「神の義と憐れみと」2017年1月19日(木)

昨年の暮れ近くにしばらくぶりに山の教会に戻ってきました。週報に知り合いの青年のことが祈祷課題になっていて、God’s justice and mercyと書かれていました。教会の会計をしている姉妹もこの青年のことを知っているので伺ったところ、飲食運転で傷害事故を起こして拘留中であると言うことでした。15年ほど前にも同じようなことを起こしてその時は3年間服役したと言うことでした。

この青年は私たちの息子とこの町の中学の時の同窓生でもあったので気になっていました。数年前から私たちの教会に来るようになって折々に話し合ってきました。どのような仕事をしているのかよく分からなかったのですが、その時点では免停状態からようやく解放されて、仕事も見つけて何とか自立しようともがいていることが分かりました。会計の姉妹も妻のルイーズも、彼がヒッチハイクをしていたので乗せて上げたことがあると互いに話していました。

昨年の夏頃にはガールフレンドに女の児が生まれたといって喜んでいました。トラックも手に入れて、これから自立して生活を築いていくものと期待をしていたところでした。そのようなときに飲食運転で事故を起こし何人かの人に怪我を負わせてしまいました。気だての良い青年なのですが弱さを抱えています。細かいことは分からないのですが、生まれてすぐに父親から捨てられて、お母さんと小さなトレーラーハウスのようなところで育ったようです。お婆さんの世話を最後までし、彼の腕の中で息を引き取ったと言うことです。それほどの優しい心を持っていますが、アルコールや薬物に手を出してしまう弱さを抱えています。

本人から牧師に書いた手紙を読んで、再生への思いも強くあることが分かり、刑の軽減の嘆願書をルイーズは公選弁護人に書きました。公聴会があると分かり郡の裁判所に出向いたのですが、時間の設定がうまく行かないでミスをしてしまいました。しかし公選弁護人と連絡が取れて、ルイーズの手紙も届いていることが分かりました。この2月7日に判決が出てくるようですが、再生のためにどこかの施設に預けられる可能性もありそうです。

ルイーズが彼に公聴会へ出向いたがミスしたことを手紙で書いたところ、本人から返事をいただきました。立ち直りたい思いがしっかりと書かれていました。与えられた女の児の父親として再生したいとはっきりと言っています。私たちも毎晩彼のために祈っています。教会も彼のために祈っています。先週の礼拝の時にはルイーズが経過報告をしました。刑期を終えて出てきたときに教会全体が彼のために応援していくものと思います。そのためにも教会はあります。

弱さを抱えていますので、そのどうにもならない闇の世界にすぽっと陥ってしまう危険があります。本人もどうすることも出来ない闇の力です。同時に本人が乗り越えなければなりません。その守りと導きがあるように祈り続けるだけです。神の憐れみを信じます。同時に、神は義の神でもあります。どのように取り扱われるのか導きを見守っています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「神はなぜギリシャ語を用いられたのか」2017年1月12日(木)

旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれています。神の民を選び、その歩みを記すのに彼らの言葉であるヘブライ語を用いたのは納得がいきます。同じ意味合いでギリシャ語が用いられたわけではありません。「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし」(ガラテヤ書4:4)とあるのですが、その定めの時に使われていたのがギリシャ語でした。

当時は宗教的な背景としてユダヤ教、文化としてのギリシャ哲学、政治体制としてのローマ帝国の三つ巴でした。N.T.ライトが強調しているところです。ローマ帝国の支配の下でしたが、公用語はまだギリシャ語でした。紀元前332年のアレキサンダー大王の地中海支配以来ギリシャ語が使われていました。紀元前2世紀にはヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に訳され、70人訳聖書として用いられていました。パウロも用いていました。

旧約聖書と新約聖書との間には400年にわたる中間時代がありました。バビロン捕囚からの解放後に、エズラとネヘミヤによるエルサレムでの神殿と城壁の再建の時からイエスの到来までの間です。実はこの中間時代はギリシャ哲学が最も栄えたときでした。神殿再建の前にソクラテスが生まれ、その後にプラトン、アリストテレスが登場してきます。パウロの時にはストア派とエピクロス派が栄えていました。

