「存在することの恐怖と静かなる神」2006年9月18日(月)

主にある友へ
 この土曜日(23日)にミニストリーの15周年感謝記念会をサクラ
メントのみくにレストランで持ちます。皆さまの祈りと励ましを心より
感謝いたします。上沼 2006.9.18

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神学モノローグ

 ホロコストを戦争捕虜のゆえに生き延びたレヴィナスは後年になって
「存在への敬意」を説いているが、捕虜生活を終わって家族と親戚のほ
とんどがホロコストで亡くなったことを知ったあと、1947年に出
した『実存から実存者へ』では、「存在することの恐怖」を語ってい
る。どうにもならないほど自分が存在していることにためらいと恐れで
ある。夜とか闇とか死とか戦争とかが存在にとって恐ろしいのではなく
て、存在すること自体が恐ろしいのだという。

 この書物はすでに捕囚のなかで書かれていたものであるが、「存在す
ることの恐怖」は子どもの頃から胸に秘められていたものであったとい
う。それがホロコストを通して消すことのできな事実となった。眠られ
ない夜に、私でも、家族でも、世界でもなく、ただ<ある>という無名
の沈黙の響きがどこからともなく届いてくる。「<ある>がそっと触れ
ること、それが恐怖だ。」死への不安ではなくて、<ある>という無名
性への恐怖である。私の存在を消してしまうただ<ある>というおぞま
しさである。

 フッサールの現象学は、外の世界のあることへの意識と意識している
自分を出発点としている。それは理論化も概念化もできない私という存
在を浮き彫りにする。ハイデガーはその存在を現存在として捉えてい
く。すなわち私の実存の現象学である。フッサールを根拠にし、ハイデ
ガーに共鳴しつつも、レヴィナスは私の実存より先に、すなわち、私の
存在が意識にのぼる前に、ただ<ある>という無限定な、不確定な重苦
しい気配を感じ取っている。

 昼には私は生きているを知っている。私にはミニストリーという仕事
があり、コンピュータに向かいメールを書き、記事を書く。妻と話を
し、家族と話をし、人と会話をする。私の存在を私は意識している。そ
れで安心感を得る。掛け替えのない自分であると自分に言い聞かせる。
しかし不眠の夜はそんな自分は助けてはくれない。私といいう主体は消
えてしまう。ただ暗闇に覆われ、無名の実存がうごめいていることに気
づく。ただ<ある>ということ、明日もまた生けなければならないとい
うこと、その重荷に疲れ果てる。

 レヴィナスはこの思いを子どもの頃から胸に秘めていたという。ただ
どうにもならないほどに世界が存在し、私も存在しなければならないと
いう恐れである。生き続けなければならないという恐怖である。ホロコ
ストがあっても生き続けなければならないのである。そんな<ある>の
不気味さを語っていながら、その<ある>をも支えている神への信頼は
一点の疑いもないほど澄み切っている。それは光りである。その光りが
あるので、私は「影」をいただいて生きることができる。

 小さいとき家の外からはるか北に見上げる赤城山の夕陽に照らされた
すそ野を眺めて、当然私とは関係なしに<ある>ことが存在しているこ
とに少なくともためらいと恐れを覚えた。私は家に入って夕食を食べ、
宿題をしてということでそんな思いはすぐに消えてしまったのである
が、いままたレヴィナスを読みながらそのときの思いがよみがえってく
る。そのためらいと恐れはしかし何度もよみがえってくる。ワイオミン
グの大自然に触れたときもそれがよみがえってきた。自然への驚異では
ない。私とは全く関係なく大地があり、天空があり、世界があるという
無名の「存在することの恐怖」である。

 赤城山はその名の通り、夕日に映えてすそ野が赤くなる。そのすそ野
が長く伸びているのが赤城山の特徴である。そのすそ野をはうように
空っ風が吹き下りてくる。その空っ風に向かいながら自転車をこいで高
校から帰る途中に宣教師館があった。そこでのバイブルクラスを通して
信仰を持った。神はどのようなことがあっても「在って在る者」として
存在しておられる。静かに存在しておられる。

 レヴィナスの存在への恐れは、私のなかで起こった存在への最初のた
めらいを新鮮なものとしてよみがえらせてくれた。そのためらいが静か
に存在しておられる神への信仰をもたらしてくれたのかも知れない。

上沼昌雄記

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主にある友へ

 いつも「ウイークリー瞑想」「神学モノローグ」を通しての交わりを感謝いたします。何度か取り上げてきました雅歌を用いての新しい本『夫婦で奏でる霊の歌ー雅歌にみる男女の会話』(いのちのことば社、1050円)を9月11日に出版、発売することができました。今回の表紙は花畑の間を通っている道です。雅歌で花嫁と花婿が互いを花と木でた
とえるながら、愛のやり取りをしています。そんなイメージにぴったりです。明るい美しい本です。
 しかし裏表紙の帯には「本文から」と言うことで、夫婦が辿る闇の冒険のことを掲げました。雅歌の3章と5章で、花嫁が花婿を捜しに「夜」出かけていくことです。次の文章です。「夫婦は、暗夜の冒険を覚悟しなければならない。その夫婦だけが抱える課題を引き受ける勇気である。ほかの夫婦の経験も役立たず、だれも手引きをしてくれない。
……行き先のわからない冒険である。真っ暗闇の中に出て行く冒険である。」

 夫婦における昼と夜です。まさに経験させられていることです。それはしかし花婿であるキリストとの間でも経験させられていることです。キリストと一つとなろうとするときにどうしても経験させられる霊的闇
です。そんな葛藤が霊の歌を奏でるのだろうと思わされています。自分
たちが霊の歌を歌っているというものではありません。ただ不協和音も
霊の歌だと思わされています。
 雅歌についての歴史的解釈のことも少し取り上げています。福音主義
神学にとってもチャレンジにもなっています。
 機会がありましたら読んでいただければ幸いです。

 祝福を祈りつつ。上沼昌雄 2006.9.12

「存在への敬意と9・11」2006年9月11日(月)

神学モノローグ

 ホロコストを経験したユダヤ教学者でもあるレヴィナスが「他者」を
視点に展開している哲学のひとつの結論が「存在への敬意」である。自
己である「同」を中心とした哲学は、暴力を用いてでも他者を自己のな
かに閉じこめてしまう全体性の世界観である。概念化は「他者」を自己
の体制に論理的に引き込むことである。それは「他者」の従属を前提に
している。

 しかし「他者」は自己には閉じこめることができない。超越してい
る。超越をしているので「他者」の顔は驚きであり、自己を打ち破る驚
異でもある。「他者」を概念化することはできない。論理を越えた存在
である。意識の手前ですでに存在している「顔」である。意識の手前で
「無言の響き」を漂わせている。私への意味を漂わせている。

 「父であるとは、自己自身でありながら他なるものであるしかたであ
る。」すなわち、「他者」である息子のために存在しているのが父であ
る。息子のための「身代わり」として存在することで父は自分から解放
される。夫婦においても当てはまる。私は妻のために存在することで本
来の自分であり得る。自分自身から解放される。妻は驚きであり、驚異
である。その妻のために存在しているので私は自己から解き放たれて、
超越への関わりを手に入れることができる。そして、超越が意味をもた
らす。

