ以上の隙間やズレはもはやなさそうである。しかしそれは同時に、生きた神を、また御霊の流れを固定化して、停滞を招いている。身動きがとれず、息苦しくなっている。魅力もなくなってきている。という神学の現状がありながら、聖書には生き生きとした息吹があり、引き込まれる流れがあり、眼を見張る魅力さがある。それに生かされている。同時に、神学によって閉じこめられている。  

 限られたなかで神学をしてきて、しっかりと築き上げられている神学に、どこかにズレがあり、隙間があり、見落としているものがあり、隠れているものがあるのではないかと思わされている。そこに触れることができ、捉えることができたら、神学の全体がずれてきて、見落とされたものが見えてくるのかも知れない。それ以上ないと思われる神学のズレや隙間を捉えることができたら、今まで見えなかった聖書の世界に入ることができるのかも知れない。そんな感覚をいただいている。

上沼昌雄記

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神学モノローグ
「イチローと村上春樹」2010年9月24日(金)

 しばらく前は、今年のイチローは200本安打が大丈夫かというような記事をネットで読んでいた。確かに一時大夫停滞していたのを覚えている。イチローも衰えが出てきたのだろうかとも思った。しかし9月に入っていつものような量産が始まってあれよという間に、昨日見事に10年連続200本安打を達成した。昨日は家にいてハイスピードのネットがないので観られなかったが、いま事務所に来て大リーグのウエブでビデオを観ることができた。昨年は9月の初めに、9年連続の新記録をテキサスの球場で、しかも夜更けに達成したのを覚えている。今回は快晴のもとトロントでのことであった。それにまつわる記事とインタビューも読むことができた。

 すでに69歳になっているピート・ローズと比較されている。40年近く前にシカゴ郊外で学びを始めたときに、妻の友人たちからピート・ローズのことを聞いていた。そののち監督時代に野球賭博に関わって球界を追われる身になったのだと思う。それでも彼の記録は超えがたいものと残っている。それを「超えてあげたい」とまでイチローは言う。そんなことを言えるイチローの、強さではなく、柔軟性に思いを馳せている。強さでは勝てないし、強さだけではここまで来ることはできなかった。強さをすり抜けるというか、力と力の間の隙間をすり抜けるような柔らかさが彼にはある。

 三塁手が突っ立っていると思ったらその前にバンドをして、悠々一塁に走り抜ける。どんな強肩な捕手でも年で衰えてきたと思ったら、遠慮なしに二塁でも三塁でも滑り込んでしまう。ヘンス際のボールであればよじ登ってホームランを阻止してしまう。レーザービームと呼ばれた外野から三塁手へのボールはランナーの手前しっかりと届いてしまう。いままでにない、そして忘れられない場面の数々を提供してくれている。

 村上春樹の『1Q84』のブック3を、イチローの今回の快挙の前に、何度目になるのか明確ではないが読み出した。そして、昨晩読み終えることができた。1Q84という時代というか世界の設定、そこでのふたつの月、マザとドウタ、レシヴェとパシヴァ、20年にわたるロマンス、学園闘争と新興宗教、そんなおかしな設定がなされていながら、自分のなかのどこかで置き忘れてきた古い荷物をもう一度開けられるような感覚を覚える。読む度にその感覚が深くなる。月がふたつだとか、1Q84のおかしな世界が、架空のものでなく、自分のなかのどこかで置き忘れてきて、思い起こさせられるものとなるのである。

 神学書を読み、コメンタリーを読み、哲学書を読み、また自分なりに小説を読んでいるが、多くの場合に正面から語られている感じがある。これが問題でだからこうしたらよいというテキスト的というか、回答提供型のものが多い。当然それなりに意味があるが、物足りなさが残る。自分のなかの触れられていない面がいつまでも、水の下に留まっている濁りかすのように心の隅に残っている。

