「陽気に誘われて隣人と立ち話を」2017年3月20日(月)

気温が上がってきて外で過ごす時間も増えてきました。今は冬の雨の後で地を覆う緑が一番美しいときです。その前の日曜から夏時間になり日が沈むのが一時間延びたこともあってカリフォルニアの太陽の下で、過ぎる週末の午後は隣人との立ち話で思いがけない時を過ごしました。

土曜の午後はまだ終わっていない枯れ木と落ち葉を燃やす作業をしました。夏場の山火事対策としてできる限り敷地内をきれいにしておく必要があります。地続きのジェフリーさんの家との間にはフィンスがあるのですが、その近くの枯木と落ち葉を燃やしました。彼らも自分たちの大きな木を切り倒してレンタルの機械で来シーズンの薪を切っていました。

互いに一息ついたところでフェンス越しに話が始まりました。冬の間閉じこもって千葉教授のローマ書研究の原稿を読んで記事を書いている話をしましたら、自分の教会の牧師のある聖書箇所の理解について紹介してくれました。後半は妻のルイーズも加わって近状を報告し合うことになりました。私たちを信用してくれて別の隣人とのいざこざで心を痛めていることを話してくれました。

日曜の午後は4時にルイーズと散歩に出ました。道の向こうの少し先のスティーブがドライブウエイをきれいにしているときで、全く久しぶりに会いました。半年ぶりかも知れません。その前は3年ほど失業をしていて家にいたので、結構会うことがありました。信じて神の導きを待つようにとルイーズが励まし、その結果いまは自分が一番したいと思っていた仕事に就いて忙しくしていると喜んで報告してくれました。

彼も私たちがどうしていたのか関心があって聞いてきましたので、義弟のスティーブンが結婚に導かれた話を始めました。興味深く聞いてくれました。その間車で帰ってくる近所の人が車越しに話をしたり、私たちの立ち話を奥さんから聞いてその御主人のダンさんがトラックで駆けつけてしばらく会話に入ってくれたり、ジェフリーご夫妻は教会から戻ってくるときに通過して、再度夕方に出かけるときに「まだ話している」と笑顔で通過していったりして、義弟の結婚式までの話はとぎれとぎれで3時間かかって話し終えることになりました。

そのとぎれとぎれの中にはこの隣人スティーブの親と家族の話も出てきます。今までは拒否されてきた父親のことで55歳になっても苦しんでいるという話が繰り返し出てきました。今回はその父親が歳を取ってきて自分の財産の処理を彼にまかせると家族の前で言ってくれたと言って、親との和解をいただいたことを嬉しそうに話してくれました。彼には大学生のひとり息子がいるのですが、自分の父親と同じことを繰り返したくないと思って育ててきたことが分かります。ルイーズはそのことで彼を誉め励ましてきました。

3時間の立ち話で暗くなって肌寒くもなってきたのですが、千葉教授のローマ書3章の「イエス・キリストの信・信実」の話をしましたら興味を示してくれて、その関係で書いた英文の記事を送る約束をして、散歩に出たのですがそのまま戻ってきました。近隣の人のために毎晩祈っているのですが、このような豊かな時を神は与えてくださったのだと妻と感激しながら家に入りました。

上沼昌雄記

「『罪の律法』を見つめる『私』」2017年3月13日(月)

前々回『平気でうそをつく人たち』との関わりでローマ書7章に触れました。それをそのまま英訳して家族に送りました。取り上げているテーマが多すぎるのではと正直な反応をいただきました。それでポイントを整理してテーマも”Spiritual Laziness?”として英語関係の人に送りました。その英文の添削で妻がローマ書7章に関して質問をしてきて、さらに「罪の律法」がどのような流れで出てくるのか、千葉教授のローマ書研究に沿いながら探ることになりました。その流れを見ることで浮かび上がってくるものがあります。

7章の終わりにかけて「罪の律法」が出てくるときに、一つには「神の律法」との対比で、もう一つには「心(ヌース)の律法」と対比で語られています。さらに、24節の「惨め、私、人間」の三語で表現されている嘆きのあとに、最後の25節で「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と対比されています。

律法に関してこのような対比をさらに3章と次の8章で見ることができます。3章は22節で、イエス・キリストの信による神の義の啓示が明確されたあとに、ユダヤ人が頼りにしていた律法の誇りが取り除かれたと語るときに、どういう原理(律法)によってか問いかけ、「行いの原理(律法)によって」ではなく「信仰の原理(律法)」(27節)によってと対比されています。ここは現行訳の「原理」ではなく、あくまで「律法」と訳すことで流れを見ないといけないところです。8章の初めではでは7章を受けて、「いのちの御霊の原理(律法)が、罪と死の原理(律法)から、あなたを解放した」(2節)と対比が語られています。ここでも流れを捉えるために「原理」ではなく「律法」と訳すべきです。まとめると次のようになります。

信仰の律法 ―行いの律法 (3:27)
神の律法―罪の律法 (7:22, 23, 25)
心(ヌース)の律法―罪の律法 (7:23, 25)
いのちの御霊の律法―罪と死の律法 (8:2)

