「愛を信じる」 2020年4月4日(土)

昨日のニューヨーク州クオモ知事の会見の録画を寝る前に視聴しました。3月30日(月)の会見で、全米の医療関係者に助けに来て欲しいと訴えていましたので、そのことに触れるのかと思って関心を持っていました。その通りに20万の全米の医療関係者が反応してくれていると報告していました。別のニュースではそのために輸送機の提供をある航空会社が申し出ていると伝えています。

そしてその時に約束したように、他の地域で必要になったら今度は自分たちが医療関係者を送りますと繰り返していました。今自分たちが格闘していることは、全米のどこかでこれから経験することなので、必ず役立ちます、そのように助け合うのがアメリカですと訴えていました。

一昨日になると思いますが、ニューヨーク州では人工呼吸器があと6日で底をつくことを訴えていましたが、その対応として州内の病院で余裕のあるところから借り出すための知事としての指令を出したとも言っていました。その器具の輸送のために州兵が当たるとも言っていました。

このような具体的な対応を州知事がしていることに励まされたのですが、会見の続きの記者たちとの質疑応答の最後で、知事がフランスから来ていた記者を逆指名しました。その質問と応答の場面を何度も聞き返すことになりました。

質問は、知事の実弟でテレビ局CNNのニュースアンカーであるクリス・クオモが感染していて、それでも自宅の地下から毎日状況を放映しているのですが、その弟さんのことと、彼らの父親でニューヨーク州知事を3期務めたマリオ・クオモから何を教えられたのかというものでした。その父親はアメリカの政界でも結構有名人でした。

弟は報道関係者としての使命を果たしていると、その返答は淡々としたものですが、このような個人的なことも会見で出てくるのも何とも印象的なことです。父親のことではしばらく合間をおいて、ウインストン・チャーチルとも親しくて、「決して諦めるな」(Never give up)と教えられていたこと、そして「愛を信じること、愛は恐れも憎しみも自己中心にも打ち勝つものです」と言い、それを今私たちは実践しているのですと会見を締めくくったのです。

昨夜はこの場面が脳裏に出てきてなかなか寝付かれなかったのですが、それはこの数年取りかかっている「信の哲学」の結論にも当てはまると納得して多少興奮したからです。それで朝一番に書いてみようと思って取りかかっています。実は「信の哲学」に関心のある方々とネット勉強会を12月から始めているのですが、この3月のテーマは「信と愛の相補関係」でした。その部分をまとめて紹介いたします。

<「信の哲学」は、ロゴスとエルゴンの相補性を大切にしています。ロゴスとしてのキリストとそのキリストの働きであるエルゴンの相補関係です。パウロもローマ書15章18,19節で次のように言っています。「なぜなら、われは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわれを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである。」

さらにこのロゴスとエルゴンの相補関係を顕著に語っていることばとして、ガラテヤ書5章6節の「愛を媒体にして実働している信が力強い」を取り上げます。このことはすでにその著『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の序文で取り上げられていて、「信と愛の統一理論」(上巻4頁)と言っていますが、ある意味で、「信の哲学」の結論とも言えます。(なお上巻19,41,46,55,133,136,517,570,796頁を参照ください。)

この点に気づいたときに、それは何よりも「信の哲学」の提唱者の千葉先生の生き方でもあると納得しました。「信の哲学」に惹かれたのは信と愛の融和を千葉先生が生きていることが分かったからです。信仰は目に見えなくとも、愛は実として目に見えるのです。その信仰は神のピスティスとイエス・キリストのピスティスを元にしています。

この信仰と愛、信と愛の相関関係のことで、今まで格闘したこと、思わされたこと、経験させられていることがありましたらお分かちください。>

そして何人かの方から真摯な返答をいただきました。その方々にも昨日のニューヨーク州知事の「愛を信じること」を父親から教えられ、そのように実行していることをお伝えできればと思いました。

上沼昌雄記

「品性・品格、再び」2020年3月26日(水)

