「内村鑑三とローマ書と」2018年2月22日(木)

 内村鑑三は1920年1月から1921年10月まで60回のローマ書講義をしています。『ロマ書の研究』としてまとめられています。(バルトの『ローマ書』は、第一版が1919年に第二版が1922年に出ています。)この講義に先立つ1914年にローマ書に関して、内村鑑三は次のような発言をしています。「旧約は新約を依て解すべし、新約は羅馬書を依て解すべし、羅馬書は其の第三章二十一節より三十一節を似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二十一節より三十一節までを解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず。」(『聖書の研究』172)
 すなわち、ローマ書3章21節から31節を解く人は聖書全体を解く鍵を神からいただいていると言うのです。内村鑑三自身が解くことができたのかというと、どうもできないで最後まで格闘していたようです。自分の葬儀ではこの箇所を読むことを願ったようです。千葉先生がこの「鍵」のことを、原稿の「あとがき」で触れています。
 千葉先生のご両親は内村鑑三の弟子の塚本虎二から聖書の指導を受けています。宮城の古川で家業の木材業を営みながら子供たちを聖書の訓戒で育てました。今回出版間近の『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の構想はそのご両親から「自然に与えられた宿題」と受け止めていると言います。その宿題が、まさにローマ書3章21-31節の鍵を解くことなのです。
 そのためと言えるのだと思いますが、千葉先生はアリストテレス研究から始めています。その上でローマ書の意味論的分析を通して、その「鍵」を解いていく作業を40年にわたってしてきました。「あとがき」で触れているのですが、内村鑑三の1914年の発言から一世紀経って千葉先生の鍵の解明が提出されたことになります。
 どのように提出されたのかは『信の哲学』の出版を待つ以外にないのですが、幸いに2013年に英文で”Uchimura Kanzo on Justification by Faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31という記事が、”Living for Jesus and Japan” (Ed. Shibuya Hiroshi and Chiba Shin, Eerdmans: 2013)に載っています。日本語でないのが残念です。
 そこで内村鑑三自身のローマ書3章21-31節を紹介し、その上で千葉先生自身の3章19-31節の訳と解説を添えています。あえて19節から解説しているのは、19節と20節はそれまでの「神の前での罪人」のあり方をまとめているからです。そして21節から26節でその対比で「神の前の義人」を取り上げ、27節から31節をその神の前での罪人と義人のあり方に対する「ひとの前」でのあり方を語っていると分析しています。この分析はローマ書全体にも当てはまるもので、その意味で3章19-31節の訳と解説は千葉先生の全体の視点を見渡せる箇所です。
 そして内村鑑三が「鍵」と言い、おそらく内村鑑三自身も解けなかったのは22節の「イエス・キリストのピスティス」の意味合いでした。ルターはじめ伝統的に「イエス・キリスト信じる信仰」と取ってしまうと、この箇所でパウロがただ神の前での啓示と信仰義認と義人のあり方を語っているところに初めから人間の側の心的状態を当てはめてしまうことになり、神学的なアポリアに陥ってしまうのです。それで千葉先生は「イエス・キリストのピスティス」の「の」を、N.T.ライトのように主格の属格でもなく、ピスティス(信、信実)が初めからイエス・キリストに属している「帰属の属格」と捉えるのです。「鍵」の解明の第一段階と言えます。
 さらにこの「イエス・キリストのピスティス(信)」が、神の義の啓示の媒体になっていることから、神にとって「義」と「信」の分離はなく、23節から26節をその分離のないことの説明と捉えています。この神の信義に対する人間の対応として信仰と徳を捉えることで、パウロの心身論への展開の可能性を観ています。神における信義の分離のなさは、「鍵」の解明の第二段階と言えます。
 3章22節に関してのこの二つの解明は、ヒエロニムスのラテン語訳『ヴルガーダ』以来覆い隠されていた「鍵」を解くことになると千葉先生は観ています。それは当然2千年の西洋キリスト教へのチャレンジとなりますが、日本では内村鑑三が格闘したローマ書への一世紀経ってのチャレンジともなります。ここに至って、目が離せないテーマをいただいていることになります。
 上沼昌雄記
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「捕囚の荷物」2018年2月19日(月)

