「信仰の働き」2018年8月20日(月)

 創造と新創造の大きな枠で聖書を読み解いているN.T.ライトが、その枠の中でのクリスチャンの行動について、すなわち、倫理とも言えることに、パウロが語っている勧めと、信仰と希望と愛のことと、御霊の実のことに言及しながら真剣に取り上げています。その信仰と希望と愛の三本柱のことが、1コリント書13章以外にも取り上げられていることを紹介しています。
 その一つである1テサロニケ書1:3を、昨年出た新改訳聖書2017で確認いたしました。従来の新改訳聖書とは異なった言い回しになっています。「信仰の働き」が「信仰から出た働き」に、「愛の労苦」が「愛から生まれた労苦」に、「望みの忍耐」が「望みに支えられた忍耐」となっています。原語では従来の新改訳聖書のように「の」で二つの単語が繋がっているだけです。
 ここでは「信仰の働き」が「信仰から出た働き」になっていることだけを取り上げてみます。おそらく分かりやすく「信仰から出た働き」と説明を加えた訳になっているのでしょうが、その説明自体が神学的な読み込みと思われるからです。というのは、この信仰・ピスティスと働き・エルゴンは、対に使われていることがあって、特にそのエルゴンが「行い」や「業」と捉えられて、ピスティスとの対比、すなわち、信仰と行いという二元的な理解が支配的になっているからです。
 例えば、ローマ書3:27では、信仰と行いが律法と結びついて。「行いの律法」と「信仰の律法」と対比されています。しかし、一見信仰と行いが対比されているように思われるヤコブ書2章では「行いのない信仰」はないことが強調されています。すなわち、信仰と行いは対比されるときと、帰一的に使われるときがあるのです。それはエルゴン自体が信仰とは切り離せないで、信仰自体が働きを起こすものと理解できるからです。
 その意味合で、ローマ書2:15の新改訳の従来訳も2017訳も「律法の命じる行い」となっているのですが、文字通りに「律法の働き」ととると前後関係に合ってきます。すなわち、律法自体がうちに持っている働きが「心に記されている」ことに「良心」も納得できるのです。「律法の命じる行い」だと、律法と行いが初めから対比され、二元的に理解されていることになるからです。すでに一つの神学的な前提になっています。エルゴンの使われ方を無視していると言えます。エルゴンは「律法」そのものの働きを担っています。
 同じ意味合いで、エルゴンがロゴスと対で使われているケースがローマ書15:18にあります。「キリストは、ことばと行いにより」と、対比ではなく相補的に使われていることが分かります。1テサロニケ1:3の「信仰の働き」もその意味合いで捉えることができます。「信仰から出た働き」だと、どうしても二元的な区別を前提とした歴史的な神学の枠から出ていることになります。
 このことに沿ってパウロは、「希望の神が、信仰による (文字通りには動詞形で単に「信じることにおける」という働きを意味している)すべての喜びと平安であなたがたを満たし」(ローマ15:13)と言い、さらに「キリスト・イエスにあって大事なのは、、、愛によって働く信仰なのです(ガラテヤ5;6)と言っています。この意味でも「信仰の働き」と、そのままとることができます。
 多少テクニカルな説明を「信の哲学」を提唱する千葉先生の意味論的分析の助けをいただいてしてきたのですが、信仰そのものにすでに働きが備わっていると捉えると、先の動詞形のように「信じること」に思いを合わせることで、そこに働きとして信仰が現れてくるとなるので、信仰とは別に行いを考える必要がなくて、肩の荷を下してホットできます。信じることで、望みが湧き、結果として愛の実を結ぶ、それで良いのではないかと思います。
 そんなことでこだわっているのですが、さらにこだわりが許されれば、新改訳聖書2017の言い回しを従来の新改訳聖書の表現に戻していただいても良いのではないかと思います。そうすると「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」と歯切れも良く、リズム感も出てきます。原典にも忠実になります。まだ暑い夏の夕べに勝手に思っていることです。
 上沼昌雄記
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「理事の妻たち」2018年8月13日(月)

