「静か過ぎるクリスマス?」2016年12月19日(月)

イルミネーションを施して真冬の夜空に家を飾って見る者を楽しくしてくれるクリスマスのシーズンなのですが、今年はもしかすると私たちの近隣だけなのかも知れませんが、何とも静かすぎると思うほどその光景が見られません。夜ドライブをしながらそんな光景をいつもは楽しんできたのですが、今年は所々で思い出したようにイルミネーションを施した家に出合うだけです。

今月の初めに義弟の結婚式がサンディエゴであって、それが終わってロス郊外の母の家に二晩滞在しました。その近辺は家や木々を飾り付けるクリスマス・デコレーシャンをこの季節の一大行事のようにしています。毎年のように変わらない情景を見ることができ、クリスマスのシーズンの到来を感じました。そして自分の家に二ヶ月半ぶりに帰ってきて、いつもと同じようなクリスマスの光景が見られるものと思っていたのですが、もちろんロス郊外に比べたら家は点在しているだけなのですが、真っ暗な夜空のままのようでした。クリスマスが近づけばもっと飾り付けが出てくるのだろうと思っていたのですが、ほとんどそのままです。

妻とどうしてなのだろうと話し合っているのですが、行き先の分からない時勢を反映しているのか、あるいは、私たちも含めて住民が歳を取ってきて飾り付けが出来なくなってきたからなのかと想像しています。私たちも現時点では何の飾り付けもしていないので何も言えないのですが、勝手な理由と言えばその通りなのですが、この国とこの世界がこれからどのようになるのかを思うと、喜んで飾り付けをする気持ちにならないところがあります。近隣の人たちも同じような思いでいるのだろうかと勝手に想像しています。

しかし考えてみれば、これで大丈夫だという時代はそんなにもなかったのかも知れません。硫黄島の戦いの終わりの頃に故郷前橋で生を受け、5ヶ月後の空襲でも生き延び、それ以来70年以来生き続けています。この30年近くはアメリカでの生活になり、子どもが戦地に行く体験もしました。政教分離の国ですが、現実には教会と政治とが深く関わっていることを身近に感じます。またサイバー攻撃でよその国の動きにまで介入するようなことが起こってきています。

よく考えてみれば、イエスがこの世に生を受けたときも、それからも世界はこれで安泰と言うことがありませんでした。それでも羊飼いに現れた御使いとともに天の軍勢が「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美をしています。

その御子の受肉を、西洋の教会は救い主の誕生ということで、誕生日のお祝いとして迎えるのですが、東方の教会は、御子をこの世に遣わさなければならなかった神のみ思いを思って静かに迎えます。神から見て人の世にはいつも悲しみと苦しみが伴っています。為政者は権力にしがみつき、民は苦しみ続けます。そんな人の世を神はよくご存じで、悲しみをもって御子を世に遣わされました。十字架上のキリストを上からご覧になっています。そんな素描を観たことがあります。静かすぎると思えるこのクリスマスは、神がこの世をどのようにご覧になっているかに思いを馳せる時なのでしょう。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

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「イエス・キリストの信による」2016年12月12日(月)

今回札幌滞在の折り、北大の哲学科の研究室に千葉恵先生をお訪ねしました。札幌に行くたびにお邪魔だと思うのですがお伺いしています。今回は出版のために今までの研究をまとめられた原稿が出来上がっていて見せてくださいました。今まで大学の紀要などで書かれてきたものの総集編です。その紀要の抜粋をいくつかいただいて読んできました。しかしまとめたものは本になると1500頁なるという大著です。

タイトルは『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か』なのですが、中心的にはローマ書3章21節から30節までの解釈のことで、特に22節の「イエス・キリストの信による」の捉え方によっているといえそうです。千葉恵先生は無教会の熱心な指導者なのですが、哲学者としてアリストテレス研究からローマ書研究へと展開しています。

実は2年前に北大のクラーク聖書研究会の50周年記念講演で、当時N.T.ライトの翻訳をしていたこともあって、そのローマ書3章22節の従来「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と対格として訳されているところを、「イエス・キリストの信仰」と主格に取ることがこの30年来欧米の聖書学者の間で受け入れられていると紹介しました。顧問をしてくださっている千葉先生が私のところに来てくださって、それこそご自分の研究テーマだと言ってくださったことがことの始まりでした。

千葉先生は、その属格の「の」は対格でも主格でもなく「帰属の属格」であって、キリストに本来属しているものであり、しかも「イエス・キリスト」という称号は行為主体には用いられていないと、熱く語ってくださいました。それ以外のことも語ってくださったのですが、うまく飲み込めなかったので、それ以来日本に行き札幌に行くたびに研究室に先生を訪ね、紀要の抜粋をいただき、先生の研究のおこぼれをいただいてきました。

先生が「帰属の属格」を取られているもう一つのポイントは、その「イエス・キリストの信・真実」と「神の義」には分離がないことだと言います。従来信じる者の間に「何の差別もありません」という箇所は、神の義とイエス・キリストの信・真実には「分離はありません」と取るべきで、23節以下はその説明をしていると説きます。革新的な理解です。

この二つの箇所の誤訳と誤解のゆえにそれ以来の2千年のキリスト教会は、ペラギウス論争、カトリックとプロテスタントと混乱を来し、争いをしてきたと言います。確かに従来の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」であると、神の義は私たちの信仰によるかのようになるし、実際に聖書理解にしても、牧会にしても神の義をいただくためにこちらの信仰心を整えることに汲々としてきました。結局は人間中心の信仰なのです。多分信仰義認の問題点はこの点にあるのでしょう。N.T.ライトが信仰義認だけであれば結局はme and my salvationになってしまうということに当てはまります。

