「ローマ書で見いだした発見者の喜び」2019年12月30日(月)

 「美しく問う」ことでローマ書で見いだした「発見者の喜び」をまとめた「信の哲学」に、こちらも少しでもそれに倣って「美しく問う」ことで「信の哲学」を通してローマ書で多少の「発見者の喜び」を味わうことが許されています。
 このクリスマスに96歳の母のところに、ダラスからの弟夫婦が日本のお母さんを同伴して来られ、楽しい時をいただきました。それで次に日に家に帰る予定でしたが、その晩にロス郊外の山並みに大雪が降り、帰り道にあたる標高1200メートルの峠が36時間閉鎖されて、二晩滞在を延期することになりました。その間「信の哲学」を元にした「帰れや福音-66カ条の提題」を読み直すことになりました。
 そこで、従来3章27節の「業の原理」「信仰の原理」と訳されてきて、どうしても不明のままにしてきたこの「原理(ノモス)」を、文字通りに「業の律法」「信の律法」と訳しているだけでなく、4条では神の二種類の意志の啓示として説明し、さらに7条では「悔い改めによる業の律法から信の律法への移行」と捉えていることに、美しく問う「信の哲学」の発見者の喜びを、感じ取ることができました。
 その3章27節を次のように訳しています。「どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。」しかしここでの「律法(ノモス)」が長い間「原理」「法則」と訳されてきたために、どこかで信仰者自らが見いださなければならない原理や法則を意味しているかのようで、どうにも不明瞭な世界に置かれてきました。またそれゆえに多くの注解書も歯切れの悪いものになっています。
 「信の哲学」は、「業の律法」を「モーセの律法」(1コリント9:9)、「信の律法」を「キリストの律法」(ガラテヤ6:2)と看做しています。それはローマ書3章の前後からも明らかで、特に22節の「イエス・キリストのピスティスを介して」が、「信の律法」をもたらしたからです。さらに、キリストによって律法は確認され(3:31)、キリスト自身が律法の目標(10:4)でもあるのです。
 「モーセの律法」も「キリストの律法」も共に神の意志のあらわあれであるように、「業の律法」も「信の律法」も神の意志の啓示ととることで、「モーセの律法」「業の律法」でできなかったことを神が「イエス・キリストのピスティスを介して」なしてくださった意味が明らかになります。またその移行を「悔い改め」と、啓示の主導者である神が備えた救済の道を語っていることになります。すなわち、神の側での啓示のあり方として語られているのです。
 私たちの側では、道徳的な意味合いも含めて罪の悔い改めとして捉えることと矛盾しません。なぜなら、「罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(7:13)からであり、また「業の律法に基づくすべての肉」(3:20)は神の前で義とされないからです。業の律法は悔い改めを促すことになるのです。また私たちな「肉の弱さ」をかかえているのですが、「内なる人」として聖霊の助けによって「神の律法」を喜ぶことができ、その「内なる人」のヌース(心)が新たにされることで、「信の律法」に生きることができるのです。
 3章27節に関して、新改訳聖書は、長い間「行いの原理」「信仰の原理」として来たのですが、新改訳2017で「行いの律法」「信仰の律法」と改めました。その「律法」の意味合いがこれから問われてきます。協会共同訳は、残念ながら従来通りの「行いの法則」「信仰の法則」を踏襲しています。特に3章22節で「イエス・キリストの真実による」と画期的な訳出をしていることから、その前後のノモスを「律法」で通すこともできたように思えます。
 思いがけないカリフォルニアの大雪で足止めされたために「信の哲学」が見いだした、特に「律法」の意味合いを確認することができ、発見者の喜びを共有することが許されました。「信の哲学」にはさらにいくつかの発見があります。新しい年、少しでも共有できればと願います。良い年をお迎えください。
 上沼昌雄記

「信仰は真実さ、誠実さを」 2019年12月20日(金)

 今回日本のある集会で、その集会の性質もあったのですが、今のアメリカの福音派の教会を心配している旨を正直に話しました。あまりにも自己満足的な福音理解に終始しているからです。そのような教会から遣わされた宣教師によって起こされた日本の福音派の福音理解も大丈夫でしょうかと、問いを投げかけることになりました。
 
