「美しく問う」ことでローマ書で見いだした「発見者の喜び」をまとめた「信の哲学」に、こちらも少しでもそれに倣って「美しく問う」ことで「信の哲学」を通してローマ書で多少の「発見者の喜び」を味わうことが許されています。
このクリスマスに96歳の母のところに、ダラスからの弟夫婦が日本のお母さんを同伴して来られ、楽しい時をいただきました。それで次に日に家に帰る予定でしたが、その晩にロス郊外の山並みに大雪が降り、帰り道にあたる標高1200メートルの峠が36時間閉鎖されて、二晩滞在を延期することになりました。その間「信の哲学」を元にした「帰れや福音-66カ条の提題」を読み直すことになりました。
そこで、従来3章27節の「業の原理」「信仰の原理」と訳されてきて、どうしても不明のままにしてきたこの「原理(ノモス)」を、文字通りに「業の律法」「信の律法」と訳しているだけでなく、4条では神の二種類の意志の啓示として説明し、さらに7条では「悔い改めによる業の律法から信の律法への移行」と捉えていることに、美しく問う「信の哲学」の発見者の喜びを、感じ取ることができました。
その3章27節を次のように訳しています。「どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。」しかしここでの「律法(ノモス)」が長い間「原理」「法則」と訳されてきたために、どこかで信仰者自らが見いださなければならない原理や法則を意味しているかのようで、どうにも不明瞭な世界に置かれてきました。またそれゆえに多くの注解書も歯切れの悪いものになっています。
「信の哲学」は、「業の律法」を「モーセの律法」(1コリント9:9)、「信の律法」を「キリストの律法」(ガラテヤ6:2)と看做しています。それはローマ書3章の前後からも明らかで、特に22節の「イエス・キリストのピスティスを介して」が、「信の律法」をもたらしたからです。さらに、キリストによって律法は確認され(3:31)、キリスト自身が律法の目標(10:4)でもあるのです。
「モーセの律法」も「キリストの律法」も共に神の意志のあらわあれであるように、「業の律法」も「信の律法」も神の意志の啓示ととることで、「モーセの律法」「業の律法」でできなかったことを神が「イエス・キリストのピスティスを介して」なしてくださった意味が明らかになります。またその移行を「悔い改め」と、啓示の主導者である神が備えた救済の道を語っていることになります。すなわち、神の側での啓示のあり方として語られているのです。
私たちの側では、道徳的な意味合いも含めて罪の悔い改めとして捉えることと矛盾しません。なぜなら、「罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(7:13)からであり、また「業の律法に基づくすべての肉」(3:20)は神の前で義とされないからです。業の律法は悔い改めを促すことになるのです。また私たちな「肉の弱さ」をかかえているのですが、「内なる人」として聖霊の助けによって「神の律法」を喜ぶことができ、その「内なる人」のヌース(心)が新たにされることで、「信の律法」に生きることができるのです。
3章27節に関して、新改訳聖書は、長い間「行いの原理」「信仰の原理」として来たのですが、新改訳2017で「行いの律法」「信仰の律法」と改めました。その「律法」の意味合いがこれから問われてきます。協会共同訳は、残念ながら従来通りの「行いの法則」「信仰の法則」を踏襲しています。特に3章22節で「イエス・キリストの真実による」と画期的な訳出をしていることから、その前後のノモスを「律法」で通すこともできたように思えます。
思いがけないカリフォルニアの大雪で足止めされたために「信の哲学」が見いだした、特に「律法」の意味合いを確認することができ、発見者の喜びを共有することが許されました。「信の哲学」にはさらにいくつかの発見があります。新しい年、少しでも共有できればと願います。良い年をお迎えください。
上沼昌雄記