 妻と読んでいるエゼキエル書の12章で、「捕囚の荷物」を造って、「捕らわれの身」として出て行く宣告が記されていました。この表現を観た途端に、その二日前に妻が用事で出かけている夕方に、ビデオで映画『シンドラーのリスト』で観た情景がありありと浮かんできました。
 家を追われて出て行くユダヤ人家族がスーツケースに大切なものを詰めている場面です。そしてゲットーに連れて行かれるのです。さらにそこから家畜用の貨物列車に乗せられてアウシュヴィッツに送られるときにはその荷物が取り上げられます。そして、ナチスの党員たちが荷物一つ一つを開けて、金目のもの、宝飾品、ユダヤ教の燭台であるメノーラーと仕分けしている場面です。
 ユダヤ人家族が淡々と荷物を造っている場面が、すでにエゼキエル書で記されていることに、この民の歴史性/現実性と超歴史性/超現実性を思わされました。ホロコーストのなかでこの人たちは自分たちの先祖が同じように「捕囚の荷物」を造って、「捕らわれの身」として出て行ったことを思い出しながら、それでも神の真実を信じて歩んでいる事実を噛みしめていたのかも知れません。自分たちが初めてではないことを知っていたのです。歴史の繰り返しなのですが、時間をも超えうる事実として受け止めていたのかも知れません。
 川越にいたときに南アフリカから来ていた日本人と結婚していたユダヤ人女性と知り合いになりました。ホロコーストを逃れて南アフリカに移住した家族です。子供さんの教育には金銭を惜しまないのですが、持ち物、特に家具などには一切お金をかけない生活をしていました。いつそこを離れなければならなくなるか体験的に知っているのだと分かりました。
 今住んでいるところは夏には山火事の心配があります。17年前に近くまで山火事が迫ってきたときに、何を車に積み込んで出て行くか直面したことを思い出します。それでも現実には身動きができないほどのものを身に纏っていることを認めないわけにいきません。それが豊かさにしるしであり、祝福のしるしであるとも思ってしまいます。
 ホロコーストの生き残りと言えるユダヤ人哲学者のレヴィナスが、西洋の故郷に帰る旅とユダヤ人の故郷を持たない旅を比較して、生き方と世界観の違いを語っています。その違いはまさに地上での旅人であるクリスチャンにも当てはまるのですが、しっかりと西洋的な故郷に帰り、そこを安全な住処とすることが神の祝福とすり替えてしまっています。
 人生の旅を誰もがしています。その旅で「捕囚の荷物」を造って担ぐことが神の民の生き様とすると、さてどうなるのだろうかと考えてしまいます。
 上沼昌雄記

「肉の弱さのゆえに」2018年2月15日(木)

『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』(上下2巻)の出版の前に、いただいている原稿で下巻に当たる部分をもう一度読みました。上巻でアリストテレスとローマ書の関わりを詳細に展開した上で、下巻でアウグスティヌスのペラギウス論争、アンセルムスの神の存在証明と贖罪論、ルターの義認論とトマスとの相違、カントの理性批判、そしてハイデガーの現存在の本来性と非本来性の意味を、「信の哲学」とすり合わせ対話しています。

その対話の可能性をもたらしているのが、ローマ書6章19節「汝らの肉の弱さの故にわれ人間的なことを語る」(千葉訳)のパウロの提示と言えそうです。上巻でその意味合いが詳細に検討された上で、下巻ではパウロ以来の神学的アポリアを解く手がかりとして繰り返し出てきます。それでその意味合いを自分なりに咀嚼しておきたく格闘しているのですが、自分の言葉で表現できないでいます。それで覚書として取り上げているのです。

「肉の弱さ」と言えば、直感的に罪に汚れている自分の肉の弱さを認めざるを得ないので、否定しようのない事実として受け入れることができます。「肉の思い」に支配されている事実があるからです。さらに、病を抱え、死に対面している肉の弱さを知らされています。「肉」には、その意味で、神の創造による生物的な存在としての意味と、アダム以来の罪性を抱えた両面があると、体験的に認めることができます。歴史的にも、当然のように教えられてきたし、そのように説教もしてきました。取りも直さず、その罪性を抱えている肉からの解放を救いと理解したところがあります。

