「誇り、誇ること」2020年2月5日(水)

 妻とヘブル書に続いてヤコブ書を読んでいます。昨晩はその4章でした。16節のことばで顔を見合わせることになりました。「ところが実際には、あなたがたは大言壮語をして誇っています。そのような誇りはすべて悪いものです。」実は、その夕刻に聴いた現大統領の一般教書演説で感じていたことで、二人で納得したからです。テレビがないのでラジオで聴きました。
 実はこの「誇り」「誇ること」については「信の哲学」に接してからずっと心にかかっていました。いわゆる信仰義認論の箇所と言われるローマ書3章22節から26節で、イエス・キリストの信を介して神の義の啓示の道が開かれたことが明記されていて、その上でその適用のように、27節で「それでは私たちの誇りはどこになるのでしょうか」と自問をしています。いきなり出てくるようなのですが、すでに2章23節で「律法を誇りとする」ユダヤ人のことが念頭にあることが分かります。
 その誇りは「取り除かれました」とあっさりと言い切るのです。言い切れるだけの道が開かれたからです。「どの律法を介してか」と、律法を誇る者に、逆にどの律法によるのかと切り返すのです。そこで明記しているのが、「業の律法」ではなく「信の律法を介して」いるからと、22節で出てきた「イエス・キリストの信を介して」を根拠にしていることが分かります。
 実はこの27節の訳は新改訳の三版では「どういう原理によってでしょうか」となっています。それで「行いの原理」か「信仰の原理」かと言うことで、どのような原理を見いだせばよいのだろうかと、長い間考えていたのですが、不明瞭のままでした。そのノモスを端的に「律法」と理解していくと流れが分かってきます。キリストは律法の目標(10:4)であり、「信の律法」とは「キリストの律法」(1コリント9:21)でもあるからです。
 そしてこの「誇り」「誇ること」は、パウロ自身にとっても、特にコリントの教会の人たちとのあいだで大きな課題でありました。誇りは人間としての潜在的な欲求でもあるからです。神の律法をいただいていることだけでも、また割礼を受けていることも、あるいは少しでも良い働きや業に関わったことでも、黙っていることができないで口に出してしまい、特権のように誇るのです。
 「信仰による」ことも誇りにもなるのです。宗教的なことが誇りの対象にもなってしまうのです。「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」(1コリント13;3)とまで言っています。その意味でも信仰義認論で単なる「信仰のみ」ではなく、「イエス・リストの信を介している」と、私たちの信仰以前のことを根拠にしていることを忘れることはできません。それは「肉なる者がだれも神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1:29)と言われているのです。それで「誇る者は主を誇れ」(1:31,2コリント10:17)と繰り返され、また、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ書6:14)とも言われています。
 それで、「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」があっても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」(1コリント13:3)とまで断言するのです。それはたとえ「主を誇る」「十字架を誇る」ことであっても、愛がなければとも言えるのでしょう。「愛は自慢せず、高慢になりません」と続いて言われています。演説で結構キリスト教用語が使われていたので余計に気になりました。それで妻と顔を見合わせて暗い気持ちになったのです。
 「信の哲学」は結論のように「信と愛」の相補性を大切にします。それは神において「義と愛」の相補性があると観ているからです。また、そこに神と私たちの相補性も生まれてくるからです。「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によってはたらく信仰なのです」(ガラテヤ書5:6)と言われているとおりです。「信の哲学」は繰り返し取り上げています。
 この週はウイークリー瞑想を二つ書くことになりました。時々黙っていられなくなることがあります。
 上沼昌雄記

「村上春樹とブルース・スプリングスティーン」2020年2月3日(月)

 前回の記事を読んでくださった方が、村上春樹がブルース・スプリングスティーンのことを書いていると記してくださいました。私もその文章を随分前に読んだことがあるのですが、もう一度読み返してみました。何が村上春樹をしてブルース・スプリングスティーンの文章を書かせたのか分かりました。物語性です。
 ロック歌手であるブルース・スプリングスティーンとそのバンドの熱狂的な演奏をビデオで観ることができるのですが、そこで歌われている歌詞の内容に村上春樹自身が「何よりも何よりも、、、唖然とさせられた」と言います。それは私も、前に書いたとおりに、「ストリート・オブ・フィラデルフィア」を聴いているときに、その内容はブルース・スプリングスティーン自身のことを歌っていると思ったことで、納得できます。
 しかもライブ演奏では、その歌詞のある部分を、特に繰り返しの部分を、会衆にも歌わせてしまうのです。My Hometownという曲をロンドンの会衆の前で歌っているビデオがあります。彼が祖父の車に乗って、これがおまえのHometownだよと教えられたことを、自分が父親になって同じように子供を車に乗せて、これがおまえのHometownだよと言い、そのリフレインのMy Hometownの部分を、イギリス人と繰り返しながら何度も歌うのです。誰の心にも故郷はあります。その一体感を生み出しています。
 村上春樹はそれを「物語の共振性」と言います。ロックの音楽にこれほどのストーリー性が与えられたことはないとまで言います。手前勝手ですが、聖書の物語も多くの人にその共振性をもたらしてきたと言えます。ヨブの苦難の物語、ヨナの怒りの物語、伝道者の書のむなしさの告白が共鳴をもたらしてきて、今でももたらしています。あのローマ書にもパウロの物語を感じ取ることができます。それがなければ聖書がここまで受け入れられることはなかったのです。
 村上春樹がもう一つブルース・スプリングスティーンの物語性の中に観ていることは、「物語の開放性」です。歌詞とその演奏で、生々しい感触と光景と息づかいを聴衆に与えても、物語そのものは開いたままで終わっていて、安易は結論づけを拒んでいると言うのです。何とも興味深い観察です。
 ひとつ分かることは、村上春樹とブルース・スプリングスティーンは1949年生まれで同年配です。ブルース・スプリングスティーンが60年代の症候群には巻き込まれないで、70年代、80年代苦闘をしながら自分の芸術性を磨き上げてきただけでなく、それぞれの時代の症候に呑み込まれないだけの大きな物語を持っていたからだと言います。その時代を代表する音楽家で終わることがなく、それを乗り越えるだけのものを持っていたからだと言います。そのための苦闘をブルース・スプリングスティーンがして来たと見抜いています。
 それは村上春樹自身のことを語っているかのようでもあります。しかも興味深い言い方をしています。つまりそのためには時代や階層を超えた「救済の物語」にまで昇華していく必要があるというのです。人間的にも、芸術的にも、道義的にも、ひとつ上に段階の上る必要を認めています。物語がただその人のものではなく、「より大きな枠から切り取られた物語」であるからだと言います。「救済の物語」とはその意味なのでしょう。
 村上春樹の最近の作品で「信じる力」を小説の終わりでの新たな展開としていることを書きました。ブルース・スプリングスティーンはカトリックの背景を隠さないので、信じることが報いられること、信仰と愛に望みをかけることを遠慮なしに歌い上げています。「主よ」と呼びかける歌詞を当たり前のように入れて、バンドも聴衆も一緒に歌わせてしますのです。それだけの資質と品格を苦闘と忍耐を通して身に着けてきたからなのでしょう。
 村上春樹もブルース・スプリングスティーンもすでに古希を過ぎています。二人の夢の対談が実現して、今までの芸術と人生を語り合うようなことが起こったら何が出てくるのだろうかと、勝手に心ときめかせています。
 上沼昌雄記