「悲しきかな『父よ、父たちよ』」2021年7月29日(木)

 この6月にミニストリー30周年記念を迎えました。今までの導きと恵みと交わりを「感謝の年代記」としてまとめました。幸いにいくつかの本を出版できました。2010年には『父よ、父たちよ』を出版いたしました。あまり注目されませんでした。そのことを年代記で以下のように記しました。

 <男性集会、そして、闇のテーマを取り上げて行き着いたところが「父親」のことでした。現実的にそうでした。男性にとって、父親のことは、話す場もない、話す機会もない、話したくもないということで、男性にとって紛れもなく闇なのです。それで思い切ってこのテーマで本を書くことになりました。現実に闇なのですが、いろいろな形でその闇が顔を出しているのです。父ダビデの嘆きから、カラマーゾフの兄弟の父親、カフカの『父への手紙』と出てくるのです。

 書くのも気後れするテーマであり、書いて2010年に『父よ、父たちよ』(いのちのことば社)として出版されてもそれほど歓迎されもしませんでした。闇の中にそっと戻された感がします。それでも書いたり、語り合ったりして来たことで、闇としての存在は確認されたようです。多少の光が当てられた闇となったのかも知れません。それでもこのテーマは三位一体の父なる神に結びつきますので、大切なことです。>

 私のそのような嘆きを神さまが聞いてくださったようで、つい最近二つのことがありました。一つは、知り合いの方の父親のことに関わるようになり、『父よ、父たちよ』を読みましたと連絡が入りました。もう一つは、この父親のことをある雑誌の特集で取り上げるので、編集者がインタビューをしたいという申し出でした。

 そのズームによるインタビューがこの月曜日に行われました。そして私自身はインタビューに備えてもう一度『父よ、父たちよ』を読み直しました。正直、闇の中にそっと戻されたままではいけないと思いました。同時に、父親の存在は闇の中に葬り去られる悲しい存在なのかも知れないとも思わされました。

 それでもインタビューをしてくださった編集者が上手に引き出してくださり、思っていたことを遠慮なしに話すことができました。特に父親のことは、父なる神との関わりになりますので、福音の豊かさに関わることをお話ししました。編集者が、その福音の豊かさのことをもっと説明してくださいと言ってくださいました。

 それで思い切って「福音とは」と聞かれたらどのように返事しますかと聞いてみました。今までも機会があるとそのような問いを出すようにしてきました。基本的には、キリストを信じて救われたら天国に行くという返事が返ってきます。しかしそれだけでは、自分のための福音理解で終わってしまいます。自分の救い、自分の幸せのための福音に過ぎません。福音の豊かさの半分も味わっていないことになります。

 福音は何と言っても神の義の現れで、義とされるのはその恵みに過ぎません。またさらに新天新地に関わることですので、この世の不義に対する神の義と裁きも含まれています。そして何と言っても、「御子の御霊」によって「アバ、父よ」と父なる神に立ち返ることが福音の豊かさとして与えられていることを、お話しさせていただきました。

 誰もが父親のことで闇をかかえています。福音によって単に父親の問題が解決されるというのではなくなて、父なる神に立ち返ることで、十戒で示されているように、神の恵みと祝福を千代にまで受け継がせる責任を果たすことになります。ユダヤの民はその約束に生きています。私たちも福音のゆえに父なる神の愛を代々に伝えていくことができるのです。

 1時間ほどのインタビューでしたが、語りたかったことを上手に引き出してくださいました。『父よ、父たちよ』が静かに闇に戻されたままであったのことを、年代記でその悲しみを嘆いたことで、不思議に神が引き出してくださったかのようです。取りも直さず、その雑誌の特集が豊かに用いられることを祈ります。

 上沼昌雄記

「その名は、マラカイ(マラキ)さん」 2021年7月26日(月)

 5月のある日に敷地内で仕事をしていました。一段下にある道沿いに一台の小型トラックが止まり、出てきた男性が、私の後ろに幌をかぶせている車を指して、「それは、1964年型のクライスラーのニューヨーカーか」と声をかけてきました。「どうして分かるのか」と私は返事をしました。「同じようなクラシックカーを持っているからだ」と応えました。そして見に行っても良いかと言うことで、入口に車を止めて上がってきました。

