「イチロー」2007年9月10日(月)

 イチローのメジャーリーグでの活躍には眼を見張るものがある。アメリカという国で生活し、格闘し、もがいている者としてイチローは魅力的な存在である。家のテレビは3つのチャンネルしか観ることができず、野球中継といっても地元のチームの放映が中心なので、イチローの試合を観ることはほとんどない。幸いオールスター戦で、外野のフェンスに直撃したボールが逸れた間に本塁まで駆け抜けた状景と、その後MVPの受賞のインタビューは聞くことができた。それで、インターメット上で紹介されるイチローの活躍と彼の語録のようなものをそれなりに気にしながら読んでいる。

 イチローが達成した記録には、2004年の年間最多安打のように、聞いたこともないような全く過去の選手との比較が出てくる。つい最近は7年連続200本安打の記録を達成している。今朝のインターネットでも昨日の試合で、年間「200本安打、100得点、30盗塁」を同じように7年連続で達成しているが、イチローだけだと言う。そのたびに随分古い記録との比較が出ている。

 イチローは攻守、走塁、どの面でも長けている。そのための大変な努力をいているのだと思う。メジャーリーグは年間162試合である。一試合一本のヒットでは年間200本にはならない。途中で怪我をしたら終わりである。ヒットのない試合もある。しかも最大3時間の時差のあるアメリカ大陸を横断しながら、その上引き分け試合がないという、長丁場を耐えなければならない。体力のあるアメリカ人選手でも疲労困憊する。

 どこかのインタビューの記事で、試合中でも力を抜いているようなことを言っている。いつも力を入れていたら疲れてしまう。力を抜いて風の流れれに身を任せて、浮いていることで体力の消耗を避けている。同時に力を入れるときには最大限出せるようにしている。確かにバッターボックスでもすんなりと立っていて、特別構えているようでもない。ほとんどのバッターが身構えているのでよく分かる。またイチローはどう見ても走りながら打っているように見える。打った瞬間に右バッターより3,4歩ほど先にいる感じである。

 ディゲームでセンターに上がったフライを、捕球の姿勢を見せていながら、ボールはその向こうに落ちた状景を覚えている。インターネットの記事で、フライが太陽の中に入ってしまって見えなくなったのを、あたかもとれるような姿勢を取って2塁か3塁の走者を釘付けにするためだったと言っている。最近2塁に盗塁して、これは間に合わないと分かって、ベースの前で立ち上がって、2塁手ヤンキースのジーターのタッチを避けたが、審判がそれを見ていなくてアウトにされた記事を、想像しながら読んだ。

 誰もがよい成績を残そうと大変な努力をしている。しかも力があり、体力がある。アメリカ人とペンキ塗りの仕事をしたことがあるのでよく分かる。野球という一大ゲームの可能性を誰もが最大限に延ばそうとしている。バリー・ボンズはホームラン記録を塗り替えた。日本人選手も頑張っている。メジャーリーグは今までになくエキサイトしている。

 イチローは、そんな可能性が最大限に追求されているなかで、それを乗り越えるだけの能力を備えているのと同時に、考えられる可能性だけでは見えない、何か野球というゲームのなかでそれでもなお見落とされている面を、瞬間的にか直感的にか感じ取って、その隙までプレーをしているようなところがある。そのように思えて仕方がない。ただ頑張って頑張って乗り越えようとしているのであれば、息切れしてしまう。息を抜きながら、もうこれ以上可能性がないと思われるメジャーの試合のなかで、どこかに見落とされている面を見抜いている。今までに見たこともないようなプレーに観客が興奮している。

 イチローは曲芸師でも、忍者でもはない。野球の本道を身に着け、その中心を歩んでいる。その可能性を最大限に探っている。同時に野球の大筋から外れたというか、見落とされているというか、隠れているというか、考えられないというか、ともかく窮め尽くしてもなお見えない可能性を、多分直感的に感じ取っている。それに瞬間的に、本能的に体がついている。その結果、メジャーリーグに大きなズレを引き起こしている。今までにない揺れを起こしている。新鮮なエキサイトを引き起こしている。

