「カフカの『城』は?!」2016年1月26日(火)

何度か挑戦して今回ようやくカフカの『城』を読み終えることができました。村に到着した測量士のKが、仕事を依頼された城に何とか伺おうとするのですが、身の回りのことに追われたり、村の人たちのことで時間を取られたりして、どのようにしても城と連絡が取れない状態が描かれています。それだけだと言えばそれだけです。測量士のKが城と連絡を取ろうとするのは真剣そのものです。それでもがいているのです。

そんな展開が続くので、何度か挑戦しても、ある時点で読み進めなくなります。意欲がないというより、なぜ読む必要があるのかと思ってしまいます。目的ははっきりしているし、仕事の依頼も城から受けたのはそのとおりなのですが、そこに至ろうとすると、日常生活のことで、また出会う人のことで、思わない迷路に引き込まれて進まないのです。Kなりに策を練るのですが、逆に泥沼に引き込まれるようで、出口さえ見えなくなります。

今回ふとしたことで、このKの状況に似たことを夢で結構見ているのではないだろうかと思いつきました。あることが目標としてあるのですが、そこに到達するためにもがいている夢を結構見るのです。例えば、説教に行かないといけないのですが、服が見つからなかったり、ボタンがはずれていたり、直そうとするとまた別のことが起こってきてさらに遅れるのです。何とか整って出かかる前にトイレへと思うのですが、まともなものがないのです。昔の小学校の便所が出てきて、どれもまともに機能していないのです。もうでないといけないのですが、いまだにもがいているのです。

それでも説教に間に合って素晴らしいメッセージをできたというのではないのです。そこは夢には出て来ません。ただ状況はそれぞれ異なっているのですが、その前でもがいている情景だけがよく出てきます。それで目を覚ますのですが、ああ疲れたと、ため息が出るだけです。川越にいたときに、関越道で一生懸命に自転車を漕いでいた夢を見ました。そんなことを教会の人に話したら、疲れたでしょう、と言われました。

そんな夢を結構見るので、どうしてなのだろうと考えると、振り返っているうちに、何とカフカの『城』が自分のことのように思えてきたのです。そうしたらKがどうなるのか俄然興味が出てきて読み終わったのです。Kはやはり城には到着していません。Kとは、カフカの頭文字と取ると、カフカの人生そのものと言えます。目的ははっきりしているのですが、日常の煩雑さと、城と村の立場の違いと、そこを結ぶ連絡網の複雑さがあって、それに追われ振り回されて人生を終わるのです。それが近代人の非本来的な存在様式とカフカは見ていたと言えます。

他の牧師が説教に遅れるような夢を見るのか知りません。尋ねたこともありません。たとえそれが自分だけのことであっても、似たことをカフカが『城』で書いているとすると、逆に現実感が湧いてきます。カフカは目覚めて書いているのですが、こちらは夢で見るのです。状況は異なっても同じような夢を繰り返し見ます。カフカの『城』は、それが人生の現実であると語っているようです。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.

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「ノアの契約」2016年1月13日(水)

「アブラハムの契約」という表現はよく使われるのですが、「ノアの契約」はそれほど使われません。どちらも神がアブラハム、そしてノアと交わした契約のことです。そのノアの契約のことに、年が改まって妻と創世記を読みながら、思いを新たにしています。

洪水が終わってノアと家族とすべての生き物たちが箱舟から出て、ノアが祭壇を築き、全焼のいけにえをささげたことが8章の終わりに記されています。それに応えるように9章でノアとその息子たちを神が祝福して言われました。「生めよ・ふえよ。地に満ちよ。」(1節)

それに続いて神が仰せられたのです。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。」(9,10節)それはさらに「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」(11節)という契約で、そのしるしとして虹を立てたのです。

ノアの契約には、ノアとその家族だけでなく、生き物すべてが含まれています。それは、ノアを通して造られたすべてのものの回復を神が願っているからです。すなわち、3章でアダムの罪のゆえに呪われた地の回復を意味しています。

