「パウロにとって受肉は」2018年12月17日(月)

「ことばは人 [直訳「肉」] となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ福音書の受肉についての宣言です(1:14)。ことばがストレートに肉となったというこの現実を「ギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」説得的にローマ書で説明しているパウロは、しかしこの「肉の弱さ」のゆえに律法が果たし得なかったことがあると認めて、神による御子の「受肉」を8章3節で語っています。

その「肉の弱さと受肉」ということで昨年のクリスマスメッセージとして2017年12月18日(月)付けで取り上げました。肉は神の創造により良いものとして、すなわち中立的なものとして造られていながら、罪の攻撃の対象になり、罪が寄生し住み着いてしまいました。それゆえに律法が果たし得なかったこととして「受肉」が神の業として必要でした。

「肉」のテーマには「罪」と「律法」が絡んできます。そのことを7章までで知恵によって説得的に説明をしてきて、この8章3節で御子の受肉を文字通りには千葉訳によれば「罪の肉の似様性において遣わすことによって」と微妙で考え抜かれた表現が用いられています。すなわち、「罪の肉の」と属格が二つの続いているのです。英訳はほとんどsinful fleshとしており、おそらく邦訳もそれに倣って「罪深い肉」と形容詞と訳しています。この場合には肉が初めから罪であるような意味合いを持ってしまいます。

パウロは「罪」が「肉」をターゲットして攻撃し、巧みに住み着いてしまった現実を見抜いています。そこに「律法」が絡んで来て、どうにもならない自分の惨めさを直視してきました。ここでのパウロの人間論は「ギリシャ人にも」とあるのですが、当時の哲学的論証にも耐えうるものと言えます。「罪の肉」では律法を全うすることは叶わないことを熟知している上で、神は御子をその「罪の肉」で遣わされたのですが、そのままでは罪のないイエスと矛盾することになります。それで「罪の肉の似様性において」とその違いを言い表しています。また単なる「肉の似様性」でもないのです。なぜなら「肉」そのものになられたからです。数日前に出た協会共同訳では「同じ姿に」となっているようですが、ここは新改訳聖書2017の「同じような形で」と少なくとも違いを言い表さなければならないところです。

「罪深い肉」と形容詞としてではなく、文字通りに「罪の肉の」と捉えることは、まさにその「罪」と「肉」の関わりに格闘しているパウロにとっては必然であったように思えます。その証拠にそれに続く文章で、千葉訳で言い表されているように、「そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである」と、受肉の目的での「罪」と「肉」の関わりを言い表しているのです。すなわち、「罪の肉の」のその「罪に関して」と取り上げて、「その肉のおいて [その] 罪を審判したから」と説明をしているのです。「罪深い肉」ではその関わりが見えなくなってしまいます。

ここで注目して良いのは、受肉のテーマがその目的である十字架の意味づけに結びついていることです。しかしそこで審判を受けたのは罪であって、肉をとられたキリストではないことです。その違いを言い表すためにパウロがあえて「罪」と「肉」を区別して、二つの属格で結びつけて「罪の肉の似様性」と表現したと言えます。罪の刑罰であって肉はそのために必要であったのです。すなわち、罪のない肉が必要だったのです。

千葉訳で「罪に関して」と言い表されている表現は、N.T.ライトも注解書で指摘しているとおりに、レビ記16:15での「罪のささげ物」の70人訳に合っているので、sin offeringととることもできそうです。それで新改訳聖書2017は「罪のきよめのために」としているのだと思いますが、このことでは新改訳聖書3版のままで「罪のために」としておいた方が原典に沿っているように思います。

さてここは受肉のテーマなのですが、そのまま十字架における刑罰代償のテーマが関わってきます。少なくともここで分かることは神が処罰したのは「罪」であると言うことです。そのために「肉」が必要だったのですが、「罪の肉の似様性」として肉の姿です。そこに「身代わり」を認めることができます。

さらにこの8章3節の濃縮した受肉と十字架の宣言が、次の4節でその目的が結びつけられるのです。すなわちそれは、「律法の要求」が御霊に従って歩む者たちのうちで満たされるためなのです。律法にできなくなったことが、今それが実行される道が、受肉と十字架に続く復活とペンテコステによって開かれたのです。そこには肉と御霊との葛藤はあるのですが、内なる人に働く御霊の約束のゆえに、律法の要求である神と隣人を愛することが実現していくのです。

