「家とは、、、」2017年12月5日(火)

12月1日付けのニューヨーク・タイズ紙の電子版で、日本での「孤独死」を取り上げていました。60年代の経済成長の中で政府の政策として建てられた都内の大きな団地に取り残された独り身の二人のご老人の生活を紹介しながら、写真入りでかなり克明に記載していました。妻の両親は多摩ニュータウンで伝道をしてきて結構の間実際に団地に住んでいましたので、その時の状況を思い起こしながら記事を読むことになりました。同じ階に住んでいても余り交流のないことを覚えています。

「孤独死」のことは、社会学的、経済的、政治的な課題を含んでいて、多面的に取り上げなければなりません。ただ記事を読んで、方向が違うように思えるのですが、「家とは」「家に住むとは」と言うことをレヴィナスが哲学のテーマとして取り上げていることを思い起こしました。そんなことを哲学として考えること自体が現今の人間が置かれている状況を語っているのかもしれません。というのは人が「家に住む」と言うことが、他所と遮断して自己の我執に生きる具体的な行為と見ているからです。その家がコンクリートで出来ていて、ドアも堅く締めて住む家であればあるほど、他者を閉め出し、自己の内に閉じこもることになるからです。

感謝祭に際してシカゴ郊外の長女宅に滞在し、続いて長男宅に滞在しているのですが、妻との習慣で近所を散歩することを心がけています。シカゴ郊外というよりも、まったの平原に出来上がっている千件以上の家が一つのコミュニティを作っている新興住宅街です。どの家もしっかりできていて、幾つも部屋もある大きな造りで、皆それなりに生活を楽しんでいるようです。フェンスもなく建物としては仲良く並んでいるのですが、同時にどことなく人を寄せ付けないものがあります。住んでいる人たちにはそのような思いはないのでしょうが、自分たちの領域が侵されることを暗黙の内に拒否しているようです。

レヴィナスがこのテーマを取り上げている背景には、ハイデガーの実存理解があります。「現存在」として捉えられる実存は、他者を視点に入れないで、私だけの存在を自分の気分を元に現象学的に分析しているだけで成り立っているのです。他者を上手に排除しています。それは自我の固執を助長することになり、現実的にはドイツ精神の高揚を促進することになり、ユダヤ人排除へと繋がったのです。そのユダヤ人哲学者としてのレヴィナスは、神のユダヤ人の選びがあっても、寡婦と孤児と在留異国人への配慮を命じていて、絶えず開かれた世界があることを指摘しています。それはイエスが隣人を愛することが律法の二番目に大切な戒めと認めていることに繋がります。取りも直さず、イエス自身が、閉じられた宮殿の奥ではなく、開かれた馬小屋で生まれているのです。

「自国第一主義」を掲げている国も、同じようになんとか他者を閉め出し、高いフェンスを建て、自分の内に堅く閉じこもろうとしています。その自我の固執自体が、レヴィナスは、戦争の武勲談を生み出すものと見ています。強い者勝ちの世界です。心配なのは、それでよいのだとこの地の多くのクリスチャンが思っていることです。それはホロコーストの前のドイツの教会が通ったところとなのです。教会が自分の内に閉じこもってしまっているのです。

信仰も希望も愛も、自分から出て行かなければなりません。出て行ったら出会う他者はどこにもいます。そして責任も出てきます。できることはわずかなことでも、引き受けていかなければなりません。家の外には、自分の世界の外には、神の愛を少しでも分け与える人が待っているからです。

上沼昌雄記

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「子供達が遊ぶ」2017年11月27日(月)

