前回ナチスドイツ下のでのハイデガーのことに触れました。その対極にいたホロコーストの生き残りのユダヤ人哲学者のレヴィナスの哲学に接することで、不思議に聖書の世界への帰還に繋がったことを記しました。さらにその前に書いたアメリカの福音派のことも含めて、何人かの方々からレスポンスをいただきました。それでそのハイデガーとレヴィンスの間で、ルーマニア出身のユダヤ人詩人のパウル・ツェランとの出会いがあったことを思い出しました。特にハイデガーとの関わりで思い出したのです。
パウル・ツェランの両親は侵入したドイツのナチスによって収容所に連れて行かれ亡くなるのです。本人はルーマニアで強制労働を課せられるのですが、後に侵攻したロシア軍によって解放されるのです。しかし両親がホロコーストのもと、黒い煙となって焼かれていく場面を1948年に「死のフーガ」という詩で発表して詩人として有名になるのです。
それはドイツの哲学者で音楽家のテオドール・アドルノによって、「アウシュヴィッツのあと詩を書くことは野蛮である」と言われていた戦後のヨーロッパで、まさにその詩を書いたのです。それは衝撃的な出来事でした。アドルノによってさらに「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑になった」と言われたなかに、新たな詩の文化が登場したのです。ゲーテやベートーベンを生み出したドイツで、ホロコーストは文化をも焼き尽くすものでした。
そのパウル・ツェランの詩にハイデガーは強い関心を示していました。1967年にハイデガーの計らいでフライブルグ大学の大講堂でシェランは自作の詩の朗読会を持つことになったのです。そしてその後にハイデガーの山荘に招かれて語り合うことになったのですが、ハイデガーの口からナチスに加担したことへの謝罪の言葉が出てことなかったことに失望して、その山荘のある場所の地名を使った「トートナウベルグ」という詩を発表するのです。
山荘の中で、
その記念帖にー私より前に 誰の名前が記された?-
その記念帖に書き込まれた
ある希望についての一行、今日
思索する人への心の中に
来たるべき言葉への
ハイデガーから「来たるべき言葉」を期待していたシェランは、その後失望の淵を彷徨い、1970年にセーヌ川で自死を遂げるのです。ハイデガーが少しでも謝罪の言葉を語っていたらシェランの心は少しは安らいだのかも知れません。ハイデガーは戦後自身のナチス加担のことは沈黙したまま亡くなるのです。もしかするとシェランの詩の朗読会を開いたことで謝罪の思いを伝えたかったのかも知れません。またもしかすると謝罪の言葉さえ出てこないほど苦しめられていたのかも知れません。
私たちのいただいている福音が、文化をもごみ屑のようにいてしまう悪の力に立ち向かうことのできるものがどうか問われます。福音に隠され、明らかにされた神の義が神の義として通用するかどうか問われるのです。悪の力は信仰義認論も神義論さえもごみ屑にしてしまうからです。
上沼昌雄記 (なお詩の引用は、関口裕昭著『評伝パウル・ツェラン』慶應義塾大学出版会、2007年、380頁からのものです。)