「ユダヤ性」2010年6月28日(月)

 レヴィナスの哲学を読むようになって、ユダヤ人の視点が、あの
ホロコーストのあとに文学、哲学、社会学においてよみがえってき
ていることに気づかされる。あるいはユダヤ人の視点に関心を持っ
てきたので、より気になっているのかも知れない。どちらにして
も、大げさな言い方かも知らないが、西洋の行き詰まりを打ち破る
視点として真剣に取り上げられている。ホロコーストは西洋の行き
詰まりであったからである。

 中上健次の『熊野集』という熊野にまつわる短編集のなかでその
ユダヤ性について論じているので驚いた。あの熊野とユダヤ性がど
う関わるのだろうか。レヴィ・ストロースのことを取り上げながら
彼のうちにあるユダヤ性に言及している。そして回り回って、それ
は自分のユダヤ性を考える手だてのような言い方をしている。確か
に「レヴィ・ストロース」はまさにあのレビである。「レヴィナ
ス」のレビもそうである。そして確かに、レヴィ・ストロースの視
点は西洋中心主義を打ち破るものとして受け止められている。レ
ヴィナスはそれを哲学のテーマとした。

 このことを村上春樹の関わりで中上健次を言ってくれた友にメー
ルで書き送った。この友もレヴィ・ストロースのことに注目をして
いる。次のように返事をくれた。「要するにストロースは死ぬまで
守りに入らない現在進行形であったのです。彷徨えるユダヤ人とし
ての本質をきちんとふまえた上で全ての著書を書いてきた事は異例
だし驚異です。隠すものがない強み的なものに中上健次は共感して
自身のユダヤ性を垣間みたのでしょう。ジャベスの言葉通り「人間
はすべてユダヤ人である。」事をストロースから感じ取った中上は
自身を辛辣に導いたのだと感じます。そしてストロースの思想の影
響は過大に浸透してます。」

 守りに入らない現代進行形に対して、守りに入っている聖書理解
と神学、彷徨えるユダヤ人に対して、壁を築き、要塞を建てて定着
して自分たちの生き方を堅く守る近代人と教会、隠すことがない強
み的なものに対して、きれいな神学で上手に覆い隠している脆さ、
という対比が成り立ちそうである。ともかく中上健次のものを読ん
でいると、小説であっても、結局自分のこと、自分の家族のこと、
自分の故郷のことを書いていることが分かる。そしてアメリカに旅
をし、韓国に何かを求め、故郷熊野に、彷徨いつつ何かを探してい
る。そんな隠せないというか、隠さない彷徨えるものの強さがあ
る。それは確かに、自分たちの罪と悲劇の歴史を隠せないで、さら
い彷徨い続けてユダヤ性と結びついている。聖書にまさにこのユダ
ヤ性の提示である。ダビデなんかは自分の罪のことは隠して置いて
ほしかったであろうが。

 ローマ書に関してのことを書くことを頼まれて、このところ多少
ローマ書とにらめっこをしている。パウロのユダヤ性を意識的にみ
ていくと、ローマの教会にユダヤ人クリスチャンがいて、その人た
ちのことを念頭に置いて書いているのが分かる。さらに、律法との
対比、アブラハムの信仰の意味、ダビデの子孫の位置づけ、アダム
とキリストの対比がより浮かび上がってくる。しかし現実には、そ
んなパウロのユダヤ性を忘れて、ギリシャ的なイデア、ロゴス中
心、概念化、体系化のもとでローマ書を読んできたように思う。そ
う読んで、そのような体系化のもとでローマ書の神髄を捉えること
が聖書研究のように思ってきた。

定着して守りに入らない現在進行形、概念化を外して彷徨いつつ真
理を探究し続ける姿勢、きれいな神学理解で自分を覆ってしまうの
ではなく隠すものがない強み、そんなユダヤ性に沿ってしばらく
ローマを読んでみたい。

上沼昌雄記

「父親探し・父親殺し」2010年6月14日(月)

