「It is not about you」2014年8月21日(木)

 これは、リック・ウォレン牧師のよく知られた著『人生を導く 
5つの目的―自分らしく生きるための40章』の本文の冒頭のセ 
ンテンスです。前回の「それでも自分たちのため?」で紹介した車 
の中での会話で、妻がこの本の最初に書いてあると言って教えてく 
れたものです。なるほどと思って父の書棚にあったので(2冊 
も)、めくってみました。 確かに「あなたのことではない」 
のですと念を押しているのですが、 邦訳のタイトルと副題が 
示しているように、結局は「あなたの人生を導く」ためであり、 
「あなたが自分らしく生きるため」の手だてを語っています。

 英語のタイトルは Purpose Driven Life で副題は What On 
Earth Am I Here For? ですので、まさに五つの目的のために生かさ 
れていることを語ろうとしています。邦訳は思い切った訳を付けた 
ことになります。それゆえに、この本は「あなたのことではない」 
と断りを最初に入れても、結局はあなたの人生のためであること 
を、逆説的に語っていることになります。実際に人々が求めている 
ことに見事に応えていて、大ベストセラーになりました。

 前回のウイークリー瞑想に対していくつかのレスポンスをいただ 
きました。神のためといっても結局は自分のために奉仕をしている 
現実、自己実現のために牧師の仕事が回転している現実を綴ってく 
れました。キリストの自己否定が私たちの生き方であるべきなの 
に、そのキリストによって与えられた恵で生きている自分たちの信 
仰と霊性と幸せが、どこかで微妙に入れ替わって顔を出してきま 
す。それ自体がキリスト教信仰の目的であるかのようになっていま 
す。しかもそれが当然のように教えられてきていますので、おかし 
いと思っても通じないのです。

 イギリスの聖書学者で歴史家であるN.T.ライトは、信仰義 
認が最終的な(まさに)目的であるとすると、それは結局 me and my 
salvation だけを求めていることになると指摘しています。同じこ 
とをニーチェも言っています。『「霊魂の救い」--わかりやすく 
言えば「世界は私を中心としてめぐる」--キリスト教がこの 
うえなく徹底的にこれを蒔きちらしてしまった。』(反キリスト 
43)ライトもニーチェもそれがどこから来ているのかを見抜いてい 
ます。ギリシャ哲学の霊肉・善悪二元論であって、肉の世界を離脱 
して霊の世界に救いを求める世界観です。プラトニズム化されたキ 
リスト教です。

 N.T.ライトは歴史家として聖書学者として、目的設定は、 
もっと大きなことにあると言って、旧約聖書からの神の民に対する 
神の目的が、神の御子であるキリストによって成就したことに視点 
をあわせています。聖書全体の流れの中で、最終的に神の国の実現 
のために救いに預かり、召されている責任を語ります。キリストに 
よる救いは、私たちがそれに預かることで、神の国の実現ために働 
くためなのです。信仰義認だけであれば、それは自己愛の信仰に 
なってしまいます。

 N.T.ライトの翻訳のチェックを編集者としながら、もうひ 
とつの本 After You Believe―Why Christian Character Matter 
を読んでいます。クリスチャンとしての徳性、また御霊の実が自己 
愛に陥らないで、神の大きな目的のためにどのように備えられ、生 
かされていくのかを語っています。背景として、ギリシャの哲学者 
アリストテレスとの徳の理解が結局は自己のためであることを指摘 
しています。そのうえで、クリスチャンの徳と御霊の実の意味を、 
パウロ書簡を中心に注意深く語っています。

 難しいテーマです。It is not about you と言っても、結局は 
about you になってしまう微妙なところを、じっと我慢してそれでも 
about me ではなく、about God and His Kingdom であること 
を受け止めていくのです。今していることが誰にも認められなくて 
も、またそのことで困難を覚えていても、見放されているように思 
えても、放り出すことをしないで、ただ我慢をしてし続け、生き抜 
くだけです。そのためには信仰と希望と愛がなければできません。 
また御霊の励ましと御霊の実を体内にいただかなければできないこ 
とです。当然「自分らしく生きる」ことにはならないのです。

上沼昌雄記
広告

「それでも自分たちのため?」2014年8月13日(水)

