「信の哲学」−入門的試み 上沼昌雄 2020年8月10日

序文:上沼先生『「信の哲学」入門』に寄せて―万事に時あり―

千葉惠 2020年8月7日

上沼昌雄先生との出会いを思い出すと、まず三つの聖句が頭をよぎります。出会いは2014年11月3日小雨降る肌寒い「文化の日」のことでした。クラーク聖書研究会の50周年記念会が北大遠友学舎において開かれ50人以上の参加がありました。そこで先生が「ローマ書」三章をめぐって基調講演をなさったのです。その日の出会いとその後の展開を聖句により表現するなら、「よろずに時あり」(Eccl.3:1)、また「神備えたまう(エホバ・エレ(文語的表現)」(Gen.22:14)そして以下のピリピ書の一節です。これらの聖書の言葉が最初に思い浮かびます。そのときの出会いはなんともタイムリーなものだったからです。

先生にも私にも出会いの前史があります。先生は年二回来日して支援者のもとに滞在しつつ全国を行脚するという稀なる独立伝道者です。30年前にご家族とアメリカにわたり皿洗いをしながら召命を受けた先生のミニストリーには母体があります。レストランを経営しつつの荒井牧師初めロブさんと八木沢さんが30年ものあいだ先生の伝道活動を支えてこられました。その方々なしに出会いは用意されなかったことでしょう。「一つの同じこと」を思うことによって歴史は展開していくのだと思います。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、魂を共にかよわせることによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮するためである」(ピリピ2:1-2)。彼らが上沼先生を助け励ましてこられましたように、今・ここで何らかの憐み、慈しみ、援けが生起しますなら、一同同じ思いが分かちあわれたことへの喜びに満たされることでありましょう。同じ主ご自身が共にいたまうからです。

私は先生との出会いを通じて先生がそれまでに同じ思いを分かち合い交流を続けられた方々との出会いを与えられました。その交わりにより、長い孤独な旅を終えてなにか故郷に帰った気持ちがしたのでした。私の前史を短く述べることをお許しください。十代のときから自らを魅惑し、困惑させてきた信仰義認論の問いが40年以上かけて熟しつつあるとき、若くして亡くなった学生さんが夢に現れ、「センセイ」と呼びかけた瞬間に目が覚め、ジグソーパズルのラストピースがはまったと直観しました。それは2012年10月18日の夜のことでした。その方はその二週間前に亡くなられたのでした。ローマ書3章22節のヒエロニムス以来の誤訳からの解放をその瞬間に確信しました。その日以来わたしの研究は律法主義的な福音理解に対する二千年の人文学者たちへの怒りのもとでの弔い合戦となっていきました。レヴィナスを研究していたその学生さんの白鳥の歌は「身代わり」というものでした・・。

ヒエロニムスの誤訳に気付いて以来、それまでの散逸した部分的な思索が中心への集中を形づくりだし、一気に躍動しました。こうして拙著が刊行された2018年2月に至るまでの5年間の最後の戦いのただなかで、先生との交わりが始まったのです。先生は出会い後3年間に原稿段階から数回お読みくださり、そのつど適切な問いとアドヴァイスをくださいました。忘れられない改善は、凸凹神学会での先生による信仰義認論のご発表のおりに久下倫生先生からのご注文はガラテア書の並行箇所とともに吟味することでした。そのやりとりのなかでガラテア書2章20節の拙訳に問題が見つかり改善することができました。先生方には「信の哲学が崩壊するところだった」と謝意をお伝えしたことを覚えています。

先生との出会い以後、先生が年二回伝道旅行に来日されるたびにお会いしました。「涙とともに播くものは歓喜(よろこび)とともに穫(かりと)らん、その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど、束をたづさへ喜びてかへりきたらん」(Ps.126:4-5)。この聖句のような先生の伝道生活の日々のなかで、先生が種を播き続けられまた交わりを続けてこられたひとびととの新たな交わりをお備えいただきました。これはまことに無償のギフトでした。多くの真剣に聖書の真理をつかもうとする方々との交わりが始まりました。

実はわたしは神学的問いを解決すべく哲学に向かいましたが、網を沖に投げたため、即ち実質的にはアリストテレス哲学に捧げたために、あまりに巨大であり回収できずに長くアリストテレス研究と哲学の訓練のもとに身を置いていました。聖書学や神学関係の方々と交わる機会が少なかったのです。親鸞は「われは僧にあらず、俗にあらず」と言いましたが、わたしはそれを文字って「哲学にあらず、神学にあらぬ」その非僧非俗の分水嶺をとぼとぼと歩いていました。そういえば、20代後半の回心のころ、わたしのSeel Sorger(魂の看取り手)でいらした関根正雄先生が森有正から教わった言葉だとして、アウグスティヌスの「誤った大通りを大手を振ってのし歩くよりも、正しい細い道をとぼとぼと足をひきずりながら歩く方がはるかに優る」を引いて、「君は正しい道を歩んでいるから歩みぬきたまえ」という励ましを頂いたことを思い出します。哲学におけるDavid Charles先生をはじめ、それぞれの領域において優れた指導者たちのもと訓練を受けましたが、わたしを十全に満足させる研究には出会わなかったため、自分でその分水嶺を40年とぼとぼと歩いていたのでした。

そのようななか上沼先生たち同じ問いを共有する方々と出会い、よくまあここまで回り道をしてきたな、ようやくホームグラウンドに戻って来たなという感覚をもちました。神学的な問いを解くために哲学を志した身であったからです。しかし、哲学が神学の下女になることはなく、哲学はそれ自身として端的な喜びでした。『信の哲学』において神学的な問いを哲学的な次元において解いたと思っています。パウロ自身が信の哲学者だったからです。わたしにはこの長年の道は必要不可欠であったと、自分なりの解を見出した今、そのように思います。アリストテレス研究はパウロ研究の基礎を与え、パウロ研究はアリストテレス研究のさらなる解明を促しました。わたしには二人の研究こそ、生命であり喜びでした。いずれか一方では学問も信仰もだめになっていたことでしょう。まことに「測り縄はわがために良き地に落ちた」と感謝しています。

とはいえ、凸凹神学会で告白しましたように、『信の哲学』の刊行にいたり目が覚めてみると、自分が理性の真理の根源である矛盾律を神よりも一層信じ、愛していたのではないかと思わされています。確かに真理を愛してはいたでしょうが、知性への高ぶり、偶像崇拝も否定できないでしょう。山上の説教において神がどのようなひとを祝福するか、好きであるか明らかにされています。学者、パリサイ人の偽善者たちではありませんでした。今からはイエスの軛につながれ彼の柔和を学びたいと思います。「疲れた者、重荷を負うもの、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎ上げそしてわたし[の歩み]からわたしが柔和で謙ったものであることを学びなさい。汝らは安息をみいだすことであろう。というのもわが軛は良きものであり、わが荷は負いやすいからである」(Mat.12)。信というイエスの軽い軛を担い、イエスに倣うとき二心なきものとなり、心清められ、柔和な者となり、平和を造る者となることでありましょう。上沼先生もイエスの軛につながれておられます。今後も、イエスを真ん中にご一緒に彼の軛を担い彼の歩みのペースにあわせて共に歩ませていただきたいと思っております。まことにエホバエレでした。

初めに:「信の哲学」に接して

『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』上下巻(北海道大学出版会)が世に出てからこの2月28日で2年となりました。その間、著者の千葉惠先生による直接の解説を聴く機会もいただきました。また何人かの方は著書を購入してくださり、読破してくださった方もおります。図書館から借りて読み切ってくださった方もいます。直接に千葉先生とやり取りをしてくださった方もいます。

同時に、関心を示してくださり著書を手にしてくださっても、学術的な展開もあってか、理解が深まらないというか、どのように関わったら良いのか分からないままに終わってしまう面もあるようです。それで少しでも「信の哲学」の意味していることを分かっていただければと願い、「入門的試み」をする必要を感じました。

しかし、私の関わりでは教会関係者が中心ですので、「信の哲学」が直接的にパウロのローマ書をテキストに取り上げていることが、福音と信仰理解にどのように関わるのかが直接に問われます。しかも、そこで問われている視点は従来のローマ書理解では見逃されてきたことで、特にテキスト理解に関わることですので、関心を示してくださるのですが、どのように受け止めたら良いのか躊躇されている面もあるように思いました。

現実的には、従来のと言うか、伝統的なというのか、自分の教会や教派で聴いてきたのとは違うと言うことで、拒絶反応を起こし、敬遠してしまうこともあるようです。また逆に今までの理解や教えられてきたことでの行き詰まりを感じたり、閉塞感を感じていて、関心を示してくれることもあります。

さらに現実的に、著書ではパウロのテキストの前に、アリストテレスのテキストを取り上げ、その比較というか、共約性を取り上げていますので、教会関係者には馴染みのないこともあり、さらにその記述は学術的なものですので、購入してくださってもそのままで終わってしまうケースもありそうです。

それでは勿体ないというか、ローマ書の理解に関わることなので、多少面倒でも取りかかっていただければと願い、「入門的試み」ができないかなと勝手に思ったところです。全面的な解説はできませんし、こちらもアリストテレスの説明まではできないのですが、「信の哲学」の視点を少しでも理解していただければと思います。特に、ローマ書のテキストの理解でのポイントと、それが福音と信仰理解にどのように関わるのかという視点で紹介できればと願っています。

その視点の説明を読んでいただいて、少しでも著書に馴染んでいただければとも思います。それであまり煩雑にならないように注意しながら、必要な限りでローマ書のテキストとその千葉訳を紹介したいと思います。「信の哲学」はテキストの意味論的分析を試みていますが、その意味合いを多少でも理解していただければと願います。

個人的にはこの著書との格闘で、著者である千葉先生の思想とか神学ではなく、テキストそのものが私の中に残ってきました。それは不思議に力を持って生きています。取りも直さず、テキストの不明瞭な理解が聖書翻訳の混乱をもたらし、その結果解釈学的、神学的理解の多様性を生み出してきました。その意味での神学的議論に振り回されてきたのですが、「信の哲学」によって本源であるテキストの理解に光をいただきました。そして心の安きもいただきました。

この「入門的試み」は、その意味で、私個人の「信の哲学」との格闘の徴です。「信の哲学」の解説と言うより、「信の哲学」を通してのテキストの再考察と言えます。それで、このような「入門的試み」なのですが、読んでくださった方に少しでもローマ書のテキストの意味が生きてくればと願っています。現実的にはローマ書の1章から8章までを取り上げます。実際にこの8章までの理解で「信の哲学」のポイントは明確にされていると思います。

それで、以下の7つの項目でまとめてみました。

初めにー「信の哲学」に接して

1「イエス・キリストのピスティスによる」

ローマ書3:22,ガラテヤ書2:16,20、3:22

2 神の義とイエス・キリストのピスティスの分離のなさ

ローマ書3:22-26

3 業の律法と信の律法

ローマ書3:27 ガラテヤ書2:19

4 神の側と人間の側の分離と相補性の展開

ローマ書1-4章と5-8章

5 肉の一義性と肉の弱さ、そして罪との関わり

ローマ書5章と6章

ローマ書5:12、6:19

6 心魂の根源的態勢の探求ー内なる人とヌースの発見

ローマ書7章

ローマ書7:21-25、12:2

7 「信の哲学」と聖霊

ローマ書8章

結びとしてー信と愛の相補関係

ローマ書14:22-23 ガラテヤ書5:6

一つだけ説明をしておきます。それは最初の1-3の項目がローマ書1-4章に当たり、後半の5-7の項目がローマ書5-8章に当たっていることです。その中間の項目4がその前半と後半の区別と相補性を説明しています。今の時点ではこのことだけ頭に入れておいてください。

1「イエス・キリストのピスティスによる」

ローマ書3:22,ガラテヤ書2:16,20、3:22

初めから余談になりますが、「信の哲学」に出合うことになったのは、この箇所の理解というより訳語に関わることでした。2014年11月3日の「文化の日」に北大のキャンパスで、クラーク聖書研究会の50周年記念会がありました。設立に関わっていましたので、講師として招かれました。その当時N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の翻訳に関わっていました。

講演では、伝統的には「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されてきたこの箇所の「イエス・キリストのピスティスによる」の「の」をN.T.ライトが主格の属格として捉えていることを紹介いたしました。すなわち「イエス・キリストの信仰」と言うことで、ピリピ書の2章6節からの「キリストの謙卑」を根拠にしていました。当時邦訳の新訳でも検討されていましたので、関心を持って聴いてくださいました。

千葉先生はクラーク聖書研究会の顧問をしてくださっていました。講演の後に挨拶に伺いました。そして直裁にその「の」は主格でも対格でもないと言われました。それでは何か? と言うことで「信の哲学」との関わりというか、千葉先生とのやり取りが始まりました。その衝撃は今でも忘れません。N.T.ライトの理解も長い伝統の中からようやく出てきたことですので、千葉先生は何を言おうとされているのか、ただ知りたくなりました。

そのような経緯はあるのですが、このローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティスによる」の理解は、「信の哲学」の導入的な役割を担っていると言えます。さらにこの2年の内に先の邦訳の新訳が二つ、『新改訳2017』と『協会共同訳』として出てきましたので、その比較で取り上げると、さらにこの箇所の重要性が浮かび上がってきます。ギリシャ語も載せておきます。前田訳も参考に載せておきます。

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22 δικαιοσύνη δὲ θεοῦ διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς πάντας τοὺς πιστεύοντας οὐ γάρ ἐστιν διαστολή

新改訳2017:

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこには差別はありません。

(脚注)別訳「イエス・キリストの真実によって」

協会共同訳:

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。

(脚注)別訳「イエス・キリストへの信仰」

千葉訳:

神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

前田護郎訳:

イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。

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新改訳2017は、本文では従来通りに「イエス・キリストを信じることによって」と訳していますが、脚注で別訳として「イエス・キリストの真実によって」を認めています。そのこと自体大きな進展です。しかしその後に出た協会共同訳では、それが逆転して「イエス・キリストの真実によって」が本文で採用され、脚注で別訳として「イエス・キリストへの信仰」を認めています。

この違いは、これからの聖書理解、福音理解に関わることで、大きなことです。この違いによる検討会も開かれているようです。そして取りも直さず、「信の哲学」においてはこの「イエス・キリストのピスティスによる」の理解が重要な意味を持っています。ただ時間的な流れから観ると、邦訳の新訳が出る前にすでに千葉先生が独自の方法で検討し、方向を出していたことが分かります。

先の余談の続きなのですが、その立ち話の時にその「の」は「帰属の属格」と言われました。つまり、イエス・キリスト自身に初めから属していると言うか、神の子として初めから所有している「ピスティス」を語っている「の」であると言うのです。その時点では、その意味することは充分に飲み込めなかったのですが、N.T.ライトによって「主格の属格」としての可能性を認めていたので、「帰属の属格」も可能性として受け止めることができました。

さらに、「信の哲学」があえて「主格の属格」ではなくて「帰属の属格」といわれるのは、「イエス・キリスト」という称号が主語に用いられることはないからであるとも言います。この点は上巻499頁以下で説明されていますので、確認してみてください。本文に接するだけでなく、「信の哲学」の論の進め方に多少触れることができます。

ここで二つの点を確認できます。そのひとつは、「神の義」が「イエス・キリストの信を媒介にして」明らかにされていることで、神の義とイエス・キリストの信がしっかりと結びついていることです。もう一つは「イエス・キリストの信を媒介にして」神の義が「信じるすべての人」に明らかにされているという、イエス・キリストの信とそれを信じる私たちの信仰とが二段構えで語られていることです。「信の哲学」はそれを「信の二相」と表現しています。

第一の点は神において義と信が結びついていることです。第二の点はイエス・キリストの信と私たちの信仰が区別されていることです。この両面がここで確認されます。そして第一の面はこの第2項に関わることですのでその時に説明をいたします。ここでは第二の点のイエス・キリストの信と私たちの信仰と区別されていることに注目します。その意味していることは大きなことだからです。

なお次に進む前に、この信・信仰と訳されるピスティスの訳語については、下巻の終わりに付録として<パウロ「ローマ書」の概観と新訳>に<「ピスティス」とその訳語について>で説明されていますので参照ください。「信の哲学」はピスティスを基本的に「信」で統一していますが、ここでは「イエス・キリストの信」と「私たちの信仰」と表現します。なおピスティスは、「真実」「信実」「誠実」とも訳されることを覚えておいてください。

取りも直さずここで、「イエス・キリストの信」と「私たちの信仰」の区別は、伝統的に「イエス・キリストを信じる信仰」と読んできたこととは理解の違いを明確に示しています。すなわち、私たちの信仰の前に神の子であるイエス・キリストの信の歩みがあって、その上で私たちの信仰が可能になるという視点が明確になります。新改訳2017も脚注でその可能性を認めているのですが、実際に認めているのかどうかは不明です。

