「キリストが律法を終わらせられた?」2013年3月 21日(木)

 「キリストが律法を終わらせられた」というのは、ローマ書10章 
4節の新改訳聖書の表現である。そして脚注に、別訳として「律法の 
目標であり」と明記している。新共同訳聖書では、新改訳で別訳と 
しているところをそのまま取っていて、「キリストは律法の目標で 
あります」としている。ギリシャ語のtelosには、「終わり」 
「目的」「目標」という意味がある。映画の最後のThe Endを 
思い浮かべると分かりやすい。すなわち、ストーリーの「終わり」 
であって、実はその初めの「目的」が果たされたという意味である。

 英語訳聖書では、NIVも、NKJVも、NRSVも、Christ 
is the end of the lawと訳している。新改訳のような動詞形は使わ 
れてなく、原典の表現に近いものである。そして英語圏の人たちがthe 
end of the lawと読んだとき、「律法の終わり」と「律法の目標」 
の両面を取り入れて読んでいる。新改訳では、「キリストは律法の 
終わり」では表現として成り立たないと思って「律法を終わらせら 
れた」としたとも解することができる。

 その通りで、そのままでよいとも言えそうなのであるが、チェー 
ン式聖書で、その「キリストが律法を終わらせられた」という日本 
語の意味だけを注解して載せている。別訳の意味には触れていな 
い。「キリストの出現で、律法による古い秩序は終わりを告げ 
た。」これが「キリストは律法の終わり」という意味合いであると 
すると、ローマ書理解というか、聖書全体の理解を異なった方向に 
引き込むことになる。

 ローマ書は、キリストによって律法がどのように成就したのか 
を、パウロが苦闘しながら書いている書である。当然モーセの律法 
だけでなく、旧約聖書全体がキリスト・メシアを通して成就してい 
ることで、そのメシアを信じることで、異邦人もユダヤ人も義とさ 
れることを何とか伝えたいと思って、書いている。この10章 
でも、その後に申命記30章からの引用が続いている。特に 
8節の「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなた 
の心にある」は、申命記の30章ですでに約束されている心の 
割礼の成就とみている(30:14)。まさにキリストに 
よるトーラーの成就である。その意味で端的に、「キリストは律法 
の目標」である。

 NKJVのStudy Bibleでは、まさにこのend(終 
わり)にはfulfillment(成就)とgoal(目標)の意味 
があって、それがもたらす意味合いを解説している。新改訳の 
チェーン式聖書でも、別訳で「キリストは律法の目標」を明記して 
いるので、その点を解説していくと、ローマ書の全体が浮かび上 
がってくる。パウロの苦闘が伝わってくる。

 とは言っても、「キリストが律法を終わらせられた」と読んで 
も、チェーン式聖書での解説を読んでも、それに関して何の疑問も 
持たないで今まできているのも事実である。キリストは律法を終わ 
らせたので、律法と律法に関わることは過去に起こったことで、新 
約聖書のバックグランドとして意味をもっていても、そのバックグ 
ランドの目的がキリストによって成就したと結びつける作業は放棄 
してきた。放棄しても、クリスチャンとしてやっていけるし、神学 
も考えることができる。旧約は新約に置き換えられたという神学で 
ある。置換神学である。ディスペンセーション神学である。

 神学で留まっていれば無害のように思えるが、人類史上では、キ 
リストが終わらせた向こうにあるものを敵外視していくことにな 
り、キリスト教会2千年の歴史の背後に見え隠れする反ユダヤ 
主義を生むことになった。残念ながら、ルターもその一端を担うこ 
とになってしまった。

 旧約聖書の大きな流れには、その場面ごとに起こっていることに 
しっかりとした結びつきがあって、新約聖書に流れている。その場 
面ごとの神の民の歩みを、神は確かに受け止めていて、そのひとつ 
ひとつがメシアのうちに不思議に成就していく道筋を、時には地下 
水の流れのように導いている。その流れを辿って遡っていくと、メ 
シアのうちにあることが神の物語として初めから息づいていること 
が分かる。抽象的な神学概念を打ち破る息づかいである。そして新 
約聖書の流れは、ここで留まっていないで、創造の再創造、あるい 
は、新しい創造に向かって、しっかりと流れていることに気づく。

 イエスの王としてのエルサレム入場、そして受難、さらに復活を 
覚えるときに、大きな流れがひとつに集まってきて、さらにその先 
に向かって流れる神の物語に組み込まれていることに気づく。律法 
の目標であるキリストが、さらに大きな流れの最終目的地に向かっ 
ていることが分かる。神の大きな目標に向かって、キリストがその 
さきがけのように、ことは流れている。その流れに責任を持って組 
み込まれている。

上沼昌雄記

「レムナント」2013年3月6日(水)

