「神にとっての信の根源性」2023年5月26日(金)

 最近いただいた千葉先生の記事の中に、ローマ書3章21-31節のいわゆる神の信義の啓示としての「贖罪」について、「神の自己認識と人間認識」としてパウロが13の報告をしているとまとめています。「ここで啓示の行為主体は神であり、啓示の媒介的遂行者はナザレのイエスである。パウロはこの分離されない啓示の実質内容として神の自己認識、人間認識を少なくとも一三報告している。」そのうち最初の三つをここで紹介いたします。

 「第一に、神はイエス・キリストの信に基づく自らの義の啓示は「律法[の書]と預言者により証言」されているものであると認識している。神はイエスの信の生涯が、アブラハムやイザヤにおいて約束し預言したことの成就であると認識している。
 第二に、神は自らの義が律法とは分離されうるということ、またイエス・キリストの信と「分離は存在しない」と認識している。このことは信に基づく神の義は分離されうる業に基づく神の義より神自身にとって根源的であることを含意している。
 第三に、神はこの義の啓示の差し向け手が、信義の分離のなさ故に、業の律法に基づく者ではなく「信じる者すべて」であると認識している。」

 ここでは第二の報告としての以下の文章に関心を寄せられました。「このことは信に基づく神の義は分離されうる業に基づく神の義より神自身にとって根源的であることを含意している。」すなわち、「信の根源性」が神にとっても仲介者である「イエス・キリストの信」のゆえに、「分離されうる業に基づく神の義より」より根源的であると観ているのです。

 現在ご存じのように新たに始まったThe Faithfulness Projectのための千葉先生と私のビデオ撮りのための原稿の作成に取りかかっています。その中でどうして千葉先生と出会い、アリストテレス専門家の先生がどうしてパウロのローマ書を40年に渡って研究をされてこられたのか、そして私自身が先生のご研究に関心を持ったのかも、このローマ書3章21-31節が直接の切っ掛けであったことを再確認しています。

 千葉先生が提唱されている「信の哲学」は、「信の根源性」と言い換えることもできるのだろうと思い、いくつかの文章をこの欄で書いてきました。私たちの存在そのもの、私たちの生きる姿勢としての「信の根源性」と受け止めてきました。アリストテレスも『魂論』で入ることのできなかった心魂の根底での人のあり方としての「信の根源性」を提唱されていることにも驚きを持ってきました。

 今回その「信の根源性」を神自身にとっても「イエス・キリストの信」のゆえに、すなわち「信義の分離なさ」のゆえに、神ご自身の律法よりもより根源的であるとのパウロの提唱からまとめられていることに驚き、この記事をいただいてから思い巡らしていました。

前回紹介したルターの「信仰が愛の根源である」という文章もこの流れで紹介されているのです。「ルターによれば、信仰は光であり、愛は色であるとの類比で説明される。色は何らかの表面の一種の反射であり光への言及なしにその何であるかのロゴスを持つことはできない。、、、その意味において信仰が愛の根源であるとされる。」

 それに対して一人のご夫人からレスポンスをいただきました。「確かに信仰は光、愛は色ですね。一番優れている愛は信仰無しに表現されません。イエス様の十字架の愛は、父への信仰により、私達に希望をもたらして下さいました。どうしても行き着かなかった本物を掴ませていただきました。深く感謝いたします。」

 そして何よりも「信の根源性」が神ご自身から発していることに、パウロの報告とともに、納得し平安をいただいています。

 上沼昌雄記

「ルターのことで」2023年5月12日(金)

 つい最近思いがけなく自分の書庫で、岩波新書の菊盛英夫著『ルターとドイツ精神ーそのヤーヌスの顔を巡って』を見つけました。ヤーヌスの顔とは、ローマ神話での前と後ろに反対向きの2つの顔を持つのが特徴の双面神のことで、ルターの正面の顔と裏面の顔を、ルター以後のドイツの文学者と思想家の記述からまとめ上げたものです。

 ルターが近世への創始者のように受け止められていることは周知のことです。当然プロテスタント教会ではその創始者と見なされています。私たちが使用している『新改訳2017』は、宗教改革500年を記念して付けられたタイトルでもあります。その意味での業績は歴史的な事実となっています。

 同時に著者である菊盛英夫氏は、ルターに背面を歴史的な記述を辿りながら浮き彫りにしようとしています。そのような研究をされる人もいるのだと感心させられたのです。現実に、ルターのユダヤ人の理解は、自分の信仰のみによる福音理解が受け入れられないで、憤怒を持って書いていることからも、ルターのある意味での裏の面が垣間見られるのです。その死後に出版された『ユダヤ人とその虚偽について』は、後にはナチスによってユダヤ人撲滅の材料にもなってしまったのです。

 そんな思いでいたときに、千葉先生から、ある方の新約聖書に関わる書籍の書評が届きました。そこでルターの信仰の捉え方での美しい表現が紹介されていました。以下の通りです。「ルターによれば、信仰は光であり、愛は色であるとの類比で説明される。色は何らかの表面の一種の反射であり光への言及なしにその何であるかのロゴスを持つことはできない。光は色をつくるそれ自身透明なものであり、色よりもロゴス上そしてエルゴン上先行している。その意味において信仰が愛の根源であるとされる。」

 信仰と愛のどちらが先であり、より根源的であるかのトマス・アクイナスとのアリストテレスをはさんでのやり取りの中で、ルター自身が信仰の根源性を光として、その光ゆえに、色である愛が見えてくることを表現したものです。このような見事な表現ができるのもルターなのだと思い、先生にその出典をお尋ねしました。それは、すでに出版されている『信の哲学』下巻の269頁に記されているとのご返事でした。