 「私の名はマラカイです」と自己紹介をして、続いて「旧約聖書の最後の預言者の名前です」と付け加えました。マラキ書になるわけで、マラカイさんは日本語名ではマラキさんになります。それで興味があり、「旧約聖書の民の家族ですか」と聞いてみました。嫌がる様子もなく、そうではないが、ご自分の祖父がウイックリフの聖書翻訳に関わってきたと言われ、私も日本人のための神の働きをしていると言うことで、一気に親しみを覚えたのです。

 幌をかぶせたままの状態で点検して、手放す意向はあるのかというような意味合いの会話になりました。クラシックカーを修理して乗るのが自分の趣味で、家には同じようなのが5台ほどあると言うことでした。実はその1964年型のクライスラー・ニューヨーカーは、ルイーズの祖父母の初代のものであったのを、今のところに自分たちで家を建てたときから、親戚を通して受け継いだもので、しばらくは乗り回していたのですが、エンストを起こして以来、何十年もそのまま放置していました。

 ルイーズにとっては思い出ある車で、また名義も彼女のものであることを説明して、再度見に来てもらうことでその場は分かれました。その週末にルイーズも立ち会い、マラカイさんの祖父母がウイックリフの聖書翻訳の宣教師であり、ルイーズの両親も宣教師であったことで会話が進みました。お祖父さんは、Robert Longacre ロバート・ロングエイカーさんで、ウイックリフの言語学者としてメキシコを中心に活躍されたようです。ウイックリフ関係の友人に聞きましたら、教わったことはないが名前を知っていると言うことでした。

 ルイーズは、ただ廃車にしてしまうのは惜しいので、行き先を祈っていました。そして不思議に導かれるように関心を持ってくださる方が登場したので、そのまま引き取ってくださるのでしたら喜んで譲渡しますと言うことで話がまとまりました。すでに25年以上は野ざらしになっていましたので、さび付いているだけでなく、内装も雨漏りもあって目も当てられない状態なのですが、マニアには1964年型のクライスラー・ニューヨーカーは魅力なのでしょう。1964年とは最初の東京オリンピックのなされた年で、私が大学に入った年でもあります。

 マラカイさんは、友人でトレーラーを持っている人がいて、その人との調整ができたら車を引き取りに来ますと言うことでした。しばらく連絡がなかったのですが、過ぎる土曜の夕方に、次の日の日曜、すなわち、昨日の午後の礼拝後2時に引き取りに来ても良いかと連絡があり、約束の時間にその友人のトレーラーとともに現れました。すでにタイヤもぺちゃんこでしたが、1時間ほどかけて無事にトレーラに乗せました。

 最後にマラカイさんが私たちのところに来て、私たちの申し出に感謝の意を伝えてくれました。私たちもこのような形で思い出のある車がマラカイさんの手に委ねられることを感謝しました。神の取り扱いに驚いています。すでに風景の一部になっていた1964年型のクライスラー・ニューヨーカーが敷地から出ていくのを静かに見送りました。

 上沼昌雄記

「それではキリストは罪に仕える者なのか」2021年7月15日(木)

 この疑問文は、ガラテヤ書での信仰義認論を語っていると言われる2章15節から21節のなかの17節で出ている、何とも大胆な表現です。20節の有名な「私はキリストともに十字架につけられた」というパウロの端的な表現に結びつく箇所でもあります。何かパウロが啖呵を切っているようにも思われます。ある意味でそうなのです。その前の箇所でペテロの行動に対して「面と向かって抗議」をしている続きでもあるからです。ですからペテロに向かって語ってるとも言えるのです。その反面、パウロ自身の自己主張の表れとも言えます。

 ローマ書での信仰義認論を語っている3章21-31節の文章との比較で、「信の哲学」の千葉惠先生が興味深い指摘をしています。それはローマ書のここではは神の側のこととして信仰義認を語っているのに対して、ガラテヤ書ではパウロがすでに教会の問題を取り上げるなかで、信仰義認で生かされている人間の側でのこととして語っているというのです。大切な指摘です。ですからここでは、直接的にペテロの行動に対してパウロ自身が信仰義認でどのように生きているかを語っているのです。