(千葉教授は、バルトもJ.ダンもブルトマンもキッテルの辞書も、肉の両面性を前提に書かれていると言います。おそらくN.T.ライトも同じ方向だと思います。札幌の小林牧師から紹介された松木治三郎は肉の一義性を取っているのですが、残念ながらそれ以上の展開はなされていません。おそらく私たちが接する聖書注解はすべて肉の両面性を前提に書かれていると思います。)

千葉教授の意味論的分析は、「肉」のこの両面性ではなく、生物的な意味での一義性だけを認めます。その上で、罪の遺伝的理解はローマ書5章12節の解明から成り立たないこと、さらに、ローマ書8章3節の「罪深い肉と同じような形」での受肉の意味を説き明かしています。この上で、ローマ書6章19節の「肉の弱さ」を神の前での啓示をそのままでは受け止めることのできない人間の限界として捉えています。さらにその前後で「罪の奴隷」にも「義の奴隷」にもなり得る人間の状態をパウロが譲歩して語っていると言います。それで「肉の弱さ」は信じる者にも信じない者にも当てはまることで、異教徒への伝道を目指しているパウロの視点を支えているとみています。

この意味での「肉の弱さ」を千葉教授はローマ書5-8章での「ひとの前での相対的自律性」として、その前の1-4章での神の啓示の「神の前での自己完結性」と分節して、さらにその総合がパウロによって試みられているとみています。この分節を取らないで初めから融合してしまっているために、神の主権と人間の自由意志の間での神学的アポリアに陥っているとみて、歴史的な挑戦をしているのです。そのためにこの「肉の弱さのゆえに」パウロが譲歩して語っている視点を繰り返し提示しているのです。

この「肉」はすでに「人間」と訳されているケースが多いのですが、区別されているとし、さらにその「肉」にピスティスが宿る部位を認めいます。同時に肉の弱さのゆえに、聖霊の助けなしには神の前の理解に達しないことを認めています。それゆえに「肉の思い」と「御霊の思い」は対比されています。「肉」の一義性を確認した上で、ローマ書7章と8章でパウロが心身論を丁寧に取り上げていると言います。不明瞭に終わりがちなこの箇所に確かな光をいただくことができます。

ともかく現時点では、肉の一義性から始めて、ローマ書理解に大変なチャレンジをいただいていると同時に、神学的アポリアをまさに「美しく問う」方向をいただいています。『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約的か』の刊行後、心して取りかかりたく思います。

上沼昌雄記

「アンセルムス的かつマザーテレサ的証明」2018年2月5日(月)

 この表現は、刊行間近な千葉恵教授の『信の哲学』(北大出版会)で、アンセルムスの神の存在証明に「かつマザーテレサ的証明」と付け加えることで、「信の哲学」の意味合いを明確にするために使われています。実際には、アンセルムスとカントの神の存在証明の議論のせめぎ合いをしている箇所で、注意して読んでいないとついて行けなくなるのですが、マザーテレサが出てくることで、緊張感がほぐれ、そういうことかと納得できるのです。言葉を紡ぐことで神の存在の発見的探求をしている千葉教授の息吹を感じます。
 上巻では、アリストテレスから始まって、ローマ書の意味論的分析を克明に展開して、ピスティス(信)とは、神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、そして人のピスティス(信仰)であると提示しています。さらにその「信」が心魂の奥底で、認知的側面と人格的側面の両面を備えていて、相補的に機能しているとして、「信の哲学」の存在理由を語っています。
 下巻では、哲学と神学、理性と信仰の対話の可能性の歴史的事例として、初めにアンセルムスの神の存在論的論証をカントの議論との対比で紹介しています。その議論の中身を紹介できないのですが(できるほど消化もしていないのですが)、分かることは、カントは先の認知的側面と人格的側面を分離して別々に論じていることです。純粋理性批判と実践理性批判が分離している通りです。
 それに対してアンセルムスの神の存在論的論証は、全く言語次元でのことなのですが、背後に人格的信、神への信に対する信をもっていて、その言語次元のことが翻ってアンセルムスの信を生かしていると展開しています。それで「信を理解しようと思う者はそれを生きる覚悟が求められる」と千葉教授は言います。その生きる現場での信の理解の深さの証(マルチュリア)としてマザーテレサが出てくるのです。それで納得し、緊張も解けて、微笑みたくなります。千葉教授も笑みを浮かべながら書かれたのかなと想像もしてみました。
 これはまさに「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1コリント13:2)と言われてことになります。それで千葉教授は、愛の営みが人間の間でなければ、神がどこに存在しようとも、この地には存在しないことになるとまで言います。「神の存在論証の一つの系譜は各人が自らの生をかけて愛の存在を証明することである。」
 このアンセルムスへの道筋をすでにパウロが定めているというのが「信の哲学」の核心とも言えます。意味論的分析によりローマ書は、「神の前の自己完結性」(1-4章)と「ひとの前の相対的自律性」(5-8章)が分節され、しかも総合されていると観ます。言い方を変えると認知的側面と人格的側面の分節と総合となります。この分析は類を見ないローマ書の現実感を与えてくれます。
 そして、ローマ書でこの分節と総合を可能にしているのが、5章5節です。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」すなわち、前半にはない御霊の初穂である愛が、後半での人格的側面を導き入れる手立てになっているからです。これに基づいて7章8章で展開されるパウロの心身論(霊肉論)は、今までにない明晰さと一貫性を備えています。
 「かつマザーテレサ的」と付け加えられたことで、多少難しいイメージの「信の哲学」を、身近に感じることができたのと、愛の存在証明を持って神を語る責任を、スムーズに受け入れることができました。宣教することも、説教することも、神学することも認知的卓越性と人格的卓越性の両面が伴うことでなされるからです。取りも直さず、『信の哲学』の著者自身がそのように生きているからです。
 上沼昌雄記

