「知ることと信じること」2017年11月20日(月)

 2週間前に「信じること」として、メルヴィンの15ヶ月の娘シェリーが、どこかでこの変なおじ(い)さんは大丈夫だという判断があって、それなりに安心して抱かれていたことを記しました。「信じること」にはそのように、どこかでこの相手は信頼できるという判断を与えてくれるそれなりの知識行為が働いていることが分かります。パウロがそのことをガラテヤ書2章16節で展開していることを、千葉教授が親切に解き明かしています。従来の訳語を点検しながら確認きればと願います。
 「しかし、人は律法の行いよっては義と認められず」と始まるのですが、その対比でほとんどの訳が次に「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって」となっています。しかし、ここは正確にはローマ書3:22と同じで「イエス・キリストのピスティスを介して」となります。「イエス・キリスト」の順序も正確を期さないといけないし、ピスティスの前の前置詞も「介して」ととるのが適当です。その「の」も従来のような意味ではなく、イエス・キリストそのもののピスティスとなります。それでここは、「イエス・キリストの信実を介して」初めて義とされることが歴史的に啓示されていて、それを「知っているので」となるのです。
 パウロはここであえて何を知っているのかを確認しています。それはローマ書3;22と同様に、人が義とされるのは、「私たちの信仰」のまえに、「イエス・キリストのピスティスを介して」提示される神の義があって、それを「知っているので」というのです。すなわち、神の啓示の順序に従って私たちも知ることになると正しているのです。その上で初めて、「私たちもキリスト・イエスを信じたのです」と「私たちの信仰」のあり場を語っています。信じるという動詞形で英語のbelieve inのinに当たるギリシャ語eisが「キリスト・イエス」の前に付いています。eisと「イエス」の母音が続くのをパウロが避けるために「キリスト・イエス」としたと千葉教授が指摘します。
 ここで「イエス・キリストのピスティス」とその上での「私たちの信仰」が二段構えで捉えられていることが分かります。「信の二相」と千葉教授は呼ぶことで、従来の訳語にはその区別を見られないために混乱をもたらしていると指摘しています。この区別が分かると私たちの信仰の前になされた神の啓示の業を、信仰以前の知識として認めることができます。ローマ書ではその啓示は「ギリシャ人にも未開人にも」誰にでも提示されていると見ています。
 ガラテヤ書2:16では、この信の二段構えを明確にして、さらにその目的がhinaという接続詞(3:22,24参照)で結ばれて、次のようになるのです。「これは、律法の行いによってではなく」といって、従来の訳語は次に「キリストを信じる信仰によって」と訳しているのですが、正確には前置詞ekのゆえに「キリストのピスティスに基づいて」義とされる「ためである」となります。あくまでも「キリストの信実に基づいて」と神の側でのことに視点を当てています。以上を踏まえて「すべての肉は」「律法の行いによっては義とされない」と結んでいます。
 ルターもこの箇所を大切にしていますが、むしろ「信仰のみによって」と捉えていることが『ルター・世界の名著』から分かります。ルターの信仰の純粋さは疑うべきでないのですが、パウロはその信仰のプロセスをもう少し丁寧に取り扱っています。すなわち、信仰の内容を明確にすることで、さらにその内容をそれこそ信じられるかどうか吟味して判断する「内なる人間」の心魂の根底の動きに、パウロはことのほか敏感であったと言えます。
 このように、パウロが「知っているので」「私たちも信じたのです」と信仰の筋道を語っていることを千葉教授を手がかりに確認することで、私の中で高校生の時に宣教師を通して信仰を受け止めていった道筋を思い起こすことになりました。私の信仰の前になされたイエス・キリストの信実があって、それ故に神の義が歴史的に啓示されたことが基盤としてあったのです。それに対して不思議に信じてよいのだというう判断があって、歩み出したのです。それは初めなのですが、実は今に至るまで、神の真実(ピスティス)は大丈夫だという判断が折々にあってここまで来たのです。
 という信仰の振り返りをガラテヤ書2章16節で確認できて、私の心は深い納得をいただいています。
 上沼昌雄記
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「知ることと生きること」2017年11月13日(月)

