「イエスのいのちがこの死ぬべき肉に」2019年4月22日(月)

 昨日はイースターでした。それぞれのところで良い集会がなされたと思います。私は、年配のご夫婦や独り身の方々が共同生活をされている「まなハウス」という最上川の隠れ家にある所で、皆さんとイースターの集会を持ちました。そして、自家製の釜で焼いたビザを野外でいたできました。午後には数名の方と桜が満開の北山という小高い丘に散歩に出かけ、畑に囲まれた珈琲店でおいしいコーヒーをいただいて帰ってきました。至福な一時でした。
 クリスマスのキリストの受肉の「肉」の意味と、私たちの救いのために御子であるキリストが肉をとる必要があったことを語り、さらに、肉を持った者は誰でもがその「肉の弱さ」を持っていること、最後には終わり、すなわち、死を迎えなければならないことを語りました。その上でキリストの復活は、その死に対しての勝利であること、それは肉を持っている私たちが死で終わることなく、今も復活のいのちで生き、さらに、キリストの再臨の時にキリストの復活の体と同じ姿に変えられるためであることを、黒板(ホワイトボード)にその流れを書きながらお話ししました。
 そのいのちが生きるために神がキリストの昇天の後に聖霊を送ってくださったことも説明しました。クリスマスとイースターとペンテコステが結びついていることを説明したかったのです。肉を持っている限りクリスチャンも死を避けられないのですが、キリストのいのちが今生きていて、聖霊の実を結ぶことができることを、メルヴィンのことを例として語りました。山形城跡の霞城公園の土手からお堀に垂れ下がっていた満開の桜はそのいのちの現れのようでした。
 このように、私たちの肉においてキリストのいのちが現れるためであることを、イースターで取り上げることになった背後に、その前の月曜の午後に北大の千葉教授の研究室で、このコリント第2の手紙4章11節が会話で取り上げられたことがあります。神学的に「肉」を二義的に、すなわち、生物的な意味と霊的な意味で肉を悪のように見る二面的な理解に対して、聖書の肉の理解は一義的で、生物的な意味だけで止めていることの傍証として出てきたことでした。肉の弱さがあり、罪のターゲットになり、死をかかえていても、悪ととる必要はないのです。「それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです」と言われているとおり、イエスのいのちが現れる「肉」は悪ではないからです。
 またガラテア書2章20節のように、肉において信仰で生きているのであって、肉の外に何か特別な領域として信仰があるのではないのです。信仰は肉の内で働くのです。しかもその信仰は、協会共同訳で示されているように、神の御子の真実によっています。その神の御子の真実に基づいて、私たちの信仰が生まれ、しかもその信仰は肉の内にあり、さらに聖霊の助けにより御霊の実を肉にあって結ぶことになります。
 その「神の御子の真実さ」のしるしとして、神が御子であるキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。肉をとられた御子のうちに死に打ち勝つ勝利を示されたのです。その御子の信に対応する私たちの信の故に、御子を死者の中からよみがえらせてた神の力が、肉の弱さで苦しむ私たちを生かしてくださいます。
 そんな語らいを研究室でギリシャ語テキストを紐解きながら話してくださり、一瞬その昔学生として哲学教授に対面しているかの錯覚に陥りました。あたかも50年以上経ってその継続をしているかの思いになりました。同時にそれは神が備えてくださった特別の時間であり、空間でもありました。その感覚が、イースターでキリストの「受肉」から「死者のよみがえり」へと結びつけてくれました。
 上沼昌雄記

「<イエス・キリストの真実による>とは」2019年4月12日(金)

