贖罪論の教理としてのアンセルムスの満足説は正確には理解されないで歪曲されたままで今に至っていると言えそうです。端的にはその「満足」の意味合いが、アンセルムス自身が否定している「神の怒り」を宥めるという司法的な意味合いに取り替えられ、特に宗教改革以降救済論の基本的な理解として今日にまで受け継がれているといえるからです。17世紀のプロテスタント・スコラ主義の代表であるフランシス・トゥレティンから近年のJ.I. パッカーの贖罪論に見られものです。
私自身もそのような理解の中で信仰を持ち、学び、伝道をしてきました。グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』に基づいて1991年にいのちのことば社の『新キリスト教事典』の「贖罪論」の項目を書きました。その『勝利者キリスト』でもアンセルムスは初期の古典理論より、合理的なラテン理論に傾いていると紹介されています。
最近ではジョン・パイパーとN.T.ライトの間で義認論のことで議論がなされています。同時にマックグラスの2巻本の Iustia Dei で、聖書でのこのテーマでの記述と後々の教理としての贖罪論とは必ずしも連続性があるわけでないと指摘されています。
10年前の千葉先生による信の哲学との出合いは、端的にはローマ書3章22節の「イエス・キリストの信に基づく」の理解に関してでしたが、まさにその節全体の理解として「神の義」と「イエス・キリストの信」の間の「分離のなさ」に関わり、その説明としての23-26節と捉えることによって、何よりも聖書としての贖罪論理解の原型を確認することになりました。それは「神の義」と「イエス・キリストの信」の協働作業としての24節で言われている通りの「キリスト・イエスにおける贖罪」なのです。
そしてこの神とキリストの協働作業としての贖罪の歴史的な理解として、そのタイトル『クール・デウス・ホモ (なぜ、神・人)』が示しているように、アンセルムスが取り上げています。『信の哲学』下巻の第3部7章は「アンセルムス贖罪論における正義と哀れみの両立する唯一の場ー司法的正義とより根源的な真っ直ぐの正義ー」となっています。そして時機にかなったように友人がアンセルムスの岩波文庫版を送ってくださり、11世紀の名著を追うことができました。
この文庫版ではラテン語の satisifactio がしばし「贖罪」と訳されていますが、千葉訳は「誉補償」「満足」としています。単なる司法的な意味での義よりも、神の創造のうちに見られる「世界の秩序と美」を伴う神が備えてる「誉」に関わる「満たし」としての回復をとらえていると指摘しています。そして『クール・デウス・ホモ』の1章15節で明記されているのです。
このことに関連して罪は神の秩序の破壊に関わることで、それは罪の背後の悪の力からの解放に関わる神の義をアンセルムスが1章23節でとらえていることをさらに指摘しています。すなわち「満足」は悪によって破壊された神の義の回復なのです。司法的な意味での義の回復はその中に含まれても、一義的なものではないと観ています。
この視点は『勝利者キリスト』のアウレンが古典理論としてとらえていることなのですが、アウレン自身がアンセルムスのこの視点を見逃してしまっていると言えます。まさに聖書全体の視点である創造と再創造のもとでの贖罪論理解のことになります。そしてそれは取りも直さずN.T.ライトの視点でもあります。
教理としての贖罪論は変遷と混乱をきたしているのですが、テキストであるローマ書3章21-31節での贖罪の意味に戻って、教理としての贖罪論を方向付けていくときなのでしょう。
上沼昌雄記