パウロが贖罪論のことをローマ書3章21から26節で注意深く、特に神のこととして記していることを何度か書いてきました。内村鑑三に聖書全体を知る鍵と言わせ、ケーゼマンに書簡で最も難解な箇所と言わせた箇所ですが、記されている文字とその背後の出来事と意味を解明することで、啓示のことがらとして神の贖罪の業が浮かび上がってきました。
その神のことに関して、パウロは続いての27節から31節で、私たちの身近な対応のことを取り上げています。それは2章で律法をいただいていることで抱いている「誇り」(17, 23節)のことです。定冠詞が付いていますので新改訳2017は「私たちの誇り」としています。贖罪が端的に神の業とすると、まさに「その誇り」はどうなるのかと言うのです。
それでも注意深く観察してみると、パウロはユダヤ人が抱いている「その誇り」のことだけでなく、信仰者である私たちの中にもあることを認めています。コリント前書で「肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするため」(1:29)とあるのですが、すでにコリントの教会でこのことが問題になっていることを、コリント前書と後書で認めています。それでエレミヤ書で言われている「誇る者は主を誇れ」を繰り返し語るのです(1Cor. 1:31, 2Cor. 10:17)。ただこの肉の弱さによる誇りは、私たちが自分の教会や教派や神学校や、その背景の神学や聖書理解や霊的体験を誇りとすることにもみられることです。
ともかくパウロは贖罪論の基本構造と言える「神の義」の「イエス・キリストの信」を介しての啓示を細心の注意を払って記してすぐに、それでは「その誇り」はどうなったのかと問うのです。そして躊躇することなく「取り除かれた」と断言するのです。それでも驚くべきことですが「それではどの律法によってか」と、律法をいただいていることを誇りとしていることを取り上げていながら、もう一度「どの律法」と問うのです。パウロの思考について行くのは容易ではないです。それでもパウロにとっては明確なことだったのです。
それは多分、20節から21節への移行で取り上げた律法とその業のことを基としているからなのでしょう。律法は神からのものとしては意味があるのですが、肉の弱さとの関わりで効力を発揮できないのです。それがまさに「イエス・キリストの信」の登場で意味が変わったのです。その展開を取り上げているのです。その意味で「業の律法」から「信の律法」への移行が可能になったのです。その理由をまさに21節から26節で語っているのです。律法は神からのものとして生きているのですが、それが「イエス・キリストの信」によって可能になったことを、「誇り」をテーマに確認しているのです。そのことが成就したことをローマ書で証明していると言えます。
この意味で「誇り」という肉を持つ者として避けられない感性のあり方に当然変化が生じたのです。そのことをパウロはローマ書の終わりで取り上げています。15章17節で「それで神のことに関して、キリスト・イエスにあって誇りを持っています」と認めています。その理由を次の18,19節で語るのです。則ち、キリストの言葉と行い、また、しるしや奇跡、また神の霊の力によって働かれたこと以外は語ることはしないからと明言できるからなのです。
このパウロの「キリスト・イエスにあっての誇り」は果たして自分の中にあるのかなと自問しています。パウロは手紙の初めで「福音を恥としない」と言っているその内実が、手紙の終わりでよく分かるのです。それでも、自分には誇り以上にどこかで福音を恥としてしまう面があるのかなと自問してしまいます。ただ、その福音の内実である贖罪における基本的構造である「神の義」と「イエス・キリストの信」のあり方が明確にされたことで、少なくともそのキリスト・イエスにおいていただいている恩恵を以前よりはるかに誇りにしているのは確かです。
上沼昌雄記