この6月にミニストリー30周年記念を迎えました。今までの導きと恵みと交わりを「感謝の年代記」としてまとめました。幸いにいくつかの本を出版できました。2010年には『父よ、父たちよ』を出版いたしました。あまり注目されませんでした。そのことを年代記で以下のように記しました。
<男性集会、そして、闇のテーマを取り上げて行き着いたところが「父親」のことでした。現実的にそうでした。男性にとって、父親のことは、話す場もない、話す機会もない、話したくもないということで、男性にとって紛れもなく闇なのです。それで思い切ってこのテーマで本を書くことになりました。現実に闇なのですが、いろいろな形でその闇が顔を出しているのです。父ダビデの嘆きから、カラマーゾフの兄弟の父親、カフカの『父への手紙』と出てくるのです。
書くのも気後れするテーマであり、書いて2010年に『父よ、父たちよ』(いのちのことば社)として出版されてもそれほど歓迎されもしませんでした。闇の中にそっと戻された感がします。それでも書いたり、語り合ったりして来たことで、闇としての存在は確認されたようです。多少の光が当てられた闇となったのかも知れません。それでもこのテーマは三位一体の父なる神に結びつきますので、大切なことです。>
私のそのような嘆きを神さまが聞いてくださったようで、つい最近二つのことがありました。一つは、知り合いの方の父親のことに関わるようになり、『父よ、父たちよ』を読みましたと連絡が入りました。もう一つは、この父親のことをある雑誌の特集で取り上げるので、編集者がインタビューをしたいという申し出でした。
そのズームによるインタビューがこの月曜日に行われました。そして私自身はインタビューに備えてもう一度『父よ、父たちよ』を読み直しました。正直、闇の中にそっと戻されたままではいけないと思いました。同時に、父親の存在は闇の中に葬り去られる悲しい存在なのかも知れないとも思わされました。
それでもインタビューをしてくださった編集者が上手に引き出してくださり、思っていたことを遠慮なしに話すことができました。特に父親のことは、父なる神との関わりになりますので、福音の豊かさに関わることをお話ししました。編集者が、その福音の豊かさのことをもっと説明してくださいと言ってくださいました。
それで思い切って「福音とは」と聞かれたらどのように返事しますかと聞いてみました。今までも機会があるとそのような問いを出すようにしてきました。基本的には、キリストを信じて救われたら天国に行くという返事が返ってきます。しかしそれだけでは、自分のための福音理解で終わってしまいます。自分の救い、自分の幸せのための福音に過ぎません。福音の豊かさの半分も味わっていないことになります。
福音は何と言っても神の義の現れで、義とされるのはその恵みに過ぎません。またさらに新天新地に関わることですので、この世の不義に対する神の義と裁きも含まれています。そして何と言っても、「御子の御霊」によって「アバ、父よ」と父なる神に立ち返ることが福音の豊かさとして与えられていることを、お話しさせていただきました。
誰もが父親のことで闇をかかえています。福音によって単に父親の問題が解決されるというのではなくなて、父なる神に立ち返ることで、十戒で示されているように、神の恵みと祝福を千代にまで受け継がせる責任を果たすことになります。ユダヤの民はその約束に生きています。私たちも福音のゆえに父なる神の愛を代々に伝えていくことができるのです。
1時間ほどのインタビューでしたが、語りたかったことを上手に引き出してくださいました。『父よ、父たちよ』が静かに闇に戻されたままであったのことを、年代記でその悲しみを嘆いたことで、不思議に神が引き出してくださったかのようです。取りも直さず、その雑誌の特集が豊かに用いられることを祈ります。
上沼昌雄記