「美しく問う」2017年12月27日(水)

 この一年の総まとめの一つは、ただひたすらに千葉教授の『信の哲学』の原稿を読んだことと言えます。初稿原稿、最終原稿、そして初校のコピーと三段階で目を通すことができました。原稿の段階で800頁にも及ぶもので、最終的には1400頁の大著になるものです。編集作業も最終段階を迎えているようです。
 千葉教授は無教会の熱心な信徒で、心の篤い方ですが、アリストテレスを専門とされる哲学者です。篤い信仰の持ち主で、プラトンとアウグスティヌスを専門とされるとなると、私たちプロテスタントの世界ではそれなりに通用するのですが、アリストテレスの専門となると、さてどのようにと思わされます。特にカトリックの聖書とアリストテレスを統合したスコラ神学とどのように違うのかとの問いも出てきます。
 おそらくその違いは、スコラ神学はアリストテレスの哲学の結論を神学大系のために用いているのですが、千葉教授はアリストテレスの哲学の姿勢を、ローマ書のテキストの解明の手がかりとしている違いと言えそうです。採用しているのではなく、アリストテレスの哲学における存在の解明の仕方と、パウロの神の業の解明、具体的には神の義の「イエス・キリストのピスティス」を介しての啓示の解明の仕方に、共通性を見いだそうとしているのです。それは、副題で「使徒パウロはどこまで共約的か」と疑問符がついていることからも分かります。
 そのアリストテレスの哲学の姿勢を「美しくアポリア(行き詰まり)を提示する」ことと、『形而上学』3巻(哲学難問集)の1章から紹介しています。(岩波文庫では「難問(アポリア)に入ってよろしくこれを究明しておくこと」と訳されています。)人はアポリアに陥っている限り、足枷を架けられた状態で先に進むことができません。ただ「美しく問う」ことで、少しでもその足枷から脱却して思考の前進を期待できるからです。
 この姿勢をもって千葉教授はローマ書に対面しています。パウロは当時の共通語であるギリシャ語で誰にでも分かるように神の福音を提示しています。それで文字通りにテキストの意味論的分析を施すことで、すでに陥っているアポリアから少しでも抜け出せるとみています。言い方を変えると、ローマ書解釈はすでにいくつかのアポリアを抱えていて、いわゆる解釈学的循環から抜け出せないでいます。神の主権と人間の自由意志、律法と福音、罪の遺伝的理解、7章の「私」、霊肉二元論等に関して、すでにそれぞれの教派の理解が「密輸入」されていて、そこからくるアポリアに足枷を架けられた状態です。
 そのアポリアの提示と、それを「美しく問う」ことで導き出されたのが3章22節の「イエス・キリストのピスティス」です。従来通りの「イエス・キリストを信じる信仰」と訳すことで出てくるアポリアを丁寧に、美しく提示して、その代わりに「イエス・キリストの信実」ととることで開かれてくる可能性を美しく問うています。その手だとして意味論的分析を施します。それはまさにそこで使われている用語を丁寧にほどいていく作業と言えます。というのは、「イエス・キリストの信実」が、「神のピスティス・真実」と「私たちのピスティス・信仰」との媒体の役割をしていることが明らかになるからです。
 そしてこのことは、さらに「神の義」と「イエス・キリストの信実」の一致を結びつけ、神において「信義」が一つであることを「美しく問う」ことへ導きます。そしてさらに反転して、その神の「信義」にふさわしい私たちの「信義」のあり方へと展開していきます。すなわち、ピスティスは「信仰」であり「信実」であるので、私たち人間の基本的あり方、そして人格的徳をもたらすものとして提示されます。ピスティスを心の根源的なあり方として美しく提示すること、それがまさに「信の哲学」です。ピスティスのあり方が美しく提示されることで、まさに神の義が輝き、私たちの心の信実も浮び上がってきます。
 もしかすると、神学的な提示というのは「醜い」ものなのかも知れません。神学的な枠を聖書に「密輸入する」ことで、神の世界をこちら側に引き寄せてしまうためです。こちらの理解をそのまま神の意志のように語り、あたかもアポロアを自分が解いたように思い、それを認めない人を排除することになるからです。神学的理解はドグマになり、足枷となり、時には異端審問の道具にもなるのです。
 「美しく問う」こと、こんな言葉がこの『信の哲学』には紡がれています。そしてその通りにローマ書が解きほぐされています。神のことが当時の誰にでも提示されている通りに、いまの時に解きほぐされています。それは千葉教授の専売特許でもありません。神のことばは誰にでも美しく差し出されています。その美しい神のことばが美しく提示されることで、私の心のねじれも解きほぐされていきます。美しくみことばを解き明かすすべを身に着けたいと願います。
 上沼昌雄記