 N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』の答えとして「真の人間になること」と結んでいます。その真の人間であることを具体的に Virtue Reborn (2010年 米国版タイトル After You Believe)で取り上げています。ライトは聖書の世界を新天新地に至るものとして論理的に描き出しているだけでなく(その展開自体も素晴らしいものですが)、 その新天新地に至る約束をいただいているものとして、今この時にどのように生きるのかと実践面も同様に取り上げています。この書 Virtue Reborn を知ったときに、ライトは本物だと思ったものでした。
 具体的に、律法の中心的なこととして神を愛することと隣人を愛することが、律法学者とイエスとのやりとりで語られています。さらに隣人を愛することが、キリストによる律法の成就に関わることが分かりました。それで「それを実行しなさい」と言われ、その上で「そうすれば、いのちを得ます」とまで言われています。それで妻と祈るときに具体的に隣人のために祈ることを始めました。最初はすぐ周りの3家族だけでしたが、不思議なことに今はさらに延長して6家族のために祈るようになりました。またその延長でこのコミュニティーのすべての19家族のためにも覚えるようになりました。
 このアメリカの地で地域や社会のために具体的には何もできないのですが、隣人のためには祈ることができます。「そうすれば、いのちを得ます」とまで言われていることはとんでもないことですが、もしかするとそうなのかも知れないと感じることがあります。その感じの一つは周りの人たちが結構親切に私たちに接してくれるのです。私たちもコミュニティの一員だと感じて安心できるのです。
 並行して読んでいる千葉教授の刊行予定の『信の哲学』は、ローマ書15:18の「キリストは、ことばと行いにより」神のみ業を成し遂げたことを、信の哲学の可能性の典拠にしています。すなわち、ことば・ロゴスだけでなく、行い・エルゴンの両面によって神の啓示が理解され、具体的に宣教が広がっていったからです。聖書をことば・ロゴスとして、すなわち理論として理解するだけでなく、私たちがそのことばを生きることで、神の啓示の恵みが広がっていくのです。
 千葉教授は「ロゴスとエルゴンの共鳴和合」と呼んでいます。それは人の心魂の根底で、信・ピスティスの働きによって認知的な面と人格的な面とが調和されるからと見ているからです。その心魂の根底での信・ピスティスはすべての人に与えられていています。ただその信・ピスティスが神のピスティス・信実にヒットするときに、まさに神を知ることと神のいのちに生きることが私たちの内で調和されるのです。そうすることで神の恵みが私たちを通して証しされます。さらにそうすることで不思議に心に深い納得をいただきます。知ることと生きることが調和しているからです。
 ライトは Virtue Reborn 「徳の再生」と言い、千葉教授はロゴスとエルゴンの共鳴和合と言います。興味深いことにどちらもアリストテレスを向こうに見て、クリスチャンの生き方、知と業の統一を語っています。それはキリストと御霊によってのみ実現されるものです。千葉教授は特に「イエス・キリストのピスティス」によって神の義と信が一つのものとして明らかにされたからと見ています。どちらも目を離せないものを含んでいます。知ることと生きることの心魂の根底での調和に関わるからです。
 上沼昌雄記

「信じること」2017年11月8日(水)

 「信じること」は、神のかたちに造られているひと誰にでもその心魂の深くに備わっていると言えます。それゆえにこそ、人と人との信頼が生まれてきます。過ぎる聖日にメルヴィンが一歳過ぎたシュリーを連れて来ました。礼拝後に彼と立ち話をしながらシェリーの様子を見て、大丈夫そうと思って彼女を抱きました。すぐにダデイーはここだよとって目の前のメルヴィンに話しかけている内に安心したようで、メルヴィンが用事でいなくなっても心配なしに抱かれていました。一歳過ぎた幼児がこちらを信頼して安心しきっているのは、それだけで心が温まるものです。妻は私にはベビー・マグネット(磁力)があるのだと言います。
 今取り組んでいる千葉恵教授の1400頁の原稿のタイトルは「信の哲学」です。英語では Philisophy of Faithfulness になるようです。信仰、信実、真実、誠実とも訳されるピスティスを千葉教授は端的に「信」と表現します。「心魂には信だけが宿りうる場所がある」と言います。たとえ「信じます」と言い表さなくても、ただ信頼してしていく働きが心の深くにがあります。シェリーもどこかでこの変な人は大丈夫という判断があってじっと抱かれていたのだと思います。妻が抱こうとしたらどういうわけか嫌がりました。
 すでに何度か書いてきたのですが、ローマ書3章には「神のピスティス」「イエス・キリストのピスティス」そして「私たちのピスティス」と使い分けられています。「信の哲学」は、神の信には信で対応することが最も理にかなっていると主張します。神の信実に私たちも信実を持って対応していくことです。なぜならイエス・キリストの信実が神と人との間での媒体となってくれたからです。
 次の聖句に注目します。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和を持って満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ書15:13) ここでの「信仰による」を千葉教授は文字通りに「信じることにおける (en to pisteuein)」と訳して、信じるという行為と、さらにあえて目的語が記されていないことを大切にします。というのは、もし信が真実なものであれば、その対象からの何らかの促しに基づいてただ「信じます」と心が動き、信には信による対応だけがふさわしい人格的な交わりが生み出されてくるからです。
 イエスが言われるように、誰でも幼子のようであれば、「信じること」が心魂の最も根源的な行為として働き、安心して自分を委ねることで、そこに信頼と喜びと平安が生まれてきます。シェリーも少しずつにこちらが信頼できるか判断能力が働いて躊躇することになります。それでも時間をかけてでも信頼され、一緒に戯れることができれば、喜びが沸いてきます。
 「信の哲学」と言うとかしこまった言い方になるのですが、「信じること」がすべての人の心魂の根底にしっかりと場所を占めているのだと言われると納得できます。それをパウロはローマ書で、「神の信実」と「イエス・キリストの信実」と「私たちの信仰」との関わりが言語網を異にしながら展開していると言います。それによって、信には信に対応することが神のかたちに造られている人間の本来的なあり方だと分かるからです。
 