 レヴィナスは言う。「超越が意味しているのはむしろ、存在するもの
への敬意である。存在への敬意としての真理ーここに形而上学的な真理
がある。」「他者」の無言のつぶやきに耳を傾ける。じっと耳を傾けて
「他者」への敬意を表す。

 9・11から5年経った。その間の当事国であるアメリカの現政権の
論理の押しつけに無理が来ている。民主主義の正当性はその通りであ
る。しかしその論理は全体性として非寛容さを身に着けている。論理の
整合性が優先してしまうために、「他者」はその論理に隷属することが
求められる。

 それでも当事国であるアメリカの取っている行為には理解できるとこ
ろがある。気になることはアメリカの現政権の論理を後押ししている保
守的な信仰の論理、神学である。聖書を論理の世界に還元してその整合
性で神学を築いているのであるが、論理の明快さは論理の展開している
こちら側の力の論理でもある。すなわち、論理的に正しければ力を行使
してでも他をねじ込めていく力である。それを許してしまう論理である。

 民主主義も神学もその力を行使することを望んでいない。現実に世界
中でのアメリカの非営利団体による奉仕はキリスト教の精神から出てい
る。それでいながらその精神が受け止められるよりも、その背後にある
論理とその力による非寛容さが逆に世界を刺激してしまっている。現政
権が自分たちの妥当性を主張すればするほど世界は離れていってしま
う。世界はその論理に隷属するために存在しているのではないと気づい
ているからである。

 神学の論理の正当性は聖書の正当性とは異なるものである。前者は論
理を展開している人間の正当性であり、後者は神の義の正当性である。
レヴィナスはあえて「神学の破産」を宣告している。論理の世界を後に
して聖書の世界に戻ることである。それは大変難しいことである。2千
年の神学の歴史が重くのしかかっているからである。

「他者への敬意」は無限の他者である神への敬意である。神を自分の論
理の世界に引き下ろすのではなくて、神の世界に自己を放つことであ
る。神のことばにただ耳を傾けることである。そして、神の備えてくれ
た「他者」に耳を傾けることである。その「他者」に自己を放つことで
ある。聖書の論理とアメリカの論理を打ち破って、非寛容さを脱ぎ捨て
て「他者」に耳を傾けていくことである。

上沼昌雄記

「存在の涙・バビロン川のほとりで」2006年9月1日(金)

神学モノローグ 

レヴィナスの代表作である『全体性と無限』(岩波文庫上・下)と『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)をこの夏中にと思って、頑張って読んだ。「他者」を視点に哲学を展開している。自己である「主体」を展開する哲学に慣れているために、レヴィナスの哲学のポイントを捉えるのに苦労させられた。しかし慣れてくるうちに、この「他者」は家族であり、隣人であり、先祖であり、民族であり、その先の先の先にまで遡って無限者としての神にまで通じていることが分かった。当然のように通じているのである。そんなユダヤ人としての、またタルムードの解釈者としてのレヴィナスの哲学書を読みながら、旧約聖書の系図がすんなりと私の中に入ってきた。

彼の哲学の方法論はフッサールに始まる現象学である。現象学は意識の世界の哲学である。心理学ではない。哲学は伝統的には主体と客体の二元的な展開でなされてきた。主体を中心とした認識論と、客体を中心とした存在論である。現象学はこの二元的な展開を避けて、主体と客体のまさにそのあいだの意識に焦点を当てている。意識はあることの意識であり、意識している私である。このあることを「他者」と呼び、意識している私を「同」と呼んでいる。レヴィナスによれば、ハイデッガーは結局この「同」の世界に留まって、その存在の住処を捜し求めたことになる。

レヴィナスは意識の向こう側、意識を引き出している「他者」の世界こそが私の存在を脅かしているとみている。すなわち、意識の手前ですでに「他者」は「顔」を持って沈黙のうちに語りかけている。私はその沈黙のこだまを聞くことである。「他者」は決して「同」には還元されない超越である。「同」を中心とした概念で築き上げられた「全体性」の世界を打ち破るのがこの「他者」である。「他者」は私が何かを意識する前にすでに隠れることなく存在している。「他者」の暴露は、脅迫であり、語りである。

私はこの「他者」のために開かれている。むしろ「他者」のゆえに開かれてると言える。閉ざされない「同」としての私は、「他者」のゆえに、「他者」のために「身代わり」として存在している。私たちからみると新約聖書の世界がそのまま展開されていることになる。父は、自分が父でありながら父でないことで父になる。すなわち、父は息子の「身代わり」であることで父になるという。哲学書で「父性」に出会ったのであるが、その「父性」の延長線上に旧約聖書の系図が繋がって来た。

彼はホロコストのことは何も語っていない。ただ『存在の彼方へ』は虐殺された6百万の同胞に捧げられている。ホロコストを不思議なかたちで生き延びたレヴィナスにとって、いまあるということは6百万の同胞の犠牲に上になっていることは避けることのできない事実である。

私がいまあるというのは、「他者」との連綿の上に驚異として置かれている。最後の最後まで私の存在である。しかし、私の前にすでに「他者」が存在し、私の回りにいつも「他者」が存在している。私はその「他者」のために「身代わり」として存在することで、究極的に無限の存在である神に結びつくことになる。勿論、無限定の神はすでに語りかけているので、開かれた私も応答することができる。神を「同」の世界に引き寄せることは決してできない。私である「同」が無限である神の世界に引き入れられるのである。

レヴィナスの哲学書を読みながらどうしてか分からないが、詩篇137篇で歌われているバビロン川のほとりでシオンを思い起こして涙を流したイスラエルの民のことが思わされてきた。ホロコストの後に「他者」の「顔」を思い観ながら神の語りを聞いているレヴィナスのうめきの哲学と、バビロン川のほとりで神を思い起こしている彼の先祖たちの悲しい詩とが共鳴してきた。存在の涙が綿々と流され続けている。そのように存在することで神に結びついている。概念では閉じこめられない時間の流れのなかで生きている。そんなとてつもない時間を持っているイスラエルの民に驚異を感じている。

 

上沼昌雄記

「ネパールの羽根田医師たち:恵みと驚異」2006年8月29日(火)

ウイークリー瞑想

 

ネパールのヒマラヤ山脈の麓のベシサハールという村にあるキリスト教の病院で医療奉仕をしている羽根田医師ご夫妻のところに、次女の泉がボランティアとして参加しています。実際にはワシントンを出て10日目でようやく到着したような次第です。ネパールの首都カトマンズに到着した日に、病院の存在を嫌うあるグループの人たちによって騒動が起こり、羽根田医師たちもカトマンズに一時避難することになりました。病院の代表の方の決死的な交渉で、逆に村の人たちが病院を暴徒から守ると約束してくれてました。それで泉も羽根田医師たちと一緒に昨日病院に入りました。

 