「肉の弱さと受肉」20017年12月18日(月)

 この一年、まもなく出版予定の千葉教授の『信の哲学』の原稿を読む機会をいただきました。つまみ食いをしながら、忘れないようにとウイークリー瞑想で気づかされたことを27回にわたって書いてきました。中心的にはローマ書に関してです。意味論的分析で浮かび上がってくるパウロの議論の展開は目を見張るものです。
 その展開において、6章19節での「あなたがたにある肉の弱さのゆえに、わたしは人間的な言い方をしています」の「肉の弱さ」を千葉教授は何度も取り上げています。というのは、神と人とは「肉の弱さ」のゆえに隔てられるのですが、それにもかかわらず、神の義の啓示はその「肉の弱さ」を抱えている人間の言語を用いて伝達されている事実があるからです。認知的にも人格的にも十全な神の意志が、認知的にも人格的にも不十全な人間に伝わり、受け入れられる道を神自身が備えていることをローマ書が展開していると言うのです。
 7章ではその「肉の弱さ」のゆえに「私は、ほんとうにみじめな人間」と嘆くのですが、それでもその肉を持って生きているどこかでなお心が神に向いていく「内なる人」がいることをしっかりと捉えています。「私にうちに住む罪」の事実があっても、なお「私は内なる人として、神の律法を喜んでいる」(22節) 自分に驚くのです。「肉では罪の律法に仕えている」のですが、「心 (ヌース) では神の律法に仕えている」(25節) と言いうる部位が肉の中にあるので、嘆きがあるのですが、感謝もあるのです。
 この7章を中心とした千葉教授のパウロの心身論(霊肉論)の理解は、「肉の弱さ」を抱えている私たち人間がどのように神に関わり合えるのか、その接点はどこにあるのかを言語学的分析で解き明かしています。極端に神学的にも、また霊的にも、神秘的にも、心理分析的にもなる必要はないのです。パウロの語りをそのまま解き明かすことで明らかにされる世界です。当時の共通語であるギリシャ語で「未開人にも」「知識のない人にも」(1:14) 分かるように提示された世界です。
 認知的にも人格的にも十全な神と認知的にも人格的にも不十全な人間とが関わる時に、そこで起こることの一つが、8章での「御霊の執り成し」「御霊のうめき」です。神の側の配慮です。御霊が私たちのうちに宿るならば、肉の弱さを抱えていても、神のいのちで生きるのです。しかし、9-11節で条件文で書かれているので、起こらないこともあるのです。そのためには絶えず「心 (ヌース) の一新によって」自分を刷新していくことが、肉の弱さを抱えていても私たちの責任として求められます。人格的に不十全であっても、その責任を負うことで少しでも神の前に出ることが許されるのです。
 実はこの「御霊の執り成し」に至る手前でパウロは、認知的にも人格的にも十全な神と認知的にも人格的にも不十全な人間との橋渡しとして、御子の「受肉」を避けることのできないこととして取り上げています。3節で「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」と、大変注意深く提示しています。肉そのものが罪のように神学的に捉えられているのですが、「罪の肉」ではなく「罪深い肉と同じような形」と区別して表現しています。
 「ことばは肉となった。」(ヨハネ1:14)  受肉についての最も端的な表現です。ことばである神が、肉をまとったのではなく、まさに肉となったのです。その肉は神の創造における生物学な肉です。肉が初めから罪であるなら、御子は「罪の肉」になったことになります。似ているのですが違うのです。それでも「肉の弱さ」は負っています。さらに肉はいずれなくなります。「肉のからだ」から「霊のからだ」、すなわち「復活のからだ」に変えられからです。
 「肉の弱さ」とはまさに、認知的人格的不十全性のことです。罪に陥りやすく、自己中心にもなります。それでも認知的人格的十全な神はなおそのような人間に関わることを願っています。ご自身の義を人間の言葉で伝達することを選び、私たちが御霊の助けによって理解できるように仕向けてくれます。そして、そのような関わりのしるしであり証拠として、その「肉」になることをよしとされたのです。肉として私たちに間に住んでくださったのです。
 ローマ書は、認知的人格的十全な神の義の啓示であり、その啓示が認知的人格的不十全な人間の言葉で提示されていて、まさに「肉の弱さ」にある私たちがどのよう理解し受け止めるのかを、7章を中心に心身論として展開しています。その関わりが可能なのは、なんと言っても8章3節で提示されている御子の「受肉」があるからです。そのような「神の知恵と知識との富」の「底知れない深さ」(11:33) に驚いているパウロを、御子の降誕を覚えるこの時に身近に感じています。
 上沼昌雄記

