「信の哲学」とは? — ローマ書理解を中心に

初めに

北海道大学大学院文学研究科教授の千葉惠先生による『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が、この2月末日に北海道大学出版会から出版されました。上下巻で1400頁に至る大著で、使徒パウロのローマ書を主な研究対象とされ、アリストテレス哲学を共約性基準として、その言語哲学により意味論的分析を行っています。著者40年にわたる研究成果に不思議に接することになり、ローマ書理解に新しい光をいただいています。

最初の接点は、2014年の文化の日、北大のキャンパスでした。その時から50年遡る1964年に北大に入学し、数名のクリスチャン仲間と宣教師と「クラーク聖書研究会」を発足しました。その50周年記念集会で、その時点でN.T.ライトの翻訳に関わっていましたので、ローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティス」をライトが主格の属格ととっていることを話しました。日本語の聖書翻訳でも取り上げられていたテーマでした。

千葉先生はクラーク会の顧問を長年してくださっています。話し終わって挨拶に伺いましたら、開口一番、その「の」は主格でも対格でもなく、「帰属の属格」であると言われました。「イエス・キリスト」という称号には行為の主体はないと説明されました。主格の属格ととること自体この30年ほどで世界の聖書学者がようやく認めてきたことを、千葉先生があっさりと否定されたことに衝撃を覚えました。それ以来研究室を訪ね、資料をいただき、先生の40年来の研究の一端に接することになり、結果的にローマ書のテキストに引き戻されました。

 

イエス・キリストの信を媒介にして ― 3章22節

ローマ書3章22節のこの箇所は、前節を受けて、「神の義」が「イエス・キリストの信を媒介にして」「信じる者すべてに」と動詞形なしに語られ、「というのも、分離はないから」で終わっています(以降聖書引用は、下巻の最後の附録にある千葉先生の『新訳』による)。従来通りに対格として「イエス・キリストを信じる信仰によって」ととると、その後の「信じる者すべてに」と繰り返しとして不自然であるだけでなく、神の義の啓示が私たちの信仰に寄ることになり、二千年のキリスト教は混乱をかかえることになりました。というのは、信仰者の心的状態で神の義の啓示が捉えられることになるからです。N.T.ライトも指摘していることです。

千葉先生がそれでも主格でもなく、帰属の属格と主張されるのは、ピスティスが初めからイエス・キリストに属するものと捉えることで、神の義とイエス・キリストの信には、その節で言われている「というのも、分離はないから」と結びつくと見ているからです。「というのも」という接続詞が、その前のことを説明していることになり、神にとって「義」と「信」に「分離はない」となるからです。

3章3節では、イスラエルの「不信仰/ア・ピスティス」に対して「神のピスティス」が語られていてます。「神の信仰」とは訳せませんので、「神の信/真実」と訳すのが適当です。それに対して「イエス・キリストのピスティス」は「イエス・キリストの信/信実」と訳すことができます。神にとっては義と信とには分離がなく、神の義の啓示は神のピスティス/真実の現れなのです。千葉先生が帰属の属格と主張されるのは、神の義の啓示の本質を見逃さないためであることが分かります。

 

なぜ神には義と信の分離はないか ― 3章23-26節

千葉先生は、聖書学者はローマ書のテキストの意味論的分析をしていないとまで言われます。当初その意味合いがつかめなかったのですが、23節に「なぜかといえば」という接続詞が使われているのは意味があって使われているのだと言われ、なるほどと思わされました。新改訳も共同訳も見逃しているのか、それとも、その接続の意味が分からないままで混乱の中にいるとも言えます。意味論的分析とは、言葉がそこで使われていたら意味があって使われているので、その分析に徹することなのです。

それで千葉先生は「なぜかといえば」で始まる23節から26節は、神の義と信には分離のないことを説明しているととります。しかもワンセンテンスで言い表されています。さらに「ご自身の義の知らしめ」「ご自身が義である」「ご自身の義の知らしめ」と3度も繰り返すように、目的が神の義そのものの啓示であって、いわゆる人間の側の信仰義認ではないことを明確にしています。前節の「イエス・キリストのピスティス」を対格として信じる私たちの信仰ととると、結局は信じる私たちの信仰義認が第一になってしまいます。二千年のキリスト教の混乱であります。

神の義の啓示が「イエス・キリストの信を媒介にして」いることのしるしのように、イエスの血による差し出しである従来「なだめの供え物」と訳されているヒラステーリオンを「現臨の座」と訳します。業ではなく信による神の義の啓示であるので「現臨の座」でなければならない結論づけます。N.T.ライトはMercy Seat/Meating Placeと表現しています。同じ意味合いで、刑罰代償説はとっていません。

