「1Q84を英語で読む」2011年11月21日(月)

日本での奉仕の間に『1Q84』の英訳が出るという情報を末娘からもらった。10月17日付の英国の放送局BBCのインターネットの記事であった。先に英国で発売され、一週間後の10月25日に米国で発売されるという。訳者は同じであるが、どうも英国版と米国版があるようであった。発売される前からすでにニュースとして取り上げられていた。ともかくアマゾンを通して注文を出した。妻が両親の面倒のために滞在していたので、そちらに発送していただくようにした。

11月15日に両親のところに辿り着いたらば、何と義父が自分で取り寄せて1Q84を読んでいた。ブックマークの位置からすでに100ページ以上は読んでいるようであった。妻曰く、一生懸命に読んでいる。正直驚きであった。義父が村上春樹の本を英訳で読んでいるのである。日本語版でブック3までのものが米国版は一巻にまとめている。A5版で925ページの分厚いものである。それに取り組んでいるのである。早速自分のところに届いている1Q84を取りだしてみた。

義父が読んでいることも刺激になってともかく最初の文章を読んでみた。The taxi’s radio was tuned to a classical FM broadcast. Janacek’s Sinfonietta―probably no the ideal music to hear in a taxi caught in traffic. 読みやすいというか、この最初の文章でおよそ2年前に日本語で読んだ1Q84の世界がよみがえってきて、そのまま読み続けることになった。いままでいくつかの作品の英訳を試みたが先に進めなかったが、今回はのめり込むように英語での1Q84の世界に入ることになった。あの女性主人公の青豆が1984年に流行っていたミニスカートで高速道路から非常階段を降りていくのだ。そして1Q84の世界に入っていくことになる。

多分日本語では流すように読んでしまうところを英語ではセンテンスごとに確認をするように読むので、気づかなかったこの複雑なストーリーの織物の糸が明確になってくる。当然すでに何度か日本語読んでいるので全体の流れが分かっているのであるが、どうしてこのストーリーがここで出てくるのか、よりその糸の繋がりが分かってくる。現時点では184ページまで来ているが、最後の925ページまで行くことになるのだろうか。以前には見落としていたような織り糸が見えてきて、それに引き寄せられて最後まで行くのかも知れない。

それにしてもこの米国版は何とも楽しい装丁をしている。最初に気づいたのはページ番号である。下ではなく横に置いてあって、その位置がページごとに異なっていて、しかも見返りのページが逆さに置かれている。それがあるところからはその配列が逆になっている。そこにそれなりのパターンがあるのかも知れないが、1Q84の世界をそのまま語っているようである。さらに表表紙は女性、裏表紙は男性の顔がある。ふたりの主人公、青豆と天吾を表している。そのモデルのカラーの顔写真に1Q84の白い大きな文字が練り込まれている。それに透かしカバーが付いていて、その1Q84の練り込まれたところに顔写真の切り取られたところが付いていて、透かして顔全体が浮かんでくるようになっている。裏表紙も同じ仕掛けである。アメリカ人の遊び心の表れと言える。英国版の表紙はもっとオーソドックスで暗い。

ただ中表紙は表も裏も暗い空に浮かんでいるふたつの月である。表紙で遊んでいるようであるが、中では1Q84を象徴するふたつの月が白黒でまとめられている。真剣なのである。そのふたつの月はブック1と2と3の区切りにも置かれている。表紙はカラーで浮かび上がらせ、中は白黒で沈み込んでいる。装丁で1Q84の世界を表現しようとしている。

月がふたつ、2年前に日本語で読んでいたときに、隠れ家の主と交わした合い言葉であった。月がふたつの世界があるのだと繰り返し語っていた。あり得ないと思うことがあるのだ。信仰者にとっては当然のことであると真剣に語っていた。その姿が浮かんでくる。ヤナーチャックのシンフォニエッタが昼時にかかってきたこともあった。

ミニストリー20周年の記念誌に学生時代下宿が一緒だった方の記事に、その方が音楽を聴いていたときに「キリストの他に慰めがあっていいのか!」と言ったことに、隠れ家の主はいたく共鳴され、上沼さんもかつては原理主義者だったのだと分かって安心をしたようである。それがいまでは「月がふたつ」を合い言葉にすることになっている。

この秋に雑誌『リバイバル・ジャパン』で村上春樹についての対談が4回にわたって掲載された。それにさらに文章を加えて単行本にと言う話がある。その付け加えた文章のタイトルを「村上春樹の世界と聖書」としてみた。そんな結びつきが可能なのか、村上春樹の本が世界中で読まれている現象を見ながら考えている。特に1Q84の英訳がどのような反応を起こしていくのか見極めていきたい。なにしろ日本への宣教師であった89歳の義父が読んでいるのだ。

上沼昌雄記

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「錆び付いた紅葉」2011年11月14日(月)

 今回の日本での奉仕の最後の日、隠れ家の窓から小雨降るなか霧に覆われたた盆地は幻想的な朝を迎えています。まだ雪の気配はありません。いつもより温かいこの秋の旅でした。南は大分から北は北見と結構な旅をしました。それぞれの地で思い返せば結構重い話をしてきたような感覚が残っています。その旅の間車窓から眺める紅葉は、どうにも燃えるようなものではなく、何とも錆び付いた感じのままで終わりそうです。でもその錆び付いた紅葉に慰められてきました。色鮮やかな紅葉では逃げ出したくなったと思います。

 どうにも解決のならない状況に誰でも置かれています。聖書の教えがこうだからと言っても、そのようにはならないことでもがいています。うめきが聞こえてきます。個人としても教会としても。低層通音のようにその響きは残ります。その響きが重なってきて心を覆ってきます。それは心だけでなくこの地をも覆っています。それが錆び付いた紅葉を目の前にすることで慰めをいただきます。

 うれしいことにも直面します。札幌の教会で2年前に男性のグループで求道中の方が網走からサロマ湖までのサイクリングの話をしてくれました。その時に大阪の堺のシマノでサイクリング車の技術開発をしている同じ求道者の兄弟の話をしました。そのふたり共が2年後に信仰を持って教会で励んでいる様子を知ることができました。札幌のそのグループで奥様を花でたとえる作業をしました。そしてその花を写真でも実物でも奥様にプレゼントするように勧めました。そのようにしましたとメールが入りました。

 昨日は東久留米の教会で神の怒りについて3回の説教をしました。重たい難しいテーマですが、避けられないこと思って語りました。多少不安を抱えながら隠れ家に戻ってきました。秋田の教授ご夫妻が来ておられて、隠れ家の医師ご夫妻と当地の牧師ご夫妻とミニストリー20周年感謝の会合を持ってくれました。学生時代の関わりからいまに至るまでの信仰と恵みの回顧と続いての責任と、どこまでが真実でどこまでが希望的観測なのか分からない会話で、心が解き放たれる思いをいただきました。

 隠れ家の近くで農業を営みながら小説を書いている方が昼に尋ねてきます。お蕎麦を食べながら夏目漱石と村上春樹の話になりそうです。最上川の隠れキリシタンのことも出てきそうです。

上沼昌雄記