「オホーツクの虹」 2019年11月1日(金)

 日本に入ってすぐに札幌に移動して、北大の千葉先生のクラスでの証、藤野福音キリスト教会での礼拝メッセージ、午後の「ヨナの怒りの学び会」を終えて、この火曜日から道内の旅が始まりました。納内でご自分の墓を作っている隠退宣教師ご夫婦を訪ね、ご家族に展開している慶びを分かち合うことができました。水曜日の昼に旭川の駅のイオンモールで友人と昼食をいただきながら「信の哲学」を中心に語り合うことができました。
 その午後大雪山を越えて道東の北見に夕刻入りました。娘さんご家族も同居され、ご一家で伝道されている神の家族に加えていただきました。かわいい二人の女の子のお孫さんが次の日の朝に私の部屋をたずねてくれて、楽しい時をいただきました。自分の孫たちと語り合っているかのようでした。
 ご主人が仕事を早め目に切り上げて、この北見でなされている神の業の二つの現場にご夫妻で案内してくれました。これから神様は何をなさろうとしているのか期待に胸が熱くなりました。そしてそのままオホーツクの海を観に網走に向かってドライブしてくれました。海産物のおいしいお昼をいただき、知り合いの方の行事に挨拶をされ、「天の都の山」と書く天都山(てんとさん)の展望台に立ち寄ってくれました。
 静まりかえった雄大なオホーツクの海が歓迎してくれました。高台から眺めるオホーツクの海は網走の街と仲良く隣り合わせてじっとたたずんでいます。時には荒れることもあり、流氷も押し寄せてくるのでしょうが、伺うときはいつも穏やかの顔をして迎えてくれます。
 展望台のカフェでコヒーをいただいているときに、西に傾きかけた太陽に誘われるように、網走の街からオホーツクの海に掛けて虹が出てきました。雨上がりでもなかったので、必ずしもすっきりとした虹ではなかったのですが、多少太めの帯のようにゆったりと地から海へと橋渡しのように虹が架かっていました。もう一度展望台にでましたら少し雨が降っていました。あえて虹を作るための雨のようでした。
 北見の地で神様の業が展開しています。決して楽なことではありません。むしろ厳しい状況です。それでも神は何かをなそうとされているようです。それは思い以上に大切なことなのかも知れません。漠然とそのように思っていたことに、その通りに事をなされると約束のように虹を見せてくださいました。
 お宅に戻ってきましたら若い人たちの聖書の学び会がなされていました。その晩は6名の男性とおいしいカレーライスをいただきながら男性集会を持ちました。北見の地では初めてのことでした。今日はご婦人たちの集いがあります。神様の業が約束のごとくになされていくことを垣間見る思いでした。
 上沼昌雄記

「紅葉の北大キャンパスで」2019年10月26日(土)

 日本に入ってすぐに札幌にJRで向かいました。函館を離れて大沼公園は見事な紅葉を見せてくれました。一昨日札幌には暗くなって着いたのですぐには分からなかったのですが、昨日今回の日本での最初の奉仕である北大のキャンパスに連れて来ていただき、銀杏並木の紅葉を観る人で賑わっていて、紅葉の真っ盛りの札幌に来ていることが分かりました。
 
 5年前から交流をいただいているこの北大の哲学教授の千葉惠先生が、ご自分の「信の哲学」のクラスに招いてくださり、2年後輩の小林基人牧師と共に、卒後50年の歩みを語る時をいただきました。20名の受講生にクラーク聖書研究会のメンバーも参加くださり、30名ほどの学生さんたちに証をする機会をいただきました。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士で始まった北大ならではのことです。
 
 私もここで哲学を学びましたので、そのいきさつとその後の微弱な思索の歩みをお話しし、それがどのように千葉先生の「信の哲学」と結びついたのかを紹介いたしました。小林牧師はどうして牧師になり、牧師として生きることがどのようなことなのかをストレートに語られました。
 
 千葉先生の「信の哲学」ではアリストテレスの基本理解であるロゴスとエルゴンが、パウロのロゴスとしての福音とそれに生きる私たちエルゴンとが結びついていることを基本としています。そのアリストテレスのロゴスとエルゴンの具体的な例としてアメリカに渡って自分で家を建てたときに設計図と建築が対応していることを体験的に理解したことを紹介いたしました。そして実はこのロゴスとエルゴンは福音と証にも対応することで、その証として小林牧師と一緒に話をしたのですが、千葉先生は学生さんたちの50年後の自分たちの歩みを考える実例であるとまとめてくださいました。
 