 信の根源性は信の哲学から導き出される方向性の一つで、ガラテヤ書5章6節「愛を媒介にして実働している信が力強い」で言明されているとまとめ上げられています。その信の根源性をどのように自分なりに表現したら良いのかと考えていたときでしたので、このルター自身の表現は的を得たものでした。このような表現ができるのもまさにルターなのでしょう。38歳の時にウォルムスの国会での審問での「われここに立つ」もルターの面目躍如した表現です。

 それでもルターを典拠に後のプロテスタントの標語のようにもなった「信仰のみ」は、すでにご存じのように、ローマ書3章22節の「イエス・キリストの信」を「イエス・キリストを信じる信仰」と、私たちの信仰のことが神の義の啓示にかかるかのように理解されてきたことで、混乱は今にも至っています。信の哲学はただテキストの解明から「イエス・キリストの信による」とし、神の義とイエス・キリストの信との間には「分離のない」ことを導き出しています。

 信の哲学における信の根源性は、その「イエス・キリストの信」に基づく者への神の義の啓示としていることで、私たちの信仰が神の義の転嫁を可能にしているようには観ていないのです。私たちの信仰がイエス・キリストの信に基づいていると言う意味での信の根源性なのです。そのイエス・キリストの信のゆえに神の義の啓示が私たちに開かれているのです。

 この意味で信の哲学は、「ルターの非パウロ的側面」を確認しています。同じような意味で「トマスの非パウ的側面」も紹介しています。このように信の哲学はテキストの解明から歴史的な課題にも答えうるものとして、さらなる宗教改革の必要性を訴えています。ルターのことは、まだ終わっていないのです。

 上沼昌雄記

「聖書的世界観 ?!」2023年5月3日(水)

 新しいプロジェクトのためのビデオ撮りの自己紹介の原稿作成で、ルイーズと協議していたときに、何を目標に神学を志し、ミニストリーに関わっているのかという説明を一言で言い表すとどのようになるのかと、問いかけがありました。それで浮かんできたのが、「聖書的世界観」という表現でした。「聖書的信仰」とか「聖書的生き方」と言うことではなかったのです。

 それはすでに数日前のことでしたが、折あるごとに考えて、自分なりに次のように定義してみました。「聖書を通して示されている神の世界に沿って、自然、世界、歴史、人間を観ていく視点のこと。」単に信仰のこと、救いのことだけでなく、神の創造に基づく自然と人間の歴史を聖書に沿って捉え、それに沿って生きることを考えていました。それで思いだしたことがあります。

 まだ本当に若かったときに、ある牧師先生が聖書を救済史として捉え、それは一般史とは違うと提唱されたことに反論をしたことを思い出しました。そのような救済史的理解はすでに西欧の神学者の間で出てきていたのですが、それは神の創造と新創造の世界より聖書をただ私たちの救済の歴史と観るもので、どのように考えても受け入れないので反論を書いたのです。多少気まずい思いになったことを思い出しています。

 しかしこの歳になって遠慮することもないので、取り上げているのですが、それでは自分がその世界観に沿って生きてきたかとなると、恥じ入るばかりです。それで反省を踏まえて考えているのです。

 「聖書を通して示されている神の世界」とは単純に創世記から黙示録までの世界です。それを記述するだけでもどのように神の世界を捉えているのかが分かります。私なりに以下のように記述してみました。「創造、アダム ノアの洪水、アブラハム、イスラエルの選び、出エジプト、モーセ、律法、12部族、神の祭壇、王国、ダビデ、ソロモン、預言者、イザヤ、エレミア、バビロン捕囚 帰還 イエス・キリストの誕生、苦難、十字架、復活、第二のアダム、パウロ、教会、新創造、新天新地」

 それぞれご自分で記述してみてください。このような記述をN.T. ライトの創造と新創造のパノラマ的な世界の説明で使ったのを思い出しました。同時にこのような歴史的な理解と同時に、ライトが「天と地は重なり合い、かみ合っている」と、いわゆる二元的な世界観を避けていることに関わってきます。プラトン的な二元論は、アウグスティヌス以来西欧のキリスト教神学に影響して、結局救済史的な信仰の世界、自分の魂の救いの世界だけに思いが向いてしまい、聖書的な世界観の展開にはいたらないのです。友人の牧師が記してくださったのですが、結局「神、罪、救い」だけの聖書理解に終わってしまいます。

 前回記したのですが、なぜ信仰を持ってからなお哲学を選んだのかというのも、福音が単なる宗教的な真理だけではなく、普遍的な真理であると始めから思っていたからです。万物の動きを神の創造の下で観察し、人類の歴史と将来も神の創造と新創造の世界の枠で考えることができるのも、私たちは聖書からそれだけの世界観をいただいているからです。

 同時にそれだけの世界観を持って生きてきたかと言うと、生まれながらの価値観や判断基準で生きてきたことを思わされます。山の教会はその後も不安定な状態なのですが、それには一人の指導的な人のエゴが教会の動きを左右してきたところがあります。幸い教会の人たちがそれは神の世界のことでないと気づいて軌道修正をして来ています。

 そのために聖書の流れを学び続けなければなりません。同時にローマ書は神の世界とそれに対するひとの側の関わりをパウロが冷静に観察して書いていますので、その意味で浮かび上がってくる聖書的世界観を学び直すことができます。そんなことを思い、経験しながら新緑の5月を迎えています。

 上沼昌雄記