 

信の律法を介して ― 3章27-31節

このことに基づいて次の27節で、律法を誇りにしているユダヤ人(2:23)に、その誇りは「閉めだされた」と宣言することになります。その理由として、「どのような律法を介してか」と自問し、「業のか、そうではなく、信の律法を介してである」と明言できるのです。その「信の律法」とはまさに「イエス・キリストの信」によることで、私たちの信仰のことではないからです。モーセの文字による律法に対して、イエス・キリストの信による「信の律法」による神の義の啓示が可能になったからです。このことは21節で「律法を離れて」、しかも「律法と預言者たちにより」と、すでに律法の意味合いを区別していることに対応します。

この箇所の「律法」が、従来「原理」とか「法則」と訳されているのですが、それは信仰義認における人間の側の心的状態に関心が移ってしまっているためであり、それは結果として、ローマ書理解の混迷を深めることになっています。幸いに新改訳聖書2017では「行いの律法」と「信仰の律法」に戻っているのですが、意味合いは人間の側の信仰のままです。正確には「イエス・キリストの信」によることなので、「律法」を「無効にするのではなく」「むしろ確認する」(31節)ことになります。7章と8章で再度「律法」の意味合いが問題になります。

「ピスティス/信」は、すでに見てきたように、神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、私たちのピスティス(信仰)が言い表されています。さらに御霊の実としてのピスティス(誠実)が表現されています。神の側でのピスティスと人間の側でのピスティスを千葉先生は「信の二相」と言い、1章17節のいわゆる「信仰から信仰へ」に当てはめています。

ピスティスが「信じる」という心の深いところでの認知作業を備えているだけでなく、信じる者に備わる信実さ、誠実さという人格的要素も備えていることが分かります。その意味での「信」は、人間の心魂の根底での根源的要素であり、「共約性」を持っています。それゆえに、パウロはアテネのアレオパゴスで哲学者たちと議論することができました。千葉先生ご自身は、そこに至るためにアリストテレス哲学を先に修めたことになります。この心魂の根源的要素については、7章での「内なる人」との関わりで見ることになります。

 

内村鑑三とローマ書と

千葉先生がこのようにローマ書3章21節から31節までの解明に全力を注いでいることには、内村鑑三のローマ書研究が深く関わっています。内村鑑三は1920年1月から1922年10月まで60回のローマ書講義をしています。『ロマ書の研究』としてまとめられています。この講義に先立つ1914年にローマ書に関して、内村鑑三は次のような発言をしています。「旧約は新約を依て解すべし、新約は羅馬書を依て解すべし、羅馬書は其の第三章二十一節より三十一節を似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二十一節より三十一節までを解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず。」(『聖書の研究』172)

すなわち、ローマ書3章21節から31節を解く人は聖書全体を解く鍵を神からいただいていると言うのです。内村鑑三自身が解くことができたのかというと、どうもできないで最後まで格闘していたようです。自分の葬儀ではこの箇所を読むことを願ったようです。

千葉先生のご両親は内村鑑三の弟子の塚本虎二から聖書の指導を受けています。宮城の古川で家業の木材業を営みながら子供たちを聖書の訓戒で育てました。今回出版された『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の構想はそのご両親から「自然に与えられた宿題」と受け止めていると言います。その宿題が、まさにローマ書3章21-31節の鍵を解くことなのです。原稿の段階での「あとがき」で触れています。

内村鑑三のローマ書研究における格闘は、直接的に千葉先生の探求の契機になったのですが、歴史的にはローマ書理解は混迷の歴史とも言えます。バルトの『ローマ書』は、第一版が1919年に第二版が1922年に出ていますが、テキスト解明には至っていません。遡るとルター、アウグスティヌスにまで至ることと言えます。その中での千葉先生の解明は、歴史的評価を待たなければなりませんが、ある一定の方向を示していることは明らかです。

その方向性が先に見た、第一に「イエス・キリストの信を媒介にして」であり、第二には「神には義と信の分離はない」ことであり、第三に「信の律法を介して」の理解です。それは端的にテキストの読み、すなわち、意味論的分析によっていることです。安易な神学的な投影は許されないのです。千葉先生は神学的枠組みのテキストへの「密輸入」と言い切ります。

 

テキストの言語網の分節と相補性 ― 1-4章と5-8章

テキストの意味論的分析から千葉先生が導き出しているローマ書の言語網を確認しておく必要があります。ここではローマ書8章までを紹介します。すなわち、1-4章と5-8章では著者であるパウロの視点が異なっていると言うのです。1-4章は「神の前の自己完結性」であり、5-8章は「ひとの前の相対的自律性」であり、それぞれ分節されていることと、その相補性がこの手紙の流れと見ています。