 それで17節の疑問文が出てくる前の16節で、新改訳2017での脚注の別訳を取り入れて読んでみます。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストの真実によって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスに信じました。律法を行うことによってではなく、キリストの真実によって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」何とも筋の通った言い回しです。「私たち」とペテロも含めて語っているかのようです。

 このように信仰義認論の根拠である「イエス・キリストの真実によって」明らかにされた神の義を、そのキリスト・イエスを信じることによって義とされたので、なおさらに私たちが罪人として見出されるとするならと17節で、「それではキリストは罪に仕える者なのか」と、パウロ独自の言い回しで疑問を投げかけるのです。「イエス・キリストの真実によって」義とされているのにもかかわらず、なお私たちが罪人して自分を見出すことになるとするなら、キリストは「罪に仕える者なのか」「罪の推進者なのか」と疑問文で提示するのです。良くここまで言えるものと感心するのですが、それも「断じてあらず」と断定するためでもあるのです。

 ここではペテロが神の義をいただいていながら律法に戻ってしまったことへの抗議の意味で出てきたことなのですが、20節での「私はキリストともに十字架につけられた」という主張を顧みると、パウロはあの十字架で神が罪を処罰されたときに、自分の罪も処罰されたことを認めていることが分かります。義とされたのでもやは罪人ではないのです。「肉なる者だれも」律法によっては義とされないのですが、「イエス・キリストの真実によって」義とされたので、罪人と看做されることはないと言い張っているのです。ルターのいわゆる、義人であり同時に罪人であるという主張は合わないのでしょう。

 しかし現実に罪赦されても罪の意識に苦しみます。「赦された罪人」に過ぎないとも教えられます。それでもそれは私たちの視点で十字架を見ているからかも知れません。罪赦されたと言われても、自分を見ている限り罪の意識から抜け出すことができません。それはパウロも分かっていたのでしょう。ローマ書7章の課題です。

 それでも、自分のうちにキリストを観るのではなく、キリストのうちに自分を見出すことで視点を変えることをパウロは知っているのです。「私はキリストともに十字架につけられた」という20節の主張になるのです。それは「信の哲学」が注意深く訳しているように、「神の子の信によって、信において生きている」自分を見出しているからです。

 上沼昌雄記

「すべての理解を超えた神の平安が、、、」2021年7月9日(金)

 この箇所は、前回のピリピ書3章9節の「キリストのうちに見出される?!」に続いて、パウロが獄中での神との親密性を4章7節で語っているところです。「信の哲学」を提唱されている千葉先生から、この箇所での未解決であった部分の考察に関しての報告をいただいたのです。そこで使われているヌースのことです。

 このヌースはローマ書7章の終わりで「心では神の律法に仕え」、12章2節では「心を新たにすることで」と、「心」と訳されることが多いのですが、「心」は一般にカルディアと言い表されていますので、ヌースの訳語と理解は困難な課題を含んでいることになります。英訳ではmindと訳されることが多いです。

 ピリピ書4章7節はその前に「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあり、それを受けて「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と、新改訳2017でなっています。ここでは「すべての理解(ヌース)」と「あなた方の心(カルディア)」の両方が出ています。

 ヌースはアリストテレスの『魂論』でも取り上げられていますので、パウロでの使われ方に細心の注意が求められます。ヌースは、聖霊の促しによって私たちの霊が発動して、目に見えない対象にヒットした場合にのみ確認される「接触知」で、それが起こらない場合には無知のままであると言います。瞑想してるときにあることに気づかされ、御言葉を思い巡らしているときに神の導きを確認することがあります。起こらないこともありますが、私たちには「アーメン」と言える恵みを経験しています。千葉先生はこの意味でのヌースを尊称を込めて「叡知」と呼んでいます。

 それでこの箇所を「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が」と訳されているのですが、ヌースへの霊の発動なしに、直接的な「神の平安」が私たちに関わってくることに驚かれ、そのことを思考された結果を知らせてくださったのです。ヌースはあることにヒットしたときにのみ生じることで、さらに「ヌースの刷新」とあるように肉を持って生きている私たちにはヌースで得たものがいつも留まっているわけでなく、いつも刷新される必要があります。そのようなヌースの働きを超えて、どこかで直接的な「神の平安」が私たちに届いてくることの可能性を語っていると言うです。

