「この私の肉は、、、」2017年9月13日(水)

「肉」も神の創造の作品であるが、どうにもならないほど罪の性質を担っていて。その葛藤の中で信仰者として生きていて、そのために「きよめ」に直面し、またそのためにどのように生きるのがよいのかという信仰書が書かれ、さらにまたそのために説教もしてきたと言えます。

千葉教授の原稿の4章はパウロの心身論を取り扱って、前回読んだときから気になっていたことですがあります。それは、パウロは「肉」の一義性、すなわち、神の創造による生物的な面だけを語っているという千葉先生の提示で、それをどのように理解したらよいのか考えさせられ、再度注意して読んでいます。それに対して、肉を生物的面と罪性の両面性、すなわち「肉」の二義牲の理解は神学者達が持ち込んだものだと言うのです。それは意味論的分析をしてこなかったためと言います。

と言われて気付くことは、肉を初めから悪のように見てしまったら、それはギリシャ哲学の霊肉二元論、善悪二元論をそのまま受け継いできたことになります。もちろん、肉は元々は神の創造の作品で良いものであったが、アダムの罪の結果、その原罪が遺伝的に受け継がれてきて、肉は悪のように言われているが、それもまた神学者達によって主張されてきたためだと言うのです。意味論的分析からは導き出せないと言います。

私もその神学者達の中に含まれるのかも知れないのですが、確かに「肉」の二義性と、原罪の遺伝的伝達は、あたかも神学的前提のように受けとめてきたところがあります。釈明するとすれば、肉の生物的な面だけでは、現実に肉による誘惑や弱さをどのように受けとめたらよいのか分からないし、パウロも肉のこの面を認めているように思うからです。経験的にも肉の弱さと限界を知らされているからです。

この夏も山火事対策で家のまわりの落ち葉や枯れ木を取り除く作業を炎天下でしました。以前にはこれは一日か二日で終わったと思うものが、今は何日かに分けてしなければなりませんでした。肉によるからだの衰えは、残念ですが避けることができません。それもアダムの罪によることなのか、神の創造において定まったことなのか、どのように理解することがパウロの「肉」の言語の使用にあっているのか、これも暑い中、また秋風に吹かれながら考えています。ただ「肉」の一義性を認めたら聖書理解に慎重にならざるをえないことが分かります。

ローマ書8章4節以下で「肉」と「御霊」とが対比されています。その前の3節ではキリストの受肉のことでパウロは「罪の肉」ではなく「罪深い肉と同じような形」と大変微妙な言い方をしています。さらにその前の7章の最後の25節で「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」と律法との関わりで「肉」を使っています。肉そのものが罪ではないとすると、ここでの意味合いをどのように理解するのか、何か今までとは違ったアプローチが必要のようです。

千葉教授が意味論的分析の必要な箇所としてローマ書3:20とガラテヤ書2:16を取り上げています。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に神の前に義と認められない」と言い方で、簡単に「だれひとり」と当たり前のように訳されているが、文字通りには「すべての肉」であるので、あえて「肉」が「律法を行うこと」との関わりで使われていることを分析する必要があるというのです。そのように言われると確かに、肉によっては律法を全うできないが、御霊によることで「律法の要求が全うされる」(ローマ8:4)と言われていることの意味が浮かび上がってきます。

確かにこの辺は注解書をどれだけ読んでもでて来ないことです。暗黙のうちに肉の罪性と原罪の遺伝的伝達を取り入れて何とかパウロの表現を理解しようとしていることが分かります。ただ、札幌の小林牧師が松木治三郎という人が「肉は肉である。それ以上でもそれ以下でもない」と言われてことを教えてくれました。それでもその肉が罪とどのように関わるのかは言語学的に分析しているわけでありません。むしろ神学的な説明で終わっています。