A wife of noble character is her husband’s crown.
しっかりした妻は夫の冠。(箴言12:4)
The wise woman builds her house.
知恵のある女は家を建てる。(14:1)
He who finds a wife finds what is good and receives favor from the Lord.
妻を見つける者は幸せを見つけ、主から恵みをいただく。(18:22)
Houses and wealth are inherited from parents, but a prudent wife is from the Lord.
家と財産は先祖から受け継ぐもの。賢明な妻は主からのもの。(19:14)
A wife of noble character who can find? She is worth far more than rubies.
しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりはるかに尊い。(31:10)
 過ぎる金曜日の午後1時から理事の一人が経営される「みくにレストラン2号店」でミニストリーの理事会を開きました。お客さんで一杯のお店の一角のテーブルをそのために用意してくださいました。おいしい刺身やロールや焼き物をいただきながら歓談をして、用意した書類に従って議題を確認しました。新しい動きと変化を説明し、決算と予算の承認をいただきました。その書類の一つにいつも聖書箇所を選んで載せます。上記はそのために選んだものです。
 箴言を読んでいて気づいた箇所です。最後の31節の箇所は結構有名なのですが、すでに箴言全体で繰り返されていることに気づきました。パラレルな表現方法を使っていますので、最初の12:4では、「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」と対比されて「しっかりした妻は夫の冠」と言われています。21章では9節と19節で「争い好きな女と一緒にいるよりは、、、」とあり、その対比で「知恵ある女」「賢明な妻」が語られていることが分かります。
 「しっかりした妻」と表現されている英文noble characterから、私の妻は「高貴な」という意味合いの方が強いのではないかと言いました。現行の新共同訳では「有能な」となっています。英語欽定訳ではvirtuous「有徳な、貞淑な」となっています。ヘブライ語原語からは「高貴な」ともとれそうです。そして事実そのような妻は「高貴な」雰囲気を漂わせています。
 これらの記述はそのまま4名の理事たちの妻たちに当てはまると思い、一枚の用紙にまとめました。今回の理事会を妻たちへの感謝の場としたかったのです。理事たちは多少恥ずかしかったようですが、その場にいた理事の一人の妻は喜んでくれました。私の妻は議題のいくつかの英文をチェックしてくれたので議事の内容は分かっていたのですが、この聖書箇所のことは伏せていましたので、用紙を受け取って嬉しいようであり、驚いたようでした。
 4名の妻たちはなんと言っても輝いています。その笑顔は美しく、会話は弾み笑い声が絶えません。そして控えめです。主人たちを支え、子供たちをしっかりと育てています。ミニストリーを陰で支えてくれています。さらに御霊による自由を身に着けています。縛られている感じがありません。発言するときにはしっかりと意見を出します。そのような控えめな「高貴さ」を漂わせています。それは主人たちにも伝染しているようです。
 見渡すに、そのように輝き、控えめで、自由を身に着けている妻たちは、ミニストリーの理事たちの妻たちだけでなく、ミニストリーに関わる人たちの妻たちにもそのまま当てはまります。日本を北から南に旅をしながら関わり、交わり、お世話になる方々の妻たちも輝き、控えめで、自由を身に着け、高貴さを漂わせています。その人達との交わりと会話を思い出します。そのような情景が宝物のように浮かんできます。それは永遠の祝福を味わえる至福の一時でもあります。
 上沼昌雄記

「『箴言』を読みながら、、、」2018年7月30日(月)