 感謝祭の週末を、フロリダ州タンパから次女の泉も合流して、シカゴ郊外の長男義樹宅と長女瞳宅で、しばらくぶりで家族全員で過ごすことができました。そこにさらに一年前に結婚した義弟夫婦や親戚も合流して、多少拡大した上沼ファミリーの様相となりました。感謝祭はただ家族が集まって七面鳥を食べ、パイをデザートにして語り合うという、この地での一番くつろいだ時となります。そんな感謝祭の思いで深い場面がいくつかあるのですが、子供達がただ一緒に遊んでいる情景に接し、これこそ感謝なことだと思わされました。
 孫が7人与えられているのですが、一番下はまだ5ヶ月ですので、おとなが皆そのかわいらしさに惹かれて代わりばんこに抱いてあげて、心和む時をいただきました。残りの6人の孫達は、いままで一緒になると、何をしているのか親が監視しなくても安心していられるほど、仲良く遊んでいます。木曜日の感謝祭を長男宅で過ごし、土曜日には長女宅で、私のカレーライスを皆で食べて家族の写真を撮るときとなりました。
 この長女宅の中庭は、向かいの家の中庭とフェンスがなく、植木で隔てられているだけです。さらに長女宅の中庭も向かいの家の中庭もすぐ隣と同じようにフェンスがなく植木で隔てられているだけです。すなわちこの4軒の中庭は一つの和やかな空間を作っています。長女宅の子供達には、特に隣の中庭はいままでも自分たちの中庭の延長のような遊び場となっています。初老のご夫妻が自分たちには孫がいないのでと解放してくれていました。その奥様が召されてもご主人が同じように子供達を歓迎してくれています。
 向かいの家にはお年寄りが住んでいたのですが亡くなった後は、借家となっていて、つい最近、様子から察するとお父さんと男の子だけが住んでいるようです。長女宅の男の子達には同年配の男の子達が正面の道を隔てた斜め向かいにいて、感謝祭の前にその子達と植木を境にボールを蹴る遊びをしていました。その折に、その向かいの家から最初にお父さんが出てきて、そのまま遊んでいて良いと言い、しばらくしてその11歳の男の子が出てきて一緒に遊び出しました。
 そしてこの土曜日には6人の孫達が外に出て、しかも隣のおじさんの中庭に散っている落ち葉で遊んでいたときに、向かいの家からこの11歳の男の子も出てきて皆で落ち葉を掛け合って遊び出しました。家の中では家族と親戚のいとこと5ヶ月の孫を中心に楽しく語り合い、外では子供達がしかも自分の中庭ではなく隣の中庭で楽しそうに遊んでいました。特に向かいの家から11歳の男の子も出てきて分け隔てなく一緒に遊んでいる様子を窓越しに観ながら、内ではおとな達がまた楽しそうに語り合っている様子を交互に観ることになりました。
 この地でも日本でも子供達が外で思い切って遊んでいる様子を見ることが少なくなっています。閉じこもってネットやゲームで明け暮れているのでしょうか。またこの向かいのお父さんと一緒の男の子のように離散した家族でひとりぼっちでいる子供も多いのかもしれません。そのような中で、ともかく子供達が、結構寒かったのですが、外に出て落ち葉でもボールででも思い切って遊んでいるのは、感謝祭の最高の風景となりました。
 
 上沼昌雄記

「ガラテヤ書2章20節は、、、」2017年11月22日(水)

