「巡礼の年?!」2013年12月27日(金)

 取りかかっている翻訳の最終原稿をまとめながら、今年春に出た村上春樹の 
『色彩を持たない多﨑つくると、彼の巡礼の年』を拾い読みしました。自分の文 
書を読んでいるとだんだん堂々巡りをしてきます。それで誰かの文章で頭の切り 
替えをと思って、手の届くところにあったのと、個人的にというか、むしろ勝手 
に、この小説家の文章を手本としてきたところがあって、ページをめくりまし 
た。

 何度か読んでいるので小説の流れは分かっています。それで、まとまった情景 
で、真剣なやり取りがなされている箇所をと思って、主人公がヘルシンキに16年 
ぶりに高校の時の仲間のひとりの女性に、アポも取らないで会いにいく場面を選 
びました。すでにフィンランド人と結婚をして、陶芸を生業としている家族のサ 
マーハウスを訪ねるのですが、そんな行ったところもない森の情景の描写は、 
木々と森と湖が浮かび上がってくるようです。

 16年前に起こったことで、主人公は半年間、死を思い詰めることになりまし 
た。そこから辛うじて脱出するのですが、それは記憶をそれなりに隠すことで、 
生き延びた道に過ぎないのです。そこには消すことのできない歴史が漂っていま 
す。重石のようにつきまとい、心を圧迫します。その過去をそのままにしておく 
と自分が死んだままであると気づき、あるいは気づかされて、5人の仲間を訪ね 
る旅に出ます。その過去を辿る巡礼の旅の終わりがヘルシンキの森の中の湖畔の 
家です。

 続いてページを遡って、ふたりの男性に会いにいく、主人公の巡礼の旅の箇所 
だけを拾い読みしました。5人の仲間でしたから、後3人となるのですが、もうひ 
とりいた女性は実は殺されていて、それがこの仲間が負うことになった過去なの 
です。それで巡礼の旅の会話は当然、どうしてこの女性が死に追いやられたのか 
が中心に展開していきます。主人公もそれに深く関わっているようでいて、その 
事実をつい最近まで知ることがなかったのです。16年間封印されていた過去に残 
された4人の仲間が直面することになります。

 ヘルシンキの森の中でその女性は、殺された女性と、女性同士だから分かる世 
界を主人公に吐露します。微妙な心の世界です。死をももたらしかねないその心 
のズレです。男性としての主人公の思いつかない世界です。どうすることもでき 
なくとも、確実にもうひとりの女性を死に追いやってしまったことです。そこま 
で触れることで、ヘルシンキの森で同じように過去を抱えていたこの女性にも光 
が届いていきます。同じ傷と痛みを負う者同士が到着した世界です。そこに、リ 
ストのピアノ曲「巡礼の年」が登場します。聴いたことはないのですが、そのメ 
ロディーが森の奥から聞こえてきそうです。

 主人公を除いた4人の名前に、アカ、アオ、シロ、クロと色がついていて、主 
人公の名前には色がないということで疎外感を感じるという、この小説家一流の 
ユーモアがあります。それが表層を覆っていることで、一件軽そうなのですが、 
巡礼の旅はその奥に隠れた重い、そしておそらく灰色の世界なのです。そのアン 
バランスに怖じ惑わされます。自分のなかの巡礼の旅を、現実化されていなくて 
も、思い出されるからです。

 この主人公は36歳です。振り返ってみるに村上春樹の小説の主人公にはいまだ 
40歳を超えた人は登場していないようです。彼自身もすでに60歳代に達していま 
す。40歳から60歳にいたる間でも過去は生きています。年を取れば取るほど、訪 
ねることのできない、すなわち、当事者が亡くなって訪ねることのできない状況 
も起こります。その過去はそのまま留まっていて、澱んだ空気を人生に漂わせて 
いきます。どうしたらよいのかと、この小説を拾い読みしながら怖じ惑います。

 今年それに近い経験があったこと思い出します。友人の牧師が長年奉仕した教 
会を定年で退いて、次の教会に移りました。この5月にこの友人をその教会に訪 
ねました。50年近く前に一緒に学生として行っていた教会から、事情があって別 
れてできた教会です。出られた牧師が開拓してできた教会です。牧師室で話をし 
ながら、当然のようにそのことが話題になります。その牧師は早く召されたので 
すが、その事情を知っている人が教会にいるということです。