アブラハムの契約はアブラハムとその子孫に当てられていますが、その前提にノアの契約が含まれていると見ることができます。ひとつには、アブラハムの契約は神の民だけでなく「地上のすべての民族」(12:3)を対象としているからです。また神の民の回復のためのイザヤの預言には新創造が結びついていて、万物の回復が神の救いに含まれているからです。

西洋神学が強調している義認論は人間だけを対象にしているために人間中心の聖書理解に陥っているのですが、神のキリストを通しての和解のわざには万物が含まれていることが明記されています。「御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1:20)

万物の回復、そして新創造、昨年翻訳出版したN.T.ライトの『クリスチャンであるとは』でも強調されていて、今回ノアの契約で再確認させられたことです。そこには最初の人に言われた「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」(1:28)という責任が伴ってきます。さらに新創造の約束で民に対して言われていることに対応します。「この人々を王国として、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:10)

私たちの負う病も、自然の災害も、新しい天と新しい地ではいやされていきます。それがこの地でも少しでも果たされていくことを願い、その責任を負わされています。ここ北カリフォルニアは、この4年間水不足でしたが、エルニーニョの影響で雨が静かに降り続いています。

上沼昌雄記

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「『戦後70年』の幕切れの前に」2015年12月28日(火)

 この年の初めは父の看病に追われていたのですが、息抜きのために映画「Unbroken」を妻と映画館に観に行ってきました。Unbrokenとは、「打ち破られなかった」という意味ですが、日本軍の捕虜であったルイス・ザンベリーニが、渡邊睦裕軍曹から繰り返しの虐待を受けるのですが、最後まで屈することなく終戦を迎えた実話に基づいたものです。2010年に出た同名の本では、帰国後後遺症に悩み、そのなかでビリー・グラハムのクルセードで信仰も持ち、渡邊睦裕を赦していくことが克明に記されています。

 本もベストセラーになり、映画もアメリカではヒットしました。ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジュリーが監督を務めました。日本での上映の可能性について、 その面での情報源を持っている友人に問い合わせたのですが、右翼などの反対で潰されそうだと言うことです。本の翻訳権は角川書店が有していますが、まだ出ていないようです。

 「戦後70年」は私自身の歩みでもあります。終戦5ヶ月前に生まれました。硫黄島の戦いが終局を迎えているときでした。故郷前橋は中島飛行機があったために空襲で丸焼けになりました。不思議に生き延びました。竹本邦昭牧師も同様に生き延びました。そして70歳を迎えて、戦争のことが日本人の精神にどのような影響を残しているのか関心を持ってきています。同じ意味では、ホロコーストがヨーロッパ精神にどのような影響を及ぼしているのか関心があります。

 今年一連の動きを終えて12月初めのある夜に家で妻とDVDでThe Great Raid(「大襲撃」)を観ました。フィリピンで日本軍に捕虜になっていたアメリカ兵1500人を急襲して救出する、これも実話に基づいた映画です。10年前に上映されています。すなわち戦後60年のことでしたが日本では上映されなかったようです。収容所での捕虜の虐待が描かれています。解説では、日本軍のもとでの捕虜の死亡率は37%であった言うことです。ホロコーストがあったのですがドイツ軍下では2%以下と言うことです。

 戦後70年を終えるに当たって、これら二つの映画が日本で上映されたらどのような反応が出てくるのだろうかと思わされています。その前に、反応がどうであっても、上映する姿勢があれば、それだけで大きな意味が出てくるように思います。戦時中のことを隠さないで少しでも直面することで初めて過去から解放されるからです。そうでないと過去が日本という土壌に深く染み込んだままで、そこから蒸気が湧き出て闇にまぐれて私たちの心に染み込んで押さえつけてくるからです。結局過去に縛り付けられたままです。