 神学はメジャーリーグよりもはるかに古い2千年の歴史がある。学問として神学に関わった人の数は抜きんでている。提示された神学も数え切れない。学としての神学の可能性を今でも追求している。体系として整っている。何も新たに付け加えることのないほどである。聖書としてのテキストがあり、神学としての枠組みがあり、体系がある。誰もが2千年の神学の歴史の重みのなかで生きている。福音派は福音主義という神学の枠を持っている。その枠は抜き差しならないほどしっかりとしている。

 神学に歴史があり、枠組みがしっかりしていればいるほど、それ以上の隙間やズレはもはやなさそうである。しかしそれは同時に、生きた神を、また御霊の流れを固定化して、停滞を招いている。身動きがとれず、息苦しくなっている。魅力もなくなってきている。という神学の現状がありながら、聖書には生き生きとした息吹があり、引き込まれる流れがあり、眼を見張る魅力さがある。それに生かされている。同時に、神学によって閉じこめられている。  

 限られたなかで神学をしてきて、しっかりと築き上げられている神学に、どこかにズレがあり、隙間があり、見落としているものがあり、隠れているものがあるのではないかと思わされている。そこに触れることができ、捉えることができたら、神学の全体がずれてきて、見落とされたものが見えてくるのかも知れない。それ以上ないと思われる神学のズレや隙間を捉えることができたら、今まで見えなかった聖書の世界に入ることができるのかも知れない。そんな感覚をいただいている。

上沼昌雄記

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神学モノローグ
「イチローと村上春樹」2010年9月24日(金)

 しばらく前は、今年のイチローは200本安打が大丈夫かというような記事をネットで読んでいた。確かに一時大夫停滞していたのを覚えている。イチローも衰えが出てきたのだろうかとも思った。しかし9月に入っていつものような量産が始まってあれよという間に、昨日見事に10年連続200本安打を達成した。昨日は家にいてハイスピードのネットがないので観られなかったが、いま事務所に来て大リーグのウエブでビデオを観ることができた。昨年は9月の初めに、9年連続の新記録をテキサスの球場で、しかも夜更けに達成したのを覚えている。今回は快晴のもとトロントでのことであった。それにまつわる記事とインタビューも読むことができた。

 すでに69歳になっているピート・ローズと比較されている。40年近く前にシカゴ郊外で学びを始めたときに、妻の友人たちからピート・ローズのことを聞いていた。そののち監督時代に野球賭博に関わって球界を追われる身になったのだと思う。それでも彼の記録は超えがたいものと残っている。それを「超えてあげたい」とまでイチローは言う。そんなことを言えるイチローの、強さではなく、柔軟性に思いを馳せている。強さでは勝てないし、強さだけではここまで来ることはできなかった。強さをすり抜けるというか、力と力の間の隙間をすり抜けるような柔らかさが彼にはある。

 三塁手が突っ立っていると思ったらその前にバンドをして、悠々一塁に走り抜ける。どんな強肩な捕手でも年で衰えてきたと思ったら、遠慮なしに二塁でも三塁でも滑り込んでしまう。ヘンス際のボールであればよじ登ってホームランを阻止してしまう。レーザービームと呼ばれた外野から三塁手へのボールはランナーの手前しっかりと届いてしまう。いままでにない、そして忘れられない場面の数々を提供してくれている。

 村上春樹の『1Q84』のブック3を、イチローの今回の快挙の前に、何度目になるのか明確ではないが読み出した。そして、昨晩読み終えることができた。1Q84という時代というか世界の設定、そこでのふたつの月、マザとドウタ、レシヴェとパシヴァ、20年にわたるロマンス、学園闘争と新興宗教、そんなおかしな設定がなされていながら、自分のなかのどこかで置き忘れてきた古い荷物をもう一度開けられるような感覚を覚える。読む度にその感覚が深くなる。月がふたつだとか、1Q84のおかしな世界が、架空のものでなく、自分のなかのどこかで置き忘れてきて、思い起こさせられるものとなるのである。

 神学書を読み、コメンタリーを読み、哲学書を読み、また自分なりに小説を読んでいるが、多くの場合に正面から語られている感じがある。これが問題でだからこうしたらよいというテキスト的というか、回答提供型のものが多い。当然それなりに意味があるが、物足りなさが残る。自分のなかの触れられていない面がいつまでも、水の下に留まっている濁りかすのように心の隅に残っている。