 時間延長で質疑応答の時をとってくださり、その後の昼食会でも学生さんと話すことができ、「信の哲学」が提唱している心魂の根源的態勢としての肉と「内なる人」とヌース、すなわち、肉を持って生きていてもその心魂の根底でなお神を認めていくヌースの機能に反応してくださっていることが分かりました。ヌースはローマ書12章2節で「心の一新によって自分を変えていただきなさい」と一般に訳されているところの「心」なのですが、ヌースはそれよりも判断機能を伴う直接的な能力を意味しています。受講生たちのそのヌースに千葉先生の「信の哲学」がすでにヒットしていて、今回の私たちの話にもどこかでヒットしてくれたようです。
 
 小林牧師はすでに千葉先生に質問状を提出されていて、昼食会後研究室で議論の続きをすることになりました。出された質問にただご自分の意見を押しつけるのではなく、その意味することが「信の哲学」にどのように関わるのかを真剣に受け止めておられます。それは「信の哲学」が、単なる先生の知的業績ではなく、神の栄光のためになることを第一にしているからなのだと分かります。
 
 その姿勢に感動しながら、すでに暗くなりかけた母校のキャンパスを後にすることになりました。
 
 上沼昌雄記

「タイトル不詳」2019年10月8日(火)

 次女泉は一時ワシントン・ポスト紙に勤めたことがあったので、今でもウエッブサイトでニュースを追っています。そこでのビデオの一つに一人の女性が大腸癌ステージ4と診断されたことを5分以内で語っているのを見つけ、家族全員に送ってくれました。それに家族全員が、子供たちは子供たちで、親である私たちは夫婦でこの女性の語っていることを反芻することになりました。
 私にとって何とも興味深いのは、この方はデューク大学の神学部でアメリカ宗教史、特にProsperity Gospel(「繁栄の福音」)と呼ばれている動きの研究者であることです。イギリス出身のようですが、アメリカでかなりの影響を与えているこの運動を関心を持って調べているようです。福音を信じたら、あるいは神を信じたら、経済的に豊かになり、身体的にも健康で、すべてがうまくいくという考えです。
 初めはこの女性Kate Bowler(ケイト・ボウラー)自身がこの動きに同調しているのかと思ったのですが、どうもそうではなくこのような動きがアメリカのキリスト教としてしっかりと根付いていることに疑問を持って調べているようです。同調しているのであればご自分がステージ4の大腸癌と診断されたとはただのアイロニーになるのですが、そうではなく、人生は自分ではコントロールできないことで絶望し、孤独に追いやられ、身もだえするのであるが、それでも互いに愛を持って支え合うことだとビデオで語っています。
 私たち夫婦は、このようなProsperity Gospelのような考えはある特定のグループだけでなく、アメリカの福音派のなかではどこかで根底に流れているもので、今のアメリカの指導者と福音派が結びついていることにもなっていると言うことから、「肉の弱さ」をかかえている人間にとっては病も苦難も避けられないことであり、形が異なっても誰もが癒やされない病を負っていることを語り合うことになりました。妻はその関わりで、聖書が「肉(サルクス)」と「からだ(ソーマ)」を区別して用いていることに関心を持ち、できるところで説明をすることになりました。
 子供たちのやり取りで分かってきたのは、実は長女瞳がケイト・ボウラーのこの癌の体験を書いた本を読んで、それを次女に、そしてすでに妻にも紹介していたことです。長男義樹は本は読んでいなかったのですが、ビデオを観て、問題点に気づいて、弱さをかかえていながらなお神の真実に生きることの大切さを述べていました。
 ケイト・ボウラー氏の短いビデオでの語りで私たち家族全員が意見を述べ会う機会となり、さらに人間としての根本的な課題に触れることであり、続いてのテーマをいただいたことで、忘れないようにと思い、書いてみました。それで「タイトル不詳」としました。
 この10月23日(水)から12月3日(火)までの予定で日本に伺います。その間、主にある交わりとみことばの学びと思い巡らしを通して、「肉の弱さ」をかかえる私たちの生き方を共に考えることができればと願っています。
 上沼昌雄記

「聖書と西洋古典」2019年9月4日(水)