すなわち、1-4章では、3章の神の義の啓示と1章の神の怒りの啓示(後で取り上げます)は、神の啓示の事実の提示であって、そこにはこちら側の心的状態である信仰のあり方は問題にされていないと言うのです。このような言語分析をローマ書で施した人は誰もいないと思います。なるほどと思うのと同時に、ローマ書理解の解明のさらなる鍵になっていることが分かります。というのは伝統的に、3章で私たちの信仰である心的状態を初めから取り入れて混乱を起こしているからです。

その私たちの信仰との関わりはまさに5章からのテーマとして明確に分節されると見ています。すなわち、啓示された神の義にどのように対応しているのかが5章の初めで、「かくして、われらは(イエスの)信に基づき義とされたので」と、それまでの神の啓示の上で信仰者としての対応を語っているのです。その意味合いで、5節で初めて聖霊が信仰のあり方との関わで語られていると言います。その聖霊が「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」を結びつける役割をしているのです。

 

肉の弱さの故に ― 5章と6章

このように言語網として分節を明確にした上で、私たち信仰者としての葛藤を同時に避けることなくパウロ自身が取り上げているのです。それは多分、神の側での啓示の確かさがあるので、「肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)ことを恐れる必要がないからです。「ひとの前」での葛藤を避けないで観ることができるとも言えます。5章から8章はこの弱さを持つものの葛藤の言語網なのです。

この点に関して、肉が悪そのものであったり、肉のおける罪の遺伝的理解を千葉先生は避けています。そのように理解される5章12節は、アダムによって「罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫き通したのである」と言われているからです。この点に関しては、肉が悪そのものであるというプラトン的な二元論からも解放されることになります。

それはまさに「ひとの前の相対的自律性」をいただいている者として責任になるのです。その背景には、3章で神の義の啓示が語られるまえに、1章で神の怒りの啓示により、私たちがすでに「心の諸々の欲望における不潔」(24節)と「恥ずべき情欲」(26節)と「叡智の機能不全」(28節)へと神による「引き渡し」がなされたからです。この意味での肉の弱さを誰もがかかえています。それでも、肉の思いのままに生きればその実を刈り取ることになりますが、悔い改めの道も開かれています。

 

内なる人がヌースによって ― 7章

肉はすでに死に支配されているのですが、律法によってさらに罪が罪であることを知らされます。それゆえにしたくないことをしてしまう自分の惨めさを認めないわけにいかないのです。パウロは7章でそんな自分を「われ」として言い表していきます。千葉先生は虚構的な「われ」と表現するのですが、肉を持つ者が誰でも当てはまる「われ」と言えます。

その最後の告白を千葉先生は「惨めだ、われ、人間」(24節)と文字通りに訳します。事実三文字で言い表されています。それだけ緊迫したものを感じです。同時にそのように言える理由をパウロはその前後で語っています。すなわち、「わがうちにつまりわが肉のうちに」(18節)罪が宿っているが、それにもかかわらず、「われ内なる人間に即しては神の律法を喜んで」(22節)いることを認めているからです。外側の肉ではどうにもならなくても、その内側では神の律法を認めている自分に気づくのです。

最後の25節で、さらにまとめるように言っています。「われ自らかたや叡智によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている。」この「仕える」は、6章での「罪の奴隷」と「義の奴隷」に対応します。すなわち、肉では罪の奴隷の状態なのですが、「内なる人」として神の律法を喜んでいる自分に気づいているのですが、さらにその深いところで「叡智」と訳されているヌースとして神の律法をよしとしている自分を認めているのです。

このヌースは、従来の訳では単に「心」と表現されているのですが、意味論的分析では、「心」は一般にカルディアとして表現されているので、ヌースがあえて使われているのには意味があって使われているので、その意味を明確にする必要があります。12章2節で一般に「心を新たにすることで」と訳されているのですが、「叡智の刷新によって変身させられよ」とヌースの意味合いを捉えています。

このヌースにはその前で「識別すべく」とあるように、何が神に喜ばれることなのかを識別する能力が備わっています。その反対が1章28節の「叡智の機能不全」となります。神の怒りの下ではそのまま罪人で終わってしまうこともあるのですが、聖霊が内なる人に働きかけるときに、ヌースが神を識別して、これで良いのだと促す作用をすることが分かります。

千葉先生はこのヌースの使用はすでにアリストテレスによって、感性界を超えた世界の把握能力として使われていることを紹介しています。それが心魂のボトムで誰にでも備わっていることを確認して、パウロはそれが分かってヌースを使っていると言うのです。心魂のボトムでは誰にでも共約的な要素があるので、福音の提示は可能と見るのです。福音を認め受け入れるかは聖霊の働きなのですが、福音がどのようなものかは言葉として理解できると見ていることが分かります。それゆえに「信の哲学」が可能なのです。副題の「使徒パウロはどこまで共約可能か」の意味していることです。