 教会に関わる務めをしている上で当然気になっていたことです。当事者の牧師 
先生はすでに召されてどうすることもできないのですが、50年近く前ですが、か 
たちとしてこの牧師を追い出すことになったことになった過去に、触れることに 
なりました。そのことを少しでも整理しておきたいと思って文章も書きました。 
しかし、友人との相談で公にしないことにしました。それでも書いたことで、す 
なわち、過去の歴史に触れることで、そこに漂っていた重い空気は多少柔らかく 
なったような気がします。そのままにはできない、そのままにしていないという 
張り紙を残すことが出来たように思います。

 とても巡礼の旅と言えるものではありません。それでも逆に、たとえ相手が召 
されていなくても、会うようなことはできなくても、ともかくヘルシンキまで訪 
ねていくようなことでなくても、何らかのかたちで巡礼の旅をすることで重荷か 
ら解かれます。年とともにその必要を強く感じます。避けられないという否定的 
なことより、避けない方を選び取りたいことです。36歳の小説の主人公の巡礼の 
年は、象徴的に私の巡礼の年でもあります。

上沼昌雄記

「受肉:この時空間での神の一大パノラマ」2013年12月16 日(月)

 御子の誕生、すなわち、キリストの受肉によって新約聖書が始 
まっています。エズラ・ネヘミヤ記で旧約聖書が終わっています。 
その間の約400年の中間時代があります。この中間時代にあま 
り注意を払ってきませんでした。この秋に札幌郊外の聖書学院で 
「聖書と哲学」というテーマで教える機会があって、気づいたこと 
があります。それはこの中間時代が、まさにあのギリシャ哲学の興 
隆の時期に重なっていることです。

 エズラによってエルサレムの神殿再建がなり、ネヘミヤによって 
城壁が修復されるのです。それでもって旧約聖書は終わって、そして約 
400年の沈黙というか、空白があって、御子の誕生で預言が成就した 
と捉えられています。その通りなのですが、その預言が成就される 
背後にギリシャ哲学がどのように意味をもってくるのか、どうでも 
いいのですが、それだけまたより興味をそそられます。

 ギリシャ哲学の祖と言われるソクラテスが、実は、エズラとネヘ 
ミヤの間にアテネで生まれています。そのあとプラトン、アリスト 
テレスと続いていきます。ギリシャ哲学というか、哲学そのものの 
基本的な問題と方向はこの3人の哲学者によって確立されまし 
た。ニーチェにしても、ハイデガーにしても、ギリシャ哲学が抱え 
ている問題点を指摘して、何とかソクラテス以前に戻ろうとしてい 
るのです。

 この中間時代に、ギリシャのアレキサンダー大王によってギリ 
シャ文化の影響がエルサレムにまで及びます。新約の時代はローマ 
帝国ですが、文化はギリシャ文化です。パウロのローマ書では、 
ローマ人ではなく、ギリシャ人が問題にされます。エルサレム、そ 
の上に小アジア、下にエジプト、その向こうにアテネ、さらにその 
向こうにローマと、地中海を中心に想像以上の文化と宗教の交流が 
なされています。エジプトのアレキサンドリアでは、ヘブル語聖書 
が、ギリシャ語に70人訳として紀元前2世紀に訳されて 
います。

 そしてそこに、ギリシャ哲学とユダヤ教の交流が深くなされてい 
ます。プラトンにイデアという、現象界を越えた一つの理念の世界 
を想定する考えがあります。それまでの自然界だけを見ていたソク 
ラテス以前の哲学に新しい方向を示します。しかし、その自然界を 
越えたイデアは、プラトンがユダヤ教の唯一神・創造神を知ること 
になって影響を受けたと言われています。アウグスティヌスも指摘 
していることです。

 しかしこのことで、ギリシャ哲学のふたつの世界観が明確になっ 
てきます。一つは、ソクラテス以前からあった、太陽や海を神とし 
て崇めていく汎神論です。もうひとつは、プラトンのイデアによっ 
て物質界を超えた世界を真実として、いわゆる、天と地、精神と物 
質、善と悪とを切り離していく二元論です。汎神論では、自然も物 
質も神の居場所で、悪の存在場所はありません。二元論では、非物 
質界、精神の世界だけが現実で、目に見える世界は悪になります。 
精神の世界に上昇するか、逃げることが哲学の修練になります。哲 
学は死の修練とも言われます。

