「神に怒ること」2019年1月10日(木)

雑誌”Christianity Today”の1,2月号に’Can Anger at God be Righteous?’(「神に怒ることは義とされるか?」)という興味深い記事が載っています。特に興味を注がれることになったのは、8年前に書いた『怒って、神にーヨナの怒りに触れて』という本がこの春に日本で出版されることになって、その再校正の原稿を読んでいたからです。そして同じ視点で書かれていることが分かりました。即ち、神に怒ることなどはクリスチャンとしてはとても考えられないという、特に福音派の固定概念に対して、取り上げている聖書の箇所は違うのですが、神に怒ることは神とのとてつもない信頼関係に基づいていると展開していることです。

この記事の著者は改革派の神学校の教授ですが、5年前に癌と診断され厳しい治療の中で、神学生が詩篇102篇5,6節をもって自分のことを祈っていてくれることが分かって、詩篇の中で絶望し、恐れ、神に怒りを表していく場面に思いが向き、さらにその続きの23,24節も読んで、神に文句を言うことも許されていることが分かり、心の安定を得ていくことにるのです。

5 私の嘆きの声で

  私の骨は肉に溶けてしまいました。

6 私はまるで荒野のみみずく

  廃墟のふくろうのようです。

23 主は、私の力を道の半ばで弱らせ、

私の日数を短くされました。

24 私は申し上げます。

「私の神よ、私の日の半ばで、

  私を取り去らないでください。

  あなたの年は代々に至ります。

この著者は、詩篇ではその3分の1が、失望し、怒り、恐れている場面が展開されていながら、知らないうちにそのような思いを持つことすら信仰的でないと教えられ、自分でもそのように思ってきたことを認めています。そのように言う福音派の一人としてジョン・パイパーを挙げています。神に怒りを表すことはどのようなことがあっても”sinful emotion”と言っているということです。直接の引用箇所を明記していないので、それ以上は分からないのですが、感覚的には納得できることです。

実際に8年前にヨナ書から神に怒ることについて書き出したのも、同じような動機からです。その前に「ヨナ書に示された神の『永遠の愛(ヘセド)』」という副題の本で、不信仰のヨナ、不信仰な私たちを正すことがヨナ書のテーマと言われている方の本を読んで、大変な違和感を持ったからです。何といってもヨナ書はヨナが怒ったままで終わっていて、それでいてどこかで神の計画はしっかりと果たされているので、それでいいのではないかと思ったのです。

それで、ともかくヨナになったつもりで書きました。三日三晩の魚の腹の中でヨナが何を思い、また吐き出されてニネベに向かう旅で何を思ったのかも記されていないのですが、勝手にヨナになったつもりで書いてみました。そうしたらヨナの怒りをしっかりと受け止めておられる神に出会うことになりました。ヨナを用いてご自分の計画を果たされる神の前で、怒ったままでヨナ書が終わっていることに納得できたのです。

友人の坂本献一牧師が原稿を読んでくださり、丁寧なコメントをくださり、私の「闇の本」の続きと位置づけてくださいました。言われてさらに納得をいただきました。すでに再校正も終わり、本の表紙のデザインも決まりました。もう少ししましたら出版予定日と出版社も報告できると思います。新しい年が「神に怒ること」で始まりました。何の意味があるのだろうかと佇んでいます。

上沼昌雄記

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「美しく問うー発見者の喜び」2018年12月31日(月)

この一年を振り返って、パウロのローマ書のテキストに関して「発見者の喜び」を多少味わっています。昨年はテキストに対して「美しく問う」ことを経験して、そのテーマで2017年12月27日付けでこの欄を締めくくりました。年が明けて2月末に『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が刊行されて、千葉惠教授の40年にわたるアリストテレスとパウロにおける「信の哲学」の在処を書籍として確認することができるようになりました。

この書の最初のアリストテレスの部分と後半の下巻の神学の歴史的課題についてはなかなか取り組めないで、その間で取り上げられているローマ書理解にのめり込んできました。というかそこから出られないで私なりに「美しく問う」作業を勝手にしてきました。すなわち、千葉先生はどうしてこのような理解をされているのかと驚かされ、探求が始まるのです。一つの探求が次の探求を呼び出してくれて、その作業が今でも続いています。現時点ではその作業はローマ書の原典のテキストがどうして千葉先生の理解をもたらしているのかと、原典とのにらめっこに導いてくれています。

