「伝道者の書という書」2018年9月17日(月)

 年をとってきたこともあって、「伝道者の書」で語られていることに、どういう訳か、すんなりと納得できます。この書の続きの「雅歌」を学んでいるときに、初代教会のクリスチャンたちが、「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の続きを、人生における、青年期、壮年期、老年期として読んでいたことを知りました。それで「伝道者の書」は、中年になって人生のむなしさを感じてきたときのことと思っていたところがあります。しかし実際に、それなりに年を重ねてきて、語られていることに「それで良いのだろうな」と言い聞かせています。
 自分を指導してくれた先達たちもほとんど召されています、その方々は戦争を体験しておられて、想像もできない困難の中を通られました。それなりの複雑な思いを持って地上の生涯を終えられたのだと思います。私は戦争の終わる5ヶ月前に生まれました。どのような行きがかりか、60年代の大学紛争の中を通されました。そのためにどうしても権威に対して反抗的な思いがあります。そうでありたくないと思っても、権威主義的なことには反発をしてしまいます。それが生きる力であった面もあります。しかし、次の世代の人には格別に意味のあることではありません。それで良いのだと思います。
 ロス郊外で2週間ほど95歳の義母の面倒をみて家に戻ってきました。夏の暑さとは打って変わって、朝晩は寒いほどです。夏の間は雲一つなく晴れ上がっていますので、陽もそのまま山並みに消えてゆくのですが、この二日ほどは雲が立ちこめていたために、この時期には珍しく、真っ赤に染まった夕陽を見ることになりました。「伝道者の書」の著者も同じ夕陽を見てきたことになります。何という繰り返しなのでしょう。
 義母の面倒をいつも見てくれている義妹が、東京のクリスチャン・アカデミーの同窓会でミシガンに出かけ、ついでにシカゴの私たちの二組の子供家族との交わりを持って、帰ってきました。その同窓会に立ち寄った方が、自分がなぜ同窓会だけではなく、キリスト教との関わりを避けてきたかを話したと、伝えてくれました。その方のお父さんというのは、当時の日本では宣教師として、伝道者として際立っており、また誰からも尊敬されていました。しかし、子供たちは宣教のゆえに無視されてきただけでなく、それなりの暴力を受けてきたと言うことでした。宣教の名の下になされた一切の労苦も、むなしさの中に消えて行くかのようです。
 その義母のところで、普段は余り食べることのない、アイスクリームと好物のアップルパイを結構食べました。私のために、義母と義妹が用意してくれたところがあります。寝る前に自分で用意して一人でアイスクリームを食べるのもよいものでした。むなしい人生で与えられた楽しみの一つです。神の配慮と言うべきなのでしょう。「伝道者の書」の著者が見つけた処世術なのでしょう。
 その楽しむことの中に、自分の妻と生活を楽しむことが含まれています。悲観的で消極的な夫と、楽観的で積極的な妻である私たちも、何とか生活をエンジョイするすべを学んでいます。そうでないとせっかくの人生も勿体ないと思うようになっています。またそうでないと、この広大な国で孤立し隠遁してしまいます。現実にはシカゴまで孫たちに会いにドライブをすることにもなっています。むなしい人生に与えられていることですが、申し訳ない思いにもなります。
 信仰によって望みをいただいて生きているのですが、少しだけ視点を変えたり、ちょと立ち止まって振り返ってみると、むなしさも絶望も闇もすぐ後ろに潜んでいることに気づきます。楽しみの日々と同時に、闇の日も多くあることを忘れることはできません。それが人生なのだと納得します。「伝道者の書」は不思議な書なのでしょう。
 上沼昌雄記
広告

「ダニーボーイ」2018年9月3日(月)