このようにすでに、N.T.ライトによってある程度の方向性が与えられていたことが、 「信の哲学」によって「帰属の属格」として明確にされたことの意味は大きなことです。何といっても、伝統的に「イエス・キリストを信じる信仰」ととると、それに続いて「信じるすべての人に」と繰り返されることになり、不自然な言い回しになります。それだけでなく、神の義があたかも信じる私たちの信仰によって影響されるようでもあり、混乱の元になっています。

しかし振り返ってみるに、もしかするとキリスト教会は長い間、しかも2千年の間、そのように理解してきたと言っても過言ではないのでしょう。特に「信仰のみ」を旗印にしてきたプロテスタントでは、私たちの信仰で神の恵みをそれなりに獲得できると看做している面があるのかも知れません。しかもそうでないと説教もできないと思うのかも知れません。極端な面では「信仰」とい名目でのマインド・コントロールにもなるのです。

さらにここでの「イエス・キリストの信」は、明らかに私たちの信仰の基礎になっているのですが、元来神の側のこととして明らかにされたことです。この意味が分かると安心できますという反応をいただきます。自分の信仰をいつも吟味していなければ落ち着かないという恐れからも解放されるからです。

この意味で「信の哲学」がいう「信の二相」は、1章17節の「信仰から信仰へ」の理解の助けになります。すなわち、「信仰から信仰へ」は、「イエス・キリストの信」から「私たちの信仰」ととることができます。その意味で、信仰を始めから終わりまで全うすることで初めて福音に生きることができるという頑張りからも解放されます。

またさらにこの「信の二相」は、私たちの信仰を神における信と看做すという意味で、14章22節で表現されていることに当てはまります。千葉訳は「汝が汝自身の側で持つ信を神の側で持て」となっています。信仰はある意味で私たちの決断による行為であるのですが、それが神の前でのこととしてなお確認できると見ているのが分かります。それは先の「信仰から信仰へ」の逆方向になります。それも「イエス・キリストの信」と私たちの信仰の区別が元になっているからと分かります。

この意味で3章22節の「イエス・キリストのピスティスによる」の理解は大切な点です。さらにパウロは、この同じ表現と言い方をガラテヤ書2章16節以下でも用いていますので確認しておきます。同じように邦訳と千葉訳を併記します。

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εἰδότες ὅτι οὐ δικαιοῦται ἄνθρωπος ἐξ ἔργων νόμου ἐὰν μὴ διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ καὶ ἡμεῖς εἰς Χριστὸν Ἰησοῦν ἐπιστεύσαμεν ἵνα δικαιωθῶμεν ἐκ πίστεως Χριστοῦ καὶ οὐκ ἐξ ἔργων νόμου διότι οὐ δικαιωθήσεται ἐξ ἔργων νόμου πᾶσα σάρξ

新改訳2017:

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

(脚注)別訳「イエス・キリストの真実によって」「キリストの真実によって」

協会共同訳:

しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。

(脚注)別訳「イエス・キリストヘの信仰」

千葉訳:

ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義とされないであろうからである。

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ここでも新改訳2017と協会共同訳での取り扱いが逆になっていることが分かります。なによりもここでは、「業の律法」によってではなく「イエス・キリストのピスティスによって」のみ「人が義とされる」ことを「知っているので」とあって、それなので私たちも「キリスト・イエスを信じた」と、私たちの信仰が「イエス・キリストのピスティス」によっていると論が進められていることが分かります。区別が明確なので整然と論を進めることができます。新改訳2017では、やはり、義とされること自体が私たちの信仰によるような意味合いになってしまいます。

実際にこの箇所は、ローマ書3章22節と同様に、プロテスタントの真髄である律法ではなくて信仰によるという信仰義認論を語っている箇所として取り上げられてきました。しかし、「信の哲学」によってその基盤が「イエス・キリストのピスティスによる」ことが明確にされたことになります。その意味でも「信の哲学」の提示していることは、信仰義認論の核心に関わることが分かります。

ガラテヤ書2章ではこの理解に基づいて、20節でも同じように繰り返されていることが分かります。新改訳2017と協会共同訳では先のローマ書3章22節の時と同じように訳語の捉え方の違いがあります。しかしさらに、そのギリシャ語の言い回しは大変微妙で、どちらの邦訳でも見逃されているところがあります。「信の哲学」では先の「信の二相」がしっかりと表現されています。今まで見逃されてきたことをしっかりと捉えています。それは驚くべきことです。千葉先生は「序文」でこのことに触れてくださっているのです。ここでは紹介だけに留めておきますが、是非確認してください。以下のようです。

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Χριστῷ συνεσταύρωμαι ζῶ δὲ οὐκέτι ἐγώ ζῇ δὲ ἐν ἐμοὶ Χριστός ὃ δὲ νῦν ζῶ ἐν σαρκί ἐν πίστει ζῶ τῇ τοῦ υἱοῦ τοῦ θεοῦ τοῦ ἀγαπήσαντός με καὶ παραδόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ ἐμοῦ

新改訳2017:

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

協会共同訳:

生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるのです。

(脚注)別訳「神の子への信仰」

千葉訳:

しかし、もはやわれは生きていない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今われが肉において生きているところのものを、われは、われを愛し、そしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。

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2 神の義とイエス・キリストのピスティスの分離のなさ

ローマ書3:22-26

前項で、「神の義」が「イエス・キリストの信を介して」明らかにされたことで、神の義とイエス・キリストの信が結びついていることを確認しました。特にその「イエス・キリストの信」の「の」を帰属の属格ととることで神の子であるイエス・キリストに初めから帰属している「真実」「信実」が、神の義の現れとなっていることからも分かります。前項では、その神の啓示が「イエス・キリストの信を介して」「信じる者すべて」にとなっていることから、「イエス・キリストのピスティス」と私たちの信仰が区別されていることを確認いたしました。

すでに分かることですが、「イエス・キリストのピスティス」が神の義と信じる私たちの仲介になっていることです。私たちの信仰が神の義と私たちが義とされることの仲介では決してないのです。この点はガラテヤ書でもパウロが明確に提示していることで、「信の哲学」がその意味で、従来の信仰義認論での弱点を克服しようとしていることが分かります。

このことを確認した上で、さらに3章22節のテキストで「信の哲学」が提示している大事なことがあります。それは、「そこには差別はありません」と一般に理解されているのですが、千葉訳では「というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである」と訳されているこの一文です。すなわち、「分離」がないのは、その追加の説明文で言われているように、「神の義」と「イエス・キリストの信」には分離がないことを語っていることです。

ここで再確認のようになるのですが、先の「の」を帰属の属格ととっていることで、神の義とイエス・キリストの信が初めから分離されないものとして理解されていることです。むしろそれゆえに「分離」はないとあえて表明していることになります。テキストの接続詞garを千葉訳で「というのも」と訳出されているように、その接続詞がその関わりを明確にしていることが分かります。邦訳はこの接続詞を訳していません。

さらに続く23節では、この分離のないことを説明するために同じ接続詞が使われていて、「なぜ[分離なき]かといえば」と訳出されています。その説明が26節までの一文となっています。「信の哲学」は大切な箇所としていますので、千葉訳を紹介いたします。

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21 しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、

22 神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

23 なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、

24 キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、

25,26 その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

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ここでの文面がどうして分離のないことの説明になっているのかは、「あらゆる者は罪を犯した」ために、神の栄光を受けられず、ただ「キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして」「恩恵により贈りものとして」義とされるのですが、それは神の主権によることであり、25,26節で「ご自身の義の知らしめに至るべく」「ご自身が義であること」「ご自身の義の知らしめに向けて」と三回も繰り返されているように、究極的には「イエス・キリストの信を介して」の「神の義」の現れであるからです。

私たちが義とされるという信仰義認は、一義的には私たちのためよりは神の義の啓示のためであることが分かります。それは22節で「神の義は」で始まるこの節の全体に合っていることです。ここではその仲介のために「キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして」と言い換えられています。このようにその間に「分離がない」ことを説明していることになります。このように、22節での「分離がない」ことを23節から26節でさらに説明していることが分かります。

邦訳はこの箇所を「差別はない」ととり、ユダヤ人と異邦人のあいだに区別はないと、伝統的な理解に合わせています。さらにその根拠として10章12節に同じ文面が使われていることを出します。しかしそこでは「ユダヤ人とギリシャ人のあいだに」と付け加えられています。3章22節はそれとは前後関係が異なっていますし、さらに3章23-26節の説明自体が意味をなしていますので、神の義とイエス・キリストの信の間に「分離がない」ととることは根拠のあるものと言えます。

「信の哲学」は、この従来訳の根拠をヒエロニムスによるラテン語訳聖書ヴルガータ版における誤訳によると言います。千葉先生が「序文」で触れておられるところです。すなわち、ラテン語でnon enim est distinctioなのですが、その後の英訳でもdistinctionとなり、西洋のキリスト教の基本的理解となり、それが邦訳にも受け継がれていることが分かります。「信の哲学」は、最大希英辞書ではseparationがdistinctionより前に挙げられていると言います。それはテキストが語っていることに相応することになります。

やはり何といっても、神の義が啓示されたことの理由が信じる者のあいだに区別や差別がないというのはいかにも不自然なことです。人の心的状態のことを語っているのではないからです。先に指摘したのですが、基本的に「イエス・キリストのピスティスによる」の訳語と理解によっているのです。「信じる信仰によって」となるとどうしても私たちの心的状態のことが中心になってしまいます。

この箇所でもう一つ注目すべきことがあります。すなわち、「ご自身の義の知らしめに向けて」イエス・キリストを自らの「現臨の座(ヒラステーリオン)」として差し出したと言うことです。すなわち、神がイエスの信に基づく者と看做す者たちとそこで出会う場を備えていることになります。「現臨の座(ヒラステーリオン)」は、会見の幕屋での契約の箱を覆う「蓋」に基づく語です。ヘブル書9章5節でも使われています。N.T.ライトもMeeting Placeととっています。

3 業の律法と信の律法

ローマ書3:27 ガラテヤ書2:19

三番目のことも実は、ローマ書のこの箇所の続きになります。というのも、3章22節に始まるこの箇所の解読が福音理解の中心になっているからです。そして現実的にこの箇所の理解が、すでに学んできたように、厳密な訳語の摘出とその意味論的分析がなされてこなかったために不明のままに留まっていたと言えます。「信の哲学」による解明の努力は注目に値しますし、少なくとも私個人にとしては「信の哲学」と接することで、光をいただいています。

そしてこの三番目のことは、「律法(ノーム)」の理解に関わることです。特に邦訳で「原理」とか「法則」と訳されてきたために福音理解が不明瞭のままになっていました。しかもその邦訳も英訳に従っていますので、キリスト教全体の聖書解釈の問題でもあります。それは取りも直さず、律法(ノーム)の理解そのものが不明瞭であったために「原理」とか「法則」と言い換えてきたとも言えます。その意味で、この三番目のことは直裁に、ローマ書での「律法」の役割の理解に関わることです。すなわち、ローマ書そのものの理解にも関わることです。

先ずは3章27節を千葉訳で確認しておきます。「それでは、どこに誇りがあるか、閉め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。」まさに「それでは」とありますので、その前の22節から26節で確認したことに基づいていることが分かります。さらに「誇り」のことが、すでに2章で「律法」を持っていることによっていることが分かります。その「誇り」が閉めだされたと確認するのです。

その場合に、「業の律法」によるのかと問いかけて、あえてそうではないことを明確にした上で、それは「信の律法」によると訴えるのです。それはまさに、この「信の律法を介して」のことが22節以下で確認されたからです。特に、「イエス・キリストの信を介して」のことが神の啓示の手立てとして神の側のこととしてなされたことが発見されたからです。すなわち、イエス・キリストの信が律法に意味を与えることになったので、「信の律法」という言い方が可能になり、その意味が出てきたのです。「信仰の原理」ではないのです。

実は「信の哲学」がここで確認していることは、「業の律法」も「信の律法」も神の意志の現れと見ていることです。「業の律法」はモーセを通して示されたものなのですが、罪が働いて「すべての肉」は律法を全うできない弱さの中に置かれています。その意味では「律法とは別に」とあえて言われるのですが、それでも律法は神の嘉とすることなので、その目的は果たされることになります。それが「イエス・キリストの信を介して」なされたことなので「信の律法」と呼ばれています。

このことは、その前に21節で、一度「律法を離れて」と言っていながら、すぐに「律法と預言者達により証言されている」とことで、その二つの「律法」の意味合いがすでに暗示されていて、それが27節で「業の律法」と「信の律法」の違いであることが分かります。ここでの律法の二つの面は、ガラテヤ書2章19節前半での「律法によって律法に死んだ」という表現にも当てはまりそうですが、「信の哲学」は、ローマ書7章の終わりから8章にかけての二つ律法の違いを当てはめています。確認のために紹介します。「というのも、われは神によって生きるために、[「キリスト・イエスにある生命の霊の」]律法を介して[「罪と死の」]律法に死んだからである。」このことはさらに、後半で取り上げます。

律法を持っていること、また行うことでの「誇り」はこの意味で「信の律法」によって取り除かれたことになります。別の言い方では、律法の目的は「イエス・キリストの信を介して」成就される道が開かれたからです。この意味でもこの箇所を「原理」とか「法則」ととってしますと意味が全く分からなくなってしまいます。新改訳2017ではその三版での「原理」から「律法」と戻したことは意味のあることです。協会共同訳は「法則」のままです。特に22節では「イエス・キリストの真実による」としていますので残念です。

ともかく「イエス・キリストの信を介して」律法の目的が果たされる道が開かれ、さらにそのことが27節以下で語られていますので、「信の哲学」での千葉訳を提示します。

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28 かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。

29 それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、

30 いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして無割礼者も義とするであろうなら。

31 それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する。

****

28節は「かくして」と訳しているようにその前のことを踏まえていることが分かります。そのうえで「われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する」と、私たちを義とされる道が筋道に従って分かったと言うのです。また「信によって義とされる」と信仰義認のことを語っていることが分かります。「信によってpistei」は、冠詞も前置詞にもなしに使われています。しかも続いてのところでこの「信によって」の意味合いをさらに明確にしていることが分かります。

この言い回しが30節になると最初に前置詞ekが使われていて、千葉訳では「信に基づく」と訳されています。それに続いて前置詞diaが使われていてさらに冠詞付きで「信」が用いられていて、「信を介して」と訳されています。この冠詞付きの「信」に前置詞diaがついていることから、それが22節で出てきた「イエス・キリストの信を介して」を意味していることが明らかですので、千葉訳では括弧付きで「イエス・キリストの」と付け加えていることが分かります。

  「信の哲学」はこのように言語の分析に細心の注意を払っていますので、「信(仰)による」の意味合いが明確になりますが、新改訳2017と協会共同訳ともこの細心の区別を見逃してどれも単に「信仰による」と訳しています。それで意味合いが不明瞭になってしまうだけでなく、どうしても私たちの信仰のことだけになってしまいます。それがこの箇所の理解を不明瞭にしてしまうだけでなく、信仰義認の理解も不明確にしてしまいます。

そして最後に31節で「信の律法」の意味をまとめるように言います。「それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する。」新改訳2017と協会共同訳ともに「律法を確立する」としているのですが、千葉訳は「律法を確認する」とどちらにしても神の律法であることを確認しているようです。すなわち、律法は最後まで「神の律法」であることを認めていることになります。

ローマ書3章22節からここまでの箇所は、いわゆる信仰義認論を導いている大切なところです。聖書のなかで一番難解な箇所と言われています。内村鑑三はこの箇所の解読は聖書全体の理解に結びつくとも言っていますが、彼自身解読できなかったとも言われています。「信の哲学」は、その意味では、第一に「イエス・キリストの信を介して」の理解、第二に「神の義とイエス・キリストの信」のあいだに「分離がない」こと、第三に「業の律法」と「信の律法」の区別とその意味の発見により、解読の方向を示していると言えます。

やはり伝統的な理解は、第一の「イエス・キリストの信を介して」を「イエス・キリストを信じる信仰」と理解しているために、信仰義認論が私たちの信仰のあり方に視点が移ってしまっていることにあると言えます。というのは、自分たちのある信仰体験を普遍化してそれを基準にしてしまうからです。結果的に、そこから出てきた枠組みで聖書を理解してしまうことになります。その枠組みが歴史的にはそれぞれの教派を生み出してきたからです。