千葉教授が提案される「肉」の一義性を取り入れると、端的にこの自分の肉がそのまま悪でも罪でもないと自分に言い聞かせることができます。それだけでも今までない自分を見るような思いがします。同時に恐らくこの「肉」が一番罪に陥りやすいのだろうと分かります。またそれだけ自分の肉の取り扱いに責任も出てきます。多分、簡単に肉は罪だと言って逃げないことでもあるようです。それはパウロの生き方でもあったのかも知れません。

それにしてもこの歳になって新しい視点を取り入れて聖書を直すのも大変な労力が必要です。 肉体をむち打って取りかからなければなりません。それでも今まで触れられなかった領域に踏み込むような思いがあります。 私は原稿の段階で読んでいるのですが、出版に向けて急ピッチで作業が進んでいるようです。出版されてからこの4章を中心に、関心のある方々と学び会ができ、共に研鑽を積むことができればと願ってもいます。

上沼昌雄記

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「御霊に導かれて?」2017年9月4日(月)

「御霊に導かれて」という言い回しに疑問符を付けると、そのようなタイトルを付けているこちらこそ疑問符を付けられそうなのですが、この言い回しが使われているガラテヤ書5章25節の訳に注目したいからです。現実的には注目させられたのです。新改訳では「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と表現され、新共同訳てでは「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と表現されています。

千葉教授の『信の哲学』の800頁の原稿の後半、理性と信仰、アウグスティヌスとペラギウス論争、アンセルムスの贖罪論、ルターとトマス、そしてハイデガーと、それぞれにおける「信」の意味づけの箇所を読み終わって、再度ローマ書理解の箇所に挑戦しています。特に4章でパウロの心身論を取り上げています。肉とからだと魂と霊の関わりを取り上げている何とも興味深い箇所です。それは当然当時のギリシャ哲学者のテーマでもあったからです。宇宙の根源の解明に繋がることでした。

その宇宙の根源的要素 [地水火風]を言い表すストイケイアというギリシャ語をプラトンもアリストテレスも使っていて、この同じ言い回しをパウロも使っているのです。当然パウロは大切なことを言い表したいために使っています。すなわち、コロサイ書では「御子」をガラテヤ書では「霊」を、哲学者が考える宇宙の根源的要素に代わるものと捉えていると言えます。ところがそのストイケイアが、新改訳では「この世の幼稚な教え」、新共同訳では「世を支配する諸霊」と訳されていて、ポイントがはぐらかさかれた感じが否めないのです。

このストイケイアの動詞形ストイケオーをパウロが4回使っていることに千葉教授は注目しています(ローマ書4:12、ガラテヤ書5;25、6:16、ピリピ書3:16)。その中のガラテヤ書5章25節の訳を取り上げていることになります。その前で「御霊の実」が取り上げられていて、その続きでその「御霊」との関わりを語っているからです。しかもこの動詞形はどうしても宇宙の根源的要素に対応することを意味していることになるので、新改訳のように「御霊に導かれて、進む」という受動的なニュアンスはなく、むしろこちら側の対応の姿勢を語っていると思われます。千葉教授は「われらは霊に適合し続けもしよう」と訳しています。

英訳ですと、KJVとNKLVで、’let us also walk in the Spirit’, RSVで‘let us also walk by the Spirit,’ NRSVで ‘et us also be guided by the Spirit,’ NIVで‘let us keep in step with the Spirit’ となってい ます。N.T. ライトは ‘let’s line up with the spirit’ と訳出しています。NIVとライト訳は千葉教授訳に近くなります。

この箇所の訳にこだわるのは、似たような表現が゙別にあってその意味合いが゙異なるからです。ロー マ書8章4節で「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」と言われているのですが、この場合には、 「御霊」に前置詞が付いていて、動詞も普通に「歩む」を表すもので、その通りに「御霊に従って歩む」となります。それは、御霊の導きを待ってそれに導かれて歩むことを意味しています。そ れに対してガラテヤ書5章25節の意味合いは、御霊が、哲学者たちが理解した宇宙の根源的要素に対しての神の創造と新創造における根源的要素を意味していて、それに合わせてこちらが責任を持って対応していくことが求められることが分かります。

