「ペテロとコルネリウス、そしてパウロ」2022年9月18日(日)

 過日妻と使徒行伝10章を読んでいました。イエスの昇天のあと、パウロの回心があるのですが、そのパウロの再登場の前に、ペテロの活動として、福音がユダヤ人から異邦人に広がっていく出来事として、イタリヤ隊の百人隊長のコルネリウスとの出合いが描かれています。

 そのコルネリウスが午後3時の祈りの時に、神のみ使いによってヤッフェに滞在しているペテロを招くように言われるのです。それで使いを遣わすのですが、ペテロも祈りのために屋上に上り、夢心地の中で天から大きな風呂敷のようなものが下りてきて、そこにユダヤ教で禁止されていた動物がいたのです。ペテロはきよくないものと退けるのですが、天からの声は神がきよめたものと言うのです。

 そのことを思い巡らしているときにコルネリウスからの使いが現れ、家に招かれるのです。そこでペテロは、ユダヤ人と外国人との交流は許されていないと言うのですが、コルネリウスがことの流れを説明することで、ペテロは悟るのです。神はえこひいきなさらず、すべての人のためにイエス・キリストを遣わされたこと、そしてその「イエス・キリストはすべての人の主です」(36節)と言明するのです。さらにペテロは、そのイエスのことで自分の見聞きしたことをコルネリウスの家に集まった人に語るのです。しかも、聖霊が割礼を受けていない人たちにも下っているのを知るのです。

 「聖書と神学のミニストリー」も30年過ぎているのですが、息子の義樹が理事として参入してから、私自身が取りかかっている千葉惠先生の信の哲学のローマ書3章21-31節の「神の義」と「イエス・キリストの信」と「私たちの信仰」の関わりに関心を持ってThe Faithfulness Projectを立ち上げています。直接に千葉先生とも英語でやり取りをしています。妻も関わっています。

 それで過日、このペテロとコルネリウスとのやり取りは、パウロがローマ書3章21-31節で明らかにしている福音そのものが、その終わりの27節から31節で、旧約の律法の世界から新約の信仰の世界に移行していることにそのまま当てはまることを確認して語り合うことができました。ペテロが体現したことをパウロが言葉で言い表しているのです。

 21節から26節までは、神の義がイエス・キリストの信を介して信じるすべての人に明らかにされ、神の義とイエス・キリストの信とのあいだには分離のないことを語り、そのイエス・キリスト信に基づくものを神が義としてくださることを、パウロは神のことがらとして語るのです。この注意深い記述なのですが、残念ながら「イエス・キリストの信」を「イエス・キリストを信じる信仰」と、神の救いの業に初めから私たちの信仰が関わるように長い間訳されてきたために、混迷を来していました。ここは端的に、神の義がイエス・キリストの信を介して信じるすべての人に明らかにされたことをパウロが語っているように理解すべきです。

 このことを受けて26節から31節で、それで私たちにどのような変化が起こったのかを語るのです。ひとつは、旧約の「業の律法」から新約の「信の律法」への転換が起こったことです。もう一つは「割礼のある者」も「割礼のない者」も「イエス・キリストの信」に基づく者は義とされると言うことです。パウロは、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあると明言するのです。そしてペテロも「このイエス・キリストはすべての人の主です」と言って、そのイエスのことで自分が見聞きしたことをコルネリウスの家にいた人々に語るのです。

 ペテロはパウロの手紙には「理解しにくいところがある」(2ペテロ3:16)と遠慮なく言うのですが、同じ思いで宣教に励んでいたのです。それに続く者でありたいと願います。

 上沼昌雄記

ウイークリー瞑想「『平気でうそをつく人たち』からの引用」

ウイークリー瞑想
「『平気でうそをつく人たち』からの引用」2022年9月5日(月)

 主にある友へ、山の教会の牧師のリコール問題に関わる中で、何度目かになるのですが、スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち』を読まなければと思い、メモしたものを共有できればと願い、引用集として紹介いたします。残暑厳しい折、ご自愛ください。上沼昌雄

*この本は危険な本である。1頁
*長年のあいだ私は、仏教やイスラム教の神秘主義に漠とした共感を抱いていたが、最終的には確固としてキリスト教に帰依している。私はこれを、本書の執筆に取りかかってから後の1980年3月9日、43歳のおりに無教派の洗礼を受けたことによって公に表明している。6頁
*悪について、それが何であるかを、その実態のあらゆる面において認識することを促したいというのが、私の意図するところである。57頁
*悪の心理学は治療のための心理学でなければならない。57頁
*悪の心理学は愛の心理学でなければならない。57頁
*真に邪悪な人間とはごくありふれた人間であり、通常は、表面的に観察するかぎりでは普通の人間にみえるものである。60-61頁
*われわれが迷いこむゆがんだ回廊の行き先を知るには、われわれはあまりにも無知である。彼らの憎悪に対抗して愛を維持するには、われわれはあまりにも小さな存在である。88頁
*嫌悪感というのは、おぞましいものを避け、それから逃げ出したちという気持ちを即座に起こさせる強力な感情である。90頁
*邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺瞞の装を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。91頁
*自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れ続けようとするこの種の人間は、人間の中で最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖の中に人生を送っている。彼らを地獄に送り込む必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。92頁
*邪悪の人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。94頁
*邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する。98頁
*虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。100頁
*彼らは、自信の邪悪性を自覚していると同時にそうした自覚から逃れようと必死の努力をする。101頁
*彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不安定を認識することの苦痛である。101,102頁
*邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。103頁
*邪悪性について語ることのむずかしさのひとつが、その隠微なあいまいさである。141頁
*邪悪な人間は、つねに、自分の動機をうそで覆うものである。143頁
*邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通してみられるのが、愛を装うことである。144頁
*邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、と定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。 167頁
*邪悪性がわれわれに引き起こす感情は、憎悪でないにしても、怒りであり、嫌悪感である。169頁
*邪悪な人間は、自責の念ーーつまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識ーーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。彼らは苦痛を引き起こす。邪悪な人間は、自分の支配下にある人間にたいして、病める社会の縮図を与えている者である。172頁
*彼らが有能なように見えるのは、ただそう見えるだけであって、単なる外見、見せかけにすぎない、彼らは、自分自身を支配しているわけでもない。彼らを支配しているのは、健全性、完全性という外見を維持するよう絶えずむち打っている、口やかましいナルシズムである。173頁
*邪悪な人たちは恐怖のうちに人生を送っている。174頁
*邪悪なものがあるときには、決まってそこにうそがある 188頁
*邪悪性「・・・精神的成長を妨げるために政治的な力を行使するーーすなわち、あからさまな、あるいはひそかな強圧を持って、自分の意志を他人に押しつける」 255頁
*悪とは醜いものである。323頁
*悪には、いまひとつ、醜悪性という側面がある。そのさもしさ、安っぽさ、下卑た寂しさがそれである。323頁