 先週の木曜日にアリゾナ州でのジョン・マケイン上院議員の葬儀をテレビで観てから、関心があって、続いての首都ワシントンへの国主並みの軍隊式移送、金曜日の国会議事堂の回廊での弔問式、土曜日のベトナム戦争記念碑でのマケイン夫人による献花、続いての国立大聖堂での追悼式と追うように観ました。ある場面はユーチューブで繰り返して観ることになりました。
 最初の葬儀で4名の人が弔辞を述べました。その中の一人がベトナムの捕虜収容所でのことを紹介してくれました。もう一人はプロフットボールの黒人選手でした。残りの二人は民主党に属する人でした。ジョン・マケインは名だたる共和党員でした。この人選に何とも興味を覚えました。それも生前に決めていたことと言うことでした。国立大聖堂での追悼式でも二人の前大統領が弔問を述べたのですが、一人は共和党のブッシュ大統領で、もう一人は民主党のオバマ大統領でした。それも生前にお願いしてあったと言うことです。
 ジョン・マケインは筋金入りの共和党員と言えるのだと思いますが、実際の政治活動は、自分の信念に従って党派を超えて活動したようです。それゆえに「一匹狼」と呼ばれたのですが、誰とでも真剣に語り合い、友情関係を気づいたようです。選挙で勝ったオバマ大統領はよく二人で大統領執務室で家族のことも含めて語り合ったと言うことです。そして選挙で勝っても、最後には自分に褒め言葉を全国民の前で言わせるのだからマケインの勝ちだと弔問で述べたものです。
 この一連の行事の中で印象的であったのは、3時間近い大聖堂での追悼式の終わりがけに、これもジョン・マケイン自身が計画したことのようですが、「ダニーボーイ」が演奏され、歌われれたことです。聖書箇所も賛美歌も彼自身が生前に決めていたことのようですが、その中でアイルランド民謡ですが、戦地に子供を送り出す母親の思いを歌った「ダニーボーイ」が歌われ、心打たれました。そしてこの場面を繰り返し観ることになりました。
 何度もその「ダニーボーイ」の場面を観ながら聴きながら、大げさですが、ジョン・マケインという人の人間性に触れることができました。そこには当然ベトナム戦争の捕虜収容所での過酷な体験もあったわけです。人間として持つ悲しみにも苦しみにも痛みにも触れるその人間性は、国家も党派も教派も人種も身分も超えるものでした。それゆえに、党派を超えて友情関係を気づくことができたのです。「ダニーボーイ」はジョン・マケインのもう一つの原点だったのでしょう。
 昨日の日曜日の海軍兵学校のチャペルでの個人的な追悼式と墓地での埋葬式は家族葬と言うことで観ることはできなかったのですが、上空を海軍の飛行隊が飛来してくる場面はテレビで観ることができました。4機で飛来してきたのですが、途中で一機が垂直に飛び去って消えていきました。ジョン・マケインへの海軍式敬意ということでした。国家元首にはなれなかったのですが、それ以上の敬意を軍隊からも受け、その移送のすべても軍隊式に厳粛なものでした。
 アメリカ精神というものがあるとしたら、それは国家も党派も教派も人種も地位も超えて、誰もが尊厳と敬意を持って取り扱われるもので、ジョン・マケインはそれに真剣に取り組んだ人と言えるのでしょう。そのアメリカ精神がアイルランド民謡の「ダニーボーイ」とともに日本人の私に響いてきたのでした。
 上沼昌雄記

「肉の働き」2018年8月27日(月)

