上沼昌雄記
月別アーカイブ: 2005年8月
「病院」2005年8月25日(木)
昨年の夏に高血圧の薬に対するリアクションから始まった妻の病気は、2週間半ほど前にセブンスデイ・アドベンティストの大学病院に入院というかたちになりました。肺高血圧症という診断をいただき、現在肺に溜まっている水分を取り除くことで圧力を下げる治療を受けています。その間薬と食べ物のリアクションからも解放され、徐々に回復してきています。検査、診断、治療のプロセスを通っています。多くの方の祈りに支えられてきています。
病院は妻の両親のところから1時間ほどで行けます。昼前に入って、夜8時の面会時間の修了まで病院にいます。いつも妻の病床の脇にいられるわけではありません。回診や、他の患者の緊急治療や、看護師の交代時間は病室から出て行かなくてはなりません。じっと待っていることがよくあります。同じように待たされている家族がいます。顔を見合わせるだけでお互いの立場を納得しています。時には言葉を交わすことがあります。
同じように奥様が入院されていた男性と待合室で話が始まりました。とりとめのない話です。時には新鮮な空気を吸いたくて病院の外にでて、そこに彼もいてただ黙って一緒にベンチに座っている時もありました。どうなるか分からない不安もあります。同時に今までの人生の歩を振り返らされます。人生の集約を病院で経験します。彼の奥様は召されました。当然ですが次の日から顔を合わせることはなくなりました。
二晩ほど待合室から廊下までメキシコ系の家族親戚一同が集まっていたときがありました。家族の要のおじいさんが危篤状態であったようです。若い方が遠慮なしに涙を流されていました。どこでどのような生活をされているか分かりませんが、この親族の今までの歩みのすべてを見る思いがしました。
隣に小児科病棟があります。重い病気の子どもさんを見ることがあります。また産婦人科病棟から生まれたばかりの赤ん坊を抱いて帰っていく若い夫婦を見ます。
病院は生と死が隣り合わせです。その分人生のぎりぎりのところに対面させられます。ごまかしや、装飾が効きません。患者も家族も今までの歩みの集約を経験します。屋根瓦をはずして病人をイエスの前につり押とした人たちの思いが伝わってきます。イエスのところに使いを出した百人隊長の心が伝わってきます。
セブンスデイ・アドベンティストの人たちは医学に力を入れていますが、最終的な癒し主はイエスだとはっきりと認めています。医師たちも謙虚です。妻の話をよく聞いてくれました。妻も医師たちを信頼していきました。新しい展開が始まりました。
上沼昌雄記
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「神学の認識論」
福音主義神学が神の前に提示し、それを持って聖書を取り扱う理性は自己の限界を批判的に観ている理性ではなくて、理性の自律を目指してきた啓蒙主義を通しての理性である。聖書がそこまでいっていないことも推論で推し量って結論を出せる理性である。聖書を体系づけることのできる理性である。大村先生は神学者の理性の暴走を哲学者として観ている。神の光のもとで理性の限界を見極めていく近世が日本で確立されていない。それで日本にはポスト・モダンはないという。モダンがないのでポスト・モダンもない。モダンはプロテスタント精神の遺産としての近世である。その意味でポスト・モダンはない。しかし現実はプロテスタント精神の遺産を忘れたモダンになっている。その意味でのポスト・モダンが課題である。
上沼昌雄記
「男性の霊的勇気」
2005年7月21日(木)
「時の境界線上で」
ウイークリー瞑想 2005年7月18日(月)
ストランで潮風に吹かれながら朝飯を食べ、また海辺を少しだけ歩きました。JCFNは太平洋を挟んだ日本人の留学生、企業関係の家族のための働きです。大きな大きな海を挟んで行き来する日本人の
ための働きです。日本人のための働きですが、場としての境界線がなくなってきています。
そのあとサンディエゴ方面の海辺でキャンプをしている妻の親戚を訪ねました。ひとりでキャンプ場を下
りて海辺に出てみました。サーフィンをしている人たち、海辺で戯れている子どもたちを見ながら、靴を脱
いでしばらく海辺を歩いてみました。寄せてくる波と砂浜との間を見つめながら歩きました。その境界線は絶え間なく寄せてくる波でいつも変化しています。地図のように境界線を引くことはできません。波の音が繰り返し響いてきます。途絶えることがありません。
この3月に還暦を迎えました。60歳というイメージを描けないでいますが、妻の病を含めて自分と自分
の周りが大きく変化しているのを見て、時の流れのなかに自分がいることが分かります。海の波
のように時が押し寄せてきます。時には大凪になります。多くの場合には誰からも忘れられたように静
かに押し寄せてきます。波の乗りを楽しませてくれます。波の向こうの海を見ながら、これから迎える自分の未来を思います。
を思い出しました。歴代記のようにまさに歴史の流れを支配している神であり、「時がついに満ちて」(エペソ1:10)と言
われているように大切な時をも支配している神であることを知らされています。私の生涯を神の物語
として見守っていてくださるお方であり、私のある時をもご存知であるお方です。
私はその時をすべて把握できません。むしろほとんど捉えられません。しかし変化には気が付きます。取り巻いている環境が代わり、人との関わりの空気が代わり、子どもたちの成長にともない新しい風が吹き込んでいます。国際情勢の変化も感じます。いままでと同じではありません。
繰り返しが効きません。対応が求められます。
海辺を歩きながら時の境界線上にいることを思わされました。「境界線」という本のことも思いました。「海辺のカフカ」という小説のことも思いました。今日は夕刻にひとりの理事の経営されているレストランでミニストリーの今年度の理事会です。
ミニストリーの歩み
聖書と神学のミニストリーは、聖書を生活のすべての領域に適用していくための手助けを目的にしています。私たちの生活は、心のあり方から、人生の目的、仕事と召命, 結婚と家庭、死と死後のことと、生きている中ですべてのことに直面しています。このすべてのことに御霊に従って聖書に生きることが出来るようになるために、学びの手き、モノグラフ、ホームページを提供し、またセミナー、ミニ神学校を教会との協力で開催しています。 聖書と神学のミニストリーは1991年6月4日にForesthillのCalvary Bible Churchの宣教活動の一つとして活動を始めました。それ以来主の導きの中で働きの広がりをいただいてきています。そして1996年7月25日付でカルフォルニア州政府からの法人化の許可をいただき、11月27日付で連邦税務署からの税金免除の許可をいただくことが出来ました。現在法人として次の方が理事とスタッフとして奉仕をしています。 |