「被造物のうめき、私たちのうめき、御霊のうめき」2022年12月19日(月)

 前回は「御霊の論理」と、パウロがローマ書8章で展開している御霊の道筋を追ってみました。「イエス・キリストの信」によって明らかにされた「神の義」が私たちのうちに「御霊の実」を結ぶための道筋のことでした。それは三位一体の神の道筋でもあるのです。その道筋を辿ることができるので「御霊の論理」と言っても差し支えないのでしょう。しかし、その御霊が私たちのうちに働くことについては、パウロは慎重な表現をしています。

 7章の終わりで「内なる人」に気づき、そこでのヌース(心、叡知)を通しての御霊の働きを確認することで、三位一体の神に開かれている自分を受け入れています。同時にそれは心魂の根底のことなので、聞こえてくるのは「うめき」に過ぎないことも8章23節で認めています。自分の内なる人は、それだけでは闇に覆われたままで、「うめき」だけが聞こえてくるのです。それでも三位一体の神によってなされた約束と希望のゆえに、うめきながら待ち望むのです。そして何を望んでいるのかを語るのです。

 しかし、この自分のうめきを確認する前に、その前の22節で「被造物のうめき」に言及します。その切っ掛けになっているのが、前回も書いたのですが、11節で「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」に言及したことで、被造物の一つであるからだに目が向くです。それで「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」と言うのです。2年前のこの時期に「被造物のうめき、御霊のうめき」(2020年12月29日)として書きました。その年はコロナ渦で地球上のすべての人が苦しんだ一年でした。2年経ってもそのうめきは続いています。

 それを受けて23節で「それだけでなく」と私たち自身のことに目が向くのす。「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」被造物である「私たちのからだ」に言及して、その贖いを待ち望んでうめいていることを認めています。うめいているのですが、何を待ち望んでいるかは三位一体の神における「御霊の論理」として明確なのです。神の新創造に加えられる望みを抱いてうめいているのです。

 その続きで26節で、「同じように御霊も」と「私たちの弱さをともに支えてくださる」ことに言及します。望んでいることは明確でもどのように祈ったら良いのかは分からないのです。「それでも御霊自らが」と視点が御霊に移るのです。「ことばにならないうめきをもって、、、とりなしてくださる」と、御霊のうめきに気づくのです。ことばにならないので、論理ではないのですが、うめきとしては共鳴するものがあって、それに気づいて驚いているかのようです。

 それで続く27節では、そのようなうめきを持っている私たちの心を「見極める方は」と、私たちのうめきを知っておられる方とあえて言及するのです。そしてその「方」とは、神ご自身であられ、その神がここでは6節ですでに出ている「御霊の思い・思慮内要」を知っておられると、神のこととしては筋の通っていること提示するのです。その意味で、さらに、「御霊は、神に沿って、とりなしてくださるから」と当然のように語るのです。11節で「あなたがたのうちに住んでいるご自分の御霊によって」とあえて言われている通りです。

 自分のうちでうめいている私は、からだを抱えている者として、被造物のうめきをも抱えています。それでも、イエスを死者の中からよみがえらせた方は、私たちのうちに住む御霊によって、私たちを生かしてくれます。その御霊が私たちためにとりなしてくださるからです。うめきはことばにならないのですが、神の御霊はご自身の道筋に従って私たちを生かしてくれます。うめきはからだを持っているかぎり続くのですが、確かな希望があります。

 うめきは私たちのからだを通して醸し出す雰囲気にもなっています。それでも望みがあります。私たちは「この希望によって救われた」(24節)のです。御子の降誕がもたらすこの希望を抱いて、この時ともに歩みたいと願います。

 上沼昌雄記

「ローマ書8章にみる御霊の論理」2022年12月13日(火)

