「新しいフォーマット」2005年11月21日(月)

ウイークリー瞑想

 新しいコンピュータに今までのものをすべて転送して、使い出して一 週間ほど経ちました。新しいおもちゃを手にして喜んでいる子どものよ うな感覚で使い始めたのですが、結構いろいろなところで調整が必要に なってきています。iBookの機能には日本語がそのまま使えるよ うになっています。iBookG4ではそれがさらに徹底してきている ようです。

 それでも基本的には英語環境のなかで日本語を使用しているという感 覚は残っています。新しい仕様方式になって、半角の取り方、カタカナ への変換、句読点の位置などで調整が必要になりました。そして慣れる のに結構時間がかかります。新しい仕様環境にいることを認めることに 抵抗を感じてしまいます。前のもののほうが使いやすかったと思うとき もあります。

 いずれは慣れていくのだろうと自分に言い聞かせています。新しい機 能を楽しんでもいます。それでもまだどこかで居心地の悪さを感じてい ます。新しいコンピュータの仕様方式を認めたくない変な意地も出てき ます。同時にその新しい機能をもっと知りたいと思います。自由にコン ピュータを操ってみたいとも思います。

 新しいコンピュータを楽しんでいる自分と、慣れるのにいらいらして 不機嫌になっている自分に気づいて、いま自分が神様の新しいフォー マットに置かれていてもがいている姿を語っているように思えてきまし た。振り返ってみると、この1年でも自分の置かれている環境も随分変 化してきています。妻の闘病があり、子どもが結婚していきました。こ の3月に還暦を迎えました。ミニストリーの事務所を物置に移動しつつ あります。山の教会の暗転があります。理事として関わっているJCF Nの太平洋を挟んだとてつもない大きな展開があります。

 神様がシフトを変えて来ています。今までのものでは対応しきれない フォーマットになっています。調整するのにいらだっている自分がいま す。前と同じままで動こうとする自分がいます。今までのほうがよかっ たと思っている自分がいます。変革を恐れている自分がいます。これか らどうなるのだろうかと心配している自分がいます。神様の新しい皮袋 の前で古い皮袋を握っている自分をみます。

 コンピュータの場合は、キーボードのどこを押せばシフト変換ができ 操作ができるかを、マニュアルをたよりに学んでいくことができます。いらいらしながらも少しずつ対応きます。神様のフォーマットは同じよ うには行きません。何とか変革をし、操作を覚えて神様のフォーマット になれたかと思うと、また次のまったく異なったファーマットが出てき ます。どのように対応し、調整したらよいのか迷います。ようやく慣れ たと思ったらまた新しいキーボードが出てきます。その都度新しい ファーマットに対応することになります。しかもマニュアルがありませ ん。いつも試行錯誤です。

 コンピュータの場合はマニュアルをしっかり読めば何とか分かりま す。聖書はマニュアルではありません。いろいろな試行錯誤のパターン の収集本のようです。じっくりと読んで行くと、神様のフォーマットに 合わないでもがき、いらだっている神の民の苦悩が聞こえてきます。

上沼昌雄記

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「新しいコンピュータ」2005年11月15日(火)  

ウイークリー瞑想

 3年以上使っていたマックのiBookのスクリーンが不調を来し てきて、思い切って新しいiBookG4を購入しました。3年間の保 証期限を過ぎてしまったので、修理に出すのと新しいものを購入するの とどちらが良いのかの判断が求められた末での決断でした。この記事は 最初の作品になります。

  ミニストリーではコンピュータを、メールでのやり取り、ウイーク リー瞑想や神学モノローグ、ニュースレターなどの執筆で毎日のように 使っています。コンピュータはミニストリーにとってなくてはならない 道具です。それよりもコンピュータの進展とともに歩んできたと言って も過言ではありません。16年前に小さなマックをいまの値段の3倍は 出して買いました。機能はいまのものに比べたらほんの幼稚なものでし た。それから数えるとこの新しいiBookG4が5台目になります。 まさに5代目です。機能は比較にならないほどです。