当時の地中海は想像以上にユダヤ人とギリシャ語を話す人とが入り組んでいました。イエスがエルサレムに入場されたときに、ヨハネ福音書12章が記しているように、ギリシャ人がイエスに挨拶に来ています。弟子たちが取り次ぐのですが、その時イエスが話されたたとえが「一粒の麦」です。あたかもイエスはソクラテスの死を知っていてその対比でご自分の死を語っているようです。パウロが、使徒17章で記されているように、アテネでストア派とエピクロス派の哲学者たちと論じていました。その時の説教が「死者の復活」でした。

「定めの時が来たので」と言われている通りに、神の福音が全世界に伝えられるために当時の公用語であったギリシャ語を用いたというのは納得がいきます。その背後でギリシャ哲学を通過することが必要であったと考えることも出来ます。ただそこには二つに意味合いがあります。正確さを期する哲学的な思想の中で福音の内容が言葉の上で明確にされるためという肯定的な意味と、逆に福音がギリシャ的な二元論の影響を受けて二千年のキリスト教の歴史のなかで変遷してしまったという否定的な意味です。

否定的な意味の代表は「キリスト教は民衆のためのプラトニズム」というニーチェの言葉です。ギリシャ哲学の二元論は肉と物質の世界を離れた「魂の救済」を求めていました。新約聖書の時代のあとこの思想がキリスト教を支配して、死者の復活に基づく新天新地よりも、死んだら天国に行くという霊的な意味だけでの福音理解になってしまいました。単なる精神的なキリスト教で、信じる私たちの心のことが中心になります。信仰義認論もその意味で捉えられています。それは脆弱なキリスト教で、ホロコーストを通して明らかになりました。

肯定的な意味では、ギリシャ哲学との対比の中でキリストによる救いを明確にするためと考えられます。たとえばコロサイ書で「むなしい、だましごとの哲学」とあって「この世の幼稚な教え(ストイケイオン)による」(2:8、参照:ガラテヤ書4:3,9)とあります。哲学に救いのないことは明らかですが、そのストイケイオン自体は哲学用語で、アリストテレスの『形而上学』(岩波文庫上159頁)で「構成要素、元素」と解説されています。千葉先生は「根源的要素」と訳しています。

パウロはその意味を知っていてこのストイケイオンを使ったと考えると、ギリシャ人が考える世界のあり方に対して、キリストによる世界観と生き方の意味をより明確にしていると取ることができます。あるいは神はそのことを分かっていて、御子であるキリストによる新しい世界のあり方を伝えるためにギリシャ語を用いたと考えることができます。言い方を変えると、パウロはギリシャ哲学を分かっていたので、それに影響されることなく、「御子は、万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ書1:17)と言い張ることができたのです。

神がギリシャ語を用いられた歴史的事実に「なぜ」と問うことが許されているとすると、それはギリシャ語の意味に沿って新約聖書を読み直してみることかも知れません。 「幼稚な教え」だとどうしてもこちらの視点が強すぎます。世界の「構成要素、根源的要素」と元の意味に沿って捉えることで、その対比でキリストに沿って生き考えることの意味が浮かび上がってくるからです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「心(ヌース)の一新によって」2017年1月4日(水)

コメントをくださる皆様へ、

上沼先生はコメントを見る習慣がないようですので、直接メールにてコメントされるとよいかと思います。

Web 担当: Hashimoto

 
クリスマスから年末までは穏やかな日が続きました。手付かずの落ち葉を少し燃やすことが出来ました。年が明けた途端に曇り空と雪と雨の毎日が続いています。しばらく続きそうです。そんなこともあって、暮れから読んでいる千葉教授の『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か』の原稿を、家に閉じこもって読んでいます。

原稿三章では、ローマ書3章を中心に神の啓示の事実性に注目しています。私たちの信仰以前に神の義の啓示がイエス・キリストの信・信実に基づいて示されていて、それは信じるものは誰でも義とされるためです。1章ではその神の啓示が神の怒りとして現されていて、信じない者は「良くない思いに引き渡され」(1:28))て、弁解の余地がないというのです。ローマ書1章から4章までで啓示の事実性と完結性に視点が置かれています。

原稿四章では、その啓示を「信じる」私たちの心の動きがローマ書5章から8章までで示されていて、その解明に当たられています。それは私たちの信仰心のことなのですが、多くの場合信仰の励みのためにパウロがどのようなことを言っているのかと注解して終わっています。「信の哲学」を標榜している千葉先生は、文体の解明から言語網の違いに注目しています。5章初めの「ですから、信仰によって義と認められた私たちは」と、4章まででは「弁解の余地のない」までに誰にでも当てはまっていたことに対して、「私たちは」と信じている自分たちの心の動きに視点が移っているからです。