そんなこともあってカトマンズからベシサハールまでの道のりや、ネパールの社会情勢が気になって、ネパールについての旅行者用の本を買ってきて調べたりしました。8千メートル級のアンナプルナ山を中心としたトレッキングの案内もしっかりとあって読み応えのある本でした。それで、ネパールという国のイメージを勝手に描くことができました。

 

と同時に、羽根田医師ご夫妻がネパールに惹かれるように3年ほど前に出かけていったときのことを思い起こしています。山形の北の村山市というところでご夫婦で開業をしていました。居間で始まった聖書研究が教会として成長して、病院の隣に会堂が建ち並んでいます。地元の人たちにも慕われています。薬のセールスマンにも伝道して信仰に導いています。静かな街ですが、病院の待合室は人があふれ、教会の礼拝も家族連れでいっぱいです。病院の駐車場は日曜日には教会の駐車場となります。

 

ご夫妻が医学生であったときにKGKの主事として関わったこともあって、ミニストリーとしても10年ほど前から交わりをいただいています。それぞれの子どもたちの年齢も近いこともあって家族としての交わりもいただいています。医院での忙しい生活があっても神との交わりの時をより大切にしています。子どもさんたちがまだ家にいたときにはよく一緒に家庭礼拝に参加しました。

 

羽根田医師ご夫妻が神からの新しいチャレンジを感じていることを話してくれました。奥様のご両親も信仰を持たれたこと、子どもさんたちも医学の学びに付いていること、教会もしっかりと成長していること、そもそもご自分たちがクリスチャンの医師として召されている使命を再確認させられていることを語ってくれました。そのままの状態で留まっていることは許されない神の導きを感じていました。

 

医院のスタッフの人たちには極秘で、ある週末を使ってネパールの病院の視察に行かれました。寝ずの旅の連続で月曜日の朝に医院に戻ってきました。そのまま診察について、しかもその日は特に患者さんの多い日であったことを話してくれました。それを嬉しそうに話しているのを聞いて、本気であることが分かりました。医院も別のクリスチャンの医師が引き継いでくれることになりました。

 

ネパールに向かわれる前に北カルフォルニアに来てくださって、タホ湖の湖畔で私たち夫婦としばらく静かな時を持ちました。イエスが弟子たちに種蒔きのたとえの話をされた後に「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われ、そこで弟子たちが嵐に遭遇する箇所を一緒に思い巡らしました。おふたりにとって「向こう岸」はネパールであると率直に語ってくれました。それを伺って、ネパールでたとい嵐に遭うことがあってもこの方たちは大丈夫だと思いました。実際に騒動が持ち上がって一時避難することになっても落ち着いている羽根田医師たちの様子を見て、泉もどんなことが起こっても一緒に病院に行くことを再確認したようです。

 

「向こう岸」は私にとっては太平洋を越えることでもありました。ということが分かっていた上でアメリカに来たわけではありませんでした。後で納得できたのです。ただ神は変動を起こす神であることが分かります。留まっていることを許されない神です。変動を起こすことで新しい風を吹き込んでくるのです。それで、思いがけない恵みに遭遇するのです。嵐にも遭遇するのです。変動に関わるすべての人にとって、それは恐怖であり、驚異でもあります。神はそれをあえて行われるのです。

 

上沼昌雄記

「戦争と哲学」2006年8月15日(火)

神学モノローグ

ヨーロッパでの第二次世界大戦を前後して、ナチスに荷担したドイツ人の哲学と、そのなかでホロコーストをくぐり抜けてきたユダヤ人の哲学に根元的な違いがあることに関心を持っている。共に存在への問いかけを真剣にしている。しかし一方はナチの全体主義を容認してしまうし、他方は全体主義とホロコーストを避けなければならないと訴えている。しかし政治的な訴えではなく、哲学として淡々と論じているだけである。前者はハイデッガーであり、後者はエマニュエル・レヴィナスである。ハイデッガーは大学の卒業論文として取り上げた。レヴィナスはこの数年読んでいる。

ハイデッガーの「なぜ無ではなくて、有なのか」とい問いかけは信仰者としても、当時マルクス主義哲学が旺盛の時にも、心から離れなかった。存在の外側のものを取り去って純粋な存在そのものに迫ろうとしている姿勢に惹かれた。詩の世界にまで存在の在処を求めている。しかし現実にはナチの台頭には何の抗する力も持ち合わせていなかった。実際にハイデッガーのナチとの関わりはいまだに議論の対象となっている。

レヴィナスはハイデッガーの『存在と時間』(1927)を高く評価している。しかしその存在には出口がないことを見ている。存在の純粋さと極限化を見ているが、それは「他者」を欠いた、すなわち、世界への窓を欠いた存在と見ている。「他者」は自己が無限にたどり着けない存在である。それは無限者としての神に通じるものである。自己は他のために存在している。その「身代わり」となることで存在の在処を見いだせると見ている。

レヴィナスはリトアニア出身でフランスに帰依した。フランス軍の兵士としてドイツの捕虜なる。4年間の抑留生活のあとに、彼の家族と親戚のほとんどがホロコーストの犠牲になったことを知る。1947年に『実存から実存者へ』、1961年に『全体性と無限』、1974年に『存在の彼方へ』を出し、80年代以降世界的に注目されてきている。タルムードの研究家でもある。明らかにハイデッガーを批判しているが、個人的なことではなく、哲学としての限界を提示しているだけである。紳士としての真摯な姿勢である。

基本的な批判として、西洋の哲学の全体性を取り上げている。トマス・アクィナスの神学の全体性であり、ヘーゲルの哲学の全体性である。すなわち概念で世界の全体像を築き上げている哲学の全体性が、ナチのような全体主義が台頭してきたときに観念的に容認してしまうというのである。ハイデッガーの存在の問いはヘーゲルの全体性の対局になりながら、全体性に対しては無抵抗であったと見ている。

哲学の全体性は神学の全体性に通じている。概念で世界を築いているのが哲学であるように、概念で神の世界を築き上げているのが神学があるからである。そして神学が神の代弁にもなっている。しかし現実に、ヨーロッパの神学はナチの台頭を阻止することはできなかった。むしろ全体主義を容認することになってしまった。考えてみると、西欧の神学を受け継いでいる日本の教会が同じように全体主義に対して確固とした姿勢を取ることができないで、追随してしまったことにも通じているようである。さらにそれは、いまのアメリカの保守的な神学にも通じることである。

レヴィナスはあくまで哲学として説いている。『全体性と無限』というタイトルが示しているように、「全体性」という閉じられて世界ではなくて、「無限」の神に通じる開かれた存在を視点に入れている。ホロコーストで家族を失うことを経験していながら、その神の「善」をなお信頼している。神の無限性に向けられている存在の有意義性と責任を考えている。他者のための「身代わり」としての存在に可能性をみている。

日本でもレヴィナスの研究は進んでいる。主要著書はほとんど訳されている。どこでどのようにレヴィナスに出会ったのか覚えていない。ただハイデッガー以降の現代の哲学の方向に関心を持っていたが馴染めないでいたなかで、レヴィナスのことが気になってきたのは確かである。難解であるが、戦争のこともユダヤ教のことを直接には言及しないで、それを哲学で論じていることに新鮮さと驚異を感じている。