8章は御霊の執り成しと呻きが取り上げられ、それがまた勝利への道となるのですが、しかし、7章の終わりでの惨めさの告白から勝利に至るためにはどうしても御子の受肉が必要であったことを、何とも短い表現で言い表しているのが8章3節です。クリスマスは単に御子の誕生のお祝いで終わってしまうことはできないのです。惨めさがあり呻きがあり、そして賛歌があるのです。

上沼昌雄記

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「罪の意識?」2018年12月10日(月)

 これはローマ書3章20節で、律法によって「罪の意識」が生じると述べられている箇所ですが、千葉訳は、[神による]と括弧付きで補足して「罪の認識があるからである」としています。そのように捉えていることに前から気づいていたのですが、今回その意味合い、すなわち、神の側のこととして、神が罪と認めていることに納得しています。人間の側での罪の意識や自覚ではないのです。これは、しかし、ローマ書のテキストの読みの革命と言えます。
 まずは「罪の認識」と訳されるエピグノーシスは、単なる意識や自覚ではなくて、しっかりと罪と認める知識のあり方を語っています。それは神がご覧になって「律法によって」は罪ありと認めていることです。私たち人間の側での罪の意識の強弱を語っているのではないのです。しかしこの面で従来訳の「罪の意識」だと、自分の罪の意識を絶えず探る神経衰弱的な状況になります。それは堂々巡りに陥るだけです。
 さらにここでは、「業の律法によっては<すべての肉>は<神の前では>義とされないからです」と「神の前」でのこととして語られていることからも、神による「罪の認識」であることは結びつきます。そのことを傍証するように、この箇所にはgarという接続詞が付いていて、「神の前で」のこととしての前の文章を説明していることからも分かります。新改訳はこのような接続詞を訳さない場合があります。
 また誰が義と認められないかと言えば、文字通りには「すべての肉」です。新改訳2017は「人はだれも」として、脚注に直訳として「肉なる者はだれも」としているのですが、文字通りの直訳は「すべての肉は」です。ここは「すべての肉は」として、肉における罪の関わりをパウロが繰り返し捉えていることに注目しべきです。すなわち、罪が肉に働きかけ、肉に寄生し、肉に住み着いていることをパウロが自分の問題としても捉えているからです。その「すべての肉」を神がどのように見ているかを語っているのです。
 さらにこの「すべての肉」の「すべて」は前の19節で「すべての口」がふさがれ、「すべての世界」が神に服するために対応していて、神の視点で「すべての肉」は罪あると認識されていることなのです。この意味でこの箇所は、1章18節から始まる不義の中で生き続ける者のなされてる「神の怒り」の啓示を締めくくっています。「義人はいない、一人もいない」(2:10)という神の宣告をまとめているのです。その上で3章21節から神により義人の宣告に移るのです。ローマ書におけるパウロの説明の筋道が浮かび上がってきます。
 おそらくローマ書理解の一つの混迷は、「罪のエピグノーシス」を「罪の自覚、意識」と捉えてきたことによると言えます。内村鑑三は「罪の認識」と訳しているのですが、意味は人間の側での罪の認識となっています。ルターもそのようです。ですので、その上に成り立っている義認論も罪の意識の強さによるかのように捉えられています。伝道集会も罪の意識を駆り立てることで成り立っています。神の側での罪人と義人の認識を私たちの心的なことと混同してきたことによるのです。どうしても堂々巡りに陥ってしまいます。
 最後にこの箇所について千葉先生が述べていることを記します。「われわれすべてが罪人であるのは神の判決による神の前の現実であったのであり、われわれがそう意識するかは二次的なことであった。、、、自己自身を内的に省みて、罪があると思うから罪人であるのでは決してない。」(下巻315頁)これは、単なる神学的主張ではなく、テキストの分析から導き出されています。それは革命的です。
 「すべての肉」が出てきました。降誕節のテーマはその「肉」に御子であるイエスがなったことです。8章3節の「受肉」のテーマを避けることができません。チャレンジしてみます。
 上沼昌雄記

「隠れ家物語」2018年12月7日(金)

