「あの栄光」2005年8月30日(火)

ウイークリー瞑想

 妻ルイーズは2週間近くの集中治療室での治療が功を奏して、昨晩退院してきました。呼吸は正常に戻りつつありますがしばらくは酸素呼吸を続けます。また肺の中の水を取り除く薬で圧力を下げていく必要があります。薬と食べ物のリアクションから解放されてきました。多くの方の祈りに支えれてきました。具体的なアドバイスや助けをいただいてきました。感謝に堪えません。
 
 集中治療室での治療が始まってどのようになるのかまだ分からなかったときに、ミニストリーの理事のひとりで、長い間事務所として彼のビジネスの建物の一角を貸してくれていた方が、励ましのメールをくれました。その中に次の文章がありました。Trough all of this let Christ be glorified. このことすべてを通してキリストの栄光が現されるように。どのようになってもキリストが崇められることを最優先するように。大変なチャレンジをいただきました。
 彼のビジネスは順調で、今はハワイに住んでいます。しかし奥様は何度も大きな手術をして生死の境を通ってきました。この春先は2番目の息子さんが脳腫瘍の手術を受けました。キリストの栄光が現されることがどのようなことなのか体験してきています。
 
 どのようになるか分からない状態でなお神の栄光が現されることを信じること、それは容易なことではありません。よくなったら栄光が現されたといえるのか、そのまま終わってしまったら栄光が去ったということなのか。どちらでもあり、どちらでもないのだろうと思います。
 キリストが十字架を前にして父に祈った祈りを思い出します。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ご一緒にいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)十字架がなお栄光のためであり得るとすると、栄光は明らかに神の次元のことです。私たちの判断で決まるものではありません。
 当然よくなることを祈り、期待します。妻が徐々に回復してきたときには感謝しました。集中治療室で向かいのベットに数日いた方はそのまま亡くなりました。妻も一時はどうなるか分からない状態でした。そして無事に退院してきました。「あの栄光」は、しかし、感謝と同時に、感謝とは別になお神の御手の中で備えられているように思います。目に見えることだけでは捉えられないところで備えられているようです。容易に判断できるものではありません。都合のよいように判断できるものでもありません。
 パウロは「今の時の軽い患難」と「測り知れない、重い永遠の栄光」(2コリント4:17)とを逆説的に対比しています。「あの栄光」は私たちの思いとは逆のところで現されるようです。今回の病気がどのように神の栄光に結ぶ着いているのか、計り知れない課題をいただいています。

上沼昌雄記

「病院」2005年8月25日(木)

ウイークリー瞑想

 昨年の夏に高血圧の薬に対するリアクションから始まった妻の病気は、2週間半ほど前にセブンスデイ・アドベンティストの大学病院に入院というかたちになりました。肺高血圧症という診断をいただき、現在肺に溜まっている水分を取り除くことで圧力を下げる治療を受けています。その間薬と食べ物のリアクションからも解放され、徐々に回復してきています。検査、診断、治療のプロセスを通っています。多くの方の祈りに支えられてきています。

 病院は妻の両親のところから1時間ほどで行けます。昼前に入って、夜8時の面会時間の修了まで病院にいます。いつも妻の病床の脇にいられるわけではありません。回診や、他の患者の緊急治療や、看護師の交代時間は病室から出て行かなくてはなりません。じっと待っていることがよくあります。同じように待たされている家族がいます。顔を見合わせるだけでお互いの立場を納得しています。時には言葉を交わすことがあります。

 同じように奥様が入院されていた男性と待合室で話が始まりました。とりとめのない話です。時には新鮮な空気を吸いたくて病院の外にでて、そこに彼もいてただ黙って一緒にベンチに座っている時もありました。どうなるか分からない不安もあります。同時に今までの人生の歩を振り返らされます。人生の集約を病院で経験します。彼の奥様は召されました。当然ですが次の日から顔を合わせることはなくなりました。

 二晩ほど待合室から廊下までメキシコ系の家族親戚一同が集まっていたときがありました。家族の要のおじいさんが危篤状態であったようです。若い方が遠慮なしに涙を流されていました。どこでどのような生活をされているか分かりませんが、この親族の今までの歩みのすべてを見る思いがしました。