御霊の促しによって信仰を決断した体験を持っています。今でも御霊の呻きと執り成しをいただい ています。そしてさらに御霊の導きをいただくために心を整え静まることをします。それは御霊に 導かれる受動的な態度となります。それと同時に御霊に対してこちら側が自らを合わせていく姿勢が可能であることが分かります。ただ静かに待つだけでなく、神の創造と新創造の根源的要素として御霊を捉えていくことで、それに対応し適合することです。

神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊とは、たとえば、1コリント15章のキリストの復活の箇所で言われている「血肉のからだ」から変えられていく「御霊のからだ」のこと、それを支えるローマ書8章で言われている「罪と死の原理(律法)」から解放された「いのちを御霊の原理 (律法)」のことです。この新しい世界に対応して自分の生き方を変えていくことになります。

ストイケイアの動詞形ストイケオーが使われている他の三つの箇所もその「適合する」ことの意味 合いを明確にしてくれます。ガラテヤ書6章16節ではその前に「新しい創造」のことかが語られ、 その「基準に適合する」ことであり、ピリピ書3章16節でそれぞれ達したところがあって、その 「基準に適合する」ことになります。ローマ書4章12節はアブラハムの信仰の「足跡に適合する」 ことになります。すなわち、自分を適合させる対象があるのです。それに対しての責任ある姿勢が行き方となるのです。

この意味でガラテヤ書5章25節の「御霊に適合する」ことは、単なる知的な対応でも、また単なる神秘的な対応でもなく、神の創造と新創造の理にかなったあり方に対応していくことになります。 また単なる受動的な対応ではなく、神の霊の世界を聖書から思い巡らしながらその基準に適合して生きることになります。それゆえにさらに、聖霊による感情的な対応に対しても引け目を感じる必要はないのです。神の創造と新創造の根源的要素として御霊/霊の世界をしっかり見据えて対応していくことです。それは、「主の御霊のあるところには、自由もあります」(2コリント3:17)と言われている生き方でもあります。

上沼昌雄記

「神学と政治とは」2017年8月28日(月)

前回のハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から来ているという「現存在の外に」の記事に関して、秋田の友人から以下のようなレスポンスをいただきました。 許可をいただきそのまま載せます。<「外」にある真理を「内」に引き寄せると、自分を客観視する事ができなくなって、遂には、「私の話す言葉は、神の言葉である」と言うような牧師がでて来たり、所謂聖職者と言われている神学の大家が人を苦しめたり、殺戮を黙視したり、というような現実と繋がって来るのでしょうか。何となくわかるような気がします。>

それに対して<それは「何となくわかるような気がします」ではなく、まさにその通りです。私が回りくどく言っていることを見事に言い当ててくれました。>と返事を出しました。それに続いて思っていることをそのまま書きました。秋田の友人とは長い付き合いなので分かってくれると思いました。多少加筆訂正しましたが、以下の通りです。

<私は神学に長く関わって来ているのですが、いつも躊躇がありました。それはこちら側の都合の良い読み方でないかと思ってきたからです。言い方を変えると、自分の神学のためには聖書からどのようにも言えるのではないかと思ってきました。たとえばある教派の特質的な神学テーマの説明を読んで、こじつけと思うのですがそれなりに筋が遠ていることに驚きもしました。どの神学書を読んでも似たような感じを持ちました。それで誰かの神学に傾倒することができませんでした。

この辺は政治にも似ています。世界があり、人々の生活があり、それぞれの歴史があるのですが、それを自分の内に取り組んでイデオロギーを立てて人を煽動することに似ています。聖書があり、そこに神の歴史があり、神の民の物語があるのですが、それをこちら側の説明のために解釈をして取り込んでしまう神学と似ています。神学と政治の近さ、それは牧師と政治家のメンタル近さにも通じています。自分たちの都合の良いように筋立てができるのです。そのように話もできます。