 今回も日本でのいくつかの「隠れ家」をベースに各地を巡回しました。それらなしには日本での活動は不可能です。それはこの25年間以上にわたって多くの方が宿泊場を提供してくださったことでミニストリーとしての活動ができたことに連なっています。それでもあるときに日本での活動の拠点を「隠れ家」とこちらが勝手に呼んだことで、ミニストリーの旅姿が出来上がってきました。
 「最上川の隠れ家」とその拠点を最初に呼びました。実際にはその場所の説明が複雑なのと、その場を隠しておきたいという思いがあって、そのような呼び名を付けした。あちこちと回っていても帰ってくることのでき、しばらく翼を休めることのできるところでした。今はいくつかの建物が出てたのですが、当初は見渡す限り畑の中でした。季節になると桃畑とサクランボ畑で豊かな実がなっているのを眺めていました。静かな時をいただき、次の旅に出かけました。
 「山形の隠れ家」は「最上川の隠れ家」の延長のように与えられました。市内の住宅地の中ですが、私にとってはその場所の説明ができないので「隠れ家」と続いて呼びました。その家の主ご夫妻も納得してくださったようです。じっとしているのですが、その主も牧師ですので、きわどいこと目面倒なことも話し合うことができます。そんな会話の場面として、このご夫妻はウイークリー瞑想にも登場しています。
 「大阪の隠れ家」は町の真ん中に与えられました。それでも街の喧騒からは逃れています。ご家族の配慮で自由に出入りができます。関西での活動には等距離で動けます。今回は名古屋まで日帰りで行ってくることができました。27年ほど前にバークレーでお会いしたのがこのような結果になっています。
 「武蔵野の隠れ家」は、教会の所有の家屋で、日曜日に使っています。東京での拠点に四苦八苦していたときに、牧師が「武蔵野の隠れ家」として使ってくださいと申し出てくれました。その意味では私が命名したのではないのです。牧師がそのように呼んでくださったので、文字通りに「隠れ家」として今回も数日滞在しました。一軒家で全部揃っているので、洗濯も自分でします。
 「札幌の隠れ家」は、神学校のゲストルームで、責任者を通して滞在許可をいただきます。チャペルや食事時間に合わせる以外は静かに時を過ごすことができます。路線の駅にも近いので活動も自由にできます。この一年2回滞在しました。神学校の一部ですので公のものですが、隠れ家にふさわしい佇まいです。
 これ以上説明をすると「隠れ家」でなくなってしまいます。それでもそれぞれの「隠れ家」の周りの人は私が滞在していることは分かっています。にもかかわらず、旅人にとっては身を隠すことができるのは助けです。「それは、主が、苦しみの日に私を隠れ場に隠し」(詩篇27:5)と言われていることに通じます。ただただ主が備えてくださった「隠れ家」です。そして、それぞれの「隠れ家」にはそれぞれの「隠れた物語」があります。
 そしてこのような者を匿ってくださる場を提供してくださる方々に、主の豊かな祝福があるように祈ります。逃亡者を匿ってくださるのではないので身の危険はないと思いますが、大きな犠牲を払ってさっているのは確かです。少しでも主が報いてくださることを願います。隠れ家でなくてもその都度宿を提供してくださる方々に、そして過去にそのようにしてくださった方々にも、豊かな祝福がありますように。良いクリスマス、そして新年をお迎えください。
 上沼昌雄記

「福音を恥としないとは」2018年12月3日(月)