 このようなふたつの世界観が支配的な地中海の右端のエルサレム 
の郊外のベツレヘムで、神の御子の誕生がなされたのです。約 
400年の中間時代は、そのような世界観が明確になることを待ってい 
たときとも言えます。人間が創造主なる神を知らないで、自然と自 
分の心を見つめていったときに考えつく世界観がこの世に明確にさ 
れるのを持って、神はキリストの受肉をなされたと言えそうです。 
キリストの受肉によって、汎神論でも二元論でもない、この時空に 
おける神の一大パノラマを、神が展開したのです。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ 
1:14)初めからあり、神とともにあり、神であることばが、 
「肉となった」のです。神は神ですが、ただ天空彼方に存在してい 
るのでも、また逆に肉の中に存在しているのでもないのです。そこ 
には確かに区別があります。しかし、その区別も神のものではない 
かのように肉となることができるのです。ことばは肉の世界でない 
のですが、肉となることができたのです。この肉の世界も悪の世界 
ではなく、創造の作品です。だからといって目に見える世界に閉じ 
込められているのでもありません。

 神にとって、天と地は、二元論のように完全に区別されて全く交 
流のないものでも、汎神論のように全く同一視されてしまうもので 
もありません。明確な区別がありながら、天と地は重なり合い、交 
わるのです。神にとっては全く問題のないことです。受肉はそのし 
るしであり、しかもその頂点とも言えます。すなわち、汎神論と二 
元論が支配的な当時の世界に、神が示した新しい世界観なのです。 
あたかもギリシャ的な世界観と、聖書の世界観の違いが明確にされ 
るのを、神自身が定めていたかのようです。

 当然そこに衝突と闘いがあります。パウロから始まって、初代教 
会が直面することです。そして、その後の教会の歩みとなります。 
その歩みの中で、ギリシャ哲学が取り入れられていく面がありま 
す。しかし、キリストの受肉に関する限り、ギリシャ哲学が入る余 
地のないのです。むしろ、その違いが明確にされたのです。キリス 
トの受肉は、まさにエッポク・メイキングな出来事だったのです。

 「私たちの間に住まわれた。」それは、私たちの間に天幕を張る 
と言うことです。そうすると、そこにはギリシャ的な空間のことだ 
けでなく、ユダヤ的な時間の関わりもみることになります。出エジ 
プトの後に荒野で神とイスラエルの民が出会う場として天幕が、キ 
リストの受肉で再度実現したことになります。天と地の縦糸と、幕 
屋から続いている横糸がキリストの受肉で間違うことなく交差して 
います。そんなことがベツレヘムで起こったのです。

 そうだとすると、神はいつでもどこでも、この時空間に介入して 
くることができることになります。それを保証するものとして聖霊 
が働いています。そして、聖霊によって私たちも神のわざに組み込 
まれていることを知るのです。そうすると、キリストの受肉は、こ 
の時空間の神の一大パノラマだけでなく、私たちも紛れもなく、そ 
のなかに組み込まれているしるしになります。キリストの受肉のゆ 
えに、この時空間の神の一大パノラマに、この時、この場で、組み 
込まれています。とんでもない世界に生きているのです。

上沼昌雄記

「夢・男性集会」2013年12月9日(月)

 過ぎる金曜日の夜に20センチほど雪が降りました。時々雪 
が降るのですが、いつもですとカリフォルニアの太陽が出てきて、 
すぐに溶けてしまいます。しかし今回は、そのまま寒気が入ってき 
て、大地を覆った雪は凍り付いてしまいました。土曜の夜は零下 
8度まで下がりました。初めての経験でしたが、蛇口から水を少し出 
しっぱなしにして、凍結を防ぎました。日曜の朝には太陽が出てき 
て、氷と光の祭典を展開してくれました。

 山の教会は私たちより高いところにあり、傾斜地にあって危険な 
ことから土曜のうちに礼拝をキャンセルしました。私たちの住まい 
から公道に出るまでにも一箇所氷付いてしまう坂道があって、出ら 
れない状態です。昨日は、木々を覆っていいた雪が太陽に照らされ 
反射し、温められて落ちていく様子を眺めていました。充分暖を取 
ることができ、食料の蓄えもあり、感謝しながら一日を過ごしました。

