「ハイデガーとユダヤ人詩人パウル・ツェラン」2021年4月22日(木)

 前回ナチスドイツ下のでのハイデガーのことに触れました。その対極にいたホロコーストの生き残りのユダヤ人哲学者のレヴィナスの哲学に接することで、不思議に聖書の世界への帰還に繋がったことを記しました。さらにその前に書いたアメリカの福音派のことも含めて、何人かの方々からレスポンスをいただきました。それでそのハイデガーとレヴィンスの間で、ルーマニア出身のユダヤ人詩人のパウル・ツェランとの出会いがあったことを思い出しました。特にハイデガーとの関わりで思い出したのです。

 パウル・ツェランの両親は侵入したドイツのナチスによって収容所に連れて行かれ亡くなるのです。本人はルーマニアで強制労働を課せられるのですが、後に侵攻したロシア軍によって解放されるのです。しかし両親がホロコーストのもと、黒い煙となって焼かれていく場面を1948年に「死のフーガ」という詩で発表して詩人として有名になるのです。

 それはドイツの哲学者で音楽家のテオドール・アドルノによって、「アウシュヴィッツのあと詩を書くことは野蛮である」と言われていた戦後のヨーロッパで、まさにその詩を書いたのです。それは衝撃的な出来事でした。アドルノによってさらに「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑になった」と言われたなかに、新たな詩の文化が登場したのです。ゲーテやベートーベンを生み出したドイツで、ホロコーストは文化をも焼き尽くすものでした。

 そのパウル・ツェランの詩にハイデガーは強い関心を示していました。1967年にハイデガーの計らいでフライブルグ大学の大講堂でシェランは自作の詩の朗読会を持つことになったのです。そしてその後にハイデガーの山荘に招かれて語り合うことになったのですが、ハイデガーの口からナチスに加担したことへの謝罪の言葉が出てことなかったことに失望して、その山荘のある場所の地名を使った「トートナウベルグ」という詩を発表するのです。

    山荘の中で、
    その記念帖にー私より前に 誰の名前が記された?-
    その記念帖に書き込まれた
    ある希望についての一行、今日
    思索する人への心の中に
    来たるべき言葉への

 ハイデガーから「来たるべき言葉」を期待していたシェランは、その後失望の淵を彷徨い、1970年にセーヌ川で自死を遂げるのです。ハイデガーが少しでも謝罪の言葉を語っていたらシェランの心は少しは安らいだのかも知れません。ハイデガーは戦後自身のナチス加担のことは沈黙したまま亡くなるのです。もしかするとシェランの詩の朗読会を開いたことで謝罪の思いを伝えたかったのかも知れません。またもしかすると謝罪の言葉さえ出てこないほど苦しめられていたのかも知れません。

 私たちのいただいている福音が、文化をもごみ屑のようにいてしまう悪の力に立ち向かうことのできるものがどうか問われます。福音に隠され、明らかにされた神の義が神の義として通用するかどうか問われるのです。悪の力は信仰義認論も神義論さえもごみ屑にしてしまうからです。

 上沼昌雄記 (なお詩の引用は、関口裕昭著『評伝パウル・ツェラン』慶應義塾大学出版会、2007年、380頁からのものです。)

「それはナチスのドイツで起こったことです」2021年4月19日(月)

 妻の知り合いでドイツ人の女性がいます。長女が高校生であった時のフルートの先生でした。その後ドイツに戻られ、アップルのお店で働いています。いろいろなテーマで話が尽きないようなのですが、最近は2週間に一度の割で、ドイツからの電話でこちらの土曜日の昼前後に結構な時間話し合っています。そしてキリスト教や教会に対しては関心を示していませんが、妻の話す信仰のこと、聖書のことには耳を傾けています。

 前回の私の記事で、ヨーロッパの教会が、ナイスのもとでのドイツの教会とクリスチャンのあり方に絶望して、次の世代の人たちが確実に離れていったことを書きました。そのことについては妻とよく話し合ってきています。ホロコーストの証言集である7時間のDVD「ショア」も一緒に観ました。

 そんなことでこのアメリカで前政権下のもとで起こり、今も続いていることを、過ぎる土曜日の会話で語ったようです。すなわち、自分の意見に従う者とそうでない者を分断し、メディアのニュースをフェイク・ニュースと決めつけ、科学に対する不信感を募って、大衆を操るのです。大衆はごまかすことができたのですが、国民はだますことができないで、結局去ることになりました。それでもその影響は残っています。ワクチンに対する不信を募るのです。前回の私の記事に対して、すでに日本でもワクチンを打たないようにという文章が出回っていることを教えてくれた牧師がいます。