そんなこともあって、神学専門なのですが、哲学を信仰と一緒にしないで、それぞれそれなりに学んできました。今回ハイデガーの人間理解がルターの信仰理解から出ていると千葉教授から教えられ、逆に眼が開かれました。ルターによって外なるものが内側に閉じ込められて展開して、それが人間理解にもなっているのです。それはアウグスティヌスからきているとも言えます。その解明は神学だけをしていては決して見えないことです。一度神学の枠に入ってしまうとそれが神の世界になってしまい、絶対化してしまうからです。

私は神学をして来ていながら、神学の脱構築か、再構築のための反神学をして来たように思います。それがミニストリーの中心であったかも知れません。反神学であったので信仰を自分の内なる密かな決断として保つことができたのかも知れません。それでそれなりに自由に考えることができたのかも知れません。そんなことを思っています。ありがとうございます。>

このようなやり取りをしてから二つのことが気になっています。一つは、今回のやり取りの発端であったハイデガーの人間理解がどこかでナチスに加担することになってしまったこと、それは同時に当時のドイツの教会のことでもあったことです。まさに政治との関わりです。もう一つは、「反神学」というのは、哲学者の木田元に『反哲学入門』という本があって、それに合わせて使っているのですが、更なる説明が必要であろうという点です。今週は夏の終わりの熱風が入って来て集中して考えられないので、秋風の吹くのを待つことにします。残暑厳しい折、ご自愛ください。

上沼昌雄記

「原稿用紙」2017年8月22日(火)

この夏は身の回りの書類と書籍の整理に取りかかりました。身動きが取れなくなってきたのと、何時かはしないといけないので、この際と思って始めました。書籍は黙っていても増え、積み重ねていくのですが、それでもどこにどの本があるのかは分かります。それに引き替え、書類はファイルに入っているのもあるのですが、そのままに机の上に積み重なっている状態です。それでも何とか分かるのですが、大夫怪しくなってきました。

それである書類が必要になってきて、さてどこにというのが、実際に取りかかる切っ掛けになりました。昔使ったケースに入っているかも知れない、しかし、そこに至るために机のまわりの書籍を除き、ファイルボックスを動かし、ようやく到着しました。実際にありました。と同時にその周りにあるボックスの蓋を開けることになり、もうどうにでも必要のないものがそのままになっていることが分かりました。これは捨てないといけないと確認したのですが、それを実行するためには、そのまわりのものを整理して、堀を埋めるように近づいていく以外にない状態でした。

敷地に物置があるのですが、その中の不要なものを片付けてスペースを作りました。そしてようやく机の周りにある不要なものを捨て、必要なものを物置に移動する作業を昨日いたしました。意を決して捨てたものは、28年前に日本から持ってきた一束の原稿用紙でした。原稿を書くために必要だろうと思って持ってきたのですが、恐らく一枚も使わなかったのではないかと思います。箱形のマックを手に入れてミニストリーに取りかかってから文章は全部ワープロでしてきたことになります。

実はこの整理をしていく中で、その箱形のマックで書いたミニストリーの最初のニュースレターが出てきました。同時にそれに続く関係書類も出てき、さらにしばらくして始めた「ウイークリー瞑想」の初期のものも出てきました。「ミニストリー25周年記念誌」のためにかなり初期まで辿れたのですが、その先はどこに行ったのか分からずじまいでしたが、今回その意味では、思いがけず発見することになりました。ミニストリーを始めた頃の紆余曲折ともがきを読み返すことになりました。

それでもマックを何台か新しいものにしながら、不思議に本を書くことになり、ウイークリー瞑想もこのように継続することができているので、もう原稿用紙を使うことはないだろうと思って処分することにしました。日本にいたときには全部を原稿用紙で書いてきたことになります。それはもう終わったのだと実感することになりました。