 そのように「信じること」が自分にも自分の周りにも浸透していったら、自分の接する世界も景観も随分変わってくるのでしょう。親子で、夫婦で、友や隣人や仕事仲間との間で、そして社会でも、国家でも、「望みの神」が深い「喜びと平安」で満たしてくれるだろうと期待できます。
上沼昌雄記

「私たちの誇りは、、、」2017年11月2日(木)

 律法をいただいていることはユダヤ人にとっての誇りでした (ローマ2:17,23)。その誇りが、信仰義認に関わるローマ書3章21節以下で、「すでに取り除かれてしまった」(27節) とパウロは宣言しています。どの「律法」(「原理」ではない) によってかと問いかけて、「行いの律法」ではなく、「信仰の律法」によってと、律法を区別することで説明しています。「行いの律法」」あるいは「律法の行い」では私たちに「誇り」が出てきます。それが「信仰の律法」によってもはや取り除かれたことで、視点が私たちの信仰ではなく、22節にある「イエス・キリストのピスティス」に移ったからです。それが「信仰の律法」となったのです。「キリストの律法」(ガラテヤ6:2) とも言えます。
 この「信仰の律法」によって一度取り除かれた誇りが、また「信仰の律法」のゆえに私たちの内側に神への誇りとしてよみがえってきます。「私たちがこの世の中で、特にあなた方に対して、聖さと神からくる誠実さによって、人間的な (肉の) 知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」(2コリント1:12) さらに端的に言っています。「誇る者は、主を誇りなさい。」(10:17)
 私たちの心の中のある面で自然的な状態として「誇り」があることをパウロは否定をしていません。むしろ適切な仕方で発露することで、それこそ人間としての尊厳にまで関わるように見ています。信仰生活でも聖書理解でも何かが自惚れになれば、それは自分を誇っていることになります。それを自粛し栄光を神に帰すことで神自身を誇りにすれば、信仰の成長になり、それはまたその人自身の徳にもなります。それはしかし、結構難しいバランスです。
 このテーマについて、このところ取り扱っているN.T.ライトと千葉教授がともに、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』4巻3章との対比で取り上げていることに、期せずして直面いたしました。ライトには英国版のタイトルとして Virtue Reborn という本があります (米国版のタイトル After You Believe ) 。クリスチャンの生き方を取り扱っていますが、Virtue Reborn のタイトルが語っているようにアリストテレスの徳の倫理がキリストによる信仰と希望と愛によって再生すると見ています。アリストテレスの徳は、しかし、自分で獲得するものなので「誇り」になる傾向を持っているからです。
 千葉教授は、アリストテレスのテキストに当たって、パウロの「誇り」とは異なって「高邁な者 (誇り高い者) 」という表現が使われていて、その人は「自らを値に即して値する者」で、「自惚れ者」と「卑屈者」の中間であると見ています。アリストテレスにとっては、この高邁さが高貴な人格のゴールになっているのですが、初めから理想的なあり方を設定しているのが分かります。それがまさに哲学です。現実にはだれもが自惚れと卑屈のどちらかに偏っていると言えます。
 パウロも自分の行いによることであれば「誇り」が内に芽生えてくることを知っています。同時に行いでは律法を全うできない自分の罪が明らかにされるだけです。神の義をいただけるのはイエス・キリストの信実によってのみであるので、私たちの誇りはすでに取り去られています。またそれ故にそのキリストを誇ることができるのです。「誇り」という人間の心の状態をそのまま認めています。それがキリストのピスティスのゆえにふさわしい状態におかれるためであるからです。
 期せずして、N.T.ライトと千葉教授がともにアリストテレスのテキストに言及しながら、聖書との結びつきを見ていることが分かります。それはトマス・アクィナスのように聖書とアリストテレスを結びつけるものではありません。特にパウロの宣教の言葉も当時の支配的な思想との交流の中でもまれながら、共通性 (千葉教授は「共約性」と言います) を持ちながらも、神の啓示の故に哲学では届かない人間のあり方が「イエス・キリストのピスティス」のゆえに可能になったと理解しているからです。今まではどちらかというと、それらとは全く関係なしに純粋に神のことだけとして信仰的に神学的にとらえてきたのですが、具体的にアリストテレスとの共通性を提示することで、福音が全世界のためであることを再確認していることになります。
 N.T.ライトは、それは聖書が新天新地を目指しているためであり、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」(イザヤ11:9) ことを願っているためであると理解しているからです。千葉教授は、ローマ書3章で啓示されているイエス・キリストのピスティスにる神の義の啓示は、「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」(1:14) 提供されているためであると理解しているからです。
 それにしても「誇り」という微妙な心の状態をアリストテレスもパウロも取り上げていることにN.T.ライトと千葉教授ともに注目することで、聖書理解の幅を広げていることになります。同時にどうしても「自慢」をしてしまうか、「卑屈」になってしまうかの微妙で複雑な心の世界を見せられています。
上沼昌雄記