 ゆっくり休むことができました。そのためでしょうか。朝方夢を 
見ました。男性集会の夢です。しかし、いきなり男性集会の夢では 
なくて、その前に女性たちが登場してきました。ある庭園のような 
ところで、女性たちが集っていて、それをこちらが眺めているので 
す。その園に咲く花に囲まれながら、その麗しさに感嘆している様 
子です。あたかも雅歌に出てくる園で何かを慕い求めている姿で 
す。そこには言葉はないのですが、主との親密な交わりを求めてい 
ることが分かります。それがそのまま夫との親密な交わりを求めて 
いることを伝えています。

 そのためには男性集会が必要だ、と心で叫んだら、男性たちに囲 
まれている場面になりました。知らない若い男性たちです。どこか 
で自分たちで男性集会を持っていて、その経験をうれしそうに語っ 
てくれています。何とも輝いています。自分よりはるかに年下の男 
性たちで、「そうだ、そうだ」と叫んでいます。どうもまだ独身の 
ようで、先の女性たちのご主人たちでもなさそうです。あたかもそ 
のようなご主人たちに、自分たちの見本になるように頑張ってくれ 
と、訴えているようです。

 この5月に仙台で土曜日に一日男性集会を持ちました。5月 
29日付のウイークリー瞑想で書きました。その牧師から、男性たち 
の願いもあって12月に男性集会を持つという連絡を、11 
月の終わりにいただきました。そのことをうれしく思い、祈ってい 
ますと返事をしました。そのことがあって夢に出てきたのでしょう 
か。若い男性たちに訴えられて目が覚めました。まだ暗いうちでし 
たので、床の中で男性集会のことを思い巡らしていました。

 10月の終わりに名古屋郊外の教会で礼拝後、男性セミナー 
と言うことで集会を持ちました。礼拝で報告するので、どのような 
タイトルにしますかとその牧師に聞かれたので、仙台の男性集会の 
分かち合いでした「自分の罪の歴史」と伝えました。その牧師は、 
それでは恐れをなして来なくなる男性がいるかも知れないと言うこ 
とで「自分の歴史」として案内してくれました。25名ほどの 
男性が、女性がひとりもいなくなった会堂に集いました。

 礼拝の聖書箇所であったローマ書8章の初めを再度確認し 
て、結局は「自分の罪の歴史」を語っていただくことになりまし 
た。仙台では導かれて左側から行ったのですが、名古屋では雰囲気 
として右側から行くことになりました。そこの牧師が2番目に 
立ち上がってご自分の家庭のことを話してくれました。個人的には 
聞いていたのですが、皆の前で隠すことなく語られたので、その場 
に解放感が広がりました。御霊の自由です。

 その右側の列には、この春に神学校を卒業して伝道師と来られた 
若い牧師と、さらに牧会を一時離れて待機している3名の牧師 
がいました。それぞれ自分の思いと状況を語ってくれました。その 
ような人たちを受け入れるだけの豊かさと自由が教会の交わりにあ 
ります。まだ礼拝2回目という男性も自分の仏教体験を語って 
くれました。予定より30分超過したのですが、それぞれの罪 
の歴史を分かち合いました。そこで出てきたことはいっさい外に出 
さないで互いの祈りとしていくことを確認しました。

 その集会を終えて下に降りていったら、ある女性が「男性集会の 
後は、男性たちはみな晴れ晴れとしていますね」と言ってくれまし 
た。突然言われたので、そのことに返事をすることもできず失礼を 
してしまいました。こちらの思いを代弁してくれたのです。来られ 
たばかりの若い牧師も「日本の教会にとって男性たちがあそこまで 
胸の内を打ち明けることは非常に稀なこと」と後で伝えてくれました。

 男性集会、それは夢です。男性集会の効果は、と考えないで、た 
だやり続けることで神が働いてくれることを期待する夢です。男性 
集会は、ただ集うことに意味があります。その場をできるだけ提供 
できればと願います。今日まだ一日閉じ込められています。夢の続 
きを見たいものです。

上沼昌雄記