書籍の最後に付録として千葉訳ローマ書が載っています。ですので作業は従来訳と千葉訳との比較にもなっています。幸いに邦訳も新改訳聖書2017と協会共同訳が相次いで刊行されていますので、楽しい作業でもあります。その訳語のことで千葉先生に一つ質問がありました。私の問いを真剣に受け止めてくださり、このクリスマスから年末にかけて綿密にテキストから解説してくれています。それはローマ書3章20節から28節までのローマ書の中心と言われる箇所に関わることです。

そのやり取りを通して千葉先生が「美しく問う」ことから始まって「発見的探求論」を展開して「発見者の喜び」に溢れていることが分かります。このプロセスはアリストテレス自身が万物の探求に用いた手立てのようです。そしてパウロも神の啓示の理解の手立てとしていたようです。すなわち、神の啓示がどのように証しされているのかを発見してその喜びを伝えているというのです。千葉先生はパウロの発見者の喜びを何度か取り上げ、次のように述べています。

<二千年前のパウロは、彼が発見者の喜びのなかで伝えようとした人類に比類のない新しい出来事を「イエス・キリストの信(ピスティス)」(3:22)と名づけた。パウロが発見したのは水ではなく、また人間の神への信仰でもなく、それはイエス・キリストにおいて出来事になった神の子の信と神に義と看做されたナザレのイエスというひとの信であった。義は信により伝達される。神は自らが義であることを、そして信じる者を義とすることをこの信を通じて啓示した。>(120頁、参照:62,63頁、117,18頁)

そしてこのパウロが発見した「イエス・キリストの信(ピスティス)」を含むローマ書3章の20節から28節までには、さらに千葉先生ご自身が発見した今まで誰も見いだしたことのないパウロの世界が展開されています。同時に千葉先生の発見者としての喜びも伝わってきます。そしてその喜びで研究を続けておられるのが分かります。参考のために千葉訳を紹介します。関心のある方は従来訳と比較をし、さらに原典に当たっていただければ、「美しく問う」ことから始まって、「発見者の喜び」を味わえることと思います。

<20)それ故に、業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。21)しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者達により証言されているものであるが、22)神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒体であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。23)なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24)キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受ける取る者たちなのであって、25,26)その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。27)それでは、どこに誇りがあるか、閉め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。28)かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。>

この年許されて「発見者の喜び」を少しでも味わうことができました。それでもいつでも「美しく問う」テーマがあります。探求者としての歩は続きます。新しい年もともに励みたいと願います。

上沼昌雄記

「パウロにとって受肉は」2018年12月17日(月)

「ことばは人 [直訳「肉」] となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ福音書の受肉についての宣言です(1:14)。ことばがストレートに肉となったというこの現実を「ギリシャ人にも、未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」説得的にローマ書で説明しているパウロは、しかしこの「肉の弱さ」のゆえに律法が果たし得なかったことがあると認めて、神による御子の「受肉」を8章3節で語っています。

その「肉の弱さと受肉」ということで昨年のクリスマスメッセージとして2017年12月18日(月)付けで取り上げました。肉は神の創造により良いものとして、すなわち中立的なものとして造られていながら、罪の攻撃の対象になり、罪が寄生し住み着いてしまいました。それゆえに律法が果たし得なかったこととして「受肉」が神の業として必要でした。

「肉」のテーマには「罪」と「律法」が絡んできます。そのことを7章までで知恵によって説得的に説明をしてきて、この8章3節で御子の受肉を文字通りには千葉訳によれば「罪の肉の似様性において遣わすことによって」と微妙で考え抜かれた表現が用いられています。すなわち、「罪の肉の」と属格が二つの続いているのです。英訳はほとんどsinful fleshとしており、おそらく邦訳もそれに倣って「罪深い肉」と形容詞と訳しています。この場合には肉が初めから罪であるような意味合いを持ってしまいます。