 箴言の10章から11章、そして12章にかけて「正しい人」(新改訳聖書2017)のことが繰り返し語られています。妻が英語で読むとthe righteousとかthe righteous manとなっていてニュアンスの違いに驚かされます。「正しい人」では道徳的な意味合いが強く、また「正しさ」の基準よりは状況的に「正しい」と捉えがちです。現行の新共同訳では「神に従う人」となっていてます。英語では「義」に当たるヘブライ語が訳し出されていています。日本語でも「義なる人」と表現すると、神の義との結びつきが見えてきそうです。「実に、義を追い求める者はいのちにいたり、、、正しい(義なる)人の裔は救いを得る。」(11:19,21)
 この夏の初めに車の前面のガラスを取り替える修理をいたしました。見た目には直っているようでしたがエンジンの音が聞こえてくるので、再修理に持って行きました。シールをし直してくれたのですが、それでも運転すると外の音が聞こえてきます。臭いも入ってきます。マネージャーに説明しました。全面的にやりお直すと言うことで持って行きました。やり直しが終わったときにマネージャーが自分たちの不手際を全面的に認めていました。しかも他のお客のいる前でのことでした。何ともすがすがしいことでした。「主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、誠実に歩む人たちの盾となる。」(2:7)
 この国でニュースを聞いていると、何が真実で正しいことなのか分からなくなることがあります。かつてはそれなりの判断基準が明確にあったように思うのですが、今は何かの都合で事が進められ、それに合うように情報が動き、さらに自分たちの生活に都合が良い限りあたかも正しいことのように見なされてしまうところがあります。その度に『平気で嘘をつく人たち』の本を思い起こします。絶対に自分の非を認めないで、すべて他人の所為にしてしまうのです。それが社会で当たり前のようであれば、そのまま子供たちに影響していきます。この国の行く末が心配です。「正義 (義)は国を高め、罪は国民を辱める。」(14:34)
 子供の一人が時差3時間ある地で仕事に就いて、よく夕方電話をかけてきて母親と話をします。正直よくそれだけ話すことがあるなと思うときがあります。それでもよく聞いていると、子供の状況や考えに合わせながら上手に励ましていることが分かります。それは3人の子供たちに同じようにしてきたことです。それなりに互いに納得するまでとことん話し合ってきました。その度に母親の知恵深さに感心してきました。私は時々口を挟むだけです。「知恵ある女は家を建てる。」(14:1)
 箴言は、人として直面する問題をよく捉えています。それは古今東西誰にでも当てはまることです。読む度にそのまま自分に当てはまることばに出合います。妻とともに人間観察の鋭さに驚いています。同時に今までは箴言を単なる道徳的な教えとして捉えてきたように思います。すなわち、信仰は信仰、道徳は道徳と、別々に捉えてきたのではと反省しています。なんと言ってもこれだけの人間観察と具体的な勧めは「神の律法」をいただき、その上で人の生き方を考えているからではないかと思わされます。律法を与える神には知恵と英知が隠されているのです。「あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、、、主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」(2:2,6)
 神には知恵があり、その知恵に従って世界を造られたので、私たちもその知恵に従って生きることは理にかなったことです。神は同時に義でもあられるので、その義に従って生きることも理にかなったことです。神は真実(ピスティス)な方であるので、私たちも信仰と信実(ピスティス)を持って生きることは理にかなったことです。ただその理屈通りに行かないのが肉に住みついている罪です。そこに生きる者の様々な矛盾と葛藤か生まれてきます。そのままでは罪にのみ込まれそうになります。それでも信仰によって神に立ち返ることで、神の知恵と義と真実が少しでも実現される希望が沸いてきます。私たちのできることはその主を恐れて生きることです。「主を恐れることは知識の初め。」(1:7,9:10,)
 上沼昌雄記

「信と愛」2018年7月18日(水)