「信の哲学」が、第三の「業の律法」と「信の律法」の区別の発見により、さらに伝統的に受け継がれてきたある理解の可能性を否定しているものがあります。それは先の「ヒラステーリオン」の理解にも関わることで、キリストの身代わりの死が、代償刑罰説に当たるという理解に対してです。「信の哲学」では、「業の律法」が「信の律法」によって取って代わったので、すなわち、「イエス・キリストの信」によって神の義が明らかにされたので、神がキリストの身代わりの死を代償刑罰ととるのは「業の律法」に戻ることになるというものです。すでに代償刑罰説が当然のように見られているので、この点はさらに明確な提示が求められるところです。

ここまでのまとめの上で、次に考えることができることは「キリスト者の自由」のことです。私たちが神の前で義とされるのは、私たちの信仰や努力によることではなくて、すでに神の計画の中で、神の主権的な行為で「イエス・キリストの信を介して」明らかになった神の義と信によるからです。信仰義認が神の側ですでになされているからです。それに基づいて初めて、私たちの信仰のあり方を考えることができます。それがローマ書5章から8章までで語られているのですが、そこに入る前に前半の1-4章と後半の5-8章の区別のことを次に取り上げることにします。

4 神の側と人間の側の分離と相補性の展開

ローマ書1-4章と5-8章

「信の哲学」の一つの特長は、ローマ書に関して1章から4章までと、5章から8章までの言語網の違いを認め、区別していることです。すなわち、1章から4章までを神の側の言語網とし、5章から8章を人間の側の言語網と見ることです。この区別をローマ書全体にも当てはめているのですが、ここでは8章までのこととして確認してみます。すなわち、1章から4章までを神の啓示のことを神が語っているとし、5章から8章までは、その啓示が人間の側でどのように受け止められ、特に神の救いの業がどのように私たちの中で成就していくかを語っているというものです。

実はこのような形でローマ書を分析しているものに出合ったことがないので、その意味していることを理解するのに時間がかかりました。しかし、それこそが「信の哲学」が提示しているテキストの意味論的分析によるものです。別の言い方ではテキストそのものの言語分析とも言えます。言葉がそこで使われていたら意味があって使われているという姿勢です。すでに前半で見てきたように、接続詞がそこで使われていたら、意味があって使われているのでそのまま訳してみるというものです。またピスティスにどの前置詞が使われているかで意味が異なってくるかを検証する姿勢です。

この背後にある基本的な理解は、神も言語使用者であり、当時の人が使っていたギリシャ語で神自身の啓示を語ることを嘉とされたというものです。すなわち、神の側のことを語っていると言っても、神だけが分かる天国語で語っているのではないのです。当時の共通語であるギリシャ語が使われたのです。見方によってはそこにも何か深い意図があるようにも思えます。「信の哲学」は、そのギリシャ語で思索したアリストテレスの哲学との関わりを見つめています。実際にアリストテレスの用語がパウロにも使われているからです。

また、前半のローマ書3章を中心に神の義の啓示のことですでに見てきたのですが、そこでの啓示の対象が「信じるすべての人」とか「イエスの信に基づく者」と、不特定な相手を対象にしていて、一般的な意味合いで語られていることが分かります。これからみることになるのですが、後半での特定された信じている「私たち」や「私」に向けられていることとは異なることが分かります。すなわち、神の義がイエス・キリストの信を介して啓示されていることは、それを「信じるすべての人」に神のこととして明らかにされていることを語っているのです。それが信じる人にどのように機能するかは後半での具体的なこととして取り上げられています。「信の哲学」はこの区別に注目しています。

「信の哲学」がこの区別を大切にしているのは、すでに見てきたように「イエス・キリストのピスティス」を伝統的に「イエス・キリストを信じる信仰」ととる結果、神の側のことに初めからこちら側の信仰のことが関わるよう理解してしまうからです。前にも記したように、それは結果的に神の啓示がこちらの信仰によって影響される、場合には支配されることになるのです。現実的にそのように信仰義認を捉えてきた面はあるのです。結果的には、こちら側の神学的な枠組みが優先してしまうのです。「信の哲学」はそれを、神学の枠組みの聖書への「密輸入」と呼んでいます。

次に移る前に神の啓示のもう一つの面をこの前半で確認しておくことがあります。それはこの手紙の初めの1章16,17節で「福音」のことが端的に語られていて、それが3章で明確化されるのですが、その間で1章18節から「神の怒り」の啓示のことが語られていることです。それも神の側のこととして、私たちがそれを認めようがどうであろうとも、神のこととして語られていることです。

そのことを「引き渡した」と三度繰り返しているのが分かります。すなわち、神の怒りの表れとして、こちら側がどのように思おうと、24節で「欲望における不潔へと」、26節で「恥ずべき情欲に」、そして29節で「叡知の機能不全に」神が「引き渡した」と言うのです。神の一方的な宣言なのです。人がどのように思おうと、神の怒りの啓示として避けられないことです。それは今でも当てはまります。啓示の歴史としてはモーセが山で神から律法をいただているときに、アロンと民が金の子牛を作って偶像に仕えたことへの神の怒りを示しています。

前半でもう一つ確認できることは4章でアブラハムの信仰のことを取り上げていることです。端的にはアブラハムの信仰に倣うと言うことです。それで、伝統的にはアブラハムの信仰に私たちが倣うことに視点が置かれていますが、同時にイエス・キリストの信とアブラハムの信仰とが同等におかれている面があります。当然アブラハムの場合はその信仰の故に彼自身が義とされたのですが、そのアブラハムの信仰に倣うという視点が含まれてきます。その意味でイエス・キリストの信の源流と看做していることが分かります。

「信の哲学」は、この意味で、4章16節の「アブラハムの信に基づく者(to ek pisuteos Abram)」と3章26節の「イエスの信に基づく者(ton ek pisteos Iesu)」とが同じ構造で表現されていることに注目しています。アブラハムのことでは邦訳は、新改訳2017で「アブラハムの信仰に倣う人々」、協会共同訳で「彼の信仰に従う者」となっています。それに対して、イエスの信に関しては同様に前者では「イエスを信じる者」と、後者では「イエスの真実に基づく者」となっています。

3章のことは先に見て繰り返しになりますが、その3章の最後の30節と31節でこの意味合いを含めて前置詞ekとdiaを使い分けた言い方がなされています。協会共同訳が26節で「イエスの信実に基づく者」と訳しているのですが、30,31節ではどちらも「信仰によって」としているのは残念です。新改訳2017は26,30,31節どれも「信仰によって」としています。何度も繰り返すことになりますが、どうしても視点が私たちの信仰になってしまうことが分かります。

このように、「信の哲学」がローマ書の前半で神の側の言語網にこだわる意味が分かります。この識別ができていないためにローマ書のほとんどの注解書も、神の啓示に関することも私たちの信仰次第のような語りになっていると言えます。「信の哲学」はこの区別の識別を、その意味で、解釈以前の意味論的分析とも言います。「信以前の理解(intellectus ante fidem)」とも言っています。この「以前」ということで、神学の手前でのテキストの理解とも言えるのでしょう。

2018年2月に『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』上下巻が出版された折りに、以下の推薦文を畏れ多くも書きました。その書き出しの一部です。「アリストテレス哲学の魅力はロゴス(理論)とエルゴン(実践)の「共鳴和合」即ち相補性の展開にあるとして、自然学、形而上学、魂論の様相分析を試みる千葉惠教授が、時至って形成された新約聖書のなかの「ローマ書」での使徒パウロの神の福音の提示にもロゴスとエルゴンの共鳴和合が成り立つとする、『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の革新的な展開に目を見張る。その具体的な手法としての意味論的分析によるローマ書における「神の前の自己完結性」(1-4章)と「ひとの前の相対的自律性」(5-8章)を分節し、さらにその総合を企てる。」

ここではアリストテレスのことは触れることはできないのですが、一般的な意味でロゴス(理論)とエルゴン(実践)の相補性は日常の生活でも確認できるのです。抽象性と具体性、論証(証明)と帰納(実験検証)、ソフトウェアとハードウエア、遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏、設計図と建築として分析され、その総合がめざされています。

「信の哲学」は、パウロもロゴスとエルゴンにおける相補性を受け止めていることをローマ書で語っていると言います。15章18,19節でパウロは次のように言っています。「なぜなら、われは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわれを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである。」

キリスト自身がことば(ロゴス)と行い(エルゴン)によって神の子であり、救い主であることを示されたように、パウロもことば(ロゴス)と行い(エルゴン)によって福音を語っていることを誇りにしているのです。さらにこのロゴスとエルゴンの相補関係を顕著に語っていることばとして、ガラテヤ書5章6節の「愛を媒介にして実働している信が力強い」を取り上げます。そしてある意味で、この信と愛の相補性を「信の哲学」の結論のように語ります。このことはすでに本稿の序文で取り上げられていますので、是非目を通してください。「信と愛の統一理論」(上巻4頁)と言っています。

さらにエルゴンにおいては、当然神の霊の力が証と徴によっても明らかにされているというのです。そのエルゴンの面を現実的な信仰のあり方としてローマ書5章以下で語っています。続いて後半で具体的に確証しますが、神の啓示を受け止めるためにどうしても聖霊が必要であることが繰り返されます。その意味で逆に前半では「聖霊」が出ていないことを「信の哲学」は例証としています。

後半に入って分かるのですが、聖霊の働きが私たちの内にどのように機能するのかは結構面倒なことで、パウロも慎重な言い回しをしています。それに対して前半は神の啓示が神のこととしてなされていることで、私たちの経験と働き、すなわち、エルゴンのことは直接に関わっていませんので、その筋道は明確で、論理立てて語られています。そこには私たち人間の側のことは関わらないので明確に区別しています。そのことはこのローマ書の全体の筋道の理解にも役立っています。その上で私たちの関わりを次に取り上げるのです。それでは具体的に5章から後半に入ることにします。

5 肉の一義性と肉の弱さ、そして罪との関わり

ローマ書5章と6章

ローマ書5:12、6:19

5章に入って気づくことは、「こうして」「このように」「かくして」とそれまでのことを受けて語り出していることです。明らかに主語も「私たち」になっています。すなわち、「義とされたので」とテキストではその語が冒頭に出てきて、その「私たち」と続いています。そして1節で、すぐに「信仰によって」と邦訳で訳されるピスティスに前置詞ekがついた表現がなされています。当然「信の哲学」はその言い回しに注目しています。語がそこで使われていたら意味があって使われているという意味論的分析の姿勢をみることができます。

前置詞ekがついた表現は3章26節で「イエスの信に基づく者」ですでに表現されていてそれによっています。それは、4章16節での「アブラハムの信に基づく者」と対応していると確認しました。そのことに対応して「義とされたので」に千葉訳は「[イエスの]信に基づき」とその意味を明確にしています。邦訳のように「信仰によって」ですとどうしても私たちの信仰のことになってしまいます。それはまさに5章に入ってこれからのことなのですが、ここでは、その前に義とされる根拠をもう一度確認しているのです。

なおこの前半から5章にかけての移行に関わるこの箇所の意味合いは大切なので、「信の哲学」も本稿上巻545頁以下で詳細に取り上げています。そのひとつになりますが、続く2節ではピスティスが与格で使われていて、それこそは私たちの信仰のことであるので、神の側と人間の側との対応を語り出していると見ています。「信の二相」と前に出しましたが、その意味合いが生きています。

この区別を元にして私たちの信仰によって受け取ることのできる神の恵みに注目していることが、「私たち」が主語で、しかもその私たちの状況を語り出していることからも分かります。義とされた私たちは神に対して「平安を持っている」といい、また「神の栄光にあずかる希望」を「大いに喜んでいる」「誇りにしている」と、こちら側の心の状況を遠慮なく語っています。

それこそ待っていたと言わんばかりに語り出しているとも言えます。「それだけでなく」「苦難」「艱難」さえ「喜んでいる」「誇りにしている」と、あたかも自分の状況を語り出すことを嘉としているかのような言い回しです。そして「忍耐」と「練られた品性」「品格」とを通して「希望」をもたらすことを認めています。その希望は失望に至ることはないと5節で確信を持って言い放つのです。

その理由を5節の続きで語るのです。「なぜなら神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっているからである。」「信の哲学」はここで、ある意味で突然出てくる「神の愛」と「聖霊」と「私たちの心」のことに注目しています。すなわち「聖霊」が後半に入って神のことと私たちの心を媒介するかのように、しかもそれが当然であるかのように出てきているのです。この5節で接続詞「なぜなら」が付いているのですが、それは5章に入って語り出したことの理由付けにもなっているのです。

すなわち、「義とされた」と過去時制で表されているように神の側のこととしてすでになされたことですが、それが今・ここで意味を持ってくるために聖霊が媒体として働くことが必須となるのです。しかもここでは「神の義」を「神の愛」と言い換えてもいるのです。さらに「私たちの心」に注がれていると媒体としての聖霊の働きを表現しています。しかも「注がれてしまっている」と現在完了形で表現されているのです。ここでの発話は、実際に聖霊の働きがなされていなければ偽りとなります。

「信の哲学」はこの箇所を、神の側から人間の側、ロゴスからエルゴンへの移行を語るものとして繰り返し取り上げています。「私たちの心」にということで、私たちの感性の対応の場である「心」を取り上げているのですが、それは7章で「内なる人」からさらにその根底での「ヌース」にまで触れていく手がかりにもなっています。「神の愛」がここでいきなり出されるのですが、「義と信」さらに「信と愛」の相補性は「信の哲学」のまとめにもなるものです。

この5章の後半、すなわち、12節から21節はアダム・キリスト論と言われている箇所です。そのアダムとキリストとの対比と罪と恵みとの対比は、「信の哲学」にとっても大切な点なのですが、ここではそこには入らないで、ひとつのことだけを取り上げてみます。それは12節の表現に関わる、アダムの罪の転嫁のことです。伝統的にアダムの罪の遺伝的伝播と理解されているのですが、この12節はそのことは語っていないと「信の哲学」は理解しています。

ここでの「アダムが罪を犯した」の後に比較として「そのように」というエプ・ホーのギリシャ語をどのように訳すのかという問題でもあるのです。ヴルガータ訳ではラテン語でin quodで、「アダムにあって」と読んで、アダムの原罪性のゆえに「すべての人が罪を犯した」と理解してきたとして、アダムと私たちを結びつけるための遺伝的理解を入れてきました。幸いにそのヴルガータ版の改訂版が1986年に出され、そのラテン語訳をeo quodと改定して、「そのように」と理解することができるようになりました。

幸いに新改訳2017と協会共同訳もそのように訳出していますので良いのですが、それでもアダムの罪の遺伝的理解は神学的に当然のように受け入れられたままです。それで、「信の哲学」がここで確認していることは注目して良いことです。ここで言われていることは、アダムが罪を犯したように、すべての人が同じように罪を犯したということで、死の原因が各人の罪のゆえであることを明確にしていることです。

ここでの流れを千葉訳で確認しておきます。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。」明らかに遺伝による罪の転嫁の理解は語っていません。分かることは、アダムが罪を犯したようにすべての者も罪を犯したと言う視点です。その罪を介して死が入り、すべての者に及んでいると言うのです。この意味で、一度生命をいただいた者は誰もが罪の結果として死を迎えるという事実を直視しています。

ここでその生命をいただいた者に罪が結果を及ぼしてくるのですが、ここで「信の哲学」が慎重に取り上げていることに言及してみます。それは、いのちをいただいている私たちの肉と身体に関わることです。特に「肉」の意味について注意を促しています。肉は罪の影響と結果を受けるのですが、アダムの罪の遺伝的伝播を受けていることとは切り離していて、ただ神の創造により、肉を初めから悪のように観ることを避けています。

このことは新約聖書の世界で、当時のギリシャ的な霊肉二元論のなかで慎重を要することで、特にパウロはそのような理解に対して、神の創造、死者の復活、聖霊の介入の視点から、「肉」の意味づけを大切に提示しています。それで、「信の哲学」もこの面に関しては結構なページ数を割いて議論しています。

しかしキリスト教の歴史において、残念ながら、そのギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けて来ています。すなわち、肉そのものが悪なので、肉の世界を離れて霊の世界に生きることがキリスト教での救済の意味にもなっています。言い方を変えると、「肉の世界」、つまりこの世を離れて、「霊の世界」、すなわち天国に入ることが救いであると思われています。

神学の世界では、肉が神の創造によるものであることを認めても、アダムの罪の遺伝的理解のゆえに肉の罪性を同時に認める、肉の両義的理解を採っています。この面に関して「信の哲学」は、ブルトマンもバルトも同様な理解をしていると例証しています。残念ながら、この理解は私たちの中にも了解事項として受け継がれていると言えます。

