「肉」も神の創造の作品であるが、どうにもならないほど罪の性質を担っていて。その葛藤の中で信仰者として生きていて、そのために「きよめ」に直面し、またそのためにどのように生きるのがよいのかという信仰書が書かれ、さらにまたそのために説教もしてきたと言えます。
千葉教授の原稿の4章はパウロの心身論を取り扱って、前回読んだときから気になっていたことですがあります。それは、パウロは「肉」の一義性、すなわち、神の創造による生物的な面だけを語っているという千葉先生の提示で、それをどのように理解したらよいのか考えさせられ、再度注意して読んでいます。それに対して、肉を生物的面と罪性の両面性、すなわち「肉」の二義牲の理解は神学者達が持ち込んだものだと言うのです。それは意味論的分析をしてこなかったためと言います。
と言われて気付くことは、肉を初めから悪のように見てしまったら、それはギリシャ哲学の霊肉二元論、善悪二元論をそのまま受け継いできたことになります。もちろん、肉は元々は神の創造の作品で良いものであったが、アダムの罪の結果、その原罪が遺伝的に受け継がれてきて、肉は悪のように言われているが、それもまた神学者達によって主張されてきたためだと言うのです。意味論的分析からは導き出せないと言います。
私もその神学者達の中に含まれるのかも知れないのですが、確かに「肉」の二義性と、原罪の遺伝的伝達は、あたかも神学的前提のように受けとめてきたところがあります。釈明するとすれば、肉の生物的な面だけでは、現実に肉による誘惑や弱さをどのように受けとめたらよいのか分からないし、パウロも肉のこの面を認めているように思うからです。経験的にも肉の弱さと限界を知らされているからです。
この夏も山火事対策で家のまわりの落ち葉や枯れ木を取り除く作業を炎天下でしました。以前にはこれは一日か二日で終わったと思うものが、今は何日かに分けてしなければなりませんでした。肉によるからだの衰えは、残念ですが避けることができません。それもアダムの罪によることなのか、神の創造において定まったことなのか、どのように理解することがパウロの「肉」の言語の使用にあっているのか、これも暑い中、また秋風に吹かれながら考えています。ただ「肉」の一義性を認めたら聖書理解に慎重にならざるをえないことが分かります。
ローマ書8章4節以下で「肉」と「御霊」とが対比されています。その前の3節ではキリストの受肉のことでパウロは「罪の肉」ではなく「罪深い肉と同じような形」と大変微妙な言い方をしています。さらにその前の7章の最後の25節で「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と律法との関わりで「肉」を使っています。肉そのものが罪ではないとすると、ここでの意味合いをどのように理解するのか、何か今までとは違ったアプローチが必要のようです。
千葉教授が意味論的分析の必要な箇所としてローマ書3:20とガラテヤ書2:16を取り上げています。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に神の前に義と認められない」と言い方で、簡単に「だれひとり」と当たり前のように訳されているが、文字通りには「すべての肉」であるので、あえて「肉」が「律法を行うこと」との関わりで使われていることを分析する必要があるというのです。そのように言われると確かに、肉によっては律法を全うできないが、御霊によることで「律法の要求が全うされる」(ローマ8:4)と言われていることの意味が浮かび上がってきます。
確かにこの辺は注解書をどれだけ読んでもでて来ないことです。暗黙のうちに肉の罪性と原罪の遺伝的伝達を取り入れて何とかパウロの表現を理解しようとしていることが分かります。ただ、札幌の小林牧師が松木治三郎という人が「肉は肉である。それ以上でもそれ以下でもない」と言われてことを教えてくれました。それでもその肉が罪とどのように関わるのかは言語学的に分析しているわけでありません。むしろ神学的な説明で終わっています。
千葉教授が提案される「肉」の一義性を取り入れると、端的にこの自分の肉がそのまま悪でも罪でもないと自分に言い聞かせることができます。それだけでも今までない自分を見るような思いがします。同時に恐らくこの「肉」が一番罪に陥りやすいのだろうと分かります。またそれだけ自分の肉の取り扱いに責任も出てきます。多分、簡単に肉は罪だと言って逃げないことでもあるようです。それはパウロの生き方でもあったのかも知れません。
それにしてもこの歳になって新しい視点を取り入れて聖書を直すのも大変な労力が必要です。 肉体をむち打って取りかからなければなりません。それでも今まで触れられなかった領域に踏み込むような思いがあります。 私は原稿の段階で読んでいるのですが、出版に向けて急ピッチで作業が進んでいるようです。出版されてからこの4章を中心に、関心のある方々と学び会ができ、共に研鑽を積むことができればと願ってもいます。
上沼昌雄記