 村上春樹が書くものはその正面の課題をすり抜けているところがある。何を村上春樹は言いたいのかと問われると、そんな問いを上手にすり抜けて、いつの間にか背後に回っていて、問いをかけた人も気づかない意識の背後を揺さ振るのである。『1Q84』のブックレビューに、こんなのは小説でないという酷評がある。そうも取れるのだろうと素人ながら思う。それありながら、日本語の限界をあっさりすり抜けて、世界中で読まれてしまう。

 イチローの今回の200本安打が二遊間をきれいに抜けていくのを何度も観ながら、村上春樹の文章が私のなかの二遊間の守りをきれいに抜けて、自分でもまだ分からない意識の背後にボールが転がっていているような感じがしている。そんなことができるふたりのしなやかさに恐れ入っている。そのためにこのふたりが怠りなく自分の可能性の限界を伸ばそうとしている努力には驚異すら感じる。

 同じバッターフォームでは10年も毎年200本安打は打てないことをイチローは知り尽くしている。『ノールウエイの森』でも『世界の終わりとハードボイルで・ワンダーランド』にしても、それと同じスタイルでは、自分がいずれ死んでしまうことを村上春樹は知っている。このふたりのしなやかさは、信仰の新しさをいただいているものが当然身に着けていないといけないのだが、どうも自分のなかで逆になっている。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
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「レヴィナスと『1Q84』」2014年3月6日(木)

レヴィナスと村上春樹の『1Q84』が結びつくことに気づいて、自分のなかで納得するものがある。結びつきそうもないふたりであり、当然ユダヤ人哲学者でタルムードの学者であるレヴィナスと小説家である村上春樹では、その表現方法は全く違うのであるが、どこかで似たような考えをしていて、それにこちらが共鳴しているのかも知れない。

レヴィナスにディアクロニー(diachronie)という考えがある。「隔時性」と訳されているが、訳さないでそのまま使っている人もいる。その対語がシンクロニー・共時性である。シンクロナイズ・スイミングを思い描いていただくと分かる。同じ動きを同時に行うのがシンクロニーである。それは統一が取れていて美しい。ディアクロニーはそれに反して断絶している時間のことである。時間の不連続性である。統一もなく、美しいわけでもない。

これはレヴィナスの「同」と「他」、自己と他者の対比に繋がる。すなわち、シンクロニーは自己のうちにすべてを包摂して同一性、全体性を求めるものであるが、ディアクロニーは他者によって自己が打ち砕かれて、無限が広がっていくことである。意識の連続と意識の非連続でもある。すなわち、ディアクロニーでは想像したこともないことが時間に関わってくる。記憶にもないことがよみがえってくる。意識の断絶である。

そもそもレヴィナスは、ギリシャ的な天と地という二元的な世界観ではなくて、ユダヤ人としての時間の流れで世界を捉え直そうとしていることが分かる。それで意識の断絶といっても、空間的な意味で超越的な世界を考えているのではなくて、時間の流れの中で断絶した不連続性を見ようとしている。しかしそのような思考が可能なのかとなると、まさにここにレヴィナスの他者の意味がでてくる。他者の顔が意識の流れを断絶して、「殺してはならない」と叫ぶからです。あるいは他者の困惑した顔が思いがけない世界に私たちを導くからである。

そのようなディアクロニー・隔時性が身近なかたちでどのように現れるのかと考えていたときに、村上春樹の『1Q84』がまさにそれではないかと気づいた。1984年に、主人公のひとりである青豆が高速道路からはしごで下りていったのが、1Q84の世界である。その世界に入っていったのであるが、むしろその世界が現実の1984年にどこからか入ってきて、ことを起こし、意味をもたらし、もうひとりの主人公の天吾とともに、忘れられた世界に引き戻されるのである。

1Q84では青豆はカルト集団のリーダーを殺すことになり、天吾は17歳のふかえりという少女の『空気さなぎ』という小説の書き直しをする。そこにはリトルピープルが登場し、月がふたつ出てくる。意識のどこかが切り替えられて断絶した世界がふたりを動かしていく。当然思いがけないことが展開する。それでいてそのすべてが連動していて結びついてくる。ふたりがもう一度結ばれる愛の物語である。