このことに対して「信の哲学」は肉の一義性、すなわち、生物学的な意味だけを捉えています。当然罪の影響は認めるのですが、罪と肉がイコールであるとはとらないで、むしろ罪と肉を慎重に区別して論じています。さらにそれはキリストの受肉のことでの「肉」の意味づけにもなるからです。この二つの面はローマ書で7章と8章に関わりますので、その時に取り上げますが、ここでは6章19節に言い表されている「肉の弱さ」の意味を取り上げることにします。

「われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」と明言されていることは、肉の限界性を認めた上でも、またそれゆえに「人間的なこと」を語ることができると認めていることになります。ずなわち、前半の神のことを神のこととして語ることに対して、肉を持つ者としての限界がありながら、人間としてなお語ることができると主張していることになります。また「肉の弱さ」の故に、神のこと、霊のことに関しては鈍いものであって、人間として語ることが許されているという譲歩を引き出しているのです。

それ故に、この弱さと限界をかかえていても、なお人間としての自律性を持って語ることができるのです。6章11節で、「汝らもまた同様に自ら罪に対しては死んでおり、キリスト・イエスにおいては神に対して生きているものであると認定せよ」と言われているように、私たちの側の責任として「認定」することが求められているのです。その意味で、人間の側での相対的自律性を認めているのです。

この意味で、その前後で言われているように、自律性を持った私たちは「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなり得るのです。その機能をいただいているのです。その意味でも「肉の弱さ」がそのまま肉の「罪性」ととる必要はないのです。もしかすると私たちは感傷的にもあまりにも罪のことにフォーカスを当てすぎているのかも知れません。私たちの責任とその機能を備えてくださったことにもっと注目して良いのかも知れません。

このことを踏まえて「信の哲学」は、先の1-4章の前半を「神の前の自己完結性」と呼んでいることに対して、5-8章を「ひとの前の相対的自律性」と呼んでいます。「肉の弱さ」を初めから肉の「罪性」と捉えてしまうと、前半と後半の区別よりは、神の側の世界に初めからどのように関わることができるのか、すなわち、どうしたら救われるのかという神経症的な信仰をもたらすことになります。この意味でも、肉の一義性の理解は意味のあることです。

この点に関して一つ確認しておくことがあります。というのは、この区別は神の主権と人間の自由のテーマに関わるからです。このことに関しては歴史的にもアウグスティヌスの恩寵理解とペラギウスの人間の自由の理解の論争から、ルターの奴隷意志論とエラスムスの自由意志論との論争に至るまで何度も取り上げられてきました。私たちのあいだではカルヴィン系の神の主権の強調から、アルメニアン系の人間の側の信仰の強調の違いとして現れてきました。「キリスト者の自由」に関わるテーマです。

「信の哲学」のローマ書8章までの前半と後半の言語網の違いによる視点の違いの理解は、この意味で、神学論争への一定の解決をもたらすものと思えます。それは取りも直さず、私たちの信仰生活における神の主権と恩寵の理解と私たちの責任の理解にも光をもたらします。その意味でも、「肉」を神の創造の作品としてまず善いものとして造られたことを捉え、その上で罪がどのように肉に働きかけ、影響して、今どのようになっているかを観ることが大切です。

その意味でパウロは、5章で神の恵みにより聖霊の助けで生かされていることを語り、さらにアダムとキリストによる罪と恵みの歴史的な視点を語っています。6章では「罪の奴隷」とも「義の奴隷」ともなり得る存在として「肉の弱さ」を認め、同時にまたそれゆえに「人間として語ること」が許されていることを認めています。それは人間の側で少しでも自分の救いのために寄与できる面があることを認めているわけでありません。救いは神の側のことなのですが、その神に結びつくために関わりとしての人間の責任のことを語っているのです。その意味での「私たちの信仰」なのです。

この辺の微妙なことをパウロは7章の前半で語っています。すなわち、「罪」と「律法」と「肉」の関わりを注意深く捉えています。この三つ巴の微妙な言い回しに細心の注意を払っています。すでにアダムと同じように私たちも罪を犯したので、死が支配するようになっています。そのことを振り返るように7章5節で、「われらが肉であった時、律法を介しての罪の諸々の欲情が、死への果実を結ぶべくわれらの肢体において働いた」と、罪に捉えられた肉の状態を語っています。今はそれに対して霊の働きの実を見ることができると示唆されています。

このことに基づいて、それでは律法は善きもの、聖なるものではないのかという問いに対して、律法は善いもので聖なるものであると言い、問題は罪そのものであると、罪を際立たせています。それで7章13節では、「罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」と言われています。このように、肉は残念ながら罪に捕らえられているのですが、それは戒めによって、罪の罪性が明らかになるためであって、肉の罪性が明らかになるためではないのです。

私たちはこの辺で多少混乱をしているのかも知れません。罪と肉は区別されていて、問題は「罪の罪性」であって、それを「肉の罪性」として理解してしまっている面があります。罪を独立したものとして捉えているのは神の視点でもあるわけで、贖罪はその罪に関してなされた神の業です。そのことは8章3節でも明確にされていますので、その折りにさらに取り上げることにします。

「肉」はその維持のために欲求します。食べることにおいて、宿すことにおいて、性において欲求します。しかもその欲することが欲望として働くこともあります。パウロは十戒の最後の「貪ってはならない」の戒めによって、罪に捉えられていることを知るのです。肉がそのまま罪であるとは言っていません。この辺が難しいところです。そして現実的に悩むところです。

6 心魂の根源的態勢の探求ー内なる人とヌースの発見

ローマ書7章

ローマ書7:21-25、12:2

実際にパウロも悩むのですが、分からないままにしておかないで、諦めないで探求を続けるのです。というのも、自分の願うことをしないで、憎んでいることをしてしまう矛盾と思われることを探求することは、ある意味で未知の世界に入ることになるからです。そのために誰も使ったことのない用語を使うことにもなります。その探求の足跡を辿るのですが、それも容易なことではありません。

内村鑑三はこのパウロの心情を単に「二重人格」と言って片付けてしまうのですが、それはパウロの言っていることを表面的に捉えているだけで、実際には心の奥で格闘している心魂の根源的あり方に迫っていることにはなりません。また、ここでのパウロの格闘を、信仰を持つ前のことか、信仰を持ってからのことかと言う視点で論じることも、表面的な理解に過ぎないことを示しています。「信の哲学」は、むしろここで心魂の根源的あり方を語っていると観るからです。すなわち、誰の心の底でも起こりうることと見ているからです。

現実的に、このローマ書はギリシャ人にも、ユダヤ人にも、知恵のある者にも、ない者に向けて書かれています。「律法」はモーセの律法なのですが、それは誰の心にもある良心としての道徳的な機能をも意味しています。そして実際に「貪ってはならない」という十戒の最後の戒めを出してきて、その欲望に捉えられている自分の肉の弱さの中で、まさにその「肉」の中というか、その根底において何が起こっているのかと問い続け、探求をし続けるのです。すなわち、「罪」がどのように入り、今どのように関わっているのかを考えます。なぜなら「律法」は神からのものなので、悪であるとは考えられないからです。「肉」と「罪」と「律法」の三つ巴を分析する必要があります。

すでにパウロが「肉」と「罪」を切り離してみていることに「信の哲学」も同意していることを確認いたしました。そして、その「肉」と「罪」の間に「律法」が関わってくるのは、「罪の罪性」が明らかになるためであって、「肉の罪性」ではないのです。それでも罪は肉に入り込んでしまったのです。パウロはそれを過去形で語っていると「信の哲学」は分析しています。その意味で律法は霊的であっても、自分は肉的であることは変わらないのです。「罪のもとに売り渡されているから」と7章14節で状況を明晰に分析しています。

それは「罪の報酬」である死を「認識していないから」(15節)と、今度は現在形で、罪のもとに売り渡されていても、それを認識していない状態を認めるのです。生物的な死は分かっていても、その死がどこから入ってきているのかを今は認識していないというのです。それだけ罪に欺かれているからです。「私には、自分のしていることが分かりません」と新改訳2017は表現しているのですが、自分がどのような状態になるのかを認識していないのです。それは現在形ですので、さらにその意味の理解が深まっていることを示しています。まさに「心魂の根源的態勢の探求」です。

このようにこの箇所は、すでになされたことの論理的な分析より、探求者としての内面の道筋を語っているとみると、その流れが分かって来ます。すなわち、律法の欲することなさないで、憎むところの死を作り出している「自分」を見るのです。それは同時に律法が善きものであることを認めることになると分かるのです。律法の欲することをしたいと願う自分がいることを認めているからです。それでは憎むことをしているのは何か、まさに「わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(17節)と分かるのです。罪の事実に到着するのです。その発見者の道筋を語っています。

実はこの「わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」は20節でも繰り返し出てくるのですが、その間パウロが現実の自分の姿を観察しながら、どうしてそうなのかを説明していると言えます。律法はすでに悪でないことを確認した上で、一つは「自分の肉には」善が宿っていないことを知っているのです。それでもそれは善をしたい自分であることは変わらないのです。そうでありながら、欲しない悪を行ってしまう現実なのです。欲しない悪がそれをなすとまで言うのです。それは私・エゴではなく、「わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」と分かるのです。

ここでの「私・エゴ」とは誰かと言うことで、いろいろな意見があります。「信の哲学」は「汝ら貪ってはならない」に対応する仮想のエゴと捉えています。言語分析として可能なのだと思います。N.T.ライトは集合体としてのイスラエルを指すと理解しています。私個人はどうしてもパウロ自身のことを語っているととりたいところです。特にこの箇所ではパウロ自身が自分を観察しながら「わがうちに巣食っている罪」にたどり着いているかのようだからです。それでも全くパウロ個人のことではなく、それは誰にでも当てはまる普遍性を伴うものです。パウロの言明にこちらも納得できるのです。

この箇所は、拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』(いのちのことば社、2008年)で、パウロにおいての闇の格闘として取り上げたところでもあります。自分の心の奥に降りていくことで出合う闇の世界をパウロなりに取り上げていると見たからです。そのパウロの探求にこちらも納得して、その後を同じように辿ることができるのです。その闇の奥でというか、心の奥底で「わがうちに巣食っている罪」に対面するのです。対面するのですが、その罪は初めからそこにあったのではなく、外から入ってきて住処としてしまったのです。住み着いて巣を作ってしまったのです。その事実に気づいたのです。しかし、そのことに気づいたことでまた新しい視点を見いだしていくのです。別の言い方では、それとは別に望みもあることを福音の故に知っているのです。

すなわち、「わがうちに巣食っている罪」を繰り返すことで現実に罪の虜にされていることを憚ることなく認めることができるのですが、同時に善を行いたいと願う自分も現実であることを認めているのです。このことに基づいて、21節で発見者の喜びをもってまとめるように言っています。「かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪が備わるという律法を見いだす。」すでに10節で過去のこととして「生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見いだされた」と発見者の喜びを語っている上で、今現在自分のこととして見いだしていると、続いて発見者の喜びを語っているのです。

この時点でパウロ自身が、自分の中に住み着いている罪を直視することで、今までよりもう一歩入り込んだ新しい世界を展開しているかのようです。善を欲する自分において悪が備わるという「律法」と、何度も繰り返されている「律法」を持ってくるのです。新改訳2017では、それまで「原理」と訳されてきたのですがほとんど「律法」に戻してますが、ここだけは「原理」のままにしています。従来の意味での「律法」とは違っているのですが、善いことを欲するのは律法を認めていることなので、ここでもそのまま「律法」で良いのではないでしょうか。

さらに、次の22節で「なぜなら」とその理由を説明しています。その説明で新しい用語「内なる人間」を持ってくるのです。「なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法に喜んで同意しているからからである。」自分のうちに罪が住み着いているのですが、さらにその底と言える深いところで「神の律法」を喜んでいる自分を認めるのです。その部分を「内なる人」と表現することで、神との接点を確認してかのようです。外なる肉においては善が宿っていないのですが、内なる人として「神の律法」を喜んでいることを見いだしているのです。

そしてさらに次のように展開しています。「神の律法」を認めるのですが、それとは異なる「他の律法」が自分の「肢体」にあることを見るのです。「内なる人」に対して、一般的に「肉」ではなくて、具体的な機能としての「肢体」をここで用いるかのようです。すなわち、目の欲、食べる欲、性の欲を語っているかのようです。「他の律法」とは一見曖昧な言い方なのですが、「神の律法」を出してきて、それに対比する意味で何かを明確にしたいからと思われます。この場面ではパウロ自身の内で、あることが明確になり、それに基づいて展開していることが分かります。

この「神の律法」と「他の律法」を次のように言い換えています。「それはわが叡知の律法に対して戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあることによって罪の律法のうちにわれを捕らえている。」「神の律法」を「叡知の律法」と言い、「他の律法」を「罪の律法」と言い換えるのです。この意味では「神の律法」と「罪の律法」の対比が明確になるのですが、その前の21節の「かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪が備わるという律法を見いだす」での「律法」はこの対比を導いていると言えます。

私たちのうちに、「神の律法」を善と認め、喜んでいる面と、律法によって罪の罪性が明らかになり、罪の虜にされていて、罪の奴隷である面があります。現実に「わがうちに巣食っている罪」に欺かれていることを認めているのです。その意味での「律法」を発見して安心もしているかのようです。安心して「神の律法」と「罪の律法」の現実を語っているかのようです。

律法の二面性については、3章27節で「業の律法」と「信の律法」と言うことですでに言い表されています。しかしそこでの二面性と今回の二面性はイコールでは結びつきません。というのは前者はモーセと通して示された律法とイエス・キリストを介して明らかになった信の律法で、ともに神の律法なのです。それに対してここではその「神の律法」に対して、律法を介して罪の罪性が明らかになった意味での「罪の律法」との対比になります。この違いを理解するのに苦労しましたが、多分このようなことなのだと思います。

ここでの難しさは、パウロがこの展開を新しい用語を用いて説明をしているところにもあります。「神の律法」を「叡知の律法」と表現しているのもそのひとつです。さらに難しいのはこの「叡知」と表現されるギリシャ語のヌースを新改訳2017では単に「心の律法」とし、協会共同訳では「心の法則」と訳出していることです。私自身は「心の律法」と言うことで、自分の心で何か見いださなければならない律法が別にあるのかとも思ったのですが、結局は不明瞭のままで来てしまいました。今回の協会共同訳の「心の法則」もその意味ではどうなのでしょう。

このヌースは「内なる人」に導かれるように出てきてもいます。すなわち、「内なる人」のどこかに「神の律法」を認めるというか、神と関わる接点として出てきているようです。そしてこのヌースは7章の最後でまた出てきますので、その時にさらに確認することができます。ここでは「内なる人」を出してきたことで、自分のうちに「神の律法」を喜んでいる面と、肉において今度は「叡知の律法」に闘いを挑んでいる「罪の律法」の二面性に気づくのです。闘いを挑んでいるので負けることもあります。さらに自分の肉の力で戦ってもさらにその虜にもなってしまいます。6章での「罪の奴隷」の状態です。

この事実を認めないわけにいきません。なぜしたいと思うことを行えないで、したくないことをしてしまうのかと気づいていても、単なる嘆きで終わってしまうのですが、それをさらに辿っていくとことで自分の中に「神の律法」と「罪の律法」の両面が働いていることが分かるのです。その状況をパウロは三つの単語を並べることで簡潔に言い表しています。「惨めだ、われ、人間。」

緊迫感を伴った言い方です。自分の中の現実に気づいても自分では解決できないことをしっかりと認めています。それでも「神の律法」を認めている自分をしっかりと保っています。同時に「貪ってはならない」という戒めで貪りの罪が自分のうちに巣食っていることを認めるのです。この面での「内なる人」の観察は鋭いものがあります。単なる嘆きでは終わらないのです。どこに救いがあるのかを問う真剣勝負でもあります。救いがなければまさに「惨めだ、われ、人間」で終わってしまうだけです。

「誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。」救いは自分にはないことを率直に認めています。死が働いたときには肉は滅び、それは身体を支配します。肉と身体は別な単語が使われているのですが、死は両方を支配します。それでも神の視点では「肉」と「身体」には相違があります。8章でそのことがさらに明確になります。この時点では当然パウロは救いがどこにあるのかは分かっています。ただそこに至る自分の内面をしっかりと見つめているのです。「信の哲学」はそれを「心魂の根源的あり方」、すなわち、心の深いところで誰にでも起こるあり方とみています。

この時点でパウロがすでに救いの拠り所をしっかりと理解していることが分かります。「しかし、神に感謝」と言うのですが、その理由が「イエス・キリストを介して」とあります。それは3章22節で見いだした「イエス・キリストの信を介して」とおなじ前置詞diaで、イエス・キリストの仲介をみていることが分かります。それによってなされた神の義の啓示があるので、神への感謝を言い表しているのです。

