「夕陽はビルの谷間には沈まない」2009年4月27日 (月)

 
ウイークリー瞑想

 土曜日に一日ポートランドの日本人教会の聖書塾でヨブ記を教えて来
ました。というより、塾生7名と聴講生と牧師ご夫妻も入れ、20名近
い方々と一緒にヨブ記を読んできたという方が正確です。一人では読み
切れないニュアンスやリズムが読み合わせながら伝わってきます。19
章まで辿り着き、途中を飛ばして、38章から最後までを読みながら、
ヨブの心と信仰、友たちの神学について語り合いました。深みと広がり
のあるヨブ記の朗読会でした。

 日曜は日英の合同礼拝でした。その前に教会学校の一つで、比較的年
配の方々のグループで話をしてくださいということでした。朝食を牧師
ご夫妻と聖書塾担当の牧師と一緒にいただきました。3月の日本での帰
国者の大会のことが話題になりました。その折りに「遊牧民の神学」と
いうのが話題に出てきました。海外邦人とか帰国者ではなくて、すでに
国境を越え、文化を越えて遊牧民として共に生かされているのです。そ
うです。ノマドの思想がすでに哲学、社会科学で取り上げられているの
です。

 そんな会話が切っ掛けになって、教会学校ではヘブル書11章でいわ
れている、自分の故郷を出て、天の故郷を求めている信仰の旅人として
望みを分かち合いました。生まれ故郷を出てから、今までの歩みで失っ
てしまったもの、旅人して傷を受けたこと、海難、戦争の難について
伺ってみました。それは天の故郷で回復され、さらにもっとすばらしい
恵みにあずかれるからです。

 ご主人に付いてアメリカに来たのにもかかわらずご主人の死で道に
迷ったこと、ご主人の病で苦労したこと、戦争体験、父親を早く亡くし
て家族の愛を失ってしまったこと、信頼していた人に信じられないこと
を言われたこと、すでに何人かの方は前の聖書塾で人生の旅の苦難を
語ってくれましたので、それぞれその重さを噛みしめながら分かち合う
ことになりました。

 一人のそれほど年配でないご婦人が、お見合いで結婚して東京に住み
ついたときに、夕陽がビルの谷間に沈むのを見たときに感じた絶望感の
ようなものを、旅人としての歩みの一コマなのでしょうが、象徴的なこ
ととして語ってくれました。笑いを持って皆さんが納得されていまし
た。日本海側の能登半島が出身と言うことです。夕陽は海に沈むものを
思っていたのが、あのビルの谷間に沈むのを見たときに受けた衝動は今
でも心の襞に深く刻まれているのです。鋭いかき傷です。

 最上川沿いの隠れ家を日本での住処のようにさせていただいていま
す。その隠れ家の窓から朝日が山の上から昇ってくるのが見えます。そ
して夕陽は山の上に沈んでいきます。母屋のご主人は福島県の太平洋側
の出身です。朝日は海から昇ってくるものと思っていたました。しばら
く最上川沿いの風景に違和感を感じていたと言われます。この方とカリ
フォルニアのビーチで夕陽が太平洋に沈むのを眺めたことを思い出しま
す。

 教会学校の学びの結論は、望みとして目指している天の故郷の風景を
どのように心に思い描いていますかという問いです。失ったもの、傷を
受けたものが今までの人生の旅であるので、天の故郷でいただけるもの
を望み見るのです。家族の愛を失った人には、愛と喜びに満ちた家庭が
待っています。傷を受けたからだは天の故郷で全く浄められます。

 皆さんに伺う時間がなかったので、先ほどのご婦人に天の故郷の風景
が出てくるでしょうと確認しましたら、うれしそうに今でも海に沈む夕
陽を見たくなりますと言われます。そうです。天の故郷では、夕陽はビ
ルの谷間には沈まないのです。

 上沼昌雄記

「牧師と教会」2009年4月20日(月)