 過ぎる土曜日に高校の時の友に、サクラメントとサンフランシス 
コの間にあるディビスという大学町で会いました。実はこの友に誘 
われて故郷前橋で、当時宣教師たちが持っていたバイブルクラスに 
英会話のために出席するようになり信仰を持ったのです。友は英語 
が上達して一年間高校生留学でミネソタ州にきています。こちらは 
一年浪人をして、同じ大学に行くことになりました。友の専門は生 
化学、こちらは神学校とそれぞれの歩みをして、数年前に全く偶然 
のように、高崎駅の新幹線乗り換え口で会ったのです。

 私たちの間にもうひとりの友がいて、よく3人で一緒に遊び 
ました。礼拝にも一緒に参加しました。友は今でももうひとりの友 
と会っているということで、次の日本訪問のときに、3人で一 
緒になりました。それぞれ専門の分野を持っていて、それで全くい 
い年になっているのですが、何とか3人とも仕事を続けること 
ができています。そんな自分たちの状態を何の気なしに「それでは 
我々はみなレムナントだ」と言いました。聖書に出てくる「残りの 
者」のイメージが浮かんだのです。そうしたら友が「何を言ってい 
るのだ、それは俺の専門だ」ということで、会話というか、交流が 
面白いところに展開することになったのです。

 友に会いに出かける前に妻に彼の専門はレムナントだと伝えたの 
ですが、私の説明では意味が通じないので、実際に会って友に説明 
をしていただくことになりました。そのディビスにあのみくにレス 
トランのお店があるのです。その野外のパティオで特性のロールを 
食べながらの会話となりました。どうも体にあるレムナント、すな 
わち残りのもの(者)を、飢餓状態になったときに体がそれを食べ 
てエネルギーにするというのです。多少専門用語を使って説明して 
くれ、妻も納得したようです。友はその研究を大きな製薬会社で続 
け、実用化したようです。今は独立してコンサルタントとしてボス 
トンに何度も来ているというのです。カリフォルニア大学ディビス 
校もその関係で時々立ち寄るようです。

 レムナント、「残りの者」は、聖書の中心的なテーマではないの 
でしょうが、同時に聖書の流れの全体を知る大切なテーマのようで 
す。正直、レヴィナスというユダヤ人哲学者のものを読み、いま一 
世紀のユダヤ教を背景に聖書全体を説明しているイギリスの新約学者N.T. 
ライトのものを読んでいくなかで、その意味合いがより鮮明になっ 
てきています。神に背き続けている神の民を神がさばく、それでも 
「残りの者・レムナント」をしっかりと残しておくのです。エルサ 
レムと神殿の崩壊と、バビロン捕囚です。捕囚の民は、神のさばき 
の結果であり、同時に神の民の救いの手だてなのです。後にエルサ 
レムに帰還して神殿を再建します。

 預言者エレミアを通して神は言われます。「しかし、わたしは、 
わたしの群れの残りの者(レムナント)を、わたしが追い散らした 
すべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生 
んでふえよう。」(エレミア書23:3)

 友にこの神の不思議な取り扱いを話すことになりました。レムナ 
ントという用語はまさに聖書の世界からきているのです。最初にこ 
の用語を使うことになった研究者も聖書を知っているか、もしかし 
てユダヤ系かも知れないとなりました。どうも最初は「スケルト 
ン・骸骨」と名付けようとしたらしいです。それがレムナントに落 
ち着いたのです。

 友は自分の専門のレムナントが、しかも仲間の間では「ミス 
ター・レムナント」と呼ばれていると言うことですが、その意味合 
いが聖書からきていることに考え深そうでした。なんと言ってもこ 
のレムナントのことで、お互いの専門分野を分かち合いながら、カ 
リフォルニアの空の下で、高校と大学以来、今回は妻も加えてこの 
ように語り合える不思議な導きに思いを新たにしました。

 そしてどうもあのパウロも、自分がベニヤミン族の出身であるこ 
とにレムナントのしるしを読んでいるようです。しかも、そこに民 
族を越えた意味合いを含めることで、神の救いのわざが全人類と全 
世界に及んでいくことを確信して書いたのが、ローマ書と言えます。11 
章の始めで自分の出身を語って、預言者エリヤのときに残された民 
のことを引き合いに出して言うのです。「それと同じように、今 
も、恵みの選びによって残された者がいます。」(ローマ書11: 
5)

 恵みの選びによるレムナント、その残りの者を通して神の救いと 
恵みが、他の人に、全世界に及んでいくのです。その流れに組み込 
まれています。「レムナント・残りの者」で、回り回って戻ってき 
た友との交流です。

上沼昌雄記

「ヴィトゲンシュタイン、再び」2013年2月27日 (水)

 「語ることのできないものごとついては、人は沈黙しなくてはな 
らない。」これは1921年に出たヴィトゲンシュタインの『論 
理哲学論考』の結論である。7つの命題集からなっている最後の7 
つめの結論である。その前の6つはそれぞれ説明が細部にわ 
たってなされているが、この7つめの命題はこの一つのセンテ 
ンスで終わっている。この世界には意味を見いだすことができな 
い。残されたのはただ「沈黙」である。ヴィトゲンシュタインは、 
その結論に従って、大学を去り小学校の先生になった。後にまたケ 
ンブリッジ大学に戻ってくる。

