過日妻と使徒行伝10章を読んでいました。イエスの昇天のあと、パウロの回心があるのですが、そのパウロの再登場の前に、ペテロの活動として、福音がユダヤ人から異邦人に広がっていく出来事として、イタリヤ隊の百人隊長のコルネリウスとの出合いが描かれています。
そのコルネリウスが午後3時の祈りの時に、神のみ使いによってヤッフェに滞在しているペテロを招くように言われるのです。それで使いを遣わすのですが、ペテロも祈りのために屋上に上り、夢心地の中で天から大きな風呂敷のようなものが下りてきて、そこにユダヤ教で禁止されていた動物がいたのです。ペテロはきよくないものと退けるのですが、天からの声は神がきよめたものと言うのです。
そのことを思い巡らしているときにコルネリウスからの使いが現れ、家に招かれるのです。そこでペテロは、ユダヤ人と外国人との交流は許されていないと言うのですが、コルネリウスがことの流れを説明することで、ペテロは悟るのです。神はえこひいきなさらず、すべての人のためにイエス・キリストを遣わされたこと、そしてその「イエス・キリストはすべての人の主です」(36節)と言明するのです。さらにペテロは、そのイエスのことで自分の見聞きしたことをコルネリウスの家に集まった人に語るのです。しかも、聖霊が割礼を受けていない人たちにも下っているのを知るのです。
「聖書と神学のミニストリー」も30年過ぎているのですが、息子の義樹が理事として参入してから、私自身が取りかかっている千葉惠先生の信の哲学のローマ書3章21-31節の「神の義」と「イエス・キリストの信」と「私たちの信仰」の関わりに関心を持ってThe Faithfulness Projectを立ち上げています。直接に千葉先生とも英語でやり取りをしています。妻も関わっています。
それで過日、このペテロとコルネリウスとのやり取りは、パウロがローマ書3章21-31節で明らかにしている福音そのものが、その終わりの27節から31節で、旧約の律法の世界から新約の信仰の世界に移行していることにそのまま当てはまることを確認して語り合うことができました。ペテロが体現したことをパウロが言葉で言い表しているのです。
21節から26節までは、神の義がイエス・キリストの信を介して信じるすべての人に明らかにされ、神の義とイエス・キリストの信とのあいだには分離のないことを語り、そのイエス・キリスト信に基づくものを神が義としてくださることを、パウロは神のことがらとして語るのです。この注意深い記述なのですが、残念ながら「イエス・キリストの信」を「イエス・キリストを信じる信仰」と、神の救いの業に初めから私たちの信仰が関わるように長い間訳されてきたために、混迷を来していました。ここは端的に、神の義がイエス・キリストの信を介して信じるすべての人に明らかにされたことをパウロが語っているように理解すべきです。
このことを受けて26節から31節で、それで私たちにどのような変化が起こったのかを語るのです。ひとつは、旧約の「業の律法」から新約の「信の律法」への転換が起こったことです。もう一つは「割礼のある者」も「割礼のない者」も「イエス・キリストの信」に基づく者は義とされると言うことです。パウロは、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあると明言するのです。そしてペテロも「このイエス・キリストはすべての人の主です」と言って、そのイエスのことで自分が見聞きしたことをコルネリウスの家にいた人々に語るのです。
ペテロはパウロの手紙には「理解しにくいところがある」(2ペテロ3:16)と遠慮なく言うのですが、同じ思いで宣教に励んでいたのです。それに続く者でありたいと願います。
上沼昌雄記