 今回の秋田での奉仕の間、一度ミニストリーのこととして関西方 
面での奉仕が許された。夫婦で出かけることができた。その帰り
に、拙書『父よ、父たちよ』でご自分の父親のことを書いて構いま
せんと言うことでその文面をそのまま紹介した方と、東京駅前の新
丸の内ビルの隣にあるディーン&デルーカというニューヨーク発の
カフェでお会いした。この方のことはこの10年以上妻にはよ
く話していて、何とか紹介したいと思っていた。宣教師であった妻
の一番下の妹夫婦を通して信仰を持った方でもある。ご自分の健康
のこともありながら妻の体調のことを心配してくださった。妻もこ
の方が健康上のことがありながら顔を輝かせていたことに驚いていた。

 当然会話は村上春樹の『1Q84』にもなった。妻にはこの方
が若いときに村上春樹の経営していたジャズ喫茶の常連であったこ
とは話していた。その会話のなかでとても示唆的なものがあった。
すなわち、この『1Q84』は中上健次の小説ように難解で、あ
の『海辺のカフカ』で虜になった村上春樹ファンを引き離してし
まったと言う。その証拠に誰も何もこの『1Q84』に関しても
のが言えなくなってしまったと言うのである。そのものが言えない
ほどの小説であることは納得できるが、中上健次のようであるとい
うことが心に引っかかった。

 あの泥臭いというか、肉体が文章を書いているような中上健次は
気になっていたが取り上げることはなかった。しかし村上春樹と対
になって出てきたので興味をそそられた。村上春樹もジョギングを
したりして体育会系なところもあるが、泥臭さはない。しかしとも
に戦後生まれの小説家ではある。ともかくこの際と思って、秋田で
の滞在期間も限られてきたなかで駅の向こうになるジュンク堂で何
冊か文庫本を手に入れて持って帰ってきた。行きつけのブックオフ
では一冊も置いてなかった。最上川沿いで知り合った農業をしなが
ら小説を書いている方が、中上健次はいやだ、自分も同じような生
活をしているからだと言われたのを思い出す。

 短編集から読み始めて、芥川賞受賞作である『岬』にきて、その
続きの『枯木灘』を時差ぼけと闘いながら一気に読んだ。むしろ読
まされたと言っていい。よく台風の上陸のニュースで聞いていた潮
岬、その紀州の山が降りてきて岩場だらけの枯木灘、その猫の額の
ような狭い土地で何代も生き続けてきた何とも複雑な家族のなか
で、避けられない自分とは何かという問い、その問いがそのまま自
分の父親は誰かという問いになっている。その家族の複雑さは説明
しがたいほどである。そのなかで自分の肉体の半分である父親を捜
し求める。同じ町に住んでいるので誰であるかは分かっている。大
男である。自分もそうである。その男の血を継いでいる自分の存在
に脅える。自分のアイデンティティーを、父親を見つめることで突
き止めようとする。

 『父よ、父たちよ』で同じように父親を捜し求めたアメリカの作
家としてポール・オースターの『孤独の発明』を紹介した。父は、
いても自分があたかもいなかったのかのように生きてきた。父はい
ても父の不在である。その父親探しである。中上健次も父は同じ町
にいても一度も一緒に住んだこともない。ただ種だけいただいた。
それが恐れであった。その父親探しである。ポール・オースターと
中上健次は戦後生まれの同世代人である。

 ポール・オースタートは父親の死を通して父親探しを始める。中
上健次は父親探しを父親殺しで終わらせようとする。自分のうちに
流れている父親の悪を断ち切ることで父親から解放されることを願
う。それは腹違いの弟を殺すことで実現する。少なくともそのよう
に思う。どちらにしても父親探しは父からの解放である。自分のな
かで父親を受け止め、整理をし、埋葬することで解放されるのであ
る。それは苦渋をともなうものである。