 この1920年代は、ヨーロッパで第一次世界大戦が終わっ 
て、前世紀までの啓蒙主義の終焉のなかで、新しい思想を模索した 
時代である。ハイデガー、サルトル、バルト、ブルトマン、それぞれ20 
世紀の思想を方向付ける著作を出している。それでもその時代的な 
動きのなかでの思想の方向付けなのであるが、ヴィトゲンシュタイ 
ンの『論理哲学論考』はそのような動きからは飛び抜けて、いまだ 
に消え失せない威光を放っている。啓蒙思想を基にした西欧の論理 
と意味の世界を「沈黙」をもって裁断したのである。

 この「沈黙」に対して、神はなお語っていると言って、1960 
年代、70年代に若い人の心を惹きつけたのがフランシス・ 
シェーファーである。『そこに存在する神』(The God Who Is 
There)が1968年で、『神の沈黙?』(He Is There and He Is Not 
Silent)が1972年に出ている。実存思想に影響されて放浪を始 
めたクリスチャン2世を、あのスイスの山のなかで、もう一度 
神の存在に目を向けさせた。『神の沈黙?』で、ヴィトゲンシュタ 
インの哲学の結論に対して、神は沈黙していないと提示した。

 そのインパクトは今でも私のなかに残っている。神は確かに語っ 
ている。沈黙はしていない。その意味でのシェーファーの功績とい 
うか、その向こうにあるまさにヴィトゲンシュタインの意味づけ 
(世界には意味がないと言ったヴィトゲンシュタインの意味)には 
注目してきた。しかし同時に、クリスチャンとしてはシェーファー 
のような取り上げ方しかできないのだろうとも思っていた。そんな 
思いに反して、N.T.ライトの注目作 Surprised by Hope 
で再度ヴィトゲンシュタインに出合うことになった。何とも驚きである。

 Surprised by Hopeは、クリスチャンは死んだら天国に行 
く、信仰を持って死んだら天国に行く、というクリスチャンの提言 
の背後にあるギリシャ哲学の影響、当然プラトン哲学とグノーシス 
主義の影響に対して、キリストの死者からの復活によって開かれた 
神の「新しい創造」の希望を展開している。その意味ではプラトン 
哲学がこの本の背景になっている。そのなかでヴィトゲンシュタイ 
ンのことが、忘れ去られた威光のように、何度も顔を出してくる。 
最初から最後まで顔を出している。

 なんと言ってもヴィトゲンシュタインはユダヤ人である。どこか 
でカトリックの信仰にも関わっていたようである。世界には意味を 
見いだせないとはっきりと言っているが、宗教と聖書のことはユダ 
ヤ人特有な格言集のように語っている。旧約聖書は頭が付いていな 
い胴体のようなもので、新約聖書がその頭だというようなことを 
言っていると、N.T.ライトが楽しそうに引用している。復活 
を信じられるのは愛だとも言っているという。一世紀のユダヤ教を 
基に聖書全体を読み直そうとしているN.T.ライトには、ヴィ 
トゲンシュタインの哲学は、シェーファーには見えなかった光を 
放っているようである。

 そうすると先のヴィトゲンシュタインの「沈黙」も意味づけが異 
なってくる。『論理哲学論考』が7つの命題集からなっている 
が、その最初の命題が「世界は成立するものごとの総体である。」 
そして最後が「語ることのできないものごとについては、人は沈黙 
しなければならない。」N.T.ライトはその7つの命題の 
世界が、創造の7の日間に対応するかのように読んでいる。 
「世界の総体」とは創造の初めであり、「沈黙」は安息に入った神 
の沈黙のようにみる。当然ヴィトゲンシュタインは、神を抜きにし 
た世界の有り様をそのまま語っている。その最後は、沈黙以外にな 
い。その世界を創造主である神の目から見たときに、それは神の安 
息となる。

 そしてN.T.ライトの結論は、この沈黙の後の世界を語るこ 
とができることが私たちの「希望」とみる。キリストの復活のゆえ 
に新しい創造が始まった。単に死んだらば天国に行くということで 
は終わらない。新しい創造の世界での務めが委ねられている。ヨハ 
ネ福音書20章と21章の復活の後の世界である。その世 
界を語りうるクリスチャン哲学者の到来をも期待している。

 N.T.ライトの読み方がヴィトゲンシュタイン理解にあって 
いるのか判断できない。同時にキリスト者しか読めない哲学の世界 
もあることが分かる。大村晴雄先生も、専門であるヘーゲルの『論 
理学』の論理・ロギークをあのヤコブ・ベーメをとおして、ヨハネ 
福音書の冒頭の「ことば・ロゴス」の学と読んでいく。哲学の世界 
をキリスト者の目で見ていくことを可能にしている。

 Surprised by Hopeでキリストの復活による「希望」の豊か 
さに驚かされるが、同時にヴィットゲンシュタインの登場にも驚か 
される。その取り扱いと意味づけは、何かを刺激して止まないよう 
である。

上沼昌雄記