 前回「信仰の働き」のことで、その「働き・エルゴン」が、一般に「業、行い」と訳されて「信仰」と対比的に使われているのですが、むしろ信仰そのものが「働き」をうちに含んでいるので「信仰の働き」で良いのではないかという、多少こだわりを取り上げました。その続きで、ガラテヤ5章19節で一般に「肉の行い」「肉の業」と訳されている箇所も、「肉の働き」で良いのではないかとこだわっている次第です。
 この「肉の働き」は、エルゴンの複数形のエルガとなっています。「肉の数々の働き」のことで、淫らな行い、汚れと続いて列挙されています。すなわち、肉がそのまま働いたら、その働きの結果として出てくることがあげられています。その前にある「肉の欲望」(16節)に対応します。この前後は「御霊に従って歩む」ことが取り上げられていますので、肉のままで生きたらばどのような結果になるのかを語っていることになります。飲酒運転で刑を受けたメルヴィンのことを思うのですが、それは自分のことでもあります。
 しかしこの場合に、「肉」を初めから「悪」とみる必要はありません。それは聖書の語っていることではなくて、ギリシャ的な善悪・霊肉二元論の影響から来ていることです。しかしこの影響は残念ながらキリスト教に根強く入っています。肉の世界を離れて霊の世界に、あるいは天に行くということが救いであるかのように、私たちの中で思われ、浸透しています。
 「肉」は端的に神の創造の作品です。ただ「肉の弱さ」があり、悪が肉を捕らえて、住み着いてしまったために、肉のままでは残念ながらその働きの実は目を覆いたくなるものです。この辺の事情はパウロという人も個人的な体験として分かっていて、注意深く考え、ローマ書7章を中心に慎重に取り上げています。5節でかつて肉にあったとき「律法によって目覚めた罪の欲情(直訳:律法による罪の欲情)が、、、働いた」からと接続詞を持って説明しています。
 律法は、パウロにとってはモーセの十戒で、具体的にその十番目の「むさぼってはならない」になりますが、私たちにとっては2:15の「良心」としての「律法の働き」(「律法が命じる行い」ではなく)のことになります。神のかたちに造られた私たちの中に、何が良いことで神に喜ばれることなのかを見分ける感性をいただいています。しかし、「罪」が戒めによって欲情を起こし、からだを罪の虜にするのです。肉の中で「律法の働き」があり、罪はそれを捕らえて欲情を引き起こし、その様々な欲情が「働いて」、「肉の働き」として数々の結果を現してくるのです。
 それでも自分のうちでは、律法そのものは罪ではなく、本来「いのちに導く」ものであることが分かっています。それで自分としては「したくなくこと」をしていることで苦しみます。「うちに住んでいる罪」を直視するのですが、さらにどこか深いところで「内なる人」として「神の律法」を喜んでいるのです。キリストによる救いと御霊の助けを信じることができるからです。
 7章の終わりでパウロはまとめています。「この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えています。」「心(ヌース)」とは「内なる人」の中心で神の律法を認めることのできる識別力です。「仕える」は6章での「義の奴隷」「罪の奴隷」と対応します。残念ながら、肉には「律法の働き」があり、罪がその機会を捕らえて欲情が働き、「罪の奴隷」としてしまい、それが「肉の働き」として悪臭を放つのです。
 それでも「内なる人」は、その深いところで心(ヌース)として神の律法を喜んでいます。「御霊の実」をこの体で結ぶことができるからです。悪臭を放つ「肉の働き」を「御霊の実」が覆い尽くして、かぐわしい香りを放つ者へと変えてくださるのです。「肉の働き」は自分中心の世界ですが、「御霊の実」は人を生かします。メルヴィンは激しい日中の仕事が終わってから、自分の小型トラックを出して教会の人の引っ越しを手伝ったと、教会の人から聞きました。
 上沼昌雄記

「信仰の働き」2018年8月20日(月)