まっさらな原稿用紙を万年筆で一字一字埋めていくのは、ワープロにひらがなを打ち込んで漢字に変換していく作業とは趣が違います。村上春樹がその違いを上手に説明しているのですが、何と言っても原稿用紙に向かうときは、ワープロのようには簡単には書き換えが聞かないので、それなりに緊張して書いたことを思い出します。そしてそれは過去のものとして終わったのだと言い聞かせることになりました。

上沼昌雄記

「現存在の外に」2017年8月14日(月)

「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」これは、千葉恵教授の出版予定の『信の哲学』の最後の章でハイデガーとの比較で記されている文章です(原稿736頁)。すなわち、「ハイデガーにおいてはあくまで現存在の内側から自ら解錠(決意)しようとするところに」違いを認めています。さらにそこに「ルターが恩寵に訴える」と付け加えています。

なぜ最後にハイデガーが取り上げられているかというと、ハイデガーの実存理解が実はそのルターの信仰理解の枠の中でなされているからです。 すなわち、 ハイデガーの存在の本来性と非本来性の理解が、 ルターの義人と罪人という枠組みからきているというのです。 興味深い視点です。同じドイツでのルターのパウロ書理解が、人間理解の枠になって、ハイデガーに伝わっていることになります。

そんなことに気付かされながら読んだのですが、ストレートに自分のなかでよみがえってきたことがあります。それは千葉先生が現在哲学教授として教えられている北大の学部でハイデガーを自分なりに一生懸命読んでいたときのことです。当時の大学は学生紛争の中でしたが、ハイデガーの実存分析に惹かれました。すでに信仰を持っていたのですが、信じている自分の心の中のことは不明瞭な闇に覆われていました。信仰者として存在している自分の内側はどうなっているのか、分かったようで分からない曖昧模糊とした状態でした。それでハイデガーの実存分析に関心を持ったのかも知れないと思い起こすことになりました。

しかしその時点でも、だからといって自分のなかに真理があるとは決して思いませんでした。真理は自分の外にあると認めていました。私という「現存在の外に」に真理はあるのす。それでもそれを信じている自分の内側はどのようになっているのか、どこかつかみ所ないままでした。ハイデガーの『存在と時間』には、存在の「本来性、非本来性」から始まって「覚悟性」とか「関心」とか「配慮」とか「決断」という表現もあって、一生懸命に読みました。今その本をふりほどいてみるとほとんどの頁に赤線が引いてあります。

ここにきてハイデガーにまた興味が湧いてきたのですが、それ以上に、ハイデガーの実存理解がルターの信仰理解の枠の中でなされているとすると、ルターの信仰理解、特に信仰義認の理解をしっかりと捉えておくことが、興味以上のこととなってきました。「ルターが恩寵に訴える」というのは、「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた」ことを認めつつ、その外にあるものも自分内側のこととして、すなわち、信じている自分の信仰のこととして体系付けてしまうことを意味しています。自分の信仰も恩寵に寄ることで神の啓示をも自分のなかに引き込んでいるのです。

千葉教授の提示する「信の二相」は、神の側と人の側の言語網を区別することで、その関わりを解明していることです。具体的にはローマ書1-4章と5-8章のそれぞれの言語網を打ち立て、その上でその関わりを明確にしています。ルターはその区別を認めていても、こちらの信仰をもとに信仰理解を打ち立てたのです。「神の前の現実とわれわれの生身の現実を分離しないことにこそ正しい信仰理解があるというルターによる主張が問題なのである。」(原稿691頁)宗教改革500年を迎えて問い直されている信仰義認の問題点です。

それは神学そのものの問題でもあります。「外に」ある真理をこちら側に引き入れて神学体系を打ち立てていくことが二千年の教会の歴史で繰り返されてきたからです。教派とその教理はそれぞれの信仰理解のうえに築かれてきたのです。千葉教授は「神学の前提の密輸入」と呼んでいます。そうだとすると自分の神学を勝手に持ち込まないで、ローマ書を読んでいくという作業は想像以上に困難な作業であることが分かります。千葉教授ローマ書理解はその試みをしています。

