ウイークリー瞑想 「『平気でうそをつく人たち』という本」2017年2月23日(木)

昨年来メディアを通して耳にするニュースとそれに対する反応をそれなりに聞いて、この『平気でうそをつく人たち』という本のことを思い出します。1983年にアメリカで出版され、日本では1996年に翻訳出版されました。現在は文庫本にもなっています。この本のことを思い出させられるのは、気持ちの良いものではありません。平気でうそをつくことが当たり前の時代になってしまったかのようです。うそでも事実でもどちらでも良いのだというささやきまで聞こえます。

自分の非を認めることを絶対に拒否し、それを認めるなら死んだほうがましだと思い、その責任を他に転嫁することに関しては悪魔的な知恵を持っていると、著者のスコット・ペックは言います。しかもそのような人は身近にいるのだと、自身の精神科医としての経験から語ります。何と最後までひとりの患者にだまされたと言うことです。このような人は自己批判に耐えられないので、失敗したときには、敵を見つけ出し攻撃することで責任逃れをすると言います。

この邪悪性が悪の根源と見ています。その精神構造は怠惰とナルシズムです。自分の邪悪性を認めるよりもスケープゴートを探します。それが集団になったのがナチス・ドイツのことと言います。ホロコーストのあとにレヴィナスが「他者」を視点に哲学を始めたのが分かります。

千葉教授のローマ書研究は、類をみないほどの言語分析をしています。「ローマ書」が語っている言語の意味論的分析に終始しています。釈義を徹底しているだけで、適用は考えないで、テキストそのものに語らせていると言えます。そうすることで何となく抱いていた不明瞭さが除かれる面があります。

ローマ書7章は「私」が出てきます。ナルシズムのことかと思わせるのですが、その「私」のうちに住みつく罪を見つめるのです。怠惰ではできないことです。他人への責任転嫁どころか、自分の「内なる人」を避けないでじっと見つめます。7章は結婚における律法の役割を明確にすることで始まっています。すなわち、相手が生きている間は律法の権限が生きているが、キリストとともに死ぬことで律法から解放されている、それでもなお罪を認めないわけにいかないのです。その罪と律法との関わりで「私」はどうなっているのかと考えます。

7節と13節で、相手の論点に対して「絶対にそんなことはありません」という言い方で、二段構えで論が展開していると言います。「律法は罪なのか」、そうでないとすると「この良いものが死をもたらしたのか」に共に「否」をいうことで、実は「私」のなかに「神の律法」と「罪の律法」(21-25節)が共存していると認めるのです。律法は罪でない、しかし、「罪の律法」が私のうちにある、その現実を見つめているので「私は、本当にみじめな人間です」としか言えないのです。ナルシストどころでありません。怠惰ではできません。身を削るようなことです。

千葉教授はこの二段構えの論法において、後半が現在形であるに対して、前半が過去形で書かれていることに注目します。しかも律法と罪が擬人化されていることもあり、創世記3章の蛇の擬人化に対応し、「戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺く」(11節)ことになったと見ます。その蛇が欺いたように、私たちのうちに「神はほんとうに言ったのか」(創世記3:1)という「罪の律法を立てる」と見ています。

それは「異なった律法」(23節)で、認めたくないが、認めなければさらに自分を欺くことになります。そこには当然葛藤があります。8章での「うめき」です。しかしそれは御霊の内住によって「イエス・キリストの信」のゆえの「神の義」が少しでも御霊の実として結んでいくことになります。そのようにパウロが論法を展開していることを明確にしています。それゆえに当時のユダヤ思想にもギリシャ思想にも「ローマ書」は耐えうるものと見ています。

もしかすると3章22節における安易な信仰義認の理解が、その後のパウロの論法に従うことを不可能にしてしまって、一面的な信仰者の理想像で生きることに思いを向けさせてしまったのかも知れません。怠惰とナルシズムは、その意味では、私たちの中に住みついてしまったかのようです。これはアメリカの教会が直面している問題と言えそうです。かつてドイツの教会がそうであったように。