「宗教改革500周年に際して」2017年10月25日(水)

 来る10月31日が宗教改革500周年記念日になります。その前数百年と支配していた中世カトリックの世界から脱却して福音信仰への新しい門戸を開いてくれました。教会の権威ではなくて、聖書の権威の故に啓示された福音をそのまま信じる信仰を獲得しました。大きな重い遺産をいただいていることになります。
 この宗教改革500周年に合わせるように、ルターの語っていることに直接的に関心を持つようになりました。今まではいただいている遺産の上にあぐらをかいていたのですが、ルターのとらえた世界が同時にどのように聖書理解に影響しているのか気になってきました。それは直接的には千葉恵教授のローマ書のテキストの徹底的な意味論的分析に接したことがあります。その前にN.T.ライトによる信仰以前といえる創造から新創造の一大パノラマの聖書の世界に接したこともあります。さらにその前にユダヤ人哲学者のレヴィナスによるモーセの律法における「やもめ、みなしご、在留異国人」への配慮を、哲学が観てこなかった「他者」として取り上げていることに関わってきます。
 ルターの「信仰のみ」はその通りなのですが、その福音信仰の対にある「律法」の否認は行き過ぎのように思います。新改訳聖書第三版でローマ書10:4は「キリストが律法を終わらせたので」とあるのですが、それはルターが『ローマ書講義』で語っていることで、そのまま踏襲されてきました。むしろキリストの信実によって律法が成就したのであり、その結果具体的に「やもめ、みなしご、在留異国人」を隣人として愛していくことが求められているのです。それで隣人のために祈ることを少しでも実行するようにしています。
 N.T.ライトは聖書の創造から新創造の一大パノラマを提示することによって、ルターによる信仰義認が信じている私たちの世界にこだわり過ぎると警告しています。歴史的には、私たち自身の信仰理解、聖書理解が大切で、その結果それぞれの聖書理解による教派を生み出してきました。それは悪いことではないのですが、自分の信仰理解を絶対視してしまう危険性を持つことになりました。少しでも異なった聖書理解を排除することが聖書信仰にまでなってしまっています。
 その上で千葉教授のテキストの意味論的分析に接して、その成果であるローマ書の言語分析を読むことで、テキストそのものへの関心を呼び覚まされました。そして今手にしている邦訳聖書もルターの理解に近いというか、影響されているのではないかと思うようになりました。先のローマ書10:4の訳語と同時に、すでに取り上げてきたローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」の訳語もルターから出ていると言えそうです。
 そうなるとルター自身のテキストの読みも気になってきました。幸いに新教出版社から『ローマ書講義』(上下)が出ています。『ガラテヤ書講義』も「世界の名著」でその一部を観ることができます。『ローマ書講義』には差し込みでルターの講義録の写真が載っています。そこからも分かるのですが、ルターはラテン語訳をテキストにしているのです。そうするとローマ書の原典はギリシャ語ですので見逃せないテキストの問題を抱えていることになります。
 というところで個人的に宗教改革500周年を迎えています。ルターの原点に戻された感じですが、現時点ではローマ書のギリシャ語原典と格闘していますので、ルターのテキストには入ることができそうにありません。そのための資料もそろっていません。ただ同じように関心を持ってくださる方がおりましたら取り組んでいただければと思っています。特に若い方々に期待をしています。
 それにしても聖書理解には重厚な歴史があることが分かります。その一端を誰もが担っています。『新改訳聖書2017』もまさにその一端です。取り上げたローマ書3;22と10;4に関しても検討がなされてきていることが分かります。という動きの中で多少なりともまだ責任を負わされているのかなと思っている次第です。
上沼昌雄記