 ニューヨーク州での新型コロナウイリスの感染者の急増は、医療機関の崩壊の危機をもたらしているようで気になって、今朝のクオモ州知事の会見の実況中継に耳を傾けました。現状を数値で説明しながらゆっくりと語りかけているのですが、現実の厳しさをしっかりと伝えていました。必要な情報を聞くことで、州政府がしっかりと対応していると分かって多くの人は安心するのではないかと思いました。
 そして最後に個人的な意見として語ったことにさらに注目させられました。このような困難なときは誰もが共有していることで、しかも医療関係者はいのちの危険を冒して奮闘していること、また社会生活の維持のために多くの人が疲れを忘れて働いていること、食糧供給のために日夜働いていることに触れ、そのような人への感謝の意を伝えていました。さらに、このような困難なときは人の品格が現れ出てくるときであり、さらに自分たちの品性を養うときであると締めくくっていました。
 正直このような会見で品性・品格のことが取り上げられていることに、驚いたのですが、どこかでこの国のスピリットがまだ生きているかのようで安心もしました。少し前の大統領の会見で、ひとりの記者がこのような困難なときに不安に駆られている国民に何かメッセージがありますかと質問したことに、「おまえは悪い記者だ、それが私のメッセージだ」と罵倒した場面を見て愕然としたことがありましたので、クオモ州知事のメッセージに慰めをいただきました。
 私たちは3月の初めに別のことでシカゴ郊外の長男宅に来たのですが、アメリカ全土での感染の広がりを受けて外出禁止令まで出てくることになりました。同じシカゴ郊外の長女宅に移動したのですが、時々散歩に出るくらいで外出を控えています。ここの子供たちはカトリックの学校に通っています。子供たちに愛、忍耐、寛容、親切などの徳を毎月のテーマにして教えていることを知りました。プロテスタントでは、どちらかというとそれらは信仰と行いの対比で、行いに属するものとして軽視されてきた面があります。
 そのことは気になっていたのですが、あのN.T.ライトも気になっていたようで、Virtue Reborn「徳の再生」という本を書いていることを知りました。しかも、拙訳『クリスチャンであるとは』、中村佐知訳『驚くべき希望』に続く三部作と位置づけてます。それで訳出したいと思い頑張って、初訳は終わっています。プロテスタントである私たちの見失っている徳の意味合い、すなわち、律法の意味、山上の説教、御霊の実などのことを聖書全体から調和をもって書いています。私たちに必要な本です。何とか出版にこぎ着けられればと願っています。
 品性・品格、そして徳のことを端的に語っているのが、ローマ書5章初めの艱難、忍耐、練られた品性、希望と続く箇所での、「練られた品性」のことです。「見分ける」という動詞の名詞形です。まさに今の困難の中で、忍耐をもってどのようにすべきなどかを見極めていく判断力を意味しています。
 「信の哲学」では、この判断力の機能を担う場としてローマ書7章の終わりで出てくるヌースを見ています。肉においては罪の奴隷なのですが、その肉を持つ者の「内なる人」の根底の機能としてヌースを見ています。邦訳では「心において神の律法に仕え」となっているのですが、まさに「ヌースにおいて」なのです。そのヌースにおいて神の律法を喜ぶ面を認め、そこに聖霊が働いてその実を結ぶことができるのです。その意味で12章の初めでは「ヌースの一新」のことを語っています。
 今朝クオモ州知事のメッセージを聞いて思い巡らしたことです。またこのよう困難の時にしっかりとした判断力を持って舵を取っていくときに希望も生み出されてきます。大統領の会見でこの国は終わりだと思ったのですが、まだ希望があることが分かりました。
 上沼昌雄記

「<信の哲学>と聖霊」2020年3月4日(水)