言い方を変えると、そのことがすでに神の側のこととして明確になったので、それを信じる自分のうちに働く罪の現実との関わりを避けることなく見つめることができたとも言えます。罪の奴隷であってもなお神と結びつく手立てを確認できるのです。それは私たちに「肉の弱さ」があり、現実に罪に売り渡されている状態であるので、自分の内側での神との関わりを紐解くのにパウロ自身が苦労していることが分かります。しかし、ここまで来て「神に感謝」と言うことができる視点をいただいているのです。

それで結論のように7章の最後で言うのです。「それ故、かくして、われ自らかたや叡知(ヌース)によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている。」すでに神との接点が明確になったので安心して一方ではといい、他方ではなお罪の律法に仕えている自分をさらけ出しているかのようです。「われ自ら(autos ego)」と訳されていますが、新改訳2017では「この私は」、協会共同訳では「私自身は」と訳されています。イエス・キリストを介して神に感謝を捧げることができるのと同時に、現実の自分をしっかりと見つめていることが分かります。

ここですでに出てきた「神の律法」と「罪の律法」が対比されているのですが、それに「叡知(ヌース)によって」と「肉によって」ともう一つの対比が付け加わるのです。すぐ前では「死の身体(ソーマ)」と言い、すでに「肢体」という言い方も出ています。ここでは「肉(サルクス)によって罪の律法」と言っています。肉と罪の関わりをすでにみているので、ここでも繰り返しているのでしょう。その肉を持っていながらなおヌースによって神の律法に仕えている自分を確認しているのです。対比しているのですが、二元的な意味でもないのです。肉もヌースも自分のものなのです。「神の律法」も「肉の律法」も自分の中で働いているからです。

先に「内なる人」として神の律法を喜んでいる自分を見いだしたことをしるし、その神の律法を「叡知の律法」といい、最後にその「叡知によって神の律法に仕え」と言っていることが分かります。「叡知」と「信の哲学」で訳されているヌースは、「内なる人」のさらに根底で神の律法に対応する機能として捉えられています。新改訳2017でも協会共同訳でも単に「心」と訳されているのですが、それよりは識別力を伴った機能を意味しています。ローマ書12章2節ではその意味で「ヌースの刷新によって」と使われています。

「信の哲学」は副題として「使徒パウロはどこまで共約可能か」と付いているのですが、それは、心魂の根源的あり方が聖書以外の世界とも共約性を伴うものとみていることを示しています。特にヌースに関してはアリストテレスの『魂論』との共約性をみています。すなわち、アリストテレスも魂の機能を考えていったときに最後にこのヌースに出合っているのです。パウロもそのことを知っていたと思えることです。アテネのアレオパゴスでの哲学者との議論を避けないでできたのもその証なのでしょう。

先に肉の一義性のことに言及しました。すなわち、肉は神の創造の作品としてそのものとしては中立的な生物的存在を意味していますが、外からの罪が律法を介して肉に働きかけ罪の虜にしています。罪の奴隷と記されています。同時にここまでで分かることは、その肉を持つ者としてさらにその「内なる人」として神を喜んでいるのです。そしてその「内なる人」の根底にヌースとして神に対応していることが分かります。私たちの信仰もそのヌースによる識別力によっていると言えます。

この意味合いでの「肉」と「信」の関わりを、先にも引用したようにガラテヤ書2章20節が語っています。「しかし、もはやわれ生きていない。われにおいてキリストが生きている。しかし、今われが肉において生きているところのものを、われは、われを愛し、そしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。」すなわち、私が信仰で生きていることと、それでも肉において生きている同時性をしっかりと捉えているのです。「信において」と「肉において」は同次元のことです。さらにその次元の先に、すなわち、私たちの信仰の前に「神の子の信によって」があるのです。

7 「信の哲学」と聖霊

ローマ書8章

7章では人間の側での罪の現実を、律法と肉との三つ巴で語っています。肉は神の創造の作品として生物的な生命を司る面として捉え、それ自身が罪であるとは見てはいません。罪は外から律法を介して闘いを挑み、それに負けてしまい、残念ながら罪は私たちの中に住み着いてしまったのです。その葛藤をパウロは語っているのですが、出口もみています。解決策はすでに前半の特に3章22節以下の神の側での信仰義認の確認で明確になっているのですが、それが現実にどのように人間の側で意味を持ってくるのかの手がかりを得ているのです。その道筋を確認していると言えます。

8章での新しい視点は「聖霊」です。「肉」のことはすでに出てきたのですが、今度は、その肉によることと聖霊によることの対比を語るのです。それは新しい次元のことです。形としては7章での「われ(エゴ)」は退場して、「聖霊」が登場するのです。それでもここでパウロが初めて気づいたのではなくて、すでに5章5節で「神の愛」を語るときに必然的に聖霊に言及しているのです。7章6節で「古い文字」との対比で「新しい霊」として言及しています。それでも8章まであえて押さえていたと言えます。

別の言い方では、どの次元で語り出すのが良いのかタイミングを計っていたかのようです。しかも7章7節から終わりまで聖霊のことを出さなかったのは、パウロの考え抜かれたことと言えそうです。この間に聖霊のことを出すと混乱をすることを見抜いていたかのようです。多分聖霊を強調する人たちはこの時点で「わがうちに巣食っている罪」の解決の手段として取り入れてしまうのでしょう。罪の意識に苦しんで聖霊によって何とか打ち勝つことを願うからなのでしょう。そして、微妙な形で肉の努力にもなってしまうのです。

7章の終わりは、私たちのうちの「神の律法」と「罪の律法」との対比で終わっているのですが、その背後にイエス・キリストの信を介しての神の義の啓示があるので、8章に入って、キリスト・イエスにある者は罪に定められないと提言します。そしてその理由としてさらにその対比の上で、「キリストにある生命の霊の律法」が「罪と死の律法」から「汝を」解放したからだと言います。「神の律法」を「キリストにある生命の霊の律法」と言い換えるのです。すなわち、5章5節で「聖霊」、7章6節で「新しい霊」、そしてここで「キリストにある生命の霊」と展開しているのが分かります。

8章はこの意味で、「罪と死の律法」からの解放の手立てが「キリスト・イエスを介して」であることを確認した上で、現実的にその解放が聖霊の働きによってどのように実現するのかを提示していると言えます。解放されていることの現実の実を見ることができることを証拠づけているとも言えます。そのことにまで注意を向けているのは、「信の哲学」がエルゴンの働きの領域での神の現実を捉えているからであると言えます。それは、聖霊の働きの実がその元である神の義と愛の現れとみているからです。

現実に「御霊によって」生きることなのですが、そこには残念ながら「肉によって」生きてしまう弱さがあります。その意味で霊と肉との二面性を避けないでみるのですが、そこに入る前にもう一度確認するように「肉」の問題を取り上げるのです。しかし今回はキリストの「肉」のことに言及するのです。というのは、私たちの「肉」はすでに罪に支配されてしまっているのですが、キリストがとられた「肉」には罪の影響は考えられないからです。もしそうであれば、キリストも罪人になってしまいます。

その違いを「罪の肉の似様性」と大変微妙な言い方で表しています。「罪の肉」そのものではないのです。その「似様性」なのです。キリストの「肉」には「罪」は影響していないからです。もしそうであったらばキリストは救い主となることはできなかったのです。神がなしたことは、「その肉」で私たちを死に追いやっている「罪」を処罰されたことです。御子であるキリストを罰したのではなく、罪を罰したのです。この違いを「信の哲学」は見逃していないのです。その意味でもキリストの代償刑罰説は成り立たないとみています。

それはそれで良いのですが、ここでのテーマは、聖霊がどのように働いて実を結んでいくのかをはっきりさせるために、もう一度肉のテーマを出してきて、その肉によることではなくて、御霊によることで律法が満たされると方向付けるのです。肉によって生きることは説明なしに分かります。御霊によって生きることはそれほど簡単なことではありません。放っておいて自然にできることではないのです。肉によって生きることはある意味で放っておいてもできるというか、そのように流されてしまいます。それに対して御霊によって生きることは細心の注意が求められます。

8章4節以降はそのパウロの慎重な言明に接することになります。「肉に即して(kata sarka)」と「霊に即して(kata puneuma)」の対比を、「肉の思慮内容」と「霊の思慮内容」とで繰り返しています。「信の哲学」は実は、この4節の「霊に即して歩む」ことに積極的な意味を確認しています。ここでは普通の意味で「歩む」ことなのですが、ガラテヤ書5章で御霊とその実のことを語った後に25節でパウロが、「もしわれらが霊によって生きようとするなら、われらは霊に適合し続けもしよう」と、積極的な意味合いを捉えようとしていることが分かります。

なぜ積極的かというと、「適合する」という動詞形の名詞形は「ストイケイア」で、新改訳2017では「もろもろの霊」と訳されているのですが、以前は「この世の幼稚な教え」と理解されていましたが、本来ギリシャ哲学用語で宇宙の「根源的要素」を意味していました。アリストテレスの『形而上学』でもそのように説明されています。「適合する」というのはそのような根源的あり方に沿って生きることを意味しています。すなわち、「霊に適合する」とは私たちにとって特権であるのですが、人間としての根源的な生き方に関わると理解するのです。「信の哲学」の視点である「共約性」の意味がここでも捉えられています。

聖霊のことは気をつけないとすぐに感覚的なものと混同しがちで、感情的な高揚を促す形での取り扱いになりがちですが、「霊の思慮内容」と言われているとおりに、ある程度その意味内容は把握出来るものとして描かれています。「生命と平安」と言われていますが、ガラテヤ書では「御霊の実」として九つ挙げられています。最初が愛で、その中にはピスティスである誠実さも含まれています。それらを否定する律法はないと言われているとおりに、御霊に従って生きることが具体的な実を意味していて、そのためにどのようなことをしたら良いのかも識別できるのです。

7章の終わりに出てきたヌースは、その意味で、聖霊を受け止める役割を担っていると言えます。邦訳では単なる「心」と訳されているので、感覚的な受け止めの場としての意味合いが強くなってしまいます。ヌースは「信の哲学」では「叡知」と訳され、判断能力を伴った機能を意味しています。聖霊は外から肉を持っている私たちに働きかけ、どうすることが御霊の実を結ぶことになるのかを教え、実行に移すように促してくれるのです。「適合する」とはそのような責任を伴った生き方を言い表しています。

そしてさらに聖霊によることは自動的に起こることでもないことを「信の哲学」は指摘しています。というには、9節から11節で仮定法が4回使われていて、「もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない」と言い表されているように、キリストの霊を持たないこともあり得ることを前提に語っていることが分かります。どのようにキリストの霊を持つかは各自の責任に任されていると言えます。そのような仮定法を4回も繰り返しているのは大切な視点だからなのです。

聖霊を自分で自分のうちに引き込むことはできないのですが、働くために備えをすることはできます。その意味では、逆に働かないように心を頑なにすることもできると言えます。パウロがそれに対してすでに1章で神の怒りの啓示で語っていることが当てはまります。その内なる人の状況を「叡知の機能不全」(1:28)と言い表し、神は勝手にしなさいと「引き渡した」のです。

「信の哲学」はこのように「聖霊」の位置づけを大切にしているのですが、それは特にローマ書で「聖霊」の使われ方を注意深く観察しているからです。先に見たように1-4章での神の側での自己完結的なあり方と5-8章まででの人間の側の相対的自律性の違いに基づいて、それぞれにおいての「聖霊」の役割を見分けているからです。分かることは、神の義の啓示の自己完結的なあり方には聖霊を出す必要はないのです。それに対して、人間の側の相対的自律性にとっては、聖霊は神の義と結びつける役割を担っていることです。

聖霊は、この意味で、神の側と人の側とを結びつける媒体の役割をしていることが分かります。「信の哲学」はこの意味を、テキストの分析をもとに解明しています。単なる経験的なことではないのです。しかも5-8章での人の側でのことにおいても、前にも記したように、5章5節で「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」と、ある意味で突然語りだしいるのですが、それは心での聖霊に働きを確証しているからです。

そして6章では「肉の弱さ」を確認しながらも神の恵みを知っている事実を語り、7章では「文字の古さ」に対して「霊の新しさ」に言及して、肉の弱さを持っている者の葛藤を語るのですが、聖霊の働きについては、あたかも我慢して触れないで、逆に聖霊の働きなしには神の義の実を結ぶことができないことを語り出しているかのようです。そして8章で「キリスト・イエスにある生命の霊の律法」に生かされ、その意味で「霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者」の可能性と現実を提示していることになります。

この辺は、パウロが注意深く「聖霊」のことを出していると「信の哲学」は観ているからなのでしょう。しかもそうすることで、神の義の啓示は初めて実を結ぶことができると観ているからなのでしょう。すなわち、聖霊は神の義の啓示という神の側のことが人の側で実を結ぶためには不可欠な要素と看做しているからと言えます。神の側のことは神の息吹によって促されてその完成をもたらすのです。人間の側の信仰の強さでもないのです。信仰は聖霊の働きの場を備えます。それでも完全な保証でもありません。実を結ばないこともあるからです。

8章での聖霊の意味づけとしてもう一つ注目に値するのは、肉の弱さと肉の呻きを被造物全体の呻きとして捉え、それに対しての執り成しとしての御霊の呻きを捉えていることです。肉を含めて被造物が創造者の意図に従ってその成り立ちを完成するためには、霊という神の側の息吹が必要なのです。新しい創造の業は、罪に支配されてしまったこの世においては、新しい神の息吹として必要なのです。

御霊はこのように神の息吹ですが、新創造の力として機能するのです。それは御霊がイエスを死者の中から甦らせた力でもあるからです。しかもその復活のからだを「御霊のからだ」とまで呼んでいるのです。それ故に私たちは被造物の呻きを持っているのですが、希望があります。そうでなければこの地はむなしく消え去ってしまいます。

「信の哲学」はこの御霊の機能をも哲学のテーマとしています。なぜなら、この世界の存続のためには霊の介入なしには考えられないと観ているからです。それは聖書が提示していることであり、同時に、神の息吹による刷新は世界が希求していることでもあるからです。そして今の時に、誰でもが願い求めていることです。

結びとしてー信と愛の相補関係

ローマ書14:22-23 ガラテヤ書5:6

「信の哲学」は、このローマ書1章から8章までの意味論的分析をもとに、そこで明らかになった神の主権と人間の自由意志のテーマ、すなわち、信仰義認論に含まれる問題点を明確にして、2千年の神学の議論で取り上げられてきた課題に光を与えています。著書『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が上下巻1400頁になっていますが、上巻800頁はローマ書のテキストを中心に論じています。下巻の600頁で上巻で明確になった論点を神学の歴史に対応させながら、「信の哲学」の有効性を論じています。

ここではその点には入ることはしないで、ローマ書8章まででまとめられている視点を再確認したいと思います。それは、すでに見てきたローマ書1-4章と5-8章の言語網の相違と関連性、すなわちその区別と融和が意味していることが明確にされることでもあります。すなわち、「神の側の自己完結性」と「ひとの側の相対的自律性」を結びつける手立てとして8章で聖霊の役割が明確になりました。それは、別の言い方をすると、ロゴスとエルゴンの区別と融和を可能にする手立が明確になったことでもあります。

「信の哲学」は、何といっても信・ピスティスの神の側と人の側での普遍的な必然性を明確にしています。すなわち、信仰は誰にとっても必要不可欠なことですが、それは神の側で信、すなわち、神の真実とイエス・キリストの信に基づいているからです。その信には、神を知り神を信頼して行く認知的な要素と、その信の生き方を示す信頼と真実を身に着けていく人格的な要素が二面があります。すなわち、信・信仰は神の側でのロゴス的な面と、それが具体化するエルゴンの面があることが分かります。

そのエルゴン化の機能として聖霊を神が備えているのです。信じて信頼して人生を歩んでいく者に聖霊の実が結ばれてくることを、神が備えていることになります。信じて信頼して歩むことは相対的自律性をいただいている者の責任です。その時に神の義が実を結んでいくために神がご自身の霊を私たちに備えてくださり、その霊の実を結ぶことを嘉としてくださっているのです。その実が愛として実現することを神は嘉とされているのです。

ガラテヤ書5章22節で御霊の実を列挙していますが、その最初が愛であることは意味のあることです。その列挙の中にはピスティスも「誠実」として含まれています。ピスティスは隠されていても愛は実として隠すことはできないのです。そして大切なことはキリストが律法の成就として遣わされているときに、その律法の中心が神と隣人への愛でもあることです。ガラテヤ書の続きで、「このようなものに反対する律法はありません」とも言われています。