 隣に小児科病棟があります。重い病気の子どもさんを見ることがあります。また産婦人科病棟から生まれたばかりの赤ん坊を抱いて帰っていく若い夫婦を見ます。

 病院は生と死が隣り合わせです。その分人生のぎりぎりのところに対面させられます。ごまかしや、装飾が効きません。患者も家族も今までの歩みの集約を経験します。屋根瓦をはずして病人をイエスの前につり押とした人たちの思いが伝わってきます。イエスのところに使いを出した百人隊長の心が伝わってきます。

 セブンスデイ・アドベンティストの人たちは医学に力を入れていますが、最終的な癒し主はイエスだとはっきりと認めています。医師たちも謙虚です。妻の話をよく聞いてくれました。妻も医師たちを信頼していきました。新しい展開が始まりました。

上沼昌雄記

コメント可

JBTMにこれれた方へ、
今回メインサーバーが停電のためダメージをうけてしまい。急きょBLOGによるページを立ち上げさせていただきました。しばらくはこの形をとらせていただきます。2005年7月以前の文章はすべて、JBTM Archiveというリンクをクリックしていただければ見ることができます。また、BLOGの特徴として、各文章にコメントを入れることができますので、ぜひご利用ください。
 
ウェブマスター はしもと

「神学の認識論」

神学フォーラム
2004年7月26日(月)
 今回の日本訪問は、15年ぶりに里帰りできた次女の泉の日本見物の案内が主目的であった。泉は歴史を専攻していたこともあってか、日本の古い建物を時間をかけてゆっくりと観ていた。特定の何かに関心があってのことではなくて、その中にいるのが居心地がよさそうな感じであった。何百年という時間を隔たりを異物としてでなく、自分のからだの一部のように受け止めていた。泉の中には自分の外のもの、空間的でも時間的でも自分の外部のものと溶け込んでしまうようなところがある。元もと自分のものであったような感じで違和感なしに受け止めていく。違いを異質なものとして身構えていくことがない。親の子とは思えない。
 最後の数日は宣教師の義弟の子どもたち、すなわち従姉妹たちと一緒に過ごしたので私は解放された。それで94歳になられる大村晴雄先生をお訪ねした。暑さでしばし体調を崩されていたと言う。よく来てくれたというのか、先生の方も話したいことがあるというのか、いままでの話の延長があるというのか、ともかく老人を表敬しているという意味合いではない。私のなかでも不思議にようやく大村先生と神学と哲学の違いを前提にお話ができるようになった感じている。現実には耳が少し遠くなられたので、私が短く意見を述べてそれに先生がご自分の思索を語るというやり取りである。意見や所感ではなくて思索である。キリスト者として哲学をされてきた思索である。いのちがかかっている思索である。
 いままでの会話で明確にされた視点がある。哲学的にはプロテスタントは認識論であり、カトリックは存在論である。プロテスタントの精神は、知ることの主体、すなわち、認識の主体を神の光で批判的に再考していくことである。その意味では近世哲学はプロテスタント精神の遺産である。プロテスタントの哲学者である大村先生の立脚点である。知れ得ないことの限界を悟り、知り得ることの恵み生きることである。「キリスト以外は知るまい」と言い得る姿勢である。存在の類比と存在の推論でキリスト以外をも取り入れていくカトリックと決別している。
 大学で哲学を専攻し、その後神学に曲がりなりに関わっていて大村先生の視点にようやく納得できる。その分、自分が関わってきた神学に認識論があるだろうか疑問を持った。その疑問をお伝えした。返事は、「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言うものであった。唸らされた。プロテスタントの、しかも福音主義といわれる神学書でも、神学を取り扱っている自分の理性を批判的に再考しているものはない。聖書の文字の推論で神学を構築している。構築している理性の再考はない。聖書がそこまで語っていないことを論理で結論づけている。その結果それぞれの教派の神学が出来上がっている。それぞれの教派の前提が違う神学の強調点の違いがでてきている。その上で聖書を解釈して、異なった理解を排除している。全部を包み込んで大がかりにしているのがカトリックである。
 