『1Q84』の読者は、そこで展開されていることに、こんなことは起こるはずがないと思うより、一見不思議と思えることが自分の心のどこかに触れてきて、意識は断絶されていながら、それでも納得しながら読んでいるのではないかと思う。レヴィナスの哲学書は難解であるが、他者とか他者の顔とか、沈黙の響きとか、意識の不連続性とかが出てくると、心のどこかに届いてくるものがある。納得するものがある。

村上春樹は小説を書くのは、「目覚めたままで夢を見るようなもの」という。確かに『1Q84』でも他の小説でもその通りであるが、良くここまで書けるものと驚く。実はレヴィナスも意識の断絶した世界を「目覚めた夢」と言っている。目覚めていながら意識が断絶して別の世界が展開することを認めているというか、そのよう世界がどこかに開かれていることに気づかせてくれる。単なる神秘的な世界ではない。なぜなら、そこでは他者の顔が現れて「殺してはならない」と叫んでいるからである。そこにレヴィナスは倫理の始まりを見ている。

ユダヤ人哲学者としてその倫理はモーセの律法を前提にしている。その繋がりで、ディアクロニー・隔時性としての時間の断絶性において神を捉えようとしている。基本的に西洋の神はシンクロナイズされた「同」の世界に中に閉じ込められていると見ているからである。「同」の世界で概念化され、体系化された意味での絶対者としてみているからである。体系化もされないで、意識にも上らないでなお神を語ることをレヴィナスは試みている。神の語りは意識の外から届いてくるものだからである。

神の民の物語がどれだけ不可解であっても、それはなお神の物語でもあるからである。ホロコストを経験したレヴィナスは神と世界をそのように見ている。断絶した時間、それは聖書の物語の世界でもある。

上沼昌雄記

「映画『SHOAH』を観て、、、」2013年4月1 日(月)

 先週は、受難週に合わせて、ホロコストの記録映画 
『SHOAH』を妻と観た。1976年から81年まで世界 
中を駆けめぐって収録した、ホロコストの生還者と関係者の9 
時間半に及ぶ証言集である。1985年に上映されて世界中に衝 
撃を与えた。日本語の字幕つきで1995年に日本に紹介され 
た。その日本語の字幕のDVDは中古で高価なものになってい 
る。幸い英語の字幕のDVDを手に入れることができた。証言集 
が本にもなっていて、2年ほど前に西荻窪の古本屋で手に入れ 
て読んだ。2011年2月28日付のウイークリー瞑想 
「SHOAH ショアー」で書いた。

 語られていることは本と同じであるが、強制収容所の跡地に佇んで、35 
年前に経験したことを語り出す場面は、それだけで緊張させられ 
る。ポーランドの北にあったヘウムノ収容所で初めてガスによる大 
量虐殺がなされ、そこで40万のユダヤ人がいのちを失った。 
その同じ仲間をガス室に送るためにユダヤ人労働者が使われた。そ 
の役割が終わればその労働者たちも殺されていった。ホロコストの 
記録と記憶をこの地から抹殺することがナチスの目的であった。

 13歳であったユダヤ人労働者が、そのように役割が終わっ 
て頭に銃を受けたが、かすかにそれて一命を取り留めて助かった。 
制作者クロード・ランズマンはその人をイスラエルで探し出し、そ 
のヘウムノ収容所の跡地に連れてきた。9時間半に及ぶ証言集 
の始まりである。静かな田舎の風景である。何事もなかったように 
静寂そのものである。そのままであれば、まさにナチスが意図した 
とおりに、ホロコストは記憶にも残らなかった。しかし今、その虐 
殺された40万の二人の生き残りのひとりが、その場に立って 
いる。そして信じられないかのように35年前のその場で起 
こったことを、ぼそぼそと語り出す。

