「この私の肉は、、、」2017年9月13日(水)

「肉」も神の創造の作品であるが、どうにもならないほど罪の性質を担っていて。その葛藤の中で信仰者として生きていて、そのために「きよめ」に直面し、またそのためにどのように生きるのがよいのかという信仰書が書かれ、さらにまたそのために説教もしてきたと言えます。

千葉教授の原稿の4章はパウロの心身論を取り扱って、前回読んだときから気になっていたことですがあります。それは、パウロは「肉」の一義性、すなわち、神の創造による生物的な面だけを語っているという千葉先生の提示で、それをどのように理解したらよいのか考えさせられ、再度注意して読んでいます。それに対して、肉を生物的面と罪性の両面性、すなわち「肉」の二義牲の理解は神学者達が持ち込んだものだと言うのです。それは意味論的分析をしてこなかったためと言います。

と言われて気付くことは、肉を初めから悪のように見てしまったら、それはギリシャ哲学の霊肉二元論、善悪二元論をそのまま受け継いできたことになります。もちろん、肉は元々は神の創造の作品で良いものであったが、アダムの罪の結果、その原罪が遺伝的に受け継がれてきて、肉は悪のように言われているが、それもまた神学者達によって主張されてきたためだと言うのです。意味論的分析からは導き出せないと言います。

私もその神学者達の中に含まれるのかも知れないのですが、確かに「肉」の二義性と、原罪の遺伝的伝達は、あたかも神学的前提のように受けとめてきたところがあります。釈明するとすれば、肉の生物的な面だけでは、現実に肉による誘惑や弱さをどのように受けとめたらよいのか分からないし、パウロも肉のこの面を認めているように思うからです。経験的にも肉の弱さと限界を知らされているからです。

この夏も山火事対策で家のまわりの落ち葉や枯れ木を取り除く作業を炎天下でしました。以前にはこれは一日か二日で終わったと思うものが、今は何日かに分けてしなければなりませんでした。肉によるからだの衰えは、残念ですが避けることができません。それもアダムの罪によることなのか、神の創造において定まったことなのか、どのように理解することがパウロの「肉」の言語の使用にあっているのか、これも暑い中、また秋風に吹かれながら考えています。ただ「肉」の一義性を認めたら聖書理解に慎重にならざるをえないことが分かります。

ローマ書8章4節以下で「肉」と「御霊」とが対比されています。その前の3節ではキリストの受肉のことでパウロは「罪の肉」ではなく「罪深い肉と同じような形」と大変微妙な言い方をしています。さらにその前の7章の最後の25節で「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と律法との関わりで「肉」を使っています。肉そのものが罪ではないとすると、ここでの意味合いをどのように理解するのか、何か今までとは違ったアプローチが必要のようです。

千葉教授が意味論的分析の必要な箇所としてローマ書3:20とガラテヤ書2:16を取り上げています。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に神の前に義と認められない」と言い方で、簡単に「だれひとり」と当たり前のように訳されているが、文字通りには「すべての肉」であるので、あえて「肉」が「律法を行うこと」との関わりで使われていることを分析する必要があるというのです。そのように言われると確かに、肉によっては律法を全うできないが、御霊によることで「律法の要求が全うされる」(ローマ8:4)と言われていることの意味が浮かび上がってきます。

確かにこの辺は注解書をどれだけ読んでもでて来ないことです。暗黙のうちに肉の罪性と原罪の遺伝的伝達を取り入れて何とかパウロの表現を理解しようとしていることが分かります。ただ、札幌の小林牧師が松木治三郎という人が「肉は肉である。それ以上でもそれ以下でもない」と言われてことを教えてくれました。それでもその肉が罪とどのように関わるのかは言語学的に分析しているわけでありません。むしろ神学的な説明で終わっています。

千葉教授が提案される「肉」の一義性を取り入れると、端的にこの自分の肉がそのまま悪でも罪でもないと自分に言い聞かせることができます。それだけでも今までない自分を見るような思いがします。同時に恐らくこの「肉」が一番罪に陥りやすいのだろうと分かります。またそれだけ自分の肉の取り扱いに責任も出てきます。多分、簡単に肉は罪だと言って逃げないことでもあるようです。それはパウロの生き方でもあったのかも知れません。

