何度か挑戦して今回ようやくカフカの『城』を読み終えることができました。村に到着した測量士のKが、仕事を依頼された城に何とか伺おうとするのですが、身の回りのことに追われたり、村の人たちのことで時間を取られたりして、どのようにしても城と連絡が取れない状態が描かれています。それだけだと言えばそれだけです。測量士のKが城と連絡を取ろうとするのは真剣そのものです。それでもがいているのです。
そんな展開が続くので、何度か挑戦しても、ある時点で読み進めなくなります。意欲がないというより、なぜ読む必要があるのかと思ってしまいます。目的ははっきりしているし、仕事の依頼も城から受けたのはそのとおりなのですが、そこに至ろうとすると、日常生活のことで、また出会う人のことで、思わない迷路に引き込まれて進まないのです。Kなりに策を練るのですが、逆に泥沼に引き込まれるようで、出口さえ見えなくなります。
今回ふとしたことで、このKの状況に似たことを夢で結構見ているのではないだろうかと思いつきました。あることが目標としてあるのですが、そこに到達するためにもがいている夢を結構見るのです。例えば、説教に行かないといけないのですが、服が見つからなかったり、ボタンがはずれていたり、直そうとするとまた別のことが起こってきてさらに遅れるのです。何とか整って出かかる前にトイレへと思うのですが、まともなものがないのです。昔の小学校の便所が出てきて、どれもまともに機能していないのです。もうでないといけないのですが、いまだにもがいているのです。
それでも説教に間に合って素晴らしいメッセージをできたというのではないのです。そこは夢には出て来ません。ただ状況はそれぞれ異なっているのですが、その前でもがいている情景だけがよく出てきます。それで目を覚ますのですが、ああ疲れたと、ため息が出るだけです。川越にいたときに、関越道で一生懸命に自転車を漕いでいた夢を見ました。そんなことを教会の人に話したら、疲れたでしょう、と言われました。
そんな夢を結構見るので、どうしてなのだろうと考えると、振り返っているうちに、何とカフカの『城』が自分のことのように思えてきたのです。そうしたらKがどうなるのか俄然興味が出てきて読み終わったのです。Kはやはり城には到着していません。Kとは、カフカの頭文字と取ると、カフカの人生そのものと言えます。目的ははっきりしているのですが、日常の煩雑さと、城と村の立場の違いと、そこを結ぶ連絡網の複雑さがあって、それに追われ振り回されて人生を終わるのです。それが近代人の非本来的な存在様式とカフカは見ていたと言えます。
他の牧師が説教に遅れるような夢を見るのか知りません。尋ねたこともありません。たとえそれが自分だけのことであっても、似たことをカフカが『城』で書いているとすると、逆に現実感が湧いてきます。カフカは目覚めて書いているのですが、こちらは夢で見るのです。状況は異なっても同じような夢を繰り返し見ます。カフカの『城』は、それが人生の現実であると語っているようです。
上沼昌雄記
Masao Uenuma, Th.D.
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