 
神学モノローグ

 4月の最初の聖日に、関わりのある教会の牧師就任式をさせていただ
いた。すでに教会が牧師の招聘を決めていたことを礼拝のなかで確認さ
せていただいただけである。牧師と奥様と長老と執事に問答形式でする
ことにした。牧師には12問、奥様には6問、長老と執事にはそれぞれ
2問ずつの質問を先に渡しておき、会衆の前で、問答形式でやり取りを
した。

 全部終わってから会衆に自由に質問する時を持った。牧師にどのよう
な教会にしたいのですかいう質問が出た。一言の返事に質問者が納得さ
れたようであった。とても不思議な表現なので、私はその意味合いを牧
師本人に確認することになった。いまだに分かったような、分からない
ような気がしている。ともかく会衆も就任式に参加しているようなかた
ちなので、全員に前に出て来ていただいて、牧師と奥様に座っていただ
いて、長老と執事が手を置いて、その回りをさらに肩に手を置いて囲む
ようにして、聖書と祈りの時を持った。

 祈り終わって、神様と新たに就任した牧師ご夫妻に拍手をして、挨拶
をしながら席に着いていただいて就任式を終えた。用意した質問のなか
に、牧師が奥様を、奥様が牧師を一言で紹介する問いを設けた。そのや
り取りを聞いて安心したようなコメントを耳にした。新しい歩みを始め
たこの教会に何かが起ころうとしている。

 そんな恵みの時をもって、イースター礼拝をしてから妻のもとに帰っ
てきたら、山の小さな教会に4年ほど奉仕をしてくださった牧師が、
イースター礼拝の後に役員会に2週間後に辞任の意向を伝えていたこと
を知った。すでに何度も牧師が来ては去っていくことを経験して、その
度に教会が小さくなっていくことので、何とも言えない思いと、牧師の
取っている姿勢からして避けられなかったのだろうと思わされた。

 下の町の教会に属しているご夫妻で、それぞれ仕事をしているのであ
るが、神学校で学んで資格を持っている。説教だけのパートの立場で
あったが、聖書に沿って一生懸命に語ってくれた。ただその牧師ご夫妻
が来るときに、その教会で引退牧師ご夫妻が教会学校で教えるというの
で一緒に来られた。いわゆる福音派の伝統的な聖書理解を強く持ってい
た。牧師の説教も聖書を語っているようでいながら、どこかでその立場
の聖書理解が先行していた。

 その聖書理解と教会の今までの歩みと抵触するところが出てくるよう
になった。地域の教会との協力関係を拒否された。それは「つり合わな
いくびき」のように捉えていた。昨年は大統領選挙があった。信仰にお
ける保守主義と政治的な保守主義が一体になっていて、オバマ候補を推
す黒人家族には到底受け入れられないような発言が出て来た。困ったこ
とだと思った。しかしその傾向はどういうわけか強くなっていった。そ
れがあたかも聖書的であるかのようなニュアンスに、教会の人たちも
困ったようである。

 不思議なことにこの山の小さな教会は、同じようなことをいままで何
度か繰り返してきた。いつも牧師の聖書理解が避けられないかたちで支
配的になる。牧師がそれなりの聖書理解を持つこと自体は当然である。
ただ、自分の聖書理解が絶対のように振り回してくる。そして、自分が
聖書を分かっているから教えてあげるという姿勢になる。その枠で教会
を支配しようとする。当然その枠に入らない人を排除していく。 

 どういうわけかこの小さな教会はそれよりも豊かなものをも持ってい
る。何が信仰者として大切なのか、それぞれの困難のなかで身に着けて
いる。それで、誰ともなしに窮屈さを感じてくる。この牧師も一緒に来
た引退牧師も、どうにもならないと思ったのであろう。そうは言わない
が、聞く耳のない教会ということで烙印を押して去っていくのであろう。