 創造と新創造の大きな枠で聖書を読み解いているN.T.ライトが、その枠の中でのクリスチャンの行動について、すなわち、倫理とも言えることに、パウロが語っている勧めと、信仰と希望と愛のことと、御霊の実のことに言及しながら真剣に取り上げています。その信仰と希望と愛の三本柱のことが、1コリント書13章以外にも取り上げられていることを紹介しています。
 その一つである1テサロニケ書1:3を、昨年出た新改訳聖書2017で確認いたしました。従来の新改訳聖書とは異なった言い回しになっています。「信仰の働き」が「信仰から出た働き」に、「愛の労苦」が「愛から生まれた労苦」に、「望みの忍耐」が「望みに支えられた忍耐」となっています。原語では従来の新改訳聖書のように「の」で二つの単語が繋がっているだけです。
 ここでは「信仰の働き」が「信仰から出た働き」になっていることだけを取り上げてみます。おそらく分かりやすく「信仰から出た働き」と説明を加えた訳になっているのでしょうが、その説明自体が神学的な読み込みと思われるからです。というのは、この信仰・ピスティスと働き・エルゴンは、対に使われていることがあって、特にそのエルゴンが「行い」や「業」と捉えられて、ピスティスとの対比、すなわち、信仰と行いという二元的な理解が支配的になっているからです。
 例えば、ローマ書3:27では、信仰と行いが律法と結びついて。「行いの律法」と「信仰の律法」と対比されています。しかし、一見信仰と行いが対比されているように思われるヤコブ書2章では「行いのない信仰」はないことが強調されています。すなわち、信仰と行いは対比されるときと、帰一的に使われるときがあるのです。それはエルゴン自体が信仰とは切り離せないで、信仰自体が働きを起こすものと理解できるからです。
 その意味合で、ローマ書2:15の新改訳の従来訳も2017訳も「律法の命じる行い」となっているのですが、文字通りに「律法の働き」ととると前後関係に合ってきます。すなわち、律法自体がうちに持っている働きが「心に記されている」ことに「良心」も納得できるのです。「律法の命じる行い」だと、律法と行いが初めから対比され、二元的に理解されていることになるからです。すでに一つの神学的な前提になっています。エルゴンの使われ方を無視していると言えます。エルゴンは「律法」そのものの働きを担っています。
 同じ意味合いで、エルゴンがロゴスと対で使われているケースがローマ書15:18にあります。「キリストは、ことばと行いにより」と、対比ではなく相補的に使われていることが分かります。1テサロニケ1:3の「信仰の働き」もその意味合いで捉えることができます。「信仰から出た働き」だと、どうしても二元的な区別を前提とした歴史的な神学の枠から出ていることになります。
 このことに沿ってパウロは、「希望の神が、信仰による (文字通りには動詞形で単に「信じることにおける」という働きを意味している)すべての喜びと平安であなたがたを満たし」(ローマ15:13)と言い、さらに「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によって働く信仰なのです(ガラテヤ5;6)と言っています。この意味でも「信仰の働き」と、そのままとることができます。
 多少テクニカルな説明を「信の哲学」を提唱する千葉先生の意味論的分析の助けをいただいてしてきたのですが、信仰そのものにすでに働きが備わっていると捉えると、先の動詞形のように「信じること」に思いを合わせることで、そこに働きとして信仰が現れてくるとなるので、信仰とは別に行いを考える必要がなくて、肩の荷を下してホットできます。信じることで、望みが湧き、結果として愛の実を結ぶ、それで良いのではないかと思います。
 そんなことでこだわっているのですが、さらにこだわりが許されれば、新改訳聖書2017の言い回しを従来の新改訳聖書の表現に戻していただいても良いのではないかと思います。そうすると「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」と歯切れも良く、リズム感も出てきます。原典にも忠実になります。まだ暑い夏の夕べに勝手に思っていることです。
 上沼昌雄記

「理事の妻たち」2018年8月13日(月)

A wife of noble character is her husband’s crown.
しっかりした妻は夫の冠。(箴言12:4)
The wise woman builds her house.
知恵のある女は家を建てる。(14:1)
He who finds a wife finds what is good and receives favor from the Lord.
妻を見つける者は幸せを見つけ、主から恵みをいただく。(18:22)
Houses and wealth are inherited from parents, but a prudent wife is from the Lord.
家と財産は先祖から受け継ぐもの。賢明な妻は主からのもの。(19:14)
A wife of noble character who can find? She is worth far more than rubies.
しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりはるかに尊い。(31:10)
 過ぎる金曜日の午後1時から理事の一人が経営される「みくにレストラン2号店」でミニストリーの理事会を開きました。お客さんで一杯のお店の一角のテーブルをそのために用意してくださいました。おいしい刺身やロールや焼き物をいただきながら歓談をして、用意した書類に従って議題を確認しました。新しい動きと変化を説明し、決算と予算の承認をいただきました。その書類の一つにいつも聖書箇所を選んで載せます。上記はそのために選んだものです。
 箴言を読んでいて気づいた箇所です。最後の31節の箇所は結構有名なのですが、すでに箴言全体で繰り返されていることに気づきました。パラレルな表現方法を使っていますので、最初の12:4では、「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」と対比されて「しっかりした妻は夫の冠」と言われています。21章では9節と19節で「争い好きな女と一緒にいるよりは、、、」とあり、その対比で「知恵ある女」「賢明な妻」が語られていることが分かります。
 「しっかりした妻」と表現されている英文noble characterから、私の妻は「高貴な」という意味合いの方が強いのではないかと言いました。現行の新共同訳では「有能な」となっています。英語欽定訳ではvirtuous「有徳な、貞淑な」となっています。ヘブライ語原語からは「高貴な」ともとれそうです。そして事実そのような妻は「高貴な」雰囲気を漂わせています。
 これらの記述はそのまま4名の理事たちの妻たちに当てはまると思い、一枚の用紙にまとめました。今回の理事会を妻たちへの感謝の場としたかったのです。理事たちは多少恥ずかしかったようですが、その場にいた理事の一人の妻は喜んでくれました。私の妻は議題のいくつかの英文をチェックしてくれたので議事の内容は分かっていたのですが、この聖書箇所のことは伏せていましたので、用紙を受け取って嬉しいようであり、驚いたようでした。
 4名の妻たちはなんと言っても輝いています。その笑顔は美しく、会話は弾み笑い声が絶えません。そして控えめです。主人たちを支え、子供たちをしっかりと育てています。ミニストリーを陰で支えてくれています。さらに御霊による自由を身に着けています。縛られている感じがありません。発言するときにはしっかりと意見を出します。そのような控えめな「高貴さ」を漂わせています。それは主人たちにも伝染しているようです。
 見渡すに、そのように輝き、控えめで、自由を身に着けている妻たちは、ミニストリーの理事たちの妻たちだけでなく、ミニストリーに関わる人たちの妻たちにもそのまま当てはまります。日本を北から南に旅をしながら関わり、交わり、お世話になる方々の妻たちも輝き、控えめで、自由を身に着け、高貴さを漂わせています。その人達との交わりと会話を思い出します。そのような情景が宝物のように浮かんできます。それは永遠の祝福を味わえる至福の一時でもあります。
 上沼昌雄記