 村上春樹が書くものはその正面の課題をすり抜けているところがある。何を村上春樹は言いたいのかと問われると、そんな問いを上手にすり抜けて、いつの間にか背後に回っていて、問いをかけた人も気づかない意識の背後を揺さ振るのである。『1Q84』のブックレビューに、こんなのは小説でないという酷評がある。そうも取れるのだろうと素人ながら思う。それありながら、日本語の限界をあっさりすり抜けて、世界中で読まれてしまう。

 イチローの今回の200本安打が二遊間をきれいに抜けていくのを何度も観ながら、村上春樹の文章が私のなかの二遊間の守りをきれいに抜けて、自分でもまだ分からない意識の背後にボールが転がっていているような感じがしている。そんなことができるふたりのしなやかさに恐れ入っている。そのためにこのふたりが怠りなく自分の可能性の限界を伸ばそうとしている努力には驚異すら感じる。

 同じバッターフォームでは10年も毎年200本安打は打てないことをイチローは知り尽くしている。『ノールウエイの森』でも『世界の終わりとハードボイルで・ワンダーランド』にしても、それと同じスタイルでは、自分がいずれ死んでしまうことを村上春樹は知っている。このふたりのしなやかさは、信仰の新しさをいただいているものが当然身に着けていないといけないのだが、どうも自分のなかで逆になっている。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「『他者』と『自国第一主義』と」2016年7月25日(月)

 ユダヤ人哲学者のレヴィナスが「他者」を視点に哲学をしていることは、度々書いてきました。モーセの律法の視点が、在留異国人、やもめ、孤児に向けられていることを傍証としています。確かに、これらの人々の嘆きと苦しみを民の中で聞いたらば、神は民を殺すとまで言っています。そうしたらあなたの妻はやもめとなり、あなたの子どもは孤児になる、それでも良いのかとまで言っています。

 同じ視点をN.T.ライトにも見ることができます。アブラハムへの祝福は決してアブラハムのためではなく、アブラハムを通してすべての民が祝福されるためなのだと、『クリスチャンであるとは』の6章「イスラエル」で強調しています。この同じ祝福がイエスの山上の説教で語られているというのです。「心の貧しい者は幸いです」というより「祝福された者、心の貧しい者たちよ」と訳されるべきだと言います。

 レヴィナスは、「自己の確立」「自分の安定」を視点に成り立っているのが西洋の哲学と見ています。「魂の救済のための知」、グノーシス主義をひとつの旗印に、西洋思想は、そのための安全な港を確保し、そこで堅固なシステムを築くことに汲々としてきたのです。それは西洋の神学の基盤にもなっていると見ています。

 N.T.ライトは、山上の説教の視点が私たちの「幸せ」に向けられていることに、アリストテレスに始まる「幸福のための倫理」によっていると見ています。その結果は、同じ「魂の救済」のための天国理解にすり替わっていると見ています。すなわち、「信じて救われたら天国に行く」ための聖書理解に終わっているというのです。信仰義認の教理はそのためだけになってしまい、結局は、me and my salvation しか考えられないのです。

 レヴィナスは、この西洋の自己中心性の行き着いたところがホロコーストと見ています。その背後には、尊敬していたハイデガーがナチスの党員になり、自分の家族全員がナチスに殺されたと言うことがあります。そして、レヴィナスにとって、ホロコーストは西洋の哲学の終焉であったように、ヨーロッパ人としてのN.T.ライトには、ホロコーストは西洋のキリスト教の死を意味していました。

 そのような中でレヴィナスは「他者」に視点を向けることで哲学の再構築と人間性の回復を目指し、N.T.ライトは「新天新地」を視点に神の国の優先性とそこでの人間の有責性を見ています。それぞれ読みながら、深く納得し、この世界の行く末も思いめぐらすことになっています。

 そうなので、今回の大統領選挙のひとりの候補者の受諾演説を聴いていて、多少身の毛のよだつ思いをしたことでした。「自国第一主義」とニュースではその内容が伝えられているのですが、まさに自分の国の安定と繁栄と祝福だけに思いが向けられていて、それを「自分」が、多分「自分だけ」が、成し遂げるという意味合いに聞こえます。