 成田からサンフランシスコへのフライトの機内で千葉訳のローマ書とにらめっこしました。解説は読んできたのですが、ローマ書のテキストがどのように訳されているのか確認したくなりました。『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の下巻の最後に付録「パウロのローマ書、概観と新訳」として付いているものですが、機内で読んだのは2013年の紀要に出ている「私訳と解説」のものでした。
 いくつかの箇所で従来の訳とは趣を異にしていることに気づきました。その一つが「福音を恥としない」で始まる1章16節と17節です。そこでは「福音は、、、神の力」と「神の義が啓示され、信仰から信仰へ」というよく知られた二つのセンテンスが続いています。従来の訳では、これらの三つのセンテンスがあたかも独立した文章のようになっています。
 しかし千葉訳では、「というのは」で始まって、後の二つの文章が「なぜなら」で結びつけられています。そして実際に原典ではこれら三つの文章が同じ接続詞garで始まっています。ということは最初の文章の「福音を恥としない」は、「というのも、私は福音を恥としないからです」と、その前のことを説明していることになります。すなわち、パウロがどうしてローマの人たちに福音を伝えたいのかといえば、福音を恥としないからですと説明していることになります。
 従来訳では「福音を恥としない」ことを信仰の表明として宣言しているようで、どうしたらパウロと同じように福音を恥としないで伝道に携われるのかと自己反省だけが出て来ます。しかし接続詞を丁寧に訳すと、実際にはパウロがローマへの伝道を願う自分の思いを語っているだけで、福音宣教の動機を淡々と説明しているこが分かります。そしてさらにどうして「恥としない」かを、次の二つの文章で「なぜなら」と繰り返すことで説明しているのです。
 ここでの二つの説明は短いのですが、ローマ書全体でのパウロの福音理解を端的に語っていると言えます。それゆえに「福音を恥としない」ことの理由が鮮明になってきます。初めの説明は「なぜなら、福音は、、、神の力(デュナミス)」で、「ユダヤ人でもギリシャ人でもすべて信じる者に救いをもたらす」からです。
 そしてさらに「なぜなら」と説明を加えています。その時に驚くべきことに主語が「神の義」となっています。それが「啓示されているからです」と、どうして福音が神の力であるかを説明していることになります。そして、福音が「神の義」の啓示であるとは、取りも直さずそのまま3:21-26での神の義の説明に結びつくものです。パウロがそこに射程を定めて、この「福音を恥としない」ことの説明として「神の義」を語り出していると思われます。
 ここで注目して良いことは、この「神の義」の啓示の仕方としてen autowが添えられていることです。伝統的にはその前の「福音」を指すように訳されています。しかし千葉訳は「彼[イエス・キリスト]において」としています。文法的には両方が可能ですが、千葉訳は3:21-26での「神の義」と「イエス・キリストのピスティス」の分離のなさに通じます。同時にローマ書の冒頭の1:1-4で「福音」は「私たちの主イエス・キリストについてのもの」と説明されていることに適合します。
 すなわち、福音は信じる者に救いをもたらすのですが、それは私たちの信仰の強さによるのではなく、イエス・キリストのピスティスを介して啓示されているがゆえに、神の側でのこととして提示されているからです。それゆえにパウロは、福音をより多くの人に知っていただきたいと願うのです。そこには「恥」はないのです。
 このようにローマ書を理解している千葉先生ご自身も、大学の哲学のテーマとしてローマ書を取り上げ、福音の真髄を哲学の問いにも耐え得るものとして、テキストを通して提示することを恥としないのです。北大の恵迪寮祭での講演は哲学者による伝道集会と言えるものでした。
 私においても福音を「神の義」の「イエス・キリストのピスティス」を介しての啓示と理解することで、より多くの人に福音を伝える責任を委ねられていることに納得できます。恥じている暇はないのです。以前はどこかで福音を恥じていた自分であったからです。
 上沼昌雄記 
(追記:二つ目の説明のなかの「信仰から信仰へ」は、歴史的にも多くの解釈がなされている箇所でもあり、改めと取り上げたいと思います。)

「千葉惠先生を囲む会」報告

主にある友へ
昨日(5日)に北海道聖書学院を会場に「千葉惠先生を囲む会」持ちました。参加者は16名でした。チャペルでと思ったのですが、担当者の配慮で食堂で持ちました。ゆったりとした雰囲気となりました。千葉先生は午前と夕方の大学での授業の合間に来てくださいました。限られた時間でしたが、先生が提唱される「信の哲学」のエッセンスを「律法と福音」のテーマに絞って語ってくださいました。初めての方には慣れない用語も出てきて戸惑ったかも知れませんが、資料を準備してくださり、それに沿って話をしてくださったこともあり、「信の哲学」のポイントとそれに伴う千葉先生の愛と情熱は十分に伝わりました。またローマ書理解に関して刺激的な視点をいただいたことになります。16名の参加者ですが、信徒の方が多かったのは何を語っているのでしょうか。ローマ書に関心があり、現実に教えている教職者との対話が進展していけばと願っています。この講演とその前日の北大恵迪寮での講演会を本にしたいという出版社が出てきました。実現するか、どのように現実化するかはこれからの課題ですすが、「信の哲学」は信じる者にも信じない者にも共約的に魂の根底にある信・ピスティスを探求しますので、宣教の姿勢にも関わってくる大切なテーマです。少しでも理解が深まり、私たちの伝道と信仰生活に役立てばと願います。質疑応答でハンディを持っている方のための仕事をしている方の質問を反芻され、追加の返事を今朝私にくださり、補ってくれるようにと言うことでした。人間としてのテーマを放っておかない哲学者の真摯な姿勢に接しました。なお録音をしています。資料も数部残っています。関心のある方はお知らせください。私は無事に大阪の隠れ家に到着しました。感謝とともに。上沼昌雄