 パウロはローマ書の8章に入って、待っていましたとばかりに御霊のことを語り出します。しかも御霊の働きに納得して、その道筋が理に適っているかのように繰り返し説明しています。それで 「御霊の論理」 と呼んでみました。単なる聖霊体験を語っているのではないのです。「イエス・キリストの信」 に基づいて「神の義」による赦しをいただく私たちの後押しとしての御霊の道筋を語っているからです。

 第一に、仲介者であるイエス・キリストとの関わりで御霊の働きを繰り返していることが分かります。3節の御子の受肉のその肉において罪を処罰されたことの確認は、その前の2節で 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」 のこと、そしてその後の4節で 「御霊に従って歩む私たち」に「律法の要求が満たされるため」と、キリストの受肉と十字架を抜きにしては御霊の働きは機能しないことを示しています。

 さらに9節から11節までで、「もし、、、なら」と仮定法を4回繰り返しているのですが、その最後で 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と、キリストの復活の関わりでさらに明らかになった御霊の機能を語るのです。しかも続いて、「キリストを死者の中からよみがえらせた方」が 「あなたがたのうちに住んでいるご自分の御霊によって」と、神の御霊と「内住の御霊」との協働を確認しています。「内住の御霊」は、7章17節と20節の 「罪の内住」との対比です。ここでは仮定法で語られていますので、起こらないこともあるのですが、その御霊は復活をもたらした方のもので、私たちを死からいのちへと変容する力であることを示しています。

 第二に、この8章では多少違和感を感じるのですが、「被造物のうめき」が出てきます。それは御霊が、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」であることの確認の続きで、死者の復活が被造物の刷新に関わることを前提にしていることが分かります。このキリストが後半の34節では、「死んでくださった方、いや、よみがえられた方」と明記されています。

 7章の終わりで 「内なる人」の確認をして、聖霊がその 「内なる人」を通して働くときに、その 「内なる人」を抱えている体のよみがえりの機動力にもなっていることが分かります。「神の子」とされ、キリストとの 「共同相続人」 とされると言うことは、神の新創造の担い手になることを意味しているのです。

 第三に、パウロはこの御霊がもたらすものが何であるかを知っていることを示しています。6節で 「御霊の思い・思慮内容」と 「肉の思い・思慮内容」 との対比で、御霊が 「いのちと平安」をもたらすことを知っているのです。27節では、実は神ご自身がこの 「御霊の思い・思慮内容」を知っているという言い方をしています。それは御霊自らが私たちのために「神のみこころに従って」とりなしてくださるからと、御霊の独自の役割を語っています。

 その 「御霊の思い・思慮内容」に関しては、ガラテヤ書5章では 「御霊の実」と端的に語られいます。その実の最初である 「愛」 を、パウロはこの8章の終わりの35節で 「キリストの愛」と語り、39節では 「主イエス・キリストにある神の愛」と、それがあたかも当然であるかのように語るのです。

 それでこの「御霊に従って歩む」ことで、4節では 「律法の要求が満たされるため」と、神の律法は破棄されたのではなくて、満たされるための御霊であることを確認するのです。ここでは私たちが責任を持って、「肉に従って歩む」 のではなく、「御霊に従って歩む」 ことを語っています。先のガラテヤ書5章での 「御霊の実」の確認の後には 25節で 「御霊によって進もう」とその可能性をさらに明確にしています。しかも 「根源的要素」を意味するストイケイアの動詞形が使われているので、「適合しつづけよう」とより積極的な意味を 「信の哲学」 は提示しています。

 以上のように、「御霊の論理」 とは、「三位一体の神の論理」 と言えます。言い換えれば、三位一体の神が何とかして私たちをもう一度ご自分の交わりに引き入れるための神の最善の手立てとしての 「御霊の論理」 と言えます。それでこのロマ書8章28節で 「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っている」 と言うのです。この 「御霊の論理」 がこの時にも私たちのうちに機能しているのです。

 上沼昌雄記

「肉における罪の処罰のための降誕」2022年12月5日(月)