 

おわりに ― 律法の義の要求の満たしに ― 8章

内なる人としてヌースによって「神の律法」を喜んでいると、パウロは律法のことに最後までこだわっていることが分かります。律法は福音で終わったのではないからです。福音によって律法が成就するためだからです。それこそ神の義の成就に繋がるからです。それで千葉先生は8章4節を「神の義の要求が、、、満たされるため」と丁寧に訳しています。福音は神の義の啓示であり、それは律法の成就でもあるからです。

千葉先生の意味論的分析によってテキストに戻され、神の義の啓示とそれに対する信仰者の心魂のボトムでの出来事をパウロに沿って追うことが許されました。千葉先生はさらに、アウグスティヌス、アンセルムス、ルター、カントとハイデガーへと歴史的挑戦をしています。ローマ書はそれに耐えうるものだからです。

 

上沼昌雄 (聖書と神学のミニストリー代表)

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「その通りと判断する心(ヌース)」2018年10月8日(月)

 私たちは日常の生活のあらゆる場面で「その通り(アーメン)」と判断しながら生きています。その判断したことに関しては、自分だけが納得しているときもあります。イエスを主と認めて受け入れることもその中に入ります。誰もが認めることでなくても、自分の心の深くで納得して受け入れるのです。受け入れることで当然心に変化が起こってきます。
 今回アメリカでの最高裁判事候補の10代の時のスキャンダルに関して、それを訴えた女性の証言と、それに反論した判事の答弁を聞いた人々がどのような判断をしたのかを観察しながら、私の中でなるほどと納得する心があります。すでに何十年も前のことなので関係者の記憶も定かでもなく、そのまま承認されることになり、それで良いと思っている人が多いのですが、どこかで納得できない心がそのまま人々の中に残っていることに、私の心が納得しています。
 その「心」は聖書によれば、一般に言われている心(カルディア)ではなく、判断力、識別力を伴った心(ヌース)が使われています。代表的なのがローマ書12:1です。「心(ヌース)を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。、、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」文章の流れからは、見分けることができるように、心を新たにすると言われています。単なる心(カルディア)は、どちらかと言えば受動的な心の態勢を意味していますが、ヌースとしての心は「その通りと判断する心」を意味しています。信じる心はこのようなものです。
 このヌースがローマ書7章24節の「私は本当にみじめな人間です」の言い回しの前後で2回使われています。後の25節はこの章の最後になっていますが、「この私は、心(ヌース)では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」と対比しながら、神の律法を嘉とする心(ヌース)を認めています。その前の23節ではその対比が、「からだには異なる律法があって、これが私の心(ヌース)の律法に対して戦いを挑み」となっています。それはさらにその前の22節の「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいます」から来ています。すなわち、肉で生きているのですが、その「内なる人」のさらにそのうちにヌースとしての心が神の律法を認め、仕えていると言える部位があるからです。
 ここのでやり取りで、脱線しそうになるのですが、2017年版で23節の「心」には星印がついていて脚注で「別訳『理性』。25節も同様」となっています、しかし、ヌースが「理性」と訳されている箇所はどこにもなく、前後関係で「知性」「思い」と訳されているケースがあるだけです。「知性」とすべき所をタイプミスで「理性」になってそのままになってしまったのでしょうか。重箱の隅をほじくるようなことはしたくないのですが、大切な箇所なので取り上げてみました。
 というのは、肉では罪の律法に仕えている自分のこの肉のからだの「内なる人」のさらにそのうちにヌースとして神の律法を認め、それを喜んでいる心があることを語っているからです。そのヌースとしての心が「これは大丈夫」「その通り(アーメン)」と自分自身を促してくれることで、信仰者としてなおこの地上で神の子としての責任を持って歩めるのです。単純に「理性」とはとれないのです。
 しかし、そのヌースは肉の中のことなので、肉の働きに閉じ込められて、動かされて、ヌースの機能不全に陥りがちです。1章28節で「神を知ることをに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」と語っています。識別し、判断する機能を失ったヌースになってしまったのです。
 また逆に、自分のヌースを過信することはできません。聖霊の助けが必要です。そのことを8章で語っています。聖霊が内なる人のヌースに働くときに、ヌースが御霊の実を結んでいくことを、肉を持ったままで体験できるのです。しかし、聖霊が働かないで、ヌースが肉に覆われて機能不全に陥ることもあるのです。
 この意味での心(ヌース)のあり方を確認することは、祈り心で何が神に喜ばれることなのかを求め、この地上での神の子としての責任を果たしていくために、その心を日々新たにして歩んでいくことになります。その時には御霊にも適合しながら「その通りと判断する心」に納得しながら歩むことのだと思います。
 上沼昌雄記