 前回はガラテヤ書2章16節から「イエス・キリストのピスティスを介して」示された神の義を「知っているので」、私たちもキリストを信じたのですと、パウロがピスティス(真実、信実、信仰)のあり方を丁寧に述べていることを、千葉教授のローマ書研究をたよりに確認いたしました。実はその続きが、有名な2章20節でまとめられています。「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが生きているのです。」このようにパウロは自分の信仰のあり方を表明して、それに続いて2章16節からのまとめを大変丁寧に繰り返しているのです。
 むしろ大変慎重に表現しているのですが、従来の訳は簡単に「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と、いわゆる「信仰によって」という「信仰のみ」の典拠の一つのように理解してきました。それは同時に、さてパウロのこの信仰と同じように自分も生きられるのかと自問をすることにもなりました。説教者としてもこの箇所から語ったことがあります。その反応の一つに、そのように生きるのは難しいですねという正直なものでした。ある意味でガラテヤ書2章20節は、信仰者の理想的なあり方を語っていると思われてきました。
 その通りとも言えるのですが、この後半のパウロのステートメントが2章16節を踏まえていることが分かると、私たちの信仰のあり方に焦点を合わせることから解放されて、むしろ信仰に生きることの根拠を確認することになります。その文章はまず「いま私が肉にあって生きているのは」で始まり、その「肉にあって」を踏まえて実は「信仰にあって私は生きている」と対比しています。肉にありながらなお信仰にあって生きられる驚くべき事実を語っています。ローマ書7章では、肉にあっては「私は惨めな人間」としか出てこないのに、「内なる人」として「神の律法」を喜ぶことができるのです。
 この肉にあってもなお信仰にあって生きられるその根拠をパウロは次に「神の御子のピスティスによって」と説明するのです。実はここではピスティスといことばが直接使われてなく、その前の「信仰にあって」の「信仰・ピスティス」を定冠詞で指していて、しかもその定冠詞が「原因の与格」と言われるあり方で結びついているのです。それで「神の御子のピスティス・信実によって」となるのです。すなわち「神の御子の信実を根拠にして」それを信じる「信仰にあって」生きているのですとパウロは表現しているのです。
 従来の訳のように簡単に「神の御子を信じる信仰によって」とはならないのです。そのようにとるとどうしてもこちらの信仰のことが中心になってしまうのですが、その前になされた神の側のことに視点が置かれているのです。そしてパウロはその御子を「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」と説明して、自分自身がその御子の信実さに結びついていることを語っているのです。この節は「私」が主語で始まって、「私」と関わりで信仰が語られてるのですが、パウロは注意深く、「神の御子のピスティスによって」と区切りを入れて、それを信じる「信仰においいて」生きていると丁寧に語っているのです。
 ちなみにN.T.ライトはそれを、within the faithfulness of the Son of God と表現し、NET訳は、because of the faithfulness of the Son of God と表現しています。まとめになりますが、千葉教授はこの節の後半を以下のように訳しています。「われ今肉において生きているところのものは、われを愛しそしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって信において生きている。」
 このようにガラテヤ書2章20節の微妙な文章構造が明らかにされて、キリストともに死んでいると宣言している自分がなお肉にあって生きていてのですが、それでもさらに信じられる根拠が、自分のために命を捨ててくれた「神の御子のピスティスによって」いることが分かって、「内なる人」は安心していられるのです。
 上沼昌雄記

「知ることと信じること」2017年11月20日(月)

 2週間前に「信じること」として、メルヴィンの15ヶ月の娘シェリーが、どこかでこの変なおじ(い)さんは大丈夫だという判断があって、それなりに安心して抱かれていたことを記しました。「信じること」にはそのように、どこかでこの相手は信頼できるという判断を与えてくれるそれなりの知識行為が働いていることが分かります。パウロがそのことをガラテヤ書2章16節で展開していることを、千葉教授が親切に解き明かしています。従来の訳語を点検しながら確認きればと願います。
 「しかし、人は律法の行いよっては義と認められず」と始まるのですが、その対比でほとんどの訳が次に「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって」となっています。しかし、ここは正確にはローマ書3:22と同じで「イエス・キリストのピスティスを介して」となります。「イエス・キリスト」の順序も正確を期さないといけないし、ピスティスの前の前置詞も「介して」ととるのが適当です。その「の」も従来のような意味ではなく、イエス・キリストそのもののピスティスとなります。それでここは、「イエス・キリストの信実を介して」初めて義とされることが歴史的に啓示されていて、それを「知っているので」となるのです。
 パウロはここであえて何を知っているのかを確認しています。それはローマ書3;22と同様に、人が義とされるのは、「私たちの信仰」のまえに、「イエス・キリストのピスティスを介して」提示される神の義があって、それを「知っているので」というのです。すなわち、神の啓示の順序に従って私たちも知ることになると正しているのです。その上で初めて、「私たちもキリスト・イエスを信じたのです」と「私たちの信仰」のあり場を語っています。信じるという動詞形で英語のbelieve inのinに当たるギリシャ語eisが「キリスト・イエス」の前に付いています。eisと「イエス」の母音が続くのをパウロが避けるために「キリスト・イエス」としたと千葉教授が指摘します。
 ここで「イエス・キリストのピスティス」とその上での「私たちの信仰」が二段構えで捉えられていることが分かります。「信の二相」と千葉教授は呼ぶことで、従来の訳語にはその区別を見られないために混乱をもたらしていると指摘しています。この区別が分かると私たちの信仰の前になされた神の啓示の業を、信仰以前の知識として認めることができます。ローマ書ではその啓示は「ギリシャ人にも未開人にも」誰にでも提示されていると見ています。
 ガラテヤ書2:16では、この信の二段構えを明確にして、さらにその目的がhinaという接続詞(3:22,24参照)で結ばれて、次のようになるのです。「これは、律法の行いによってではなく」といって、従来の訳語は次に「キリストを信じる信仰によって」と訳しているのですが、正確には前置詞ekのゆえに「キリストのピスティスに基づいて」義とされる「ためである」となります。あくまでも「キリストの信実に基づいて」と神の側でのことに視点を当てています。以上を踏まえて「すべての肉は」「律法の行いによっては義とされない」と結んでいます。
 ルターもこの箇所を大切にしていますが、むしろ「信仰のみによって」と捉えていることが『ルター・世界の名著』から分かります。ルターの信仰の純粋さは疑うべきでないのですが、パウロはその信仰のプロセスをもう少し丁寧に取り扱っています。すなわち、信仰の内容を明確にすることで、さらにその内容をそれこそ信じられるかどうか吟味して判断する「内なる人間」の心魂の根底の動きに、パウロはことのほか敏感であったと言えます。
 このように、パウロが「知っているので」「私たちも信じたのです」と信仰の筋道を語っていることを千葉教授を手がかりに確認することで、私の中で高校生の時に宣教師を通して信仰を受け止めていった道筋を思い起こすことになりました。私の信仰の前になされたイエス・キリストの信実があって、それ故に神の義が歴史的に啓示されたことが基盤としてあったのです。それに対して不思議に信じてよいのだというう判断があって、歩み出したのです。それは初めなのですが、実は今に至るまで、神の真実(ピスティス)は大丈夫だという判断が折々にあってここまで来たのです。
 という信仰の振り返りをガラテヤ書2章16節で確認できて、私の心は深い納得をいただいています。
 上沼昌雄記