 選挙ですから、それはそれで良いのですが、問題は多くの人がそれに賛同していることです。すなわち、不満を上手に吸い上げて扇動していることに、多くの人が乗ってしまっていることです。多くの信仰者も含まれているのだと思います。第一次大戦後の不満を上手に吸い上げて扇動した人物のことが頭によぎります。そこに多くの信仰者が含まれていました。

 自分たちの信仰、自分たちの繁栄、自分たちの祝福だけを求めていたら、それは神の祝福の目的を損なうことになります。政治的な問題よりも霊的な危機を迎えることになります。すでにキリスト教自体が自己中心の世界に陥っていることからくると危機です。国が祝福されるのは、アブラハムの時にそうであったように、自国ためではなく、地のすべての民が祝福されるためなのです。それは教会だけでなく、個人としての生き方にも当てはまることです。

上沼昌雄記

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「イザヤ書という世界」2016年7月19日(火)

 友人の大頭眞一牧師が雑誌『舟の右側』に「焚き火を囲んで聴く神の物語」という興味深い連載をしています。「神学ジャーナリスト」を自称されているだけあって、聖書の世界、神学の迷路についてよく知っていて、しかも教会と世界の現状を上手に混ぜ合わせて飽きさせないものがあります。聖書の人物、神学上の大御所、そして身近に接する人々が続々と登場してきます。この春に一緒にどこかで焚き火をしたのを6月号で書かれてしまいました。

 7月号でナラティブ・セラピーがテーマとして取り上げられ、その代表格として預言者イザヤが登場します。結局は、イザヤに促されて焚き火を囲みながらご自分のナラティブを語り出すのです。セラピストイザヤの登場なのですが、ただただイザヤの前でご自分の物語を語っていのです。読んでいて確かに預言者イザヤにはそんな雰囲気があるよなと、こちらも納得します。それは何だろうと自問することになりました。

 幸い今妻とイザヤ書を読んでいるので、その度に、このイザヤという人が展開している世界と、そこで醸し出している雰囲気は何なのだろうかと語り合っています。数年前に秋田の教会で、3ヶ月夫婦で奉仕したときには学び会でエレミヤ書を取り上げたのですが、エルサレムの崩壊とバビロン捕囚を迎える緊迫感が漂っていました。イザヤはどちらかというと一段高いところから大きな世界について語り、それが人の心深くに届いているところがあります。それがイザヤ書の特徴と言えます。

 だからといって預言書としての緊迫感がないというのではありません。ただその緊迫感が時代を超えて今の状況にもそのまま当てはまる深さがあります。イザヤが活躍した時代と世界の状況は鮮明に描かれています。イスラエルの民だけでなく、周辺の国への神の思いをしっかりと読み取ることができます。それでいながら、そんな歴史の流れを超えて、歴史を司っている神が計画している終わりの状況も明確に記しています。さばきと希望が明確に語られていて、それが今にも違和感なく当てはまるのです。

 イザヤの個人的な思いは、エレミヤほどには記されていないのですが、それでもイザヤははっきりとこれは自分の任ではないと述べています。それでも神の民に語らなければならないのです。同時にイザヤの語ることはイスラエルの民を超えて全人類の心の深さに向けられています。苦難のしもべは私たちすべての咎を負うことになり、彼の打ち傷によって文字通りに私たちはいやされたのです。

 イスラエルの民を超えるとは、それは時間的にはアブラハムを超えて、天地万物の創造の時にイザヤがいつも立ち返っていることからも分かります。エッサイの根株から出た新芽は、エッサイの家系だけでなく、その新芽から出た実が全世界を覆うことになります。単なる霊的な世界の救いを語っているのではなく、神の創造の世界の新生を語っています。乳飲み子がコブラの穴で戯れ、荒野と砂漠と荒地は、サフランの花を咲かせ、喜び楽しむのです。

 イザヤ書はどことなく旧約聖書における黙示録のような響きがあります。さばきの厳しさと希望の喜びが火を見るごとくに鮮明に描かれています。この世と世界と大地が滅びるのですが、神が備える新しい天と新しい地が約束されています。主を知ることが、海をおおう水のように、地に満ちるからです。その大きな神の御手の深みに生かされている実感をいただきます。