 語っても誰も信じてくれない。その苦悩にさいなまされて詩人パ 
ウル・シェランは自ら命を絶った。語っても誰にも信じてもらえな 
い。それだけでなく、そもそも語ることができるのか。記憶の底に 
ひそかに沈潜しているものを引き出すことができるのか。それが出 
てきたときに信じてもらえるのか。それこそクロード・ランズマン 
の挑戦であった。記憶の底でそのまま消えて行ってしまったら、そ 
れはまさにナチスの願うことであった。ホロコストの記録の抹消だ 
けでなく、記憶そのものの抹消であった。今その記憶の抹消に立ち 
向かっている。ただクロード・ランズマンの信念と粘り強さである。

 それは「最終的解決」と呼ばれていた。ユダヤ人への差別と迫害 
は、初代教会から歴史上繰り返されてきた。強制移住されられて、 
世界中に離散の民となった。残念であるが教会が加担してきた。逃 
げ出せないユダヤ人はかたちだけカトリックに改宗した。その人た 
ちを異端審問に掛け、火炙りにもしてきた。ナチスの「最終的解 
決」は、しかし、この地からユダヤ人を絶滅して、あたかも彼らが 
いなかったかのようにすることであった。その記憶さえ抹消するこ 
とであった。それは組織的で、徹底的なものであった。

 強制労働に連れて行くと言って、貨車に詰め込み、水も食べ物も 
与えないでポーランドの南のアウシュヴィッツに連れてくる。労働 
の前に衛生のためにと偽って全員裸にして、ガス室に送り込む。そ 
の繰り返しでありながら、ナチスの言葉を信じて、送り込まれてい 
く。床屋として女性の髪を切っていたユダヤ人労働者の証言。それ 
まで明るく元気に証言してきた彼が、息を飲んで語れなくなる。同 
じ床屋の友人の奥さんとお嬢さんがガス室に送り込まれてきた。そ 
の友人はどうすることもできない。ただ奥さんとお嬢さんと少しで 
も長くいたい。長い沈黙の後にようやくこれだけを語ることができた。

 シャワーを浴びると信じてガス室に送られた彼らに、赤十字の 
マークを付けた偽装衛生兵が戸を固く閉じて、ガスを送り込む。致 
死に至るのに10分か、15分かかると別の証言者が言 
う。妻は驚愕する。その間の断末魔の苦しみを、戸を開けることで 
知る。そして硬直した死体を焼却炉で焼いて煙にして痕跡を残さな 
い。ある時に同じ村の出身者たちがガス室に連れてこられ、何もか 
も分からなくなったこのユダヤ人労働者が、自分も彼らと一緒に死 
のうと決心をする。しかしひとりの女性から生き残って証人となら 
ないといけないと言われる。それまでしっかりと語ってきた彼が崩 
れ落ちる。

 収容所の近くで農業をしていた住民のたわいのない証言、収容所 
まで当時の機関車を当時の機関手が運転していく場面、大量虐殺の 
事実を淡々と語る元ナチスの高官たち、ホロコスト研究家の怒りを 
込めた語り、アウシュヴィッツから脱走したかつてのユダヤ人労働 
者のやるせない証言、ワルシャワ・ゲットーの事実を世界に伝えた 
元亡命ポーランド政府の密使であった大学教授の悲哀の証言。9 
時間半は、ただそれらの証言を結び合わせながら記憶を呼び起こし 
ていく。それでありながら、生還者と関係者の記憶の底に留まって 
いたものが、そのまま引き出されて、どうすることもできないで画 
面に留まってくる。何の音楽もない。あの絶滅収容所に向かう機関 
車の音だけである。

 それに意味を加えることも、解説をすることもしていない。記憶 
の底にあったものが生のままで引き出されただけである。しかしそ 
の生のものが、息吹を吹きかけるように、そのままこちらの記憶に 
もじわじわと染み込んでくる。あたかも自分もその記憶の一部であ 
るかのような感覚になる。記憶は時間を超えて過去に至り、過去が 
時間を超えて現在に届いてくる。自分もその歴史の一部であること 
を知る。

上沼昌雄記

「キリストが律法を終わらせられた?」2013年3月 21日(木)