 昨日届いた雑誌「クリスチャニティー・トゥデイ」で、アメリカで聖書と西洋古典の両方を教えるキリスト教主義の学校が増えていると、主要記事で取り上げているのが目にとまり、興味深く読みました。聖書だけで十分と思われていたことへの反省もあって、西洋古典としてホメロス、アリストテレス、ダンテ、チョーサー、シュエークスピア、トルストイ、フォークナーが教室で読まれていると、具体的な名を挙げていました。
 記事を読みながら「アメリカの反知性主義」という本のことを思い起こしていました。いわゆるリバイバル運動で始まったキリスト教保守主義が、戦後少しずつ知的回復の動きを見せてきているのですが、それでもこのアメリカの教会の反知性主義は根強いのだろうと実感しています。記事でイギリス人のC.S.ルイスが少しずつアメリカで受容されてきた経緯を説明しています。記事にはないのですが、同様にイギリス人であるN.T.ライトに対するアメリカの教会の反撥には、「アメリカの反知性主義」の名残を感じてしまいます。
 戦後アメリカの宣教師によってもたらされた福音派の世界観にも、聖書だけで十分でそれ以外は異教のものとして敬遠されたことを覚えています。映画を観ない、小説を読まないと、真剣に語られていました。信仰を持ち成長していく過程で、ヨーロッパの宣教師とも接してもいたのですが、多少その面ではゆったりとしていたように思います。
 この記事は、しかし、それなりに聖書信仰を持って歩んできた自分の歩みを多面にわたって振り返ることを促してくれます。聖書だけで充分だろうと思いつつ、それでも大学で西洋哲学、特にハイデガーを選んだこと、しかもその時期が60年代の大学紛争の時であったこと、聖書信仰の牙城のように思われている神学校で学び、その後の伝道者としての歩を続けていること、アメリカに移住して村上春樹に出会ったこと、ハイデガーの対局のユダヤ人哲学者のレヴィナスの世界を通して、N.T.ライトの聖書理解に共鳴し、今千葉恵教授との出会いによってローマ書のテキストそのものに向かう作業をしていることの意味を考えています。
 ローマ書のテキスト理解で一つのことを思わされています。3,4章で「信仰・ピスティス」が何度も出てきて、しかも使われ方が多様であり、複数の前置詞とのつながりで表現されたりしているのですが、新改訳2017ではほとんど一律に「信仰によって」として、あたかも私たちの信仰で神の世界が決まったしまうかの印象を与えてしまいます。それは同時に、こちらの信仰の世界に人を閉じ込めることにもなります。無反省のままで聖書信仰を主張することになります。一つの反知性主義といえます。
 記事のなかに、例えば信仰者として、人とは何者なのか、なぜ世界は存在しているのか、どうして無ではないのか、人の目的は何か、と問うことは、キリスト教信仰をより包括的なものにして、生かされている時代にキリストの使者としての使命をより有効に果たすことができると記されています。そのように問うことに意味があることで、安易な答えは思考を停止させてしまうだけでなく、キリスト教そのものを無色なものにしてしまいます。
 千葉教授との会話で、聖霊のことが出てくると訳の分からない世界に入ってしまうのではないですかと言ったことに、もっと知的にならないといけないと言われたのをよく覚えています。テキストがある限りのあくまでも知的な探究が必要であり、しかも可能であることを言われたのです。そしてその通りにローマ書5章から8章まででの聖霊の意味合い、位置づけの解明は深い平安をもたらしてくれます。
 実際にパウロは、旧約聖書は自己薬籠中のものとして知っていたのですが、パウロにとっては古典というより、より身近なものとしてギリシャ哲学を知っていて、その対話のなかで福音を提示していることが分かります。それだけ豊かな奥行きのある福音になっています。
 上沼昌雄記

「ユーレカ(見つけた!) パート2」2019年8月30日(金)

