「どうしても気になるニーチェのこと」2023年6月26日(月)

 前回ビデオ撮りを契機に、信の哲学によるローマ書3章22節を中心としたテキストの「ギリシャ語文法」による読みについて書きました。提唱者の千葉惠先生ご自身が信仰者でありなあら、この箇所の解明のためにアリストテレス研究に向かわれ、「ギリシャ語読みの信仰」として、「神の義」と「イエス・キリストの信」の間には「分離のない」ことを解明されたことに触れました。

 そのことを書きながら、あのニーチャが24歳で古典文献学の教授になっていた事が頭に浮かんできて、そのことがニーチェのキリスト教批判とどのように関わるのか確認したくなりました。すでにご存知にように、ニーチェに関しては、この欄でも結構書いてきました。長めの記事として「ニーチェとキリスト教ーニーチェはキリスト教が好きなのか、嫌いなのか」として、HPに載せてきました。

 実はHPのサイト管理の欄で、どの記事がよく読まれているのかの項目があります。ほとんど毎回のようにそのトップにこの記事が出てくるのです。聖書箇所や信仰による瞑想を載せているのですが、どう言う訳か、このニーチェに関する記事がコンスタントに読まれているのです。まさにどのような意味で、ニーチェがキリスト教を批判しているのか、人ごとではないのです。

 そこで書いたのですが、ニーチェのキリスト教批判は神学者に向けられています。<理念・理想の世界を追求しているがそれは「傲慢という神学者本能」(反キリスト8)であって、「万事に対してゆがんでおり、不誠実」で「癒しがたい虚偽の姿」(同9)と言って憚らない。> 神学を試みているものとして全面的に否定できない現実です。論理を操り、詭弁を弄してしまうのです。そして、ニーチェのもうひとつの神学者に対する批判があリます。<神学者のいま一つの標識は彼らの文献学への無能力である。>(同52)

 ニーチェは、ルター派の牧師家庭で育っています。ローマ書3章22節から導き出された「信仰のみ」の姿勢が、「イエス・キリストの信」と入れ替わって理解されしまった為に、信仰体験が神の義の前提のようになってしまったのです。その歪みをニーチェは批判しているのです。ニーチェ自身が、文献学者として、ルター派のローマ書3章22節の読みの不正確さに気づいた訳ではないのでしょうが、神学者の不誠実さにはついていけなかったのです。

 「キリスト教は民衆のためのプラトニズムである」とニーチェは観ているのですが、人としての信仰体験と神の義の間のずれは、人間の側からへ決して埋める事はできないのです。しかし同時にそこに生じる恨み、嫉妬、反感をよしとします。その感情であるルサンチマンとは「憤慨、怒り、敵意、恨み」を訳される英語の resentment のことで、キリスト教はこの感性を宥めるための宗教に過ぎないと観ています。

 この辺の事は、先の小論文でそれなりに触れていますので、HPで確認していただければ幸いです。ただこのような視点での当時支配的であったプラトニズム化されたキリスト教批判の背景に、やはりニーチェが若くし身につけた古典文献学の視点が生きていたのかなと想像します。

 ビデオ撮りのためのスクリプトでも触れたのですが、ローマ書3章22節前後の理解の不明さをもたらしているのが、「イエス・キリストの信」より、イエス・キリストを信じる「私たちの信仰」が優先しているためで、その信仰体験による神学的理解が初めからテキスト理解に入り込んでいるからです。このテキスト読みのために信の哲学者がアリストテレス研究に向かわれたことで、テキストがテキストとして浮かび上がってきたのです。

 今は、ローマ書3章22節を中心としたギリシャ語テキスト読みの仕切り直しに入っています。そして、そのことでニーチェのことがどうしても気になるのです。

 上沼昌雄記

「ギリシャ語文法によるローマ書3章22節」2023年6月22日(木)

 昨日ビデオ撮りが無事に終わった報告をすでに何人かの方にお送りいたしました。印象に残ったこととして以下の文章を添えました。「私のビデオ撮りは、その下書きであるスクリプトに従って、千葉先生によるローマ書3章22節のギリシャ語テキストの読みのことに触れたました。ビデオ撮りのピーターさんもクリスチャンで、本棚に新約聖書のギリシャ語テキストを置いておいたのですが、関心を持って、私がその箇所を開いて読んでいるところを別ビデオで撮ってくれました。もしかするとどこかにに載せるのかもしれません。楽しみでもあります。」

 「千葉先生によるローマ書3章22節のギリシャ語のテキストの読みのこと」とは、千葉先生に最初にお会いした時の会話で、私がその前の講演でその箇所の「イエス・キリストの信仰による」という聖書解釈に触れた事に対しての反応として、あえて「ギリシャ語文法」に即して解説されたことを、スクリプトの制作を助けてくれたルイーズも分かって、そのような言い回しとなったのです。ピーターさんもそのことに反応されたのでしょう。昨晩もそのことを家族で振り返りました。

 同時に千葉先生の提唱されている「信の哲学」はまさに、アリストテレス研究者としてのギリシャ語読みが背後にあって、パウロのローマ書に接していることを再確認しています。すでに千葉先生ご自身がそのことに触れておられることも思い出しました。「ギリシャ語読みの信仰ーアリストテレスとパウロ」という2008年の講演記録があります。

 実は2014年に最初に千葉先生にお会いして以来、そのローマ書そのものの理解の「ギリシャ語文法」に即しての解明に驚かされてきたのですが、その「ギリシャ語文法」による人間と自然の解明を心がけたアリストテレスの世界にはなかなか入れなかったのです。それで2年ほど前に意を決して『信の哲学』に沿って「パウロとアリストテレス」というテーマで文章を書いて千葉先生に見ていただきました。なんとか千葉先生の背後でのアリストテレス研究の意義を納得できたように思いました。

 そのような視点を端的に言い表している文章があります。「アリストテレスはその点、とても率直に人間を分析する」という表現です。「その点」というのは、プラトンのようにイデアの世界に逃れて、理想的な在り方だけを求めているのではなくて、現実の人間と世界を観察して、その有り様を描いているのです。特にプラトン的な二元論の影響下での聖書理解とキリスト教世界観に対して、現実的な世界観としてパウロとアリストテレスの共約性を観ているのです。

 それでも、アリストテレスには罪と悪の問題の解決がないので、結局は人間の理想的なあり方の記述で終わってしまうのですが、パウロはこの点、罪の問題と肉のあり方を避けないで探究し記述していると言うのです。なぜなら、イエス・キリストの信のゆえに神の義が全ての人に啓示されているからです。ローマ書3章22節の文法構造が明確にしていることです。

 昨日のビデオ撮りのスクリプトであえてローマ書3章22節の「ギリシャ語文法」と言う表現を使ったことで、撮影担当者のピーターさんが反応を示され、信の哲学のローマ書の意味論的分析の意義を再確認することに導かれました。それはすでに身に付けてしまっている神学的解釈の枠を揺さぶることになるのですが、ローマ書に基づく福音理解のためには避けることのできなことを、ビデオ撮りを終わってさらに思わされているのです。

 上沼昌雄記