 

上沼昌雄記

「村上春樹・体験—その4」2006年8月3日(木)

『ねじまき鳥クロニクル』

妻がある日突然自分の前から消えてしまう。家を出ていってしまう。その妻を見つけだす、取り戻すための闘いの物語がこの本である。最初に読んでともかくそのように思った。失ったものを買い戻す、救い出す、救済の物語である。まさに聖書の中心的なテーマである「買い戻す」「贖い出す」すなわち「贖罪」の物語である。大変なテーマを取り上げていると思った。

「買い戻し」のテーマは旧約聖書のルツ記である。モアブの女であるルツは夫に先立たれる。姑であるナオミに仕えるためにベツレヘムにやってくる。親戚であるボアズの畑で落ち穂拾いをする。そのボアズが「買い戻しの権利のある親戚」としてルツを妻に迎える。そこに生まれたのがオベデである。エッサイの父であり、ダビデの祖父になる。

そして新約聖書のマタイ福音書の最初のイエス・キリストの系図にルツの名が記されている。聖書は、神がそのひとり子であるキリストを贖いの代価として差し出さすことによって私たちをもう一度買い戻す物語である。

村上春樹は、聖書は全人類のオープン・テキストであるようなことを言っている。すなわち、人として直面するあらゆるテーマが聖書にすでに描かれていると見ている。だからといって答えがあると見ているわけではない。ただ人が直面するすべての課題が聖書に含まれていて、だれでもが聖書の世界と結びついてるという。そしていま小説家としてそのテーマを取り上げているのである。しかし、村上春樹が聖書のテーマを意識して書いたわけではないと思う。むしろ、彼が書かなければならないと思って書いたテーマが聖書のテーマに結びついていると言った方がよいであろう。

言い換えるならば、その結びつきを見ているの私の課題である。すなわち、聖書の中心的なテーマが村上春樹のなかで小説として取り上げられているとを見ている私自身の視点の問題である。そのように結びつけてよいのかを問うている私自身の課題である。その意味で私のなかの村上春樹体験である。

私たちを買い戻すために代価が支払われなければならないように、妻を買い戻すために流されなければならない犠牲があり、闘いがあり、血があるのである。この本はともかく、だれでもが直面する夫婦のことを聖書の世界にまで通じるほど深いレベルで取り扱っていることが分かる。場面は日本であり日本人のことでありながら、グローバルに読者をとらえていることが分かる。

最初のこの本のことを知ったときのことを思い出している。9年前に「いまの自分の心を一番よく語っている」と言って村上春樹の『国境の南、太陽の西』を送ってくれた人が、それに添えられた手紙か別なかたちでかは覚えていないが、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』のような本も書いていると言われたのを覚えている。その時の彼自身の状況のことを言いたかったのであろうかといまになって思い返している。それ以上のコンタクトを失ってしまったので想像してるだけである。当然彼も聖書のことは良く知っている。それにしても『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』は著者がアメリカ滞在の間に前後して書いたものである。

 

夫婦のことが正面から取り上げられているのは『ねじまき鳥クロニクル』が始めてである。『国境の南、太陽の西』で夫婦というかたちで主人公が出てくるが、彼はまだメタフォリカルな意味での「一人っ子」を抱えたままである。自分の世界で堂々巡りをして抜け出せないでいる。妻にもどうしてなのだろうと問いかけることもしない。そんな自分にようやく気づくことで終わっている。

その前の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、主人公は離婚をしているがそのことの原因も意味を探ろうともしない。ことは自分の手の届かないところで思いのままに動いていると諦観している。それでも不思議なことに巻き込まれていく。ハードボイルドを経験させられる。それで何とか自分の人生の責任に気づいていく。

この意味では『ねじまき鳥クロニクル』は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の続きである。出ていってしまった妻をそのままにしていた主人公が、今度は責任を持ってその妻を取り戻す闘いである。そのあいだに『国境の南、太陽の西』で妻にどうしてなのだろうと真剣に問いかけていく主人公がいる。そして『ねじまき鳥クロニクル』で夫婦が真剣に問題に対面していく。この辺は著者である村上春樹自身の変化なのであろう。

あるいはそのように読んでいる私自身のことであるとも言える。夫婦のことが分かってきた面と、どうしても分かり得ない部分を抱えながらなお格闘している自分自身のことである。その意味でこの『ねじまき鳥クロニクル』は、夫婦がどのような問題を抱え、どのように妻を買い戻していくのか、大変興味を注がれる。さらに何度か読んでいるうちに、妻を買い戻すテーマにどうして「ねじまき鳥」が必要であり、「クロニクル」であることが必要なのか考えなければならなかった。

またそのクロニクルの一部として、ノモンハンの事件が出て、満州での虐殺が出てくる。妻を買い戻すために、どうしてノモンハンが必要で、満州国が必要なのかと考えさせられる。妻を買い戻すことと戦争のことの結びつきは新しい視点を与えてくれた。同時に大変なことだと思わされている。とても重い課題を負わされることになる。

ともかく夫婦のテーマなので拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』でこの本のことを言及することになった。すでに隠しようもない体験をしていることになる。また次の本『夫婦で奏でる霊の歌雅歌を巡って』でも『ねじまき鳥クロニクル』を取り上げている。ストレートに夫婦のことである。取りも直さず自分自身のことである。妻を買い戻すための闘いをどのようにしなければならないのかと問いかけられている自分自身のテーマである。そのために払われなければならない犠牲であり、闘わなければならない闘いであり、流されなければならない血である。

 

「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。」「スパゲティーはゆであがる寸前だった」という書き出してこの物語は始まる。取るまいか、取らざるべきか、そんな迷いはスパゲティーをゆでたことがあると経験する。そんなためらいを感じさせながら物語の迷路に引き込まれていく。誘惑するような「謎の女」からの電話であった。その女が妻のクミコであることに気づくための苦闘が始まる。

妻が消えてしまうのと前後して、猫がいなくなってしまう。猫の名前はワタヤ・ノボル、クミコの兄の名前である。猫が戻ってくるのは、妻が戻ってくる兆候になる。サワラという新しい名前を付ける。それはクミコの兄の経済学者綿谷ノボルの死を与表する。どのように結びつくのか、それは迷路にもにている。

猫を探しに近所の路地に入る。そこで笠原メイという女の子に会う。その家の向かいの空き家に井戸があることを教えられる。乾いた井戸である。メイの家には井戸水があふれるように出てきていながら、その井戸は涸れたままである。呪われた家の涸れた井戸である。

主人公には名前がある。岡田享である。しかし「ねじまき鳥」と名乗る。猫探しのために不思議な名前の女に会う。加納マルタである。占い師のような、霊能者のような、ただ純粋な水を求めている女である。クミコの兄の紹介による。加納マルタには加納クレタという妹がいることを知らされる。