 このタイトルの記事を昨年の2018年5月8日に書きました。ユーレカ(見つけた!)は完了形なのですが、ローマ書7章21節で現在形として使われていることを中心に取り上げました。今回はパート2なのですが、そのユーレカ(見つけた!)が完了形分詞として使われている箇所に遭遇したのです。まさに「見つけた」のです。4章1節です。
 パウロは3章まで語ってきて、4章に入ってアブラハムのことをその傍証と言ったら良いのか、証拠と言ったら良いのか、ともかくそれまで語ってきたことがすでにアブラハムで知ることができると見ているのです。その出し方も何とも興味深いです。「肉による私たちの父祖アブラハム」とあえてえ「肉による(kata sarka)」と断っています。この手紙の初めでイエスのことを語っているときもダビデの子孫であることを「肉によれば(kata sarka)」と言い表しています。その折りに「霊によれば(kata pneuma)」として神の御子の復活を語っているのが分かります。そうするとここでも「肉による私たちの父祖アブラハム」と断っているのは、「霊による私たちの父祖アブラハム」の可能性も示唆しているかのようです。そんな想像が働きます。
 そのアブラハムが「発見していたこと」が何かあったと、注意を向けていることが分かります。すなわち、アブラハムのことが、すでに「イエス・キリストのピスティス」によって出てきたことと結びつくことがあると、私たちの注意を向けようとしているのです。しかも文字通りに「アブラハムがすでに発見していたこと」というのです。パウロが3章でそれこそ注意深く摘出したことを、パウロは遠慮なしにそれはすでにアブラハムが「発見していたこと」だと結びつけるのです。
 この「見つけた(ユーレカ)」の表現は結構身近なことなのです。私たちが住んでいるカリフォルニアはこのユーレカという街や通り道が結構あります。辞書によれば、「Eureka(エーレカ)はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である」とあります。素晴らしい意味合いの表現ですが、ここカリフォルニアでは1849年のゴールドラッシュで、金を「見つけた!」という感嘆詞が由来となって使われています。探し求めていたものをようやく見つけ出した時の喜びがこの言葉にはあります。
 パウロもこの古代ギリシャ人の発見者の喜びをアブラムのなかに感じ取って、このように表現しているかのようです。そのような意味合いが響いてきます。つまり、アブラハムが発見していたことをパウロも発見して喜んでいるかのようです。それで「そのことについて私たちは何を言えるのでしょうか」と、問いかけているのです。それは何とも上手な誘いです。手紙を読んでいる人も「何を」と知らないうちに誘われてしまいます。4章はまさにその展開です。
 実は千葉教授の「信の哲学」はこの発見者の喜びの書と言えます。従来のローマ書の訳と理解ではどうしても不明瞭な部分が残ってしまうことに対して、アリストテレス自身がその手立てとした「美しく問う」姿勢をそのままローマ書に適用して、「発見的探求論」として展開されています。パウロが発見したことはすでにアブラハムが「発見していたこと」であって、その流れを「信の哲学」も「見つけた!」と叫んでいるかのようです。それを手がかりにこの私も今まで不明瞭であったところが明らかにされることで、発見者の喜びに多少与っています。
 上沼昌雄記

「信仰によって?」2019年8月21日(水)

 2年ほど前に「御霊に導かれて?」(2017年9月4日)という記事を書きました。そのタイトルに疑問符を付けるこちら側が疑問視されそうなことですがと、断りを入れて書きました。今回のタイトルも「信仰によって?」と疑問符を付けることになりました。今回は、「信仰によって」と当たり前のように訳されているローマ書3章の終わりの箇所が、テキストではかなり微妙というか、厳密な表現が使われているので、それで良いのかと思って疑問符を付けました。
 3章30節で新改訳2017は、「神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです」と、「信仰によって」が繰り返されています。しかし前者ではek pisteosとなり、後者ではdia tes pisteosと使い分けられています。パウロはそれはかなり気をつけて使い分けているように思えるので、気になるのです。すなわち、前置詞が異なっていて、しかも後者では「信仰」に定冠詞が付いているのです。その前の28節では「人は、、、信仰によって義と認められる」と訳としては同じなのですが、ここでは前置詞もなく名詞の与格で表現されています。
 28節はそのままにして、30節の二つの表現の違いをどのように捉えたら良いのか、何とも気になるのです。前者でのek pisteosは、実は26節でton ek pisteos Iesuとして出てきています。新改訳2017はあたかも当然のように「イエスを信じる者」としています。しかし「信の哲学」の千葉訳では、4章16節のto ek pisteos Abramが同じ表現形式であることに注目して、<アブラムを信じる者>とは言えないので、「イエスの信に基づく者」としています。新改訳2017は「アブラハムの信仰に倣う人々」としていますので、少なくとも「イエスの信に倣う者」と捉えて良さそうです。
 そのことを補うかのように、後者のdia tes pisteosでは前置詞がdiaに代わり、「信仰」に定冠詞が付いてくるのです。文字通りには「その信仰を介して」となるのでしょう。そして当然「その信仰」とは、と考えて良いわけです。そしてテキストの読みからは22節のdia pisteos Iesu Xristuに結びつくのが理に適っていると言えます。同じ前置詞のdiaが使われていて、「イエス・キリストのピスティス」となりますので、定冠詞はこの「イエス・キリストの」を指しているととるのが自然です。
 新改訳2017はここでも「イエス・キリストを信じる信仰によって」と本文でなっていますので、その後の微妙な表現を無視してと言うか、その違いを見抜けなくて、単純に「信仰によって」と画一的に訳しているかのようです。協会共同訳は、22節を本文で「イエス。キリストの真実(ピスティス)によって」としていますので、30節の定冠詞付きのピスティスがこのピスティスを指していると捉えることができたらば、30,31節の訳語も変わってきたように思います。特に25節でのdia [tes] pistesを「真実のよる」とし、26節のton ek pisteos Iesuを「イエスの真実に基づく者」としていますので、多少残念に思います。
 新改訳2017はどれも一律に「信仰によって」としています。パウロの厳密な表現の違いを見抜けていないとしか言えそうもありません。その理解の行き着くところは「私たちの信仰」「自分の信仰」が中心になり、自分たちの信仰の把握でことが決まってしまうかのようになります。どうしても排他的になります。
 「私たちの信仰」の前に「イエス・キリストのピスティス」があるのです。22節でも「信じる者すべて」と二段構えで言っているとおりです。ですから「私たちの信仰」は、「イエス・キリストのピスティス」を介して、さらにそれに基づいているのです。新改訳2017を使うことが私たちの間では多いので、それこそ原典にもう一度戻って確認いただければと思わされて、「信仰によって?」に疑問符を付けたのです。読者のご意見を伺えれば幸いです。
 上沼昌雄記