「あまりにも霊的な」2018年9月20日(木)

 ある書物の翻訳を試みています。すでに最初の訳業を終えて読み直しをしています。最初の訳業は従来の新改訳聖書を下にしています。新しい訳、2017年版が出ましたので、読み直しをしながら訂正をしています。その度に2017年版でどのように改訂されているのか、関心を持って観ています。その作業でローマ書15章初めの箇所に出合いました。
 その2節が次のようになっています。「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。」従来の新改訳聖書のときには、神学生としてその裏方の作業に多少関わりましたので、文章表現や句読点の改訂にそれなりに納得しています。しかしこの2017年版の文章で、正直驚きました。「霊的な」に星印がついていて、脚注で「補足」となっているのです。
 同じ言い回しが、その前の14章19節でもあります。「ですから、私たちは、平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」ここでも「霊的」に星印がついていて、脚注で「補足」となっています。その「霊的成長」の「成長」は「教会の成長」「神の建物」(1コリント14:5,3:9)とも「キリストからだを建て上げるため」(エペソ4:12)とも表現されています。これらは初めから神やキリストや教会との関わりで表現されているので、「霊的な」と補足する必要はなかったとなるのでしょうか。
 ローマ書14章19節と15章2節を含む箇所も、神の国での「聖霊による義と平和と喜び」(14:17)のことを語っています。「信仰から出ていないことは、みな罪です」(14:23)とまで言われています。神の国のことを語っているので、それは当然「霊的な成長」となると理解しているのでしょうか。そうであってもあえて「霊的な」を補足する必要があるのかなと思わされます。それなりの神学的な読み込みではないかと思います。「原典に忠実」という標語にも合わないようにも思います。
 神の国は、神の創造と新創造の関わりで意味が出てきます。そこには万物の刷新、万物の和解が含まれています。神の国の民は「みこころが天になるように、地にもなること」を少しでも担う役割が与えられています。私たちの聖霊の助けによる成長は、人として生きるすべての面で現れてきます。そこには人としての成長を互いに助けていく責任があります。イエスの山上の説教もそのために与えられました。
 その神の国の祝福を私たちがあえて「霊的な」と括弧でくくることは、意味を限定することになります。捉え方によっては、この現実の生活とは関わらない「霊的な」世界に自分たちが住んでいることを語っていることになります。信仰を持っているいわゆる「霊的な」人だけのものと限定することになります。「霊的な」世界に逃避することにもなり、それを「誇り」とすることにもなります。そのことのゆえにクリスチャンが嫌われることにもなります。
 千葉恵教授の「信の哲学」は、ローマ書理解に関して「聖霊」がいつ、どのように使われているかを意味論的分析で注意深く解明しています。それはまさに注目に値することです。N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』の答えとして、それは「真の人間になること」と言います。それには目を覚まさせられました。神の愛と平和が少しでもこの地で実現されるためにキリストによる救いをいただいているからます。自分が天国に行くことも、いつキリストの来臨が起こるのかは、神の側のことです。それを待ち望むつつ、なおこの地でなすべき責任があります。
 それは聖霊の助けでなされることですが、あえて「霊的な」と付け加える必要のないことです。そうすることで、自分たちをこの世とは関わらない特別の者と見なすことはできないのです。「あまりにも霊的な」聖書の読みと思えるのですが、皆様はどのように思われますか。
 上沼昌雄記

「伝道者の書という書」2018年9月17日(月)

