月別アーカイブ: 2017年12月
「肉の弱さと受肉」20017年12月18日(月)
「カズオ・イシグロという世界」2017年12月14日(木)
「家とは、、、」2017年12月5日(火)
12月1日付けのニューヨーク・タイズ紙の電子版で、日本での「孤独死」を取り上げていました。60年代の経済成長の中で政府の政策として建てられた都内の大きな団地に取り残された独り身の二人のご老人の生活を紹介しながら、写真入りでかなり克明に記載していました。妻の両親は多摩ニュータウンで伝道をしてきて結構の間実際に団地に住んでいましたので、その時の状況を思い起こしながら記事を読むことになりました。同じ階に住んでいても余り交流のないことを覚えています。
「孤独死」のことは、社会学的、経済的、政治的な課題を含んでいて、多面的に取り上げなければなりません。ただ記事を読んで、方向が違うように思えるのですが、「家とは」「家に住むとは」と言うことをレヴィナスが哲学のテーマとして取り上げていることを思い起こしました。そんなことを哲学として考えること自体が現今の人間が置かれている状況を語っているのかもしれません。というのは人が「家に住む」と言うことが、他所と遮断して自己の我執に生きる具体的な行為と見ているからです。その家がコンクリートで出来ていて、ドアも堅く締めて住む家であればあるほど、他者を閉め出し、自己の内に閉じこもることになるからです。
感謝祭に際してシカゴ郊外の長女宅に滞在し、続いて長男宅に滞在しているのですが、妻との習慣で近所を散歩することを心がけています。シカゴ郊外というよりも、まったの平原に出来上がっている千件以上の家が一つのコミュニティを作っている新興住宅街です。どの家もしっかりできていて、幾つも部屋もある大きな造りで、皆それなりに生活を楽しんでいるようです。フェンスもなく建物としては仲良く並んでいるのですが、同時にどことなく人を寄せ付けないものがあります。住んでいる人たちにはそのような思いはないのでしょうが、自分たちの領域が侵されることを暗黙の内に拒否しているようです。
レヴィナスがこのテーマを取り上げている背景には、ハイデガーの実存理解があります。「現存在」として捉えられる実存は、他者を視点に入れないで、私だけの存在を自分の気分を元に現象学的に分析しているだけで成り立っているのです。他者を上手に排除しています。それは自我の固執を助長することになり、現実的にはドイツ精神の高揚を促進することになり、ユダヤ人排除へと繋がったのです。そのユダヤ人哲学者としてのレヴィナスは、神のユダヤ人の選びがあっても、寡婦と孤児と在留異国人への配慮を命じていて、絶えず開かれた世界があることを指摘しています。それはイエスが隣人を愛することが律法の二番目に大切な戒めと認めていることに繋がります。取りも直さず、イエス自身が、閉じられた宮殿の奥ではなく、開かれた馬小屋で生まれているのです。
「自国第一主義」を掲げている国も、同じようになんとか他者を閉め出し、高いフェンスを建て、自分の内に堅く閉じこもろうとしています。その自我の固執自体が、レヴィナスは、戦争の武勲談を生み出すものと見ています。強い者勝ちの世界です。心配なのは、それでよいのだとこの地の多くのクリスチャンが思っていることです。それはホロコーストの前のドイツの教会が通ったところとなのです。教会が自分の内に閉じこもってしまっているのです。
信仰も希望も愛も、自分から出て行かなければなりません。出て行ったら出会う他者はどこにもいます。そして責任も出てきます。できることはわずかなことでも、引き受けていかなければなりません。家の外には、自分の世界の外には、神の愛を少しでも分け与える人が待っているからです。
上沼昌雄記