「意に反した差異、過剰な差異」2009年1月26日 (月)

 
神学モノローグ

 前回の「差異・ズレ」を、川の流れ、燃える炎に言い換え、置き換え
てくださった先輩の牧師がいる。言い換え、置き換えにはその人のすべ
てが出てくる。そのような牧会をされてきたのだと分かる。あるビジネ
スマンが次のように書いてくれた。「今直面している事実(あるいは問
題)を解釈し、解決の糸口を見出し、それを実践するという非常に現実
的な思考と実践の繰り返しです。」差異とズレを実践的に体験し、納得
している。

 記事は当然大統領就任式の前日に書いたので、政権交代による変化、
「変化・変革」を旗印にしてきた新しい大統領による差異を見つめなが
ら書いた。今でも見つめ、耳を澄ませている。

 昨年思いがけないかたちで再会を果たした高校の時の友人が返事をく
れた。「妻も読んでいますが・・・『難しいこと書くんだね』と言って
おります。でも、時には『こう言う世界もあるんだ』と考えさせられ
て、良いよ。」ともかくうれしい。それで続きを書くことにした。

 すでに時間の経過と推移の中で身動きがとれない私たちに、避けられ
ないかたちで、しかも思いがけないかたちで差異が到来する。どこから
来るのか分からない差異に驚かされる。怖じ惑い、困惑する。老いるこ
との中で身体の痛みを覚え、病気を抱える。家族の病気と死に出会う。
大丈夫だと思った株が暴落する。信頼感の強い企業でも赤字に転落する。

 差異は意に反して到来する。その意味を捉えられない、まさに無意味
さの過剰に圧倒される。すべてを支配する神と言われても、そんなこと
はあり得ないと心で呟いてしまう。自分の行いが悪かったのでこのよう
なことに遭遇するのだと自分に言い聞かせる。どうにもならない不安に
駆られ、深い霧の中に置かれる。

 神を何とか私たちの理性で納得できるかたちでまとめておきたい。そ
れは自分の世界にすべてを、神までも、納得できるように収めておきた
いという、罪あるものの衝動のようなものである。神の全知・全能性、
無限・超越性を言葉で表現しても、その神をすべての第一原因として規
定することで、他の存在するものの一つのように思ってしまう。聖書を
くまなく調べその全体を体系づけられたら、神の計画、神のみこころが
すべて了解されたかのように思う。自分のものになったような気がする。

 そのように築かれた網の目のような神学の大系の隙間をぬうように、
思いがけないかたちで差異が到来する。驚かされるだけでなく、その無
意味さの過剰のゆえに苦しむ。少なくとも沈黙させられる。場合によっ
ては怒りを覚える。そしてそんな手に負えない差異が神からきているの
だろうかと、自分に問いかけるように神に問いかけていく。

 しかし、聖書のなかでそのような手に負えない差異に直面している人
物を見いだす。ひとり子であるイサクをささげるように言われたアブラ
ハム、行きたくないニネベに行って悔い改めを説くように言われたヨ
ナ、自分のなかに何の落ち度もないのに信じられない苦しみに遭遇する
ヨブ。それでも何とか納得できるように説明する神学者や説教者の脇を
ぬうように、思いがけない差異が到来する。第一原因とはとても言えな
いほどに、すべてを超えたところから意に反した差異が到来する。

 それでもなお信じると言いたい。その通りでありながら、「それでも
なお」を言う接続詞を超えて、ただ信じるとしか言えない。「それでも
なお」という逆説も、悲壮感もなしに、ただ信じていく。もし神が意に
反した差異、過剰な差異をもたらすとするならば、「信仰のみ(Sola 
Fidei)」ということなのであろうか。

 上沼昌雄記

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「差異・ズレ」2009年1月19日(月)

神学モノローグ

 新しい年も最初の月を速くも半分以上過ぎた。今週は「変化、変革」
を唱えてきた新しい大統領が誕生する。「新しさ」には希望がある。何
かを望み、期待する。思いがけない、予測不可能なことを期待する。そ
の思いがけない、予測不可能なことが益をもたらすことを願う。そうで
なく困難に直面することもある。今まで経験したことのないことが起こ
ることに期待と不安を抱えている。

 すでに不況のなかで厳しい状況に置かれている。100年に一度だと
言われても、100年前のことを経験している人はいない。いても覚え
ていない。歴史の記録を辿っているだけである。現実に教会の働きに、
神のわざの前進にどのように影響するのか不透明である。金融情勢とし
てある程度のことは言えても、それが神の国にどのようなインパクトを
与えるのかは分からない。

