「ペテロにとっての信/信仰は、、、」2021年5月14日(金)

 ヨシュア記が終わって、使徒言行録を読み出しました。協会共同訳を使っていましたのでこの「使徒言行録」の表記はそれなりに正鵠なのだろうと思います。3章でペテロが、足の不自由が男を「ナザレの人イエス・キリストの名によって」いやした出来事の続きで、民衆が驚いて「ソロモンの回廊」に駆け寄ってきたときに、そのペテロが説教をした場面です。

 ペテロの説教は歴史を踏まえた見事なものだと妻とも納得しました。それでも妻はNew American Standard版で読んでいたのですが、3章16節は日本語訳でどのようになっているのかと質問をしてきました。不明かところがあると良くそのように聞いてくるのです。それだけでなく、感動的な文章でも同じように日本語の訳を確認するのです。

 実はその3章16節の協会共同訳の表現も不明瞭であると言うことで、この際と思ってギリシャ語テキストで確認いたしました。すでに妻とも「信の哲学」によるローマ書3章22節の「イエス・キリストの信を介して」の訳の重要性を話し合っていましたので、この箇所がどのようになっているのか興味を注がれました。すなわち、この男はその名を信じる信仰によって癒やされたのか、その名そのものによって癒やされたのかという微妙なところをペテロが気をつけて書いていることが分かったからです。

 その時点で分かったことは、その名を信じる信仰を基にしているのですが、いやしたのは彼の信仰によるのではなくて、イエス・キリストの名がいやしたことを、ペテロが誤ることなく語っていることでした。それが16節の前半なのですが、後半でそのイエスを通しての信仰がとまとめるように繰り返していることが分かります。ペテロが気をつけてこの文章を書いていることに妻ともに納得したのですが、持ち合わせの日英訳では捉えきれないでいました。

 その日も結構いろいろなことがあって真夜中近くになっていましたので、そのまま休み、次の日にいくつかの訳をギリシャ語テキストと参照しながら、前日二人で確認した理解を再確認しました。結論的には新改訳2017の訳の最初の文章を入れ替えて、多少言い方を変えると明確になるのかなと思わされています。すなわち「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに」を、「その名を信じる信仰にもとづいて、そのイエスの名自体が」ととることができるようです。ギリシャ語のテキストもその順になっています。英語訳でも「そのイエスの名自体が」を his name itself とか his very name と表現しているものがあります。

 後半も新改訳2017は「イエスによって与えられる信仰が」と訳していますが、文字通りには「イエスを介してのものである信仰」ととれそうです。もちろんペテロの説教をルカが記しているのですが、それでもペテロが気をつけて表現している言い回しに沿っていることを示しています。ご存じのようにペテロはパウロの文章は難しいと憚ることなく言っているのですが、この時点でのペテロの心と理性は聖霊によって導かれて、神の真理とイエスのなされたことを見誤ることなく表現しています。それほどまでにペテロもパウロもイエスの福音には、細心の注意を払っているよう思うのですが、如何でしょうか。

 上沼昌雄記

「神の義と愛のあえるところ」2021年5月11日(火)

 今朝大阪の知り合いの牧師から、お父様が4月の終わりに召され、葬儀をされたことのメールをいただきました。17年前に信仰告白をされ、洗礼を授け、葬儀の司式もされたことの経緯を記してくださいました。そのお父様の信仰告白の契機が、レビ記の畑の隅々にま刈り取りをしては行けないという教えで、それから集会に来るようになったというのです。受洗の証しもそのことが中心であったので、牧師として躊躇もされたようですが、役員の人たちが承認されたので洗礼を授けられたというのです。葬儀ではその告白をもう一度読んで臨まれたようですが、お父様に導かれるように話すことができたと言うことです。

 この「レビ記の畑の隅々にま刈り取りをしては行けない」という記述で信仰を導かれたことの説明に接して、それはまさに神の律法に神の愛をしっかりと感じ取られたからなのだろうと推測しました。妻と申命記を読んでいたときにも同じ記述があり、さらに在留異国人、寡婦と孤児に対する深い配慮がなされていることを知り、それこそ神の厳しい律法に隠された神の豊かな愛の現れを確認をしたのです。モーセの律法にはさらに、7年目の負債免除のこと、逃れの町のことにまで触れています。

 救い主であるイエスが地上での律法学者とのやり取りで、この律法と愛のことに触れています。ルカの記述は興味深いです。「永遠のいのち」のことで律法学者がイエスを試みるのです。律法には何と書いてあるか、あなたはどのように読んでいるのかと、イエスは逆に問うのです。そして律法学者自身が憚ることなく、神を愛することと、隣人を愛することを語るのです。イエスは「あなたの答えは正しい、それを実行しなさい、そうすれば、いのちを得ます」(ルカ10:29)と言います。それを逃れるために律法学者が「隣人とは」と話をそらすのです。善きサマリア人の話は傍系です。

