「見栄えもない」2010年3月29日(月)

 多くの方の祈りに支えられて、24日の晩遅くに、無事に秋
田の教会の2階に入りことができました。お忙しいなか教会の方々
が大変きれいにしてくださり、必要なものを整えてくださいまし
た。ともかく畳の部屋に布団を敷いて、長い旅を終えて休むことが
できました。石川兄弟が車を貸してくださっているので、次の日か
ら生活のために買い物にもでかけることができました。まだ雪が
舞ってくる気候で、ストーブのある部屋で妻とべちゃくちゃと語り
合いながら、2ヶ月半の短期宣教師としての生活を始めることがで
きました。

 受難週とイースターを迎えることになります。教会で土曜日を
使ってエレミヤ書の学びをしてほしいという要請がありますので、
受難週のために同じ預言書のイザヤ書53章の「苦難の僕」か
ら一緒に考えてみたいと思いました。700年後にキリストにお
いて成就した預言です。それでそのままキリストの十字架の苦しみ
になるのです。しかしその前に、ともかく当時の人はどのような思
いでこの預言を聞いたのであろうか、それよりもどうして神はイザ
ヤを通してこのような苦難の姿をあえて語らなければならなかった
のであろうかと、不思議に思わされています。

 「砂漠の地から出る根のように育った」(2節)と言われて
います。そうすると当然11章1節で言われている「エッ
サイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言
われている明るいポジティブな約束を思い出します。しかし53
章では全く暗いネガティブな約束なのです。この落差はどうしてな
のでしょう。

 第二イザヤと言って別の人が書いたからだと言えば、そんな落差
は気にしなくても良くなります。むしろ同じイザヤが、53章
に来たときには、約束の僕を「見栄えもない」「悲しみの人」と言
わなければならない、それほどひどい状態に神の民が置かれていた
からだと思えて仕方がありません。その前の章でエジプトに下った
ことと、アッシリヤにゆえなく苦しめられたことが具体的に記され
ています。その民の逃れられない苦しみを代表するために、その苦
しみを一身に担うために「見栄えもない」若枝を備えるのです。

 苦しみのなかにある人々に、神はその苦しみの極みを引き受ける
人を備えるのです。そうすることで神が民の苦しみを担っているこ
とを示すのです。当時の人にはただそれだけで慰めになったのでは
ないかと思われます。その人が懲らしめを受け、打ち砕かれ、傷を
受けることで、民の苦しみが昇華されかのようにして平安といやし
がもたらされるのです。 

 「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」(10
節)何とも大胆な言明です。明るいポジティブなメシアの到来のた
めには、暗いネガティブなメシアの顕現が必要なのです。苦しみの
極み、そこに含まれる身代わりの神秘、代償としてのいやしと平
安。苦しみを静め、問題を解決することで救いをもたらすのではな
いのです。むしろ苦しみの極みが露わにされることで、主のみここ
ろが果たされるのです。

 このことは700年後に見事にキリストにおいて成就するので
す。しかし、イザヤ書53章で言われていることは、当時の人
たちの心を励まし、生きる指針を示しています。当然私たちにも当
てはまるのです。誰もが苦しみを受けています。家族の苦しみを、
社会の苦しみを負っています。しかも私がその苦しみの極みを負わ
なければならないかも知れません。そうすることで他の人に平安が
及んでいくかも知れません。そうなることが神のみこころに叶った
ことなのかも知れません。

 そんなこと思いながら短期宣教師としての奉仕を始めています。

上沼昌雄記

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「書物の民」2010年3月15日(月)

 ユダヤ人思想家のものを読んでいると自分たちを「書物の民」と
呼んでいる文章に出会う。シナイ山で律法をいただいた民として当
然の理解なのであろうと思っていた。しかし何人かの文章を読んで
いるなかで、それも当然といえば当然なのであるが、国を追われ、
四散し、彷徨っている民にとって、書物は彼らの国であり、故郷で
あり、家であり、住処であるという意味で「書物の民」と呼んでい
ることがわかる。日本という国を持ち、前橋という故郷を持ち、出
てきた家を持っているものには理解できないことである。なんと
言っても、書物はユダヤ人の存在証明であり、神の居場所の主張な
のである。

 エジプトで裕福なユダヤ人家庭に生まれ育ったエドモン・ジャベス
は、1957年のスエズ紛争で当時のナセル大統領によるユダヤ
人国外退去にあってフランスに移り住んだ。文字通りの「出エジプ
ト」を経験することになった。そのことでユダヤ人として、ユダヤ
教徒としてのアイデンティティーを探求し続けることになる。拠る
べき土地も、頼るべき社会も、積み重ねる財産も持ち得ない民に
とって、板に記され、羊皮紙にすり込まれ書物は、消すことのでき
ない記憶として民のなかに刻まれ、生かされていることを知る。記
憶を誰も消すことはできない。ホロコーストでさえその記憶を灰に
することはできない。

 そのエドモン・ジャベスが『問いの書』という不思議なタイトル
の本でいう。「《私は書物のなかに存在する。書物とは、わが世
界、わが祖国、わが家、そしてわが謎である。書物とは、わが呼吸
でありわが安息である。》私はめくられるページとともに起き、記
されるページとともに横たわる。《私は、それですみかを築くこと
ばの一族に属している》、と答えることができること。この答えが
さらにひとつの問いであり、このすみかは絶えず脅威にさらされて
いることをはっきりと知りつつも。、、、神が存在するのは、神が
書物のなかに存在するからだ。」(39頁)

