「ブルース・スプリングスティーン」2020年1月27日(月)

 私が音楽のことを書くと笑われるのですが、それでも時には共鳴し納得することがあります。世界的なロック歌手であり、シンガーソングライターであるブルース・スプリングスティーンの音楽を折々に聴いてきました。その始まりは多分トム・ハンクス主演の映画『フィラデルフィア』に監督の依頼で作曲した主題歌『ストリート・オブ・フィラデルフィア』に接してからだと思います。1994年のアカデミー賞で、トム・ハンクスは主演男優賞を、『ストリート・オブ・フィラデルフィア』は歌曲賞を獲得しています。
 
 ロック歌手でありながら抑制の効いたトーンでフィラデルフィアの下町で生活している人たちの苦闘を歌い上げているその響きは、ブルース・スプリングスティーンの心の深くから出ているものと納得します。監督からの依頼で書き下ろしたその歌詞も彼の人生を語っていることが分かります。ユーチューブでそのフィラデルフィアの下町を歩きながら歌っている場面を何度も観ることになりました。
 
 二つのCDを購入して、それをパソコンに入れてどこでも聴けるようにもしました。最近もまとめて聴く機会がありました。ブルース・スプリングスティーンがロック歌手として熱狂的に歌い上げている場面でもどこかで哀愁が漂っていて、それに会衆が一つとなっている場面にユーチューブで接します。自分の中の誰にも触れられない、言葉にもならない、ただ呻きだけでしかない響きをブルース・スプリングスティーンに中に感じ取っているのが分かります。
 
 実は彼自身が若いときからうつ病で苦しんでいてその治療を受けていながら音楽活動を続けていることの記事に接しました。そのことを自叙伝として書物にまとめたものが2016年に出ていることが分かり、早速購入しました。同じ音楽家である彼の奥さんが、歌詞を作るようにこの本を書いているというコメントがあります。確かに自分の人生の断面とその折りに出ているヒット曲が重なり合って響いてきます。本のタイトルは”Born to Run”ですが、同名のヒット曲がすでに1975年に出ています。その曲の日本語名は『明日なき暴走』となっています。
 
 528頁わたる自叙伝ですが、家族に伝わってきた精神的な病が特に父親にも伝わっていて、その父親との格闘が彼の人生を支配してきたことを折々に記しています。その記述も音楽的とも言ます。長々と解説をしているのでもなく、また単に嘆いてるのでもなく、それが自分の人生そのものであり、そのもの語りを歌で体現してきたことを流れるように語っています。
 
 1982年配信の『ネブラスカ』というアルバムに”My Father’s House”という曲があります。自叙伝の最後の章でこのことに触れています。父について書いた最良のものであることを認めつつ、その最後の文面は充分ではないことが分かったと言います。自分たちの罪はそのままになっているという文面で、次のような表現になっています。”Where our sins lie unatoned,,,” 
 
 なぜ不充分と思ったかというと、そのままでは罪を自分の子供たちに受け継がせてしまうと気づいたからです。確かに自分の父親との確執は、形が違っても自分の子供たちにも影響するものであるが、それでもそれは自分の罪であることを認め、少しでも癒やしをもたらしていく責任を果たすことで、子供たちがさらに信仰と希望と愛を見いだしていくものであると気づいたからだと言います。2014年の”High Hopes”という曲でその希望を歌い上げています。
 
 自叙伝の初めでカトリック教会で育ったことが記されています。形として離れることになっても、イエスとは個人的な交わりを持っていることを認めています。イエスの愛を知っています。そして自叙伝の終わりで、うつ病のことを告白し、父親との確執から解放されて深い慰めに満ちているブルース・スプリングスティーンの心に、静かに「主の祈り」が浮かび上がってきます。それを繰り返し唱えている自分をさらけ出しています。
 
 上沼昌雄記

「ある老学者の回顧談に接して」2020年1月14日(火)