 「キリストが律法を終わらせられた」というのは、ローマ書10章 
4節の新改訳聖書の表現である。そして脚注に、別訳として「律法の 
目標であり」と明記している。新共同訳聖書では、新改訳で別訳と 
しているところをそのまま取っていて、「キリストは律法の目標で 
あります」としている。ギリシャ語のtelosには、「終わり」 
「目的」「目標」という意味がある。映画の最後のThe Endを 
思い浮かべると分かりやすい。すなわち、ストーリーの「終わり」 
であって、実はその初めの「目的」が果たされたという意味である。

 英語訳聖書では、NIVも、NKJVも、NRSVも、Christ 
is the end of the lawと訳している。新改訳のような動詞形は使わ 
れてなく、原典の表現に近いものである。そして英語圏の人たちがthe 
end of the lawと読んだとき、「律法の終わり」と「律法の目標」 
の両面を取り入れて読んでいる。新改訳では、「キリストは律法の 
終わり」では表現として成り立たないと思って「律法を終わらせら 
れた」としたとも解することができる。

 その通りで、そのままでよいとも言えそうなのであるが、チェー 
ン式聖書で、その「キリストが律法を終わらせられた」という日本 
語の意味だけを注解して載せている。別訳の意味には触れていな 
い。「キリストの出現で、律法による古い秩序は終わりを告げ 
た。」これが「キリストは律法の終わり」という意味合いであると 
すると、ローマ書理解というか、聖書全体の理解を異なった方向に 
引き込むことになる。

 ローマ書は、キリストによって律法がどのように成就したのか 
を、パウロが苦闘しながら書いている書である。当然モーセの律法 
だけでなく、旧約聖書全体がキリスト・メシアを通して成就してい 
ることで、そのメシアを信じることで、異邦人もユダヤ人も義とさ 
れることを何とか伝えたいと思って、書いている。この10章 
でも、その後に申命記30章からの引用が続いている。特に 
8節の「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなた 
の心にある」は、申命記の30章ですでに約束されている心の 
割礼の成就とみている(30:14)。まさにキリストに 
よるトーラーの成就である。その意味で端的に、「キリストは律法 
の目標」である。

 NKJVのStudy Bibleでは、まさにこのend(終 
わり)にはfulfillment(成就)とgoal(目標)の意味 
があって、それがもたらす意味合いを解説している。新改訳の 
チェーン式聖書でも、別訳で「キリストは律法の目標」を明記して 
いるので、その点を解説していくと、ローマ書の全体が浮かび上 
がってくる。パウロの苦闘が伝わってくる。

 とは言っても、「キリストが律法を終わらせられた」と読んで 
も、チェーン式聖書での解説を読んでも、それに関して何の疑問も 
持たないで今まできているのも事実である。キリストは律法を終わ 
らせたので、律法と律法に関わることは過去に起こったことで、新 
約聖書のバックグランドとして意味をもっていても、そのバックグ 
ランドの目的がキリストによって成就したと結びつける作業は放棄 
してきた。放棄しても、クリスチャンとしてやっていけるし、神学 
も考えることができる。旧約は新約に置き換えられたという神学で 
ある。置換神学である。ディスペンセーション神学である。

 神学で留まっていれば無害のように思えるが、人類史上では、キ 
リストが終わらせた向こうにあるものを敵外視していくことにな 
り、キリスト教会2千年の歴史の背後に見え隠れする反ユダヤ 
主義を生むことになった。残念ながら、ルターもその一端を担うこ 
とになってしまった。

 旧約聖書の大きな流れには、その場面ごとに起こっていることに 
しっかりとした結びつきがあって、新約聖書に流れている。その場 
面ごとの神の民の歩みを、神は確かに受け止めていて、そのひとつ 
ひとつがメシアのうちに不思議に成就していく道筋を、時には地下 
水の流れのように導いている。その流れを辿って遡っていくと、メ 
シアのうちにあることが神の物語として初めから息づいていること 
が分かる。抽象的な神学概念を打ち破る息づかいである。そして新 
約聖書の流れは、ここで留まっていないで、創造の再創造、あるい 
は、新しい創造に向かって、しっかりと流れていることに気づく。