 この数週間で日本が、そして世界がどのようになるのか、息を潜めて見守りながら日々を送ることになっています。そしてどこに、どのように新型コロナウイリスが伝染していくのか分からないままに、アメリカの地でも現実的な問題になってきています。被造物の呻きに御霊自らがどのように執り成してくださるのか、少なくとも考えさせられます。
 「信の哲学」が信仰・ピスティスをも哲学のテーマとしているときに、それは、私たちの手の届かないことに対しての信頼という次元の人間の営みが、人であるすべての人にとって必要不可欠の要素であることを認めていることになります。すなわち、あることを信じ、それを信頼して行くことで私たちの日常の生活が成り立つだけでなく、明日も大丈夫であり、子孫たちも大丈夫であると言い聞かせることができます。
 しかし被造物の呻きが、私たちが積み上げてきた科学技術ではまかないきれない状態になることもあり得ます。創造の作品を創造者の意図に沿って「治める」ことは、私たちに人間に任されているというか、責任として委ねられていることです。しかしそのための識別力を失って肉の思いのままに用いていくときに、神の怒りの啓示は、神の義の啓示と同じように、すでに神の手の内で定められていることを啓示の歴史が語っています。
 私たちの生活がグローバル化して、人の動きと情報が世界的なレベルで駆け巡っているときに、一つの出来事を全人類が同時的に体験することになり、一つの事柄が全人類の事柄として避けることができない状態になっています。かつてイスラエルの民だけのことと思っていたことが、歴史的には全人類の課題として突きつけられたこともあります。歴史の動きを変えることにもなっています。
 神の義の啓示の向こうには神の怒りの啓示があります。しかし、神の義の啓示が地に実現することを神ご自身が望んでいることは理に適ったことです。そのためには私たちの「肉の弱さ」を補う神の手立てが必要です。罪の手に陥ってしまった「肉の思い」とは別の手立てが必要です。神はそれを「御霊の思い」として備えています。
 私たちの「肉の弱さ」は、造られた被造物の弱さでもあります。その意味で肉の呻きは被造物の呻きでもあります。そして神はその呻きを聞き届けておられ、御霊自らが執り成してくださる手立てを備えてくださっています。肉を含めて被造物が創造者の意図に従ってその成り立ちを完成するためには、霊という神の側の息吹が必要なのです。新しい創造の業は、罪に支配されてしまったこの世においては、新しい神の息吹として必要なのです。
 御霊は神の息吹ですが、新創造の力として機能するのです。それは御霊がイエスを死者の中から甦らせた力でもあるからです。しかもその復活のからだを「御霊のからだ」とまで呼んでいるのです。それ故に私たちは被造物の呻きを持っているのですが、希望があります。そうでなければこの地はむなしく消え去ってしまいます。
 「信の哲学」はこの御霊の機能をも哲学のテーマとしています。なぜなら、この世界の存続のためには霊の介入なしには考えられないと観ているからです。それは聖書が提示していることであり、同時に、神の息吹による刷新は世界が希求していることでもあるからです。そして今の時に、誰でもが願い求めていることです。
 上沼昌雄記

「誇り、誇ること」2020年2月5日(水)

 妻とヘブル書に続いてヤコブ書を読んでいます。昨晩はその4章でした。16節のことばで顔を見合わせることになりました。「ところが実際には、あなたがたは大言壮語をして誇っています。そのような誇りはすべて悪いものです。」実は、その夕刻に聴いた現大統領の一般教書演説で感じていたことで、二人で納得したからです。テレビがないのでラジオで聴きました。
 実はこの「誇り」「誇ること」については「信の哲学」に接してからずっと心にかかっていました。いわゆる信仰義認論の箇所と言われるローマ書3章22節から26節で、イエス・キリストの信を介して神の義の啓示の道が開かれたことが明記されていて、その上でその適用のように、27節で「それでは私たちの誇りはどこになるのでしょうか」と自問をしています。いきなり出てくるようなのですが、すでに2章23節で「律法を誇りとする」ユダヤ人のことが念頭にあることが分かります。
 その誇りは「取り除かれました」とあっさりと言い切るのです。言い切れるだけの道が開かれたからです。「どの律法を介してか」と、律法を誇る者に、逆にどの律法によるのかと切り返すのです。そこで明記しているのが、「業の律法」ではなく「信の律法を介して」いるからと、22節で出てきた「イエス・キリストの信を介して」を根拠にしていることが分かります。
 実はこの27節の訳は新改訳の三版では「どういう原理によってでしょうか」となっています。それで「行いの原理」か「信仰の原理」かと言うことで、どのような原理を見いだせばよいのだろうかと、長い間考えていたのですが、不明瞭のままでした。そのノモスを端的に「律法」と理解していくと流れが分かってきます。キリストは律法の目標(10:4)であり、「信の律法」とは「キリストの律法」(1コリント9:21)でもあるからです。
 そしてこの「誇り」「誇ること」は、パウロ自身にとっても、特にコリントの教会の人たちとのあいだで大きな課題でありました。誇りは人間としての潜在的な欲求でもあるからです。神の律法をいただいていることだけでも、また割礼を受けていることも、あるいは少しでも良い働きや業に関わったことでも、黙っていることができないで口に出してしまい、特権のように誇るのです。
 「信仰による」ことも誇りにもなるのです。宗教的なことが誇りの対象にもなってしまうのです。「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」(1コリント13;3)とまで言っています。その意味でも信仰義認論で単なる「信仰のみ」ではなく、「イエス・リストの信を介している」と、私たちの信仰以前のことを根拠にしていることを忘れることはできません。それは「肉なる者がだれも神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1:29)と言われているのです。それで「誇る者は主を誇れ」(1:31,2コリント10:17)と繰り返され、また、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ書6:14)とも言われています。
 それで、「たとえ私のからだを引き渡して誇ること」があっても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」(1コリント13:3)とまで断言するのです。それはたとえ「主を誇る」「十字架を誇る」ことであっても、愛がなければとも言えるのでしょう。「愛は自慢せず、高慢になりません」と続いて言われています。演説で結構キリスト教用語が使われていたので余計に気になりました。それで妻と顔を見合わせて暗い気持ちになったのです。
 「信の哲学」は結論のように「信と愛」の相補性を大切にします。それは神において「義と愛」の相補性があると観ているからです。また、そこに神と私たちの相補性も生まれてくるからです。「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によってはたらく信仰なのです」(ガラテヤ書5:6)と言われているとおりです。「信の哲学」は繰り返し取り上げています。
 この週はウイークリー瞑想を二つ書くことになりました。時々黙っていられなくなることがあります。
 上沼昌雄記