 自己満足的であるというのは、自分たちの願いを政治的にも満たしてくれそうな指導者に対しては、その指導者の人格的な面がどのようであっても、盲目的に追随してしまうことです。それはすでにドイツの教会がヒットラーに追随してしまったことで歴史的にも明らです。その背後の福音理解がどこかで自己満足的なもので終わってしまっていたからです。
 
 妻の親戚や子供たちの関係者で、信じられないほど現指導者を崇拝している人がいます。妻の従姉妹家族は政治的には現政権の支持者なのですが、その指導者の人格的な面を見抜いているのですが、その母親は全くの崇拝者という状況です。現指導者はそのような分断を起こすことを憂慮しているどころか、そのような面での不安を駆り立てることで自分の指導力を誇示しようとしているのです。その面での洗脳はヒットラーと同じと言えそうです。
 
 アメリカの福音派がこの面でほとんど沈黙をしていることに憂慮をしていたのですが、昨日福音派の代表的な雑誌であるChristinanity Today誌で現指導者の退陣を迫る記事が出てきました。福音派の信仰者にこれで良いのかと丁寧に訴えているものです。その記事を見つける前に息子がすでに見つけてテキストで送ってくれていました。
 
 振り返ってみるに結局は福音理解に関わることだと分かります。N.T.ライトは歴史的な信仰義認論は結局はme and my salvationしかもたらさないと見抜いています。それ証拠としてホロコーストを挙げています。アメリカの福音派は何とかN.T.ライトの救済理解を否定しようとしています。日本でもそのまねをしています。N.T.ライトには、創造と新創造での救済理解の基づいたキリスト者の生き方を記したVirtue Rebornという本があります。
 
 千葉惠教授が提唱している「信の哲学」は、「信、信仰(ピスティス)」は「真実、信実、誠実」とも訳され、信仰は認知的な面だけでなく、人格的な面を含んでいることを明確に提示しています。それはN.T.ライトに通じることですが、「信の哲学」はそれをローマ書のテキストの意味論的分析で行っています。具体的な箇所が3章22節の「イエス・キリストのピスティス」の理解で、神の義とイエス・キリストの真実と結びつけ、簡単に人間の側での主観的な「信仰理解」に陥ることを避けています。「信の哲学」はあのローマ帝国を変えることになった福音理解に立ち返ることを提唱しています。
 
 今はクリスマス、年末年始を迎えています。しかし神の世界に思いを馳せるならば、安易な自己満足で暗澹としていることはできません。福音に生かされているので、神の義と愛がこの世に少しでも実現するために努めたいと思います。そうでなければ神は今の世を勝手にしなさいと「叡知(ヌース)の機能不全」(ローマ1:28)に手渡してしまうことになります。
 
 具体的にN.T.ライトのVirtue Reborn の翻訳出版を実現すること、また「信の哲学」を少しでも多くの人に理解していただくため、新しい年に備えたいと思います。
 
 上沼昌雄記

「肉の罪性か 罪の罪性か」2019年12月11日(水)