 この神の大きさに抱かれ、神の深さに触れると、自然とイザヤに促されるように自分の物語を語り出すのかも知れません。自分の物語が神の物語の一部として、たとえほんの取るに足りない一部であっても、神の計画に組み込まれている者として語ることができるのです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「異風土体験」2016年7月5日(火)

 東久留米のCAJの妻の同窓会でシカゴからさらに一日東にドライブをすることになりました。ペンシルベニア州のなだらかな山並みの中の森に囲まれた修養会場でした。そこで終戦間際の日本で宣教師の子弟として過ごした経験を聞くことになりました。何かねじれた「異文化体験」でした。

 シカゴに戻りしばらくして帰途につきました。ワイオミング州の手前まではいつものルートでしたが、そこからデンバーに降りて、ロッキー山脈を越えてユタ州に入り、ネバダ州の下にあるラスベガスを経由してロス郊外の両親の家にきて、母の面倒をみています。

 うっそうとした森の中でのねじれた異文化体験をして、今回はデンバーからロックー山脈越えをしたこともあって、このアメリカの風土への一種の違和感を覚えました。アメリカの風土と一言で表現しているのですが、大平原があり、広大な山脈があり、荒涼とした砂漠地帯があり、大西洋と太平洋があり、何とも多様なのですが、どれもその規模の大きさに圧倒されて、自分がその自然の一部のようにはとても思えないのです。

 広大な自然を眺めるのは、解放感をいただくこともあって、何とも気持ちのよいものです。それではその自然に包まれたり、抱かれたりするような感覚が出てくるかというと、どうもそのようにはならないのです。雄大な自然はそこにあり、自分はことらで自分のあり方を確保している感覚の方が合っています。安心して自分をその自然に委ねられるかというと、どうもこれは自分の肌に染み込んだものではないと、拒絶反応と言うより、一種のリアクションが出てきます。

 同窓会で中国系の方が「旅人」と書かれたTシャツを着ていました。その後ろには何と「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」とありました。あの山寺の岩と蝉の声と芭蕉が静かさの中で一体となっている情景が浮かんできました。自然に抱かれるように静かに蝉の声に聞き入っている芭蕉に文句なしに同化できるのです。俳句の説明をご本人は大変喜んでくれましたが、その感覚は伝えることは不可能でした。

 イザヤの預言に、「さあ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」(55:1)とあります。詩篇で「鹿が谷川を慕いあえぐように」(42:1)とあります。この渇く感覚は喉が渇くだけでなく、皮膚が渇いてきてからだが乾燥しきって、干上がってしまうところがあります。乾燥地帯で生活していて、わずかに聖書の記述に納得できるところです。

 昨年はこの時期に日本に入りました。暑さは大変でしたが、体の芯では慣れ親しんだ感覚がよみがえってきました。皮膚が汗で溢れるのですが、それ以上に体の芯で汗をかいていて、それが異体験にはならないのです。これが自分のものだと納得できるのです。

 聖書の終わりで新しいエルサレムの都の中央を流れる川の描写があります。「水晶のように光るいのちの川」で、その両岸に「いのちの木があって」「その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示録22:1,2)とあります。新天新地ではどのような異風土体験をするのか楽しみでもあります。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「ある同窓会」2016年6月22日(水)

一週間前に妻のCAJの同窓会がペンシルベニア州の西部でありました。東久留米にある宣教師の子弟の学校の1953年頃から64年頃までの、卒業していなくても、その間学んだことのある人たちの同窓会です。このグループの集いは、妻に付いて行って3度目になりますが、表現しにくい感覚をいただくことになります。実際にそんなに抵抗なしに交わりに加われます。私なりの異文化体験をしているからかも知れません。

当然なのですが、宣教師の子弟として、自分の選択なしに、異文化体験をさせられ、しかも話を聞き出すと、戦後まもなくマッカーサーの勧めに従って日本に宣教師として来た家族なのです。こちらが知らない戦後の混乱した日本を知っています。同窓生が話す内容はこちらが面影とだけ知っている日本です。そんな日本の話を、ペンシルベニア州の田舎で、外見は全くのアメリカ人から聞くことになるので、自分のいる時間と空間が一ひねり回転してしまった感じになるのです。