クミコが家を出ていってしまった日に、間宮中尉という人が訪ねてくる。クミコの両親の知り合いで、占い師であり、霊能者のような人であった木田さんという人とノモンハンで一緒であってという。木田さんの形見を届けてきたという。形見の中身は空であった。間宮中尉を岡田享に引き合わせるための木田さんの配慮であった。岡田享は木田さんの一言で何とか両親が承諾してくれてクミコと結婚ができた経緯がある。いろいろなことが結びついてくる。

 

この間宮中尉が木田さんと一緒に経験したノモンハンでのことが詳細に記されている。ノモンハンの戦いの前に参謀本部の山本という人と一緒に外蒙古の偵察に出る。目的を果たすが帰還前に外蒙軍に捕まる。ロシア人将校の「皮剥ボリス」から山本は皮を剥がされる拷問にあう。肩らか始まって両腕の皮、顔から爪先まで皮を剥がれる。なぜこんな描写が必要なのだろうかと思わせるほどの壮絶な情景である。

山本は最後まで口を割らなかった。それでロシア将校は何も知らなかったのだろうと思い、間宮中尉を砂漠のなかの井戸に放り込んで去っていく。真っ暗な井戸の底であった。涸れた井戸の底であった。一日に一度だけ太陽が天空にさしかかって差し込んでく。目も開けられないほどのまばゆい光りのなかにいる経験をする。一方、木田さんは蒙古兵の来るのを察して書類を取って身を隠していた。井戸をようやく見つけて間宮中尉を助け出す。書類は砂のなかに埋めて戻ってくる。ふたりだけの秘密であった。

この井戸の話を聞いて岡田享は笠原メイから教わった空き家の庭にある乾いた井戸に下りていくことになる。その間、夢のなかで加納クレタと交わることになる。一度はその女が「謎の女」に変わってしまう。また加納マルタと一緒にクミコの兄の綿谷ノボルに会う。そこでクミコが男を作って出ていったこと、離婚をしたがっているることを知らされる。しかし岡田享は納得をしない。それ以上に「下品な島の猿の話」をして綿谷ノボルを挑発する。

 

彼は枯れた真っ暗な井戸の底にいる。そこでクミコと出会い、結婚をした経緯を思い返す。当然クミコの両親と兄のことが出てくる。クミコにはひとりの姉がいた。その姉が自分で命を絶つことが起こった。そこに兄の異常性が関わっていることを感じ取る。ともかくクミコはそんな家族から抜け出すようにして岡田享と結婚をする。

結婚3年目に妊娠をする。彼が札幌に仕事で出かけているときにクミコはひとりで堕胎をしてしまう。クミコにはその理由が分かっていた。家系に隠れている呪いのようなものであった。彼女はまだ言えないという。彼はいたたまれない気持ちでひとりで夜空に出ていく。バーでひとりのギター弾きを見る。のちにこのギター弾きを東京で見ることになる。岡田享は彼と格闘し、彼がもっていたバットを持って帰ることになる。バットが闘いの武器になる。

井戸の底で夢を見る。ホテルの一室に閉じこめられている「謎の女」に会う。男が追ってくるからと言ってふたりで逃げる。その時壁抜けをする。小説の世界である。実際には起こりえないことを小説を書くことで体験をしているのである。そして右の頬の上に激しい熱を感じる。目を覚ましたときには壁のこちら側に戻っていることに気づく。

家に戻ってひげを剃ったときに右の頬にあざが付いていることに気づく。そのあざは井戸の底で夢を見たときに出会った「謎の女」と壁抜けをしたときに感じた熱によるものであることは確かであった。あざはその関わりを思い起こし、さらに何かの関わりがあることを示していた。

同時にクミコからの手紙が届いていた。堕胎のことに触れている。その時に話すべきことを話していたらこのようなことは起こらなかったかも知れないという。ただ話し出したらばいろいろなことがもっと決定的に駄目になってしまうのではないかと思って、自分のなかに飲み込んで消えることを願ったという。離婚と手続きをすることになるという。岡田享は妻について何も知らないのではないかと驚く。

 

彼が出てきた井戸に加納クレタも笠原メイも入ることになる。加納クレタはまさに壁抜けをして岡田享のところに来る。彼の隣で寝ている。そして彼女は自分の身に起こったことを話す。それは娼婦として綿谷ノボルのお客になったことである。しかしそれは異常なことであった。その異常性の描写は綿谷ノボルが妹であり、クミコの姉にしたことを想像させる。そして問題は、いまクミコがその同じ罠にとらえられていることである。

加納クレタは岡田享に話すことで解き放たれる。それでクレタ島に一緒に行こうと誘う。彼もその気になる。しかし同時に綿谷ノボルが政界に出ることを知る。伯父の新潟の選挙区から彼の跡を継いで出るという。問題が隠せないほど迫ってくる。綿谷ノボルは岡田享の手に負えないほど強力になっている。

笠原メイが井戸に下りていったときの話をする。自分のなかで溜まっていたものが井戸の底で膨らんでいって破裂するような感じになる。太陽の下では自分の中に収まっていたものが、井戸のなかでは栄養を吸い込むように膨らんでいく感じがして恐ろしかったという。そして岡田享の顔をあざをそっとなめる。その行為がのちに別な展開をもたらす。しかしここで笠原メイにひとつのいやしが届いてくる。

 

岡田享には彼らが住んでいる家を貸している叔父がいる。銀座に4.5軒の店を持っている。新しい店を出すときにその場所に立って何日もそこを通る人を眺めることだという。そうしたらそこがどのような場所かが分かるという。物事はどうでもいいことから始めなければならないという。あることにじっくり時間を掛けることは、一番の復讐になるという。

それで彼は新宿駅の西口の高層ビルの前の小さな広場のベンチに座って、何日も人を眺めることになる。ひとりの身なりのよい女性が話しかけてきた。「お金がほしいの」と聞く。その女性は彼のあざをじっと見ていた。何かを彼女に思い出させたようである。

そしてあのクミコが堕胎をしたときに行った札幌のバーで見たギターをもった男が目の前を通り過ぎていった。クミコがその時に言ったことを思い出さないわけに行かない。どこにいても逃げられないこと知る。クレタ島に行っているわけには行かない。彼は後をつける。安アパートでこの男の待ち伏せにあい、格闘となる。彼がもっていたバットを奪い返して、彼を叩きつけて、帰ってくる。バットを押入に隠しておく。

 

ことは動き出している。岡田享は逃げることはできない。加納クレタはクレタ島に行き、笠原メイは遠くの学校に行く。微かにねじまき鳥がねじを巻いている音が聞こえてくる。

区営プールで泳いでいると時に、巨大な井戸のなかで浮かんでいる幻影を見る。目を閉じているとホテルの一室にとらえられている「謎の女」に出会う。そしてその女がクミコであると気づく。暗闇の部屋から助け出されることを求めて叫んでいるのだと分かる。救い出すことの資格「買い戻しの権利」を持っているのは自分だけであると気づく。

 

闘いが始まる。そのしるしにように顔のあざが熱を持ってくる。あの井戸を何として手に入れなければならないと思う。また新宿駅の西口の高層ビルの前の小さなベンチに座って、通りすぎる人を眺めることになる。また同じ女性が現れ、「どうやらお金が必要になったようです」という。