「知ることと生きること」2017年11月13日(月)

 N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』の答えとして「真の人間になること」と結んでいます。その真の人間であることを具体的に Virtue Reborn (2010年 米国版タイトル After You Believe)で取り上げています。ライトは聖書の世界を新天新地に至るものとして論理的に描き出しているだけでなく(その展開自体も素晴らしいものですが)、 その新天新地に至る約束をいただいているものとして、今この時にどのように生きるのかと実践面も同様に取り上げています。この書 Virtue Reborn を知ったときに、ライトは本物だと思ったものでした。
 具体的に、律法の中心的なこととして神を愛することと隣人を愛することが、律法学者とイエスとのやりとりで語られています。さらに隣人を愛することが、キリストによる律法の成就に関わることが分かりました。それで「それを実行しなさい」と言われ、その上で「そうすれば、いのちを得ます」とまで言われています。それで妻と祈るときに具体的に隣人のために祈ることを始めました。最初はすぐ周りの3家族だけでしたが、不思議なことに今はさらに延長して6家族のために祈るようになりました。またその延長でこのコミュニティーのすべての19家族のためにも覚えるようになりました。
 このアメリカの地で地域や社会のために具体的には何もできないのですが、隣人のためには祈ることができます。「そうすれば、いのちを得ます」とまで言われていることはとんでもないことですが、もしかするとそうなのかも知れないと感じることがあります。その感じの一つは周りの人たちが結構親切に私たちに接してくれるのです。私たちもコミュニティの一員だと感じて安心できるのです。
 並行して読んでいる千葉教授の刊行予定の『信の哲学』は、ローマ書15:18の「キリストは、ことばと行いにより」神のみ業を成し遂げたことを、信の哲学の可能性の典拠にしています。すなわち、ことば・ロゴスだけでなく、行い・エルゴンの両面によって神の啓示が理解され、具体的に宣教が広がっていったからです。聖書をことば・ロゴスとして、すなわち理論として理解するだけでなく、私たちがそのことばを生きることで、神の啓示の恵みが広がっていくのです。
 千葉教授は「ロゴスとエルゴンの共鳴和合」と呼んでいます。それは人の心魂の根底で、信・ピスティスの働きによって認知的な面と人格的な面とが調和されるからと見ているからです。その心魂の根底での信・ピスティスはすべての人に与えられていています。ただその信・ピスティスが神のピスティス・信実にヒットするときに、まさに神を知ることと神のいのちに生きることが私たちの内で調和されるのです。そうすることで神の恵みが私たちを通して証しされます。さらにそうすることで不思議に心に深い納得をいただきます。知ることと生きることが調和しているからです。
 ライトは Virtue Reborn 「徳の再生」と言い、千葉教授はロゴスとエルゴンの共鳴和合と言います。興味深いことにどちらもアリストテレスを向こうに見て、クリスチャンの生き方、知と業の統一を語っています。それはキリストと御霊によってのみ実現されるものです。千葉教授は特に「イエス・キリストのピスティス」によって神の義と信が一つのものとして明らかにされたからと見ています。どちらも目を離せないものを含んでいます。知ることと生きることの心魂の根底での調和に関わるからです。
 上沼昌雄記