「村上春樹とブルース・スプリングスティーン」2020年2月3日(月)

 前回の記事を読んでくださった方が、村上春樹がブルース・スプリングスティーンのことを書いていると記してくださいました。私もその文章を随分前に読んだことがあるのですが、もう一度読み返してみました。何が村上春樹をしてブルース・スプリングスティーンの文章を書かせたのか分かりました。物語性です。
 ロック歌手であるブルース・スプリングスティーンとそのバンドの熱狂的な演奏をビデオで観ることができるのですが、そこで歌われている歌詞の内容に村上春樹自身が「何よりも何よりも、、、唖然とさせられた」と言います。それは私も、前に書いたとおりに、「ストリート・オブ・フィラデルフィア」を聴いているときに、その内容はブルース・スプリングスティーン自身のことを歌っていると思ったことで、納得できます。
 しかもライブ演奏では、その歌詞のある部分を、特に繰り返しの部分を、会衆にも歌わせてしまうのです。My Hometownという曲をロンドンの会衆の前で歌っているビデオがあります。彼が祖父の車に乗って、これがおまえのHometownだよと教えられたことを、自分が父親になって同じように子供を車に乗せて、これがおまえのHometownだよと言い、そのリフレインのMy Hometownの部分を、イギリス人と繰り返しながら何度も歌うのです。誰の心にも故郷はあります。その一体感を生み出しています。
 村上春樹はそれを「物語の共振性」と言います。ロックの音楽にこれほどのストーリー性が与えられたことはないとまで言います。手前勝手ですが、聖書の物語も多くの人にその共振性をもたらしてきたと言えます。ヨブの苦難の物語、ヨナの怒りの物語、伝道者の書のむなしさの告白が共鳴をもたらしてきて、今でももたらしています。あのローマ書にもパウロの物語を感じ取ることができます。それがなければ聖書がここまで受け入れられることはなかったのです。
 村上春樹がもう一つブルース・スプリングスティーンの物語性の中に観ていることは、「物語の開放性」です。歌詞とその演奏で、生々しい感触と光景と息づかいを聴衆に与えても、物語そのものは開いたままで終わっていて、安易は結論づけを拒んでいると言うのです。何とも興味深い観察です。
 ひとつ分かることは、村上春樹とブルース・スプリングスティーンは1949年生まれで同年配です。ブルース・スプリングスティーンが60年代の症候群には巻き込まれないで、70年代、80年代苦闘をしながら自分の芸術性を磨き上げてきただけでなく、それぞれの時代の症候に呑み込まれないだけの大きな物語を持っていたからだと言います。その時代を代表する音楽家で終わることがなく、それを乗り越えるだけのものを持っていたからだと言います。そのための苦闘をブルース・スプリングスティーンがして来たと見抜いています。
 それは村上春樹自身のことを語っているかのようでもあります。しかも興味深い言い方をしています。つまりそのためには時代や階層を超えた「救済の物語」にまで昇華していく必要があるというのです。人間的にも、芸術的にも、道義的にも、ひとつ上に段階の上る必要を認めています。物語がただその人のものではなく、「より大きな枠から切り取られた物語」であるからだと言います。「救済の物語」とはその意味なのでしょう。
 村上春樹の最近の作品で「信じる力」を小説の終わりでの新たな展開としていることを書きました。ブルース・スプリングスティーンはカトリックの背景を隠さないので、信じることが報いられること、信仰と愛に望みをかけることを遠慮なしに歌い上げています。「主よ」と呼びかける歌詞を当たり前のように入れて、バンドも聴衆も一緒に歌わせてしますのです。それだけの資質と品格を苦闘と忍耐を通して身に着けてきたからなのでしょう。
 村上春樹もブルース・スプリングスティーンもすでに古希を過ぎています。二人の夢の対談が実現して、今までの芸術と人生を語り合うようなことが起こったら何が出てくるのだろうかと、勝手に心ときめかせています。
 上沼昌雄記

