妻とヘブル書に続いてヤコブ書を読んでいます。昨晩はその4章でした。16節のことばで顔を見合わせることになりました。「ところが実際には、あなたがたは大言壮語をして誇っています。そのような誇りはすべて悪いものです。」実は、その夕刻に聴いた現大統領の一般教書演説で感じていたことで、二人で納得したからです。テレビがないのでラジオで聴きました。
実はこの「誇り」「誇ること」については「信の哲学」に接してからずっと心にかかっていました。いわゆる信仰義認論の箇所と言われるローマ書3章22節から26節で、イエス・キリストの信を介して神の義の啓示の道が開かれたことが明記されていて、その上でその適用のように、27節で「それでは私たちの誇りはどこになるのでしょうか」と自問をしています。いきなり出てくるようなのですが、すでに2章23節で「律法を誇りとする」ユダヤ人のことが念頭にあることが分かります。
その誇りは「取り除かれました」とあっさりと言い切るのです。言い切れるだけの道が開かれたからです。「どの律法を介してか」と、律法を誇る者に、逆にどの律法によるのかと切り返すのです。そこで明記しているのが、「業の律法」ではなく「信の律法を介して」いるからと、22節で出てきた「イエス・キリストの信を介して」を根拠にしていることが分かります。
実はこの27節の訳は新改訳の三版では「どういう原理によってでしょうか」となっています。それで「行いの原理」か「信仰の原理」かと言うことで、どのような原理を見いだせばよいのだろうかと、長い間考えていたのですが、不明瞭のままでした。そのノモスを端的に「律法」と理解していくと流れが分かってきます。キリストは律法の目標(10:4)であり、「信の律法」とは「キリストの律法」(1コリント9:21)でもあるからです。
そしてこの「誇り」「誇ること」は、パウロ自身にとっても、特にコリントの教会の人たちとのあいだで大きな課題でありました。誇りは人間としての潜在的な欲求でもあるからです。神の律法をいただいていることだけでも、また割礼を受けていることも、あるいは少しでも良い働きや業に関わったことでも、黙っていることができないで口に出してしまい、特権のように誇るのです。
「信仰による」ことも誇りにもなるのです。宗教的なことが誇りの対象にもなってしまうのです。「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」(1コリント13;3)とまで言っています。その意味でも信仰義認論で単なる「信仰のみ」ではなく、「イエス・リストの信を介している」と、私たちの信仰以前のことを根拠にしていることを忘れることはできません。それは「肉なる者がだれも神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1:29)と言われているのです。それで「誇る者は主を誇れ」(1:31,2コリント10:17)と繰り返され、また、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ書6:14)とも言われています。
それで、「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」があっても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」(1コリント13:3)とまで断言するのです。それはたとえ「主を誇る」「十字架を誇る」ことであっても、愛がなければとも言えるのでしょう。「愛は自慢せず、高慢になりません」と続いて言われています。演説で結構キリスト教用語が使われていたので余計に気になりました。それで妻と顔を見合わせて暗い気持ちになったのです。
「信の哲学」は結論のように「信と愛」の相補性を大切にします。それは神において「義と愛」の相補性があると観ているからです。また、そこに神と私たちの相補性も生まれてくるからです。「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によってはたらく信仰なのです」(ガラテヤ書5:6)と言われているとおりです。「信の哲学」は繰り返し取り上げています。
この週はウイークリー瞑想を二つ書くことになりました。時々黙っていられなくなることがあります。
上沼昌雄記