 年をとってきたこともあって、「伝道者の書」で語られていることに、どういう訳か、すんなりと納得できます。この書の続きの「雅歌」を学んでいるときに、初代教会のクリスチャンたちが、「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の続きを、人生における、青年期、壮年期、老年期として読んでいたことを知りました。それで「伝道者の書」は、中年になって人生のむなしさを感じてきたときのことと思っていたところがあります。しかし実際に、それなりに年を重ねてきて、語られていることに「それで良いのだろうな」と言い聞かせています。
 自分を指導してくれた先達たちもほとんど召されています、その方々は戦争を体験しておられて、想像もできない困難の中を通られました。それなりの複雑な思いを持って地上の生涯を終えられたのだと思います。私は戦争の終わる5ヶ月前に生まれました。どのような行きがかりか、60年代の大学紛争の中を通されました。そのためにどうしても権威に対して反抗的な思いがあります。そうでありたくないと思っても、権威主義的なことには反発をしてしまいます。それが生きる力であった面もあります。しかし、次の世代の人には格別に意味のあることではありません。それで良いのだと思います。
 ロス郊外で2週間ほど95歳の義母の面倒をみて家に戻ってきました。夏の暑さとは打って変わって、朝晩は寒いほどです。夏の間は雲一つなく晴れ上がっていますので、陽もそのまま山並みに消えてゆくのですが、この二日ほどは雲が立ちこめていたために、この時期には珍しく、真っ赤に染まった夕陽を見ることになりました。「伝道者の書」の著者も同じ夕陽を見てきたことになります。何という繰り返しなのでしょう。
 義母の面倒をいつも見てくれている義妹が、東京のクリスチャン・アカデミーの同窓会でミシガンに出かけ、ついでにシカゴの私たちの二組の子供家族との交わりを持って、帰ってきました。その同窓会に立ち寄った方が、自分がなぜ同窓会だけではなく、キリスト教との関わりを避けてきたかを話したと、伝えてくれました。その方のお父さんというのは、当時の日本では宣教師として、伝道者として際立っており、また誰からも尊敬されていました。しかし、子供たちは宣教のゆえに無視されてきただけでなく、それなりの暴力を受けてきたと言うことでした。宣教の名の下になされた一切の労苦も、むなしさの中に消えて行くかのようです。
 その義母のところで、普段は余り食べることのない、アイスクリームと好物のアップルパイを結構食べました。私のために、義母と義妹が用意してくれたところがあります。寝る前に自分で用意して一人でアイスクリームを食べるのもよいものでした。むなしい人生で与えられた楽しみの一つです。神の配慮と言うべきなのでしょう。「伝道者の書」の著者が見つけた処世術なのでしょう。
 その楽しむことの中に、自分の妻と生活を楽しむことが含まれています。悲観的で消極的な夫と、楽観的で積極的な妻である私たちも、何とか生活をエンジョイするすべを学んでいます。そうでないとせっかくの人生も勿体ないと思うようになっています。またそうでないと、この広大な国で孤立し隠遁してしまいます。現実にはシカゴまで孫たちに会いにドライブをすることにもなっています。むなしい人生に与えられていることですが、申し訳ない思いにもなります。
 信仰によって望みをいただいて生きているのですが、少しだけ視点を変えたり、ちょと立ち止まって振り返ってみると、むなしさも絶望も闇もすぐ後ろに潜んでいることに気づきます。楽しみの日々と同時に、闇の日も多くあることを忘れることはできません。それが人生なのだと納得します。「伝道者の書」は不思議な書なのでしょう。
 上沼昌雄記

「ダニーボーイ」2018年9月3日(月)

 先週の木曜日にアリゾナ州でのジョン・マケイン上院議員の葬儀をテレビで観てから、関心があって、続いての首都ワシントンへの国主並みの軍隊式移送、金曜日の国会議事堂の回廊での弔問式、土曜日のベトナム戦争記念碑でのマケイン夫人による献花、続いての国立大聖堂での追悼式と追うように観ました。ある場面はユーチューブで繰り返して観ることになりました。
 最初の葬儀で4名の人が弔辞を述べました。その中の一人がベトナムの捕虜収容所でのことを紹介してくれました。もう一人はプロフットボールの黒人選手でした。残りの二人は民主党に属する人でした。ジョン・マケインは名だたる共和党員でした。この人選に何とも興味を覚えました。それも生前に決めていたことと言うことでした。国立大聖堂での追悼式でも二人の前大統領が弔問を述べたのですが、一人は共和党のブッシュ大統領で、もう一人は民主党のオバマ大統領でした。それも生前にお願いしてあったと言うことです。
 ジョン・マケインは筋金入りの共和党員と言えるのだと思いますが、実際の政治活動は、自分の信念に従って党派を超えて活動したようです。それゆえに「一匹狼」と呼ばれたのですが、誰とでも真剣に語り合い、友情関係を気づいたようです。選挙で勝ったオバマ大統領はよく二人で大統領執務室で家族のことも含めて語り合ったと言うことです。そして選挙で勝っても、最後には自分に褒め言葉を全国民の前で言わせるのだからマケインの勝ちだと弔問で述べたものです。
 この一連の行事の中で印象的であったのは、3時間近い大聖堂での追悼式の終わりがけに、これもジョン・マケイン自身が計画したことのようですが、「ダニーボーイ」が演奏され、歌われれたことです。聖書箇所も賛美歌も彼自身が生前に決めていたことのようですが、その中でアイルランド民謡ですが、戦地に子供を送り出す母親の思いを歌った「ダニーボーイ」が歌われ、心打たれました。そしてこの場面を繰り返し観ることになりました。
 何度もその「ダニーボーイ」の場面を観ながら聴きながら、大げさですが、ジョン・マケインという人の人間性に触れることができました。そこには当然ベトナム戦争の捕虜収容所での過酷な体験もあったわけです。人間として持つ悲しみにも苦しみにも痛みにも触れるその人間性は、国家も党派も教派も人種も身分も超えるものでした。それゆえに、党派を超えて友情関係を気づくことができたのです。「ダニーボーイ」はジョン・マケインのもう一つの原点だったのでしょう。
 昨日の日曜日の海軍兵学校のチャペルでの個人的な追悼式と墓地での埋葬式は家族葬と言うことで観ることはできなかったのですが、上空を海軍の飛行隊が飛来してくる場面はテレビで観ることができました。4機で飛来してきたのですが、途中で一機が垂直に飛び去って消えていきました。ジョン・マケインへの海軍式敬意ということでした。国家元首にはなれなかったのですが、それ以上の敬意を軍隊からも受け、その移送のすべても軍隊式に厳粛なものでした。
 アメリカ精神というものがあるとしたら、それは国家も党派も教派も人種も地位も超えて、誰もが尊厳と敬意を持って取り扱われるもので、ジョン・マケインはそれに真剣に取り組んだ人と言えるのでしょう。そのアメリカ精神がアイルランド民謡の「ダニーボーイ」とともに日本人の私に響いてきたのでした。
 上沼昌雄記

