「魂の根源的態勢としての信」2020年6月17日(水)

「信の哲学」は、私たちがキリスト教信仰として、特別な心的状態として捉えているピスティス(信、信仰)を、すべての人の魂の根源的あり方として捉えていることに特徴があります。その意味で 「哲学」なのです。その例証として、アリストテレスの魂の根源的態勢の理解とパウロの心魂論(霊肉論)の相違関係に注目するのです。それは、2千年のキリスト教で誰もしてこなかった知的冒険でもあります。

興味深いのは、「アリストテレスは善き生を成功した視点から実践知・賢慮により構成されると主張するに対して、パウロは信によると主張する」と指摘されていて、パウロの場合には「アリストテレスに見られない魂の分節としての『肉』や『霊』の部位」(『信の哲学』上巻348頁)が取り上げられていると言うのです。すなわち、哲学では魂を理想的な完成像として見ようとしているのに対して、パウロは魂を揺るがし、また助けをもたらす「肉」と「霊」を見逃していないことです。人間に対してのパウロの現実的な視点です。

実は、テキスト『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』において、、アリストテレスを取り上げている2章から、パウロのことを取り上げている3章と4章への移行は、自分の中では不明確であったので、もう一度2章を読み直しながら、パウロへの結びつきを考えてきました。その内容はなかなか文章化できないのですが、納得する面は多くあります。もしかすると、私自身の「魂の根源的態勢としての信」の機能に、今の情勢に対して、納得できる面があるからかも知れません。

今回の新型コロナウイリスは、全人類的な課題として突きつけられました。誰も逃れられないのです。免疫学とその対策に関しては世界をリードしていると思われたアメリカで、最大の感染者と死亡者を出しています。その中でどのように対処するのが良いのか、すなわち、誰も教えてくれないので、自分でアンテナを張り巡りして情報を得て、自分なりに判断することになりました。

すでに何度か書いてきたのですが、州としては最大の感染者と死亡者を出すことになったニューヨーク州クオモ知事の会見は、毎日の統計をグラフで示し、それに沿って対応を明確に提示していくのです。それに加えて、感染対策の専門家のファウチ医師の説明も明確で、素人でも納得できるものでした。すでに3か月以上経っているのですが、振り返って、それは多分私の中の 「魂の根源的態勢としての信」が、説明を聞きながら、その内容に納得でき、さらに、説明してくれている人にも、この人は信頼できるという促しが働いたのだと思います。現実に、ニューヨーク州は感染者と死亡者が未だに減少している状態です。

さらにこの困難の中で、ご存じのように、アメリカでの人種差別の問題が再熱しました。当初は分かりきれなかったのですが、娘が100年前のミネソタ州デルースという小さな町でのリンチ(私刑)事件の記事を書いて、3人の黒人が無実の罪で白人の暴徒によって殺されるという事件があったことを知りました。そのようなリンチ事件は、南部では結構あったようですが、北部の町で起こったことで衝撃的であったようです。100年経って、同じミネソタ州のミネアポリスでの今回の事件に対する背景があったことを知りました。

それで、このアメリカでの人種間の 「不信」の深刻さは、図りがたいものであることが分かりました。どのように信頼感を回復できるのか、アメリカが想像以上の課題を抱えていることを知りました。指導者の役割は大きいのですが、それは同時に、アメリカの教会に課せられた神からの責任のように思います。自分の「信仰」、自分たちの 「信仰」で満足しているわけにはいかないのです。

信仰、信頼、真実、信実、誠実と訳されるピスティスは、例えば、夫婦関係や家族関係にとっての根本的なあり方です。そこが崩れたら、人格的な破壊をもたらします。「信の哲学」は、そのために神の真実・ピスティスがあり、イエス・キリストの信実・ピスティスがあることを、ローマ書から解き明かし、それを基盤に人類の生き方を提示しています。特に、「肉」 と 「霊」の 「内なる人」である魂の関わりを捉えている7章と8章の意味論的分析と、その分析を施している「信の哲学」の提唱者にも、私の 「魂の根源的態勢としての信」が相応しているのです。