「『箴言』を読みながら、、、」2018年7月30日(月)

 箴言の10章から11章、そして12章にかけて「正しい人」(新改訳聖書2017)のことが繰り返し語られています。妻が英語で読むとthe righteousとかthe righteous manとなっていてニュアンスの違いに驚かされます。「正しい人」では道徳的な意味合いが強く、また「正しさ」の基準よりは状況的に「正しい」と捉えがちです。現行の新共同訳では「神に従う人」となっていてます。英語では「義」に当たるヘブライ語が訳し出されていています。日本語でも「義なる人」と表現すると、神の義との結びつきが見えてきそうです。「実に、義を追い求める者はいのちにいたり、、、正しい(義なる)人の裔は救いを得る。」(11:19,21)
 この夏の初めに車の前面のガラスを取り替える修理をいたしました。見た目には直っているようでしたがエンジンの音が聞こえてくるので、再修理に持って行きました。シールをし直してくれたのですが、それでも運転すると外の音が聞こえてきます。臭いも入ってきます。マネージャーに説明しました。全面的にやりお直すと言うことで持って行きました。やり直しが終わったときにマネージャーが自分たちの不手際を全面的に認めていました。しかも他のお客のいる前でのことでした。何ともすがすがしいことでした。「主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、誠実に歩む人たちの盾となる。」(2:7)
 この国でニュースを聞いていると、何が真実で正しいことなのか分からなくなることがあります。かつてはそれなりの判断基準が明確にあったように思うのですが、今は何かの都合で事が進められ、それに合うように情報が動き、さらに自分たちの生活に都合が良い限りあたかも正しいことのように見なされてしまうところがあります。その度に『平気で嘘をつく人たち』の本を思い起こします。絶対に自分の非を認めないで、すべて他人の所為にしてしまうのです。それが社会で当たり前のようであれば、そのまま子供たちに影響していきます。この国の行く末が心配です。「正義 (義)は国を高め、罪は国民を辱める。」(14:34)
 子供の一人が時差3時間ある地で仕事に就いて、よく夕方電話をかけてきて母親と話をします。正直よくそれだけ話すことがあるなと思うときがあります。それでもよく聞いていると、子供の状況や考えに合わせながら上手に励ましていることが分かります。それは3人の子供たちに同じようにしてきたことです。それなりに互いに納得するまでとことん話し合ってきました。その度に母親の知恵深さに感心してきました。私は時々口を挟むだけです。「知恵ある女は家を建てる。」(14:1)
 箴言は、人として直面する問題をよく捉えています。それは古今東西誰にでも当てはまることです。読む度にそのまま自分に当てはまることばに出合います。妻とともに人間観察の鋭さに驚いています。同時に今までは箴言を単なる道徳的な教えとして捉えてきたように思います。すなわち、信仰は信仰、道徳は道徳と、別々に捉えてきたのではと反省しています。なんと言ってもこれだけの人間観察と具体的な勧めは「神の律法」をいただき、その上で人の生き方を考えているからではないかと思わされます。律法を与える神には知恵と英知が隠されているのです。「あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、、、主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」(2:2,6)
 神には知恵があり、その知恵に従って世界を造られたので、私たちもその知恵に従って生きることは理にかなったことです。神は同時に義でもあられるので、その義に従って生きることも理にかなったことです。神は真実(ピスティス)な方であるので、私たちも信仰と信実(ピスティス)を持って生きることは理にかなったことです。ただその理屈通りに行かないのが肉に住みついている罪です。そこに生きる者の様々な矛盾と葛藤か生まれてきます。そのままでは罪にのみ込まれそうになります。それでも信仰によって神に立ち返ることで、神の知恵と義と真実が少しでも実現される希望が沸いてきます。私たちのできることはその主を恐れて生きることです。「主を恐れることは知識の初め。」(1:7,9:10,)
 上沼昌雄記