その「私たちは」と言えば、5章から8章までで私たちの存在構成と機能として、「魂(プシュケー)」と「霊(プネウマ)」、「肉(サルクス)」と「からだ(ソーマ)」、「心(カルディア)」と「心(ヌース)」、さらに「良心」とか「思い」とか「認める」とか「見分ける」という用語が使われています。それぞれがどのような意味合いで使われているかに、千葉先生は細心の注意をはらっています。

「肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」(6:19)と、啓示の自己完結性に対して私たちの相対性をみています。それでも「肉の弱さ」で肉自体の罪性をみることは避けています。被造物としての肉の中立性を強調しています。「罪深い肉と同じようなかたちで」(8:3)御子を遣わしたと言うところも、千葉先生は文字通りに「罪の肉の似様性において」と訳しています。

先ほどの「良くない思いに引き渡され」(1:28))は「ヌースの無分別」のことで、その前にも使われている神を見分けることの出来ない能力のことで、千葉先生は「叡知の機能不全」と訳しています。「心の一新によって自分を変えなさい」(12:2)も「ヌースの一新によって」であって、 ここでも「わきまえ知るために」とあるように、ヌースは識別能力を意味しています。

それに対して「心(カルディア)」は、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5:5)とあるように、聖霊の受け取り場を語っています。「神が人間と交わるときに窓口となる場が心である」と千葉先生は記しています。

その心で起こることをパウロ自身が多様なかたちで言い表しているのですが、当然千葉先生はそれらを厳密に考察しています。この内面的な機能については個人的に関心を持っていたのですが、極めることはしませんでした。それはただ怠慢であったとしかいえません。

言い訳になるのですが、多くの場合に聖書注解と神学理解というのが、パウロが多様に使っている言い回しを私たちの信仰心と言うことで一括して取り上げて、その内面の動きを正確には把握してこなかったように思います。むしろ自分たちの信仰の理解を完結している啓示の内容にまで広げて、自分の信仰理解を神の計画のように語って来たところがあります。聖書信仰と言ってもすでに出来上がった神学の枠を厳密に再考察してはいません。アウグスティヌスがこう言い、ルターがこう言い、自分の教派や神学校の創立者がこう言ったことが、神学的な枠になって、そこからでられないでいます。

千葉先生の原稿で、そのような神学的な枠を超えて、ただテキストに沿って解明していく長期にわたる格闘のあとに接しています。このような作業をあえて「信の哲学」と標榜する意図に、多少納得しています。雨降りの日々、原稿と格闘しています。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「静か過ぎるクリスマス?」2016年12月19日(月)

イルミネーションを施して真冬の夜空に家を飾って見る者を楽しくしてくれるクリスマスのシーズンなのですが、今年はもしかすると私たちの近隣だけなのかも知れませんが、何とも静かすぎると思うほどその光景が見られません。夜ドライブをしながらそんな光景をいつもは楽しんできたのですが、今年は所々で思い出したようにイルミネーションを施した家に出合うだけです。

今月の初めに義弟の結婚式がサンディエゴであって、それが終わってロス郊外の母の家に二晩滞在しました。その近辺は家や木々を飾り付けるクリスマス・デコレーシャンをこの季節の一大行事のようにしています。毎年のように変わらない情景を見ることができ、クリスマスのシーズンの到来を感じました。そして自分の家に二ヶ月半ぶりに帰ってきて、いつもと同じようなクリスマスの光景が見られるものと思っていたのですが、もちろんロス郊外に比べたら家は点在しているだけなのですが、真っ暗な夜空のままのようでした。クリスマスが近づけばもっと飾り付けが出てくるのだろうと思っていたのですが、ほとんどそのままです。

妻とどうしてなのだろうと話し合っているのですが、行き先の分からない時勢を反映しているのか、あるいは、私たちも含めて住民が歳を取ってきて飾り付けが出来なくなってきたからなのかと想像しています。私たちも現時点では何の飾り付けもしていないので何も言えないのですが、勝手な理由と言えばその通りなのですが、この国とこの世界がこれからどのようになるのかを思うと、喜んで飾り付けをする気持ちにならないところがあります。近隣の人たちも同じような思いでいるのだろうかと勝手に想像しています。