  最初のかわいい箱のマックでミニストリーの最初のモノグラフ『三位 一体の神』(1991年)を書きました。それから『存在の感謝』『痛 みと苦しみ』『三位一体の神との祈り』『結婚の神学』等を出して、そ れらを用いてセミナーをしてきました。インターネットができるように なってからミニストリーとしてのホームページを開設し、ウイークリー 瞑想と神学モノローグの記事を定期的に発信してきました。

  前のiBookになって男性集会のことを書いてみたいと思って 『夫たちよ、妻の話を聞こう』としてまとめました。原稿を自分のコン ピュータからそのまま出版社に送るという離れ業ができることが分かり ました。作家の村上春樹はマックでないと文章が書けないと言っていま す。ただ川端康成の文章はコンピュータでは書けないようなことを言っ ています。  自分の周りで起こったことと自分の心が結びついて『苦しみを通して 神に近づく』を同じようにiBookで書きました。スクリーンの中 の自分の原稿とにらめっこをしていました。最初は『夫たちよ、、、』 の続きを書こうと思っていました。しかし不思議に神が『苦しみ を、、、』を書くように導かれました。その意味は私にとって計り知れ ないものがありました。  この夏の始まり頃から雅歌を用いての夫婦のことを書き出しました。 男性集会から始まって夫婦のセミナーに至った道筋を、雅歌を追いなが ら書いてみました。原稿の推敲を始めた頃からスクリーンの不調が出て きました。何とか持ち堪えさせながら推敲を一応終えて、原稿を脱稿す ることができました。日本時間のこの月曜の朝でした。

  新しいiBookG4を起動して驚いたのは、前のiBookのド キュメントを含めてすべてを転送しますかと問いかけてきたことです。 一応大切なものは保存をしてきたのですが、いままでのメールやアドレ スはやり直さないといけないと思っていましたので、大変助かりまし た。コンピュータが分かっている人にとっては当然のことなのですが、 20分ほどで前のものをそのまま使いながら新しい仕様の下でいままで の続きを始めることができました。

  自分の働きを風のようなミニストリーと思うときがあります。イン ターネットでどこにでも飛んでいくことができます。もちろん顔を合わ せ、語り合うことはもっと大切です。私もそれを必要としています。そ れでもいまの時代にインターネットを通してどこにでも繋がることがで きます。日本、シンガポール、東海岸と信じられないほど遠く離れてい ても、どこかで共鳴と共感が生まれてきます。それが御霊によるもので あることを願いつつミニストリーをしています。

 上沼昌雄記

「年をとることと霊的識別」2005年11月7日(月)

ウイークリー瞑想

 前回のウイークリー瞑想「霊的観測」に対して、同年輩の方々からレスポンスをいただきました。神のみこころ、神に喜ばれることを「見分ける」霊的識別に関して、失敗をしてきて、いまだに難しさを覚えますという告白に近いものです。ひとりの方が次のように書いてくださいました。

  「『何が正しく、神に喜ばれるかを見極める』ことは、いつも求めていながら、自分でも実現しているとは思えません。自分でも気がつかないうちに、これとは逆なことをしていることもあります。自分の性格や習慣も関係しているかもしれません。でも、この自分の弱さを認めつつ、神との正しい関係に立ち返ることが、大切なのかもしれませんね。日々祈りつつこの修正作業をしています。」

 この方は拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』の「ある男性の物語り」の項目で証を書いてくださいました。そこで言われていることを思い出しました。「格言2ーー人は歳をとるほど『良い人』になるわけでない。」

 人は年をとれば、それなりに経験を積み、見識も豊かになり、それなりの風格も備わってきます。そのために社会的に責任のある仕事を任されます。私もある団体の責任をいただいています。年相応のことと納得しています。

 しかし内面的な面で振り返ってみると、神に喜ばれることを見極めることに関して、判断し損ねてきたことをむしろ思い出します。うまく見極めることができたという痛快さより、失敗してきたという悔いのほうが先に出てきます。どこかで自分のエゴやプライドで判断してきたことを知らされます。そして同じようなことを繰り返してきたようにも思います。

 それでは恵みがなくなってしまったかというと、そうではないことも知らされます。失敗をして遠道をしても、どこかで修正をいただいています。それが自分の通るべき道であったと納得もいただいています。ただ現実に見損なってきたことを思い出します。年をとったしるしなのかとも思います。

