志していると、聖書の読み方も教会のあり方も、それを支えている
文化的なもの、時代的なものの制約を抜けきれないのだろうという
問いを持つことになる。さらに、その文化的、時代的な制約はまさ
に神学の枠として、聖書をある方向で読むことになり、教会のあり
方を決定づけているとも言えるのだろうと自問することになる。そ
れは究極的に、そのような文化的、時代的な制約や神学的枠を越え
た聖書の読み方、教会のあり方はどのようなものなのだろうかと問
いかけることになる。
友人からいただいた『通訳ダニエル・シュタイン』(新潮クレス
ト・ブック上下)は、そんな文化的、時代的な色彩がこれほど濃密
な状況はないのではと思わされるなで信仰生活を送った実在の人物
をもとに書かれた小説で、それだけまた文化と時代を超えた聖書の
理解、教会のあり方、取りも直さず、信仰者の生き方を暗示してい
る。「ゲシュタポでナチスの通訳をしながらユダヤ人脱走計画を成
功させた若者は、戦後、カトリック神父となって、イスラエルは
渡った。」「惜しみない愛と寛容の精神で、あらゆる人種と宗教の
共存のために闘った激動の生涯」と本の上下巻の帯に記されている。
最上川の近くに住んでいる農民作家の友人が、昨年新聞でこの本
のことを知り、読んだあとに、「これは信仰のない自分よりも、上
沼さんが読むのがいい」といってくださった。昨年は荷物の関係で
持って帰ることができなかった。この秋に本屋さん巡りをしている
ときに、この本がまだ書庫の前の方に置いてあって、評判になって
いることが分かった。それで持って帰って、読んだ。日本ではすで
に小説として評価されている。それ以上にこの本は、聖書のなかの
物語があちこちに散らされていて、しかも神学的な洞察に富んだ
「神学小説」とも言えそうである。
ポーランドのユダヤ人で、身分を隠してゲシュタポでナチスの通
訳で働きながら武器を密輸し、ユダヤ人部落の撲滅の情報を伝えて
300人のユダヤ人のいのちを救った。身分がばれて女子修養会に匿わ
れているときにカトリックの信仰を持った。戦後カトリックの神父
としてイスラエルに渡る。英雄として取り扱われるより、自分たち
の信仰の裏切り者として取り扱いを受けた。カルメル山の麓のハイ
ファでカルメル会の祭司として他民族、他宗教のなかで活動をす
る。アラブ人キリスト者も登場する。この本の著者もユダヤ系ロシ
ア人でロシア正教会の信仰を持っている。何とも込み入った、しか
も濃縮された人種的、文化的、時代的状況である。
このような身動きが取れないような人種的、宗教的な制約のなか
で、ブラザー・ダニエルは逆にその制約を超えたキリスト教のあり
方を模索し、実践していく。それは当然カトリックという枠を取り
払うことになる。時代的にはギリシャ・ローマ的な要素を取り除い
たキリスト教のあり方、それは当然初代の教会のあり方を目標にす
ることになる。すなわちユダヤ・キリスト教会の存在意味である。
「なぜなら、ユダヤ人のいないキリスト教は、普遍性を持たないか
らです。ユダヤ人を失ったことは、キリスト教にとって癒されない
傷となっています。ギリシャ・ビザンチン的要素は、多くの点にお
いて原始キリスト教の本質を歪めてしまいました。」(上211頁)
このような理解は当然カトリックの枠を越えることになる。訴え
られてバチカンの本部に呼ばれることになる。実在の人物をもとに
しているので史実なのであるが、当時の教皇ヨハネ・パウロ2
世に会うことになる。実は40年来の知古なのである。ふたり
ともポーランド出身である。そのやり取りがどこまで事実なのか分
からないが、ブラザー・ダニエルがカトリックのユダヤ人の取り扱
いを弾劾している。そしてヨハネ・パウロ2世はその非を認め
ていく。ホロコーストの時の教皇の沈黙、イスラエル国家の非承
認、それ以前の十字軍などによる教会のユダヤ人迫害、その非を認めて
2000年3月12日のミサで正式に謝罪、懺悔を行った。
このふたりのやり取りは、一度神学的な方向が決まってしまう
と、それを変えることが以下に難しいか、それ以上に変えることが
如何に意味深いかを語っている。下巻の真ん中ほどでのふたりのや
り取りは、ローマ書9章以下の理解も含めて、白眉である。一
方にユダ人でホロコーストの生き残りで、カトリックの信仰をもっ
ていながらそれを越えるような活動をする人がいて、他方でそんな
人の意見に真剣に耳を傾けるその信仰団体の頂点に立っている人が
いて、初めて教会の歴史が動いていく。そうでなければ異端という
ことで封じ込められて、教会の歴史はさらに深い闇の中に入ってしまう。
実際にこのブラザー・ダニエルの信仰形態がカトリックに合わな
いといって訴えていくロシア正教会の祭司を、この作家は登場させ
ている。この部分は多分フィクションなのであろうが、作家自身が
ロシア正教会の信仰を持っていて、しかもこのロシア正教会の祭司
もブラザー・ダニエルによってその地位を獲得したように設定され
ている。裏切りの行為を同じロシア正教会の祭司と設定すること
で、この作家は、自分たちの非をも認めているかのようである。
ただこの辺は作家の手法なのであろう。その訴えが動き出す前
に、ブラザー・ダニエルが交通事故で召されていくことにしてい
る。それはカルメル山で異教の神と闘った預言者エリヤの姿と重ね
るためであると言っている。この作家は、カルメル会の信仰のあり
方を伏線にしているようである。
オスヴァルト・ルフェイセンという実在の人物は、実際にブラ
ザー・ダニエルと呼ばれていた。小説でダニエル・シュタインと名
付けている。そのシュタインという姓名は、ドイツ系ユダヤ人で、
同じようにカルメル会の女子修道士になり、アウシュヴィッツで殺
された哲学者でもあるエディット・シュタイン女史を思い出させ
る。多分そういう結びつきなのであろうが、著者に聞く以外にない。
この本ではプロテスタントのことはほとんど出て来ない。ただブ
ラザー・ダニエルたちの礼拝場の修復のために、アメリカのプロテ
スタントの団体が多額の寄付をしてくれたこととして触れている。
ありそうなことである。またそうすることで、著者はプロテスタン
トもブラザー・ダニエルの信仰の動きに含めようとしているのかも
知れない。
確かに自分たちこそは聖書を正しく理解して最も聖書的だと思っ
ているプロテスタントの人もいるかも知れない。しかしよく振り
返ってみると、そこでの聖書の取り扱いのツールは、ギリシャ・
ローマ的要素の上に、啓蒙思想を否定しながらその否定のために
取っている主知主義的な枠をもった歴史的、文化的なものであるこ
とが分かる。しかしこれは、モノカルチャーにいると見えない。ク
ロスカルチャーのなかで見えてくる。長い教会の歴史のなかでは、
それぞれがモノカルチャーのなかで、それぞれの信仰形態を聖書に
基づいて築いてきた。それなりに許されたことである。今は、クロ
スカルチャーでグローバルな時代になってきた。それこそカル
チャーを越えた信仰を考え、体験するときである。『 通訳ダ
ニエル・シュタイン』は、そんな信仰者の先駆けを再現しているま
れな小説である。
もちろん、「モノカルチャー」「クロスカルチャー」というの
は、メタフォリカルな言い方であるが。
上沼昌雄記