受難週を迎えて、キリストが神の子としてその真実さのゆえに、贖いの代価としてご自身を差し出されたことが、端的に神の義の現れであることを、パウロがローマ書1章17節を中心に、また3章22節から26節前後で語っていることのテキストの分析に思いを馳せています。
特に3章22節から26節前後は聖書で最も難解な箇所と言われ、内村鑑三もその箇所を解明した者は聖書全体を解明したことになると言っているようなのですが、ご自身も解明には至らなかったと言うことです。その上でその解明のためにギリシャ語とギリシャ哲学を体得することで、パウロのテキストの解明に40年を費やされ、「信の哲学」を提唱されている千葉惠先生の意味論的分析を元にした訳を、許可をいただいて以下のように分析してみました。英訳もありますので同じように試みています。
そして自分なりに分析したこの箇所を思い巡らしているときに、神の義とキリストの受難が福音の核心でもあることを再確認しました。当たり前のようなのですが、神の義はキリストの受難の上に現されたのです。25節と26節でまとめているように、そこは「神の現臨の座(ヒラステーリオン)」となったのです。まさに賛美歌にあるように「神の義と愛のあえるところ」だったのです。
実は私個人もこの解明をいただいて、長い間不明瞭であったこの箇所に光をいただき、平安をいただくことができたのです。その箇所を今回自分なりに以下のように分析することで、さらに思い巡らしを深めることが許されています。受難週の思い巡らしとして共有できれば幸いです。上沼昌雄記
****
22節 神の義は、
イエス・キリストの信を媒介にして(δια πιστεοως Ιησου Χριστου)、
信じる者すべてに明らかにされてしまっている。
というのも、[神の義とその啓示の媒体であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。
23節 なぜ[分離なき]かといえば、
あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、
24節 キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして、
ご自身の恩恵により、贈りものとして、
義を受け取る者たちなのであって、
25,26節 その彼を神は、
それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、
イエスの信に基づく者(τον εκ πιστεως Ιησου)を義とすることによっても、
またご自身が義であることへと至る今という好機において、
ご自身の義の知らしめに向けて、
その信を媒介にして(δια [της] πιστεως)、
彼の血における、
[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。