しかし考えてみれば、これで大丈夫だという時代はそんなにもなかったのかも知れません。硫黄島の戦いの終わりの頃に故郷前橋で生を受け、5ヶ月後の空襲でも生き延び、それ以来70年以来生き続けています。この30年近くはアメリカでの生活になり、子どもが戦地に行く体験もしました。政教分離の国ですが、現実には教会と政治とが深く関わっていることを身近に感じます。またサイバー攻撃でよその国の動きにまで介入するようなことが起こってきています。

よく考えてみれば、イエスがこの世に生を受けたときも、それからも世界はこれで安泰と言うことがありませんでした。それでも羊飼いに現れた御使いとともに天の軍勢が「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美をしています。

その御子の受肉を、西洋の教会は救い主の誕生ということで、誕生日のお祝いとして迎えるのですが、東方の教会は、御子をこの世に遣わさなければならなかった神のみ思いを思って静かに迎えます。神から見て人の世にはいつも悲しみと苦しみが伴っています。為政者は権力にしがみつき、民は苦しみ続けます。そんな人の世を神はよくご存じで、悲しみをもって御子を世に遣わされました。十字架上のキリストを上からご覧になっています。そんな素描を観たことがあります。静かすぎると思えるこのクリスマスは、神がこの世をどのようにご覧になっているかに思いを馳せる時なのでしょう。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「イエス・キリストの信による」2016年12月12日(月)

今回札幌滞在の折り、北大の哲学科の研究室に千葉恵先生をお訪ねしました。札幌に行くたびにお邪魔だと思うのですがお伺いしています。今回は出版のために今までの研究をまとめられた原稿が出来上がっていて見せてくださいました。今まで大学の紀要などで書かれてきたものの総集編です。その紀要の抜粋をいくつかいただいて読んできました。しかしまとめたものは本になると1500頁なるという大著です。

タイトルは『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か』なのですが、中心的にはローマ書3章21節から30節までの解釈のことで、特に22節の「イエス・キリストの信による」の捉え方によっているといえそうです。千葉恵先生は無教会の熱心な指導者なのですが、哲学者としてアリストテレス研究からローマ書研究へと展開しています。

実は2年前に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念講演で、当時N.T.ライトの翻訳をしていたこともあって、そのローマ書3章22節の従来「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と対格として訳されているところを、「イエス・キリストの信仰」と主格に取ることがこの30年来欧米の聖書学者の間で受け入れられていると紹介しました。顧問をしてくださっている千葉先生が私のところに来てくださって、それこそご自分の研究テーマだと言ってくださったことがことの始まりでした。

千葉先生は、その属格の「の」は対格でも主格でもなく「帰属の属格」であって、キリストに本来属しているものであり、しかも「イエス・キリスト」という称号は行為主体には用いられていないと、熱く語ってくださいました。それ以外のことも語ってくださったのですが、うまく飲み込めなかったので、それ以来日本に行き札幌に行くたびに研究室に先生を訪ね、紀要の抜粋をいただき、先生の研究のおこぼれをいただいてきました。

先生が「帰属の属格」を取られているもう一つのポイントは、その「イエス・キリストの信・真実」と「神の義」には分離がないことだと言います。従来信じる者の間に「何の差別もありません」という箇所は、神の義とイエス・キリストの信・真実には「分離はありません」と取るべきで、23節以下はその説明をしていると説きます。革新的な理解です。

この二つの箇所の誤訳と誤解のゆえにそれ以来の2千年のキリスト教会は、ペラギウス論争、カトリックとプロテスタントと混乱を来し、争いをしてきたと言います。確かに従来の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であると、神の義は私たちの信仰によるかのようになるし、実際に聖書理解にしても、牧会にしても神の義をいただくためにこちらの信仰心を整えることに汲々としてきました。結局は人間中心の信仰なのです。多分信仰義認の問題点はこの点にあるのでしょう。N.T.ライトが信仰義認だけであれば結局はme and my salvationになってしまうということに当てはまります。

神の義は神の側のことで、そこにイエス・キリストの信・真実が含まれていて、そのことを信じる者が義とされるのです。キリストの信と私たちの信仰とは異なった次元なのです。「信の二相」と千葉先生は呼んでいます。その信を「人間であることの全体の分析として普遍的次元において提示しうるか」に「信の哲学」がかかっているようです。