そして、その読み直しがハイデガーの捉え直しにもなります。聖書の読み直しが哲学の捉え直しに繋がると言えます。ユダヤ人哲学者レヴィナスが、ハイデガーの実存理解に対して、「他者」を視点に入れてきたことと無関係でないのです。自分のうちには真理はないからです。「パウロにおいては明確に現存在の外に自らの新しい存在の根拠が啓示されていた。」このことを神の前と自分の前の現実として認めて、なお聖書を読み直していく責任があります。

上沼昌雄記

Masao Uen

「アウグスティヌスのことで」2017年8月3日(木)

2013年11月6日付けで「アウグスティヌスの誘惑」という記事を書きました(以下に添付)。それに対して親しい友人が心配してレスポンスをくれました。<今回の「瞑想」をたいへん興味深く読みました。「こんなこと、言ってしまって大丈夫だろうか」と案じながらです。「神聖ニシテ侵スベカラザル」存在がアウグスティヌス(主義)であると思います。もちろん、ルターもカルヴァンもウエストミンスターも「権威」には違いないのですが、アウグスティヌスは別格ですよね。その彼がギリシア哲学に深く影響されていること、そして、そのことが現代のキリスト教とキリスト者のあり方を歪めていることは、まぎれもない事実ではないでしょうか。誰かが言わなければならなかったが、なかなか言えなかった。「神聖ニシテ」ですから。でも、N.T.ライトも語り始めて、だいぶ見通しもよくなってきた。今回の「瞑想」もその流れにつらなる大事な発言と受け止めて、読ませてもらいました。>

記事の要点は、アウグスティヌスの「真理は人間の内部に宿っている」と見る視点が、結局は心の安らぎ、平安を第一とするこちら側の信仰に重点が置かれ、それが2千年のキリスト教になってしまっているのではという、一つの問いかけです。いくつかレスポンスをいただいたのですが、上記の友人のものは「そんなことを言って大丈夫?」という危惧と、また共感を示してくれたので、それ以降心に残っていました。

北大の千葉教授はローマ書の意味論的分析を施した上で、その後の神学史上の問題にメスを入れています。その一つとしてアウグスティヌスに関して次のような解説があります。「アウグスティヌスは自ら敬虔であろうとしてかえって自らの心的状態に拘泥してしまったと言える。」(原稿615頁)その具体的な箇所としてローマ書1:17の「信仰から信仰へ」のアウグスティヌスの理解を取り上げています。

この「信仰から信仰へ」のテーマについては、昨年末の12月27日付で取り上げたのですが、N.T.ライトと千葉教授は、神の真実・Faithfulness から私たちの信仰と捉えています。それに対してアウグスティヌスはどちらも私たちの信仰ととっています。しかし考えてみれば、このアウグスティヌスの理解が2千年の聖書理解にもなっていたわけです。どうしても私たちの心的状態のこととして聖書を見てしまうのです。信仰義認もこちらの信仰のことと見てしまいます。それはルターにまで繋がっていると言えます。

千葉教授のローマ書の意味論的分析が語っている視点は、人間の側の信仰のあり方を否定しているのではなくて、神の側のことをすべてこちらの信仰のこととして捉えることに喚起を促しているのです。パウロはローマ書で神の側のことは神の前でのこととして1-4章で語られ、その上で、5-8章で肉の弱さを持つものとして私たちの信仰のあり方を語っていると分けています。その間を結ぶのが3:22の「イエス・キリストの信実」です。(ガラテヤ書2:16、3:22もその意味合いになります。)

神の前のことは神のこととして完結していて、こちらの信仰でどうにかなるものではないのです。肉の弱さを持つ私たちは聖霊の助けによってその神の啓示に信仰によって結びつくのです。その意味での関わりのことを千葉教授はローマ書7章8章で肉のテーマとともに細かく分析をしています。だからといって神の啓示の完結性が変わることはないのです。