「時代の移ろいとともに」2018年1月30日(火)

 新しい年も早くも1月が終わろうとしています。日々繰り返しの毎日を送り、自分の考え、取り組んでいることには変わりがないと思いつつも、時代の移ろいの大きな波に対面していることも確かです。
 前回村上春樹のことで、真似をしながら自分なりに文章を書いてきたことを記しました。それは容易なことであったという印象を与えたかも知れません。そのように思ったときに『村上春樹は、むずかしい』という本を書いている評論家がいることに気づき、しかも一昨年この欄で取り上げたことも思い出しました。それで再度読み直しました。村上春樹の小説が戦後の時代の移ろいとともに変化していることを見事に解説しています。
 この評論家は戦後70年の時に『戦後入門』という本も書いていることが分かりました。幸いにその書に基づいての講演のビデオを観ることができました。戦後70年経っても「戦後入門」と言い張る意味合いを多少理解できました。その70年の時代の移ろいに村上春樹の小説一つ一つが位置づけられている説明には説得力があります。
 確かに『ねじ巻き取りクロニクル』でノモンハン事件を取り上げ、『アンダーグランド』では1995年の地下鉄サリン事件の被害者たちのことを取り上げていることからも、この小説家が歴史と時代の移ろいに敏感に対応していることが分かります。
 かつてこの欄で「聖書の絶対性と神学の相対性」を記したことがあります。神学は時代の移ろいで変化するものであることを自分に言い聞かせたのです。知らないうちに自分たちの神学的な枠を絶対視し、その枠で逆に聖書を読んでしまう傾向があるからです。それだけ自分の神学を変えていくことは難しくなります。
 7年前に書いた原稿を読み直しています。聖書の出来事を中心に折々に自分の神学的アポローチを書いています。その時点ではその記述で十分と思ったのですが、今はそれだけでは何かが足りないと感じています。この7年の間にN.T.ライトの創造から新創造という一大パノラマを知り、『クリスチャンであるとは』を訳出しました。さらに千葉恵教授の『信の哲学』の原稿を読み、ローマ書への意味論的分析を体験しました。
 ある時点から自分の中で神学の脱構築を試みてきました。2千年の神学の歴史と聖書の世界の乖離を経験したからです。それで神学を一度解体しないと次に進めないと分かったからです。解体しても聖書は変わらないからです。ただ解体して次にどのようなことが展開するのかは余り見えていませんでした。今でも明確ではないのですが、ただ聖書にどのように接したら良いのかについて、少しでも責任をもって態度表明していく必要を感じています。単なる再構築では繰り返しになります。
 その責任のことを、N.T.ライトの次の書Virtue Rebornの訳出を試み、「徳」のテーマを確認し、千葉教授の「信の哲学」での心の根底での「信」の認知的側面と人格的側面の調和の可能性を知ったことで、より身近に感じるようになりました。
 年が変わってしばし居心地の悪さを感じています。新しいチャレンジをいただいているのかも知れません。今までの繰り返しでは対応できない状況になっているからです。それは時代の移ろいであり、それに伴う神への責任と言えそうです。
 上沼昌雄記

