「ローマ書7章を男性集会で」2017年5月31日(水)

過ぎる日曜の夕方秋田県下の十文字の教会で12名の男生と男性集会を持ちました。湯沢、十文字、大曲、そして秋田から集っています。一つのグループでの男性集会としては最も多く回数を重ねています。それでお互いには心の中のことまでわかり合っています。この男性集会を励ましてくださった兄弟が高齢のため参加できない状態になりました。この方によって男性集会がここまで来ました。

今回はローマ書7章をストレートに取り上げました。24節の「私は、ほんとうにみじめな人間です」というのは感覚的には分かるのですが、そこにいたる7章の道筋にどこまで同意できるのかとなると、それほど明確でないのかも知れないと思って、一緒に辿ることにしました。

初めに9節で「罪が生き、私は死にました」と過去形で言われていることに、パウロはそこで何を具体的に「罪」としたのかは明確でないのですが、私たちの中で確かに罪が生きというか、罪が突然に力を持って自分を捉え、その虜になって罪を犯してしまったことは否定できません。その結果死が自分と自分の家族にまで及んで行ったことを知らされています。しつこいようなのですが、そうなのではないですかと何度も聞きました。具体的なことは何も語らなくてもその事実を認めていました。具体的に語ってくれた兄弟もいました。

さらに19節で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と、今度は現在形で書かれているのですが、今の自分の状態はどうでしょうかと、これもしつこく尋ねました。否定する人はだれもいません。何がどうなのかは具体的には語れなくても、確かにそうだといううなずきがあります。実際に今闘っているかのような雰囲気も伝わってきます。肉の思いに捕らえられていて、同時に御霊の促しを感じていて、このままではいけないと思っているのが分かります。

この7章だけにパウロは「私」を登場させています。それをイスラエル、あるいは人間一般、さらに信仰前の状態、あるいは信仰者の状態と、いろいろな考えがあります。それがどうであっても、この7章だけに「私」を登場させているパウロはその「私」に当然同意しているので、その通りと認めていることになります。その「私」にこちらの私も同意できるのです。男性12人も同意できるのです。「私」はそれだけのインパクトを持っています。

7章というか、むしろローマ書全体と言えるのですが、難しいというか、私たちにとってどうしても不明瞭なのは「律法」のことです。7章の初めと終わりでパウロは律法のことを語っています。モーセの律法を背景にしているのですが、どのように語ったら伝わるのか、いまだに苦闘しています。男性集会でもこの点を触れないでいるので、パウロの意図を正確に伝えることになるのか、集会が終わって考えています。

7章の初めは婚姻関係を律法に当てはめています。それなりに分かります。終わりになると、「神の律法」「別な律法」「心の律法」「罪の律法」(22,23節)と立て続けて出てきて、最後には「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節)と締めくくっています。その「心」はヌースなのです。それこそ、その「こころは?」とパウロに聞いてみたいところです。そして「肉」とはと問いが残ります。

男性集会でローマ書7章を取り上げたのですが、意図したことが充分に伝わったのかということと同時に、こちらが7章でのパウロの意図を十分に理解しているのかと自問させられます。何とか理解の突破口をいただいて男性集会で男性だけでその意味をじっくりと噛みしめたいと思わされています。十文字の教会で男性集会のことを心に留めたくださった高齢の兄弟のためにも。

上沼昌雄記