当時教師であった方がふたり集っていました。ふたりとも90歳を超えています。ですので、参加している方々もすでに75歳前後になっています。妻は最年少でした。みな年齢を重ねているのですが、同窓会には特別な思いを持っていることが分かります。参加者はカナダとオーストラリアをいれて全米からです。正直よく集うと感心します。しばらくして分かるのは、自分たちの高校生時代の異文化体験を分かち合える場唯一の場なのです。それぞれの生活の中ではできないことなのです。それで3年に一度の同窓会ですが、喜んで集まります。

私も自分なりの異文化体験をして、だんだん故郷がどこなのか分からない状態になってきて、多少参加者と分かち合える面をいただいています。そんなこともあって私をも仲間と受けとめてくれています。仲間なのですが、どのような仲間かと言えば、故郷を喪失している者たちの仲間とも言えます。大げさなのですが、天の故郷以外に心のより場を持たない者たちです。決して戻ることのできない旅をしている者たちです。

中国人の子弟の方で、大使館関係で日本に来て、CAJで勉強して、今はロスに住んでいる方に会いました。61年ぶりに同窓生に会ったということです。同じ東洋人なので親しくなりました。同窓生の強い勧めがあって重い腰を上げてきたが、来てよかったと繰りかえしていました。61年間にあった試練も語ってくれました。

神の民がエジプトから出されてから(それ以前からなのですが)、決して故郷に戻る旅をしていません。それはいまだに続いています。天の故郷に入るまで旅人としてこの地での使命を抱えています。そのゴールに向かって歩んでいます。そのためにエジプトを出たあとに神はその使命を明確に語っています。

「あなたがたは、わたしがエジプトでしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れてきたことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19:4-6)

どこかでこの同窓生たちは神の大きな計画の中に組み込まれているように思えます。何とも余韻のしっかり残っている同窓会でした。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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「黙示録から創世記へ」2016年6月13日(月)

N.T.ライトというイギリスの新約学者の著書を訳出(『クリスチャンであるとは』)したり、他の著書に当たったり、講演のビデオを観たりしているなかで、このライトという人が、聖書全体を説明するときにしばし、黙示録から始まって創世記に戻って説明していることに驚かされます。新鮮であるのと同時に、聖書全体の流れが鮮明に浮かび上がってくるからです。

黙示録に関しては、もしかしたら随分偏った理解をしてきたように思います。黙示録とは単に千年王国に関する解釈が中心のように思ってきたところがあるからです。そうではないのだろうと思っても、それ以外の手だてを持っていませんでした。確かによく読むと、千年王国は20章で部分的に語られているだけなのです。

ライトという人は対照的に、黙示録の21章と22章と創世記の1章と2章が対応していると観ています。すなわち、聖書の終わりの2章と最初の2章が呼応していると観ているのです。別の言い方では、聖書の終わりの描写は、その初めに定めたことの成就と観ることです。さらに言い方を変えると、新しいエルサレムはエデンの園の再現となります。

確かに新しいエルサレムの都の真ん中を流れる川は、エデンの園を流れる川を思い出させます。その川の両岸にはいのちの木が植えられるのですが、それはエデンの園の中央のいのちの木の再来なります。何よりも、罪のゆえに人はその園から追放されたのですが、神はもう一度人をその園に戻すことを考えているのです。すなわち、創造の神の意図は決して消えることなく、最後に確実に成就するのです。

『クリスチャンであるとは』を読んでいただいた方は、11章「礼拝」でN.T.ライトが黙示録4章と5章から礼拝の姿を描いていることを思い起こされるでしょう。そこでは造られたものすべてが神を讃えていきます。万物が神に帰るのです。人間だけではないのです。それはまさに全地万物の創造の目的が完成するときです。

このように目標が明確にされるときに、そこに至るまでの歩みが浮き彫りにされて来ます。すなわち、出発点からどのように離れ、どのような歩みをしていて、それに対して神の最初の意図はどのように実現されていくのか、その道筋が明らかになります。アブラハムの祝福も、出エジプトも、モーセの律法も、ダビデの王国も、バビロン捕囚も、そしてイエス・キリストの十字架と復活も、神の永遠の愛の現われとして浮び上がってきます。