 福音主義神学が神の前に提示し、それを持って聖書を取り扱う理性は自己の限界を批判的に観ている理性ではなくて、理性の自律を目指してきた啓蒙主義を通しての理性である。聖書がそこまでいっていないことも推論で推し量って結論を出せる理性である。聖書を体系づけることのできる理性である。大村先生は神学者の理性の暴走を哲学者として観ている。神の光のもとで理性の限界を見極めていく近世が日本で確立されていない。それで日本にはポスト・モダンはないという。モダンがないのでポスト・モダンもない。モダンはプロテスタント精神の遺産としての近世である。その意味でポスト・モダンはない。しかし現実はプロテスタント精神の遺産を忘れたモダンになっている。その意味でのポスト・モダンが課題である。
 「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言われた後に続けて言われた。それをやるのにはかなりの哲学的素養が必要であると。聖書を取り扱う自分の理性の批判である。神学や説教で知的能力があり、論理的に組み立てられる人が有能という神学教育のなかでは理性批判はでてこない。同時に福音主義神学でもそのような神学教育の限界を感じてきている。聖書の限界ではなくて、福音主義神学の限界である。この限界に気づくと、聖書が語っていることとそれを取り扱う理性の境界線が見えてくる。神学における認識論の再考になる。
 霊的識別力としての直感について大村先生と2,3回話してきた。すなわち、神のことで理性でも感情でもないところで納得できるときがある。聖霊によることであるが、私たちの能力としては直感が一番近いように思う。聖霊によって気づかされて、自分のうちで気づいて納得することである。聖霊によるのか単なる直感によることなのかは分からない。時間だけが明らかにしてくれる。大村先生の反応は、西田幾多郎のなかに「自覚における直感と反省」とか「行為的直感」というのがあるということだけである。それでこの数ヶ月西田幾多郎のものを漁ってみた。ベルグソンに「哲学的直感」というのがあってそこからヒントを得ている。哲学の認識論としても直感のことが困難なテーマであることが分かる。
 西田幾多郎やベルグソンを自己流に解釈して霊的識別力としての直感について次のように考えている。すなわち、聖書を通してご自分を啓示されている神には霊的祝福が溢れている。多くの場合にこちらで条件付けをして、これこれをしたらば祝福をいただけると思ってしまう。しかし神の愛は無条件である。その意味での神の恵みの所与性のなかに置かれいる。どのようにして気づくことができるのか。そこには外的な要素は必要ない。学歴も信仰歴も、年齢も性別も、牧師も信徒も、外なる人としてのことはいっさい関わらない。「内なる人」としてのことである。ある人はその恵みに気づき、ある人は気づかない。プログラムとしてこうしたら気づきますと言うものがない。全く個人的に気づく以外にない。まさにその人の直感である。気づいて開かれた世界は神のものなので共有できる。
 おそらく自分で気づかされたことを遡っていくことで、ダビデやパウロが恵みに気づいていったこととの共有体験ができる。多くの場合に困難や試練や罪を犯すことによって自分の置かれている姿に気づかされることで開かれてくる。自分の「内なる人」を見せられることでなお恵みの中に置かれていることを実感できる。困難や試練や罪のことは不思議にキリストの十字架との共有感覚をもたらす。成功談は自分だけの世界に入ってしまうが、失敗談は共有感覚をもたらす。負の世界は自分を見せてくれる。自分の殻を破って恵みの世界と結びつけてくれる。キリストの受難は恵みの世界を開かせてくれる。
 ダビデやパウロが恵みに生かされていることに気づいていった道を辿ってみると、神学の認識論が開かれてくる。もちろん学としての認識論を語っているわけでない。気づかされた自分の物語を語っている。直感のことは個人的な世界である。しかしどんなに個人的であっても気づかされた世界は神の世界である。その意味で直感は個人的であるが、普遍的でもある。それゆえに、自分で気づかされた世界とダビデやパウロの気づかされた世界が結びついてくる。物語神学の可能性である。物語でありながら普遍性を備えている。聖書が物語の積み重ねで書かれていながら、その中に自分の物語との接点を見いだせる故である。
 自分の物語と神の物語が見事に結びついてる神学がアウグスティヌスの『告白』ではないでしょうかと大村先生に申し上げた。背筋をまっすぐに伸ばしてただごとでないという感じで「それはどういうこと」と聞いてこられた。前半で自分のことを語っていながら、後半で神のことを語ることができるのは、後半の初め、すなわち10巻でアウグスティヌスが記憶のことを取り上げているからではないでしょうかと返事をした。7月7日付のウイークリー瞑想「思い起こす、想起」で書いたことである。それこそ神学における認識論であると言わんばかりに大村先生が関心を持って下さった。アウグスティヌスの記憶論は11巻の時間論より大切で、カントの認識論に結びつくと言われた。
 アウグスティヌスがこの11巻の18章でルカ15章の一枚の銀貨をなくした女性の話を取り上げている。ロストコインである。失ったものを記憶しているので気づく。人生で大切なものを失い、損なってきた。それはないのではなく、記憶のうちにある。その失ったもので最も大切なものが神である。神を失っている記憶である。自分のなかのロストコインを見いだす作業は神に至る。自分を知ることが神を知ることになる。自分の物語と神の物語である。
 神学の存在論、すなわち、三位一体の神の啓示のあり方は2千年の教会の歩みのなかで提示されてきた。その神の恵みと祝福を知り、生かされている神学の認識論を再考するときが来ている。神学と霊性の調和である。命題的真理と物語的真理の融和である。
 暑かった東京の午後のひととき、94歳の老師の熱い心をひしひしと感じた。神学の営みもまだ途上に過ぎない。