上沼昌雄記

「『種の起源』を読みながら」2020年6月2日(火)

前回の「科学と信仰」で紹介した『ゲノムと聖書』の著者であるフランシス・コリンズ医師に刺激されたところもあるのですが、ダーヴィンの『種の起源』を読み出しています。光文社版の文庫本を数年前に日本で手に入れていました。その時にある集会で話をしたのですが、その主催者で、科学関係の博士号を二つ持っていてその面で活躍されてから、牧師になられた方が、「科学と信仰」のテーマになったときに、進化論を攻撃するか否定する牧師でダーヴィンの『種の起源』を読んだっことのある人はほとんどいない言われ、刺激されて購入したのでした。

比較できないのですが、光文社版は読みやすく、何よりもダーヴィンが自然をしっかりと観察して、その有り様をそのまま語っていて、むしろ楽しみながら記述しているように思い、引き込まれるところがあります。同時に、あの古代の哲学者であるアリストテレスにも『自然学』という書物があって、自然の成り行きを観察して、ある意味でそのまま記述しているところがあります。その観察の姿勢は 「魂」の世界にまで及んでいるのです。アリストテレスは紀元前350年頃に、ダーヴィンは1950年頃に、その間二千年以上かけ離れていながら、それぞれ自然をじっくり観察して、書き記している姿が浮かんできます。

そんなことを感じながら読んでいるのですが、もう一つ思わされるというか、気温が上がってきて自然との関わりで対面させられていることがあります。幸い自然に囲まれているので、植物だけでなく動物とも共存しているところがあります。鹿とリスは我が物顔で自分の住処のようにしています。それは良いのですが、結構悩まされるのが蟻の侵入です。気温が上がってくるのに合わせるように、どこからか蟻が家に入ってきます。いろいろな対策をするのですが、それをすり抜けるように入ってきます。以前には羽アリが居間の窓の上から侵入してきてて、悩まされました。

今回は洗面所の壁の上の、屋根との隙間から入って来るのか、すでにそこに巣を作っていて、温かくなって卵からふ化してからか、洗面台の上の壁に出現しだしたのです。壁の上面の一部が黒くなるほど出てきて、何かを探っているかのようなのです。その時に洗面台近くに下りてきた蟻を一匹でも捕まえると、ほとんどその瞬間に、その上一面の蟻が動き出して、あるものはその上の隙間に隠れ出すのです。あっという間のことです。次のこちらの動きを探っているかのようでもあります。

大分前になりますが、以前にこの欄で、 「三匹の蟻」という記事を書いたことがあります。三匹の蟻が、洗面所に出てきて見守っていたのですが、どこかで連絡し合って、ともに安全であると分かってから引き上げていったのです。蟻たちはどのようにコミュニケーションをしているのか不思議に思いました。今回もこれだけの蟻がほとんど瞬間的にどのように連絡し合えるのか、感心するばかりでした。一匹の蟻がいなくなったことで、周りの蟻が気づいて、何かのシグナルを送って、早く隠れろと伝えているかのようです。自分に科学的なセンスがあれば、そのコミュニケーションのシステムを探ることになるのでしょうが、ただ感心しているばかりです。

以前羽アリ時にもしたのですが、外からその屋根と壁の隙間と思えるところに薬をスプレーで繰り返し吹きかけて様子を見ています。かなり効果があるようなのですが、完全ではありません。蟻との対面はこれからも続きそうです。

それにしても自然をしっかりと見つめることは、信仰の世界を同じように見つめることを助けてくれそうです。「私の信仰(ピスティス)」の前に、「神の真実(ピスティス)」と「イエス・キリストの信(ピスティス)」が神の啓示として提示されていて、その創造と救済の世界をじっくりと観察することができるからです。

それは翻って、もう一つの自然の動きである新型コロナウイリスの動きを観察する中でも、神の啓示のあり方を観察することになるのだろうと、この時期に思わされています。「科学と信仰」のテーマはこのことが発端だからです。

上沼昌雄記