「信と愛」2018年7月18日(水)

 過ぎる聖日の山の教会の礼拝で、クリスチャンになったら自動的に良い人になるわけでなくて、学び身に着けていかなければならないことを、忍耐と赦しと愛をテーマに、牧師が興味深く語りました。102歳の黒人のスラッツおばあさんの孫に当たる方ですが、メッセージのために多くの時間をさき、深く省察をしていることが分かります。具体的にドライブしていて渋滞に巻き込まれたり、人に抜かれたりするとイライラする自分の性格を取り上げていましたので、誰もが納得していました。
 聴きながらガラテヤ書5章6節の聖句を思い起こしていました。割礼を受けているかどうかが問題ではなくて、「大切なのは愛によって働く信仰です」と言われている信仰と愛の関わりです。「信の哲学」を提唱している千葉先生が繰り返し取り上げられている箇所です。それは「福音と律法」、「信仰と行い」の二千年のキリスト教会で論じられてきたテーマに対して、その調和をもたらすと見ているからです。
 ただ歴史的には、<愛を信仰の原理と目標>に置くトマスのスコラ哲学に対して、ルターはこの聖句を基に「信仰のみ」を提唱し、<信仰が愛の原理と目標>とみたと言われています。確かにどこかで、すべて信仰で解決するかのように教えられ、そのように思って、なんとか頑張ってきたのですが、山の教会の牧師はその限界に気づき、信仰者としての行動の規範を模索しているかのようです。信仰をどれだけ強調しても堂々巡りをしてしまうクリスチャンの現実をしっかりと見つめています。
 千葉先生はこの聖句を「愛を媒介にして実働している信が力強い」と訳して、信と業の調和を見ています。<愛を媒介にして、信が力強く実働している>と言い換えることもできます。「実働している」と、エネルゲイアという名詞形の動詞が使われています。もう一つの名詞形としてはエルゴンがあります。これはロゴスとエルゴンという対で、パウロ自身がローマ書の終わりで自分のなしてきたことが「キリストがロゴスとエルゴンによって成し遂げた」(15:18)ことによっていると、「ことばと行い」がキリストにおいても自分においても調和していることを提示しています。
 この背後には「福音と律法」に関して、「業の律法」、すなわち、モーセによる文字としての律法とは別に、「イエス・キリストのピスティス」を媒介とする「信の律法」の到来があります。イエス・キリストの信の故に神の意志である律法を確認できるからです。そしてその律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することに要約されています。「愛は律法の充足」(13:10)と言われているとおりです。「業の律法」は終わったのですが、「律法の行い」は「信の律法」によって方向性をいただいたのです。律法主義に陥る必要はないのです。
 この意味合いで、私たちがどのような状況でも、神と人を愛することに徹しているときに、信仰が力強く実働していることを確信できます。信仰の力強さが、隣人を愛することで現れ出てくると言えます。その時には、「信仰と行い」が自分のうちで切り離されていないで、むしろ調和していることに納得できます。
 さらに、「信」は神のピスティスですので、神には「愛」が初めから切り離せないで調和していることが分かります。神の義の啓示は、その意味で、神の愛の現れになります。具体的に「イエス・キリストの信」を媒体にして神の愛が現れています。それに対する私たちの信の対応も神の愛に応えていくものとなります。
 愛は御霊の実として約束されていますが、神を愛し隣人を愛することは私たちに許されている自由意志で決断していくことです。そうするときに、「愛」が「信」と同様にすべての人の心魂のボトムに喜びをもたらすことが分かります。信なしには人が生きられないないように、愛なしには人は人として生きられないのです。「信の哲学」が成り立つとすれば、「愛の哲学」も成り立つことになります。
 上沼昌雄記

JBTM