最近いただいた千葉先生の記事の中に、ローマ書3章21-31節のいわゆる神の信義の啓示としての「贖罪」について、「神の自己認識と人間認識」としてパウロが13の報告をしているとまとめています。「ここで啓示の行為主体は神であり、啓示の媒介的遂行者はナザレのイエスである。パウロはこの分離されない啓示の実質内容として神の自己認識、人間認識を少なくとも一三報告している。」そのうち最初の三つをここで紹介いたします。
「第一に、神はイエス・キリストの信に基づく自らの義の啓示は「律法[の書]と預言者により証言」されているものであると認識している。神はイエスの信の生涯が、アブラハムやイザヤにおいて約束し預言したことの成就であると認識している。
第二に、神は自らの義が律法とは分離されうるということ、またイエス・キリストの信と「分離は存在しない」と認識している。このことは信に基づく神の義は分離されうる業に基づく神の義より神自身にとって根源的であることを含意している。
第三に、神はこの義の啓示の差し向け手が、信義の分離のなさ故に、業の律法に基づく者ではなく「信じる者すべて」であると認識している。」
ここでは第二の報告としての以下の文章に関心を寄せられました。「このことは信に基づく神の義は分離されうる業に基づく神の義より神自身にとって根源的であることを含意している。」すなわち、「信の根源性」が神にとっても仲介者である「イエス・キリストの信」のゆえに、「分離されうる業に基づく神の義より」より根源的であると観ているのです。
現在ご存じのように新たに始まったThe Faithfulness Projectのための千葉先生と私のビデオ撮りのための原稿の作成に取りかかっています。その中でどうして千葉先生と出会い、アリストテレス専門家の先生がどうしてパウロのローマ書を40年に渡って研究をされてこられたのか、そして私自身が先生のご研究に関心を持ったのかも、このローマ書3章21-31節が直接の切っ掛けであったことを再確認しています。
千葉先生が提唱されている「信の哲学」は、「信の根源性」と言い換えることもできるのだろうと思い、いくつかの文章をこの欄で書いてきました。私たちの存在そのもの、私たちの生きる姿勢としての「信の根源性」と受け止めてきました。アリストテレスも『魂論』で入ることのできなかった心魂の根底での人のあり方としての「信の根源性」を提唱されていることにも驚きを持ってきました。
今回その「信の根源性」を神自身にとっても「イエス・キリストの信」のゆえに、すなわち「信義の分離なさ」のゆえに、神ご自身の律法よりもより根源的であるとのパウロの提唱からまとめられていることに驚き、この記事をいただいてから思い巡らしていました。
前回紹介したルターの「信仰が愛の根源である」という文章もこの流れで紹介されているのです。「ルターによれば、信仰は光であり、愛は色であるとの類比で説明される。色は何らかの表面の一種の反射であり光への言及なしにその何であるかのロゴスを持つことはできない。、、、その意味において信仰が愛の根源であるとされる。」
それに対して一人のご夫人からレスポンスをいただきました。「確かに信仰は光、愛は色ですね。一番優れている愛は信仰無しに表現されません。イエス様の十字架の愛は、父への信仰により、私達に希望をもたらして下さいました。どうしても行き着かなかった本物を掴ませていただきました。深く感謝いたします。」
そして何よりも「信の根源性」が神ご自身から発していることに、パウロの報告とともに、納得し平安をいただいています。
上沼昌雄記