パウロは「罪」が「肉」をターゲットして攻撃し、巧みに住み着いてしまった現実を見抜いています。そこに「律法」が絡んで来て、どうにもならない自分の惨めさを直視してきました。ここでのパウロの人間論は「ギリシャ人にも」とあるのですが、当時の哲学的論証にも耐えうるものと言えます。「罪の肉」では律法を全うすることは叶わないことを熟知している上で、神は御子をその「罪の肉」で遣わされたのですが、そのままでは罪のないイエスと矛盾することになります。それで「罪の肉の似様性において」とその違いを言い表しています。また単なる「肉の似様性」でもないのです。なぜなら「肉」そのものになられたからです。数日前に出た協会共同訳では「同じ姿に」となっているようですが、ここは新改訳聖書2017の「同じような形で」と少なくとも違いを言い表さなければならないところです。

「罪深い肉」と形容詞としてではなく、文字通りに「罪の肉の」と捉えることは、まさにその「罪」と「肉」の関わりに格闘しているパウロにとっては必然であったように思えます。その証拠にそれに続く文章で、千葉訳で言い表されているように、「そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである」と、受肉の目的での「罪」と「肉」の関わりを言い表しているのです。すなわち、「罪の肉の」のその「罪に関して」と取り上げて、「その肉のおいて [その] 罪を審判したから」と説明をしているのです。「罪深い肉」ではその関わりが見えなくなってしまいます。

ここで注目して良いのは、受肉のテーマがその目的である十字架の意味づけに結びついていることです。しかしそこで審判を受けたのは罪であって、肉をとられたキリストではないことです。その違いを言い表すためにパウロがあえて「罪」と「肉」を区別して、二つの属格で結びつけて「罪の肉の似様性」と表現したと言えます。罪の刑罰であって肉はそのために必要であったのです。すなわち、罪のない肉が必要だったのです。

千葉訳で「罪に関して」と言い表されている表現は、N.T.ライトも注解書で指摘しているとおりに、レビ記16:15での「罪のささげ物」の70人訳に合っているので、sin offeringととることもできそうです。それで新改訳聖書2017は「罪のきよめのために」としているのだと思いますが、このことでは新改訳聖書3版のままで「罪のために」としておいた方が原典に沿っているように思います。

さてここは受肉のテーマなのですが、そのまま十字架における刑罰代償のテーマが関わってきます。少なくともここで分かることは神が処罰したのは「罪」であると言うことです。そのために「肉」が必要だったのですが、「罪の肉の似様性」として肉の姿です。そこに「身代わり」を認めることができます。

さらにこの8章3節の濃縮した受肉と十字架の宣言が、次の4節でその目的が結びつけられるのです。すなわちそれは、「律法の要求」が御霊に従って歩む者たちのうちで満たされるためなのです。律法にできなくなったことが、今それが実行される道が、受肉と十字架に続く復活とペンテコステによって開かれたのです。そこには肉と御霊との葛藤はあるのですが、内なる人に働く御霊の約束のゆえに、律法の要求である神と隣人を愛することが実現していくのです。

8章は御霊の執り成しと呻きが取り上げられ、それがまた勝利への道となるのですが、しかし、7章の終わりでの惨めさの告白から勝利に至るためにはどうしても御子の受肉が必要であったことを、何とも短い表現で言い表しているのが8章3節です。クリスマスは単に御子の誕生のお祝いで終わってしまうことはできないのです。惨めさがあり呻きがあり、そして賛歌があるのです。

上沼昌雄記

「罪の意識?」2018年12月10日(月)

