前回は「御霊の論理」と、パウロがローマ書8章で展開している御霊の道筋を追ってみました。「イエス・キリストの信」によって明らかにされた「神の義」が私たちのうちに「御霊の実」を結ぶための道筋のことでした。それは三位一体の神の道筋でもあるのです。その道筋を辿ることができるので「御霊の論理」と言っても差し支えないのでしょう。しかし、その御霊が私たちのうちに働くことについては、パウロは慎重な表現をしています。
7章の終わりで「内なる人」に気づき、そこでのヌース(心、叡知)を通しての御霊の働きを確認することで、三位一体の神に開かれている自分を受け入れています。同時にそれは心魂の根底のことなので、聞こえてくるのは「うめき」に過ぎないことも8章23節で認めています。自分の内なる人は、それだけでは闇に覆われたままで、「うめき」だけが聞こえてくるのです。それでも三位一体の神によってなされた約束と希望のゆえに、うめきながら待ち望むのです。そして何を望んでいるのかを語るのです。
しかし、この自分のうめきを確認する前に、その前の22節で「被造物のうめき」に言及します。その切っ掛けになっているのが、前回も書いたのですが、11節で「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」に言及したことで、被造物の一つであるからだに目が向くです。それで「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」と言うのです。2年前のこの時期に「被造物のうめき、御霊のうめき」(2020年12月29日)として書きました。その年はコロナ渦で地球上のすべての人が苦しんだ一年でした。2年経ってもそのうめきは続いています。
それを受けて23節で「それだけでなく」と私たち自身のことに目が向くのす。「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」被造物である「私たちのからだ」に言及して、その贖いを待ち望んでうめいていることを認めています。うめいているのですが、何を待ち望んでいるかは三位一体の神における「御霊の論理」として明確なのです。神の新創造に加えられる望みを抱いてうめいているのです。
その続きで26節で、「同じように御霊も」と「私たちの弱さをともに支えてくださる」ことに言及します。望んでいることは明確でもどのように祈ったら良いのかは分からないのです。「それでも御霊自らが」と視点が御霊に移るのです。「ことばにならないうめきをもって、、、とりなしてくださる」と、御霊のうめきに気づくのです。ことばにならないので、論理ではないのですが、うめきとしては共鳴するものがあって、それに気づいて驚いているかのようです。
それで続く27節では、そのようなうめきを持っている私たちの心を「見極める方は」と、私たちのうめきを知っておられる方とあえて言及するのです。そしてその「方」とは、神ご自身であられ、その神がここでは6節ですでに出ている「御霊の思い・思慮内要」を知っておられると、神のこととしては筋の通っていること提示するのです。その意味で、さらに、「御霊は、神に沿って、とりなしてくださるから」と当然のように語るのです。11節で「あなたがたのうちに住んでいるご自分の御霊によって」とあえて言われている通りです。
自分のうちでうめいている私は、からだを抱えている者として、被造物のうめきをも抱えています。それでも、イエスを死者の中からよみがえらせた方は、私たちのうちに住む御霊によって、私たちを生かしてくれます。その御霊が私たちためにとりなしてくださるからです。うめきはことばにならないのですが、神の御霊はご自身の道筋に従って私たちを生かしてくれます。うめきはからだを持っているかぎり続くのですが、確かな希望があります。
うめきは私たちのからだを通して醸し出す雰囲気にもなっています。それでも望みがあります。私たちは「この希望によって救われた」(24節)のです。御子の降誕がもたらすこの希望を抱いて、この時ともに歩みたいと願います。
上沼昌雄記