 時は経過し、推移していく。時は私たちを過ぎ越していく。私たちの
手の届かないところから来て、との届かないところに過ぎ越していく。
時が私たちを捕らえ、通過していく。私たちは時の中で生をいただき、
生を終えていく。時を自分のものにすることはできない。

 時はもともと私たちを越えている。時は私たちの意志とは関係なしに
到来する。その到来は単なる繰り返しではない。到来と共に多少の差異
をもたらす。夜があり、朝がある。繰り返しのように思える時の到来
に、多少の、そして確実な差異をもたらす。打ち寄せる波のような繰り
返しであっても、そこに見えない、こちらの意識に上らない差異をもた
らす。年をとることである。時をとるとは言わないが、年をとることで
ある。孫は日ごとに成長し、こちらは日ごとに衰える。

 差異は避けることはできない。いつも何かのズレが生じている。それ
を知っている。少なくとも認めなければならない。これが真理だ、この
ようにしたら大丈夫だと思い、そのような方策を私たちは一生懸命に探
し求めている。差異もズレもないしっかりした体系を、そのような考え
方をしたら大丈夫だと自分に言い聞かせる。そんな隙間をぬってズレが
生じてくる。私たちの努力をあざ笑うかのように、ズレが生じてくる。

 『若者たちは、イエス様は好きだけれども、教会は嫌いだ』という本
が一昨年にアメリカの若手の牧師によって書かれた。この牧師の話を宣
教師であった義父が聞いていて、その本を紹介してくれた。変化も新し
さもない教会、変化することが、新しいことを試みることが不信仰のよ
うの思う体制としての教会に多くの若者が嫌気をさしている。

 差異は、しかし、意図的な変化、変革ではない。差異はかなりの意味
で受動的である。能動的な変化を唱えてもそのようにはならない。全く
受動的な差異を聞き届けながら、方向付けていくだけである。政治的な
アジェンダではない。新しい大統領もその辺でのジレンマに直面するで
あろう。

 全く受動的だと思われる差異はどこから来るのか分からない。差異は
超越している。ただ差異は時の中で現れる。その流れをコントロールす
ることはできない。ある適度の対応をしているだけである。自然災害が
あり、政治の行き詰まりがあり、経済の崩壊がある。教会の行き詰まり
があり、神学校の閉塞感がある。その度に対応を迫られる。

 どこからそのような差異が生じるのであろうか。差異が問いをもたら
す。差異が問い直しをもたらす。その度に目を覚まされ、祈りを新たに
され、信仰を問いただされる。どうしてなのかと問い、どのようになる
のか息を潜めて見守っていく。

 差異は沈黙している。差異は時の中に秘かに紛れ込むように入ってき
て潜行している。ただ多少の差異をもたらしながら響いている。沈黙の
響きである。その沈黙の響きを聴いていく。耳を澄ませて向こうから届
いてくる差異という沈黙の響きを聞いていく。眼を開いてどこから到来
するのか分からない差異という沈黙の響きを見つめていく。じっと佇ん
で秘かに紛れ込んでくるような差異という沈黙の響きを肌で感じていく。

 上沼昌雄記

「沈黙の響き」2009年1月12日(月)

 

主にある友へ  

年の初めにアドレスブックをいじっていた時に、もうこれ以上ここにい
たくないかのように、目の前で全部のアドレスが消えていきました。操
作のミスなのか、それ以外の問題なのか分かりません。今までいただい
たメールを辿りながら再構築いたしました。それでも4分の3ほどだと
思います。届いていないと言うことを耳にされたら教えていただければ
幸いです。同時に記事を紹介していただければうれしい限りです。また
配信を望まれない方はお教えください。

感謝とともに。上沼 2009.1.12

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神学モノローグ

 ユダヤ教徒のレヴィナスの哲学書は難解である。ただところどころ
で、旧約聖書の歌い手のように、賢者のように、詩的な表現、智恵に満
ちた表現が使われている。その度に難しい哲学的な内容が感性的に心に
飛び込んでくる。何度も使われている「沈黙の響き」「静寂の響き」と
いう表現もそうである。一瞬この表現でレヴィナスの哲学の全貌が明ら
かにされたような錯覚になる。そうでなくても少なくともとても身近に
感じる。もしかすると分かったような気になっているのかも知れない。