それにしてもこの歳になって新しい視点を取り入れて聖書を直すのも大変な労力が必要です。 肉体をむち打って取りかからなければなりません。それでも今まで触れられなかった領域に踏み込むような思いがあります。 私は原稿の段階で読んでいるのですが、出版に向けて急ピッチで作業が進んでいるようです。出版されてからこの4章を中心に、関心のある方々と学び会ができ、共に研鑽を積むことができればと願ってもいます。

上沼昌雄記

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「御霊に導かれて?」2017年9月4日(月)

「御霊に導かれて」という言い回しに疑問符を付けると、そのようなタイトルを付けているこちらこそ疑問符を付けられそうなのですが、この言い回しが使われているガラテヤ書5章25節の訳に注目したいからです。現実的には注目させられたのです。新改訳では「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と表現され、新共同訳てでは「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と表現されています。

千葉教授の『信の哲学』の800頁の原稿の後半、理性と信仰、アウグスティヌスとペラギウス論争、アンセルムスの贖罪論、ルターとトマス、そしてハイデガーと、それぞれにおける「信」の意味づけの箇所を読み終わって、再度ローマ書理解の箇所に挑戦しています。特に4章でパウロの心身論を取り上げています。肉とからだと魂と霊の関わりを取り上げている何とも興味深い箇所です。それは当然当時のギリシャ哲学者のテーマでもあったからです。宇宙の根源の解明に繋がることでした。

その宇宙の根源的要素 [地水火風]を言い表すストイケイアというギリシャ語をプラトンもアリストテレスも使っていて、この同じ言い回しをパウロも使っているのです。当然パウロは大切なことを言い表したいために使っています。すなわち、コロサイ書では「御子」をガラテヤ書では「霊」を、哲学者が考える宇宙の根源的要素に代わるものと捉えていると言えます。ところがそのストイケイアが、新改訳では「この世の幼稚な教え」、新共同訳では「世を支配する諸霊」と訳されていて、ポイントがはぐらかさかれた感じが否めないのです。

このストイケイアの動詞形ストイケオーをパウロが4回使っていることに千葉教授は注目しています(ローマ書4:12、ガラテヤ書5;25、6:16、ピリピ書3:16)。その中のガラテヤ書5章25節の訳を取り上げていることになります。その前で「御霊の実」が取り上げられていて、その続きでその「御霊」との関わりを語っているからです。しかもこの動詞形はどうしても宇宙の根源的要素に対応することを意味していることになるので、新改訳のように「御霊に導かれて、進む」という受動的なニュアンスはなく、むしろこちら側の対応の姿勢を語っていると思われます。千葉教授は「われらは霊に適合し続けもしよう」と訳しています。

英訳ですと、KJVとNKLVで、’let us also walk in the Spirit’, RSVで‘let us also walk by the Spirit,’ NRSVで ‘et us also be guided by the Spirit,’ NIVで‘let us keep in step with the Spirit’ となってい ます。N.T. ライトは ‘let’s line up with the spirit’ と訳出しています。NIVとライト訳は千葉教授訳に近くなります。

この箇所の訳にこだわるのは、似たような表現が゙別にあってその意味合いが゙異なるからです。ロー マ書8章4節で「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」と言われているのですが、この場合には、 「御霊」に前置詞が付いていて、動詞も普通に「歩む」を表すもので、その通りに「御霊に従って歩む」となります。それは、御霊の導きを待ってそれに導かれて歩むことを意味しています。そ れに対してガラテヤ書5章25節の意味合いは、御霊が、哲学者たちが理解した宇宙の根源的要素に対しての神の創造と新創造における根源的要素を意味していて、それに合わせてこちらが責任を持って対応していくことが求められることが分かります。

御霊の促しによって信仰を決断した体験を持っています。今でも御霊の呻きと執り成しをいただい ています。そしてさらに御霊の導きをいただくために心を整え静まることをします。それは御霊に 導かれる受動的な態度となります。それと同時に御霊に対してこちら側が自らを合わせていく姿勢が可能であることが分かります。ただ静かに待つだけでなく、神の創造と新創造の根源的要素として御霊を捉えていくことで、それに対応し適合することです。

神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊とは、たとえば、1コリント15章のキリストの復活の箇所で言われている「血肉のからだ」から変えられていく「御霊のからだ」のこと、それを支えるローマ書8章で言われている「罪と死の原理(律法)」から解放された「いのちを御霊の原理 (律法)」のことです。この新しい世界に対応して自分の生き方を変えていくことになります。