「文体のネジを締める村上春樹」2018年1月22日(月)

 暮れにカズオ・イシグロのことを書きました。そして、印象深い『日の名残り』を再読しました。年が明けて、ポール・オースターの不思議な『幻影の書』も再読しました。どちらも翻訳ですが、それぞれの雰囲気が余すことなく伝わってきます。それでも日本語で直接に書かれたもので文章を味わいたくて、村上春樹の『スプートニクの恋人』を読み出しました。何度も読んでストーリーは分かっているので、文章をじっくり追いながら読むことにしました。ある対談でこの小説の文体のことを本人が語っているからです。
 ともかく読みながら、こんな文章は絶対に書けないという思いと、それでもこのような書き方であれば自分なりに書けると思ったことを思い出しました。それで文章を書き、本も書くようになったからです。初めにそのように思うようになったのは、アイルランドへの村上春樹の紀行文でした。夜ホテルから抜け出して、近くのパブのカウンターで本を読んでいるときに、馴染みの客と思われる初老の紳士がカウンターに近づいて、無言でコインを置き、無言のまま差し出されたグラスを時間をかけ、思いにふけ、静かに飲み干して立ち去っていく情景を記している文章に出合ったときでした。
 その件を何度も読み、うならされ、絶対にこんな文章は書けないと思ったのと、それでもこのように目に前に展開されていること、あるいは目の中で展開さえていることを、最大限に丁寧に書いていくことであったら、自分なりにそれはできると思わされたのです。その紳士の描写には何も難しい言葉も表現も使われていません。それでいて見事にその情景を描いています。それで恥の掻きついでに文章を書くようになりました。村上春樹が小説を書く前にしていたスナックに通っていたという友人の励ましもありました。
 『スプートニクの恋人』は徹底的にネジを締めた小説と、村上春樹が言っています。ストーリーはどこにもたどり着かないもので、ただ文体を煮詰めることに腐心したことを認めています。「文体の隙をなくし、よじれをなくし、たるみをなくす。つまり、文体のフィットネス」と明言しています。という著者の意図が分かって読み出すと、陳腐な言い方なのですが、全く余分な文章がなく、ストーリーも隙間なしに進んでいながら、追い立てられる感じがしません。「比喩を徹底的に多くしよう」と決めていたようで、その比喩の見事さが文章に緩やかさをもたらしています。
 実際に村上春樹がどのようにして文体を締めていったのか、その痕跡をたどることができないのが残念です。それでもその思いで自分の文章を読み直してみると、ネジの緩みがどこにもあることに気づきます。少しでも締め付けてみると文章の流れがスムーズになります。家具や機械のネジを締め直してみると動きがスムーズになるのと同じです。それを一カ所ずつ点検して、隙もよじれもたるみもなくなった『スプートニクの恋人』を読むと、著者の息づかいが伝わってきます。
 妻と聖書を読むときに同じ箇所を日本語と英語で声を出して読むのですが、どうしても日本語で読む方が少しだけ時間がかかることに気づきました。日本語の母音の多さだと妻が言ってくれました。同時にどうしてもリズムに乗れない文章に出合って、読んでいて分からなくなることがあります。聖書翻訳も限りのない作業であると分かります。
 2018年の初めに取りかかっている課題です。
 上沼昌雄記

「美しく問う」2017年12月27日(水)