律法学者であったパウロにとって「律法」は一義的には「神の律法」であり、具体的にはモーセの律法です。しかしその「律法の行い」(3:28)では義とされないで、イエス・キリストの信による神の義を信じることでのみ義とされる、この基準に従って「律法」を見直し、提示し、論証していると言えます。「行い」や「業」でない内面化された意味での「信仰の律法」はそこから出てき、それに対応するように7章で「心(ヌース)の律法」が出てくるのでしょう。律法を行うことでは義とされない、それでも「内なる人としては、神の律法を喜んでいる」(22節)、それで「私の心の律法」(23節)となるのでしょう。

律法はどのようなことがあっても神のものであり、それは「聖なるもの」(12節)です。その時に、その聖なる律法が死をもたらしたのかという問いが出てきます。「絶対にそんなことはありません。」(13節)それを成し遂げたのは罪であると冷静に見ています。ここで一度罪と律法が区別されます。内なる人は明らかに神の律法を喜んでいる、しかし同時に罪が自分のうちに住んでいる、どこかと自問し、「私のからだの中に」「異なる律法」(23節)として住みついていると言うのです。それが死をもたらすのです。「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が」(5:12)入ったのです。誰もが避けることのできない死です。それを支配しているのが「古い文字」(7:6)と結びついた「罪の律法」なのです。

「内なる人」としては「神の律法」を喜んでいて、同時に「肉では罪の律法に仕えている」この葛藤を導くために、パウロは「私・エゴ」を導き出したという千葉教授の興味深い表現があります。確かに「私・エゴ」は7章だけに登場して姿を消します。8章では聖霊が登場してきてそれは信じるものだれにでも当てはまるのです。そこでは「神の律法」は「いのちの御霊の律法」になり、「罪の律法」は「罪と死の律法」になります。

この葛藤が聖霊のとりなしの中でどのように取り扱われるか、まさに8章のテーマですが、ここでは7章に限って、「肉「において「罪と死の律法」に仕えている「私」は、アダム以来の「私」であって、千葉教授はそのために24節で「惨め、私、人間」の三語で、「私」と「人間」が対等に表現されていると言います。確かにそれは誰にでも当てはまることです。 パウロはそのような論法を展開しているのです。 当時のギリシャ哲学にも耐えうるものです。「死」は誰にでも当てはまるからです。

「古い文字」として機能する「罪の律法」を見つめる「私」は、パウロであり、私であり、生きている人すべであります。その「罪の律法」が自分の肉の中で働いていることを見つめる心のさらに底で、「いのちの御霊の律法」が働いているのを見つめることになるのです。

上沼昌雄記

「『反知性主義』という本を読んで」2017年3月7日(火)

友人が一昨年、森本あんり著『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んでコメントをくださいました。それで昨年末に購入して持ってきました。旭川の友人がさらにこの本を読んで先週コメントをくれました。それで読んでみました。分かる面と、何か話の持っていき方がこれで良いのかと思わされました。

ただ昨年購入したときと現在アマゾンで見られるこの本の帯の文句が変わっていることが分かりました。今は「トランプ大統領を生み出したイデオロギーの根源」となっています。一面当たっていますが、この本の内容に関しては納得できない面もあります。

どの面かというと、知性主義と反知性主義の対比がこの本でそれほど明確でなく、むしろ入り交じった上で話が進んでいきます。多分地理的には、ヨーロッパとアメリカ東部が知性主義になるようです。それ以外の中西部と西部は反知性主義のようです。教会的には、いわゆる正統派が知性主義で、福音派が反知性主義になります。

話はキリスト教での反知性主義として信仰復興運動、リバイバルがその例として繰り返しだしてきます。それが地理的に東部でも受け入れられるようなことに著者も耐えられないかのようです。著者のアメリカでのキリスト教体験によっているようです。それは著者自身のアメリカの地理的体験にもよっているのでしょう。

それを感じたのは、4章で映画「リバー・ランズ・スルー・イット」をアメリカの反知性主義を知るために出してきたことです。リバイバル運動を起こした人たちの学歴やマナーのなさをその例として出して来るのですが、この映画のもとの本はシカゴ大学の英文学教授であった人が故郷のモンタナに帰ってきて書いた実話です。東部で勉強したとかの視点が繰り返されています。この映画はモンタナの自然の美しさに魅了されます。ブラッド・ピッドの出世作です。文句なしにお勧めします。それこそアメリカを知ることができます。

アメリカに移り住んで28年になります。カリフォルニアですので反知性主義の行き止まりになるのかも知れません。子どもたちが中西部に住むようになってアメリカ大陸を何度かドライブして体験することになりました。広大な自然のワイオミング州にはことばが出ないほどです。モンタナ州はその上にあり、一度通過したことがあります。アメリカはこの広大な大地を、政治的にも農業的にも工業的にも征服したのです。アメリカの力です。知性がなければできないことです。

思い出すことがあります。アメリカに移り住んで不思議なことに自分で小さな家を建てることになりました。経験は全くありませんでした。教えられ、また見よう見まねでしたが、筋道がしっかりあることが分かりました。早い時期に床下の配管をするのですが、そのためには出来上がったときの水回りを理解していなければなりません。知性がなければできないことでした。

そんなこともあって、読後感はすっきりしません。ただこの本はすでに1963年にでたリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』を下にしているので、子どもたちも興味がありそうなので、回し読みして、再度考えたいと思います。ただこの日本語の本の新しい帯の文句は当たっている面がありますが、むしろ前回書いた「怠惰とナルシズム」のほうが当たっているように思います。どちらにしても考えさせられる状況なのです。避けられないのです。

上沼昌雄記