この週末に北カリフォルニアの家に戻りました。郵便物の整理

や、植木の水まき、家の周りの整備をして、必要なものを持って月
曜にはロス郊外の両親のところに舞い戻ってきました。北カリフォ
ルニアの同じ町に住んでいる義妹も両親の応援に来ていて、2
週間ごとにそれぞれの郵便物を確認するようにしています。

片道8時間近いドライブをします。ちょうど中間点にレスト
ラン・ホテルをかねた休憩地があります。そこまで一気にドライブ
して、次の2時間を妻がドライブして、最後の2時間の
ドライブで到着するパターンになっています。この帰りのドライブ
で妻に代わったときに、山の教会の牧師のメッセージのCDを
聞くことになりました。しばらく礼拝も失礼しているのです
が、CDでメッセージは聞くことができます。

6月初めの 「受けるより、与える者は幸いである」
という有名な箇所からの 礼拝メッセージでした。教会はボラ
ンティア活動が活発で、ホームレスの人たちや必要のある人たちへ
の支援を積極的に始めています。フォレストヒルの町の人たちもそ
の活動に注目してきています。メッセージはそのことを踏まえてな
されています。自分たちのボランティア活動は決して自分たちの栄
誉のためでなく、神の栄光のためであることを強調しています。そ
れでもフォレストヒルの町が自分たちの活動のために祝されている
ことを暗に認めています。

聞き終わって興味があったので、妻にどう思うかと聞いてみまし
た。妻も気になったようで、そちらはどのように思うのかと聞き返
してきました。それで、実はあのユダヤ人でタルムードの学者でも
ある哲学者レヴィナスの他者を視点に捉え直していく意味を、聞き
ながらもう一度考えていたと伝えました。こちらの言いたかった意
味が分かったようです。妻もボランティア活動は当然であるので、
この種のメッセージはしないで、聖書そのものの物語に注目してい
た方がよいという意味合いの返事をしてきました。自分たちのして
いる活動がどうしても中心になってしまうのです。どんなに神の栄
光のためといっても、「それでも自分たちのため」になってしまいます。

この辺はまったく難しいところです。他者のため、困っている人
たちのためといっても、その人たちに向かうこちらの姿勢と意味づ
けがいつもテーマになるからです。それをすることの必要と、それ
がクリスチャンのなすべきことであるという、改まった問いを持っ
て臨むことしかできないからです。自分の救いの確立とそれなりの
安定した信仰生活の上で考えられることなのです。自己確立を前提
にしたボランティア活動なのです。

レヴィナスは、そのような問いの前にすでに有無を言わせない
で、他者からの有責性を負わされていると言います。こちらの姿勢
とか意味づけの前に、負わされている責任であるというのです。旧
約聖書のトーラー・律法で言われている通りです。あなたがたの中
で「やもめ、みなしご、在留異国人が決して飢えることがないよう
に」ということで、神の民の社会は初めから成り立っているので
す。他者はこちらが問いかける前からすでにその責任をこちらに投
げかけているのです。神の民としての生き方は他者によって決めら
れています。神の民はそのようにしてこの地での責任を果たしてい
くのです。

キリスト教を踏まえた西洋の世界は逆に、自我の固執、自己確立
に終始してきました。ニーチェのキリスト教批判と西洋文明批判も
そこに向けられています。キリスト教自体が自己愛を助長している
のです。私の救い、私の霊性、私の平安、そのために教会が回転し
ているのです。

そんなことを車の中で話をしてきたのですが、妻はそれでも牧師
の意図は正しいので、できるところで応援していくべきであるとあ
えて言います。確かに妻は無言で実行しています。そしてそれぞれ
が負わされているというか、問いかけられている他者からの声に応
えていくことが自分たちの生きる道であると、夕暮れかかったカリ
フォルニアの草原をドライブしながら納得することになりました。

何と言ってもレヴィナスの興味深いのは、それでは誰が一番の他
者か、それは妻であると、あっさりと言うことです。一番身近な者
が一番の他者なのです。その他者によってこちらの生き方が、こち
らが決める前に、すでに決まっているからです。人生は意に反して
いるのです。

上沼昌雄記