 私たちは、信仰を持って祈ってきても解決されない課題を人生で負っています。もうこれで人生を終わるのかと思わされることがあります。人生への悔いを覚えることがあります。信仰者として生きてきたことの意味が分からなくなることもあります。聖霊の取り扱いを感じられないときがあります。「何も思い煩わないで」と言われていても、思い煩わないわけに行きません。

 それでもその心を少しでも神に向けるときに直接的な神の平安で包まれることがあります。それは神の真実への信頼から生まれてくるのでしょう。それは神の福音に含まれるイエス・キリストの真実の歩みによっているからでもありましょう。十字架の死と死者の復活に含まれる神の力の直接的な現れなのでしょう。獄中でただその神の力に動かされているパウロの心が、こちらにも響いてきます。

 上沼昌雄記

「キリストのうちに見出される?!」2021年7月1日(木)

 パウロはご存じのようにピリピ書3章で自分の出生と背景を誇らしげに語っています。5節と6節で「ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、、、律法による義については非難されることがない」とまで言い張っています。しかしさらに7節と8節では「キリストのゆえに」それらすべてを「損と思い」「ちりあくたと考える」とまで言っています。

 そしてそれに続き、さらに9節でまとめるように新改訳2017では言います。「それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つためです。」脚注で別訳として「キリストの真実による義」と紹介されています。

 この箇所は、すでにこの欄で紹介してきましたローマ書3章22節とガラテヤ書2章16節と同じような言い回しになっています。協会共同訳はすでに本文で「イエス・キリストの真実による」と訳していますが、このピリピ書3章9節でも同様に訳しています。「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」別訳で「キリストへの信仰」としています。この訳出の違いは、すでに英語圏で30年ほど前から議論されてきて、英訳聖書でも同じような傾向を観ることができます。

 ここではもう一つのことに注目したいと思います。それは9節の初めで、「キリストにある者と認められる」 「キリストの内にいる者と認められる」と訳されていることです。しかし、文字通りには「キリストのうちに自分が見出されるため」と言われているのです。端的にキリストの真実の歩みを振り返ることで、その歩みのなかに自分が見出されることを願っているのです。パウロはご存じのようにその前の2章で、キリストの謙卑といわれる6節から12節でキリストの真実の歩みを歌っています。そのキリストのうちに自分が見出されることを願っているのです。

 「キリストにある者と認められる」 「キリストの内にいる者と認められる」と、邦訳聖書に従って今まだ漠然と読んできたのですが、それは何か自分のなかにある「キリストにある者」のイメージを持って読んでいたように思います。すなわち「キリストにある者」としてこうあるべき姿に自分を合わせるような意味合いで読んでいたのかも知れません。そのイメージはそれぞれの信仰形態のグループによってかなり異なっているのですが、結局はそこででき上がったイメージに自分を合わせることに終始してしまうのです。

今回「信の哲学」がこの箇所を 「キリストのうちにわれが見出される」と文字通りに訳していることが分かりました。キリストが死にまでも従われたその歩みにまさに、パウロが自分を見出しているというか、そこに自分が見出されることに驚いている思いが直裁に伝わってきます。それは何と言っても、その後の「キリストの真実による神の義」と相応しているのです。

 従来の「キリストを信じることによる義」では、信じるこちら側の信仰のあり方にどうしても視点が移ってしまいます。その視点の延長線上で「キリストにある者」の理想的なイメージを作り上げてしまうのです。そのように「認められる」ことを願うのですが、現実には落胆してしまうのです。

 キリストの真実な歩みに思いを向け、そのキリストの歩みに自分が見出されることを願うとすると、何とも厳粛な思いにされます。実際に自分よりキリストの歩みに思いが向いているのです。そしてパウロには、そのキリストを一生懸命に追っている自分が見えたのかも知れません。十字架で罪が処罰されたときに、自分の罪が処罰されたことを見たのかも知れません。そして自分もキリストとともに十字架につけられたことを見たのでしょう。そのキリストを目標に 「うしろのものを忘れ」ひたすら「走っている」自分が見えたのでしょう。

 上沼昌雄記