 ご存じのようにローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティス」が、伝統的に「イエス・キリストを信じる信仰による」と訳されてきたことに対して、「イエス・キリストの真実による」との理解が深まってきて、この1,2年で出てきた二つの邦訳聖書で、その取り扱いが反対になっていることが分かります。
 『新改訳2017』では、従来の通りの「イエス・キリストを信じる信仰による」を本文で採用し、「イエス・キリストの真実による」を脚注に入れてきました。昨年の末にでた『協会共同訳』では、「イエス・キリストの真実による」を本文で採用し、従来の「イエス・キリストを信じる信仰による」を別訳として脚注に入れています。
 この新しい動きと変化を紹介しながらそのローマ書3章20-27節での意味合いを説明しますと、多くの方が関心を持ってくださいます。この水曜日の大阪堺での祈祷会での学び会でその説明を始めまさしたら、その違いをもっと説明して欲しいと要望が出ました。それだけでなく、その教会の牧師は黒板を持ってきて、その「イエス・キリストのピスティスによる」をギリシャ語で書いて、補足の説明をしてくれました。
 従来通りの訳ですと、信じる私たちの信仰に焦点が合わされていて、あたかも私たちの信仰の度合いによって神の啓示の理解が決まるような感じになります。私たちの聖書理解も、私たちが聞くメッセージもそのことに集中しています。また現実的にどのように信仰を深め、強めるのかというハウツーものの本が出回っています。
 このような意味での信仰は、3章27節で「業の律法」と「信仰の律法」の区別が明確になされているのですが、その「業の律法」に戻ってしまうことになります。そのような律法とは別に「イエス・キリストの真実による」と言われているを否定することになります。また「業の律法」による「誇り」を持つことになります。いわゆる律法主義的な信仰になってしまいます。
 「イエス・キリストの真実による」と理解することで、私たちの信仰以前に神の側での真実な啓示の業がなされていることを知ることになります。3章3節では「神の真実」とあります。すなわち、神の真実な愛と義の啓示のために備えられた「イエス・キリストの真実」さが、私たちの信仰の基としてなされていて、私たちは聖霊に促されるように信じることができるのです。
 教会での学び会では以上のことが中心なのですが、牧師との個人的な語り合いでは、その「イエス・キリストの真実による」ところの「の」の理解に関して千葉惠教授の「信の哲学」における理解も紹介します。さらに「神の義」が「イエス・キリストの信による」こととの間には「分離はない」と理解していることを紹介します。次の23節で「なぜならば」という接続詞が、その信義の分離がないことを説明しているからです。そして真剣に耳を傾けてくれます。
 それは新しい二つの邦訳聖書での理解の違いが明確に出てきて、その意味するところが信仰生活の根本に関わることに気づいて来ているからです。従来通りの理解では行き詰まり、堂々巡りの信仰に陥ってしまうことに、多くの人が気づいてきています。新しい二つの邦訳聖書は大切な問題提起をしています。
 ローマ書のテキストに関してまだ多くの課題が残されていることが分かります。千葉惠教授の「信の哲学」はその意味でも注目に値します。ミニストリーとして、このようにテキストを確認する学びができることは至福なことです。
 上沼昌雄記

「パウロの平安」2019年4月2日(火)

ウイークリー瞑想
「パウロの平安」2019年4月2日(火)
 
 パウロはローマ書を書きながら、前半の4章を通過して、5章から8章までのくだりで、イエス・キリストの信実によって啓示された神の義が、罪で苦しみ、罪の奴隷とまで言っている自分の中に、信仰を介して、火の玉のように熱を持って生きていることを感じ取って、深い平安に満たされているようです。
 
 前半で神のこととして為された啓示のみ業が、どこかで自分にも届き、その実を結んでいく手立てに気づいて、自分の肉の弱さにもかかわらず、内側から自分を生かすいのちを感じるだけでなく、そのいのちがどのように成長していくのかを見ることができているかのようです。
 
 パウロは何といってもユダヤ人として、律法を守れば神に喜ばれることは分かっていました。同時に律法を守ることができないだけでなく、自分のうちに罪が住みついていることに愕然とされます。アダムの責任とは言えないほどに自己責任として罪人である事実を認めざるを得ません。それでもイエス・キリストの信実を介しての神の義の啓示は、そびえ立つ峰のように毅然とそこにあります。こちらの信仰の度合いや起伏で左右されることはないのです。
 
 その神の義の啓示は、神の真実と愛の現れであるので、それに対応するのは、外なる人としての肉の内側の深いところで、それをよしと認める自分の信仰であることに気づくのです。それに気づいて驚いているかのようです。「業の律法」では罪の意識だけが出てきても、その同じ律法をなお神の御心の現れと認める識別力を持ち合わせています。さらに神の真実に対応する自分の信仰によって、その律法を「信仰の律法」「ヌース(心)の律法」とまで言います。
 
 肉の弱さの故にいつも罪の攻撃を受けます。神の律法を喜んでいる自分に戦いを挑みます。負けそうになります。自分の惨めさに落胆します。それにもかかわらず、自分の内なる人のどこかでイエス・キリストの信実に向き合う自分がいます。肉の弱さに引き込まれそうになっても立ち返ることができます。ヌースとしての自分は神の律法に仕えていると公言できるのです。
 
 そのように促してくれる力が自分の外から働いていることに気づき、知ることになります。肉の弱さに押し流されてしまう自分を援助してくれます。そのように自分の内側に働くその力は、神の霊なのです。神の啓示がそびえ立つ峰のようであれば、神の霊は海辺から吹き付け、推し進めてくれる風のようです。風は時には穏やかに吹き、時には激しく吹きます。風は肌で感じますが、神の霊は心の深くで感じ取ることができます。しかもその流れを見極めることができます。さらにその流れに自分を合わせることができます。自分の中で愛が実を結んでいることが分かります。
 
 肉の弱さで逸れることがあっても、そびえ立つ峰は、時には雲に覆われて見えなくとも、いつもそこにあることが分かり、さらに後押しをするような神の霊に促されて進むことができます。律法による努力ではなく、イエスの信仰に基づくことで、信仰で歩む確かさを自分に言い聞かせることができます。自分の今持っている信仰は弱くても、神の前で持つこと(ローマ14:22)ができると分かって、パウロは平安に満ちています。
 
 上沼昌雄記