 過ぎる聖日の山の教会の礼拝で、クリスチャンになったら自動的に良い人になるわけでなくて、学び身に着けていかなければならないことを、忍耐と赦しと愛をテーマに、牧師が興味深く語りました。102歳の黒人のスラッツおばあさんの孫に当たる方ですが、メッセージのために多くの時間をさき、深く省察をしていることが分かります。具体的にドライブしていて渋滞に巻き込まれたり、人に抜かれたりするとイライラする自分の性格を取り上げていましたので、誰もが納得していました。
 聴きながらガラテヤ書5章6節の聖句を思い起こしていました。割礼を受けているかどうかが問題ではなくて、「大切なのは愛によって働く信仰です」と言われている信仰と愛の関わりです。「信の哲学」を提唱している千葉先生が繰り返し取り上げられている箇所です。それは「福音と律法」、「信仰と行い」の二千年のキリスト教会で論じられてきたテーマに対して、その調和をもたらすと見ているからです。
 ただ歴史的には、<愛を信仰の原理と目標>に置くトマスのスコラ哲学に対して、ルターはこの聖句を基に「信仰のみ」を提唱し、<信仰が愛の原理と目標>とみたと言われています。確かにどこかで、すべて信仰で解決するかのように教えられ、そのように思って、なんとか頑張ってきたのですが、山の教会の牧師はその限界に気づき、信仰者としての行動の規範を模索しているかのようです。信仰をどれだけ強調しても堂々巡りをしてしまうクリスチャンの現実をしっかりと見つめています。
 千葉先生はこの聖句を「愛を媒介にして実働している信が力強い」と訳して、信と業の調和を見ています。<愛を媒介にして、信が力強く実働している>と言い換えることもできます。「実働している」と、エネルゲイアという名詞形の動詞が使われています。もう一つの名詞形としてはエルゴンがあります。これはロゴスとエルゴンという対で、パウロ自身がローマ書の終わりで自分のなしてきたことが「キリストがロゴスとエルゴンによって成し遂げた」(15:18)ことによっていると、「ことばと行い」がキリストにおいても自分においても調和していることを提示しています。
 この背後には「福音と律法」に関して、「業の律法」、すなわち、モーセによる文字としての律法とは別に、「イエス・キリストのピスティス」を媒介とする「信の律法」の到来があります。イエス・キリストの信の故に神の意志である律法を確認できるからです。そしてその律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することに要約されています。「愛は律法の充足」(13:10)と言われているとおりです。「業の律法」は終わったのですが、「律法の行い」は「信の律法」によって方向性をいただいたのです。律法主義に陥る必要はないのです。
 この意味合いで、私たちがどのような状況でも、神と人を愛することに徹しているときに、信仰が力強く実働していることを確信できます。信仰の力強さが、隣人を愛することで現れ出てくると言えます。その時には、「信仰と行い」が自分のうちで切り離されていないで、むしろ調和していることに納得できます。
 さらに、「信」は神のピスティスですので、神には「愛」が初めから切り離せないで調和していることが分かります。神の義の啓示は、その意味で、神の愛の現れになります。具体的に「イエス・キリストの信」を媒体にして神の愛が現れています。それに対する私たちの信の対応も神の愛に応えていくものとなります。
 愛は御霊の実として約束されていますが、神を愛し隣人を愛することは私たちに許されている自由意志で決断していくことです。そうするときに、「愛」が「信」と同様にすべての人の心魂のボトムに喜びをもたらすことが分かります。信なしには人が生きられないないように、愛なしには人は人として生きられないのです。「信の哲学」が成り立つとすれば、「愛の哲学」も成り立つことになります。
 上沼昌雄記

「歴史の事実への歪曲と沈黙」2018年7月12日(木)