上沼昌雄記

「男性の霊的勇気」

神学モノローグ
2005年7月21日(木)

 長男の義樹の紹介と推薦でJohn Eldredgeという人のWild at Heartという本を読むことができた。ベストセラーになり、雑誌クリスティアニティー・ツデイでも数年前に取り上げられている。日本でも読まれた方がいる。身勝手な解釈であるが、男性のためのもう一つの大切な視点を提供してくれている。
 
 この本のタイトルをどのように訳したらよいのだろうか。「時には心でワイルドになって」とでも言えるのかなと思っている。しかし「時には」ではなく、著者は、真剣に男性の心の真のワイルドさを掘り出そうとしている。男性の心に本当は潜んでいるワイルドさを神が求めていると言う。それを気づかせようとしている。そこに触れて真の男性がもう一度芽生えるのを願っている。
 短絡的にみたら男性優位さをアピールしているように思える。それだけ議論を呼んでいる。そのことは分かっている上で男性のワイルドさを真剣に呼び覚まそうとしている。いわゆる教会で教えられている男性のあり方にあえて挑戦している。ナイスガイになることで、1)神が本来求めている男性の霊的闘いの意欲を注ぎ、2)家庭での霊的なリーダーとしての意味をはき違え、3)人生の冒険をあきらめさせていると言う。
 1)と3)は著者のそのままの表現であるが、2)は言い換えている。彼の表現は、To Rescue the Beautyである。愛する人、美しい人を助け出すことである。エバは神の最後の創造の作品で、最高傑作であると言う。男性は生涯をかけてひとりの女性を助け出す使命があると言う。雅歌との関わりで大変興味を注がれた。
 私たち男性は、真実から目を向け、変化を恐れ、心のことを避けようとする。真実を必要とし、変化を求め、心の世界を慕って信仰を求めたのであるが、「救われている」という命題のもとに安住してしまって、それ以上の霊的な闘いや冒険や変化を上手に避けている。霊的に停滞状態にあると分かっていても抜け道を知らない。慣れ親しんだことを繰り返してしまう。気づいてもそれを打ち破る勇気がない。
 信仰のこと、霊的なことは、自分の心を見つめることである。心に潜んでいる叫びを聞くことである。心の悲しみを優しく包んであげることである。自分の人生を潔く神に差し出すことである。心を開くことである。心の窓から吹き込んでくる新しい風を楽しむことである。神をひたすら待つことである。
 ひとりの友人の牧師が、自分の心のことを日記としてまとめ、時々送ってくださる。身体の障害を持たれていることからくる困難さを避けないで書いている。自己憐憫ではない。自分の人生を受け止めているすがすがしさがある。その正直さ、霊的な勇気に感動する。その勇気は、ご家族のこと、ご自分の働きのこと、教会のことにも向けられている。真実に避けないで対面し、変化を受け止めている。
 長女の瞳が私の還暦の祝いとしてくれた図書券を使って一昨日、同じ著者の本を2冊購入してきた。The Sacred RomanceとThe Journey of Desireである。自分に求められている霊的勇気について考えている。
上沼昌雄記