 湖の静けさ、海辺の静けさ、森の静けさ、平原の静けさ、田舎の静け
さ、真夜中の静けさ、朝明けの静けさ、だれひとりいない礼拝堂の静け
さ、廃墟の静けさ、死者の静けさ、墓地の静けさ、過ぎ去った時間の静
けさ、記憶の静けさ。そんな静けさをいつも慕い求めている。同時に思
いがけないときに遭遇する。そしてそんな静けさが何かを響かせ、何か
を語っているに気づく。その響きを聞くことが哲学だと言う。

 哲学を思索・詩作と言う人を思い出す。ハイデガーである。確かに気
をつけてみると、「沈黙の響き」とレヴィナスが言っているときにドイ
ツ語で引用している。フランス語の哲学書でそこだけドイツ語で併記し
てある。ハイデガーを意識していることが分かる。かつて戦争前にその
哲学に敬意を覚えたハイデガーである。第二次大戦でナチスの党員にな
り大学総長になったハイデガーである。フランス軍に従軍し、捕虜にな
り、リトアニアの家族がほとんどナチスによって殺害されたレヴィナス
が今振り返っているハイデガーである。

 世界が存在し、私が存在し、あなたが存在し、神が存在する。そんな
さまざまな存在者の根底にただ「ある」が存在している。その存在その
ものに耳を傾けていくハイデガーの哲学である。その存在そのものは意
識的な操作のできない、すでに了解されている。「ハイデガーにおける
存在了解」というテーマで学位論文を書いたのを思い出す。その思索は
魅力的であり、その詩作は審美的である。同時にどこに辿り着くのか分
からない。そんな思いを持ってハイデガーを記憶の奥に閉まって置いて
きた。

 そんなことを思い出しながら何度か出てくる「沈黙の響き」「静寂の
響き」に耳を澄ませていると、とんでもない沈黙をレヴィナスが語って
いることが分かる。それは意味もなく、無惨に殺されていった600万
の同胞の死の沈黙なのである。ハイデガーがいう美しい沈黙ではなく、
醜い沈黙である。無意味性が意味を凌駕としているどうにもならない沈
黙である。どんなに聞き届けようとしても聞き取れない死者の語りであ
る。神の義も無惨に打ちのめされた死者の山である。その沈黙を聴き続
けることを哲学とする。声だかに非難しているのではない。ただ600
万の同胞の死の沈黙を聴き出すことが責任だと言う。その責めを負って
いると言う。

 ハイデガーの存在は飢えを知らないとレヴィナスは言う。戦争を境に
大学総長として存在を思索した者と、捕虜収容所で飢えに悩まされなが
ら存在を思索した者の違いなのであろう。と同時にそんな陳腐な比較を
超えて、食べ続け、飢えを満たしていかなければならない存在の暴力性
を自分も抱えている事実に驚かされる。その暴力性がどこかで絶えるこ
とのない戦争を引き起こしている。それを認めることが聡明さだとレ
ヴィナスは言う。

 一ヶ月ぶりに家に戻ってきた。多少静かな佇まいの中に居住をいただ
いている。同時に雑草をかき集め、冬場のうちに燃やさなければならな
い。結構な労働である。それでもしばし息を潜めて佇むと、森林の静け
さに心が洗われる。さらにその静けさのなかでも、かつてこの地に住ん
でいたであろうアメリカインディアンの死の沈黙に思いが向く。どのよ
うな沈黙にもすでにどうにも取り返しのつかない記憶と歴史が潜んでい
る。その沈黙が今も語っている。

 不思議に村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくる四国の森を思い出
す。少年カフカがかくまわれた森、そこでユダヤ人の殺戮を計画したア
イヒマンのことについて読んでいた森、かつて戦時下で軍隊の訓練に使
われていた森、その訓練中に逃亡した二人の兵士がその奥に秘かに隠れ
ていた森である。その森の奥で少年カフカは二人の兵士に出会い、向こ
うの世界に導かれてある種の回復をいただく。沈黙の森は淡い記憶の佇
まいである。そんな設定をする村上春樹の沈黙を聴く眼に、レヴィナス
を掛け合わせることができる。

 沈黙はどこにでもある。言葉と言葉との間に、時と時との間に、昼と
夜の間に、昨日と今日との間に、人と人との間に、夫と妻との間に、親
と子との間に、家と家との間に、教会と教会との間に、牧師と信徒との
間に、国と国との間に、木と木との間に、物と物との間に、そして言葉
とことばとの間にある。悲しみの沈黙であり、憂いの沈黙である。苦し
みの沈黙であり、うめきの沈黙である。敗者の沈黙あり、死者の沈黙で
ある。

 上沼昌雄記