 前回の瞑想の最後に書きました。「取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。」そして「この言葉に共鳴しました。」という一言のレスポンスもいただきました。この方も年とともに同じような難しさを経験しているのだろうと想像しました。

 年とともに私のなかにももいろいろな経験があります。少しは知識もあります。しかしそれをたよりにしてしまったら、また見極めることで失敗をしてしまうのだろうとも薄々感じます。どこかでいつも自分の知識や経験で判断をしようとする力を感じます。しかし、それらを引っ込めて白紙の状態で神のみこころを求めていくことが、年とともに必要なのだろうと思わされています。結構難しいことです。「日々新たにされる」(2コリント4:16)ことの一面なのかも知れません。

上沼昌雄記

「霊的観測」2005年11月1日(火)

ウイークリー瞑想
 
 北加日本人クリスチャンリトリートに参加して「霊的祭典」という記事を書きました。事務局の姉妹に送りました。この日曜の午後に修養会を振り返っての委員会がありました。その折りにウイークリー瞑想「霊的祭典」をコピーして委員の方々に渡してくださったと言うことです。「的を得た、霊的観測」と受け止めてくださったと言うことです。
 
 霊的観測と聞いて、アンテナを掲げて霊の気象を観測している測候所のこと思いました。しかし霊的に正しいかどうか見張っているわけではありません。参加している人たちの霊的な反応を知りたいのです。修養会の霊的な流れを知りたいのです。自分にとっての意味を知りたいのです。神がこの時に何を求めておられるのかを知りたいのです。
 
 聖書に神のみこころ、すなわち、何が大切で神に喜ばれるのかを「わきまえ知る」(ロマ書12:2)、「見分ける」(エペソ5:10)ことが求められていることが分かります。その見分けることのできる人を「熟練した者」(2テモト2:15)と呼んでいます。そしてその人には「練られた品性」(ロマ5:4)が備えられると言っています。
 
 神学校でギリシャ語で調べて、つながりを見つけて感動しました。このことばの意味をよく語ってきました。それでは自分が神に喜ばれることを見極めてきたのかというとそうではありません。失敗をしてきました。そのために苦労もしました。人を悲しませて来ました。よく見ると周りの牧師も、教会も神学校も判断を誤ってしまったことがあります。聖書をどんなに知っていても、正しい解釈をしていると思っても、それだけでは神のみこころを見分けることにはならないようです。
 
 リトリートの最後の晩の集会の後に、講師と牧師を招いてくださいました。反省会とお茶会のときでした。事務局の姉妹が、集会での賛美を含めての霊的な流れについて語りました。講師の話が、聖書の教えをいったん懐に入れて、そこから出してくれたので、参加者が聞きやすかったと言われました。多くの場合に聖書からそのままなので聞き難いと、手真似をして語ってくださいました。私も感じたことでした。的確に表現してくださったので、同感ですとお伝えしました。
 
 霊的な判断や識別は、知識や経験ではありません。ただ霊的なこととしか言えません。「信徒は、霊的に何が真実なのかを見極めています。」と前回の記事に書きました。たとい言葉で表現できなくても、霊的には識別しています。それでこのリトリートにも多くの人が集ってきました。どうしてそのような霊的識別が可能なのか、大変興味があります。霊性神学の認識論の課題です。
 
 結婚相手を決めるときには、真剣にみこころかどうか求めます。今晩の夕食の献立を決めるときにはどうでしょうか。私たちはいつでもどこかで何かによって判断しています。聖書と信仰と直感との折混じったところで判断しています。取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。
 
 上沼昌雄記
 

「霊の祭典」2005年10月26日(水)

ウイークリー瞑想

  昨日まで北加日本人クリスチャン・リトリートが、スタンホード大学の近くのカトリックの施設を借りてありました。この数年はこの時期に日本で奉仕をしていましたので、しばらくぶりに参加することができました。北加というのは北カルフォルニアのことです。サンフランシスコ、バークレー、サンフォゼ、サクラメント、フレスノを中心に30ほどの日本人教会があります。27の教会から150名の参加をいただきました。講師は日本からの村上宣道先生でした。