「カズオ・イシグロという世界」2017年12月14日(木)

 村上春樹の関わりでカズオ・イシグロを知り、『浮世の画家』『日の名残り』『わたしを離さないで』(ハヤカワ文庫)を読んでいました。そのカズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞を受賞したことにそれなりに納得しています。読んだ三冊とも物語の設定は全く異なっているのですが、そこに流れるカズオ・イシグロという小説家の陰影を伴って浮かび上がってくる一つ世界を感じ取ることができ、それは結構なインパクトを持っていると思うからです。
 このカズオ・イシグロのことで日本のクリスチャン関係のメディアから原稿の依頼を受けたのですが、年内に終わらせたいプロジェクトがあって引き受けることができませんでした。ただ日本のクリスチャン関係でも関心を持っていることに逆に気になり、プロジェクトも一段落したので、上記の三冊を読み直しています。彼が日本人であり、ノーベル賞を受賞したことが純粋な理由で取り上げようとしたのかも知れませんが。
 なんと言っても印象的な作品は『日の名残り』です。人物と時代と場面が、消え去ろうとする記憶の手前で、はかなくも結びついて、それなりの温かみとぬくもりを与えてくれて、良くも悪くもそれが人生であると静かに受け止めているかのようです。それなりの仕事をして、それなりの人生を送ってきて、その温かみを記憶に埋め込んで消えゆこうとしています。翻訳も見事ですが、読後感が小説のタイトル通りの印象を心の襞に残してくれます。それをカズオ・イシグロが35歳の時に書いたのです。
 ノーベル賞受賞講演をネットで聴きました。書くことが自分を支えてきたようなことを言っています。長崎の生まれで、5歳の時に家族で英国に渡っています。自分の中の日本を、その存在理由を明かすために書くことに専心したようです。それはカズオ・イシグロの中の日本です。日本の紹介ではありません。そのままでは消え去ってしまう記憶を自分の中に確保するための必然的な作業でした。英国というもう一つの伝統を抱えた国の中でのもう一つの伝統を抱えた日本人としての存在証明です。
 その延長線上に『日の名残り』を観ることができます。場面は全くの英国です。それでいながら印象は英国を超えて届いてきます。純粋の英国人であったら見逃してしまう心の陰影が伝わってきます。それはどこにあっても誰でもが心にいただく「日の名残り」です。「品格」「品性」が移り変わる時代の中でなお必要かと繰り返し取り上げています。最後に主人公が涙を流す場面のことで、その必要性を講演で説明していて、この小説家の人生への誠実さを感じます。英国の紳士です。
 記憶は個人のものですが、それで終わらないで国家や、社会の記憶として捉えたらどのようになるのか、それを続いてのテーマとして取りかかろうとしています。アウシュヴィッツを訪ねて、記憶を保存することが具体的にどのような責任を伴うものなのかを考えています。当然小説家としての可能性を模索しています。それがどのように展開されるのか、続いてカズオ・イシグロからは目が離せそうもありません。
 イスラエルの民は、記憶の民であり、書物の民です。アウシュヴィッツは初めてのことではないとまで言います。何千にわたる過去が記憶として生きています。そして消せない形で書物に記されています。そんな世界をカズオ・イシグロは取り入れようとしているのかも知れません。日本のクリスチャン関係のメディアもそんなことを考えて、カズオ・イシグロを取り上げようとしているのかも知れません。
 上沼昌雄記