 そんなあがきを中上健次は故郷の熊野を舞台に執拗なまでに展開
している。それは紀州でも、自分の生まれ故郷の上州でも、父の生
まれ故郷の伊那谷でも、最上川でも、秋田でも、ポール・オース
タートのニューヨークでも、戻ってきて礼拝に出席した山の上の小
さな町であるフォレストヒルでも同じである。父の咎はその地に深
く埋もれ隠されている。その呪いは皮膚の後ろに隠されている。誰
もが父への怒りを爆弾のように抱えて生きている。

 この図体の大きい男の子とは、そのまま中上健次の姿を想像させ
る。土方仕事の現場監督である。心は闇と呪いで満ちていながら、
土方仕事で体を駆使し、汗にまみえ、そのまま土に同化してしまい
そうである。その彼を取り囲む自然、風も、河も、空も、木々も、
暗い心とは対照的に明るく輝いている。何とも印象的な描写である。

 その柔道もしていたであろうと思われる大きな図体の男性は、そ
のまま村上春樹の『1Q84』の天吾という男性を思い出させ
る。彼も体が大きく柔道をしていた。そしてまさに父親探しをして
いる。ブック3の前半では彼は意識を失った父親にただ話しかけて
いる。そんな場面を村上春樹はそれがどうしても必要であるかのよ
うに展開している。その必然性は村上春樹のなかにもあったのであ
ろう。それは避けられないことでありながら、取り扱うことの難し
いことである。父親のことは底知れない闇の奥のことだからであ
る。友が言うように、村上春樹は『1Q84』でこの難しさに臨
んでいるのであろうか。そしてそれはすでに中上健次が直面してき
たことだと言うのであろうか。

 「父の日」を迎えるに当たってこの難しさにたじろぎ、思い巡ら
され、納得させられている。入ってしまったら抜け出すことのでき
ない泥沼だからである。ただ表面的に繕って通り過ぎたい。それで
もそのうずきは心の底に溜まったままである。怒りは溢れ出ないよ
うに抑えられているだけである。

 5月の終わりに宇治の黙想の家で10名の牧師たちとこ
の難しいことを避けないで取り上げることができた。少なくともそ
のように試みた。

上沼昌雄記




「合い言葉—月がふたつ」2010年6月7日(月)

 今回の秋田滞在の間に村上春樹の『1Q84』のBook3が
出た。ちょうどのその発売日には旅行で出かけていたのであるが、
石川さんの奥様が知り合いの方を通して取り寄せてくださり、届け
てくださった。階段に置かれていたこの本が何かを呼びかけている
ようであった。週末にぶつかってエレミヤ書の学びと説教の準備を
しながら盗み読みをした。そんな楽しい記憶がよみがえってくる。

 この方が村上春樹の本を読むことになるとは想像していなかった
のであるが、数年前から読み出して、このBook3もアマゾンで
取り寄せて発売日に届けられたという方を、4月後半にお訪ね
した。まだ読み終わっていないが、あの月がふたつあることがどの
ようになるのか気になると言う。そして一緒に食事をしているとき
に聞き覚えのある音楽が流れてきた。「あれでしょう」と言ったら
にっこりと笑われた。ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」である。
『1Q84』の最初に主人公が1984年から1Q84の世
界に入っていく時の音楽である。そのCDを買って聞いている
ことが分かった。そんなお互いの入れ込みが分かっておかしかった。

 そして先週初めに伺っても、月がふたつある現実を想像しながら
楽しそうに話してくる。あたかも、月がひとつの世界からふたつの
世界に自分も移されたような感覚で語ってくる。月はひとつだけだ
という、分かり切った、誰にでも一見当然な世界ではなくて、月が
ふたつでもおかしくない世界に恵みによって生かされている。そん
な広がりと高みを楽しんでいるようである。身の回りにおかしなこ
とが起こっていても、現実に思いがけない恵みのなかで生かされて
いるのであるが、それは月がふたつだからだと言う。月がふたつの
世界だったら何が起こってもおかしくないという、開かれた態度である。

 この方は数年前に意を決して、今までのクリニックを譲って、ネ
パールでの医療活動に従事してきた。その経験がなかったら月がふ
たつというのは分からなかったと言う。そんな冒険をしなかったら
月はひとつのままであると言う。思いがけないこと、思いもよらな
いことを経験することで、次の新しい道が開かれている。思い出せば
『1Q84』が最初に出てから、月がふたつと口癖のように言っ
ていた。そんな世界を経験されてこられた。

