「哲学者と戦争」2007年1月24日(水)

神学モノローグ

   「聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。そうであるなら、聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか。」エマニュエル・レヴィナスが1961年に出した『全体性と超越』の序文の文章である。60年代の初めはヨーロッパも日本も戦後の復興を迎えたときであった。戦争のことはもう後に置いて前進をするときであった。そんなときに出されたレヴィナスの代表作の書き出しである。ナチスの捕虜として不思議にホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者の眼差しである。

「戦争においては、、、現実がその裸形の冷酷さにおいて迫ってくることになる。」「戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験というかたちで生起する。」捕虜収容所で、ホロコーストのあとに、レヴィナスは人間存在の裸形を見た。哲学の確かさも、神学の高貴さも、芸術の美しさも奪い取られ、引き裂かれてしまったあとの人間の裸形である。すべてが剥ぎ取られているという意味で「純粋な存在」である。哲学的な叡智も、神学的な観想も、芸術的な直感も戦争の暴力に飲み込まれてしまい、裸形がさらけだされた「純粋な経験」である。

戦争において示されてくるものは「全体性という概念である。」「西欧哲学はこの全体性の概念によって支配されている。」中世のトマスの神学であり、近世のヘーゲルの弁証法哲学である。そんな全体性がより強烈に出現することで西欧の精神は一気にそちらに流されてしまった。ナチスの全体性に善良な市民も、忠実な教会員も吸い込まれてしまった。大量虐殺の張本人とされたアイヒマンはよき家庭人であった。そのように西欧の哲学が長い間教え込み、洗脳してきた。

タルムード研究家として、哲学者としてのレヴィナスの視点はこの裸形から始まる。着飾った美しさではない。裸形の脆弱さ、醜さ、暗さである。存在の涙を受け止めることであり、存在の恐怖を聞き取ることである。存在の手前で疼いている傷を知ることである。哲学と神学で着飾ってしまう手前の裸形である。純粋な存在の純粋な経験である。存在の「夜」である。

「日本人の根底にあるドロドロとしたものを言葉で表現できたらば、私の日本プロテスタント史は終わる」と言われた大村晴雄先生のまさに日本プロテスタント史の授業の真剣さ、すごみを思い起こす。なぜ日本の教会が朝鮮半島の侵略に荷担するようなことをしてしまうのかを思想的に辿るものであった。歴史を語りながら「なぜ」に迫りきれないもどかしさが響いてくる。ご自身に対する叱責でもある。

長男が海軍兵学校に行くことになったことで、大村先生とは戦争の話しもよくする。日本軍部の責任の曖昧さ、私腹を肥やす上官、日本人の根底にあるドロドロしたものに対する直接的な経験を語ってくださった。お伺いするたびに息子がどのようにしているか聞いてこられる。イラク侵攻から無事に帰ってきたことも自分のことのように喜んでくださった。アメリカの軍隊のことを関心を持って聞いてこられる。彼がどのようなことを経験し、どのような視点を持っているのかに関心を持たれている。

レヴィナスの哲学は「存在の夜」への探求に誘ってくれる。レヴィナスの存在の夜であり、ヨーロッパの存在の夜である。しかし夜をしっかり捉えているだけ光を見る。アウシュビッツで亡くなったユダヤ人哲学者で修道女であったエディット・シュタインが省みられている。ユダヤ人として国籍を失ったためにアメリカに逃れたハンナ・アーレントの思想が脚光を帯びている。存在の夜を避けている日本は光が届いてこない。裸形が顔を出していながらなお覆われている。ドロドロした闇に包まれている。

 

上沼昌雄記

「村上春樹と戦争」2007年1月8日(月)

神学モノローグ

  年の初めの郵便物に日本から送られてきた2冊の本があった。ひとつは、小森陽一著『村上春樹論』(平凡社新書)であり、もうひとつは、岡山英雄・富岡幸一郎共著『キリスト者の戦争論』(地引網新書)である。それぞれ昨年の5月、8月に出された。知り合いの方が送ってくださった。数年前に日本でのプロミス・キーパーズでお会いし、昨年カリフォルニアで再会した。その折りに村上春樹の話になった。この方が日本に戻って小森氏の村上春樹の『海辺のカフカ』についての文学講演会を聞くことになって、今回本を送ってくださった。それと一緒にもうひとつの本もくださった。

たまたま『海辺のカフカ』のことについてあることで書いていたときであったので、小森氏の『村上春樹論』を関心を持って読んだ。小森氏は東大教授であり、日本文学者である。文芸批評としての『村上春樹論』の論の進め方には納得できないのであるが、その結論、小森氏の姿勢には同意する。『海辺のカフカ』は、15歳の少年が自分を捨てて出ていってしまった母を捜しに家を出ていく物語である。そんな物語に初めから戦争に関することが出てくる。15歳の少年の「癒し」の問題に戦争のことが出てくる。どうしてなのかと考えさせられる。村上春樹はそれは絶対に避けられないのだという。