「信の哲学」のケース・スタディーのように千葉先生はアンセルムスのCur Deus Homoを取り上げます。そしてさらに何とも興味深いのですが、あのハイデガーの『存在と時間』をパウロのローマ書のルター主義的理解として説き明かしていることです。非本来性と本来性という実存理解がルターのパウロ理解からきているというのです。北大でハイデガーを囓っていた時のことを思い出します。

さらに私たちに突きつけられているのは、来年には出て来るといわれている新改訳と新共同訳の新しい訳で「イエス・キリストの信」がどのように訳されているかです。従来のままの対格であれば、結局は私たちの信仰心のことに焦点が向いてしまい、また信仰心の確立のための聖書理解に終わってしまいます。それは堂々巡りの出口のない信仰なのです。

信仰をいただいて北大には行って哲学を専攻し、今度はその北大で千葉恵先生を通して信仰と哲学のテーマを再確認する機会をいただいています。何という導きなのでしょう。先生は本の原稿のコピーを持って帰るように勧めてくれました。2冊になっていていただいて良いのか躊躇したのですが、本になるまでは待てないのでいただいてきました。千葉先生の40年の苦闘とその成果を申し訳ないことに味わっています。また齧り付いています。

上沼昌雄記

追記:今回の記事に関して千葉恵先生より発信の許可をいただきました。その折りに次のコメントをいただきました。「簡にして要を得たご文章に先生が長くこの問題を考えてこられたことに思いをはせました。」同時にその意味合いを先生の原稿を読みながら考えています。神学の視点が先生の「信の哲学」と深く関わっているように思えるからです。なお関心のある方は以下のところで先生の論文のいくつかを読むことができます。上沼http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/chiba/neuCHIBApub.htm

Masao Uenuma, Th.D.
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「『わが家』をはなれて」2016年12月7日(水)

昨日2ヶ月以上にわたる旅を終えて家に戻ってきました。「我が家に」という挨拶文を送りました。家もようやく温まり、しばらくぶりで自分のベッドに寝ることが出来ました。次の旅の準備をする必要がありません。しばらくはすべてをそのままにしても支障がありません。それだけでなく慣れ親しんだ家のまわりの風景と、ごちゃごちゃした自分の机にただホッとします。家に帰ってきた実感が湧いてきます。

今回義弟の結婚式のためにシカゴからサンディエゴにドライブをしたときに、ニューメキシコ州とアリゾナ州を横切りました。ロッキー山脈の南側を横切ることになったのですが、山脈のまわりは砂漠地帯ともいえる荒涼とした地域です。この地に、「マラーノ」と呼ばれた隠れユダヤ人が、1492年のスペインでのカトリックによる異端審問に追われて、ラテン・アメリカに移り住み、さらに追われてアメリカのこの地に移り住んだ歴史を思い出しました。ドライブをしながら妻に説明をしたことでした。

「我が家に」とホッと出来るのですが、その「わが家」を持たないユダヤ人のことを思い、もしそれが神の選んだ神の民の生き方であるとすると、全く異なった世界観と生き方がそこに展開することになるのだろうと、ゆっくりと目をさましながら思い巡らしました。今朝も荷物をたたんで出かける用意をしなければならないのです。もし次の旅先が分かっていなかったら、準備どころでなくなります。今回は私たちの動きに合わせて次女の泉が次の宿を確保してくれたので安心してドライブが出来ました。

ホロコーストの生き残りでユダヤ人哲学者であるレヴィナスが、この「わが家」を出て約束の地に向かって旅をする神の民の生き方を哲学のテーマとしています。ギリシャ神話のオデュッセウスの旅は「我が家に」に戻り、自分の住処を確保し堅固にすることが目的であったのに対して、アブラハムに始まる旅はいつも外部にさらけ出され、隠れることの出来ないものなのです。西洋のキリスト教を含めての思想は、自分たちの安全な港を見つけそれを強固にすることに汲々としています。残念ながら教会も自分たちの義を建て守るために汲々としています。

しばらくぶりにレヴィナスの主著『全体性と無限』上(岩波文庫)の本文の最初の段落(38頁)を紐解きました。「『わが家』をはなれて」約束に地を目指して出ていくことが「形而上学的渇望」と言い切ります。「我が家に」とどまることは、自分の義を確立することになり、他者を排除することになり、結局は逆説的なのですが、「ほんとうの生活が欠けている」ことになると言うのです。確かに人生の真の満足は自分のなかにとどまっていたら得ることが出来ません。逆に不満だけが出てきます。