 それ以来、月がふたつというのが合い言葉のようになった。月が
ひとつという分かり切った世界に信仰も閉じこめられて、身動きも
取れない状態で苦しんでしまうことを身近に感じさせられる。本来
月がふたつでもおかしくない恵みの世界を、道理と理屈と論理で分
かり切った世界に閉じこめようとする。それで納得し、解決しよう
とする。しかし同時に行き詰まってきている。だから月がふたつで
もおかしくないと村上春樹は叫び、多くの人はそのように受け止め
ている。信仰者がどういう訳か月がひとつと言い張ろうとしている。

 Book3の最後は月がひとつの世界に戻る。しかしこの方はそ
こからまた別の世界に入りそうだと言う。確かにそんなことを予感
させながら終わっている。その別な世界でまだ解決されないといけ
ないことが取り扱われるかのようである。次にはどんな合い言葉が
出てくるのか楽しみである。

上沼昌雄記

「雪、菜の花、桜、りんごの花、そして新緑」2010年6月1 日(火)

 3月の末に秋田に入りました。その時はまだ毎日のように雪
が散っていました。もちろん毎日ではなかったのですが、印象とし
ては毎日のようでした。日本海からの風に吹かれて横降りの時もあ
りました。それでも日本のどこかでの桜の開花のニュースが流れて
いました。秋田に到着するのが待ち遠しくなりました。少し温かく
なったかと思うとまだ逆戻りの繰り返しです。

 4月はまさにそんな繰り返しでした。寒さを覚えるなか訪ね
てきてくれた方と町の温泉につかりました。市内でしかも良質の温
泉でゆっくりと体を温めることが出来ました。至福な一時です。
帰ってくれば暖房をたき続ける日々でした。桜の開花は東京を通り
過ぎて福島まで来ているのに、山を越えて北上してきません。ワシ
ントンから次女の泉が訪ねてきて、角館に行きました。いつもです
とその時には樹齢400年の桜が咲いているのですが、まだ寒さを
覚えるときでした。観光客は予定通り、予約通り来ていました。

 5月の連休に合わせるようにようやく桜が咲き出しました。それ
でもまだ肌寒い日となりました。石川さんご夫妻が誘ってくださっ
て、八郎潟の干拓地の17キロにわたる菜の花ロードに行きまし
た。目を見張るような桜と菜の花のコントラストが延々と続きま
す。見応えのなる花見です。そして半ば頃に今度はりんごの花を見
に行きましょうというので、内陸の横手、十文字のリンゴ畑に行き
ました。花見は人混みを避けながらですが、りんごの花見は私たち
だけでした。秋には真っ赤なりんごの実を結ぶのにふさわしい花の
なかで戯れました。それでも雨が降ったりして肌寒い日が戻ってきます。

 5月の後半に大阪での奉仕があったのですが、土曜日から日曜日
には荒らしのような雨が降り続きました。それが終わって秋田に夜
戻ってきても小雨が降っていました。しかしそれが最後のお湿りの
ように、晴れ上がってきました。そこに展開されたのは眼に映える
新緑です。田植えを終わった水田に映し出される緑の競演です。淡
い緑と秋田杉の深緑の連続です。そこに山藤が何とも上手に顔を出
しているのです。創造のわざの見事な演出です。

 6月8日に秋田を発ってカリフォルニアに帰ることになっていま
す。その前に山形市でのVIPでの奉仕で最上川の隠れ家に来て
います。秋田で見るよりも丸みを帯びたあの鳥海山を遠くに見据え
て、この最上川の両面も新緑に映えています。サクランボはいつも
より遅くなるようですが、その木々は葉をいっぱい付けて、おいし
そうな実をならせようとしています。美しい日本の季節の移り変わ
りを心に刻んでいます。この2ヶ月半の奉仕をしるしていてくれる
ようです。

上沼昌雄記