「千葉惠先生を囲む会」ご案内

秋も深まりつつあるこの頃ですが、皆様におきましては続いて主の業にお励みのことと思います。今回以下の趣旨で「千葉惠先生を囲む会」の会合を持つことになりました

千葉惠先生は北大の哲学科の教授をされていますが、熱心なキリスト教徒でもあります。学内のクラーク聖書研究会の顧問も長くされています。ご専門のアリストテレス研究を極められたたあとに、パウロのローマ書研究に取りかかられ、「信の哲学」を打ちたれられました。その「信(ピスティス)」は「神の真実」(ローマ3:3)「イエス・キリストの信実」(3:22)「私たちの信仰」(5:1、2)そして「御霊の実としての誠実」(ガラテヤ5:22)となります。それゆえに「信/信仰」は神と私たちと結びつける根幹の役割を果たしています。また私たちの心魂の根底のあり方を示しています。

その研究成果がこの2月に『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』として北大出版会から刊行されました。この機会をいただいて、従来のローマ書理解との対比の上で、「信の哲学」が私たちの信仰と牧会にどのような意味をもたらすのか、先生をお招きして「囲む会」として、以下のような要領で会合を持ちたいと願っています。

月曜日で、教職者を中心になるかと思いますが、可能な方はどなたでも参加くだされば幸いです。ご来会をお待ちしています。

テーマ:「新約学の現状と『信の哲学』」ー講演と質疑応答

日時:2018年11月5日(月)午後1時から3時15分

場所:北海道聖書学院

〒003-0831 北海道札幌市白石区北郷1条3丁目1-61

電話:011-871-7892

費用:一人(夫婦一組)1000円(茶菓代、講師交通費、会場費)

主催:「千葉惠先生を囲む会」(発起人:松元潤、上沼昌雄)

連絡先:上沼昌雄:muenuma@earthlink.net  masaouenuma@yahoo.co.jp 

松元潤:jmatsugen1953@gmail.com

「信の哲学」とは? — ローマ書理解を中心に

初めに

北海道大学大学院文学研究科教授の千葉惠先生による『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が、この2月末日に北海道大学出版会から出版されました。上下巻で1400頁に至る大著で、使徒パウロのローマ書を主な研究対象とされ、アリストテレス哲学を共約性基準として、その言語哲学により意味論的分析を行っています。著者40年にわたる研究成果に不思議に接することになり、ローマ書理解に新しい光をいただいています。

最初の接点は、2014年の文化の日、北大のキャンパスでした。その時から50年遡る1964年に北大に入学し、数名のクリスチャン仲間と宣教師と「クラーク聖書研究会」を発足しました。その50周年記念集会で、その時点でN.T.ライトの翻訳に関わっていましたので、ローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティス」をライトが主格の属格ととっていることを話しました。日本語の聖書翻訳でも取り上げられていたテーマでした。

千葉先生はクラーク会の顧問を長年してくださっています。話し終わって挨拶に伺いましたら、開口一番、その「の」は主格でも対格でもなく、「帰属の属格」であると言われました。「イエス・キリスト」という称号には行為の主体はないと説明されました。主格の属格ととること自体この30年ほどで世界の聖書学者がようやく認めてきたことを、千葉先生があっさりと否定されたことに衝撃を覚えました。それ以来研究室を訪ね、資料をいただき、先生の40年来の研究の一端に接することになり、結果的にローマ書のテキストに引き戻されました。

 

イエス・キリストの信を媒介にして ― 3章22節

ローマ書3章22節のこの箇所は、前節を受けて、「神の義」が「イエス・キリストの信を媒介にして」「信じる者すべてに」と動詞形なしに語られ、「というのも、分離はないから」で終わっています(以降聖書引用は、下巻の最後の附録にある千葉先生の『新訳』による)。従来通りに対格として「イエス・キリストを信じる信仰によって」ととると、その後の「信じる者すべてに」と繰り返しとして不自然であるだけでなく、神の義の啓示が私たちの信仰に寄ることになり、二千年のキリスト教は混乱をかかえることになりました。というのは、信仰者の心的状態で神の義の啓示が捉えられることになるからです。N.T.ライトも指摘していることです。