 イエスの王としてのエルサレム入場、そして受難、さらに復活を 
覚えるときに、大きな流れがひとつに集まってきて、さらにその先 
に向かって流れる神の物語に組み込まれていることに気づく。律法 
の目標であるキリストが、さらに大きな流れの最終目的地に向かっ 
ていることが分かる。神の大きな目標に向かって、キリストがその 
さきがけのように、ことは流れている。その流れに責任を持って組 
み込まれている。

上沼昌雄記

「ヴィトゲンシュタイン、再び」2013年2月27日 (水)

 「語ることのできないものごとついては、人は沈黙しなくてはな 
らない。」これは1921年に出たヴィトゲンシュタインの『論 
理哲学論考』の結論である。7つの命題集からなっている最後の7 
つめの結論である。その前の6つはそれぞれ説明が細部にわ 
たってなされているが、この7つめの命題はこの一つのセンテ 
ンスで終わっている。この世界には意味を見いだすことができな 
い。残されたのはただ「沈黙」である。ヴィトゲンシュタインは、 
その結論に従って、大学を去り小学校の先生になった。後にまたケ 
ンブリッジ大学に戻ってくる。

 この1920年代は、ヨーロッパで第一次世界大戦が終わっ 
て、前世紀までの啓蒙主義の終焉のなかで、新しい思想を模索した 
時代である。ハイデガー、サルトル、バルト、ブルトマン、それぞれ20 
世紀の思想を方向付ける著作を出している。それでもその時代的な 
動きのなかでの思想の方向付けなのであるが、ヴィトゲンシュタイ 
ンの『論理哲学論考』はそのような動きからは飛び抜けて、いまだ 
に消え失せない威光を放っている。啓蒙思想を基にした西欧の論理 
と意味の世界を「沈黙」をもって裁断したのである。

 この「沈黙」に対して、神はなお語っていると言って、1960 
年代、70年代に若い人の心を惹きつけたのがフランシス・ 
シェーファーである。『そこに存在する神』(The God Who Is 
There)が1968年で、『神の沈黙?』(He Is There and He Is Not 
Silent)が1972年に出ている。実存思想に影響されて放浪を始 
めたクリスチャン2世を、あのスイスの山のなかで、もう一度 
神の存在に目を向けさせた。『神の沈黙?』で、ヴィトゲンシュタ 
インの哲学の結論に対して、神は沈黙していないと提示した。

 そのインパクトは今でも私のなかに残っている。神は確かに語っ 
ている。沈黙はしていない。その意味でのシェーファーの功績とい 
うか、その向こうにあるまさにヴィトゲンシュタインの意味づけ 
(世界には意味がないと言ったヴィトゲンシュタインの意味)には 
注目してきた。しかし同時に、クリスチャンとしてはシェーファー 
のような取り上げ方しかできないのだろうとも思っていた。そんな 
思いに反して、N.T.ライトの注目作 Surprised by Hope 
で再度ヴィトゲンシュタインに出合うことになった。何とも驚きである。

 Surprised by Hopeは、クリスチャンは死んだら天国に行 
く、信仰を持って死んだら天国に行く、というクリスチャンの提言 
の背後にあるギリシャ哲学の影響、当然プラトン哲学とグノーシス 
主義の影響に対して、キリストの死者からの復活によって開かれた 
神の「新しい創造」の希望を展開している。その意味ではプラトン 
哲学がこの本の背景になっている。そのなかでヴィトゲンシュタイ 
ンのことが、忘れ去られた威光のように、何度も顔を出してくる。 
最初から最後まで顔を出している。

