ホロコーストのあとに文学、哲学、社会学においてよみがえってき
ていることに気づかされる。あるいはユダヤ人の視点に関心を持っ
てきたので、より気になっているのかも知れない。どちらにして
も、大げさな言い方かも知らないが、西洋の行き詰まりを打ち破る
視点として真剣に取り上げられている。ホロコーストは西洋の行き
詰まりであったからである。
中上健次の『熊野集』という熊野にまつわる短編集のなかでその
ユダヤ性について論じているので驚いた。あの熊野とユダヤ性がど
う関わるのだろうか。レヴィ・ストロースのことを取り上げながら
彼のうちにあるユダヤ性に言及している。そして回り回って、それ
は自分のユダヤ性を考える手だてのような言い方をしている。確か
に「レヴィ・ストロース」はまさにあのレビである。「レヴィナ
ス」のレビもそうである。そして確かに、レヴィ・ストロースの視
点は西洋中心主義を打ち破るものとして受け止められている。レ
ヴィナスはそれを哲学のテーマとした。
このことを村上春樹の関わりで中上健次を言ってくれた友にメー
ルで書き送った。この友もレヴィ・ストロースのことに注目をして
いる。次のように返事をくれた。「要するにストロースは死ぬまで
守りに入らない現在進行形であったのです。彷徨えるユダヤ人とし
ての本質をきちんとふまえた上で全ての著書を書いてきた事は異例
だし驚異です。隠すものがない強み的なものに中上健次は共感して
自身のユダヤ性を垣間みたのでしょう。ジャベスの言葉通り「人間
はすべてユダヤ人である。」事をストロースから感じ取った中上は
自身を辛辣に導いたのだと感じます。そしてストロースの思想の影
響は過大に浸透してます。」
守りに入らない現代進行形に対して、守りに入っている聖書理解
と神学、彷徨えるユダヤ人に対して、壁を築き、要塞を建てて定着
して自分たちの生き方を堅く守る近代人と教会、隠すことがない強
み的なものに対して、きれいな神学で上手に覆い隠している脆さ、
という対比が成り立ちそうである。ともかく中上健次のものを読ん
でいると、小説であっても、結局自分のこと、自分の家族のこと、
自分の故郷のことを書いていることが分かる。そしてアメリカに旅
をし、韓国に何かを求め、故郷熊野に、彷徨いつつ何かを探してい
る。そんな隠せないというか、隠さない彷徨えるものの強さがあ
る。それは確かに、自分たちの罪と悲劇の歴史を隠せないで、さら
い彷徨い続けてユダヤ性と結びついている。聖書にまさにこのユダ
ヤ性の提示である。ダビデなんかは自分の罪のことは隠して置いて
ほしかったであろうが。
ローマ書に関してのことを書くことを頼まれて、このところ多少
ローマ書とにらめっこをしている。パウロのユダヤ性を意識的にみ
ていくと、ローマの教会にユダヤ人クリスチャンがいて、その人た
ちのことを念頭に置いて書いているのが分かる。さらに、律法との
対比、アブラハムの信仰の意味、ダビデの子孫の位置づけ、アダム
とキリストの対比がより浮かび上がってくる。しかし現実には、そ
んなパウロのユダヤ性を忘れて、ギリシャ的なイデア、ロゴス中
心、概念化、体系化のもとでローマ書を読んできたように思う。そ
う読んで、そのような体系化のもとでローマ書の神髄を捉えること
が聖書研究のように思ってきた。
定着して守りに入らない現在進行形、概念化を外して彷徨いつつ真
理を探究し続ける姿勢、きれいな神学理解で自分を覆ってしまうの
ではなく隠すものがない強み、そんなユダヤ性に沿ってしばらく
ローマを読んでみたい。
上沼昌雄記