それは新約聖書でイエスが言い、行ったことであり、私たちにも勧められていることです。N.T.ライトもアブラハムへの祝福はアブラハムのためではなく、子孫とすべての民のためであるとして強調していることです。西洋のキリスト教が信仰義認にしてもあまりにも自己中心になっている事への反省と警告なのです。「自国第一主義」が当然のような風潮になっていますが、それはある政治家だけのことではなく、西洋のキリスト教の体質になっています。

この歳になって旅を続けるのは必ずしも楽なことではありません。それでも旅人としての歩みはやめることが出来ません。なぜなら神の祝福を自分のところに留めておくことはできないからです。自分を通して少しでも神の祝福が他の人に届いていくことが旅人の歩みだからです。旅を終えてそんな神の民の旅人としての歩みを考えています。その旅人の生き方を哲学している存在に何もと励まされています。

上沼昌雄記

「人間としてのキリスト者」2016年9月9日(金)

 N.T.ライトがその著『クリスチャンであるとは』の終わりにかけて、クリスチャンとして生きることは真の人間として生きることであると、繰り返し語っています(191,200,310,311,313,315,334頁)。翻訳をしていたときから今に至るまで、この表現について考えています。見方によってはとんでもないことを言っているわけです。クリスチャンでなければ人間として生きられないともなるからです。また自分の理解しているクリスチャンのイメージが、真の人間としていることになるのかと自問させられるからです。取りも直さず自分もライトと共に、クリスチャンとして生きていることで、真の人間として生きている実感を持っているのか問われるからです。

 ライトの聖書の全体像を理解する前に、実は、ユダヤ教徒で哲学者であったレヴィナスの著書を読んできました。誰もが苦闘させられる内容なのですが、不思議に分かってくることは、ユダヤ教のことを展開していながら、それが哲学的な根本問題を提起していることです。別な言い方ですと、旧約聖書の世界が人間としての生き方の提示そのものである分かってきます。レヴィナスは説教者でないので、口を酸っぱくして宣伝しているのではなく、人間存在を現象学的に提示しているだけです。その視点が従来の西洋の哲学とあまりに違うので、理解するのに苦労します。しかしそれは旧約聖書の世界だと分かると、人間理解と聖書理解に新しい地平が開かれてくるのが分かります。

 レヴィナスは、イザヤ書58章7節「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これを着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」と言うことを大切にしています。興味深いことにそれに呼応するように、マタイ福音書25章40節「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さいものたちのひとりにしたことは、わたしにしたのです」と言われていることを見いだして驚いています。レヴィナスは神を愛することと隣人を愛することをそれほど区別していません。そこに人としての生き方を見ています。ユダヤ教は宗教の一つとして意味があるのではなくて、人間の生の一部として意味があると言っています。

 ライトも同じ意味で、キリスト教を宗教の一つとして取り上げているのではなく、人間の生き方として提示していることが分かります。ライトが、旧約と新約の結びつきを大切にして、創世記から黙示録までの全体像を提示しているときに、旧約のひとつひとつも人間として生きるために不可欠であると語っています。律法(トーラー)についても次のように言っています。「一世紀の敬虔なユダヤ人にとってトーラー(律法)は、遠く離れた神による恣意的な定めではなく、イスラエルをヤハウェに結びつける契約を意味する特権であった。それは、真の人間とは何かを見いだす道である。」(310頁)そこにキリストと聖霊による助けがあって律法が成就していくのです。新改訳によるローマ書10章4節の「キリストが律法を終わらせた」のような理解ではなく、その脚注にあるようにキリストは「律法の目標」なのです。聖霊がそれを助けてくれます。そうすることで私たちのうちにも律法が成就していきます。

 レヴィナスは、当然ですが、旧約にとどまってしまいます。ライトはさらに新約で、キリストの十字架と復活、そして聖霊の助けによって、 神の創造が新しくされることを、黙示録までで展開しています。そのために神のかたちを担う者として、私たちがこの地で、この世で神を愛することと隣人を愛することを、責任を持って果たしていくことが求められます。そうすることで真の人間として生きることになるのです。それは実際には大変なことです。自分の殻に閉じこもっているわけにいかないからです。自分からでて、神と隣人に向かっていくのです。この点においてレヴィナスもライトも西洋思想の自己中心性を見抜いています。執拗な自己愛から出ていくことで、真の人間としての生き方があるのです。それは厳しいことですが、キリスト教の存続に関わることです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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