 最上川の隠れ家に滞在の折、農民作家の友人が取り立てのキュウリとイチゴを土曜の午後に届けてくれました。礼拝で会えるからと家人に伝えて帰られました。その荷物には同人誌『手の家』に書いたご自分の連載小説「呼ぶ声がする(上)」も入っていました。反自叙伝とも言えるもので、(下)が楽しみです。もう一つ、『否定と肯定ーホロコーストの真実をめぐる闘い』という文庫本が入っていました。翌日の礼拝後、昼食時に「自分はすでに読んだから、上沼さんも関心があるだろうからプレゼント」と言われました。
 それからさらに旅を続けて、ようやく家に戻って、600頁近い文庫本を一気に読みました。”Denial”『否定』というタイトルで映画化されていて、DVDを取り寄せて2回続けて観ました。ナチスによる大量虐殺はなかったというイギリスの歴史修正主義者のアーヴィングから、史実を歪曲したと断じたユダヤ人歴史学者のリップシュタットが、イギリスで名誉毀損で訴えられたことで、逆にホロコーストが事実であると法廷で証明しなければならない法廷闘争の記録です。映画は要点をまとめて迫力のあるものですが、原書は当事者のリップシュタット教授による法廷での克明なやり取りの記述です。
 忍耐深く歴史の事実の証明に当たる弁護士とそのチームの努力と、その努力が報われて、最後に裁判で勝利して行く過程は息をのむほどの緊張感があります。歴史への誠実さと謙虚さが伝わってきます。それだけ逆に歴史修正主義者の事実を歪曲するだけでなく、話術によって民衆を巧みに自分の世界に巻き込んで行く狡猾さに脅威を感じます。弁護士たちによって事実を突きつけられても、それを巧みにかわすだけでなく、嘘のように思わせてしまう巧妙さにおぞましさを感じます。
 似たようなことが今住んでいるこの国でも起こっているのではないかと思わされます。それを思うと、それこそナチが台頭し、ホロコーストが起きて行った当時のドイツにおいても同じように、民衆は惑わされ盲目のうちに従ってしまったのではないかと思わずにいられません。教会もそこに含まれていたのです。この国でも教会が指導者の虚偽に飲み込まれてしまっているのではないかと思わされます。
 このことでもう一つ考えさせられることがあります。それは、このナチスと『存在と時間』(1927年)で一躍有名になった哲学者のハイデガーとの関わりです。大学総長になったときにはナチ党員にもなっています。しかし、ハイデガーは戦後その事実には完全に沈黙をしてきました。彼の死後、1980年代になってその結びつきを証明する記録が出てくるようになりました。総長就任式での「ドイツ大学の自己主張」と題する就任講演や当時の講義録が出版されるようになりました。
 ホロコーストの生き残りの詩人パウル・シェランが1967年にハイデガーに山荘に招かれた時に、当然謝罪の言葉が聞けるのもの思っていたのに一言も出て来なかったことで綴った詩「トートナウベルグ」があります。同じようにホロコーストの生き残りと言えるユダヤ人哲学者レヴィナスの、なぜハイデガーの哲学はナチスとホロコーストを容認することになってしまったのかという問いがあります。しかし、ハイデガーは貝のように固く口を閉ざしたまま亡くなって行きました。
 シェランは、「来るべき言葉」が発せられなかった絶望感に襲われました。 レヴィナスには、「実存」は自我の固執の是認であり、「他者」の排除をもたらし、さらにドイツ民族の優越さの是認にもなると見えたのかも知れません。 ハイデガーの沈黙は、しかし逆に、彼の哲学の言葉のなかにナチスと結びつく思想を見いだそうとする作業を引き起こしています。
 ホロコーストの事実への歪曲と沈黙は、当然同等には取り上げられないのですが、それぞれがあまりにも現実的なこととして迫ってきます。事実を歪曲しても話術でごまかして行くことが日常になりつつあることにはしっかりと見張って行く必要があります。そうでないとナチス下のドイツの教会と同じことを繰り返すことになるからです。
 信仰を持って大学に入り学んだのがハイデガーの代表作である『存在と時間』でしたので、ハイデガーの実存哲学がどうしてナチとホロコーストを容認することになったのかは、私なりに解決しておかなければならないテーマです。言い方を変えると、ホロコーストがどうしてキリスト教の影響下のヨーロッパで起こったのかとなります。それはこの国のことに関わってくるように思えるからです。
 
 上沼昌雄記

「新世代から見るキリスト教は、、、」2018年6月25日(月)

 前回、新世代クリスチャンから見る六つのテーマを、統計的にまとめた本を下に紹介いたしました。その本は、unChristian (by David Kinnaman and Gabe Lyons, Baker Books, 2007) というタイトルのものです。どのように訳するのが良いのか迷いますが、non-Christianであれば、「クリスチャンでない」ですみますが、unChristianは、「真のクリスチャンでない」と意味合いになりそうです。刺激的なタイトルで、ベストセラーになったようです。
 最初の2章で統計的な説明をして、3章から六つのテーマを取り上げて、伝統的なキリスト教理解と新世代クリスチャンの理解を紹介しています。この本の特徴は何と言っても統計に基づいていることです。単に著者たちの視点や経験ではないのです。ここでは参考のために、その六つのテーマについての伝統的と新世代の視点をそのまま紹介します。
1.偽善的である
伝統的:クリスチャンは言うことと、行いとが別々である。
新世代:クリスチャンは自分たちの至らなさを隠すことがなく、まずは行動し、その上で話す。
2.信者の獲得だけに焦点を当てている
伝統的:クリスチャンは本心で生きてなく、信者の獲得だけに焦点を当てている。
新世代:クリスチャンは、人が神に心底変えられるように交わりと状況を整える。
3.同性愛者に蔑視的態度をとる
伝統的:クリスチャンはゲイとレスビアンの同性愛者に蔑視的態度を示す。
新世代:クリスチャンはすべての人に、生活スタイルにかかわらず、同情と愛を示す。
4.過保護である
伝統的:クリスチャンは退屈で、知的でもなく、旧態依然として、現実からかけ離れている。
新世代:クリスチャンは現実に関わり、必要な情報を身に着けて、人々が直面する問題に洗練された方向を提供する。
5.余りにも政治的である
伝統的:クリスチャンはしばし政治的なことに動かられ、右寄りの政策を応援する。
新世代:クリスチャンであるとは、人を尊敬し、聖書的に考え、複雑な問題に解決を見いだすことで特徴付けられる。
6.人を裁きやすい
伝統的:クリスチャンは自負心が強く、すぐに人のあら探しを始める。
新世代:クリスチャンは人の良い点を見つけ、キリストに従う者になるための可能性を認めることで、恵みを示していく。
 これはアメリカの教会の取り組みですが、すでに真剣になされていることが分かります。子供たちの知り合いで、信仰は持っていても、親の信仰スタイルを拒否しているケースを知っていますので納得できます。それでも二世たちは苦しんでいます。親に受け入れられないとうめいています。
 日本でもクリスチャン二世たちに対する取り組みがなされていることを、今回の旅の最後で知ることになりました。戻りたくても戻るところがないという彼らのうめきが聞こえてきます。少なくとも彼らの居場所と生き方を認めてあげることはできます。そのように取り組んでいる教会もあります。
 伝統的なキリスト教がどうして偽善的で、人を裁きやすく、自分たちの殻の中に閉じこもってしまうのかは、前回も書いたのですが、同世代として放っておくことができません。何がそのようにさせてしまっているのか、聖書理解にまで遡って考えさせられます。その意味での責任を感じます。転じて、新世代クリスチャンがもたらす聖書理解に敏感でありたいと願います。
 上沼昌雄記

