ヨシュア記が終わって、使徒言行録を読み出しました。協会共同訳を使っていましたのでこの「使徒言行録」の表記はそれなりに正鵠なのだろうと思います。3章でペテロが、足の不自由が男を「ナザレの人イエス・キリストの名によって」いやした出来事の続きで、民衆が驚いて「ソロモンの回廊」に駆け寄ってきたときに、そのペテロが説教をした場面です。
ペテロの説教は歴史を踏まえた見事なものだと妻とも納得しました。それでも妻はNew American Standard版で読んでいたのですが、3章16節は日本語訳でどのようになっているのかと質問をしてきました。不明かところがあると良くそのように聞いてくるのです。それだけでなく、感動的な文章でも同じように日本語の訳を確認するのです。
実はその3章16節の協会共同訳の表現も不明瞭であると言うことで、この際と思ってギリシャ語テキストで確認いたしました。すでに妻とも「信の哲学」によるローマ書3章22節の「イエス・キリストの信を介して」の訳の重要性を話し合っていましたので、この箇所がどのようになっているのか興味を注がれました。すなわち、この男はその名を信じる信仰によって癒やされたのか、その名そのものによって癒やされたのかという微妙なところをペテロが気をつけて書いていることが分かったからです。
その時点で分かったことは、その名を信じる信仰を基にしているのですが、いやしたのは彼の信仰によるのではなくて、イエス・キリストの名がいやしたことを、ペテロが誤ることなく語っていることでした。それが16節の前半なのですが、後半でそのイエスを通しての信仰がとまとめるように繰り返していることが分かります。ペテロが気をつけてこの文章を書いていることに妻ともに納得したのですが、持ち合わせの日英訳では捉えきれないでいました。
その日も結構いろいろなことがあって真夜中近くになっていましたので、そのまま休み、次の日にいくつかの訳をギリシャ語テキストと参照しながら、前日二人で確認した理解を再確認しました。結論的には新改訳2017の訳の最初の文章を入れ替えて、多少言い方を変えると明確になるのかなと思わされています。すなわち「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに」を、「その名を信じる信仰にもとづいて、そのイエスの名自体が」ととることができるようです。ギリシャ語のテキストもその順になっています。英語訳でも「そのイエスの名自体が」を his name itself とか his very name と表現しているものがあります。
後半も新改訳2017は「イエスによって与えられる信仰が」と訳していますが、文字通りには「イエスを介してのものである信仰」ととれそうです。もちろんペテロの説教をルカが記しているのですが、それでもペテロが気をつけて表現している言い回しに沿っていることを示しています。ご存じのようにペテロはパウロの文章は難しいと憚ることなく言っているのですが、この時点でのペテロの心と理性は聖霊によって導かれて、神の真理とイエスのなされたことを見誤ることなく表現しています。それほどまでにペテロもパウロもイエスの福音には、細心の注意を払っているよう思うのですが、如何でしょうか。
上沼昌雄記