ここからこの女性、ナツメグと、その子どもで言葉を失ってしまったシナモンの家族に起こったことと、この母子がいましている「仮縫い」の仕事に岡田享は巻き込まれていく。それは同時に政界に出ている綿谷ノボルの野心に大いに抵触することになる。ナツメグの家系に呪いのように伝わっている悪の力と、綿谷ノボルに隠されている悪の力との闘いになる。そのあいだで岡田享は格闘をする。

ナツメグは幼いとき母と満州から引き上げてきた。獣医である父親をおいてきた。洋裁とデザインの才能があり、その面で有名になる。彼女の夫はあるホテルの一室で醜い死を遂げる。その幻影を幼いシナモンが真夜中に自分の部屋から見ることになる。それで言葉を失う。ナツメグは自分のうちに隠れていた霊力を用いて、政界、財界の婦人たちのいやしを「仮縫い」ということで行うことになる。シナモンはその助手として働いている。

岡田享はその「仮縫い」をナツメグに代わってすることになる。それは彼のほほにあるあざによってである。婦人たちが、笠原メイがしたように、なめるのである。その同じようなあざをナツメグの父である獣医が持っていたことを聞く。あざで結びついていることを知る。ナツメグからさらに、獣医が担当していた満州の動物園で、戦争末期で動物たちを殺す話を聞く。その話をシナモンにもしてきたという。

「仮縫い」の場が、笠原メイの家の前の空き家であったところに移る。ナツメグとシナモンがそこを買い取って、高い塀に囲まれたコンクリートの建物としていたのである。岡田享は路地を抜けて通うことになる。猫が家に帰ってくる。それはクミコが家に帰ってくることのさきがけとなる。

井戸の底はクミコが閉じこめられているホテルの一室に通じる意識の通路になる。その壁が少しずつ溶けていくことが分かる。闇の奥にクミコが助けを求めていることが分かる。その井戸の底で岡田享はバットをしっかりと握って時を待っている。

 

呪われた空き家でのことが週刊誌の種になる。政治家になった綿谷ノボルの神経に触れる。彼の伯父も満州に絡んでいる。彼は岡田享をその場から引き離すために取引を始める。しかし岡田享は拒絶する。核心に近づいていく。

遠くに行った笠原メイから何度も手紙が届く。岡田享のあざをなめることで癒された彼女は人生を真剣に生きようとする。一生懸命に仕事をする。ただそんな文面の手紙が届く。暗闇の闘いをしているなかでの清涼飲料のように届いてくる。後でそんな手紙は届いていなかったとメイにいう。

綿谷ノボルの使い走りによって、シナモンが使っているコンピューターでクミコとやり取りをすることになる。猫が帰ってきたことを告げる。自分はもう駄目になってしまったので捜さないでほしいとクミコは訴える。その駄目になったのは、「もっと長い時間のことです」という。結婚前からのことという。彼はクミコが綿谷ノボルに精神的にとらえられていることを確認する。忘れてほしいと言っているけれども、助けを求めているその声を聞くことができるとクミコに告げる。

綿谷ノボルは政界の寵児として躍り出ている。ナツメグは岡田享が彼の義弟であることを知る。それで「仮縫い」は終わることになる。政界の見えない暗部に触れてくる。岡田享は綿谷ノボルの走り使いを通してコンピューターを通して綿谷ノボルとやり取りをする。彼の暗部に岡田享はナイフを突きつける。死んだクミコの姉にしたことが何であるか分かっていると告げる。綿谷ノボルの仮面の下の秘密に近づいている。

同じコンピューターから「ねじまき鳥クロニクル」が画面に出てくる。その8番目を押す。それは獣医の物語であった。8人の兵士に引き連れられて動物園で殺された4人の中国人のことであった。野球のユニホームを着ていた。その3人を銃剣で殺し、残りのひとりをバットで叩き殺す。北海道出身の若い兵士がバットで叩き殺す。まさにバットである。若い兵士はねじまき鳥のなく声を聞く。

岡田享は、この「ねじまき鳥クロニクル」がシナモンによって語られた物語であることを確信する。クロニクルの8番目なのでその前後の物語りもあるわけである。なぜシナモンはこの物語を作る必要があったのであろうか。なぜそれを岡田享に見せる必要があったのだろうか。「ねじまき鳥」のことは、はナツメグも無意識にではあるがすでに語っていたことを思い出す。特定の人にしか聞こえない「ねじまき鳥」で結びついていることを知る。

 

「仮縫い」の仕事もなくなり、岡田享は行き詰まる。行き詰まったら街に出る。街で綿谷ノボルの使い走りに会う。彼がすでに綿谷ノボルから手を引いていることを知る。使い走りは綿谷家のややこしい問題をかぎ取っている。クミコが強引に引き戻されてしまったことを感じ取っている。それは岡田享の手に負えない闘いであることを告げる。

間宮中尉からの手紙が届く。終戦間際にソ連軍の戦車に引かれて左腕を失う。シベリヤでの抑留生活で、モンゴルで出会った皮剥ボリスに遭遇する。彼を銃で打ちそこなったが、帰還を許される。皮剥ボリスのことがまた出てきた。それが何を意味するのか、それを語ることがどのような意味をもたらすのか、間宮中尉も分からないという。

岡田享はあてどなく井戸に下りていく。バットがないことで慌てる。しかし、井戸の底で区営プールで泳いだときのことを思い出す。そして眠りに落ちる。そして壁を抜ける。あのホテルにいる。ロビーのテレビで衆院議員の綿谷ノボルが暴漢に襲われて重傷を負ったことが放映されていた。バットで頭を強打されたという。その男の顔にはあざがあると言っている。

岡田享は逃げ出す。不思議な顔のない男の手助けをいただく。誰なのか。「私は虚ろな人間です」という。女のいる部屋まで導かれる。女は「顔を照らさないで」という。彼は1年5ヶ月ぶりに会えたという。クミコだと告げる。「私に会うために?」とクミコの声が返ってくる。会うためではなくて、「取り戻すために来たんだ」と告げる。「愛しているから」という。

岡田享はクミコに謎を解き明かす。クミコが組み込まれた謎である。綿谷ノボルが引き込んだ闇である。それでクミコのお姉さんが死を選ぶことになった闇である。それでクミコ自身が妊娠で子に伝わることを恐れていた闇である。自分と結婚することで一時的には逃れることができたが、妊娠をすることで呼び覚まされた闇である。綿谷ノボル自身がそれがなければ生きられない闇である。それでクミコを自分のところに引き込んだ闇である。

岡田享は「君をここから連れて帰る」という。女は自分がクミコであるという自信はあるのかと聞く。「心は決まっている」という。彼女はプレゼントがあるという。あのバッタであった。綿谷ノボルの頭を殴ったバッタであった。ドアをノックする音がする。逃げてと彼女は言う。彼は「これは戦争なのだ」という。

 

男はナイフを持っていた。岡田享はバットを持っていた。男のナイフで何度か傷つけられる。しかし彼の完璧なスイングが男を叩きのめす。彼は疲れ果ててソファーに座り込む。クミコを連れて返らないといけないと思っても、意識はやがて薄れていく。