 これはローマ書3章20節で、律法によって「罪の意識」が生じると述べられている箇所ですが、千葉訳は、[神による]と括弧付きで補足して「罪の認識があるからである」としています。そのように捉えていることに前から気づいていたのですが、今回その意味合い、すなわち、神の側のこととして、神が罪と認めていることに納得しています。人間の側での罪の意識や自覚ではないのです。これは、しかし、ローマ書のテキストの読みの革命と言えます。
 まずは「罪の認識」と訳されるエピグノーシスは、単なる意識や自覚ではなくて、しっかりと罪と認める知識のあり方を語っています。それは神がご覧になって「律法によって」は罪ありと認めていることです。私たち人間の側での罪の意識の強弱を語っているのではないのです。しかしこの面で従来訳の「罪の意識」だと、自分の罪の意識を絶えず探る神経衰弱的な状況になります。それは堂々巡りに陥るだけです。
 さらにここでは、「業の律法によっては<すべての肉>は<神の前では>義とされないからです」と「神の前」でのこととして語られていることからも、神による「罪の認識」であることは結びつきます。そのことを傍証するように、この箇所にはgarという接続詞が付いていて、「神の前で」のこととしての前の文章を説明していることからも分かります。新改訳はこのような接続詞を訳さない場合があります。
 また誰が義と認められないかと言えば、文字通りには「すべての肉」です。新改訳2017は「人はだれも」として、脚注に直訳として「肉なる者はだれも」としているのですが、文字通りの直訳は「すべての肉は」です。ここは「すべての肉は」として、肉における罪の関わりをパウロが繰り返し捉えていることに注目しべきです。すなわち、罪が肉に働きかけ、肉に寄生し、肉に住み着いていることをパウロが自分の問題としても捉えているからです。その「すべての肉」を神がどのように見ているかを語っているのです。
 さらにこの「すべての肉」の「すべて」は前の19節で「すべての口」がふさがれ、「すべての世界」が神に服するために対応していて、神の視点で「すべての肉」は罪あると認識されていることなのです。この意味でこの箇所は、1章18節から始まる不義の中で生き続ける者のなされてる「神の怒り」の啓示を締めくくっています。「義人はいない、一人もいない」(2:10)という神の宣告をまとめているのです。その上で3章21節から神により義人の宣告に移るのです。ローマ書におけるパウロの説明の筋道が浮かび上がってきます。
 おそらくローマ書理解の一つの混迷は、「罪のエピグノーシス」を「罪の自覚、意識」と捉えてきたことによると言えます。内村鑑三は「罪の認識」と訳しているのですが、意味は人間の側での罪の認識となっています。ルターもそのようです。ですので、その上に成り立っている義認論も罪の意識の強さによるかのように捉えられています。伝道集会も罪の意識を駆り立てることで成り立っています。神の側での罪人と義人の認識を私たちの心的なことと混同してきたことによるのです。どうしても堂々巡りに陥ってしまいます。
 最後にこの箇所について千葉先生が述べていることを記します。「われわれすべてが罪人であるのは神の判決による神の前の現実であったのであり、われわれがそう意識するかは二次的なことであった。、、、自己自身を内的に省みて、罪があると思うから罪人であるのでは決してない。」(下巻315頁)これは、単なる神学的主張ではなく、テキストの分析から導き出されています。それは革命的です。
 「すべての肉」が出てきました。降誕節のテーマはその「肉」に御子であるイエスがなったことです。8章3節の「受肉」のテーマを避けることができません。チャレンジしてみます。
 上沼昌雄記

「隠れ家物語」2018年12月7日(金)