「私には、自分のしていることがわかりません。」2017年10月19日(木)

これはローマ書7章15節の新改訳聖書の第三版の表現です。『新改訳聖書2017』でどのように変わっているのか分からないのですが、罪の縄目に苦しむ心の表現として、パウロに同調するように、心の深くにしっかりと留まっていてます。自分の意に反して自分が動いてしまってどうすることもできない心の状態を言い表していると納得し、心の深くでその通りと繰り返してきました。別の言い方では、この言い回しは的確に自分の心を言い表してくれると納得してきました。納得してきたので、それ以上の言い回しが可能なのか考えもしませんでした。
 千葉教授は意味論的分析を施して次のように訳しています。「というのも。われが[最終的に]成し遂げるところのものをわれは認識していないからである。」単に漠然と何かを「している」ではなくて、「成し遂げるところのもの」と明確な目的語を伴った文章であると指摘しています。そしてその目的語とはその前の13章で「罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって」で言われている「死」であると言います。興味深いのですが、ブルトマンはそれを認め、ケーゼマンは認めていないと注のように加えています。さてそれではN.T.ライトはどうなのかと思って彼の注解書をみたのですが触れていないようです。
 実はこの前後で「行う」とか「実行する」という別のギリシャ語が使われていて紛らわしいところですが、17節でも「成し遂げる」が明確に目的語を持って使われています。第三版では「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」となっています。この表現も何度も繰り返し自分の心に言い聞かせ、そのまま心の襞にしっかりと留まっていて、このローマ書7章の理解の手がかりとしてきました。しかしそれは漠然としたものではなくて、すでに13節から始まって「死を成し遂げている」心の状態を語っているという指摘に衝撃を受けました。自分の言葉でも行為でも、自覚していなくても、確かに肉の結ぶ実として死をもたらしていることが分かるからです。
 肉にある私たちは罪の結果としての生物的な死を迎えます。それでも内なる人として神の律法を喜んでいて、そこに御霊の執り成しが働いて霊の実を少しでも結ぶ人生をいただいています。ローマ書8章2節で「いのちと御霊の律法」を「罪と死の律法」に対していただいているからです(第三版では「原理」となっていますが、前後関係から「律法」とるべきところ)。その内なる人に御霊をキャッチするヌースが働いて、そのヌースの刷新(「心の一新」ローマ書12:2)によって外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされています。
 そうでありながら肉がそのまま動き出すと知らないうちに「死を成し遂げている」ことに、恐れながら気づきます。その死とは、人との関わりでは、その人との間に死をもたらすだけでなく、その人を生かせないという意味でもその人を死に向かわせてしまうことがあります。どうしても批判的に人を見てしまいその人が生きる道を閉ざしてしまうことがあるからです。妻や夫に対して、子供に対して、親に対して、友に対して、近隣の人に対して、教会の兄姉に対して、牧師に対してどこかで「死を成し遂げている」のです。
 これは消極的な言い方なのですが、私たちの務めは積極的にその人を生かしていくことにあります。そのためにはこちらが死ぬこともあるのです。しかし視点を変えれば、キリストともにすでに十字架で死にましたと過去形で言えることです。その死を体験しているものとして、さらに積極的に人を生かしているのか、知らないうちに人に「死を成し遂げている」のか恐れを覚えるところです。今までの自分の言葉や行動で死を成し遂げてしまったことに気づきます。
 しかし「いのちと御霊の律法」をいただいているものとして、どのようにしたら死ではなくその人にいのちを成し遂げることができるのか、歳とともに考えています。正直結構難しいことですが、まだ遅すぎないと言い聞かせています。なぜならばそのために生かされているからです。またそのためにこそ「イエス・キリストのピスティス」が神との間の媒体となってくれたからです。
上沼昌雄記