 なんと言ってもヴィトゲンシュタインはユダヤ人である。どこか 
でカトリックの信仰にも関わっていたようである。世界には意味を 
見いだせないとはっきりと言っているが、宗教と聖書のことはユダ 
ヤ人特有な格言集のように語っている。旧約聖書は頭が付いていな 
い胴体のようなもので、新約聖書がその頭だというようなことを 
言っていると、N.T.ライトが楽しそうに引用している。復活 
を信じられるのは愛だとも言っているという。一世紀のユダヤ教を 
基に聖書全体を読み直そうとしているN.T.ライトには、ヴィ 
トゲンシュタインの哲学は、シェーファーには見えなかった光を 
放っているようである。

 そうすると先のヴィトゲンシュタインの「沈黙」も意味づけが異 
なってくる。『論理哲学論考』が7つの命題集からなっている 
が、その最初の命題が「世界は成立するものごとの総体である。」 
そして最後が「語ることのできないものごとについては、人は沈黙 
しなければならない。」N.T.ライトはその7つの命題の 
世界が、創造の7の日間に対応するかのように読んでいる。 
「世界の総体」とは創造の初めであり、「沈黙」は安息に入った神 
の沈黙のようにみる。当然ヴィトゲンシュタインは、神を抜きにし 
た世界の有り様をそのまま語っている。その最後は、沈黙以外にな 
い。その世界を創造主である神の目から見たときに、それは神の安 
息となる。

 そしてN.T.ライトの結論は、この沈黙の後の世界を語るこ 
とができることが私たちの「希望」とみる。キリストの復活のゆえ 
に新しい創造が始まった。単に死んだらば天国に行くということで 
は終わらない。新しい創造の世界での務めが委ねられている。ヨハ 
ネ福音書20章と21章の復活の後の世界である。その世 
界を語りうるクリスチャン哲学者の到来をも期待している。

 N.T.ライトの読み方がヴィトゲンシュタイン理解にあって 
いるのか判断できない。同時にキリスト者しか読めない哲学の世界 
もあることが分かる。大村晴雄先生も、専門であるヘーゲルの『論 
理学』の論理・ロギークをあのヤコブ・ベーメをとおして、ヨハネ 
福音書の冒頭の「ことば・ロゴス」の学と読んでいく。哲学の世界 
をキリスト者の目で見ていくことを可能にしている。

 Surprised by Hopeでキリストの復活による「希望」の豊か 
さに驚かされるが、同時にヴィットゲンシュタインの登場にも驚か 
される。その取り扱いと意味づけは、何かを刺激して止まないよう 
である。

上沼昌雄記

「イエス・キリストのピスティスによる」2013年2月 20日(水)

 「イエス・キリストのピスティスによる」という表現は、「イエ 
ス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されているローマ書 
3章22節の文字通りの訳である。ピスティスは「信仰」とも 
「真実」とも訳されるので、さらに文字通りには「イエス・キリス 
トの信仰による」か「イエス・キリストの真実による」になる。英 
語訳に関しては、NIVもRSVもNRSVも、through faith 
in Jesus Christと日本語訳と同じである。しかし興味深いの 
は、KJではby faith of Jesus Christとなっている。 
ただし、NKJではまたthrough faith in Jesus Christ 
としている。

 伝統的には日本語訳のように「イエス・キリスト信じる信仰」と 
言うことで、信じるこちら側の信仰のことを問題にしている。すな 
わち、キリスト信じるこちら側の信仰で神の義が現されたか、神か 
らの義が私たちに付与されたと理解した。そして、そのようにとっ 
てきたし、さらに、それに基づいて説教をし、説教を聞いてきた。 
ともかく、こちら側の信仰のあり方が大切になってきた。その結 
果、自分の信仰を絶えず吟味することが信仰者の歩みになってき 
た。時にはそれは神経衰弱的な意味合いをもって、絶えず信仰の有 
り様を正し、自分を叱責することにまでなっている。当然他者の信 
仰をも批判することになる。福音的、聖書的という名のもとに。