「肉の働き」2018年8月27日(月)

 前回「信仰の働き」のことで、その「働き・エルゴン」が、一般に「業、行い」と訳されて「信仰」と対比的に使われているのですが、むしろ信仰そのものが「働き」をうちに含んでいるので「信仰の働き」で良いのではないかという、多少こだわりを取り上げました。その続きで、ガラテヤ5章19節で一般に「肉の行い」「肉の業」と訳されている箇所も、「肉の働き」で良いのではないかとこだわっている次第です。
 この「肉の働き」は、エルゴンの複数形のエルガとなっています。「肉の数々の働き」のことで、淫らな行い、汚れと続いて列挙されています。すなわち、肉がそのまま働いたら、その働きの結果として出てくることがあげられています。その前にある「肉の欲望」(16節)に対応します。この前後は「御霊に従って歩む」ことが取り上げられていますので、肉のままで生きたらばどのような結果になるのかを語っていることになります。飲酒運転で刑を受けたメルヴィンのことを思うのですが、それは自分のことでもあります。
 しかしこの場合に、「肉」を初めから「悪」とみる必要はありません。それは聖書の語っていることではなくて、ギリシャ的な善悪・霊肉二元論の影響から来ていることです。しかしこの影響は残念ながらキリスト教に根強く入っています。肉の世界を離れて霊の世界に、あるいは天に行くということが救いであるかのように、私たちの中で思われ、浸透しています。
 「肉」は端的に神の創造の作品です。ただ「肉の弱さ」があり、悪が肉を捕らえて、住み着いてしまったために、肉のままでは残念ながらその働きの実は目を覆いたくなるものです。この辺の事情はパウロという人も個人的な体験として分かっていて、注意深く考え、ローマ書7章を中心に慎重に取り上げています。5節でかつて肉にあったとき「律法によって目覚めた罪の欲情(直訳:律法による罪の欲情)が、、、働いた」からと接続詞を持って説明しています。
 律法は、パウロにとってはモーセの十戒で、具体的にその十番目の「むさぼってはならない」になりますが、私たちにとっては2:15の「良心」としての「律法の働き」(「律法が命じる行い」ではなく)のことになります。神のかたちに造られた私たちの中に、何が良いことで神に喜ばれることなのかを見分ける感性をいただいています。しかし、「罪」が戒めによって欲情を起こし、からだを罪の虜にするのです。肉の中で「律法の働き」があり、罪はそれを捕らえて欲情を引き起こし、その様々な欲情が「働いて」、「肉の働き」として数々の結果を現してくるのです。
 それでも自分のうちでは、律法そのものは罪ではなく、本来「いのちに導く」ものであることが分かっています。それで自分としては「したくなくこと」をしていることで苦しみます。「うちに住んでいる罪」を直視するのですが、さらにどこか深いところで「内なる人」として「神の律法」を喜んでいるのです。キリストによる救いと御霊の助けを信じることができるからです。
 7章の終わりでパウロはまとめています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えています。」「心(ヌース)」とは「内なる人」の中心で神の律法を認めることのできる識別力です。「仕える」は6章での「義の奴隷」「罪の奴隷」と対応します。残念ながら、肉には「律法の働き」があり、罪がその機会を捕らえて欲情が働き、「罪の奴隷」としてしまい、それが「肉の働き」として悪臭を放つのです。
 それでも「内なる人」は、その深いところで心(ヌース)として神の律法を喜んでいます。「御霊の実」をこの体で結ぶことができるからです。悪臭を放つ「肉の働き」を「御霊の実」が覆い尽くして、かぐわしい香りを放つ者へと変えてくださるのです。「肉の働き」は自分中心の世界ですが、「御霊の実」は人を生かします。メルヴィンは激しい日中の仕事が終わってから、自分の小型トラックを出して教会の人の引っ越しを手伝ったと、教会の人から聞きました。
 上沼昌雄記