「イエス・キリストのピスティスを介して」2017年10月12日(木)

N.T.ライトFB読書会に属していて、そこに『新改訳聖書2017』が書店に並んでいる写真が掲載されていました。いよいよ出たのかという感動と同時に、そこでローマ書3:22の「イエス・キリストのピスティス」がどのように訳されているのか気になりました。ということを察してくれたように札幌の小林牧師が「イエス・キリストの真実」と脚注に載っていると教えてくれました。ガラテヤ書2:16も同じように脚注に載っていると確認してくれました。本文では多分従来通り「イエス・キリストを信じる信仰」となっているのだと思います。この秋の日本の旅を延期していますので、本文を手にするのは先になります。
 現在の聖書学の成果を踏まえて少なくとも脚注に載せてくださいと文面でお願いしたこともあって、気になっていたことでした。聖書理解の一つの前進であると思います。それでも「イエス・キリストのピスティス」なので訳語として「イエス・キリストの信実」でもよいのではないかとも思います。おそらくローマ書3:3に「神のピスティス」が出てきますので、それに合わせたのでしょう。それではなぜ「イエス・キリストのピスティス」がそれほどまで大切かというと、神の啓示の媒体に関わるからです。それはまた信仰義認の理解に関わるからです。特にローマ書3章21節から26節は、神の義が「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されていることを説明しています。信じられないほど注意深くパウロは提示しています。
 それで分かることは、従来通りの「イエス・キリストを信じる信仰」だと、神の義が私たちの信仰を媒体としていることになり、すなわち、私たちの信仰で神の啓示が左右されることになり、それはあり得ないからです。ただ歴史的にもルター以来それが私たちの信仰形態になっていて、私たちの信仰の心の状態のことが第一の関心事になっていると言えます。それに対して神の義はまさに「イエス・キリストのピスティス」を媒体として示されたもので、神の啓示の神の前での完結性が語られているのです。それに基づいて初めて私たちの信仰が可能になるのです。そのように捉えと多少気が楽になります。
 N.T.ライトFB読書会のコラムにも書いたのですが、ライトは「イエス・キリストのピスティス」の「の」を主格の属格ととります。すなわちイエスが信じた信仰 (faith) となります。それに対して北大の千葉教授はその「の」を帰属の属格ととります。すなわちイエス・キリストに初めから属していた属性 (faithfulness) となります。千葉教授は「イエス・キリスト」の称号が行為の主体に用いらることはないと言います。さらに「神の義」が「イエス・キリストのピスティス」を媒体としていることで、一般に訳されている「何の差別もない」は、「神の義」と「イエス・キリストのピスティス(信)」には「何の分離もない」となると言います。すなわち、神にとって信と義は一つであるとことの宣言なのです。
 23節から26節まではその信義が一つであることの説明だと言います。どのように説明されているのか千葉教授訳をたよりに、ギリシャ語テキストに当たりながら(千葉教授とのやりとりも入れて)確認してみると、「ご自身の義を現すため」という表現が2回繰り返されていていることが分かります。すなわち、神の義がイエス・キリストのピスティスを媒体に現されたことで、私たちの信仰の対象が明確になったのです。信仰義認の信も義も一義的には神のものなのです。それは私たちの心の動きとは関係がないのです。その心との関わりに関して千葉教授は、パウロが特にローマ書7章と8章で、3章での啓示の自己完結性とは別に語っていること見ています。いわゆるパウロの心身(霊肉)論です。その区別を確認しないで初めから結びつけてしまっているために神学的理解の混乱を来していると言います。
 「イエス・キリストを信じる信仰」という従来の訳はその混乱の元とも言えます。もしそれがルターのドイツ語訳から出ているとすると、『新改訳聖書2017』の2017年が意味している宗教改革500年周年は、いまだ聖書理解の途上のこととして捉えるべきです。その意味でも確認してみたい箇所がまだあります。例えば、続きのローマ書3:27の従来の「行いの原理」「信仰の原理」は原典通りに「行いの律法」「信仰の律法」になるべきと思うのですが、どうなっているでしょうか。ローマ書10:4の「キリストが律法を終わらせた」は「キリストは律法の目標」になっているのでしょうか。
 ともかく多くの方々の努力によって新しい翻訳が実現しました。日本の宣教の新しい展開を開くものと思います。同時にさらなる聖書の学びをともに続けていきたいと願います。
上沼昌雄記

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