 日本での最後の週の日光オリーブの里でのセミナーで、神の創造における「肉」の善性に対して罪性のことが議論に上りました。その時点で十分説明できないで多少混乱を引き起こしてしまいました。同時にそのことを探りたくて家に戻ってローマ書7章を中心に「信の哲学」に沿って確認をしています。
 結論的にパウロは肉と罪を注意深く分けていて、肉の罪性よりは罪の罪性を強調しているように思えます。そこに律法が関わってきます。「罪は戒めによって」(8,11,13節)と繰り返されていて、それゆえに罪はより罪深いものなり、その結果死をもたらしたのです。その意味で罪は私の内に住み着いているのですが、肉が罪性を負っているとは言われていません。罪が罪として肉の内に働くと見ています。「私」を欺いているとまで言います。
 それゆえにとも言えるかのように「肉の弱さ」(6:19)をかかえていても、その肉のどこかで「内なる人」(7:22)として神の律法を喜ぶ面があることを認めています。神を認めるヌース(心)の役割が肉にあることを確認しています。それで、肉の罪性は出てこないと言えます。
 パウロが肉と罪を注意深く分けているのは、8章3節でキリストの受肉のことを語るときにも分かります。従来訳では「罪深い肉と同じような形で」となり、そのまま肉の「罪深さ」を語ることにリますが、文字通りには「罪の肉の似様性」となっていて、肉と罪を区別しています。その上でイエスのその「肉」において「罪」を処罰されたとなっています。
 このことに関しては昨年のクリスマス・メッセージとして書きましたので、そのまま添付いたします。このシーズン「キリストの受肉」の意味が少しでも深まれば幸いです
** ウイークリー瞑想「パウロにとって受肉は」2018年12月17日(月)
 「ことばは人 [直訳「肉」] となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ福音書の受肉についての宣言です(1:14)。ことばがストレートに肉となったというこの現実を「ギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」説得的にローマ書で説明しているパウロは、しかしこの「肉の弱さ」のゆえに律法が果たし得なかったことがあると認めて、神による御子の「受肉」を8章3節で語っています。
 その「肉の弱さと受肉」ということで昨年のクリスマスメッセージとして2017年12月18日(月)付けで取り上げました。肉は神の創造により良いものとして、すなわち中立的なものとして造られていながら、罪の攻撃の対象になり、罪が寄生し住み着いてしまいました。それゆえに律法が果たし得なかったこととして「受肉」が神の業として必要でした。
 「肉」のテーマには「罪」と「律法」が絡んできます。そのことを7章までで知恵によって説得的に説明をしてきて、この8章3節で御子の受肉を文字通りには千葉訳によれば「罪の肉の似様性において遣わすことによって」と微妙で考え抜かれた表現が用いられています。すなわち、「罪の肉の」と属格が二つの続いているのです。英訳はほとんどsinful fleshとしており、おそらく邦訳もそれに倣って「罪深い肉」と形容詞と訳しています。この場合には肉が初めから罪であるような意味合いを持ってしまいます。
 パウロは「罪」が「肉」をターゲットして攻撃し、巧みに住み着いてしまった現実を見抜いています。そこに「律法」が絡んで来て、どうにもならない自分の惨めさを直視してきました。ここでのパウロの人間論は「ギリシャ人にも」とあるのですが、当時の哲学的論証にも耐えうるものと言えます。「罪の肉」では律法を全うすることは叶わないことを熟知している上で、神は御子をその「罪の肉」で遣わされたのですが、そのままでは罪のないイエスと矛盾することになります。それで「罪の肉の似様性において」とその違いを言い表しています。また単なる「肉の似様性」でもないのです。なぜなら「肉」そのものになられたからです。数日前に出た協会共同訳では「同じ姿に」となっているようですが、ここは新改訳聖書2017の「同じような形で」と少なくとも違いを言い表さなければならないところです。
 「罪深い肉」と形容詞としてではなく、文字通りに「罪の肉の」と捉えることは、まさにその「罪」と「肉」の関わりに格闘しているパウロにとっては必然であったように思えます。その証拠にそれに続く文章で、千葉訳で言い表されているように、「そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである」と、受肉の目的での「罪」と「肉」の関わりを言い表しているのです。すなわち、「罪の肉の」のその「罪に関して」と取り上げて、「その肉のおいて [その] 罪を審判したから」と説明をしているのです。「罪深い肉」ではその関わりが見えなくなってしまいます。
 ここで注目して良いのは、受肉のテーマがその目的である十字架の意味づけに結びついていることです。しかしそこで審判を受けたのは罪であって、肉をとられたキリストではないことです。その違いを言い表すためにパウロがあえて「罪」と「肉」を区別して、二つの属格で結びつけて「罪の肉の似様性」と表現したと言えます。罪の刑罰であって肉はそのために必要であったのです。すなわち、罪のない肉が必要だったのです。
 千葉訳で「罪に関して」と言い表されている表現は、N.T.ライトも注解書で指摘しているとおりに、レビ記16:15での「罪のささげ物」の70人訳に合っているので、sin offeringととることもできそうです。それで新改訳聖書2017は「罪のきよめのために」としているのだと思いますが、このことでは新改訳聖書3版のままで「罪のために」としておいた方が原典に沿っているように思います。
 さてここは受肉のテーマなのですが、そのまま十字架における刑罰代償のテーマが関わってきます。少なくともここで分かることは神が処罰したのは「罪」であると言うことです。そのために「肉」が必要だったのですが、「罪の肉の似様性」として肉の姿です。そこに「身代わり」を認めることができます。
 さらにこの8章3節の濃縮した受肉と十字架の宣言が、次の4節でその目的が結びつけられるのです。すなわちそれは、「律法の要求」が御霊に従って歩む者たちのうちで満たされるためなのです。律法にできなくなったことが、今それが実行される道が、受肉と十字架に続く復活とペンテコステによって開かれたのです。そこには肉と御霊との葛藤はあるのですが、内なる人に働く御霊の約束のゆえに、律法の要求である神と隣人を愛することが実現していくのです。
 8章は御霊の執り成しと呻きが取り上げられ、それがまた勝利への道となるのですが、しかし、7章の終わりでの惨めさの告白から勝利に至るためにはどうしても御子の受肉が必要であったことを、何とも短い表現で言い表しているのが8章3節です。クリスマスは単に御子の誕生のお祝いで終わってしまうことはできないのです。惨めさがあり呻きがあり、そして賛歌があるのです。**
 よいクリスマスをお迎えください。
 上沼昌雄記