 教会が牧師の能力のなかで押さえ込まれたら、いずれ衰退していく。
牧師の能力を超えたものが動いているときに、新たな活力を持って動い
ていく。それが教会の役員や信徒から来ることもある。ぞれは同時に、
当然牧師の能力を超えた神の働きである。人間的な策を打ち破るような
力が働いているときに、溢れ出てくるものがある。日本でもアメリカで
も、牧師の枠を超えて満ちあふれたものが教会で動いていることがあ
り、牧師の能力内で教会が身動きの取れない状態でいることがある。

 パウロが見ていた教会の姿をいつも思う。「教会はキリストからだで
あり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておら
れるところです。」(エペソ1:23)

 上沼昌雄記

「桜と天国のチラシ」2009年4月14日(火)

ウイークリー瞑想

 昨年の4月14日に「天国のチラシと桜吹雪」という題で書きまし
た。書きましたというより、書かせていただきましたという方が正確で
す。それは、受難週・イースターを迎え、桜が咲き出すことに召された
お母様との、召天前の会話を知らせてくださったことに基づいているか
らです。次のような不思議な、それでいて確かなやり取りです。

母:「天国はどんなところか、黙示録には書いてあるけれど、み
んなに、どんなにすばらしいところかお知らせするために 私は天国で
チラシを作って、それをまこうと思う。」

私:「(わざと)でも、それを地上に届けるのは、相当むずかし
いんじゃない?」

母:「そのチラシはきっと桜の花びらになって届くから、 桜の
花びらが散っているときは、それだと思ってね。」

 この方とはJCFNの理事として一緒に奉仕をさせていただいていま
したので、来年は全世界からの帰国者の大会で桜の季節に日本に入るの
で、桜を見ることができる期待がありました。そして今年、天国のチラ
シとして桜とその花びらを思い存分といえるほど鑑賞しました。

 満開に近い上野公園で、シンガポールから帰国されたご夫妻と友人と
4人で人混みに紛れて淡く咲いている桜の下を歩きました。花見の人が
桜の下を埋め尽くしています。隙間のないほどに人が集まってきます。
桜には、文句なしにとてつもないほど人を惹きつける魅力があります。
立ち止まることができないほどの人の流れです。それでも桜を見上げま
す。見上げれば桜と空が一つになってしまいます。押しつぶされそうな
人混みも忘れてしばし天国を思い見ることになります。

 この友人は7年前にこの桜の季節にご主人を天に送りました。その天
国から語りかけているかのように、交わりが続いています。井の頭公園
の脇で闇なべの会を催しました。まだ5分咲きの桜の下で寒風をものと
もしないで若者が花見をしている脇を通ってその場に集いました。それ
は交わりの男性版でした。女性版をこの友人宅で桜の開花を語りながら
持ちました。心に届いている花びらは、自分でも計画しても決して獲得
できない、天に通じている恵みのしるしです。

 おふたりとも桜が大好きな秋田のご夫妻のところが今回の日本での最
終地です。イースター礼拝をして、昨年の夏に召された姉妹の墓の前で
偲ぶ時を持ちました。先に召された方が私たちを招いています。この地
上での歩みをしっかりするように励ましてくれます。そしてどこに行く
のか望みを与えてくれます。

 桜の好きな奥様が近くのお姉さんを誘って、秋田で一番速く桜が咲く
という日本海岸線上で山形県境の近くの金浦という町の勢至公園の花見
に連れてくれました。3分咲きくらいであろうということでしたが、潮
風が届かないで陽の当たっているところは結構咲いていました。樹齢何
百年と言えるほどの老木にも新しい枝が伸びて桜を咲かせようとしてい
ます。よく見ると、その老木の幹のところどころに、そのままつぼみが
出てきて桜を咲かせています。

 この公園の桜は手入れが行き届いているようです。何百年と年数を重
ねてごつごつした桜の幹があちこちにあります。老木はあるところは枯
れています。それでもその幹の節々に、待っていられませんというかの
ようにそのままちょこんと桜を咲かせています。老木にいのちが通って
います。それぞれの幹が顔を出して挨拶しているようです。そのどす黒
い幹に淡いピンクの可愛い桜が、「天国のチラシだよ」と語りかけてい
ます。