「信じること」2017年11月8日(水)

 「信じること」は、神のかたちに造られているひと誰にでもその心魂の深くに備わっていると言えます。それゆえにこそ、人と人との信頼が生まれてきます。過ぎる聖日にメルヴィンが一歳過ぎたシュリーを連れて来ました。礼拝後に彼と立ち話をしながらシェリーの様子を見て、大丈夫そうと思って彼女を抱きました。すぐにダデイーはここだよとって目の前のメルヴィンに話しかけている内に安心したようで、メルヴィンが用事でいなくなっても心配なしに抱かれていました。一歳過ぎた幼児がこちらを信頼して安心しきっているのは、それだけで心が温まるものです。妻は私にはベビー・マグネット(磁力)があるのだと言います。
 今取り組んでいる千葉恵教授の1400頁の原稿のタイトルは「信の哲学」です。英語では Philisophy of Faithfulness になるようです。信仰、信実、真実、誠実とも訳されるピスティスを千葉教授は端的に「信」と表現します。「心魂には信だけが宿りうる場所がある」と言います。たとえ「信じます」と言い表さなくても、ただ信頼してしていく働きが心の深くにがあります。シェリーもどこかでこの変な人は大丈夫という判断があってじっと抱かれていたのだと思います。妻が抱こうとしたらどういうわけか嫌がりました。
 すでに何度か書いてきたのですが、ローマ書3章には「神のピスティス」「イエス・キリストのピスティス」そして「私たちのピスティス」と使い分けられています。「信の哲学」は、神の信には信で対応することが最も理にかなっていると主張します。神の信実に私たちも信実を持って対応していくことです。なぜならイエス・キリストの信実が神と人との間での媒体となってくれたからです。
 次の聖句に注目します。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和を持って満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ローマ書15:13) ここでの「信仰による」を千葉教授は文字通りに「信じることにおける (en to pisteuein)」と訳して、信じるという行為と、さらにあえて目的語が記されていないことを大切にします。というのは、もし信が真実なものであれば、その対象からの何らかの促しに基づいてただ「信じます」と心が動き、信には信による対応だけがふさわしい人格的な交わりが生み出されてくるからです。
 イエスが言われるように、誰でも幼子のようであれば、「信じること」が心魂の最も根源的な行為として働き、安心して自分を委ねることで、そこに信頼と喜びと平安が生まれてきます。シェリーも少しずつにこちらが信頼できるか判断能力が働いて躊躇することになります。それでも時間をかけてでも信頼され、一緒に戯れることができれば、喜びが沸いてきます。
 「信の哲学」と言うとかしこまった言い方になるのですが、「信じること」がすべての人の心魂の根底にしっかりと場所を占めているのだと言われると納得できます。それをパウロはローマ書で、「神の信実」と「イエス・キリストの信実」と「私たちの信仰」との関わりが言語網を異にしながら展開していると言います。それによって、信には信に対応することが神のかたちに造られている人間の本来的なあり方だと分かるからです。
 
 そのように「信じること」が自分にも自分の周りにも浸透していったら、自分の接する世界も景観も随分変わってくるのでしょう。親子で、夫婦で、友や隣人や仕事仲間との間で、そして社会でも、国家でも、「望みの神」が深い「喜びと平安」で満たしてくれるだろうと期待できます。
上沼昌雄記

「私たちの誇りは、、、」2017年11月2日(木)