 リトリートはこの十数年少しずつ参加者が増えてきました。元々は戦前からあったリベラルの教会の流れをもっていたために、福音的な二つの団体が参加を拒否してきました。サクラメントの荒井牧師がキリストにある一致を求めて、北カルフォルニアの日本人教会、クリスチャンを忍耐をもって励ましてきました。いずれは消えてしまうのではないかと思ったこともあります。今回参加して大きく飛躍していることが分かりました。驚きました。

 荒井牧師が最後の日の早朝祈祷会で、北カルフォルニアで結構随分の教派があるのですが、その違いを越えてほとんどの教会からの参加者をいただき、心をひとつにして賛美し礼拝をささげていることを、「霊の祭典」と表現されて感謝の祈りをささげました。お祭り騒ぎのように浮かれているわけでありませんでした。メッセージを通して参加者が静かに神に聞いていることが分かりました。それを霊の祭典と言われて、なるほどと思いました。

 リベラルの教会を母体に始まったことなので今でも参加を拒否している牧師もいるようです。現実にはそのような教会から信徒が参加しています。このリトリートには何かを惹きつける霊的な魅力があります。決してある方向に参加者を導こうとしているような力ではありません。むしろ示され気づかされたことにそれぞれが進んでいく喜びと自由です。御霊の自由です。自由ですので各自の思いのまま動いています。それでいながら御霊に導かれているので、教派でも、教会でも、講師でも、奉仕者でもなく、神に向いていることが分かります。

 霊の祭典に参加することで、神の国での私たちの集まりを想像することができます。この地上での教派や教会の違いが消えます。キリストにあって生かされている恵みを共に感謝できます。御霊の自由をより深く経験します。霊的な魅力が際だってきます。参加者が輝いてきます。救いにあずかる人が起こされます。恵みのサプライズが増えてきます。地上での苦しみにまさる恵みの豊かさを想像できます。今までの人生を感謝できます。神の家族の一員であることをうれしく思います。

 牧師や指導者は自分の教派や教会の教えが一番正しいと思うので、違いを大切にします。信徒はそれよりも霊の祭典を求めます。霊的に何が真実なのかを見極めています。それを聞きつけて集まってきます。そのような場を提供していく責任があります。北カルフォルニアで日本人クリスチャンが霊の祭典を体験しています。神が何かをなそうとされていることを感じます。

上沼昌雄記

「そら、花婿だ。迎えに出よ。」2005年10月12日(水)

ウイークリー瞑想

 

 祭壇の前で待っている花婿のところに、家族と親戚と友人が見守っている中を、結婚行進曲に合わせて、娘を連れていくことを初めて経験しました。花婿のところに喜んで向かっている娘の心が伝わってきました。花婿と一緒になることを切に願っている思いを感じることができました。そのように娘を送り出すことができる喜びをも知ることができました。この時のために共に生かされてきたことが分かりました。

 

 イエスが神の国を語るときに、結婚式と披露宴をたとえとして用いていることが何となく分かるような気がしました。「そら、花婿だ。迎えに出よ。」(マタイ25:6)というのもその一つの表現です。花嫁が花婿を慕い求める思いの深さを、神の国での出来事として用いています。花婿と花嫁がひとつとされること、神の国でキリストと私たちが一つとされることをパラレルに見ていることが分かります。13世紀のリュースブルグという人はこのマタイ福音書のことばから『霊的な婚姻』という本を書いています。

 

 娘がこの人ですと言って来たときの心と思いの確かさが、結婚式でよく分かりました。その人とひとつになることが自分の人生であることに納得していることを、そのまま受け止めることができました。結婚式は、花婿が花嫁を迎えるようなかたちですが、よく見ると、花嫁が花婿を迎えに出かけてきている式でもあることが分かります。家族や親戚や友人たちの前で、そこから出ていって花婿を迎え、ふたりがひとつなるための式です。

 

 花婿の家族、親戚、友人たちとの交わりをいただいて、彼が深い信頼をもって受け入れられていることが分かりました。神への信頼で家族が結ばれていることを知りました。娘を心から歓迎していてくれることが分かりました。安心して娘を任せることができます。私たちにもさらに花婿の家族と親戚の輪が加えられました。

 