「新世代クリスチャンは、、、」2018年6月15日(金)

 今回の5週間の日本の旅の最後に、かつて親や教会に反発していたが、今はクリスチャン二世として同じような二世に伝道している方と、しばし意見を交換する機会がありました。親や教会に反発している二世は、戻ろうと思っても戻るところがないとあっさり言われました。なるほどと思うと同時に、クリスチャンとしては他の生き方があるのか分からなかったこともあり、衝撃的でした。
 シカゴに戻り、義樹家族のところに落ち着きました。その家族の行っている教会の32歳の若い牧師の祈りを義樹が聞いていて、20名近い牧師団の祈りとは異なっていることに気づき、N.T.ライトの聖書理解に近いように思うと伝えたら、その通りと会話が弾み、自分の父親がN.T.ライトの翻訳『クリスチャンであるとは』をしていることを話したら、驚いていたことを話してくれました。
 それで日本でのことを話したら、戦後のベビーブーマーの子供たちで1980年代から2000年の初めに生まれた世代をミレニアムズ(世紀末に生まれたので)と呼んで、新世代クリスチャンに対する教会の取り組みを語ってくれました。すでに社会学的な検証もなされていて、それに基づいた書物も出ています。
 ベビーブーマーとミレニアムズのそれぞれのクリスチャンのイメージが異なっていることを統計を下にまとめた本を義樹が紹介してくれました。その詳細に入ることはできないのですが、六つのテーマで新世代クリスチャンが抱いている親たちの教会に対する視点を紹介しています。すなわち伝統的な教会とクリスチャンのことです。
 1.偽善的である
 2.信者の獲得だけに焦点を当てている
 3.同性愛者に蔑視的態度をとる
 4.過保護である
 5.余りにも政治的である
 6.人を裁きやすい
 これらの視点に対して新世代クリスチャンの姿勢を紹介しています。それについては改めて取り上げてみたいと思いますが、どうして伝統的なキリスト教がそのような姿勢を取ってしまうのかに同世代人として関心があります。伝統的にはこの世を離れて霊の世界に生きて、そこでの理想的なあり方が可能なものとしているのですが、新世代クリスチャンはそこに偽善性を見抜いているのでしょう。
 そこには先の32歳の牧師がどこかでN.T.ライトの聖書理解に惹かれるところと無関係ではなさそうです。新天新地の再創造を聖書の目的と設定するときに、この世に対する責任も生まれてきます。「みこころが天になるように、地にもなさせたまえ」と祈る責任が伴ってきます。自分たちだけがこの世から隔離されて特別なものとみることはできないのです。この世に神の民としてのあり方を示していく責任があるのです。
 義樹たちの教会はそのような視点を持った若い牧師を新世代クリスチャンに届くために雇っていると言うことです。日本でもそのことに気づいて、自分の体験を踏まえて新世代クリスチャンを掘り起こしている働きに接することになりました。新世代クリスチャンの誕生は新しい聖書理解をもたらしています。
 上沼昌雄記

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