小森氏は、しかし、戦争のことを出しながらもその責任を最後まで追及しないで放棄してしまっているという。責任を免責しているという。「処刑小説」であるという。最大の問題は、「侵略戦争の中心的な責任を担うはずの、昭和天皇ヒロヒトを自力で裁かないで放置した」(241,2頁)ことだと見る。この「小説の最も深層に隠された歴史の否認、歴史の否定、記憶の抹殺の問題がある」(206頁)と見る。すなわち、村上春樹の歴史観、戦争観に問題があるということになる。

村上春樹の本を興味を持ち、関心を持って読んでいる。『海辺のカフカ』で多くの人が「癒し」と、「救い」を感じたこともよく分かる。しかし何度も読んでいるうちに、必ずと言っていいほど戦争と大学紛争のことが出てくるので考えさせられる。『ねじまき鳥クロニクル』は、家を出ていってしまった妻を買い戻す物語である。その物語にモンゴルでのノモンハン事件のことが出てくる。そんな戦争のことを出さなくても小説としての意味が伝わった来ると短絡的に考えてしまう。しかし何度も出てきて、何度も読んでいるうちに、それぞれの問題の根が戦争にまで結びついていることを村上春樹が言いたいのだと分かる。あの戦争のおぞましき姿が、戦後隠されて闇のように私たちの心を捕らえていると見ている。それが大学紛争の時に膿のように出てきた。大ヒットした『ノールウェーの森』の背景になっている。

という村上春樹の視点、大村晴雄先生が言われる日本人の根底にドロドロとしたかたちで残っているもの、暗い闇として巣くっているもの、それは私のなかにも受け継がれているのだろうと、思いをはせることになった。あの戦争と大学紛争がどのような痕跡を残しているのか、終戦5ヶ月前に生まれ、戦後を生きてきた自分を探ることになった。いまアメリカで戦争を身近に感じている。ミニストリーで同じように戦争と大学紛争のことを話すことにしている。ある時に「大学紛争」といったらば、「私にとってはそれは大学闘争でした」と言ってくださった安田講堂攻防を経験している方がいる。戦時中少女としてレイプされたことを話してくださった年輩の女性がいる。心の深くにいまだに大きな傷を残している。大村先生は、日本人の根底にあるドロドロしたものを言葉で言い表せたら自分の日本プロテスタント史は終わるという。そのドロドロしたものは15歳の少年にも受け継がれている。

そんな思いでいたときにエマニュエル・レヴィナスの本に接することになった。フランス軍の兵士としてドイツの捕虜になったためにホロコーストを生き延びたユダヤ人哲学者である。リトアニアの家族、親族はほとんどナチスによって殺されてしまった。ハイデッガーの哲学に感銘を受けながらも、ハイデッガーがナチスに荷担することになったヨーロッパの哲学に隠れた全体性を暴くことになった。論理の体系を目指す哲学が、その体系を盾に力をもって支配してくる全体性である。その拘束を打ち破る「他者」を視点に入れる。「他者」の他者である「無限」を視点に入れる。代表作のひとつである『全体性と無限』(1961年)が語っている。このことを昨年の終戦記念日の8月15日付の神学モノローグで「戦争と哲学」としてまとめた。

ユダヤ人女性で哲学者でカルメル会の修道女としてアウシュビッツで亡くなったエディト・シュタイン、ハイデッガーと親しかったがのちにアメリカに渡り『全体主義の起源』(1951年)を出したユダヤ人女性、ハンナ・アーレント、ホロコーストは人間の本源を暴き出した。いまその本源からの哲学が始まっている。

そんなことで、村上春樹にとって戦争のことは避けられないように、私にとっても戦争のことは避けられない。戦争はいまも深い跡を残している。村上春樹はそれを鋭く感じている。それを小説としてしっかりと暗示している。少なくとも私はそのように捉えている。小森氏は免責してしまったという。歴史の否定であり、記憶の抹殺であるという。村上春樹は小説家として暗示をしている。少なくともそのように取れる。書いていないので昭和天皇の戦争責任を免責していることにはならない。暗示しながらしっかりと伝えている。そのことの危険を知っている。小森氏が「昭和天皇ヒロヒト」を呼んでその責任を追及しようとしていることに通じている。それは身の危険を覚悟してのことと思う。

その続きで『キリスト者の戦争論』を読んだときに、天皇の戦争責任に触れていないことに、多少異様な感じを受けた。靖国問題は言及されているが、その先に進んでいくべき論が、通り越してアメリカのキリスト教原理主義に向けられている。自分たちのなかのドロドロしたもの、闇のように受け継がれているもの、それがあのおぞましい戦争で明らかになり、それがいま地下の闇のように自分たちのなかにはびこっていることへの洞察がない。それがよそに向けられている。よそに向けられることで論を組み立てることができる。それは楽なことである。天皇の戦争責任を追及することは身を危険にさらすことである。