 しかし、KJがとっているように、神の義は文字通りの意味 
合いで「イエス・キリストの信仰・真実」によって現されたという 
理解が、その時間的な流れは明確に把握していないが、この数十年 
の間で徐々にではあるが、確実に広がってきている。自分なりにキ 
リスト論を学んでくるなかで、その主張が折々になされてきたこと 
を思い出す。そしてこの顕著な理解が、前回取り上げて2002年の 
The New Interpreter's Bibleのローマ書注解でなされている。

 NIVとNRSVを併記しているこの注解書では、それぞれ 
この箇所をthrough faith in Jesus Christと今までどおりの 
訳をとっていることが分かる。違いはNRSVではフットノート 
で、through faith of Jesus Christを置いていることであ 
る。そして注解者であるN.T.ライトはこの理解を展開してい 
る。「イエス・キリストの信仰・真実」によって初めて明らかにさ 
れた神の義であって、それはまさにその次に「すべて信じる人に与 
えられ、何の差別もありません」とスムーズに続くのである。神の 
義は、第一義的に神のことで、それを御子であるキリストの信仰・ 
真実のゆえに、神ご自身がよしとされたのである。こちらの信仰の 
ことではない。信仰はただその神の義を信じることである。何か決 
定的な違いがそこにあることが分かる。

 この理解が明確になる前の1984年に、かつて KGKで 
も交わりをいただき、大村晴雄先生のゼミで一緒にさせていただい 
た清水哲郎氏が雑誌『途上』で、「イエスの信」というテーマで、 
同じ趣旨の議論を展開している。氏は哲学的言語分析としてまさに 
イエスの信仰・真実ととることがローマ書理解にかなっていると言 
う。聖書学や神学的理解でなくて、あえて哲学的ということで、言 
語理解として「イエスの信」ととるべきだと主張している。当時こ 
の論文を読んだときの衝撃を覚えている。聖書学者がようやく言い 
出したことを哲学の作業として言い出していたのである。氏のこれ 
とそれに続く論文集が2001年に『パウロの言語哲学』として 
岩波書店から出ている。

 「イエス・キリストの信仰・真実による神の義」、それはKJ 
で理解されていたものがようやく戻ってきたと取れるのであろうか。NIV 
はその後2005年と2011年に改訂版で、NRSVと同 
じようにフットノートでthrough faithfulness of Jesus Christ 
と取り入れてきた。しかもNRSVのフットノートよりさらに進めて 
faithfulnessとまで言っている。まさに、ピリピ書2:6-11 
で表現されているキリストの真実さである。フットノートであって 
もこのように取り入れてきたことは、先の注解者が主張してきたこ 
とを認めたことになる。この理解はここだけでは留まらないで、そ 
れに関わる箇所にも及んでいる。NIVもその改訂の説明文で認 
めていることである。

 そうするとこことでも、これからの日本語訳聖書でどうなるのか 
という課題になる。「イエスの信仰」、faith of Jesusのこ 
の「の」、英語の of を、イエスを主体にとるのか、今まで 
どおりにイエスを信仰の対象とるのかの、翻訳上の何ともわずかな 
違いであるが、その意味づけは決定的に違ってくる。イエスを信仰 
の対象のようにとってきた今までの信仰理解、ともかく自分の信仰 
状態だけが主眼になるようなクリスチャンとしてのあり方の行き詰 
まりを感じてきているなかで、イエスを主体ととることで、イエス 
の真実さにならう者としてのクリスチャンのあり方が見直されてき 
ていることになる。イエスの真実さをよしとする神の視点に生きる 
ことである。

 この神の視点は、まさに「神の真実」(3:3)のこ 
とであり、それがローマ書全体を貫いているテーマでもある。ユダ 
ヤ人の不真実がありながら、なお神の真実を貫く神の愛である。そ 
れを実行した「イエス・キリストの真実」のゆえに現された神の義 
である。自分の信仰のみに捉えられていたら見ることのできない神 
の真実の物語である。今までの翻訳が見逃してきたことである。よ 
うやく視点が文字通りに神に向いてきたかのようである。神の視点 
で生きる視座がようやく見えてきたかのようである。

上沼昌雄記