 この一年の総まとめの一つは、ただひたすらに千葉教授の『信の哲学』の原稿を読んだことと言えます。初稿原稿、最終原稿、そして初校のコピーと三段階で目を通すことができました。原稿の段階で800頁にも及ぶもので、最終的には1400頁の大著になるものです。編集作業も最終段階を迎えているようです。
 千葉教授は無教会の熱心な信徒で、心の篤い方ですが、アリストテレスを専門とされる哲学者です。篤い信仰の持ち主で、プラトンとアウグスティヌスを専門とされるとなると、私たちプロテスタントの世界ではそれなりに通用するのですが、アリストテレスの専門となると、さてどのようにと思わされます。特にカトリックの聖書とアリストテレスを統合したスコラ神学とどのように違うのかとの問いも出てきます。
 おそらくその違いは、スコラ神学はアリストテレスの哲学の結論を神学大系のために用いているのですが、千葉教授はアリストテレスの哲学の姿勢を、ローマ書のテキストの解明の手がかりとしている違いと言えそうです。採用しているのではなく、アリストテレスの哲学における存在の解明の仕方と、パウロの神の業の解明、具体的には神の義の「イエス・キリストのピスティス」を介しての啓示の解明の仕方に、共通性を見いだそうとしているのです。それは、副題で「使徒パウロはどこまで共約的か」と疑問符がついていることからも分かります。
 そのアリストテレスの哲学の姿勢を「美しくアポリア(行き詰まり)を提示する」ことと、『形而上学』3巻(哲学難問集)の1章から紹介しています。(岩波文庫では「難問(アポリア)に入ってよろしくこれを究明しておくこと」と訳されています。)人はアポリアに陥っている限り、足枷を架けられた状態で先に進むことができません。ただ「美しく問う」ことで、少しでもその足枷から脱却して思考の前進を期待できるからです。
 この姿勢をもって千葉教授はローマ書に対面しています。パウロは当時の共通語であるギリシャ語で誰にでも分かるように神の福音を提示しています。それで文字通りにテキストの意味論的分析を施すことで、すでに陥っているアポリアから少しでも抜け出せるとみています。言い方を変えると、ローマ書解釈はすでにいくつかのアポリアを抱えていて、いわゆる解釈学的循環から抜け出せないでいます。神の主権と人間の自由意志、律法と福音、罪の遺伝的理解、7章の「私」、霊肉二元論等に関して、すでにそれぞれの教派の理解が「密輸入」されていて、そこからくるアポリアに足枷を架けられた状態です。
 そのアポリアの提示と、それを「美しく問う」ことで導き出されたのが3章22節の「イエス・キリストのピスティス」です。従来通りの「イエス・キリストを信じる信仰」と訳すことで出てくるアポリアを丁寧に、美しく提示して、その代わりに「イエス・キリストの信実」ととることで開かれてくる可能性を美しく問うています。その手だとして意味論的分析を施します。それはまさにそこで使われている用語を丁寧にほどいていく作業と言えます。というのは、「イエス・キリストの信実」が、「神のピスティス・真実」と「私たちのピスティス・信仰」との媒体の役割をしていることが明らかになるからです。
 そしてこのことは、さらに「神の義」と「イエス・キリストの信実」の一致を結びつけ、神において「信義」が一つであることを「美しく問う」ことへ導きます。そしてさらに反転して、その神の「信義」にふさわしい私たちの「信義」のあり方へと展開していきます。すなわち、ピスティスは「信仰」であり「信実」であるので、私たち人間の基本的あり方、そして人格的徳をもたらすものとして提示されます。ピスティスを心の根源的なあり方として美しく提示すること、それがまさに「信の哲学」です。ピスティスのあり方が美しく提示されることで、まさに神の義が輝き、私たちの心の信実も浮び上がってきます。
 もしかすると、神学的な提示というのは「醜い」ものなのかも知れません。神学的な枠を聖書に「密輸入する」ことで、神の世界をこちら側に引き寄せてしまうためです。こちらの理解をそのまま神の意志のように語り、あたかもアポロアを自分が解いたように思い、それを認めない人を排除することになるからです。神学的理解はドグマになり、足枷となり、時には異端審問の道具にもなるのです。
 「美しく問う」こと、こんな言葉がこの『信の哲学』には紡がれています。そしてその通りにローマ書が解きほぐされています。神のことが当時の誰にでも提示されている通りに、いまの時に解きほぐされています。それは千葉教授の専売特許でもありません。神のことばは誰にでも美しく差し出されています。その美しい神のことばが美しく提示されることで、私の心のねじれも解きほぐされていきます。美しくみことばを解き明かすすべを身に着けたいと願います。
 上沼昌雄記

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