 今回も日本でのいくつかの「隠れ家」をベースに各地を巡回しました。それらなしには日本での活動は不可能です。それはこの25年間以上にわたって多くの方が宿泊場を提供してくださったことでミニストリーとしての活動ができたことに連なっています。それでもあるときに日本での活動の拠点を「隠れ家」とこちらが勝手に呼んだことで、ミニストリーの旅姿が出来上がってきました。
 「最上川の隠れ家」とその拠点を最初に呼びました。実際にはその場所の説明が複雑なのと、その場を隠しておきたいという思いがあって、そのような呼び名を付けした。あちこちと回っていても帰ってくることのでき、しばらく翼を休めることのできるところでした。今はいくつかの建物が出てたのですが、当初は見渡す限り畑の中でした。季節になると桃畑とサクランボ畑で豊かな実がなっているのを眺めていました。静かな時をいただき、次の旅に出かけました。
 「山形の隠れ家」は「最上川の隠れ家」の延長のように与えられました。市内の住宅地の中ですが、私にとってはその場所の説明ができないので「隠れ家」と続いて呼びました。その家の主ご夫妻も納得してくださったようです。じっとしているのですが、その主も牧師ですので、きわどいこと目面倒なことも話し合うことができます。そんな会話の場面として、このご夫妻はウイークリー瞑想にも登場しています。
 「大阪の隠れ家」は町の真ん中に与えられました。それでも街の喧騒からは逃れています。ご家族の配慮で自由に出入りができます。関西での活動には等距離で動けます。今回は名古屋まで日帰りで行ってくることができました。27年ほど前にバークレーでお会いしたのがこのような結果になっています。
 「武蔵野の隠れ家」は、教会の所有の家屋で、日曜日に使っています。東京での拠点に四苦八苦していたときに、牧師が「武蔵野の隠れ家」として使ってくださいと申し出てくれました。その意味では私が命名したのではないのです。牧師がそのように呼んでくださったので、文字通りに「隠れ家」として今回も数日滞在しました。一軒家で全部揃っているので、洗濯も自分でします。
 「札幌の隠れ家」は、神学校のゲストルームで、責任者を通して滞在許可をいただきます。チャペルや食事時間に合わせる以外は静かに時を過ごすことができます。路線の駅にも近いので活動も自由にできます。この一年2回滞在しました。神学校の一部ですので公のものですが、隠れ家にふさわしい佇まいです。
 これ以上説明をすると「隠れ家」でなくなってしまいます。それでもそれぞれの「隠れ家」の周りの人は私が滞在していることは分かっています。にもかかわらず、旅人にとっては身を隠すことができるのは助けです。「それは、主が、苦しみの日に私を隠れ場に隠し」(詩篇27:5)と言われていることに通じます。ただただ主が備えてくださった「隠れ家」です。そして、それぞれの「隠れ家」にはそれぞれの「隠れた物語」があります。
 そしてこのような者を匿ってくださる場を提供してくださる方々に、主の豊かな祝福があるように祈ります。逃亡者を匿ってくださるのではないので身の危険はないと思いますが、大きな犠牲を払ってさっているのは確かです。少しでも主が報いてくださることを願います。隠れ家でなくてもその都度宿を提供してくださる方々に、そして過去にそのようにしてくださった方々にも、豊かな祝福がありますように。良いクリスマス、そして新年をお迎えください。
 上沼昌雄記

「福音を恥としないとは」2018年12月3日(月)

