「神の義とキリストの受難と、、、」2022年4月10日(日)

 受難週を迎えて、キリストが神の子としてその真実さのゆえに、贖いの代価としてご自身を差し出されたことが、端的に神の義の現れであることを、パウロがローマ書1章17節を中心に、また3章22節から26節前後で語っていることのテキストの分析に思いを馳せています。

 特に3章22節から26節前後は聖書で最も難解な箇所と言われ、内村鑑三もその箇所を解明した者は聖書全体を解明したことになると言っているようなのですが、ご自身も解明には至らなかったと言うことです。その上でその解明のためにギリシャ語とギリシャ哲学を体得することで、パウロのテキストの解明に40年を費やされ、「信の哲学」を提唱されている千葉惠先生の意味論的分析を元にした訳を、許可をいただいて以下のように分析してみました。英訳もありますので同じように試みています。

 そして自分なりに分析したこの箇所を思い巡らしているときに、神の義とキリストの受難が福音の核心でもあることを再確認しました。当たり前のようなのですが、神の義はキリストの受難の上に現されたのです。25節と26節でまとめているように、そこは「神の現臨の座(ヒラステーリオン)」となったのです。まさに賛美歌にあるように「神の義と愛のあえるところ」だったのです。

 実は私個人もこの解明をいただいて、長い間不明瞭であったこの箇所に光をいただき、平安をいただくことができたのです。その箇所を今回自分なりに以下のように分析することで、さらに思い巡らしを深めることが許されています。受難週の思い巡らしとして共有できれば幸いです。上沼昌雄記

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22節 神の義は、
イエス・キリストの信を媒介にして(δια πιστεοως Ιησου Χριστου)、
信じる者すべてに明らかにされてしまっている。

というのも、[神の義とその啓示の媒体であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

23節 なぜ[分離なき]かといえば、
あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、

24節 キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして、
ご自身の恩恵により、贈りものとして、
義を受け取る者たちなのであって、

25,26節 その彼を神は、

それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃しの故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、
イエスの信に基づく者(τον εκ πιστεως Ιησου)を義とすることによっても、
またご自身が義であることへと至る今という好機において、
ご自身の義の知らしめに向けて、

その信を媒介にして(δια [της] πιστεως)、
彼の血における、
[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

「天と地と」2022年4月4日(月)

 10日ほど前にロス郊外の母のところに、コロナの感染も少し収まってきたので、2年3ヶ月ぶりに伺いました。この4月の終わりに99歳になるのですが、それなりに守られているようで安心をいたしました。また個人的な用件もあったのですが、金曜日までに思ったより早く片付いてきました。

 それで週末に、以前この欄で「気分転換なのですが」と言うことで書いたのですが、日本人でこのアメリカで大型トラックの運転手をしている方で、カナダに向かう途上のワイオミング州からモンタナ州へのドライブを、ただ車窓からと言うことで3時間半無言で流している動画を、それこそ気分転換で視聴し始めました。トラックの音は入ってくるのです。

 時々早送りをしたのですが、2時間ほどで最後まで吸い込まれるように眺めました。孫たちに会いに行くためにワイオミング州は何度かドライブをしました。その時と同じようなただ大地と大空だけの景色が延々と続くのですが、厭きることなく眺めている自分に驚いてもいます。ロッキー山脈の続きで高地なのですが、それを覆う大空だけがそこにあるだけなのです。それでいて何とも不思議に吸い込まれるのです。

 この大地と大空だけの景色なのですが、変な言い方なのですが、私たちの住む世界がこの大地と大空だけであれば、なんと平和なことだろうと勝手に思うのです。もちろんトラックが走っているフリーウエーがあり、時々は小さな町並みが見えるのです。放牧地があり、人の手が届いていることがわかります。それでも人の住む町並みがなければ、その地境のための争いもないことになります。

 聖書はこの「天と地」の創造で始まっています。そして黙示録の終わりで「新しい天と新しい地」の約束があります。その半ば頃にイザヤ書65章17節ですでに「新しい天と新しい地」の約束がなされています。それだけであれば、神も「良しとされた」とあるように平和で美しい世界が展開していくことになりました。そこには人間も含まれ、特にすべての生き物を「支配する」ことが任されていたのです。

 しかし現実は、罪が入ることで人の生き方に争いと醜さが支配することになり、それがそのまま創世記から黙示録までの歴史ともなっています。見方によってはその繰り返しを人類はしているだけに過ぎないのです。同時にそこに回復の道も神によって備えられたのです。大きな代償を払ってなされたことです。神との平和が実現したのです。その平和の道が備えられたのです。

 カナダで同じように長距離トラックの運転手をしている方も動画を流しています。国境を越えて入ったところがモンタナ州で、同じようにただ天と地だけが展開する車窓の風景を流してくれます。それだけなのですが、そんな風景がこの地に存在していることに慰めをいただくのです。

 現実にそのような場で生活をすることは大変なことです。特に冬場は嵐にも見舞われます。この記事をロス郊外の母のところで書いています。夕方妻と散歩をする度に種々の花がこの季節に咲き乱れている風景を楽しんでもいます。それでも人のいるところいつも平和であるとは限りません。街と都会は喧噪と争いの場となります。

 さらに「それでも」神のなされた愛の業は、人の間にも愛が実現するためです。それこそ「地に平和を」もたらす道筋です。それは創造の初めの「良しとされた」天と地の回復でもあり、新天新地への希望でもあります。そんな風景に見入ってしまうのです。

 上沼昌雄記