 妻はそのような今のアメリカで起こっているを、このドイツ人の女性に過ぎる土曜日に話したら、「それはナチスのドイツで起こったことです」と返事が返ってきたというのです。この女性はナチスのドイツで生きていたわけではありません。それでも戦後のドイツの様子を肌で感じ取って、国民がそして教会が、ナチスに対して、ユダヤ人に対して、ホロコーストに対してどのような態度でいたのかは分かっていたので、迷うことなくそのような発言が出てきたのでしょう。ドイツの闇は隠せないのでしょう。

 アメリカの闇はやはり奴隷制から来ているのだと思いますが、それが今回表面化したことで思いがけない形で出てきました。陰謀論と1月6日の国会議事堂乱入事件は正直信じられないことです。それ以上にアメリカの福音派が無力であるだけでなく、そのような動きに乗っていることです。神の祝福とアメリカ至上主義を混同しているのです。そして、アメリカ至上主義は当然白人至上主義になるのです。

 私がドイツの闇というか、ナチス下のドイツのことに関心を持つようになったのは、大学でハイデガーの実存分析に惹かれたのですが、1980年代にそのハイデガーのナチスとの関わりが明らかになり、その対極にいたホロコーストの生き残りのユダヤ人哲学者の「他者」を視点に実存を観ていく哲学に惹かれたからです。しかもその「他者」の視点はモーセの十戒から来ているのです。神が、イスラエルの民のなかに在留異国人、寡婦、孤児が苦しんでいる叫び声を聞いたら、あなたがたを殺すとまで言われているのです。そうしたら、あなたの妻は寡婦になり、子供は孤児になるがそれでも良いのかと迫っているのです(参照:出エジプト記22:20-26)。

 それに続くようにヨーロッパ人であるN.T.ライトの警告である、伝統的な西洋の信仰義認論は me and my salvation のことしか考えない指摘に、ナチス下でのドイツの教会の無力さは、西洋の自己満足的な福音理解から来ていることに気づき、それはアメリカの福音派にもそのまま入っていることに気づいたのです。当然日本の福音派の信仰義認論にも入っています。それで気になるのです。

 今回のこのドイツ人女性の思いがけない発言は、今まで自分のなかのこととして歴史を振り返っていたことを後押ししてくれます。しかしそれ以上に、アメリカと日本の福音派の教会が、ナチス下でのドイツの教会のことがヨーロッパの教会の衰退をもたらしている歴史に少しでも目を向けて、福音の意味を再確認して欲しいのです。それは教会の死活問題です。
 
 上沼昌雄記

「アメリカの福音派の将来は、、、」2021年4月16日(金)

 最近のギャラップ調査でアメリカの教会員数が初めて半分以下になったという報告に基づいて、教会の倫理面での記事を書いているラッセル・モアという人の記事を義樹の奥さんのマリーが送ってくれました。20年前は68%であったのがこの3月の調査では47%にまで落ち込んだことについての記事です。深刻なのは、その低下率が世代が下がるほど大きくなっているというもので、その新しい世代の子供たちをかかえている親として現実味が伝わってきます。

 このことに関しては前政権のもとでの教会の動きに関して、それはナチス下のもとでのドイツの教会の動きと、その後のヨーロッパの教会の衰退の歴史をアメリカの教会も辿ることになると、私個人としての意見として語ってきました。その兆候がすでに現れているかのようで危惧をしているのです。危惧しているというのは、その次の若い世代とはまさに7人の孫たちのことだからです。

 モア氏の記事で納得したのは、その若い世代が世俗化したのではなく、彼らは私たちが世俗的であると判断して教会から離れているというのです。現実的に納得したのは、妻のひとりの叔母から、当時の政権を信じないのはクリスチャンでないかのような意見を聞いたときに、それは福音でもキリスト教でもないと自分で思ったのです。政権の政策綱領が「福音」であるかのように使われていることに違和感を覚えたのです。指導者を救世主のように語るのです。妻の97歳の母はその辺をしっかりと見抜いていました。それは大きな励みでした。

 しかし政権は代わっても、負の遺産は残っています。信仰の自由とか、偉大なアメリカを担う自負を持って、マスクをしない、ワクチン接種反対をすることが教会のメッセージにまでなっていることを知らされます。モア氏の記事が出た同じ日に、福音派の教会の牧師が説教でワクチン接種反対のメッセージをしていることが載っていました。あえて記すのは、身近な親族でもそのように信じている人がいるからです。