 律法をいただいていることはユダヤ人にとっての誇りでした (ローマ2:17,23)。その誇りが、信仰義認に関わるローマ書3章21節以下で、「すでに取り除かれてしまった」(27節) とパウロは宣言しています。どの「律法」(「原理」ではない) によってかと問いかけて、「行いの律法」ではなく、「信仰の律法」によってと、律法を区別することで説明しています。「行いの律法」」あるいは「律法の行い」では私たちに「誇り」が出てきます。それが「信仰の律法」によってもはや取り除かれたことで、視点が私たちの信仰ではなく、22節にある「イエス・キリストのピスティス」に移ったからです。それが「信仰の律法」となったのです。「キリストの律法」(ガラテヤ6:2) とも言えます。
 この「信仰の律法」によって一度取り除かれた誇りが、また「信仰の律法」のゆえに私たちの内側に神への誇りとしてよみがえってきます。「私たちがこの世の中で、特にあなた方に対して、聖さと神からくる誠実さによって、人間的な (肉の) 知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」(2コリント1:12) さらに端的に言っています。「誇る者は、主を誇りなさい。」(10:17)
 私たちの心の中のある面で自然的な状態として「誇り」があることをパウロは否定をしていません。むしろ適切な仕方で発露することで、それこそ人間としての尊厳にまで関わるように見ています。信仰生活でも聖書理解でも何かが自惚れになれば、それは自分を誇っていることになります。それを自粛し栄光を神に帰すことで神自身を誇りにすれば、信仰の成長になり、それはまたその人自身の徳にもなります。それはしかし、結構難しいバランスです。
 このテーマについて、このところ取り扱っているN.T.ライトと千葉教授がともに、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』4巻3章との対比で取り上げていることに、期せずして直面いたしました。ライトには英国版のタイトルとして Virtue Reborn という本があります (米国版のタイトル After You Believe ) 。クリスチャンの生き方を取り扱っていますが、Virtue Reborn のタイトルが語っているようにアリストテレスの徳の倫理がキリストによる信仰と希望と愛によって再生すると見ています。アリストテレスの徳は、しかし、自分で獲得するものなので「誇り」になる傾向を持っているからです。
 千葉教授は、アリストテレスのテキストに当たって、パウロの「誇り」とは異なって「高邁な者 (誇り高い者) 」という表現が使われていて、その人は「自らを値に即して値する者」で、「自惚れ者」と「卑屈者」の中間であると見ています。アリストテレスにとっては、この高邁さが高貴な人格のゴールになっているのですが、初めから理想的なあり方を設定しているのが分かります。それがまさに哲学です。現実にはだれもが自惚れと卑屈のどちらかに偏っていると言えます。
 パウロも自分の行いによることであれば「誇り」が内に芽生えてくることを知っています。同時に行いでは律法を全うできない自分の罪が明らかにされるだけです。神の義をいただけるのはイエス・キリストの信実によってのみであるので、私たちの誇りはすでに取り去られています。またそれ故にそのキリストを誇ることができるのです。「誇り」という人間の心の状態をそのまま認めています。それがキリストのピスティスのゆえにふさわしい状態におかれるためであるからです。
 期せずして、N.T.ライトと千葉教授がともにアリストテレスのテキストに言及しながら、聖書との結びつきを見ていることが分かります。それはトマス・アクィナスのように聖書とアリストテレスを結びつけるものではありません。特にパウロの宣教の言葉も当時の支配的な思想との交流の中でもまれながら、共通性 (千葉教授は「共約性」と言います) を持ちながらも、神の啓示の故に哲学では届かない人間のあり方が「イエス・キリストのピスティス」のゆえに可能になったと理解しているからです。今まではどちらかというと、それらとは全く関係なしに純粋に神のことだけとして信仰的に神学的にとらえてきたのですが、具体的にアリストテレスとの共通性を提示することで、福音が全世界のためであることを再確認していることになります。
 N.T.ライトは、それは聖書が新天新地を目指しているためであり、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」(イザヤ11:9) ことを願っているためであると理解しているからです。千葉教授は、ローマ書3章で啓示されているイエス・キリストのピスティスにる神の義の啓示は、「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」(1:14) 提供されているためであると理解しているからです。
 それにしても「誇り」という微妙な心の状態をアリストテレスもパウロも取り上げていることにN.T.ライトと千葉教授ともに注目することで、聖書理解の幅を広げていることになります。同時にどうしても「自慢」をしてしまうか、「卑屈」になってしまうかの微妙で複雑な心の世界を見せられています。
上沼昌雄記

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