 日本でのある会合に機会あるごとに参加しているのですが、先週のその会合である老学者がご自分の今までの歩みを振り返りながら、牧師が中心の参加者に合わせて、ご自分の研究と今までの信仰者としての歩みで思わされてきたことを忌憚なく語られました。そのメモに当たる15頁ほどの原稿をメールでいただき何度か読みました。その会合自体が先週の木曜日に開かれ、その先生の発表と参加者との楽しそうな懇談の3時間に及ぶ録音もネットで聴きました。
 メモも録音も門外不出ですので、その内容を語ることができないのですが、そのインパクトは強烈で、痛快でもあり、深い納得と慰めを伴うものです。多少の意見を述べたいところなのですが、週が明けて思い巡らしてうちに、私なりの歩みを振り返ることをさせてくれています。この老学者より私は10歳若いのですが、私なりに学んできたことが信仰者として、また主の業につく者としてどのような意味を持っているのか、問いかけてくれています。
 高校生の時に宣教師を通して信仰を持ったのですが、大学紛争で揺れる大学で哲学を専攻しました。それが今の歩みの基礎になっているのかなと思わされます。キリストを救い主と信じる信仰によって自分の救いの確信は今に至るまで変わらないのですが、その信仰と信じている対象をもっと知りたいと思って哲学の世界に入ったのですが、その時の思いが今に至るまで生きているのかも知れません。
 信仰の形態としては聖書的、福音的であることの願いは今でも変わらないのですが、当時ハイデッガーの実存哲学が聖書解釈に影響していることが分かって、ブルトマンやバルトも読んできました。それで自分の信仰を変えないといけないとは思ったことはありませんでした。哲学的な問いはむしろチャレンジとして受け止めてきました。外から見たらそれで影響されていると見えるのかも知れません。
 家族で渡米したといえるのか、戻ってきてというべきか、すでに30年になります。今のミニストリーを始めて、この哲学的な問いが一つの支えになっている面があります。というのは、人間とは、世界とは、意識とは、善とはという問いはいろいろな面で現されているので、信仰の枠を超えても取りかかれるからです。それを村上春樹は物語として取り上げていて、ハイデッガーの対極にいたユダヤ人哲学者のレヴィナスはホロコーストを通して問い直しをしています。それぞれの背景を持ちながら何とか答えようとしていることに共鳴しました。
 その共鳴が拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』(2008年)を生み出してくれたと言えます。村上春樹を密かに読んでいる牧師と親しくなり、信頼もされました。ある人からは誹謗もされました。レヴィナスのユダヤ人としての視点がN.T.ライトの創造から新創造までのパノラマ的理解の受容を導いてくれました。そしてN.T.ライトのローマ書理解が「信の哲学」におけるローマ書のテキスト理解に導いてくれました。
 取りも直さず「信の哲学」は哲学なのだと納得します。心魂の根底における信の根源性の解明と言えるからです。「信の哲学」はローマ書をアリストテレスの「魂論」と同じように哲学の書として探求しています。そこから浮かび上がっている「福音」の再考察は、まさに人とは、世界とは、死とは、善とはの問いへの根源的な提示を可能にしてくれます。何よりもそのように問いかけることを恐れてはいません。それゆえに開かれたものとなります。パウロの問いかけと生き方がその証拠です。もちろんイエスのロゴスとエルゴンにによっているからです。
 どちらにしても限りのある人生で、それでも導かれるように取りかかった課題を、限りのある中で格闘する以外にはないことです。それで今漠然と与えられている課題は、『闇』の本でパウロの闇としてローマ書7章を中心に取り上げたのですが、「信の哲学」も7章を中心に「心魂の根底」での出来事に光を当てているので、この闇のテーマの再考察かなと思わされています。同時にしかし、闇のテーマは村上春樹のように物語としてしか取りかかれないのかも知れないとも思わされています。
 どちらにしてもこちらもいい歳になりましたので、新しい年どうなるのか伺いつつ歩みたいと思います。
 上沼昌雄記

「『罪の律法』とは、、、」2020年1月6日(月)