気づいたときには、井戸の底にいる。しかしいつもとは違っていた。水が湧き出ていた。それだけでない。水は増してきている。そして、水に飲み込まれていく。

「仮縫い」の屋敷で目を覚ます。ナツメグは、シナモンが井戸から救い出して、連れてきたという。それだけでなく、綿谷ノボルが長崎で脳溢血で倒れて、意識を失ったままであることを知らされる。自分が殴り殺したこととどのように繋がっているのか考える。クミコはどうなったのか思い惑う。

体力が回復してきて、鏡を見て驚く。あざが消えている。そしてコンピューターからシナモンが呼んでいることが分かる。「ねじまき鳥クロニクル」の17番目が添えられている。それはクミコからのものであった。

コンピューターに接続するためのパスワードを誰からから送られてきたという。綿谷ノボルは生命維持装置に繋がれている。そのプラグを抜いて、自分が綿谷ノボルを殺さなければならないという。それをしなければ解放されないことを分かっている。そのための裁きを受ける覚悟だという。

クミコは保釈されることを拒否した。静かに拘置所で裁きを待っている。すべてが終わるまで岡田享にも会おうとしない。彼もすべてが終わるまで家で待つことにする。そうするように彼は戦ってきたのだという。もっとひどいことにもなりえたのだ。

 

この物語はいろいろな関わりを持って展開しているので、鳥瞰図的に流れを追ってみた。その繋がりは人間関係であり、歴史的であり、意識下のことであり、メタフォリカルである。それは現実に誰もが抱えてる関わりであり、繋がりである。すなわち、誰もが人との関わりで生きており、時間的な関わりでどこかに繋がっており、無意識の世界の繋がりを持っており、あらゆることにメタフォリカルに結びついている。あのバットのように。

そのような関わりは、夫婦がお互いをより理解しようと思い、ひとつになろうと願えば、プラスに働くときがあり、マイナスに働くときがある。マイナスに働く面で決定的にふたりを引き裂くことがあり、一時的に負わなければならない課題として出てくることがある。岡田享とクミコはそのマイナスの面を極度に負わされることになり、崖淵に立たされる。クミコが妊娠によって気づいた自分の家系の呪いのようなものである。

同時にプラスの関わりで、彼らも助けをいただくことになる。あの木田さんのような人によってである。また彼の叔父もそうである。笠原メイの役割はマイナスではないが、積極的な意味でプラスでもない。それでも回復のメタファーになっている。

前作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではその関わりは意識下とメタフォリカルなことが中心であった。今回の物語は、それにさらに歴史的な関わりと人間関係が深くが入ってきている。関わっている人間にそれぞれの歴史的な関わりがあり、その背後にさらに意識下の関わりとメタフォリカルな関わりが潜んでいる。シナモンがそうである。

そなんなこんなでこの物語は、その繋がりを見つけだすだけでも楽しみである。あのホテルで岡田享を助けた顔のない男、虚ろな人間は誰なのか。木田さんが自分の形見をといって結びつけ、皮剥ボリスと井戸の話をした間宮中尉であろうか。別に特定する必要もないことである。また笠原メイの手紙は何を意味しているのであろうか。岡田享の回復のプロセスを先駆けているようにも思える。

 

岡田享はクミコの両親の紹介で、それがふたりの結婚の条件であったが、木田さんという人に会うことでノモンハンの戦争のことを知る。その木田さんを通して間宮中尉の話を聞くことになる。その間宮中尉が訪ねてきた日にクミコが家を出ていく。すでにクミコの失踪とノモンハンが繋がってきている。ふたりの意識の深くにあること、厳密にはクミコのといったほうがいいのかも知れないが、その意識下のことが遠くノモンハンまで結びついていく。

意識の世界がどんどん延ばされてその先を辿っていく。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではどんどん下に下降がっていったのであるが、ここでは時間の世界を遡りながら、意識の世界を広げていく。時間を限りなく広げていくと、時間という枠が消えて、意識下の世界が出てくる。それが井戸である。

終戦間際の混乱を通ったのがシナモンの母のナツメグである。その話をシナモンが受け継いでいる。シナモン自身の世界になっている。シナモンは言葉を失ってしまったが、書くことはできた。母から聞いた話を結びつけながら回復を願う。その話が「クロニクル」である。岡田享は自分の顔のあざと自分に手渡されたバットがこのクロニクルにあることを知る。そして、クミコが家に帰ってくることでシナモンのクロニクルが完成する。

クロニクルは「年代記」である。しかし、それは単なる過去の出来事の羅列ではなくて、その連続して動いていることのなかに意味を見いだしてまとめている記者の視点の世界である。この物語は岡田享の関わっている世界のクロニクルであるが、それがシナモンによってまとめられることで、シナモン自身の回復になっている。またシナモンによって提示されることで岡田享は自分のおかれている世界を知ることになる。

あのバットのことはシナモンが提示したクロニクルの8番目で知ることになる。またクミコのメッセージは16巻でまとめられているクロニクルの続きの17番目に届けられる。

 

誰もが自分のクロニクルを持っている。持っているというより、そのクロニクルに含まれている流れで生きている。ひとつのことがある力をもって押し寄せ、その流れに押し流されるように、あるいはそれに対抗しながら生きている。そは悪の力でもあり、善の力でもある。

私の名前は「上沼」である。関西の有名なタレントで「上沼美恵子」という人がいる。ただ同じ「上沼」でも、私の読み方は「うえぬま」であり、彼女のものは「かみぬま」である。私も結構学校で先生から「かみぬま」と呼ばれた。面倒なのでそのまま返事をしていた。父の出身は長野の飯田市外の下伊那郡である。数年前に従兄と話をしていたときに、ひとつの部落の半分が「かみぬま」といい、後の半分が「うえぬま」と名乗っていたという。「上沼恵美子」さんの家系はその半分の出身であるという。その部落でいままでどのようなことが起こってきたのかを知るよしもないが、父はともかくその半分の出身であり、私もそれを受け継いでいる。

妻の名前はLyonであった。カタカナにするとライオンになる。しかしもとの読み方はドイツのと国境のフランスのリヨンである。それでもドイツ系の家系である。母方もドイツ系である。妻の世代でもその先を3代か、4代遡ればヨーロッパからの移民である。どのような経緯を通してアメリカに渡ってきたのかは知らない。3代ぐらい前まではよく話しに出てくる。妻がそのようななかで確実に受け継いできているものがある。

考えてみるとそれぞれが大変なクロニクルを負って生きていることになる。そこにプラスの流れがあり、マイナスの流れがある。そんなふたりが不思議に出会い、導かれている。それはただミステリーとしてしか言いようのないことである。

 

このクロニクルに「ねじまき鳥」とつけられている。過去のある流れは大きな力となって押し寄せてくる。加速度が付いているので止めることができない。その力がマイナスの時には思いがけない潜在力となって破壊力を発揮する。その人の人格を駄目にし、人生を狂わせ、結婚を破綻させてしまう。それを阻止し、流れを変えていかなければならない。新しいねじを巻かなければならない。