「時の境界線上で」

ウイークリー瞑想
2005年7月18日(月)
 先週JCFNの理事会が、昨年デンバーから引っ越してきたロング・ビーチでありました。会議後に日本から来られた人たちと一緒にニューポート・ビーチに行きました。岬の突端のレ
ストランで潮風に吹かれながら朝飯を食べ、また海辺を少しだけ歩きました。JCFNは太平洋を挟んだ日本人の留学生、企業関係の家族のための働きです。大きな大きな海を挟んで行き来する日本人の
ための働きです。日本人のための働きですが、場としての境界線がなくなってきています。
 

 そのあとサンディエゴ方面の海辺でキャンプをしている妻の親戚を訪ねました。ひとりでキャンプ場を下
りて海辺に出てみました。サーフィンをしている人たち、海辺で戯れている子どもたちを見ながら、靴を脱
いでしばらく海辺を歩いてみました。寄せてくる波と砂浜との間を見つめながら歩きました。その境界線は絶え間なく寄せてくる波でいつも変化しています。地図のように境界線を引くことはできません。波の音が繰り返し響いてきます。途絶えることがありません。
 

 この3月に還暦を迎えました。60歳というイメージを描けないでいますが、妻の病を含めて自分と自分
の周りが大きく変化しているのを見て、時の流れのなかに自分がいることが分かります。海の波
のように時が押し寄せてきます。時には大凪になります。多くの場合には誰からも忘れられたように静
かに押し寄せてきます。波の乗りを楽しませてくれます。波の向こうの海を見ながら、これから迎える自分の未来を思います。
 
 カイロスとクロノスと表現されている神の時について神学校で論文を書いたの
を思い出しました。歴代記のようにまさに歴史の流れを支配している神であり、「時がついに満ちて」(エペソ1:10)と言
われているように大切な時をも支配している神であることを知らされています。私の生涯を神の物語
として見守っていてくださるお方であり、私のある時をもご存知であるお方です。
 

 私はその時をすべて把握できません。むしろほとんど捉えられません。しかし変化には気が付きます。取り巻いている環境が代わり、人との関わりの空気が代わり、子どもたちの成長にともない新しい風が吹き込んでいます。国際情勢の変化も感じます。いままでと同じではありません。
繰り返しが効きません。対応が求められます。
 

 海辺を歩きながら時の境界線上にいることを思わされました。「境界線」という本のことも思いました。「海辺のカフカ」という小説のことも思いました。今日は夕刻にひとりの理事の経営されているレストランでミニストリーの今年度の理事会です。
 
上沼昌雄記

ミニストリーの歩み

 
 
 聖書と神学のミニストリーは、聖書を生活のすべての領域に適用していくための手助けを目的にしています。私たちの生活は、心のあり方から、人生の目的、仕事と召命, 結婚と家庭、死と死後のことと、生きている中ですべてのことに直面しています。このすべてのことに御霊に従って聖書に生きることが出来るようになるために、学びの手き、モノグラフ、ホームページを提供し、またセミナー、ミニ神学校を教会との協力で開催しています。

 聖書と神学のミニストリーは1991年6月4日にForesthillのCalvary Bible Churchの宣教活動の一つとして活動を始めました。それ以来主の導きの中で働きの広がりをいただいてきています。そして1996年7月25日付でカルフォルニア州政府からの法人化の許可をいただき、11月27日付で連邦税務署からの税金免除の許可をいただくことが出来ました。現在法人として次の方が理事とスタッフとして奉仕をしています。

『苦しみを通して神に近づく』出版

 昨年3月の『夫たちよ、妻の話を聞こう』の出版に続いて、この10月1日付で、『苦しみを通して神に近づく』という本をいのちのことば社から出版することができました。詩篇77篇を基にしています。詩篇の作者が「叫び、嘆き、心で語り、思い巡らす」ことを通して、苦しみはそのままなのですが、不思議に神に近づいていることが分かります。同時に、同じプロセスを経ながら、「苦しみを通して神に近づく」ことを体験されたある家族とひとりの牧師を目のあたりに見ることになりました。その意味でこの本には「叫び、嘆き、心で語り、思い巡らすー詩篇77篇」という副題が付いています。私自身の体験も書かせていただきました。拙文ですが、苦しみに直面して、叫び、嘆き、心で語ることを通して、神を思い巡らす道、瞑想の道に導かれればと願っています。 なお、雑誌『いのちのことば』11月号に、保守バプテスト同盟主事の坂本献一先生が意味深いブックレビューを書いてくださいました。また、アメリカ在住の方で購入希望の方には、送料込みで10ドルで送ることができます。