 年末にローマ書3章27節の「業の律法」と「信(仰)の律法」とが共に神の意志のあらわれであり、啓示であるという「信の哲学」が見いだした発見者の喜びを、こちらも多少の喜びを持って記しました。それで気になって年明けに、そうだとすると今度は7章の終わりでパウロが対比している「神の律法」と「罪の律法」の意味合いがどうなるのか気になってきました。
 その対比は、「心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」となっています。前回の理解からでは、「神の律法」には「業の律法」と「信(仰)の律法」が共に含まれることが分かります。それとの対比で「罪の律法」が言われていることになり、それこそ「罪の律法」は何を意味しているのかが問われます。
 このことも「美しく問う」ことになるのでしょう。と言うのも漠然と「業の律法」と「信(仰)の律法」の対比と、「罪の律法」と「神の律法」の対比を並列に観ていたように思うからです。一年ほど前に千葉先生にそうはならないと指摘されたことがありました。それは伝統的に「業」と「信仰」の対比、また「律法」と「福音」の対比でローマ書を理解しようとしてきたからです。
 それでまさに、「罪の律法」とは何を意味しているのかとなりますが、その前との続きで次のことが分かります。すなわち、この25節での表現はすでに23節で使われていて、そこでは定冠詞付きとなっています。しかも「心(ヌース)の律法」との対比で出てきます。さらにこの対比を導くように、22節で「内なる人としては、神の律法を喜んでいる」に対して23節で「私のからだには異なる律法があって」と、その「異なる律法」が「罪の律法」の導入のように言われています。
 このように遡っていくと13節で「罪」と「戒め」との関わりで、しかも「罪」が主語のように言われていることに結びつきそうです。「罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。」その前後で律法は「聖なるもの」(12節)、「霊的なもの」(14節)と言われているのですが、罪はその律法を介して肉に働くときに罪の罪性があらわれてくることを、生身の人間としてのパウロも認知していたことが分かります。
 このように25節での「肉では罪の律法に仕え」というのは、まさに「肉」と「罪」と「律法」の三者の関わりをまとめていると言えます。すなわち、「肉」は初めから罪ではなく、罪は外にあったのですが戒めによって機会をとらえて肉に働いて罪として明らかになるのです。しかも内に住み着いてしまうのです。すでに8節で「律法がなければ、罪は死んだものです」と言うように、この三者のメカニズムをパウロは注意深く語っています。6章ですでに「罪の奴隷」と言っています。
 その意味ではここで対比されている「心(ヌース)では神の律法に仕え」は、神が与えてくださったモーセの律法としての「業の律法」と、イエス・キリストのピスティスを介して明らかになった「信(仰)の律法」を喜んでいる「内なる人」のことであることが分かります。すなわち肉を持って生きている私たちの「内なる人」として神に結びつく面を見ているのです。その「内なる人」の機能としてヌースを捉えています。単なる心ではないのです。単なる心では罪の理解だけでなく、この7章の理解も心情的なものになってしまいます。
 そしておそらくこのヌースとの対比があるので、「肉では罪の律法に仕え」と言うことも単なる心情的な受け止めではないことが分かります。すなわち肉の弱さ故に罪に留まって良いのだとか、罪の奴隷なので当然その結果は避けられないのだという心情的な諦めを避けています。「みじめな人間」と嘆いているようなのですが、「イエス・キリストのゆえに」ただ神に感謝といえるヌースの機能が働いていることが分かります。それは3章22節の「イエス・キリストのピスティスを介して」明らかになった神の啓示のゆえだからです。
 この「罪の律法」に関しては注解書も触れるのを避けているようです。協会共同訳は「心では神の律法」と言うのですが、「肉では罪の法則」としています。その前後も「法則」になっています。混迷からは抜け出せないようです。
 新年早々ですが、「罪の律法」を皆さまはどのように受け止めているでしょうか。ローマ書にはまだ捉え切れていない面があるように思います。少しでもテキストの理解に近づければと願っています。本年もよろしくお願いいたします。
 上沼昌雄記