千葉先生がそれでも主格でもなく、帰属の属格と主張されるのは、ピスティスが初めからイエス・キリストに属するものと捉えることで、神の義とイエス・キリストの信には、その節で言われている「というのも、分離はないから」と結びつくと見ているからです。「というのも」という接続詞が、その前のことを説明していることになり、神にとって「義」と「信」に「分離はない」となるからです。

3章3節では、イスラエルの「不信仰/ア・ピスティス」に対して「神のピスティス」が語られていてます。「神の信仰」とは訳せませんので、「神の信/真実」と訳すのが適当です。それに対して「イエス・キリストのピスティス」は「イエス・キリストの信/信実」と訳すことができます。神にとっては義と信とには分離がなく、神の義の啓示は神のピスティス/真実の現れなのです。千葉先生が帰属の属格と主張されるのは、神の義の啓示の本質を見逃さないためであることが分かります。

 

なぜ神には義と信の分離はないか ― 3章23-26節

千葉先生は、聖書学者はローマ書のテキストの意味論的分析をしていないとまで言われます。当初その意味合いがつかめなかったのですが、23節に「なぜかといえば」という接続詞が使われているのは意味があって使われているのだと言われ、なるほどと思わされました。新改訳も共同訳も見逃しているのか、それとも、その接続の意味が分からないままで混乱の中にいるとも言えます。意味論的分析とは、言葉がそこで使われていたら意味があって使われているので、その分析に徹することなのです。

それで千葉先生は「なぜかといえば」で始まる23節から26節は、神の義と信には分離のないことを説明しているととります。しかもワンセンテンスで言い表されています。さらに「ご自身の義の知らしめ」「ご自身が義である」「ご自身の義の知らしめ」と3度も繰り返すように、目的が神の義そのものの啓示であって、いわゆる人間の側の信仰義認ではないことを明確にしています。前節の「イエス・キリストのピスティス」を対格として信じる私たちの信仰ととると、結局は信じる私たちの信仰義認が第一になってしまいます。二千年のキリスト教の混乱であります。

神の義の啓示が「イエス・キリストの信を媒介にして」いることのしるしのように、イエスの血による差し出しである従来「なだめの供え物」と訳されているヒラステーリオンを「現臨の座」と訳します。業ではなく信による神の義の啓示であるので「現臨の座」でなければならない結論づけます。N.T.ライトはMercy Seat/Meating Placeと表現しています。同じ意味合いで、刑罰代償説はとっていません。

 

信の律法を介して ― 3章27-31節

このことに基づいて次の27節で、律法を誇りにしているユダヤ人(2:23)に、その誇りは「閉めだされた」と宣言することになります。その理由として、「どのような律法を介してか」と自問し、「業のか、そうではなく、信の律法を介してである」と明言できるのです。その「信の律法」とはまさに「イエス・キリストの信」によることで、私たちの信仰のことではないからです。モーセの文字による律法に対して、イエス・キリストの信による「信の律法」による神の義の啓示が可能になったからです。このことは21節で「律法を離れて」、しかも「律法と預言者たちにより」と、すでに律法の意味合いを区別していることに対応します。

この箇所の「律法」が、従来「原理」とか「法則」と訳されているのですが、それは信仰義認における人間の側の心的状態に関心が移ってしまっているためであり、それは結果として、ローマ書理解の混迷を深めることになっています。幸いに新改訳聖書2017では「行いの律法」と「信仰の律法」に戻っているのですが、意味合いは人間の側の信仰のままです。正確には「イエス・キリストの信」によることなので、「律法」を「無効にするのではなく」「むしろ確認する」(31節)ことになります。7章と8章で再度「律法」の意味合いが問題になります。

「ピスティス/信」は、すでに見てきたように、神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、私たちのピスティス(信仰)が言い表されています。さらに御霊の実としてのピスティス(誠実)が表現されています。神の側でのピスティスと人間の側でのピスティスを千葉先生は「信の二相」と言い、1章17節のいわゆる「信仰から信仰へ」に当てはめています。

