夏の間に、20年近く使っている壁に取り付けてあるヒーターを取り替えようと思って、先週の水曜日に取りかかりました。壁から外に出る煙突が錆び付いていて離れないので、切り取ることになり、思いがけないほど時間がかかりました。午後3時半頃に、サイレンが聞こえ、飛行機が飛んでいて、あたりが騒がしくなりました。妻が先に様子を見に道に出ていました。私も出かけたら、近所の人も出てきて、隣の家のベランダから眺めたら、一山向こうから煙が出ていました。
私たちの近くから道が降りていて、一度渓谷にくださって、川向の町に通じています。その道にはヤンキー・ジムという名がついています。その川向こうで山火事が発生したのです。近所の人の話だと向こう側は結構の傾斜で、しかも数年来の体積が燃料になって、消火作業は難航しているようです。すでに5日目ですが、2500エーカーが燃えていて、鎮火率は30%となっています。土曜日の晩に一軒が延焼したと聞いています。
川向こうの町に私たちの教会があります。一度国道で下の町に行ってそこからこの分水嶺の上の町に行きます。山火事は渓谷の間で起こっているために、向こうからはあまり見えないことが分かりました。私たちのところからは煙だけですがよく見えます。また空からの消火活動のための飛行機も私たちの上を通っていくので、現実感があります。あと数日かかるような話です。
教会の人と、山火事がこちらに飛び火しないように祈ったらよいのか、風が押しやって向こうに、つまり教会のある町の方に向かうように祈ったらよいのか分からないという話をしました。「悪からお救いください」と主の祈りを、深く考えないでというより、自分中心に祈っていることに気づきます。
今回の山火事の煙の上がり具合を一山向こうに見ているのですが、その一山が11年前の、あの同時テロ多発事件の一ヶ月ほど前に、山火事で燃えたところなのです。その山は川のこちら側で、私たちから一谷降りた向こうにあり、夜中真っ赤に燃えているのを見てきたのです。初めて経験した山火事で、恐怖感に襲われたことを思い出します。そしてその数週間後に起こった同時多発テロのことを考えないわけに行かないのです。
この9/11から10年後に、すなわち昨年、東日本大震災が起こりました。3/11です。その間にも大きな災害が起こり、政治的・民族的な悪も起こっています。いまも起こっています。これからも起こります。山火事や地震や津波や集中豪雨を、自然災害として切り離して、邪悪な人間の思いだけが関わることを悪と見なしたらよいのか、考えないわけに行かないのです。西洋では1755年のリスボンの大地震と、あの第二次世界大戦のホロコーストのことで、同じ問いにぶつかっています。
「悪からお救いください」と真剣に祈っている私たちにとって、その悪とは、その悪から救われるとは、その悪に対する勝利とは、神の義とは、あの原発事故とは、と問われているのです。答えがあるわけではないのです。問いだけがあるのです。その問いを出すことで、答えの方向が見えてくるだけです。難しい仕事です。しかし、避けられないのです。みなで知恵を出し合って取り組んでいくときです。
上沼昌雄記