4年ほど前にアウグスティヌスのことで思い切って書いてみました。友人が心配してくれたのですが、それでキリスト教界から閉め出されることはありませんでした。むしろ何かがおかしいのではという、共鳴に近い問いかけをいただいています。この友人に今回の原稿を読んでもらいましたら「信仰のミーイズムの源泉」と呼んでいました。もしかしたら、アウグスティヌスにまで遡って、聖書理解はどうなっているのかと問いかけて良いのかも知れません。ローマ書そのものが、アウグスティヌスやルターの衣を脱いで、もう一度捉え直されることを待っているからです。

上沼昌雄記

 

「信じる力」2017年7月4日(火)

何と『騎士団長殺し』の最終頁の直前で「信じる力」という表現が使われ、しかも長編小説の最後のセンテンスが「きみはそれを信じた方がいい」で終わっています。なぜこの小説の最後で「信じる」ことが出てきたのかは、多分作者は自然に出てきたのですよと言うのでしょうが、読み手としては好奇心をそそがれ、どのような道筋なのか推測することになります。

「信じる力」は、主人公「私」とは鏡で逆に観たような登場人物の免色渉に、「私」が自分に言い聞かせる言葉です。最後のセンテンスは自分の小さな娘と信じている子に語った言葉です。実は免色さんにも自分の子どもではないかと思っている13歳の女の子がいます。それで「私」と免色さんのストーリーが交差するのです。というのは、免色さんはその女の子に近づくために「私」に接近してきたからです。肖像画を描く「私」に自分の肖像画を描いて欲しいという依頼をもって。「私」はその女の子の絵画教室の先生でもあったからです。

このような経緯にいたる物語が実は、次の書き出しで始まっています。「その年の5月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた。」そこには当然なぜ「騎士団長殺し」なのかと思わせる、それなりに複雑な経緯が含まれています。その経緯には、当然名前のある妻から離婚を迫られた「私」が、多分「私」自身が気付かない複雑なやりとりの中で、自分を信じていく、自分に信実になっていく過程が含まれています。そこには『騎士団長殺し』という絵画とその創作者が大きな役割を担っています。

免色さんは経済的にも困ることがなく、すべてが計算尽くで、すべてを願い通りに行えると信じている人物です。しかもそのような情報管理の仕事をしています。独身なのですが、ある時に関わった女性が産んだ子がその13歳の女の子ではないかと思い、何とか接近しようとするのです。しかしこの女の子は、免色さんは何かを隠し、何かの策をいつも持っていると見抜くのです。すなわち信頼ができないのです。逆に「私」には信頼して話してくるのです。そのような人との信頼関係が生まれてくることで、「私」は人生への確かさを感じます。

免色さんはいろいろあって最後に自分は無であると「私」に向かって告白します。「あなたは望んでも手に入らないものを望だけの力があります。でも私はこの人生において、望めば手に入れるものしか望むことができなかった」(下巻269頁)と言います。そこには自分を打ち破るものは何もありません。自分の可能性の中でしか生きられないのです。免色さんは、「私」の中に望むこと、信じる力を認めたのです。確かに自分を打ち破り、傷つけられることがあっても、「私」は「信じる力」を得たのです。離婚を突きつけられた妻の妊娠にも、「信じる力」が働きます。

その山の上の住処の天井裏から見つかった『騎士団長殺し』という絵画のタイトルが示していることが、文字として記されている通りに起こることで、すなわち血が流されることで、しかも「私」の手で起こることで、信じる世界が抜き差しならないものになります。目に見え、手に触れる世界だけでなく、それを超えた世界への関わりになります。その信じることをこの世界でしっかりと責任を持って生きることになります。

ローマ書で「自分が良いと認めることによって、さばかれない人は幸福です」(14:22)と言われています。その前後に「信仰」のことが語られているのですが、そのことに通じそうです。信じることには信じるという認知行為と、信じるその人の人格的あり方が深く結びついているからです。

上沼昌雄記

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