「ブルース・スプリングスティーン」2020年1月27日(月)

 私が音楽のことを書くと笑われるのですが、それでも時には共鳴し納得することがあります。世界的なロック歌手であり、シンガーソングライターであるブルース・スプリングスティーンの音楽を折々に聴いてきました。その始まりは多分トム・ハンクス主演の映画『フィラデルフィア』に監督の依頼で作曲した主題歌『ストリート・オブ・フィラデルフィア』に接してからだと思います。1994年のアカデミー賞で、トム・ハンクスは主演男優賞を、『ストリート・オブ・フィラデルフィア』は歌曲賞を獲得しています。
 
 ロック歌手でありながら抑制の効いたトーンでフィラデルフィアの下町で生活している人たちの苦闘を歌い上げているその響きは、ブルース・スプリングスティーンの心の深くから出ているものと納得します。監督からの依頼で書き下ろしたその歌詞も彼の人生を語っていることが分かります。ユーチューブでそのフィラデルフィアの下町を歩きながら歌っている場面を何度も観ることになりました。
 
 二つのCDを購入して、それをパソコンに入れてどこでも聴けるようにもしました。最近もまとめて聴く機会がありました。ブルース・スプリングスティーンがロック歌手として熱狂的に歌い上げている場面でもどこかで哀愁が漂っていて、それに会衆が一つとなっている場面にユーチューブで接します。自分の中の誰にも触れられない、言葉にもならない、ただ呻きだけでしかない響きをブルース・スプリングスティーンに中に感じ取っているのが分かります。
 
 実は彼自身が若いときからうつ病で苦しんでいてその治療を受けていながら音楽活動を続けていることの記事に接しました。そのことを自叙伝として書物にまとめたものが2016年に出ていることが分かり、早速購入しました。同じ音楽家である彼の奥さんが、歌詞を作るようにこの本を書いているというコメントがあります。確かに自分の人生の断面とその折りに出ているヒット曲が重なり合って響いてきます。本のタイトルは”Born to Run”ですが、同名のヒット曲がすでに1975年に出ています。その曲の日本語名は『明日なき暴走』となっています。
 
 528頁わたる自叙伝ですが、家族に伝わってきた精神的な病が特に父親にも伝わっていて、その父親との格闘が彼の人生を支配してきたことを折々に記しています。その記述も音楽的とも言ます。長々と解説をしているのでもなく、また単に嘆いてるのでもなく、それが自分の人生そのものであり、そのもの語りを歌で体現してきたことを流れるように語っています。
 
 1982年配信の『ネブラスカ』というアルバムに”My Father’s House”という曲があります。自叙伝の最後の章でこのことに触れています。父について書いた最良のものであることを認めつつ、その最後の文面は充分ではないことが分かったと言います。自分たちの罪はそのままになっているという文面で、次のような表現になっています。”Where our sins lie unatoned,,,” 
 
 なぜ不充分と思ったかというと、そのままでは罪を自分の子供たちに受け継がせてしまうと気づいたからです。確かに自分の父親との確執は、形が違っても自分の子供たちにも影響するものであるが、それでもそれは自分の罪であることを認め、少しでも癒やしをもたらしていく責任を果たすことで、子供たちがさらに信仰と希望と愛を見いだしていくものであると気づいたからだと言います。2014年の”High Hopes”という曲でその希望を歌い上げています。
 