 妻の家族と親戚も、日本にいる宣教師の家族を除いて、全員参加してくれました。お花のためにサンフランシスコ郊外から来てくれた姉妹と友人、私たちの教会から来てくださったご家族と友人、義樹の海軍兵学校からの友人で海軍の特殊部隊のキャプテン、シカゴでの二組の牧師ご夫妻と友人が参加してくれました。私たちの交わりの多様さに、花婿の家族・親戚の方が驚いていました。

 

 その人たちが見守っているなかを、花婿を迎えに出かけている娘を連れて歩くことができました。花婿を迎えて新しい人生を始める娘を送り出すことができました。どこかで、花婿であるキリストの前に出ていく花嫁として送り出したような気がしています。  

 

 シカゴは私たちも結婚したところです。不思議な導きを感じています。風の町と言われるとおりに、冷たい風が吹き込んで来た日でしたが、温かい結婚式と披露宴のときを持つことができました。

 

上沼昌雄記

「心と心の伝道」2005年10月3日(月)

神学モノローグ
 
 教会ストライキを終えて、何度か妻の両親の教会の礼拝に出席した。まだ若い牧師で、手真似をしながら言葉巧みに説教をする。プログラムや音楽も整っている。コミュニケーションのうまさと、パフォーマンスのすばらしさはアメリカの集会でもいつも感心させられる。アメリカの社会の顔になっている。政治も宗教も見せ物としては一流である。
 
 それでありながら、ある説教者の語ることに聴衆が共鳴し集まってくる。何によっているのか、アメリカの教会をみながらいつも関心を持ってみている。この牧師もリック・オーレンに心酔しているようで、似たような話をする。それでいながら明らかに違いがある。社会学的に調査しているわけでない。霊的な意味で関心がある。
 
 政治家でも、俳優でも、その人の語ることに惹きつけられるものを感じるときがある。私だけの感じなのでまったく直感的なことである。個人的なことである。でありながら、同じように何かを感じてその人のところに人が集まってくる。言葉の巧みさではない。その意味で、先日のロバーツ判事の最高裁長官就任のための上院での公聴会のやり取りを大変興味深く聞いた。
 
 そんなことを思い巡らしていたときに、不思議に神学校での特別講義を思い出した。カリフォルニアをベースに働かれていた豊留先生の「心と心の伝道」という一週間の講義であった。人の心に届くための実際的な手がかりとして、ひとつのことを語られた。電車の吊革につかまりながら、目の前に座っている人をじっと見つめて、その人の人生を思い描いてみるということであった。
 
 この一言で「心と心の伝道」の意味を自分なりに納得できた。ミニストリーで旅に出て、飛行場で、駅でじっと人を眺めることがある。先日は病院でじっと人を見つめてみた。ヨハネが「じっと見」(1ヨハネ1:1)と言っている。
 どうして豊留先生の言われたことを思い出したのか分からない。何かに引っかかって記憶が出てきた。じっと見つめてその人の心を思い見ることは、どこかで自分の心を見つめることなのだろうと思う。見つめてその人の人生を思い巡らすのは、結局自分の人生を思い巡らすことの延長線上で可能なのであろう。そのことで共通の世界が開かれてくる。その人の顔立ちや表情や雰囲気を見つめて、自分の経験を思い起こし、その人のことをさらに思い巡らすことになる。
 
 人を惹きつける説教は、説教者が結局自分に語りかけていることに、会衆が共鳴しているからであると思う。説教者が、会衆を見つめながら、自分の心を見つめているからである。会衆のために語っているのではない。自分に語りかけている。みことばを自分が一番必要としていることを知っている。聖書の世界に入っている。そこで楽しんでいる。説教者のこの心、神との語り合いに聴取が参加している。自然に神の世界に導かれている。そこには限界がない。自由がある。何千人と集まっていても、みことばと自分だけの世界を経験する。
 
 アラン・アルダという俳優がいる。古いテレビドラマで「マッシュ」というのがある。再放送を妻とよく見ている。仕草や語ることに惹きつけるものがある。最近自叙伝を出した。分裂症の母親の元で育ってきたと言う。心に深い苦しみをもっていることが分かった。その苦しみが俳優としての深みを与えているのであろう。次女の泉がワシントンポストのオンラインで、この水曜日に彼のインタビューをするという。
 
上沼昌雄記

JBTM