上沼昌雄記

広告

ウイークリー瞑想 「良くない思いに引き渡され」2017年2月2日(木

「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され」(ローマ書1章28節)は、その前に24節で「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」、26節で「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡され」に続いて言われている箇所です。おそらく前の二つの節に引きずられて「良くない思い」と道徳的な意味で解釈され、訳されているのだと思います。

千葉教授のローマ書の意味論的分析に接していて、多少その意味合いが飲み込めてきました。それは、そこで使われている言語の意味合いに沿って意味を捉えていくことのようです。その具体的な例がこの「良くない思い」の理解に見ることが出来ます。なるべく文字通りに「叡知の機能不全」と訳されて、その意味を明確にしようとされています。それで「良くない思い」と「叡知の機能不全」では同じ原語の訳語としては意味合いが異なっているので、どうしてこれほど違ってくるのか、それなりの格闘をすることになりました。

ひとつ分かったことは、この「良くない思い」のまえに、 「彼らが神を知ろうとしたがらないので」とあるのですが、 「知識において神を持つことを識別しなかったほどに」と文字通りに訳すことができ、この「識別しなかった」の形容詞形がそのまま「良くない思い」に使われていることが分かりました。それで「識別に至らない叡知」「識別しえない叡知」ととることができることです。

「思い」「叡知」と訳される「ヌース」は、新改訳聖書では、「心」「知性」とも訳されています。このヌースは「識別する」という機能と並行して使われています。「心(ヌース)の一新によって自分を変えなさい」(12:2)でもそのまえで、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために」とあって、その「わきまえ知る」「識別する」ためのヌースの一新になるのです。単なる感情・感覚の場としての心ではなく、責任を持って識別していく機能のことを述べていることが分かります。

「弁解の余地はないのです」(1:20,2:1)という宣言がその前後に使われています。特にその前の使われ方ではさらに神から与えられたヌースの責任を述べています。神の見えない本性、永遠の力と神性は創造の時から「被造物によって知られ」と一般的に書いてあるのですが、その「知られ」には千葉訳のように「叡知において知られ」と、その意味合いが明確にされています。それはおそらく、神に造られた人すべてが心のどこかに神のことを識別するヌースが与えられているのにもかかわらず、それを行使しない責任が問われているのです。「彼らには」とあえて三人称で言われているのは意味論的に、まさに「弁解の余地のない」ほどに誰にも問われているからです。

ローマ書1章の後半を読むときにどうしても道徳的な意味合いだけでとってしまいます。道徳的に自分を整えることだけが主眼になります。しかし、その前に神に関する認知的な意味合いが語られていて、しかもそれはすべてに人に問われていて、その責任を行使しない人には神の怒りが、神の義の現れとして啓示されていることが分かります。弁解の余地のないほどに明らかだとパウロは宣言しているのです。それが神のことを識別しない人類の歴史だからです。

そのように読むと今度は、3章21節以下で、神の義の啓示がイエス・キリストの信・信実を通して直接に語られていて、それがもう一つの神の歴史であることが浮かび上がってきます。1章の後半からは神に背いたイスラエルの歴史が全人類の歴史として語られていて、3章21節以降から回復の歴史が「すべて信じる人」の歴史として展開しているようです。千葉教授が主張されるローマ書の意味論的分析が、神の啓示の歴史理解をより明確にしてくます。その歴史理解の上で神の子としての責任が、なおこの変動の時代に問われてきます。日々現実的になってきています。

上沼昌雄記

追伸:この北大の千葉恵教授が、2月14,15日(火、水)と、札幌郊外の石狩にあるCFNJ聖書学院(鍛冶川利文校長)で「パウロ『ローマ書』における信仰義認と予定論」という講義をもってくださいます。関心のある方は学院に直接問い合わせください。(〒061-3216石狩市花川北6条5丁目157 電話:0133-74-1341)