そしてこのガラテヤ書5章では、すでに紹介しましたが、6節で「キリスト・イエスにあって大切なのは、、、愛によってはたらく信仰なのです」と、信と愛の相関関係が明確にされていることです。千葉訳で「愛を媒介として」と表現されているように、信仰が愛を媒体として働くときには、信じていることに真実さも希望も生まれてきます。業の律法に戻る必要はないのです。5節では「義の希望」が語られていて、信仰と希望と愛が密接に結びついていることが分かります。

この三つの結びつきは、ローマ書5章でパウロが神の側のことから人の側のことに視点を移していったときにも観られます。初めに「われらは[イエスの]信に基づき義とされたので」と切り込んで、さらに「信によって」と繰り返して、艱難、忍耐、練られた品性、希望を語り、その希望は決して失望に終わることがないと言って、その理由として、「なぜなら神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっているから」と言うのです。信仰と希望と愛は密接に結びついているのです。

先にも触れたのですが、「信の哲学」が信と愛の相関関係を結論のように捉えていることは、「信の哲学」のロゴスとエルゴンの相補関係の具体的な現れとして納得できることです。神の側の信に発するという意味でのロゴスが、私たちの信仰のあり方として愛に結びついて、それがエルゴンとして実を結んでいくことを、そして、「信の哲学」の提唱者の千葉先生が解明しているだけでなくそのように生きていることを、この5年以上交流をいただいて知らされていることです。

もしかすると「信の哲学」に惹かれたのも、単なる知的な意味でのローマ書のテキストの理解よりも、その結論として千葉先生が生きておられる信と愛の相関関係を身に着けておられることに驚嘆して、その秘訣を知りたいと思ったからのように思います。当然知的な意味でのテキストの解明は目を見張るというか、今までの教会の歴史においてもなされてこなかった偉業なのですが、その結論にご自身が生きておられることは解明そのものが真実であることを語っていると言えます。そんな思いで千葉先生に接していったのですが、快く受け入れてくださり、信と愛の交わりに入れてくださいました。

最後に、千葉先生の信仰の姿勢を語ることばがローマ書の14章の終わりに記されています。「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て。識別するそのことがらにおいて自らを裁かない者は祝福されている。、、、信に基づかないことがらはすべて罪である。」(14:22,23)私たちが自分の信仰としていることが、神の前での信仰として納得できたら、そのことで人からも裁かれないし、自分も裁く必要もないのです。千葉先生はその姿勢でローマ書のテキストに40年関わってこられました。その恩恵に与っています。

「続き・メモとしてーー停止してしまうような神学とは」2020年8月3日

今回拙文「パンデミックと、神の義と怒りの啓示ーー資料とエッセイ」を30数名の方にお送りいたしました。凸凹神学会の世話人である大頭眞一先生に送りましたら、その関わりの先生方にも転送してくださいました。その一人であられる京都大学名誉教授の水垣渉先生から以下のようなコメントをいただきました。

「上沼先生の真摯で、聖書の中心に向かう御論考に感銘いたしました。こういう肝腎な時に、停止してしまうような神学が多いであろう中で、先生が神学の試みを展開しておられることにならわねばなりません。凸凹の皆様のお考えもその方向にあると思います。」

畏れ多いお言葉をいただいたのですが、実際にはN.T.ライトと「信の哲学」の文章をそのまま資料として提供しているだけですので、そのまま受けるのには多少抵抗を覚えました。聖書に直接に当たっているのはN.T.ライトと「信の哲学」の千葉先生であるわけで、私はそれなりに納得するところがあって、そのまま引用しているだけだからです。ただ、私なりに納得していることを、水垣先生が評価してくださっているのだろと思っています。それで「こういう肝腎な時に」「神学の試み」をしていることを評価してくださったのだろうと受け止めています。

同時に、「こういう肝腎な時に、停止してしまうような神学が多い」と遠慮なしに言われる水垣先生は、神学の限界というか、非現実性を観ておられるのかなとも推測するのです。言い方を変えると、神学の世界に逃げ込んでしまって、「こういう肝腎の時に」現実との接点を失ってしまう危険性を意味しておられるのかなとも思うのです。実はこの辺で、今回のパンデミックに関してのN.T.ライトの視点に物足りなさを感じたことが、エッセイを書く動機になったのです。

立川福音自由教会の高橋秀典先生が、その辺を受け止めてくださり、私のエッセイに以下のようなコメントをくださいました。<僕も、常づね、ライトを読みながら、「神の怒りの啓示」という視点が欠落しているように感じていました。今回のパンデミックに関する本(God and the Pandemic)でも、これを神のさばきと見る見方を否定することから始まっています。従来のさばき中心の神学に対する抵抗感のゆえに、この基本的な、神の怒りの啓示の視点が欠けてしまうのだと思います。>

そして実際に、今回のライトのGod and the Pandemicでも、神の義の啓示のことを触れているのですが、その反面である神の怒りの啓示のことには触れないで、ローマ書8章での被造物の呻きと、御霊の呻きと、私たちの呻きを結びつけることでまとめていることが分かります。これは多分ライトのローマ書理解の基本的なものなのだろうと思って調べてみました。それで以下のような返答を高橋秀典先生にしました。

<ご返事をありがとうございます。ライトがローマ書1章17節の神の義の啓示のことは、8章19-27節に結びつくと、Evil and the Justice of God(2006年)の117頁ですでに述べています。The theme stated in Romans 1:16-17 comes to its full expression not simply in Romans 3:21-4:25, not simply in Romans 5:1-11 or Romans 8:1-11, but in Romans 8:19-27. これはライトのローマ書理解の基本なのでしょう。そして1章18節以降の「神の怒りの啓示」の取り扱いは微妙なところです。この辺は「信の哲学」の意味論的分析を借りる以外にないのかも知れません。「信の哲学」では、神の義の啓示も、神の怒りの啓示も、神の視点を神のこととして語っていると言語分析的に捉えています。それがテキストの理解として耐えられるものかどうかを提示しています。ライトのローマ書理解は聖書全体の理解、創造から新創造へのパノラマ的理解が枠になっています。ローマ書もそれに沿って理解しているのでしょう。>

ライトのこの、ローマ書1章17節での神の義の啓示を8章19節下に結びつけるのは、神学的理解としては分かるのですが、すなわち、聖霊による呻きとしてのパンデミックヘの関わりとしては、それなりに分かるのですが、それは水垣先生が指摘されている、「こういう肝腎な時に、停止してしまうような神学が多い」ことの一つになりかねない危険性をかかえていると言えるのではないかと心配しています。神学的理解としてはまとまっていても、パンデミックとの関わりは特に出てこないからです。「神学的」と言うことが、自分たちの枠の中に逃げ込むことであれば、それは「停止してしまう」と言えるのかも知れません。

それに対してすでに拙文で、このローマ書での神の怒りの啓示をそのまま取り上げている「信の哲学」を紹介することになりました。その部分を読んでいただいたら良いのですが、ライトの「神学的理解」との関わりで、「信の哲学」のローマ書の取り上げ方はいわゆる「神学的」と言えるのかと、自問することになります。ライトの場合には8章での聖霊の執り成しとしての呻きからローマ書を捉えるのは、その聖霊を受け入れている信仰者の世界としては納得できるのですが、それはローマ書を初めから信仰者の世界に閉じ込めていることになるからです。

「信の哲学」はローマ書を当時のすべての人だけでなく、神の創造に関わるすべての人に関わるものとして捉えています。神の義と啓示と怒りの啓示は、すべての人に関わるものとしているのです。それを神の側の言語網として、こちら側の信仰によることを避けているのです。この辺の意味論的分析は、神学的な釈義を避ける手立てとして、神ご自身も用いたギリシャ語での言語分析に徹しています。例えば「信仰・ピスティス」の前の前置詞が、dia か ekによって意味が違うことに徹するのです。邦訳は不明確で単に「信仰によって」となっています。また、接続詞garが、この神の義と怒りの啓示の1章16-18節で3回続けて使われ、3章22-23節でも2回続けて使われていることを大切にするのです。

この手立てで、ローマ書1-4章を「神の自己完結性」とし、5-8章をそれに対しる人間の応答としての「相対的自律性」としています。すなわち、相対的自律性を持った人間に神の義の恵みがどのように働くのかを、厳密な言語分析を通して辿っているのです。聖霊がどのように人の内側に働くのか、その分析をテキストに沿って展開しているのです。それは単純に神学と呼ぶよりは、まさに「信の哲学」の哲学なのです。すなわち、誰でもがテキストに沿って辿ることのできることとしているのです。神の義と怒りの啓示は、信仰者だけのものではないのです。すべての人が避けられないこととして直面させられているのです。

この接点があるので、神の義と怒りの啓示との関わりでパンデミックを考えることができるのです。それは先の拙文でも触れたように、<今回のパンデミックはまさに全地球的な規模で、人類誰もが避けられない状況に置かれていることを思うと、「信の哲学」が提唱している「神の怒りの啓示」として捉えていくことは、神が人間をどのように見ているのかという意味で、方向付けをいただけることです。すなわち、神はその状況へと「引き渡し」たことで、勝手にしなさいと言っていることになるのです。その「引き渡し」には、<「心の諸々の欲望における不潔へと」(v24)また「恥ずべき情欲に」(v26)さらには「叡知の機能不全に」(v28)「引き 渡した」こと>と、3回も繰り返しているのです。>

このことに関して、「信の哲学」の提唱者の千葉惠教授からもその方向性を確認しています。<Pandemicの件、、、先生ご指摘のとおり、わたしも「引き渡し」としての「神の怒り」を感じます。サバクトビバッタの被害と言い、聖書的な状況が続いています。21世紀、医術、科学技術の進展が一方でありつつも、それを支える人間が対応しきれないと医療崩壊につながるこの単純な事実に、知性の産物を十全に用いるためにも、人間がその根源性においていかなる者であるかの自己理解が問われていることにはかわりはないと認識できます。肉の弱さへの譲歩にあぐらをかき、欲望のままに突き進むとき、人類は他者をまきこみながら滅びていくそのような状況が出来しつつあると感じます。感染拡大を止めるのは各自の自覚的行為しかないという単純な事実が突き付けられています。>

ここで注意しておく必要のあることは、神の怒りの元に「恥ずべき」ことに引き渡されているのは、人間のすべての行為であって、今回のパンデミックに限ったことではないのです。自分の欲に駆られて動いてしますすべの行為に関しては「勝手にしなさい」と言っているのです。それは逆にすべての行為に人間は責任を負わされているので、その判断を任されているのです。「叡知(ヌース)の機能不全」に引き渡されているのですが、その意味でローマ書12章2節の「叡知の刷新」が必要なのです。どうすることが良いことなのかを見極めて、行動に移すことです。

取り上げたN.T.ライトのVirtue Reborn(2010年)では、徳の再生として、人間の行為の責任までしっかりと語っていますので、実は、今回のGod and the Pandemicでは、物足りなさを感じたのですが、それはライトのこの神の怒りの啓示の取り扱いにもよるようです。現実にローマ書1章18節から3章20節までのライトの取り扱いは微妙なところがあって、さらに調べる必要があります。(分かりましたら、また紹介いたします。)

ただローマ書に関しては、1章17節での神の義の啓示と、その再登場である3章21-31節の「イエス・キリストのピスティスによる」神の義の啓示の理解は、その間の神の怒りの啓示を抜きにしてしまうと、神の恵みの強調はその通りなのですが、いわゆる神学の枠の中での聖書と世界の理解に終わってしまって、一方ではその恵みを無視していることへの「神の裁き」の強調と、他方では現実の困難の中でのクリスチャンの対応だけに視点が向いてしますのかも知れません。それは、まさに水垣先生が言われる「こういう肝腎な時に、停止してしまうような神学が多い」ことに当てはまるのではないかと思います。

この意味では「神学の妥当性」が問われるのです。それは「聖書の妥当性」ではないのです。「信の哲学」のローマ書に関しての意味論的分析を辿っていくと、安易な神学的な結論は許されないことが分かります。言い方を変えると、パウロ自身が、安易な神学的な結論を避けて、細心の注意を払って福音の提示をしているからです。それだけでなく、その福音が私たち人間の内奥でそのように働くのかも、細心の注意を払って提示しているのです。パウロ自身がそれだけ注意を払って、5章から8章で取り扱っているのです。そこには当然聖霊の働きがなければ起こり得ないことなのですが、それでもそれは当時の哲学者たちにも耐えうるものとして提示しているというのです。

水垣先生が「上沼先生の真摯で、聖書の中心に向かう御論考に感銘いたしました。、、、先生が神学の試みを展開しておられることにならわねばなりません」と言ってくださっているのですが、それは「信の哲学」が、ローマ書への神学的な理解を最大限に排除して、テキストそのものを厳密に読み解き、さらに、ローマ書でのパウロ自身の福音提示とその受容としての魂の根底でのあり方に、ただひたすらテキストに沿って探求していることに、私なりにならってみたからです。それは結果的に、ローマ書のテキストだけが私の知と心魂に残ることになりました。しかもそれは、不思議な平安を与えてくれました。

そして現実に、そのテキストの意味論的分析の元に、パンデミックを考える手立てをいただいているのです。前回の拙文への応答をいただき、メモとして記してみました。この地に生かされている責任を、共に、少しでも果たすことができればと願っています。感謝とともに。上沼昌雄

「パンデミックと、神の義と怒りの啓示ーー資料とエッセイ」2020年7月22日

初めに:

私は、現在置かれているアメリカでの今回の新型コロナウイリスの世界的な感染状況であるパンデミックの中で、一人のクリスチャンとしてどのように捉えるのか良いのか考えている中で、いくつかの発言と対面し、また私なりに参考になると思われる資料を取り上げながら、現時点でのエッセイとして以下の文章を試みました。参考になればと願い、資料をそのまま紹介し、思っていることを綴ってみました。資料は、N.T.ライトと、「信の哲学」と、大野キリスト教会宣教牧師の中澤啓介先生からのものです。

1.N.T.ライトと:

N.T.ライトとフランシス・コリンズ医師との対談のビデオのことを、過日7月12日に知人が紹介してくださり、その際に、N.T.ライトはすでにGod and the Pnademicという本を出版され、日本語訳も進んでいると教えてくれました。それでどのような方向付けが示されるのだろうかと関心を持って対談を聴くことになりました。実際にはN.T.ライトが話す時間も限られていて、彼の主要ポイントである、新天新地がすでにイエス・キリストのよって始まっていて、クリスチャンはその方向付けに向かって、神の民として神の愛を世に示し、実行していくことを語られ、神とパンデミックの関わりより、パンデミック下でクリスチャンの姿勢を語っていることが分かりました。

実はこのN.T.ライトの方向付けには、多少の物足りなさを覚えたのです。彼は、クリスチャンの実践、倫理の面に関してVirtue Reborn(米国版:After You Believe)という本を2010年に書いています。そこで、出エジプト記から黙示録までで記されている神の民のあり方としての「王なる祭司」としての役割と責任を明確に提示していますので、パンデミックに関してもそれなりの方向付けを出されるのかと思っていたのですが、どちらかというと一般的な意味で、病める人、弱い人への愛を示していくことで、その責任を果たすことに留めているように思いました。

それはクリスチャンとしての務めであるのでその通りなのですが、パンデミックをどのように理解して、具体的にどのような対応が可能なのか、方向付けがあっても良いのではないかと思わされました。すでにGod and the Pandemicという本を出されているというので、確認したいと思いました。

N.T.ライトがVirtue Rebornという本を書いているのはと言うのか、書くことができているのは、彼の新天新地の理解と、そこに至る創世記から黙示録までの流れの中での神の民の責任を「王なる祭司」と捉えていることによっているのです。それは伝統的な福音理解とも、また社会派の福音理解とも明確に一線をかするもので、創造から新創造における福音理解とその実践という意味で注目に値します。それぞれの立場を、N.T.ライト自身の表現で、59,60頁(米国版:66,67頁)で記していますので、確認することができます。それぞれの視点を3点でまとめています。

伝統的な福音理解:

「1.ゴールは、時間と空間と現実の生活から離れた、最終的な天国の至福である。

2.このゴールは、イエスの死と復活によって、また信仰によってそれに結びつくことで、私たちに達成される。

3.クリスチャンとしていま生きることは、体を離れた「永遠」の状態に、隔離された霊性の実行と、「この世の」汚れかを離れることで、先取りすることである。」

社会派の福音理解:

「1.ゴールは、自分たちの手のわざでこの地に神の国を築くことである。

2.このゴールは、イエスの公の生涯で示されている。プロセスから始まって、どのようにするのか示している。

3. クリスチャンとしていま生きることは、最終の地上での神の国を、正義と平和と、貧困と苦悩の緩和のために働き、奨励することで先取りすることである。」

創造と新創造の枠での福音理解:

「1.ゴールは、新しい天と新しい地であって、そこでは人が死者の中からよみがえって、新しくされた世界で王として祭司として生きることである。

2.このゴールは、王国を建て上げるイエスと聖霊の働きによって達成される。それは、私たちが信仰によって捉え、バプテスマによって先取りし、愛によって生きることよってである。

3. クリスチャンとしていま生きることは、聖霊によって導かれ、習慣を身につけ、信仰と希望と愛を真に人間として実行し、神を礼拝し、神の栄光を世に反映させる召しにクリスチャンを援助することで、 この究極的な現実を先取りすることである。」

この三番目のN.T.ライトの視点は、具体的に「律法」の意味づけ、イエスの山上の説教の理解、御霊の九つの実のこと、信仰、希望、愛のクリスチャンの徳のあり方と、福音理解とクリスチャンの行動とを結びつける役割をしています。福音と行動、福音と律法とが切り離されていないのです。その役割を担うあり方を、その1で言い表しているように「新しくされた世界で王として祭司として生きること」で、端的に「王なる祭司」と捉えています。

この表現は、N.T.ライトがVirtue Rebornで取り上げているのですが、正直それまでは気がつきませんでした。そのままの表現とそれに関わることは、聖書全体にしっかりと流れていることを、創造と新創造の枠の中で理解しているのです。大切な視点ですのでいくつかの箇所を確認してみます。

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが確かににわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:4-6)

 

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。、、、しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:5,9)

私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国として、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。(黙示録1:5-6)

彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取り、封印を解くにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国として、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」(黙示録5:9-10)

また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストともに千年の間、王として治めた。、、、この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死はなんの力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストともに千年の間、王として治める。(黙示録20:4,6)

神と子羊との御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、み顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名が記されている。もはや夜はない。神である主が彼らを照らされたので、ともしびの光も太陽の光も入らない。彼らは世々限りなく王として治める。(黙示録22:3-5)

直接の言い回しは出エジプト記から始まって黙示録で締めくくっているのですが、その黙示録に対応するように、創世記ですでに神のかたちに造られた人間に地を治める責任が委ねられているのです。

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らの仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記26-28節)

新約聖書ではペテロが直接に使っているのですが、パウロもアダムとキリストとの対比をローマ書5章で語っているときに、すでにキリストとともに私たちも支配することが求められていることを語っています。見逃されているところですが、N.T.ライトはしっかりと捉えています。

もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかりに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。(ローマ書5:17)

N.T.ライトは、具体的に「王なる祭司」としての初期のクリスチャンの生き方を使徒の働きの中で観ています。その生き方が当時の社会を変え、どれだけでなくローマ帝国まで変えていったと言うのです。Virtue Rebornの194-196頁(米国版:225-227頁)で描いています。

<キリストによって新しくされた神の民が、「王なる祭司」として召されている意味で、「王である」ことと「治める者である」ことがどのようなものか見たければ、、、教会が最初の二、三世紀でしてきたことを見た方がよい。その時は、上の権威から迫害され蹂躙されたときであったが、全世界に向かって、十字架にかかり甦ったイスラエルのメシアが信実な主であると宣言した。それこそ今まで論じてきた意味で「治める者」なのである。その王の支配、平和の君の支配の媒介者であり、その方によって専制君主そのものが、最も強力な武器である死とともに覆される。またその方によって秩序と自由が最後に出会う新しい世界の誕生がもたらされるのである。

特に使徒の働きを見よ。そこでは教会は、よみがえられた主ご自身によって、王であり、王国である事実を明かしするように命じられている(使徒1:7-8)。新たにされた神殿としてのコミュニティは、治める者を待つ民として生きることであり、人間の権威より神に従わなければならないと宣言できる民である(使徒4:19,5:29)。これらの初期のクリスチャンは、、、しかし今までとは違ったクライマックスをもって語ることになるのだ(例えば、使徒の7章と13章のように)。物語のクライマックスが、神殿に大祭司が到来するとか(紀元前200年頃に書かれたベン・シラの知恵とか伝道者の書で言われているような)、あるいは、ローマ帝国に戦いを挑むイスラエル軍の指導者であるような未来の戦闘的なメシアの到来とか(エッセネ派の人たちが望んでいたような)、また、イスラエルの先祖の律法を堅く守ることの到来(パリサイ人たちが望んでいたような)に代わって、そのクライマックスは、拒否されしかし今高く上げられ、神によって与えられた主権を述べ伝えているイエスご自身であり、誠の王なのである。弟子たちはそのことの証人であり、仲介者なのだ。

そして、この主権は、イスラエルで終わることはなかった。すでにその初期においてすら、逆説的に次から次へと世界中に広まっていった。パウロと同伴者たちは、長官たちにローマの法の下でその義務を果たすことを思い出させ(使徒16:35-40)、ギリシャ・ローマ社会で最も有名な議会で論争し(17:22-34)、セネカの義兄弟の前で賛同の判決をいただき、エペソの町の書記官からは暗黙の同意をいただき(18:12-17,19:35-41)、ローマ人としての彼の法的な立場に敬意を払わせ(22:25-29)、神の来たるべき裁きを一人の総督に伝え、自分の法的な立場を他の総督に伝え(24:25-26,25:6-12)、そして最後に、ローマの市民であることでローマに対して安全な立場を獲得し、そのローマに対して神が王でありイエスが主であると神が宣言するように仕向けていたことを、なしたのである(25:11,28:30-31,ローマ書1;13-15)。「治める者」と言うことで意味していることの少なくとも一面であって、世の支配者達がイエスの前で自分たちに付随する義務を正しくなすように促すことである。

さらに特に、初期のクリスチャンは、イエスを主と宣言することで自分たちの業をなし、神の主権の仲介者となっていた。そのようにすることで、人々の心と生活を変えた福音の力の現れとして、コミュニティが発生し、イエスに忠誠を示し、イエスが主であることを祝ったのである。「いつも主にあって喜びなさい。」パウロは勧めている。「もう一度言います。喜びなさい。、、、主は近いのです、」(ピリピ4:4-5)>

実はここまで明確にクリスチャンの実践について語っているので、今回の新型コロナウイリスによる世界的な感染であるパンデミックについて、それなりの方向付けを出してくれるのかなと期待していたのですが、一般的な意味での病める人、苦しんでいる人へのクリスチャンの配慮と言うことで終わっているようなので、その意味で物足りなさを感じたのです。

N.T.ライトのGod and the Pandemicが出版されたのが6月19日となっています。その時点はアメリカでいくつかの規制が解除されて、人々の動きが活発になり、特に5月の終わりのメモリアルデイで野外での活動や、家族での集まりなどで、感染者数の増加が見られたときでした。いわゆる第一波がまだ終演していない状態で再感染増加になったと言われている状態です。その状態は7月の半ばになっても続いているというより、状況はさらに深刻になっています。

そのような状況の中でのN.T.ライトとフランシス・コリンズ医師のネットによる対談でしたので、特にN.T.ライトからは聖書からの積極的な意味づけがあっても良かったのではと思わされています。司会者の方向付けもあり、視聴者からの質問もあり、時間的にも限られていたのですが、その意味で物足りなさを感じたのです。

対談がなされた時点でのイギリスとアメリカの状況の違いもあったのかも知れません。イギリスのことは分からないのですが、アメリカは手の付けられない状況に近づいていました。フランシス・コリンズ医師はその意味で、私たちのできることとしてマスクと社会的距離をとることを最低限のこととして強調していました。イギリスではそれなりに落ち着いているのでN.T.ライトもそれなりの落ち着きがあったのかも知れません。

今回の新型コロナウイリスは、それ自体としては、自然現象なのですが、今回の感染はあっという間に世界的な、地球的な意味で広がり、アメリカでの再感染にも人の動きが関わってきますので、それを語っているパンデミックという表現は、単なる自然現象をこえて人間の行動を含めた対応が始めから関わっていることを語っています。

私個人は3月4月と感染が最初に広がっていったときに、特にニューヨークがその震源地のような状況でしたので、どのようなことになるのかと思い、また今回の新型コロナウイリスがどのようなものなのか自分なりに知りたいと思い、ニューヨーク州クオモ知事の会見を毎日のように聴いていました。時差の問題で見逃すこともあっても、その日のうちにユーチューブで見ることができました。

最初の42日はグラフが上り続け、ようやく平坦に達し、それから69日かけてゆっくりと封鎖状態の解除できるところにまで到着したと言って、111日間連続の会見を閉じたのです。その間一日の死亡者数が800人近くにまで達した時がありました。会見を閉じた時点では30人ほどと言っていました。それでもその数字は一人ひとりの実際の死であり、家族の悲しもも当然含まれているのです。そしてその数の中に私たちも含まれる危険性はいつでもあるのです。

私にはこのことが頭にあるので、他の州がそれほど緊張感を持たないで対応してきたために、今再感染の増加をもたらしていることに、単なる自然現象ではかたづけられない、社会的、倫理的な問題を含んでいるのだろうと捉えています。3月4月の時点で、他の州の知事だけでなく、大統領も同じように真剣に対応していたら、7月の半ばの今の時点で感染はかなり抑えられていて、私たちの日常生活も楽になっただけでなく、それこそ経済の復興に向けて次のステップを踏み出すことができたのではないかと思わされています。その意味で正直怒りさえも覚えるのです。

アメリカは二流国家になってしまったのか。あるいは初めから二流国家なのかとさえ思わされます。今回の新型コロナウイリスに対する人々の対応を見ていると、自分たちの思いや願いを何とか通そうとする欲が勝ってしまって、封鎖が解除された途端に海水浴客で海辺はごった返し、感染を広げることになりました。マスクは感染を少しでも抑える最低限のこのなのですが、それは自分たちの自由を奪うものだとけんか腰で主張する人もいます。30歳の男性がコロナパーティーに参加して感染し、「自分は大変な間違いを犯した」と看護師に言って亡くなった人のことが報じられていました。もはやアメリカは紳士の国ではなくなってしまったのかと嘆いています。

2.「信の哲学」と

そんなことを思っていましたので、N.T.ライトの発言に物足りなさを覚えたのですが、すでにこの5年近く関わっている「信の哲学」のローマ書1章の神の怒りの啓示の理解に同時に光をいただいています。というのは、神の怒りは私たち人間の行為に対して避けることのできないこととして表現されていて、しかもその対局のように神の義の啓示が備えられていることを、ローマ書のテキストの解明を通して証明しているからです。しかもその証明の仕方は、テキストだけに沿ったものなのです。すなわち、いわゆる神学的な枠組みを避けているのです。

パウロは、ご存じのように、1章17節で、「福音には神の義が啓示されていて」と明言しているのですが、そのテーマは3章21節以下で再度取り上げられるまでは、啓示のもう一つの面である「神の怒り」に、避けられないこととして言及するのです。しかもそれはパウロが見いだしたものではなく、私たちの信仰とも関わりなく、神の側の神のステートメントとして、神の怒りの啓示が、神の義の啓示とともに記されていると見ているのです。その神の怒りの啓示自体がすでに旧約聖書のなかで繰り返し表されてきたことであることを踏まえています。

それ故に、その神の怒りの啓示は結構詳細に記述されているのです。「信の哲学」の特長は、ここでの神の啓示の提示は、パウロによって、神の側のステートメントとして表されていると理解していることです。それで1章から4章までを「神の側の自己完結性」と呼んで、私たちの信仰が関わる以前の神の視点として見ていることです。その徴のように啓示の対象も特定の人ではなくて、神がそのように看做している人すべてであると言うのです。その啓示が特定な人、パウロ自身にどのように関わるのは5章から8章で取り上げているというのです。そこでは「人間の相対的自律性」が認められていると理解しています。

「信の哲学」では「怒りの啓示の範例」として、著書『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』(北大出版会、2019年)上巻477頁で以下のように記されています。

<パウロは「(b2 )神の怒りが(b3 )天から(b4 )不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに ( b1)啓示されている」(1:18 )と報告している。神によるこれら「不敬虔と不義」の認識は業の律法、もしくは「自 らの心のなかに律法の業が書かれてあること」(2:15 )を介してもたらされると報告されている。ここでまず確認す べきは、神の怒りの啓示の理由として、神の知られるべきことがらが不義のうちに真理をはばむ人間に明らかであ ること、そしてそれも神自身が明らかにしたことである。「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからで ある」(1:19 )とあり、神がその当人に明らかにしたと理解していることがらは当人に明らかであり、「弁解の余地な き」(1:20 )と理解されていることを報告している。これは人間である限り誰もが同じ魂の構造をもっていることを 裏付けこそすれ、何か神秘的な力能のある者の特権的認識能力ではないことを含意している。 神の啓示の行為は知らしめる行為であるが、神の怒りは「引き渡し」という仕方で知らしめられている。啓示B 怒りの実質は「心の諸々の欲望における不潔へと」(v24)また「恥ずべき情欲に」(v26)さらには「叡知の機能不全に」(v28)「引き 渡した」ことである。すなわち、当人たちの自己責任のもとにある不潔や誤った認識そのものが神の怒りの現れである。>

「信の哲学」の提唱者である千葉惠教授は、ここでの神の怒りの表れとして「恥ずべき情欲に」「引き渡した」という言い回しの独立性に注目しています。すなわち、こちらがそのような感じようがどうかは問題でなく、神はそのように看做しているというステートメントであるからだと言います。それは私たちの信仰以前の神の側の言語網であると言うのです。「あとがき」でこの点に気づいたときのことを記しています。<「1999年夏の夜に文語訳で「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡した」における「恥ずべき」という訳語に触れ たとき得たアイディアを機に意味論的分析が始まりました。」> 余談なのですが、2014年の文化の日に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念会の折に、初めて千葉先生にお目にかかって、お話をしたときにもこの「恥ずべき情欲に引き渡した」のことを話題に出されたのですが、その時は何を言おうとされたのか全く分かりませんでした。

その意味合いは上巻449頁に以下のようにまとめています。

「パウロはユダヤ人に信任された神の言語をギリシャ語において報告できると理解している。そのなかでパウロが見出したものは「イエス・キリストの信」であり、神はその信を媒介にして自ら義であることを啓示しているとい うものであった。しかし、認知的、人格的に十全な神はパウロが理解できる語句を用いたにしても、それは単に指示上の意図を表現するものではなく、神により理解されている神の前の実在をそのまま指示している。そしてそれ をパウロは報告している。読者はその言語的振る舞いに習熟することが求められている。例えば、神は「業の律 法」(言語空間 B)のもとに自らの怒りを人間の不義の上に啓示するが、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡した」( 1:26)とパウロが報告するとき、「恥ずべき(atimias )」という語句はその当人がどのように感じようが、まずその語に より神が理解していることがらが指示されそして神によるその語に対応する認識が報告されている。これが神の前 の言語網の独立性を形成する。この根源的な前提のもとに、人間との媒介者として実働する聖霊への言及なしに使 徒パウロのこの宗教的言明はどれだけ哲学的吟味に耐えうるものであるのか、そのことを一つの挑戦として遂行し ている。」

実際に私たちが「恥ずべき」と感じなくて、その結果を受けることになっても、それは初めから神の怒りの啓示の面として、神のこととしてパウロが語っているというのです。その傍証のように「聖霊への言及なしに」に記されているというのです。聖霊への言及は、確かに5章以下で、私たちの信仰との関わりで取り上げられているのです。8章では聖霊の執り成しとしてまとめられています。N.T.ライトはGod and the Pandemicで、初めからこの8章の視点からクリスチャンとしてだけの視点を取り上げていることが分かります。

それはクリスチャンとしてのこととしては納得できるのですが、今回のパンデミックはまさに全地球的な規模で、人類誰もが避けられない状況に置かれていることを思うと、「信の哲学」が提唱している「神の怒りの啓示」として捉えていくことは、神が人間をどのように見ているのかという意味で、方向付けをいただけることです。すなわち、神はその状況へと「引き渡し」たことで、勝手にしなさいと言っていることになるのです。その「引き渡し」には、<「心の諸々の欲望における不潔へと」(v24)また「恥ずべき情欲に」(v26)さらには「叡知の機能不全に」(v28)「引き 渡した」こと>と、3回も繰り返しているのです。

新改訳聖書2019では、「心の欲望のままに汚れに」(24節)、「恥ずべき情欲に」(26節)、そして「無価値な思いに」(28節)に「引き渡し」たと表現されています。3回も繰り返すほどに神の怒りは避けられないことが分かります。それは「弁解の余地のない」ほどに明らかだからです。それはまた、聖書全体で記されている人間の歩みに対する神の視点を語っています。特にモーセが山の上で神から律法をいただいているときに、山の下でアロンと民たちが金の像を造って欲望のままに戯れていたことに対して神の怒りが下ったことが背景にあります。