ピスティスが「信じる」という心の深いところでの認知作業を備えているだけでなく、信じる者に備わる信実さ、誠実さという人格的要素も備えていることが分かります。その意味での「信」は、人間の心魂の根底での根源的要素であり、「共約性」を持っています。それゆえに、パウロはアテネのアレオパゴスで哲学者たちと議論することができました。千葉先生ご自身は、そこに至るためにアリストテレス哲学を先に修めたことになります。この心魂の根源的要素については、7章での「内なる人」との関わりで見ることになります。

 

内村鑑三とローマ書と

千葉先生がこのようにローマ書3章21節から31節までの解明に全力を注いでいることには、内村鑑三のローマ書研究が深く関わっています。内村鑑三は1920年1月から1922年10月まで60回のローマ書講義をしています。『ロマ書の研究』としてまとめられています。この講義に先立つ1914年にローマ書に関して、内村鑑三は次のような発言をしています。「旧約は新約を依て解すべし、新約は羅馬書を依て解すべし、羅馬書は其の第三章二十一節より三十一節を似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二十一節より三十一節までを解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず。」(『聖書の研究』172)

すなわち、ローマ書3章21節から31節を解く人は聖書全体を解く鍵を神からいただいていると言うのです。内村鑑三自身が解くことができたのかというと、どうもできないで最後まで格闘していたようです。自分の葬儀ではこの箇所を読むことを願ったようです。

千葉先生のご両親は内村鑑三の弟子の塚本虎二から聖書の指導を受けています。宮城の古川で家業の木材業を営みながら子供たちを聖書の訓戒で育てました。今回出版された『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の構想はそのご両親から「自然に与えられた宿題」と受け止めていると言います。その宿題が、まさにローマ書3章21-31節の鍵を解くことなのです。原稿の段階での「あとがき」で触れています。

内村鑑三のローマ書研究における格闘は、直接的に千葉先生の探求の契機になったのですが、歴史的にはローマ書理解は混迷の歴史とも言えます。バルトの『ローマ書』は、第一版が1919年に第二版が1922年に出ていますが、テキスト解明には至っていません。遡るとルター、アウグスティヌスにまで至ることと言えます。その中での千葉先生の解明は、歴史的評価を待たなければなりませんが、ある一定の方向を示していることは明らかです。

その方向性が先に見た、第一に「イエス・キリストの信を媒介にして」であり、第二には「神には義と信の分離はない」ことであり、第三に「信の律法を介して」の理解です。それは端的にテキストの読み、すなわち、意味論的分析によっていることです。安易な神学的な投影は許されないのです。千葉先生は神学的枠組みのテキストへの「密輸入」と言い切ります。

 

テキストの言語網の分節と相補性 ― 1-4章と5-8章

テキストの意味論的分析から千葉先生が導き出しているローマ書の言語網を確認しておく必要があります。ここではローマ書8章までを紹介します。すなわち、1-4章と5-8章では著者であるパウロの視点が異なっていると言うのです。1-4章は「神の前の自己完結性」であり、5-8章は「ひとの前の相対的自律性」であり、それぞれ分節されていることと、その相補性がこの手紙の流れと見ています。

すなわち、1-4章では、3章の神の義の啓示と1章の神の怒りの啓示(後で取り上げます)は、神の啓示の事実の提示であって、そこにはこちら側の心的状態である信仰のあり方は問題にされていないと言うのです。このような言語分析をローマ書で施した人は誰もいないと思います。なるほどと思うのと同時に、ローマ書理解の解明のさらなる鍵になっていることが分かります。というのは伝統的に、3章で私たちの信仰である心的状態を初めから取り入れて混乱を起こしているからです。

その私たちの信仰との関わりはまさに5章からのテーマとして明確に分節されると見ています。すなわち、啓示された神の義にどのように対応しているのかが5章の初めで、「かくして、われらは(イエスの)信に基づき義とされたので」と、それまでの神の啓示の上で信仰者としての対応を語っているのです。その意味合いで、5節で初めて聖霊が信仰のあり方との関わで語られていると言います。その聖霊が「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」を結びつける役割をしているのです。

 

肉の弱さの故に ― 5章と6章

このように言語網として分節を明確にした上で、私たち信仰者としての葛藤を同時に避けることなくパウロ自身が取り上げているのです。それは多分、神の側での啓示の確かさがあるので、「肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)ことを恐れる必要がないからです。「ひとの前」での葛藤を避けないで観ることができるとも言えます。5章から8章はこの弱さを持つものの葛藤の言語網なのです。

