昨日はイースターでした。それぞれのところで良い集会がなされたと思います。私は、年配のご夫婦や独り身の方々が共同生活をされている「まなハウス」という最上川の隠れ家にある所で、皆さんとイースターの集会を持ちました。そして、自家製の釜で焼いたビザを野外でいたできました。午後には数名の方と桜が満開の北山という小高い丘に散歩に出かけ、畑に囲まれた珈琲店でおいしいコーヒーをいただいて帰ってきました。至福な一時でした。
クリスマスのキリストの受肉の「肉」の意味と、私たちの救いのために御子であるキリストが肉をとる必要があったことを語り、さらに、肉を持った者は誰でもがその「肉の弱さ」を持っていること、最後には終わり、すなわち、死を迎えなければならないことを語りました。その上でキリストの復活は、その死に対しての勝利であること、それは肉を持っている私たちが死で終わることなく、今も復活のいのちで生き、さらに、キリストの再臨の時にキリストの復活の体と同じ姿に変えられるためであることを、黒板(ホワイトボード)にその流れを書きながらお話ししました。
そのいのちが生きるために神がキリストの昇天の後に聖霊を送ってくださったことも説明しました。クリスマスとイースターとペンテコステが結びついていることを説明したかったのです。肉を持っている限りクリスチャンも死を避けられないのですが、キリストのいのちが今生きていて、聖霊の実を結ぶことができることを、メルヴィンのことを例として語りました。山形城跡の霞城公園の土手からお堀に垂れ下がっていた満開の桜はそのいのちの現れのようでした。
このように、私たちの肉においてキリストのいのちが現れるためであることを、イースターで取り上げることになった背後に、その前の月曜の午後に北大の千葉教授の研究室で、このコリント第2の手紙4章11節が会話で取り上げられたことがあります。神学的に「肉」を二義的に、すなわち、生物的な意味と霊的な意味で肉を悪のように見る二面的な理解に対して、聖書の肉の理解は一義的で、生物的な意味だけで止めていることの傍証として出てきたことでした。肉の弱さがあり、罪のターゲットになり、死をかかえていても、悪ととる必要はないのです。「それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです」と言われているとおり、イエスのいのちが現れる「肉」は悪ではないからです。
またガラテア書2章20節のように、肉において信仰で生きているのであって、肉の外に何か特別な領域として信仰があるのではないのです。信仰は肉の内で働くのです。しかもその信仰は、協会共同訳で示されているように、神の御子の真実によっています。その神の御子の真実に基づいて、私たちの信仰が生まれ、しかもその信仰は肉の内にあり、さらに聖霊の助けにより御霊の実を肉にあって結ぶことになります。
その「神の御子の真実さ」のしるしとして、神が御子であるキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。肉をとられた御子のうちに死に打ち勝つ勝利を示されたのです。その御子の信に対応する私たちの信の故に、御子を死者の中からよみがえらせてた神の力が、肉の弱さで苦しむ私たちを生かしてくださいます。
そんな語らいを研究室でギリシャ語テキストを紐解きながら話してくださり、一瞬その昔学生として哲学教授に対面しているかの錯覚に陥りました。あたかも50年以上経ってその継続をしているかの思いになりました。同時にそれは神が備えてくださった特別の時間であり、空間でもありました。その感覚が、イースターでキリストの「受肉」から「死者のよみがえり」へと結びつけてくれました。
上沼昌雄記