現今のアメリカでのコロナウイリスに対する国民のある人たちの行動を見ると、表面上は欲望と情欲で出てくるのですが、その「引き渡し」の3番目の28節の「信の哲学」で訳されている「叡知の機能不全に引き 渡した」という表現は、神に背いているというか、神を認めない人の心の奥底での状況を語っていることが分かります。なお、この表現について上巻478頁で以下のように語っています。

<なお「叡知の機能不全」と訳したadokimon nunにおいてadokimonは形容詞であり、「識別に至らない叡知」、 「識別しえない叡知」とでも訳すべきでもあるかもしれないが、神の否定的側面(「峻厳」「怒り」等)しか識別でき ない叡知は機能不全と言えると考えそう訳した。「かくして、見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた 者たちのうえにあり」(11:22 )。叡知と識別(dokimos )の関係については「神の意志が何であるか……識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」( 12:2)また「おのおのは自らの叡知において十全に納得せよ」(14:5 )とあるように、 叡知が神の意志に触れた上で、命題の形でそれが識別される或いは納得にいたるとパウロはアリストテレス的に理 解していると思われる(第四章一節三参照)。通常叡知は感覚を引き金にして発動する。例えば、ニュートンがりん ごの実が落ちるのを見て、はっと気付くその直観が叡知であり、それが万有引力の法則として命題の形で識別され る。もちろん叡知の発動と識別が同時であってもかまわないが、先後関係は明瞭である。パウロ自身の叡知が神の 意志である信仰義認にヒットしたのは、信義が神にとっても根源的であるという「キリストの叡知」を持ったから であると思われる(1Cor2:16 )。> 

この「叡知」と訳されるヌースは、例えば新改訳聖書2019では、上記に引用されているローマ書12章2節に関しては、「心を新たにすることで」と言うように「心」となっているために、本来識別力、判断力が伴うヌースの役割を捉えることができないでいます。「叡知の機能不全」と「信の哲学」が訳しているのは、神の怒りの啓示の前に「弁解の余地のない」人間の状況をそまま語っていることになります。

パンデミックに至る状況を観察していると、現実に今回の新型コロナウイリスの理解不足というか、単なるインフルエンザの一種のように理解して、しかもそのような宣伝が連邦政府からも聞こえてきて、それに心の欲望が絡まって、感染をさらに広げていることが分かります。パンデミックを押さえていくためには、各自の自覚と対応以外にないことで、もしさらに自分たちの欲望のままに振る舞うことになれば、それこそ神は勝手にしなさいと言うことで、行き着くところまで放って置かれるのではないかと思います。

アメリカの教会の対応も、感染をさらに広げることになると理解して礼拝を自粛しているところと、神の守りが自分たちにあると言って礼拝を続行しているところがあります。初めの頃、会衆礼拝を続行して、それで牧師自身が感染して亡くなったこともありました。封鎖解除になってからも自粛しているところと、政府機関が礼拝での会衆賛美も拡散の危険があるので、控えるようにと言うことに、信仰の自由を侵すものだと言って訴えを起こしているケースもあります。

アメリカの場合、おそらく世界的な免疫の研究も対策も、それに伴う資金も充分に備えられていると思うのですが、現実にはアメリは世界の人口の5%なのですが、感染者数と死亡者数は世界の25%にも達しています。明らかに何かが狂っていて、「叡知の機能不全」を起こし、「弁解の余地のない」状態になっています。

3.中澤啓介先生と

このような状況の中で、中澤啓介先生がN.T.ライトの視点、特にGod and the Pandemicから学びながら、クリスチャンとしての積極的な意味合いを探っています。もしかすると中澤啓介先生もN.T.ライトのGod and the Pandemicには物足りなさを感じて、ご自分の指針を出されたのかもしれません。それで、ご自分の学び会で提示されている以下の文章は参考になりますので、紹介いたします。

<4. 人間の真相を直視せよ:

「コロナ禍」に直面し、人々の意識に大きな変化が生じている。このような災いは、人間の内面奥深くにある「隠 された姿」を露わにする。家族内の DV、コロナ離婚、若者たちの無軌道な性的暴走、ギャンブルや薬物依存症、 いじめや差別意識の助長、衝動的行動や対立感情の増幅、コミュニケーション能力の欠如、政治家や指導者層 の傲慢性、大衆の暴露趣味の増長、まだまだいくらでも上げることができる。マスコミは、暗いニュースにうんざりし、 時々「グッド・ニュース」を流そうとする。ところが、結局は、お笑い番組でお茶を濁す。本質的な解決を提供できな い。普段は、解毒剤になっている「旅の話」や「グルメの世界」、「娯楽番組」や「スポーツ」、「音楽番組」や「教養 講座」は、ソーシャル・ディスタンスの故に、機能しなくなっている。

このような「コロナ禍」現象を、批判したり、断罪するだけでは、「希望」は生まれて来ない。この種の問題は、もと もと人間が潜在的に抱えていたものであり、何かが起こると、噴き出してくる。それは、聖書が「罪」と呼ぶものに通 じている。神が、贖いの業を通して、そこから解放しようとしている問題である。それらが最終的に行き着く所、それ は「死」という問題であり、「神の裁き」に関わってくる。つまり「コロナ禍」は、人を「罪の問題」、「死の問題」、「裁き の問題」、「永遠の問題」へと、直面させることになる。

間違ってほしくない。神がコロナウイルスを送られたのは、人類を、このような問題に直面させるためだった、と 言いたいのではない。むろん、それは言い過ぎである。神は、「コロナ禍」問題に直面している人類に、自分たち が抱えている問題を見つめよ、神が用意しておられる「解放の福音」に耳を傾けよ、と語られているのだ。本当のこ とを言えば、神は、いつであっても、そうすることを望んでいる。だが人は、とても残念なことだが、「コロナ禍」のよう な切羽詰まった状態に追い込まれない限り、自分や神、死や永遠の世界に立ち向かおうとしないものなのだ。

「コロナ禍」は、私たちの人生に、いつ死が訪れるかは分からないことを実感させた。人は、「自分以外の人間は、 死ぬものだ」と思っている。人は、「自分自身の死を直面したくない」のである。人は、自分を永遠に生きる存在で ある、と思いたいのだ。そういう錯覚があるからこそ、生きられるのだ、と開き直る人たちもいる。人間以上の「聖な る存在」の前にひれ伏して歩む、という聖書の死生観と対峙しなければならない。

人類にとって、「コロナ禍」にまとわりつかれている今ほど、人生の意味を考え、死生観を模索し、聖書の福音が 何であるのかを、聞くにふさわしい時はない。人々が直面しなければならないのは、「宗教」とか「キリスト教」では ない。「教会」でも「牧師」でも「聖書」でもない。「キリスト教の教理」や「キリスト教の神学」でさえない。「万物の創造 者なる神」であり、「全被造物の贖い主であるキリストご自身」である。それは「聖書のグランド・ストーリー」と言って もよいし、もっとポピュラーに「キリストの福音」と言ってもよい。>

中澤啓介先生は「被造物管理の神学」をすでに提唱されておられ、それを今回のパンデミックの状態に適用しておられると言えそうです。N.T.ライトの視点である「王なる祭司」との関わりでその展開を見ていくことができます。また同時に、N.T.ライトは、Virtue Rebornで、見逃されてきた「王なる祭司」の視点を明確にされたので、その流れの中で今回のGod and the Pandemicの「続き」を書いて欲しいところです。

結びとして:

日本ではすでに集団免疫ができ上がっていて、そのために世界的に注目されるほどに感染者数も死亡者数も少ないという分析をされている説明の動画を、友人の紹介で観ることができました。その観点での発言で、アメリカにはその集団免疫ができていないと言われているようでした。多分今までの感染症で集団免疫ができ上がるまでのことを推測すると、このアメリカではすでに14万人の人が亡くなっているのですが、さらに多くの人が亡くならないといけないことになります。この国の指導者の発言は、その意味でコロナウイリスもいずれなくなると言っているかのようです。

しかしそれは明らかに、責任回避です。そのためにすでに多くの人が亡くなっているのです。ニューヨーク州クオモ知事のように、3月4月では震源地のような状況であったにも関わらず、状況をグラフと数値で示し、そのための対応をしっかりと州民に伝え、その効果がどのように数値に出てくるかを示して、結果的にそれは個々人の行動によることを忍耐をもって促していくことで、この7月の半ばを過ぎて、感染者が増加していないわずかな州の一つになっています。

私には単純にそれ以外にないと思うので、現状を見ると、そのための節制ではなくて、明らかに私たちの欲が勝って、ウイリスの感染を拡大していることになります。この国は確かに自由とそのための可能性は信じられないほどあります。それは人に迷惑のかからない限り自由なのですが、もう少し節制もあって良いのではないかと単純に思います。コロナウイリスの拡散を少しでも抑えるための最低限の行為です。

アメリカの現状での難しさの一つに、アメリカの教会が関わっていることです。アメリカのキリスト教はあまりにも政治に関わりすぎていると言えます。言い方を変えると、政治が上手に教会を使っていると言えます。このことはこれ以上は入れないのですが、先にN.T.ライトの視点を紹介した伝統的な福音理解に関っています。それは、すでに先書『クリスチャンであるとは』でN.T.ライト自身がヨーロッパの歴史を踏まえて警告していることでもあるのですが、再度取り上げてみます。

伝統的な福音理解は以下のようなものでした。

「1.ゴールは、時間と空間と現実の生活から離れた、最終的な天国の至福である。

2.このゴールは、イエスの死と復活によって、また信仰によってそれに結びつくことで、私たちに達成される。

3.クリスチャンとしていま生きることは、体を離れた「永遠」の状態に、隔離された霊性の実行と、「この世の」汚れかを離れることで、先取りすることである。」

このことは伝統的な福音理解が、プラトン的な二元論を踏まえていることを語っています。すなわち、地上の苦しみを離れて「天国の至福」に救いを求めるのです。この理解に基づく信仰義認論は、結局はme and my salvationしか求めないと、N.T.ライトは言っています。すなわち、自己中心的な福音理解、自己満足的な信仰理解に陥っているのです。

N.T.ライトの新天新地による福音理解は、「主の祈り」の「みこころが天になるように、地にもなさせたまえ」という姿勢にあります。そのための「王なる祭司」としての責任を捉えているのです。それは結構厳しいことです。それよりも「天国の至福」に逃れる方が楽です。しかし、私たちはこの地での責任があるのです。

「信の哲学」によるローマ書1章から4章まででの神の義の啓示と神の怒りの啓示の意味論的分析は、神が罪の中の人間をどのように見ているのかを、神の側のステートメントとして受け止めることを助けてくれます。神の義の啓示と言うことだけで、クリスチャンと教会は神の救いの中にあるので、守られていると言って単純に集会を続けることはできないのです。また同時に、神の怒りの啓示と言うことで、単純に神の裁きとか警告と言うことで済ますこともできなのです。

中澤啓介先生が示しているように、パンデミックの状況下では、人間の罪の状況がより明らかにされます。その中での神の義の啓示としての福音を明確にしていく責任があります。興味深いのはその福音が明確にされている、しかも、ローマ書の中心箇所と言われる3章22節の「イエス・キリストのピスティスによる」を、N.T.ライトも「信の哲学」も、伝統的な「イエス・キリストを信じる」という理解を避けています。「イエス・キリストの真実による」としています。「信の哲学」はそれに関しては、N.T.ライトよりはるかに精密に分析をしています。参考に邦訳と「信の哲学」訳を付けておきます。

新改訳2017:

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこには差別はありません。

(脚注)別訳「イエス・キリストの真実によって」

協会共同訳:

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。

(脚注)別訳「イエス・キリストへの信仰」

千葉訳:

神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

ここで意味していることは、神の義の啓示の背後には神の側での深い配慮があることです。言い方を変えると、その啓示にはこちらの信仰は関係ないのです。神の啓示の厳粛さなのです。神の怒りの啓示もそうです。それが啓示されているのです。そうなので、それではどうしたらよいのかとの問いが出てくるのです。簡単に私たちの信仰では片付けられないのです。N.T.ライトも「信の哲学」もその面をしっかりと捉えています。

N.T.ライトは、「王なる祭司」としての生き方における「徳の再生」を訴えています。それはすでにアリストテレスの倫理として提唱された徳の再生であり、同時にそれに勝るものと見ているのです。「信の哲学」においての「信・ピスティス」には同時に、人格的な面が含まれと見ています。ピスティスが「信仰」と同時に「真実」「誠実」でもあるのです。それもまたアリストテレスの倫理に勝るものとして提示されているのです。

アメリカでのパンデミックの状況を確認する中で、どのようにクリスチャンとして理解し、対応するのが良いのか、考えざるを得なくなり、自分のためにも資料を確認しながら、エッセイ風にまとめてみました。少しでも参考になれば幸いです。それは地球上の誰もが直面していることであり、さらにクリスチャンとして責任を少しでも果たせればと願っているところです。

続いての皆さまの日々の歩の上に豊かな祝福をお祈りいたします。上沼昌雄

「ビデオ会議とミニストリー理事会」2020年8月6日(木)

 毎年春先に旅行が多いために、年一回の理事会がどうしても夏になってしまいます。今年は春の日本行きが新型コロナウイリスのためにキャンセルになったのですが、その対応に追われているうちに、結局今年も夏になってしまいました。昨日無事に終えることができました。同時にそれなりに大きな変化がありました。
 
 何よりも、いつも会場にしているみくにレストランがコロナで営業中止の状態ですので、お寿司を食べながらの理事会ができなくなりました。それでビデオ会議によることになったのですが、みくにレストランの創業者でもある荒井孝喜牧師はパソコンを使われないので、理事としての役割が果たせないと言うことで、今回辞任されたのでした。同時にもう一人の理事のナビゲーター関係のロブさんも、ご自分が設立された事業から隠退されて、これからサンディエゴに住まわれると言うことで、これからはビデオ会議での理事会となることが明らかになりました。
 
 それでシカゴ郊外に住んで教会活動もしている息子の義樹に理事として参加してもらうことで、ロブさんともう一人の理事の八木様捨春兄の承認をいただきました。義樹は自宅をオッフィスに全米に関わる仕事をしていますので、ビデオ会議は毎日の仕事の一部です。それで今回、Zoomが使いやすいと言うことで、設定から使い方まで教えてくれました。すでに多くの方がZoomを使われているのですが、私の中にそこまで先端技術に頼る必要もないだろうと思って手を出さなかったのですが、結果的に、今回の理事会ではホストとして他の3名の理事を招いてビデオ会議を開くことになりました。
 
 理事会の資料もファイルにしてメールで送り、各自がプリントアウトをして、理事会の前にすでに目を通してくれていましたので、要点を確認することで、予定の時間内で終えることができました。その要点の一つなのですが、資料には書かなかったことがありました。実はミニストリーは来年設立30年を迎えるのです。信じられないことです。荒井牧師初めロブさんと八木沢さんも初めから関わってくださっているのです。義樹は家族としてその成り行きに関わってきたことになります。
 
 それでこちらも年を重ねてきていることもあり、多少これからのことが祈りの課題としてあることを述べることになりました。同時に、私たち家族が31年前にフォレストヒルの山の中に移り住み、その教会で出合ったロブさんが、このミニストリーは昌雄の遺産でもあるので、最後まで続けるように励ましてくれました。ロブさんはご自分のオフィスをミニストリーのオフィスとして提供もしてくたのです。ご自分の2番目の息子さんを今年の初めに脳腫瘍で亡くされているのですが、その信仰はますます輝いています。
 
 ミニストリーの初めの頃に2年間奉仕させていただいたサンフランシスコ対岸の教会で出合った八木沢さんご夫妻とは、その後もサンフランシスコを一望に見下ろせるお宅の居間で、ミニストリー関係の学び会を何度も持たせていただきました。愛と喜びに満ちた交わりをいただいています。荒井先生とは、みくにレストランはすでに8号店を持つまでになっているのですが、最初のお店であった時に、先生が牧師のかたわらキッチンで一生懸命に料理をしているときに、その場でミニストリーの相談をさせていただきました。目の回る忙しさの中でもポイントを把握して対応してくださいました。
 
 そのような愛に満ちた理事たちに囲まれながらミニストリーをここまで続けることができました。これからのことは神の御手にあることですので委ねて励みたいと思います。さらに、今回の理事会の初めに読んだ第一ペテロ書の3章15節のことばを、ミニストリーの責任として受け止めていきたいと思います。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、誰でも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」
 
 上沼昌雄記