この点に関して、肉が悪そのものであったり、肉のおける罪の遺伝的理解を千葉先生は避けています。そのように理解される5章12節は、アダムによって「罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫き通したのである」と言われているからです。この点に関しては、肉が悪そのものであるというプラトン的な二元論からも解放されることになります。

それはまさに「ひとの前の相対的自律性」をいただいている者として責任になるのです。その背景には、3章で神の義の啓示が語られるまえに、1章で神の怒りの啓示により、私たちがすでに「心の諸々の欲望における不潔」(24節)と「恥ずべき情欲」(26節)と「叡智の機能不全」(28節)へと神による「引き渡し」がなされたからです。この意味での肉の弱さを誰もがかかえています。それでも、肉の思いのままに生きればその実を刈り取ることになりますが、悔い改めの道も開かれています。

 

内なる人がヌースによって ― 7章

肉はすでに死に支配されているのですが、律法によってさらに罪が罪であることを知らされます。それゆえにしたくないことをしてしまう自分の惨めさを認めないわけにいかないのです。パウロは7章でそんな自分を「われ」として言い表していきます。千葉先生は虚構的な「われ」と表現するのですが、肉を持つ者が誰でも当てはまる「われ」と言えます。

その最後の告白を千葉先生は「惨めだ、われ、人間」(24節)と文字通りに訳します。事実三文字で言い表されています。それだけ緊迫したものを感じです。同時にそのように言える理由をパウロはその前後で語っています。すなわち、「わがうちにつまりわが肉のうちに」(18節)罪が宿っているが、それにもかかわらず、「われ内なる人間に即しては神の律法を喜んで」(22節)いることを認めているからです。外側の肉ではどうにもならなくても、その内側では神の律法を認めている自分に気づくのです。

最後の25節で、さらにまとめるように言っています。「われ自らかたや叡智によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている。」この「仕える」は、6章での「罪の奴隷」と「義の奴隷」に対応します。すなわち、肉では罪の奴隷の状態なのですが、「内なる人」として神の律法を喜んでいる自分に気づいているのですが、さらにその深いところで「叡智」と訳されているヌースとして神の律法をよしとしている自分を認めているのです。

このヌースは、従来の訳では単に「心」と表現されているのですが、意味論的分析では、「心」は一般にカルディアとして表現されているので、ヌースがあえて使われているのには意味があって使われているので、その意味を明確にする必要があります。12章2節で一般に「心を新たにすることで」と訳されているのですが、「叡智の刷新によって変身させられよ」とヌースの意味合いを捉えています。

このヌースにはその前で「識別すべく」とあるように、何が神に喜ばれることなのかを識別する能力が備わっています。その反対が1章28節の「叡智の機能不全」となります。神の怒りの下ではそのまま罪人で終わってしまうこともあるのですが、聖霊が内なる人に働きかけるときに、ヌースが神を識別して、これで良いのだと促す作用をすることが分かります。

千葉先生はこのヌースの使用はすでにアリストテレスによって、感性界を超えた世界の把握能力として使われていることを紹介しています。それが心魂のボトムで誰にでも備わっていることを確認して、パウロはそれが分かってヌースを使っていると言うのです。心魂のボトムでは誰にでも共約的な要素があるので、福音の提示は可能と見るのです。福音を認め受け入れるかは聖霊の働きなのですが、福音がどのようなものかは言葉として理解できると見ていることが分かります。それゆえに「信の哲学」が可能なのです。副題の「使徒パウロはどこまで共約可能か」の意味していることです。

 

おわりに ― 律法の義の要求の満たしに ― 8章

内なる人としてヌースによって「神の律法」を喜んでいると、パウロは律法のことに最後までこだわっていることが分かります。律法は福音で終わったのではないからです。福音によって律法が成就するためだからです。それこそ神の義の成就に繋がるからです。それで千葉先生は8章4節を「神の義の要求が、、、満たされるため」と丁寧に訳しています。福音は神の義の啓示であり、それは律法の成就でもあるからです。

千葉先生の意味論的分析によってテキストに戻され、神の義の啓示とそれに対する信仰者の心魂のボトムでの出来事をパウロに沿って追うことが許されました。千葉先生はさらに、アウグスティヌス、アンセルムス、ルター、カントとハイデガーへと歴史的挑戦をしています。ローマ書はそれに耐えうるものだからです。

 

上沼昌雄 (聖書と神学のミニストリー代表)

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