「パウロの頭の中は?!」2019年8月12日(月)

 今週は日本ではいわゆるお盆休みで、帰省されている方また旅に出ている方も多いことと思います。同時に大型台風も近づいているようですのお気を付けください。私たちは先週叔父の葬儀があり、ロス郊外に出かけ、母にも会ってきました。今月の最後の週には、シリコンバレーの近くに引っ越しした姪と二人の子供と一緒に母に会いに出かけることになっています。
 この2年のうちに二つの邦訳聖書が新しくなりました。『新改訳2017』と『協会共同訳』です。そしてその前に「信の哲学」における千葉訳のローマ書がでています。それでギリシャ語のテキストを確認しながら、それぞれの訳と睨めっこしています。結果的にパウロの意図というか、思索を知りたくて、ローマ書を通して「パウロとの対話」を勝手に始めています。
 それで3章の10節から18節で、その前に語っていることに対して、旧約聖書を連続して引用している箇所で、パウロの頭の中はどうなっているのかと、単純に驚きました。詩篇やイザヤ書から7箇所ぐらいにわたって引用するのです。しかもそれがあたかもひとつのつながりをもっていて、しっかりと筋が通っていて、淀みのないひとつの文章のように語るのです。新改訳2017はそれぞれの引用を括弧でくぐるのですが、協会共同訳は括弧一つでまとめています。
 旧約聖書をこのように自由奔放に引用できるパウロさんの頭の中はどのようになっているのか、ただただ驚きです。当然記憶しているのでしょうが、それでも7箇所ほどにわたっても、あたかもひとつの流れをもって語れるのは驚異です。自分にはできないことです。それなりに聖書を学んでいるのですが、パウロのように幾つもの文章を記憶していて、テーマに沿って自由に引用することはできません。
 今では聖書が書物として与えられているので、記憶を辿って何とか必要な箇所にたどり着くか、コンコルダンスという便利なものがあって、聖書の用語や句を検索することができて、それでなんとかと必要な箇所にたどり着けます。自分が勉強したときにはそれらは分厚い書物としてあったのですが、今では聖書も注解書もコンコルダンスもコンピュータに入っていて、しかも最近ではスマホをいう電話機に入っていて、どこででも見ることができます。
 それで便利になったのは確かですが、その分逆にパウロがこの箇所でそんなものの何もない状態で、旧約聖書から自由に引用しているのは、それこそそのすべてが頭の中に入っていることを示していることになります。逆にコンピュータやスマホに入っているというのは、こちらの頭には入っていないことを意味しているわけで、頭に入っているのは、残念ながら、コンピュータやスマホからのどうでも良い情報だけです。それだけ心はこの世のものに支配されていることになります。
 パウロの頭は、文字通りに、神のことばが信任されて委ねられている状態なのでしょう。実際に今までのこの手紙の内容も、直接旧約聖書の引用はしていなくても、律法のこと、割礼のこと、イスラエルの民がして来たことが元になって語っていることが分かります。そのことと福音を対比して、どのように結びついているのかを展開しています。それは誰でもできることではありません。パウロに委ねられたことです。それを見事に果たしています。
 しかし、それは簡単なことではなくて、熟考を重ねて、細心の注意を払っているのが分かります。すでに福音も伝えられていたのですが、福音による自由が、具体的に割礼のことでペテロとも異なった態度をとることになったことも背景にあったわけです。さらに中傷もされていたのです。また哲学者たちと議論をしなければなりませんでした。そのようななかで福音を説明していくことに、パウロが精神と思考を集中していることが分かります。そのことに少しでも寄り添えればと願っています。
 上沼昌雄記

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