イルミネーションを施して真冬の夜空に家を飾って見る者を楽しくしてくれるクリスマスのシーズンなのですが、今年はもしかすると私たちの近隣だけなのかも知れませんが、何とも静かすぎると思うほどその光景が見られません。夜ドライブをしながらそんな光景をいつもは楽しんできたのですが、今年は所々で思い出したようにイルミネーションを施した家に出合うだけです。
今月の初めに義弟の結婚式がサンディエゴであって、それが終わってロス郊外の母の家に二晩滞在しました。その近辺は家や木々を飾り付けるクリスマス・デコレーシャンをこの季節の一大行事のようにしています。毎年のように変わらない情景を見ることができ、クリスマスのシーズンの到来を感じました。そして自分の家に二ヶ月半ぶりに帰ってきて、いつもと同じようなクリスマスの光景が見られるものと思っていたのですが、もちろんロス郊外に比べたら家は点在しているだけなのですが、真っ暗な夜空のままのようでした。クリスマスが近づけばもっと飾り付けが出てくるのだろうと思っていたのですが、ほとんどそのままです。
妻とどうしてなのだろうと話し合っているのですが、行き先の分からない時勢を反映しているのか、あるいは、私たちも含めて住民が歳を取ってきて飾り付けが出来なくなってきたからなのかと想像しています。私たちも現時点では何の飾り付けもしていないので何も言えないのですが、勝手な理由と言えばその通りなのですが、この国とこの世界がこれからどのようになるのかを思うと、喜んで飾り付けをする気持ちにならないところがあります。近隣の人たちも同じような思いでいるのだろうかと勝手に想像しています。
しかし考えてみれば、これで大丈夫だという時代はそんなにもなかったのかも知れません。硫黄島の戦いの終わりの頃に故郷前橋で生を受け、5ヶ月後の空襲でも生き延び、それ以来70年以来生き続けています。この30年近くはアメリカでの生活になり、子どもが戦地に行く体験もしました。政教分離の国ですが、現実には教会と政治とが深く関わっていることを身近に感じます。またサイバー攻撃でよその国の動きにまで介入するようなことが起こってきています。
よく考えてみれば、イエスがこの世に生を受けたときも、それからも世界はこれで安泰と言うことがありませんでした。それでも羊飼いに現れた御使いとともに天の軍勢が「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美をしています。
その御子の受肉を、西洋の教会は救い主の誕生ということで、誕生日のお祝いとして迎えるのですが、東方の教会は、御子をこの世に遣わさなければならなかった神のみ思いを思って静かに迎えます。神から見て人の世にはいつも悲しみと苦しみが伴っています。為政者は権力にしがみつき、民は苦しみ続けます。そんな人の世を神はよくご存じで、悲しみをもって御子を世に遣わされました。十字架上のキリストを上からご覧になっています。そんな素描を観たことがあります。静かすぎると思えるこのクリスマスは、神がこの世をどのようにご覧になっているかに思いを馳せる時なのでしょう。
上沼昌雄記
Masao Uenuma, Th.D.
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