 ローマ書7章で 「私の内に住みついている罪」 のゆえに、現実に罪を避けられない自分であるが、それでも心魂の根底の 「内なる人」 として神の律法を喜んでいる自分でもあることをヌース(叡知、心)で確認しています。そして8章に入って、「キリスト・イエスにある」 者として、それ以上罪に定められることのないことを再確認しています。「キリストにあるいのちの御霊の律法」 が「罪と死の律法」 から 「解放」 してくれたからと、その理由を語るのです。

 同時に振り返るように、3節でその現実をもたらした歴史的な事実に触れるのです。すなわち、肉によっては律法のできなかったことを、神がひとり子を 「罪の肉の似様性」 で遣わされたことで、その道筋を整えたことに立ち返るのです。私たちの肉には罪が住みついているのですが、御子の受肉の 「肉」 には 「罪」 は住みついていないことを、「罪の肉の似様性」 と慎重に表現するのです。ヨハネ福音書1章14節の 「ことばは肉となった」 という端的な証言を、パウロは律法と罪と肉の複雑な関わりを丁寧に解きほぐしながら、その 「受肉」 のことを 「罪の肉の似様性」 と表現するのです。ぎりぎりの言い回しと言えます。

 そして 「その罪のことで」 とあえて一呼吸入れて、「その肉で罪を処罰されたから」 であると言うのです。すなわち、イエス・キリストの罪のない肉において、私たちの罪を処罰されたのです。キリストの肉を処罰されたとは言わないで、その肉で 「罪を処罰された」 と、注意深く言うのです。「肉」 と 「罪」 を明確に区別していることが分かります。また、受肉と十字架を一連のことと証言していることが分かります。このように、そのキリストにある者は罪に定められることのない、その背景を確認するのです。

 続いて4節で、その結果として 「律法にはできなかったこと」、すなわち、「律法の要求」 が、もう一度果たされるためであると明記するのです。その条件でもある 「肉に従ってではなく御霊に従って歩む」 その可能性が開かれてきたからです。それがどのような生き方なのかすでに分かっているかのように語るのです。

 パウロは続いてその意味を展開するのですが、ここでは、私たちが罪に定められることのない根拠として、御子の受肉のその肉において罪が処罰されたことにパウロがあえて触れていることに、この降誕節の折りに注目したいと思います。と言うのは、一つは受肉は救済のためであったこと、もう一つは、キリストの肉において罪を処罰されたのであって、キリストの肉の処罰ではないことです。

 第一のことは、すでにこの降誕節の折りに過去何度か触れてきたのですが、私たちの関わりの教会と神学校の信仰規準では、救済はキリストの十字架から始まっていて、受肉は御子の誕生祝いで終わっているのです。すなわち、御子は 「おとめマリヤより生まれ」、「私たちの救いのために十字架にかかり」となっています。しかし西暦325年のニケア信条では、「主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり」 と、受肉が救済のためであると明記しています。このことを真剣に捉えている東方の教会ではクリスマスは私たちの救いのための受肉として厳粛に祝います。この点が切り離されている西洋の教会では、クリスマスは御子の誕生祝いで終わっています。

 二番目のことは、キリストの肉が処罰を受けたと言うことで刑罰代償説があるのですが、パウロはこの点に関して慎重な姿勢を取っていることが分かります。キリストが私たちの罪を身代わりとして担ってくださって、その罪の処罰を御子の肉において神がなされたと言うことで留めて置いて良いからです。パウロの慎重な表現が語っていることです。

 ともかく、ここでパウロがクリスチャンの御霊にある生き方を8章で展開していくときに、受肉から始まる神の救済の意味に立ち返って、キリストの肉で罪が処罰されたので、そのキリストにある者は罪に定められない根拠に立ち返ることで確認していることが分かります。その根拠である私たちの罪のための御子の受肉であったことに、降誕節を迎えているこの時に思いを馳せたいと願います。

 上沼昌雄記