過去の暗い歴史がある。それが記憶に浸食していく。意識下の世界を支配していく。知らないうちに同じことを繰り返してしまう。止めることができない。流れを変えなければならない。誰かがねじを巻かなければならない。ねじまき鳥はメタファーである。ある特定の人しか聞くことができない。岡田享が聞き、ナツメグが聞いている。岡田享は自分を「ねじまき鳥」と呼ぶ。シナモンは「ねじまき鳥クロニクル」を岡田享に送っている。

 

過去の暗い歴史は、日本が関わってきた戦争である。そこで起こったことが語ることができなくても記憶として私たちのなかに浸食している。語られないために記憶はますます暗い闇包まれ、変色していく。それが私たちの意識下の世界にまで届いてくる。心の深いところで闇としてとどまっている。

どの国も、どの民族も戦争を避けないでしてきている。それでも私たちの場合にはその戦争のことがことのほか重い記憶として残っている。いまだにその責任を明確にしていない。できないでいる。語ることもできない。それでいて誰もが重い空気を感じている。そんなどんよりとした流れが私たちの心の底にある。

そんな流れが人に継がれてクミコにまで来ている。岡田享と結婚をすることでその流れから外れたと思っていたが、妊娠を通して引き戻されることになる。岡田享ももはや避けることができない。そこは闘いの場であり、血が流されるところである。

この物語を読み出して、どうしてノモンハンのことが出てくる必要があるのかと考えさせられる。しかも皮剥の場面がどうして必要なのかと思わされる。さらに満州国の悲惨な結末、中国人へのバットでの虐殺の場面がどうして必要なのかと何度も考えさせられる。しかもその描写は自分がその場にいて見ているかのような錯覚すら呼び起こすものである。忘れられない記憶を残していく。

 

村上春樹の作品には、戦争のここと大学紛争のことが必ずと言っていいほど出てくる。それは過去の暗い歴史が、悪の力として私たちのなかに潜在的な流れとして染み込んでいると見ているからである。その力が呪いのように私たちの心をとらえていることを知っているからである。意識下の世界で捕らえられている心を感じ取っているからである。彼はそれを時代の病、文化の病、国の病と呼んでいる。

同時に、村上春樹はそれを民族の病と見ている。過去に起こったことが遺伝のように伝わって引き継がれていき、どこかで膿のように次の災いを引き起こす。クミコの家族に引き継がれたものが何であったのかは、大きな問題ではない。ただ何か異様なものを引き継いでるとという事実である。伯父が満州国に高官として関わっていた。戦後衆議院議員になり、その後を綿谷ノボルが引き継ぐ。そのあたりから悪の力が表面に出てくる。

その満州国の話と、その前のノモンハンのことを村上春樹は避けることができないこと見ている。それは民族とてしの日本人に受け継がれていると見ている。同じ意味で大学紛争のことも見ている。そんな村上春樹の視点に気づいて私も戦争のことと大学紛争のことを考えている。過去のことであることは変わりがない。それでいてその何かを引く継いでいる。病のように引き継いでいる。

そんなことで会話やセミナーで、戦争と大学紛争のことを避けることのできないこととして出している。それは出せない、語れないということで、過去のことが潜在的な悪の力となって私たちのなかに流れていると思うからである。信仰者でもこれらのことを語れないために、大きな闇として心を覆ってしまっているからである。

大学紛争と戦争のことを会話やセミナーで出すときに、村上春樹がどうしてそれらのことを小説に出しているのかを説明することにしている。皮剥の場面が克明に描写されていること、バットで叩き殺す場面に吸い込まれしまいそうになることを説明する。夫婦の物語りにそのような描写が出てくる必要性を問いかける。

問いかけに答えてくれて、また何かに気づいてくれて、自分たちのことを語り出してくれる。大学闘争のまっただ中にいたこと、敵前逃亡をしたこと、互いに語れないでただ心に閉まっていたこと、私の同年輩の人であれば誰でもかどこかで経験してきたことを語ってくれた。戦争のさなかで少女として辱めを受けたこと、戦争を契機としていまアメリカに住んでいること、思いがけない苦渋を味わったこと、話してくれる。

話すことで心が解き放たれることが分かる。心の奥に閉まっていたものが解消されるのが分かる。そんな人生をいとおしく想う心が浮かんでくることが分かる。そんな経験をしている。村上春樹体験の一面である。

 

岡田享は、強力な力を身に着けてきた綿谷ノボルがクミコを飲み込んでいることを知る。引き継がれた悪の力にクミコが捕らえられていることを知る。間宮中尉が語ってくれたノモンハンの異常な出来事は、岡田享を同じような状況に導く。そのための木田さんの引き合わせである。

この悪の力と戦うために血が流されなければならない。戦わなければならない。それはただ武器を持って戦うことではない。井戸の底に下りていくことである。岡田享が直接にからだを持って格闘したのは、札幌で見たギター弾きの男との時だけであった。その格闘で不思議にバットを引き継ぐことになり、そのバットで壁の向こうで綿谷ノボルの頭を叩きのめすことになる。しかもそれは井戸の底の壁の向こうでのことである。

井戸の底に降りていくことは、闘いの相手である綿谷ノボルの心の底に到達するためである。一見整っているように見える表層の下のクラゲのようなぬるぬるした闇の世界をさらけ出すためである。彼の内側にある悪の力の核心に届くためである。そして、クミコを束縛している綿谷ノボルを壊滅するためである。

井戸の底に降りていくことはエネルギーのいることである。自分の過去を思い起こし、自分の心を見つめることは厳しいことである。岡田享が井戸の底でクミコが出ていくことになる原因に突き当たることである。原因を知っただけ、その解明のために責任を負うことである。闘いを覚悟することである。どのようなことが起こっても受け止める覚悟である。それはすでに避けられないからである。まさにねじを巻くことである。

 

ねじを巻くのは誰か。私たち信仰者にとってはそれは神からいただく恵みによっている。自分の内から自然に湧いてくるものではない、私たちのなかにはむしろ私たちを滅びに至らせる悪の力が強い。放っておいたらば流されてしまう。それを自分で食い止めて流れを変えるのは難しい。そのような悪の力が自分のなかで働いていることを良く知っている。その流れを阻止し、変えなければならないことを良く知っている。

神の恵みはそのような流れを変える力がある。人生の流れを変える力である。それぞれがどうにもならない負い目を負いながら歩んでいても、その負い目にまかされないで新しい方向に歩んでいく力である。またその新しい流れが心の深くに浸透することで方向転換していく力である。

そのために自分の心の底に降りていくことである。その底でじっと自分の心を見つめることである。心の深くで自分の闇を見ることである。闇で光りを体験することである。闇を支配している力を暴くことである。井戸の底で壁を抜けて、自分の世界を出ていくことである。壁の向こうで苦しんでいる人を助け出すことである。

 

出ていった妻を買い戻すストーリーは、井戸の底に降りていって、クロニクルを完成することで終わる。

 

上沼昌雄記

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