 「信の哲学」を提唱されている千葉惠先生は、登戸学寮の日曜聖書講座で山上の説教を取り上げ、イエスの地上のでことば(ロゴス)と行い(エルゴン)に福音の力をさらに確認され、すでに提示されている信と愛、義と愛の総合を一つのまとめとして方向付けています。イエスは「この人が多くの罪を赦されたのは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:47)とまで言われます。パウロもイエスの言葉に沿うように言います。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。、、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13:8,10)

 千葉先生が今までの研究を77か条の提題としてまとめられたものの最新版を最近送ってくださり、その65条でも「正義と愛の両立」として方向付けています。その方向付けもローマ書3章21節-31節の分析から出ていることが分かります。22節の「イエス・キリストの信を介して」が、25節で「現臨の座(贖いの座)」として受け止められ、27節で「信の律法」としての役割を担い、31節でモーセの「律法を確認する」ことになっていることを明確にしています。

 そのつながりを思い巡らしているときに、友人の牧師からお父様の信仰告白が「レビ記の畑の隅々にま刈り取りをしては行けないという」教えに基づいていることを知らされ、イエスご自身が、その畑の落ち穂拾いをしたルツからのダビデの家系であり、神の義と愛を十字架で全うされたことに結びつき、賛美歌262番の「十字架のもとぞ、いとやすけき、神の義と愛のあえるところ」が浮かんできました。人間的には必ずしも義と愛は結びつかないことがあるのですが、イエスの十字架はそれを実現されたのです。友人のお父様もレビ記の教えからその十字架に導かれたのだと思います。

 上沼昌雄記

「朝に、主の慈愛を、夜ごとに、主の真実を」2021年5月6日(木)

 妻と申命記からヨシュア記と読んでいるのですが、多少の息抜きのように、詩篇90篇を読みました。神の人モーセの詩篇と言われていましたので、関心を持って続いて92篇まで読みました。91篇では「全能者の陰に宿る」と歌われ、92篇では「朝に、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことを告げ知らせることは」と歌われていました。

 一年ほど前にシカゴ郊外の子供たちのところいたときに新型コロナの感染が出てきました。様子を見て5月半ばに家に戻ってきてから、一年近く巣ごもりの生活をしています。旅に出ることも、家族にも人にも会いに出ることがなくなりました。一週間分の買い物をスーパーで済ませて、気をつけて家と敷地内を中心に生活をしています。時々は散歩にも出ます。

 朝にコーヒーを作りながら台所の窓から外を眺め、夕方には妻の料理作りを助けながら同じように台所の窓から外を眺めます。その自然は確実に一年の変化を遂げています。それは変わらないのですが、この一年のアメリカの社会事情というか、政治風評には心が暗くなります。随分いやしい国になってしまったようです。この国と教会の行き先が心配です。

 同時に家にいましたので、今までできなかった敷地内の枯れ木を取り除き、燃やす作業をいたしました。それは時には肉体の限界への挑戦でもありました。いつまでも同じことを続けることはできないと分かります。モーセが約束の地を眺めながらも入れなかったことも、ヨシュアが神の地を占領することで歳をとったことも現実のことと響いてきます。それが人生なのです。

 朝にコヒーを作りながら、神の慈愛(ヘセド)を、詩篇の歌に合わせて思い起こすことをします。これからの身の回りのことも、この社会も世界もどのようになるのか分からないのですが、神のsteadfast loveは変わることがないことを自分に言い聞かせます。そうることは「良いこと」「喜ばしいこと」と記されています。多少、神への希望が湧いてきます。

 幸い一日すべきことがあり、取り組んでいます。体調と天候に合わせて外での仕事もします。夕方には妻の料理作りに手を出しながら、一日を振り返り、確かに主の真実さ(faithfulness)を少しでも確認することができます。またこちらの不真実のゆえに、主の真実さの前に頭を垂れることになります。その真実さに思いを向け、そのように生きたいと自分に言い聞かせます。そのことを「告げること」は良いことと記されています。そして、新しい希望が湧いてきます。

 それでもその思いは自然に湧いて来ません。そのままでは心が暗くなり、何とか自分で心を奮い立たせることに腐心します。それで思いが堂々巡りを始めます。そのようなときに意識的に、朝には神の慈愛を、夜ごとには神の真実を自分自身に告げることにします。そうすると希望が少しでも湧いてきます。それは、心の深いところで、多分魂の奥底で、朝には神の慈愛を思い起こし、夜ごとには神の真実を思い巡らすことは「良いこと」だと認めているからなのだと思います。

 上沼昌雄記