さらにライトという人で驚かされるのは、創世記で神のかたちに造られた人の責任が、実は黙示録で再度明確にされていることを強調していることです。エデンの園でも新しいエルサレムでも人の務めは変わらずにあるのです。神の造られたすべてを支配することと、新しい天と新しい地で治めることです。その務めが出エジプトで「王なる祭司」と明確に規定され、黙示録で繰り返されているのです。

単に信じて救われたら天国に行くと言うことでは終わらないのです。天国に行くためにどうしたらよいのかということより、造られた目的ため、また万物の目標に向かって、少なくとも今生かされている務めを少しでも果たすことに思いが向いていきます。神が人を造られた目的とアブラハムと契約を結ばれた意味が今でも生きているからです。

黙示録から遡りながら、創世記の最初の意図に触れ、さらにその途上での人間の責任を取り上げてくるライトという人の聖書理解に、何とも唸りながら納得しています。

上沼昌雄記

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「祝福の継承を担って」2016年6月6日(月)

 長男家族と長女家族がシカゴ郊外に住んでいて、カリフォルニアから三日のドライブをして訪ねています。荒地のネバダ州、塩の海のユタ州 、雄大な自然のワイオミング州、延々と続くトウモロコシ畑のネブラスカ州、そして田園風景のアイオワ州を横断して6人の孫たちに会いに来ています。

 最初に長女家族のところに滞在して4人の孫の一人の誕生日を祝いました。長男家族も集い、ワシントンから次女も飛んできて、一年ぶりに家族全員が集いました。そして先週から長男宅に来ています。今週末には妻の東久留米のCAJの同窓会がピッツバーグであります。

 先週の水曜の夜に、長男家族が集っているアッセンブリー教会で、夏休みを前にこの一年の子どもプログラムの終了式がありました。100名以上の子どもたちとその親たちが集まっていました。担当の牧師が、子どもたちへの祝福の継承の大切さを語っていました。アブラハムの祝福はアブラハムのためではなくて子孫と地のすべての民のためであるという視点を、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』から教えられていましたので、なるほどと思って聞いていました。

 この牧師が全員の子どもたちを講壇に集めて祝福の祈りを捧げるときに、親たちをも子どもたちの回りに促して、一緒に祈るように仕向けました。その牧師は祈りでも子どもたちが神の民として成長して神とこの世に仕えていくことを強調していました。しかもその役割として「王なる祭司」として召されていることを語っていました。「王なる祭司」とはまさに私もN.T.ライトを通して聖書全体に貫かれている神の民への召しと教えられていたことでした。

 昨日礼拝に伺いましたら、入り口でこの牧師が教会の方々と立ち話をしていたので、タイミングを見計らって話しかけました。「王なる祭司」という表現を祈りのなかで使われましたが、私はN.T.ライトからそのテーマについて教えられましたと言いましたら、ご自分もそうだということで意気投合しました。数年前にN.T.ライトがホイートン大学で講演したときにも聴きに行ったと言うことです。

 「王なる祭司」というテーマは実はN.T.ライトのもう一つの本 After You Believe で詳しく語られています。『クリスチャンであるとは』の最後の方で真の人間としてのあり方を取り上げていて、その具体的な生き方として「王なる祭司」の務めが与えられているというのです。関心があって勝手に訳しだしているのですが、この牧師も After You Believe を関係者との学び会で読み合ったと言うことでした。

 「王なる祭司」の表現は出エジプト、1ペテロ、そして黙示録で使われています。神の祝福を全地にもたらす具体的な役割を担っていることが聖書全体のテーマなのです。最も具体的にイエスにおいて成就され、私たちにもその役割がゆだねられているのです。しかも世代に渡って貫かれている役割です。

 6人の孫のうち4人がすでに小学生になっています。それぞれ性格もはっきりしてきています。将来どのようになるのかは本人たち次第ですが、祝福をさらに次の世代と多くの人に届けていく責任は、アブラハム以来受け継がれていかなければなりません。そのために祈っていく責任はこれからも続きます。孫をいただいている責任です。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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