 成田からサンフランシスコへのフライトの機内で千葉訳のローマ書とにらめっこしました。解説は読んできたのですが、ローマ書のテキストがどのように訳されているのか確認したくなりました。『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の下巻の最後に付録「パウロのローマ書、概観と新訳」として付いているものですが、機内で読んだのは2013年の紀要に出ている「私訳と解説」のものでした。
 いくつかの箇所で従来の訳とは趣を異にしていることに気づきました。その一つが「福音を恥としない」で始まる1章16節と17節です。そこでは「福音は、、、神の力」と「神の義が啓示され、信仰から信仰へ」というよく知られた二つのセンテンスが続いています。従来の訳では、これらの三つのセンテンスがあたかも独立した文章のようになっています。
 しかし千葉訳では、「というのは」で始まって、後の二つの文章が「なぜなら」で結びつけられています。そして実際に原典ではこれら三つの文章が同じ接続詞garで始まっています。ということは最初の文章の「福音を恥としない」は、「というのも、私は福音を恥としないからです」と、その前のことを説明していることになります。すなわち、パウロがどうしてローマの人たちに福音を伝えたいのかといえば、福音を恥としないからですと説明していることになります。
 従来訳では「福音を恥としない」ことを信仰の表明として宣言しているようで、どうしたらパウロと同じように福音を恥としないで伝道に携われるのかと自己反省だけが出て来ます。しかし接続詞を丁寧に訳すと、実際にはパウロがローマへの伝道を願う自分の思いを語っているだけで、福音宣教の動機を淡々と説明しているこが分かります。そしてさらにどうして「恥としない」かを、次の二つの文章で「なぜなら」と繰り返すことで説明しているのです。
 ここでの二つの説明は短いのですが、ローマ書全体でのパウロの福音理解を端的に語っていると言えます。それゆえに「福音を恥としない」ことの理由が鮮明になってきます。初めの説明は「なぜなら、福音は、、、神の力(デュナミス)」で、「ユダヤ人でもギリシャ人でもすべて信じる者に救いをもたらす」からです。
 そしてさらに「なぜなら」と説明を加えています。その時に驚くべきことに主語が「神の義」となっています。それが「啓示されているからです」と、どうして福音が神の力であるかを説明していることになります。そして、福音が「神の義」の啓示であるとは、取りも直さずそのまま3:21-26での神の義の説明に結びつくものです。パウロがそこに射程を定めて、この「福音を恥としない」ことの説明として「神の義」を語り出していると思われます。
 ここで注目して良いことは、この「神の義」の啓示の仕方としてen autowが添えられていることです。伝統的にはその前の「福音」を指すように訳されています。しかし千葉訳は「彼[イエス・キリスト]において」としています。文法的には両方が可能ですが、千葉訳は3:21-26での「神の義」と「イエス・キリストのピスティス」の分離のなさに通じます。同時にローマ書の冒頭の1:1-4で「福音」は「私たちの主イエス・キリストについてのもの」と説明されていることに適合します。
 すなわち、福音は信じる者に救いをもたらすのですが、それは私たちの信仰の強さによるのではなく、イエス・キリストのピスティスを介して啓示されているがゆえに、神の側でのこととして提示されているからです。それゆえにパウロは、福音をより多くの人に知っていただきたいと願うのです。そこには「恥」はないのです。
 このようにローマ書を理解している千葉先生ご自身も、大学の哲学のテーマとしてローマ書を取り上げ、福音の真髄を哲学の問いにも耐え得るものとして、テキストを通して提示することを恥としないのです。北大の恵迪寮祭での講演は哲学者による伝道集会と言えるものでした。
 私においても福音を「神の義」の「イエス・キリストのピスティス」を介しての啓示と理解することで、より多くの人に福音を伝える責任を委ねられていることに納得できます。恥じている暇はないのです。以前はどこかで福音を恥じていた自分であったからです。
 上沼昌雄記 
(追記:二つ目の説明のなかの「信仰から信仰へ」は、歴史的にも多くの解釈がなされている箇所でもあり、改めと取り上げたいと思います。)

「千葉惠先生を囲む会」報告

主にある友へ
昨日(5日)に北海道聖書学院を会場に「千葉惠先生を囲む会」持ちました。参加者は16名でした。チャペルでと思ったのですが、担当者の配慮で食堂で持ちました。ゆったりとした雰囲気となりました。千葉先生は午前と夕方の大学での授業の合間に来てくださいました。限られた時間でしたが、先生が提唱される「信の哲学」のエッセンスを「律法と福音」のテーマに絞って語ってくださいました。初めての方には慣れない用語も出てきて戸惑ったかも知れませんが、資料を準備してくださり、それに沿って話をしてくださったこともあり、「信の哲学」のポイントとそれに伴う千葉先生の愛と情熱は十分に伝わりました。またローマ書理解に関して刺激的な視点をいただいたことになります。16名の参加者ですが、信徒の方が多かったのは何を語っているのでしょうか。ローマ書に関心があり、現実に教えている教職者との対話が進展していけばと願っています。この講演とその前日の北大恵迪寮での講演会を本にしたいという出版社が出てきました。実現するか、どのように現実化するかはこれからの課題ですすが、「信の哲学」は信じる者にも信じない者にも共約的に魂の根底にある信・ピスティスを探求しますので、宣教の姿勢にも関わってくる大切なテーマです。少しでも理解が深まり、私たちの伝道と信仰生活に役立てばと願います。質疑応答でハンディを持っている方のための仕事をしている方の質問を反芻され、追加の返事を今朝私にくださり、補ってくれるようにと言うことでした。人間としてのテーマを放っておかない哲学者の真摯な姿勢に接しました。なお録音をしています。資料も数部残っています。関心のある方はお知らせください。私は無事に大阪の隠れ家に到着しました。感謝とともに。上沼昌雄

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