 時を同じくして、日本政府が慰安婦問題に関しての責任と賠償を認めて、韓国側とそれなりの最終解決を見たことが報じられています。当事者たちが最終的に満足することは決してないのですが、事実を認めて賠償の方向を見つけ出したことは、過去がなくなった訳でなく、過去を認めて次に進む手がかりを得たことになります。闇を闇として認めたことで光を得たのです。

 「戦後70年」の幕引きは、「戦後70年代」の幕開けとなることができます。教会はそのためにも日本の地に置かれています。神の教会が日本の地に置かれているのです。よその国のこと、よその人のことはどうでもいいのです。

上沼昌雄記





Masao Uenuma, Th.D.
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「神はいったい何をすべきだろうか?」2015年12月15日(火) 

 邦訳『クリスチャンであるとは』で、N.T.ライトは大切な視点を端的な言い回しで表現しています。たとえば「天と地は、重なり合い、かみ合っている」と印象的な言い方をしています。「神はいったい何をすべきだろうか」も聖書全体を理解するための見事な問いかけになっています。次のような意味合いです。

 「力強く、無限で、自由な愛をもって神の創造した世界が、今や反乱を起こし、しかも神の救出計画を実現すべく選んだ人がそれを台無しにしてしまったのを見て、神はいったい何をすべきだろうか。」(108頁)創世記のはじめのことを踏まえて、神の嘆き、神のうめきを表現しています。

 それに対してライトは「さまざまな不明瞭さとパラドックスを生むことになるが、神はご自分で創造されたものの内側から働こうとする」といい、「また神は、契約を交わした民の内側から働こうとする」といい、それは「創造そのものを回復する」ためであり、「回復のわざを完成させ、本来の目的を成就するためである」と言います。そのために 聖書全体を一つのテーマが「行きつ戻りつ」していると 、これも端的な言い方でまとめています。

 この意味でクリスマスも、神が創造の内側から、神の民の内側から働かれた行きつ戻りつする物語として見ることができます。「奴隷状態と救出の物語」と「捕囚と回復の物語」です。確かにイエスの降誕にいたる時期は、バビロンの捕囚(exile)と帰還の後でした。しかし異国の王の下で捕囚の状態でありました。

 キリストの受肉はヨハネ福音書で端的に言い表されています。「ことばは人(肉)となって、私たちの中に住まわれた(幕を張られた)。私たちはこの方の栄光を見た。」(ヨハネ1:14)

 神は天幕と神殿で「天と地が重なり合うこと、そこでヤハウェは民を赦し、交わりを持ってくださること」(112,3頁)としてくださったことを、今継続さます。受肉はまさに天と地が重なり合う場だからです。「天幕に住まわれ、その後、神殿そのものに住まわれたヤハウェの栄光に満ちた臨在は、『天幕を張る(住む)』という言い方で言及された。すなわち、シェキナー(Shekinah)である。それは、天の神が神の民と共に、民のために臨在するあり方である。」(129頁)

 「肉となる」ことはまさに神が創造の内側から働かれたことです。創造そのものを回復するためです。それは肉を取ることで十字架と復活に繋がる一連のわざでなされる創造の回復です。イエスにとって「真の敵は結局、ローマ帝国ではなく、人間の傲慢さや暴力の背後にある悪の力」(157頁)でした。その悪の力がイエスの上に降りかかってきました。復活はその悪と死に対する勝利です。

 ヘブル書のことばが対応します。「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つものを滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人を解放してくださるためでした。」(2:14,15)「奴隷状態と救出の物語」です。

 さらにN.T.ライトが「パウロが書いたものの中で最も偉大な章の一つである『ローマ人への手紙』第八章」(180頁)のはじめのことばに対応します。「肉によって無力になったために、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(3節)

 それはこの章で言われている被造物のうめき、私たちのうめきを聞き届けてくださる御霊みずからからのうめきから出ていることです。N.T.ライトが言い当てています。「聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていることである」(230頁)と。このクリスマスの時に、「神はいったい何をすべきだろうか」という問いを持って神のうめきを聞き届けていきたいと願います。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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