「信仰の働き」2018年8月20日(月)

 創造と新創造の大きな枠で聖書を読み解いているN.T.ライトが、その枠の中でのクリスチャンの行動について、すなわち、倫理とも言えることに、パウロが語っている勧めと、信仰と希望と愛のことと、御霊の実のことに言及しながら真剣に取り上げています。その信仰と希望と愛の三本柱のことが、1コリント書13章以外にも取り上げられていることを紹介しています。
 その一つである1テサロニケ書1:3を、昨年出た新改訳聖書2017で確認いたしました。従来の新改訳聖書とは異なった言い回しになっています。「信仰の働き」が「信仰から出た働き」に、「愛の労苦」が「愛から生まれた労苦」に、「望みの忍耐」が「望みに支えられた忍耐」となっています。原語では従来の新改訳聖書のように「の」で二つの単語が繋がっているだけです。
 ここでは「信仰の働き」が「信仰から出た働き」になっていることだけを取り上げてみます。おそらく分かりやすく「信仰から出た働き」と説明を加えた訳になっているのでしょうが、その説明自体が神学的な読み込みと思われるからです。というのは、この信仰・ピスティスと働き・エルゴンは、対に使われていることがあって、特にそのエルゴンが「行い」や「業」と捉えられて、ピスティスとの対比、すなわち、信仰と行いという二元的な理解が支配的になっているからです。
 例えば、ローマ書3:27では、信仰と行いが律法と結びついて。「行いの律法」と「信仰の律法」と対比されています。しかし、一見信仰と行いが対比されているように思われるヤコブ書2章では「行いのない信仰」はないことが強調されています。すなわち、信仰と行いは対比されるときと、帰一的に使われるときがあるのです。それはエルゴン自体が信仰とは切り離せないで、信仰自体が働きを起こすものと理解できるからです。
 その意味合で、ローマ書2:15の新改訳の従来訳も2017訳も「律法の命じる行い」となっているのですが、文字通りに「律法の働き」ととると前後関係に合ってきます。すなわち、律法自体がうちに持っている働きが「心に記されている」ことに「良心」も納得できるのです。「律法の命じる行い」だと、律法と行いが初めから対比され、二元的に理解されていることになるからです。すでに一つの神学的な前提になっています。エルゴンの使われ方を無視していると言えます。エルゴンは「律法」そのものの働きを担っています。
 同じ意味合いで、エルゴンがロゴスと対で使われているケースがローマ書15:18にあります。「キリストは、ことばと行いにより」と、対比ではなく相補的に使われていることが分かります。1テサロニケ1:3の「信仰の働き」もその意味合いで捉えることができます。「信仰から出た働き」だと、どうしても二元的な区別を前提とした歴史的な神学の枠から出ていることになります。
 このことに沿ってパウロは、「希望の神が、信仰による (文字通りには動詞形で単に「信じることにおける」という働きを意味している)すべての喜びと平安であなたがたを満たし」(ローマ15:13)と言い、さらに「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によって働く信仰なのです(ガラテヤ5;6)と言っています。この意味でも「信仰の働き」と、そのままとることができます。
 多少テクニカルな説明を「信の哲学」を提唱する千葉先生の意味論的分析の助けをいただいてしてきたのですが、信仰そのものにすでに働きが備わっていると捉えると、先の動詞形のように「信じること」に思いを合わせることで、そこに働きとして信仰が現れてくるとなるので、信仰とは別に行いを考える必要がなくて、肩の荷を下してホットできます。信じることで、望みが湧き、結果として愛の実を結ぶ、それで良いのではないかと思います。
 そんなことでこだわっているのですが、さらにこだわりが許されれば、新改訳聖書2017の言い回しを従来の新改訳聖書の表現に戻していただいても良いのではないかと思います。そうすると「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」と歯切れも良く、リズム感も出てきます。原典にも忠実になります。まだ暑い夏の夕べに勝手に思っていることです。
 上沼昌雄記

JBTM