神の義は神の側のことで、そこにイエス・キリストの信・真実が含まれていて、そのことを信じる者が義とされるのです。キリストの信と私たちの信仰とは異なった次元なのです。「信の二相」と千葉先生は呼んでいます。その信を「人間であることの全体の分析として普遍的次元において提示しうるか」に「信の哲学」がかかっているようです。

「信の哲学」のケース・スタディーのように千葉先生はアンセルムスのCur Deus Homoを取り上げます。そしてさらに何とも興味深いのですが、あのハイデガーの『存在と時間』をパウロのローマ書のルター主義的理解として説き明かしていることです。非本来性と本来性という実存理解がルターのパウロ理解からきているというのです。北大でハイデガーを囓っていた時のことを思い出します。

さらに私たちに突きつけられているのは、来年には出て来るといわれている新改訳と新共同訳の新しい訳で「イエス・キリストの信」がどのように訳されているかです。従来のままの対格であれば、結局は私たちの信仰心のことに焦点が向いてしまい、また信仰心の確立のための聖書理解に終わってしまいます。それは堂々巡りの出口のない信仰なのです。

信仰をいただいて北大には行って哲学を専攻し、今度はその北大で千葉恵先生を通して信仰と哲学のテーマを再確認する機会をいただいています。何という導きなのでしょう。先生は本の原稿のコピーを持って帰るように勧めてくれました。2冊になっていていただいて良いのか躊躇したのですが、本になるまでは待てないのでいただいてきました。千葉先生の40年の苦闘とその成果を申し訳ないことに味わっています。また齧り付いています。

上沼昌雄記

追記:今回の記事に関して千葉恵先生より発信の許可をいただきました。その折りに次のコメントをいただきました。「簡にして要を得たご文章に先生が長くこの問題を考えてこられたことに思いをはせました。」同時にその意味合いを先生の原稿を読みながら考えています。神学の視点が先生の「信の哲学」と深く関わっているように思えるからです。なお関心のある方は以下のところで先生の論文のいくつかを読むことができます。上沼http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/chiba/neuCHIBApub.htm

Masao Uenuma, Th.D.
muenuma@earthlink.net
masaouenuma@yahoo.co.jp

「『わが家』をはなれて」2016年12月7日(水)

昨日2ヶ月以上にわたる旅を終えて家に戻ってきました。「我が家に」という挨拶文を送りました。家もようやく温まり、しばらくぶりで自分のベッドに寝ることが出来ました。次の旅の準備をする必要がありません。しばらくはすべてをそのままにしても支障がありません。それだけでなく慣れ親しんだ家のまわりの風景と、ごちゃごちゃした自分の机にただホッとします。家に帰ってきた実感が湧いてきます。

今回義弟の結婚式のためにシカゴからサンディエゴにドライブをしたときに、ニューメキシコ州とアリゾナ州を横切りました。ロッキー山脈の南側を横切ることになったのですが、山脈のまわりは砂漠地帯ともいえる荒涼とした地域です。この地に、「マラーノ」と呼ばれた隠れユダヤ人が、1492年のスペインでのカトリックによる異端審問に追われて、ラテン・アメリカに移り住み、さらに追われてアメリカのこの地に移り住んだ歴史を思い出しました。ドライブをしながら妻に説明をしたことでした。

「我が家に」とホッと出来るのですが、その「わが家」を持たないユダヤ人のことを思い、もしそれが神の選んだ神の民の生き方であるとすると、全く異なった世界観と生き方がそこに展開することになるのだろうと、ゆっくりと目をさましながら思い巡らしました。今朝も荷物をたたんで出かける用意をしなければならないのです。もし次の旅先が分かっていなかったら、準備どころでなくなります。今回は私たちの動きに合わせて次女の泉が次の宿を確保してくれたので安心してドライブが出来ました。

ホロコーストの生き残りでユダヤ人哲学者であるレヴィナスが、この「わが家」を出て約束の地に向かって旅をする神の民の生き方を哲学のテーマとしています。ギリシャ神話のオデュッセウスの旅は「我が家に」に戻り、自分の住処を確保し堅固にすることが目的であったのに対して、アブラハムに始まる旅はいつも外部にさらけ出され、隠れることの出来ないものなのです。西洋のキリスト教を含めての思想は、自分たちの安全な港を見つけそれを強固にすることに汲々としています。残念ながら教会も自分たちの義を建て守るために汲々としています。

しばらくぶりにレヴィナスの主著『全体性と無限』上(岩波文庫)の本文の最初の段落(38頁)を紐解きました。「『わが家』をはなれて」約束に地を目指して出ていくことが「形而上学的渇望」と言い切ります。「我が家に」とどまることは、自分の義を確立することになり、他者を排除することになり、結局は逆説的なのですが、「ほんとうの生活が欠けている」ことになると言うのです。確かに人生の真の満足は自分のなかにとどまっていたら得ることが出来ません。逆に不満だけが出てきます。

それは新約聖書でイエスが言い、行ったことであり、私たちにも勧められていることです。N.T.ライトもアブラハムへの祝福はアブラハムのためではなく、子孫とすべての民のためであるとして強調していることです。西洋のキリスト教が信仰義認にしてもあまりにも自己中心になっている事への反省と警告なのです。「自国第一主義」が当然のような風潮になっていますが、それはある政治家だけのことではなく、西洋のキリスト教の体質になっています。

この歳になって旅を続けるのは必ずしも楽なことではありません。それでも旅人としての歩みはやめることが出来ません。なぜなら神の祝福を自分のところに留めておくことはできないからです。自分を通して少しでも神の祝福が他の人に届いていくことが旅人の歩みだからです。旅を終えてそんな神の民の旅人としての歩みを考えています。その旅人の生き方を哲学している存在に何もと励まされています。

上沼昌雄記