ストイケイアの動詞形ストイケオーが使われている他の三つの箇所もその「適合する」ことの意味 合いを明確にしてくれます。ガラテヤ書6章16節ではその前に「新しい創造」のことかが語られ、 その「基準に適合する」ことであり、ピリピ書3章16節でそれぞれ達したところがあって、その 「基準に適合する」ことになります。ローマ書4章12節はアブラハムの信仰の「足跡に適合する」 ことになります。すなわち、自分を適合させる対象があるのです。それに対しての責任ある姿勢が行き方となるのです。

この意味でガラテヤ書5章25節の「御霊に適合する」ことは、単なる知的な対応でも、また単なる神秘的な対応でもなく、神の創造と新創造の理にかなったあり方に対応していくことになります。 また単なる受動的な対応ではなく、神の霊の世界を聖書から思い巡らしながらその基準に適合して生きることになります。それゆえにさらに、聖霊による感情的な対応に対しても引け目を感じる必要はないのです。神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊の世界をしっかり見据えて対応していくことです。それは、「主の御霊のあるところには、自由もあります」(2コリント3:17)と言われている生き方でもあります。

上沼昌雄記

「神学と政治とは」2017年8月28日(月)

前回のハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から来ているという「現存在の外に」の記事に関して、秋田の友人から以下のようなレスポンスをいただきました。 許可をいただきそのまま載せます。<「外」にある真理を「内」に引き寄せると、自分を客観視する事ができなくなって、遂には、「私の話す言葉は、神の言葉である」と言うような牧師がでて来たり、所謂聖職者と言われている神学の大家が人を苦しめたり、殺戮を黙視したり、というような現実と繋がって来るのでしょうか。何となくわかるような気がします。>

それに対して<それは「何となくわかるような気がします」ではなく、まさにその通りです。私が回りくどく言っていることを見事に言い当ててくれました。>と返事を出しました。それに続いて思っていることをそのまま書きました。秋田の友人とは長い付き合いなので分かってくれると思いました。多少加筆訂正しましたが、以下の通りです。

<私は神学に長く関わって来ているのですが、いつも躊躇がありました。それはこちら側の都合の良い読み方でないかと思ってきたからです。言い方を変えると、自分の神学のためには聖書からどのようにも言えるのではないかと思ってきました。たとえばある教派の特質的な神学テーマの説明を読んで、こじつけと思うのですがそれなりに筋が遠ていることに驚きもしました。どの神学書を読んでも似たような感じを持ちました。それで誰かの神学に傾倒することができませんでした。

この辺は政治にも似ています。世界があり、人々の生活があり、それぞれの歴史があるのですが、それを自分の内に取り組んでイデオロギーを立てて人を煽動することに似ています。聖書があり、そこに神の歴史があり、神の民の物語があるのですが、それをこちら側の説明のために解釈をして取り込んでしまう神学と似ています。神学と政治の近さ、それは牧師と政治家のメンタル近さにも通じています。自分たちの都合の良いように筋立てができるのです。そのように話もできます。

そんなこともあって、神学専門なのですが、哲学を信仰と一緒にしないで、それぞれそれなりに学んできました。今回ハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から出ていると千葉教授から教えられ、逆に眼が開かれました。ルターによって外なるものが内側に閉じ込められて展開して、それが人間理解にもなっているのです。それはアウグスティヌスからきているとも言えます。その解明は神学だけをしていては決して見えないことです。一度神学の枠に入ってしまうとそれが神の世界になってしまい、絶対化してしまうからです。

私は神学をして来ていながら、神学の脱構築か、再構築のための反神学をして来たように思います。それがミニストリーの中心であったかも知れません。反神学であったので信仰を自分の内なる密かな決断として保つことができたのかも知れません。それでそれなりに自由に考えることができたのかも知れません。そんなことを思っています。ありがとうございます。>

このようなやり取りをしてから二つのことが気になっています。一つは、今回のやり取りの発端であったハイデガーの人間理解がどこかでナチスに加担することになってしまったこと、それは同時に当時のドイツの教会のことでもあったことです。まさに政治との関わりです。もう一つは、「反神学」というのは、哲学者の木田元に『反哲学入門』という本があって、それに合わせて使っているのですが、更なる説明が必要であろうという点です。今週は夏の終わりの熱風が入って来て集中して考えられないので、秋風の吹くのを待つことにします。残暑厳しい折、ご自愛ください。

上沼昌雄記