「牧師の雑炊」2019年12月9日(月)

 前回のウイークリー瞑想は11月1日付けでした。今回6週間の日本の奉仕は立ち止まることなく動いていました。守られて無事に先週の火曜日に戻ってきました。その前回のウイークリー瞑想でオホーツクの海辺で展開された虹のことを書きました。その時に少しだけ雨が降って、すぐに夕陽に照らされるように虹が網走の街からオホーツクの海に掛けて出てきました。その後も雨に降られることもなく旅を続けました。その度ごとにそれぞれの隠れ家で疲れを癒やし、鋭気を養い、旅を終えることができました。
 
 山形の隠れ家を旅のベース基地のように勝手に使わせていただいています。荷物をまとめ、また荷物の詰め替えをし、必要な郵送や送金をし、また書籍の取り扱いをして必要をこなしています。さらに勝手なことを勝手に話すこともでき旅の癒やしをいただいています。また地域特産をふんだんに使った家庭料理もいただいています。
 
 ある晩に鍋料理をしてくださり、身も心も温かくなりました。次の日の朝飯のことでその残りのつゆを使って雑炊を作ることができますと言われました。おかゆも可能性として出してくださったのですが、迷うことなく雑炊をお願いしますと返事をしました。次の日の朝に主(あるじ)の牧師が台所でごそごそと動き回る音が聞こえました。言われた時間に降りていきました。湯煙の立っている雑炊がテーブルに載っていました。
 
 フウフウ言いながら雑炊に舌を鳴らしました。ただその昔、小さいときに母が作ってくれた雑炊を思い起こしました。それ以来全く食べることもなかったように思います。牧師ご本人はこんなものを食べさせてと恐縮されていたのですが、私には思いがけない日本の味を思い起こすことになりました。母もいろいろな残り物に残りのご飯を混ぜていろいろな味の雑炊を作ってくれました。
 
 ここの牧師はかつては小さな5人の子供の三食の食事を作っていました。いろいろな料理を上手に作ります。奥様の料理も見事な味付けでいつもおいしくいただいています。カレーは絶品です。お二人とも健康のために食材と料理には注意を払っています。牧師の雑炊も私にはちょうど良い塩加減で、前の晩の鍋物の残りのつゆとちょうど良い具合に味付けされていました。朝からちょうど良くお腹が満ち足りました。その感触を今でも覚えています。
 
 今回はオホーツクから広島までの旅となりました。日本を離れた次の日には北日本は雪に覆われ、各地は雨のようでした。カリフォルニアもその前の週に雪と雨となり、長い間の乾期から解放されてようやく山火事の心配もなくなりました。晴れ間を見つけて屋根の樋に溜まっていた落ち葉を取り除きました。昨晩は一晩中断続的に雨が降っていました。まだ時差ぼけで目が覚めている間、雨音を聞きながら今回の日本の旅を振り返り、湯煙が立ちちょうど良い味付けの牧師手製の雑炊を思い起こしていました。
 
 上沼昌雄記