「家とは、、、」2017年12月5日(火)

12月1日付けのニューヨーク・タイズ紙の電子版で、日本での「孤独死」を取り上げていました。60年代の経済成長の中で政府の政策として建てられた都内の大きな団地に取り残された独り身の二人のご老人の生活を紹介しながら、写真入りでかなり克明に記載していました。妻の両親は多摩ニュータウンで伝道をしてきて結構の間実際に団地に住んでいましたので、その時の状況を思い起こしながら記事を読むことになりました。同じ階に住んでいても余り交流のないことを覚えています。

「孤独死」のことは、社会学的、経済的、政治的な課題を含んでいて、多面的に取り上げなければなりません。ただ記事を読んで、方向が違うように思えるのですが、「家とは」「家に住むとは」と言うことをレヴィナスが哲学のテーマとして取り上げていることを思い起こしました。そんなことを哲学として考えること自体が現今の人間が置かれている状況を語っているのかもしれません。というのは人が「家に住む」と言うことが、他所と遮断して自己の我執に生きる具体的な行為と見ているからです。その家がコンクリートで出来ていて、ドアも堅く締めて住む家であればあるほど、他者を閉め出し、自己の内に閉じこもることになるからです。

感謝祭に際してシカゴ郊外の長女宅に滞在し、続いて長男宅に滞在しているのですが、妻との習慣で近所を散歩することを心がけています。シカゴ郊外というよりも、まったの平原に出来上がっている千件以上の家が一つのコミュニティを作っている新興住宅街です。どの家もしっかりできていて、幾つも部屋もある大きな造りで、皆それなりに生活を楽しんでいるようです。フェンスもなく建物としては仲良く並んでいるのですが、同時にどことなく人を寄せ付けないものがあります。住んでいる人たちにはそのような思いはないのでしょうが、自分たちの領域が侵されることを暗黙の内に拒否しているようです。

レヴィナスがこのテーマを取り上げている背景には、ハイデガーの実存理解があります。「現存在」として捉えられる実存は、他者を視点に入れないで、私だけの存在を自分の気分を元に現象学的に分析しているだけで成り立っているのです。他者を上手に排除しています。それは自我の固執を助長することになり、現実的にはドイツ精神の高揚を促進することになり、ユダヤ人排除へと繋がったのです。そのユダヤ人哲学者としてのレヴィナスは、神のユダヤ人の選びがあっても、寡婦と孤児と在留異国人への配慮を命じていて、絶えず開かれた世界があることを指摘しています。それはイエスが隣人を愛することが律法の二番目に大切な戒めと認めていることに繋がります。取りも直さず、イエス自身が、閉じられた宮殿の奥ではなく、開かれた馬小屋で生まれているのです。

「自国第一主義」を掲げている国も、同じようになんとか他者を閉め出し、高いフェンスを建て、自分の内に堅く閉じこもろうとしています。その自我の固執自体が、レヴィナスは、戦争の武勲談を生み出すものと見ています。強い者勝ちの世界です。心配なのは、それでよいのだとこの地の多くのクリスチャンが思っていることです。それはホロコーストの前のドイツの教会が通ったところとなのです。教会が自分の内に閉じこもってしまっているのです。

信仰も希望も愛も、自分から出て行かなければなりません。出て行ったら出会う他者はどこにもいます。そして責任も出てきます。できることはわずかなことでも、引き受けていかなければなりません。家の外には、自分の世界の外には、神の愛を少しでも分け与える人が待っているからです。

上沼昌雄記