 上沼昌雄

「哲学者と死」2009年4月6日(火)

 
ウイークリー瞑想

 いのちのことば社の新社屋の奉献式、闇なべの会、リバイバル・ジャ
パン誌の編集者との村上春樹についての歓談、高校時代の友人との会
合、大村晴雄先生訪問、最上川沿いの隠れ家を訪ねてくれた方々との肘
折温泉巡り、シンガポールからの「帰国者」との上野での花見、牧師就
任式の司式と、この一週間は何とも言えない多面性を持った交わりをい
ただきました。

 今週は受難週です。この5月2日に99歳になられる大村晴雄先生を
宇都宮のホームに訪ねたこともあって、哲学者が死をどのように見て、
哲学をしているのか興味をそそられています。レヴィナスの苦難に関す
る論文でヨブ記が取り上げられていて、その脚注にあるカントの小品
「弁神論の哲学的試みの失敗」について前橋在住の元群馬大学教授の小
泉氏に問い合わせたのが契機で、そのドイツ語の原文を大村先生が見せ
てくださるというので一緒に伺うことになりました。その典拠をすらす
らと言って、花文字のドイツ語の原典を見せてくれました。

 死に対する恐怖を不安の概念として実存の現象学的分析をしたのがド
イツの哲学者ハイデガーです。乗り越えることのできない死への不安を
哲学の基点としています。存在へ投げ出されている孤独な自己を引き受
けることで、存在の一回性を実存のあり方としています。その分析は存
在のどうにもならない神秘性にまで辿っています。抜け出せない存在の
迷路に陥ってしまいます。死の前にたじろぐのみです。

 同世代のウイーンの哲学者ヴィトゲンシュタインは、死の陰をいつも
抱えていたと言われています。しかし自分に問いかけるように言いま
す。「もし、不老長寿の薬があって、それを飲むことが死に対する答え
になるのか。」 生き続けることが生きることの意味を知ることになる
のかと、問うのです。そして、人生の「意味」はこの世では見いだせな
いと結論づけるのです。「沈黙」を哲学の結論として、一時期哲学教授
を辞めるのです。それは見事です。

 ホロコーストの生き残りといえるリトアニア出身のユダヤ人哲学者レ
ヴィナスは、600万の同胞の死がありながら、死を哲学の基点とする
ことを避けています。死を自己の外にある他者と見ることで、自我に固
執する内在性を打ち破る起因と見ています。未来としての時間をもその
他者と見ることで、他者の他者としてのメシア信仰を哲学の結論として
います。死を超えた「存在の彼方」を見ています。その「彼方」は「手
前」にあるとして、アブラハムの信仰を継承しています。

 最上川沿いの隠れ家の母屋を訪ねてこられた方が老年看護学の専門家
と言うことで、文化の違いのなかでの死生観を伺いました。少なくとも
哲学者の死の理解がその人の哲学を形作っています。ハイデガーの死生
観がいわゆる実存哲学、新正統主義神学に影響しています。死に対する
不安という概念が、聖書とは別に、西洋のキリスト教世界観に影響して
います。その対極にあるレヴィナスの死生観は、西洋の視点を抜きにし
た旧約聖書の世界をもう一度開示しています。

 この隠れ家の母屋の奥様は地元の方で、お年寄りの死生観を語ってく
れました。どこかで旧約の世界に結びつきそうな思いをいただきまし
た。もしかしたらキリスト教の死生観はギリシャ・ローマの文化に影響
されたもので、その視点で聖書を見ているのかも知れません。それは避
けられないことですが、もう一度イスラエルの民の死生観をこの受難週
に解きほぐしてみたくなりました。

 それにしても大村晴雄先生は、死を通り越してその先を見ているかの
ようです。去るときに、いつものように「祈ってよ」と言われます。腰
を曲げ、耳を傾けて「アーメン」としっかりと合唱されます。玄関まで
来てくださって、小泉氏と私に手をあげて見送ってくださいました。

 上沼昌雄記