 自叙伝の初めでカトリック教会で育ったことが記されています。形として離れることになっても、イエスとは個人的な交わりを持っていることを認めています。イエスの愛を知っています。そして自叙伝の終わりで、うつ病のことを告白し、父親との確執から解放されて深い慰めに満ちているブルース・スプリングスティーンの心に、静かに「主の祈り」が浮かび上がってきます。それを繰り返し唱えている自分をさらけ出しています。
 
 上沼昌雄記

「ある老学者の回顧談に接して」2020年1月14日(火)

 日本でのある会合に機会あるごとに参加しているのですが、先週のその会合である老学者がご自分の今までの歩みを振り返りながら、牧師が中心の参加者に合わせて、ご自分の研究と今までの信仰者としての歩みで思わされてきたことを忌憚なく語られました。そのメモに当たる15頁ほどの原稿をメールでいただき何度か読みました。その会合自体が先週の木曜日に開かれ、その先生の発表と参加者との楽しそうな懇談の3時間に及ぶ録音もネットで聴きました。
 メモも録音も門外不出ですので、その内容を語ることができないのですが、そのインパクトは強烈で、痛快でもあり、深い納得と慰めを伴うものです。多少の意見を述べたいところなのですが、週が明けて思い巡らしてうちに、私なりの歩みを振り返ることをさせてくれています。この老学者より私は10歳若いのですが、私なりに学んできたことが信仰者として、また主の業につく者としてどのような意味を持っているのか、問いかけてくれています。
 高校生の時に宣教師を通して信仰を持ったのですが、大学紛争で揺れる大学で哲学を専攻しました。それが今の歩みの基礎になっているのかなと思わされます。キリストを救い主と信じる信仰によって自分の救いの確信は今に至るまで変わらないのですが、その信仰と信じている対象をもっと知りたいと思って哲学の世界に入ったのですが、その時の思いが今に至るまで生きているのかも知れません。
 信仰の形態としては聖書的、福音的であることの願いは今でも変わらないのですが、当時ハイデッガーの実存哲学が聖書解釈に影響していることが分かって、ブルトマンやバルトも読んできました。それで自分の信仰を変えないといけないとは思ったことはありませんでした。哲学的な問いはむしろチャレンジとして受け止めてきました。外から見たらそれで影響されていると見えるのかも知れません。
 家族で渡米したといえるのか、戻ってきてというべきか、すでに30年になります。今のミニストリーを始めて、この哲学的な問いが一つの支えになっている面があります。というのは、人間とは、世界とは、意識とは、善とはという問いはいろいろな面で現されているので、信仰の枠を超えても取りかかれるからです。それを村上春樹は物語として取り上げていて、ハイデッガーの対極にいたユダヤ人哲学者のレヴィナスはホロコーストを通して問い直しをしています。それぞれの背景を持ちながら何とか答えようとしていることに共鳴しました。
 その共鳴が拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』(2008年)を生み出してくれたと言えます。村上春樹を密かに読んでいる牧師と親しくなり、信頼もされました。ある人からは誹謗もされました。レヴィナスのユダヤ人としての視点がN.T.ライトの創造から新創造までのパノラマ的理解の受容を導いてくれました。そしてN.T.ライトのローマ書理解が「信の哲学」におけるローマ書のテキスト理解に導いてくれました。
 取りも直さず「信の哲学」は哲学なのだと納得します。心魂の根底における信の根源性の解明と言えるからです。「信の哲学」はローマ書をアリストテレスの「魂論」と同じように哲学の書として探求しています。そこから浮かび上がっている「福音」の再考察は、まさに人とは、世界とは、死とは、善とはの問いへの根源的な提示を可能にしてくれます。何よりもそのように問いかけることを恐れてはいません。それゆえに開かれたものとなります。パウロの問いかけと生き方がその証拠です。もちろんイエスのロゴスとエルゴンにによっているからです。
 どちらにしても限りのある人生で、それでも導かれるように取りかかった課題を、限りのある中で格闘する以外にはないことです。それで今漠然と与えられている課題は、『闇』の本でパウロの闇としてローマ書7章を中心に取り上げたのですが、「信の哲学」も7章を中心に「心魂の根底」での出来事に光を当てているので、この闇のテーマの再考察かなと思わされています。同時にしかし、闇のテーマは村上春樹のように物語としてしか取りかかれないのかも知れないとも思わされています。
 どちらにしてもこちらもいい歳になりましたので、新しい年どうなるのか伺いつつ歩みたいと思います。
 上沼昌雄記

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