戦争論、非戦論を論法として論じることはできる。その論法が、レヴィナスが言うように、他を排除する力として威力を発してくる。それはメンタルな意味で戦争を容認することになる。レヴィナスは、ヨーロッパの哲学がそのようにナチスを容認してしまったと見ている。ホロコーストは西欧の精神を根底から問い直すことになった。私たちには、あの侵略戦争とその中心的な責任者の天皇の戦争責任を明確にする作業が科せられている。そうしない限り日本は闇に覆われたままである。ドロドロしたものから解放されない。しかしそれは、殉教者を生むことになる。

 

上沼昌雄記

「日本のクリスチャン人口が30%になったら」2007年1月4日(木)

ウイークリー瞑想

    巷で、仕事関係で、会合で出会う人の3人にひとりか、4人にひとりがクリスチャンです。社会全体が教会やクリスチャンを意識しています。国家にとって侮れない存在です。クリスチャンをマーケットにした市場は活気で満ちています。教会を街角の至る所で見ます。厳かな会堂、大きなホールのような会堂、広い駐車場をもち、学校も併設しています。様々の教派の会堂が建ち並んでいます。カトリックも、正教会も、聖公会も、基督教団も、ペンテコステも、バプテストも、長老派も、ブラザレンも共存しながら助け合っています。

クリスチャンはそれぞれの教派の伝統を大切にしています。それでも教派を越えた交流が社会の一面として重きをもっています。アメリカのような教派と移民を中心とした民族のアイデンティティーが結びついているわけでないので、教派間の交流は地域間の交流に置き換えられています。教派間の結婚も日常のことです。教会は地域に、家庭にとっての要です。教派間の対抗意識は許されないないのです。教会の社会性はいつも求められています。

クリスチャンをマーケットにした市場は経済の活性化に繋がっています。ゴスプル・ライターや、ゴスプル・シンガーは若者たちの心を捕らえています。ジーザス、ジーザスと叫びながら街角を踊っている若者を見ます。クリスチャンの非営利団体が多くの老人施設をもち、養護施設をもち、病院を経営しています。実業家は企業を興し、利潤をあげ、その多くを海外宣教に捧げています。トヨタやソニーに代わって日本からの宣教師の活動世界の注目を浴びています。

世界が、特にアジアの諸国が、日本が過去の戦争を、過去の侵略を、その責任を、慰安婦の問題を、賠償の問題を、誠心誠意取り上げ、謝罪したことを高く評価してます。国会議員の三分の一を占めるクリスチャンの血の滲むような努力でようやく過去をしっかり見つめ、清算することができたのです。アジア諸国における過去の傷を癒し、和解を生み出したのです。いまは戦争犠牲者の記念碑だけが建てられています。

日本のそのような姿勢を世界が歓迎しています。それだけ世界のなかでの責任が大きくなっています。世界の各地の紛争、国同士の戦争、人種間の争いに積極的に和解の道を見つけだそうと日本政府は努めています。日本は過去の経験を踏まえて平和を説くことができるのです。積極的に平和の特使を送っています。キリストの犠牲の意味が浸透しているのが分かります。日本は世界のために存在しているのです。世界に貢献しています。

日本を覆っていた闇から解放されています。新しい風が吹いています。靖国の森に吸い込まれるようなおぞましい感覚から解き放たれています。森の奥にも、林の影にも、夜の暗闇にも恐れを感じなくなりました。日本の自然が、日本人の心が大きく開かれています。人の意見に耳を傾け、世界の人の痛みを痛みとすることができます。経済の潤いを世界に還元しています。教会はいつも新しい感覚で人をリードしています。教会の動きを社会は注目しています。停滞は許されないのです。

それでも教会は問題を抱えています。クリスチャンはどのように進んでいったらよいのか迷っています。そんなことも避けられないこととして社会に取り上がられます。マスコミの話題にあり、社会のテーマになり、神学の問題になり、哲学の課題になるのです。日本人のメンタリティーが聖書の世界とどのような関わるのか真剣に取り上げられています。聖書をテーマにした日本の作家の小説がベストセラーになっています。

日本の霊的な解放のために闘った殉教者の墓があります。最上川の上流の山形のある小さな村の「シオンの丘」にそのような殉教者の墓があります。日本の戦争責任を説き、天皇の戦争責任を説いて政府から目の敵にされ、右翼によって殺されたいち信徒の墓です。その死は大きな波紋を起こし、同調者を起こし、日本全土に広がっていきました。同じようになんにもの人がそのためにいのちを失うことになりました。そのような死は、しかし、国民を動かし、政府を動かすことになりました。キリスト教の精神を人々が知ることになりました。その人たちの殉教の墓があちこちにあります。殉教者を覚えることが教会の習慣になっています。

 

上沼昌雄記