 私たちは妻の体調のこともあって、安全に摂取できる手立てを探っている状態ですが、周りで接種される方が増えてきています。それは公衆衛生のために、すなわち、他の人の安全のためにも接種することが当然だからです。それが自分の信仰の自由とかの理由で反対するのは、他の人を顧みる福音の真髄から外れているように思います。

 昨晩もファウチ博士を国会の公聴会でむやみに攻撃している議員の態度を見て、これを子供たちが真似をしたらどうなるのかと心配になりました。すでにファウチ博士は返事をしているのにあら探しをしているのです。アメリカは紳士の国と思っていたので、幻滅を感じました。そして、モア氏が指摘しているように、それは次の世代に影響し、結局はアメリカのキリスト教もヨーロッパと同じように形骸化していくのだと、心配しています。

 その意味でも、アメリカの教会は、特に福音派は、ヨーロッパ人であるN.T.ライトの警告、すなわち、伝統的な西洋の信仰義認論は結局は me and my salvation のことしか考えないという指摘に真剣に耳を傾けるべきです。自己義認、自己満足の福音理解に陥っているのですが、それは弱体化を招くからです。そして、その信仰義認論の中心箇所であるローマ書3章21節-31節の解明に40年を費やした千葉惠先生のローマ書理解は、N.T.ライトの理解をさらに前進させたもので、何とか英訳されて西欧に還元される必要があります。

 上沼昌雄記

「今という好機において」2020年4月2日(金)

 今日はこちらはまだ 「聖金曜日・受難日」 です。日本ではすでに桜が満開と聞いています。こちらもこの数日気温が上がっています。この冬の雨も記録的に少なく、すでに乾燥してきていますので、今まで続けている枯れ木と枯れ葉を燃やす作業を中止しています。同時にこの受難日をどのように過ごすことがふさわしいのかと、心の隅で自問もしました。それで浮かんできたのが、ローマ書3章26節で、普通には 「今この時に」と訳されているこの表現を、千葉訳では「今という好機において」と訳されている意味合いを考えることになりました。

 この箇所は、聖書で最も難解な箇所と言われているローマ書3章21節から31節までの半ばで、「神の義」 と 「イエス・キリストの信」の間に「分離のない」ことを説明している22節から26節で、その終わりに出てきている表現です。どのような説明かというと、「イエス・キリストの信を媒介にして」神ご自身が義であることが明らかにされるためであることが3回繰り返して言われているなかで、さらにその 「イエスの信に基づく者を」義とすることが 「今という好機において」に明らかになったことを語っているのです。しかもそれはこの21節で 「しかし、今や」で始まる冒頭の言い回しに対応するように 「今という好機において」と受けているのです。

 私も新約聖書の言い回しで、カイロスとクロノスということで、神の特別な時を現すカイロスと、時間の流れを言い表すクロノスとの違いに関心を持ってきました。それでこの一般には 「今この時」と訳されている言い回しを千葉訳では「今という好機において」と訳されていることに、考え抜かれた言い回しなのだろうとずっと思ってきました。それでも千葉先生が一生懸命に考え出して作り出した表現と言うより、この前後の文章の言い回しを注意深く調べていったときに、この言い回しが自然に浮かび上がってきたのではないかと思います。

 義である神が、モーセの律法を与えていながら、それでも 「肉の弱さ」をもつ者は義とされないことをご存じであったので、「業の律法」 ではなくて 「信の律法」 としての 「イエス・キリストの信を媒介にして」、まさにその時を 「好機」 と捉えて、ご自身の義を明らかにされたことを、そのテキストの流れを克明に追っているなかで、その 「今のカイロス」 を 「今という好機」 と訳すことがぴったりとした表現として出てきたかのようです。参考のために、21節から26節までの千葉訳をここに紹介いたします。

 「21) しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22) 神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。23) なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24) キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26) その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。」

 この最後に出ている 「現臨の座(ヒラステリオン)」も従来は 「宥めの供え物」と訳されてきたのですが、神の義とイエス・キリストの信が出合う場としての意味が浮かび上がってきます。すなわち、まさにその時とその場が 「イエス・キリストの信を媒介にして」神によって提示されたのです。「受難日」という今日は、神によって備えられた時であり、場なのです。そのことを思い巡らしながら、共にイースターを迎えたいと思います。

 上沼昌雄記