 神が書物のなかに存在し、自分たちも書物のなかに存在する。そ
して民はいまだに約束の地を求めて彷徨っている。地から切り離さ
れ、国を失い、地の果てに散らされ、いまだに住処は脅威にさらさ
れている。すでに書物に記されていることであり、いまだに続いて
いることである。神も書物のなかで苦しんでいることがわかる。書
物は拠り所でありながら、なぜという問いが続いて吹き出てくる。
その問いが書くことを勧める。書物の民はタルムードを生み、その
また注解を生みながら、書くことで存在を確認している。それ以外
にどこに行けるのであろうか。書くことが神への問いであり、自分
たちの存在証明である。書き続けることは生きているしるしである。

 聖書信仰を標榜している私たちも「書物の民」と言えるのであろ
う。しかし現実には全く違うのかも知れない。国を追われ、四散
し、いまだに故郷を求めている民ではない。私たちには好むと好ま
ざるとに関わらず日本という国があり、同化し同時にはみ出される
社会があり、記憶であり嫌悪である家族があり、願いであり苦しみ
である教会がある。どんなに逆さになってもデアスポラの民ではな
い。赤城山が待っていてくれる。空っ風が体を吹き抜ける。旧友に
会うことができる。教会の居心地良さと悪さが交互に思い出される。

 それでも神の国を求めている寄留の民と言うことができる。しか
しデアスポラの民に比べたら観念の世界のことである。美しい思念
の世界のことである。同じように私たちも聖書を大切にし、原語で
読むことを心がける「書物の民」と言える。それでも離散の民でな
いのでどうしても「聖書信仰」も観念の世界になる。聖書理解はこ
うあるべきという理念の世界になる。美しい神学のイデアの世界となる。

 先祖がイタリアからエジプトに移り住んで財産を築き、そのエジ
プトから追われてフランスに移り住む。文字通りの出エジプトを経
験することで、国を失い、財産を失っても、なおそこにある書物に
アイデンティティーを見いだす。寄留の民であってもなお帰ること
のできるところ、それが書物である。その書物の上に自分たちの歴
史を、処すべき処世術を、苦しみのなかで見いだした格言を書き続
ける。『問いの書』はそのようにして書かれた。

 書くことは存在証明である。書き続けることは生きているしるし
である。

上沼昌雄記

新刊書『父よ、父たちよ』を出版して

この2月の終わりに、『父よ、父たちよ』というタイトルの
本を、いのちのことば社から出版することができました。このテー
マは男性にとって隠された、その意味で触れられていない、触れら
れたくもない、そのまま蓋をして心の奥深くに留めておきたい、ま
さに闇であることを、男性集会を続けながら気づきました。ただ男
性同士で自分の父のことを語ることで、少しだけ光をいただけるこ
とがわかりました。それでも自分自身が父親のテーマを書くことに
なるとは思いませんでした。ただ勇気を持って父親のことを分かち
合ってくれた男性たちのストーリーを記したらよいのだと思ってま
とめました。その意味で「あとがき」に書いたのですが、この本は
そのような男性たちに捧げられています。 

同時に、父親のことを分かち合いながら、パウロとともに神を
「アバ、父」と呼びかけることができるなら、それは男性に与えら
れたこの上もない恵みです。子とされることで、聖霊の助けをいた
だいて、御子を通して父なる神に帰る道です。まさに放蕩息子の帰
還です。この三位一体の神の天蓋に覆われている恵みを、本の後半
で確認しています。装丁をして下さった方が三位一体の神のチャー
トにデザイン性を加えてくれました。

出版社を通して何人かの方々にお送りさせていただきました。そ
して感謝な感想をいただきました。父なる神に届く三位一体のこと
を、私が長い間語っていたことを思い出したと、ある方が言ってく
れました。そうだったと納得しています。

そんな感想をいただきながら私の手元になかなか本が届きません
でした。先週お願いしたその半分がようやく届きました。実物に初
めて対面しました。その帯に縦書きに書かれている言葉に唸らされ
ました。この部分は出版社の領域です。横書きの文章もよくポイン
トをつかんでいます。その脇に縦書きで「この人はいったい、何者
なのだろう、、、」とあります。闇の奥に隠れている「不在の記
憶」としての父親、自分の父親でありながら「何者なのだろう」と
いう問いしか出て来ないのです。

出版担当者にその思いをメールで伝えました。至らない編集者が
作成しましたという返事です。「私は父とちゃんとした会話をした
ことがありません。父はもう高齢なので、私は父親が『何者』なの
か、少なくともこの世では知ることがない、そのような私個人の絶
望と諦めを、そのまま言葉にしたコピーです。」男性誰もが抱えて
いる思いを代弁してくれました。

この返事を読みながら不思議に昨年超ベストセラーになった村上
春樹の『1Q84』の「Book2」で、主人公の一人である天
吾が父親に会いに出かけ(8章)、最後には意識もなくなった
父親に一方的に語りかけている(24章)場面を思い起こしま
した。何を村上春樹は言いたいのでしょう。そんな場面で終わって
いて、その続きの「Book3」がこの4月には出ると言う
ことです。父親として自分を育ててくれた、それでも自分の肉の父
ではなく、何かを隠したままで死んでいく父親、その続きがこれか
ら展開するのでしょうか。終わることのない、尽きることのない父
親の課題、それはしかし、父なる神に帰る道筋なのだろうと思わさ
れています。

定価は1800円+税ですが、ミニストリーの支援をかね
て、5冊、10冊と販売に協力して下さる方がいらっしゃ
いましたら、著者割引でお送りすることができます。可能な方は教
えていただければ幸いです。

感謝とともに。上沼昌雄 2010/03/09

「図々しい信仰、贅沢な信仰、むきだしの信仰」2010年3月1日(月)

 この数年ユダヤ文学というか、ともなくユダヤ教徒、ユダヤ人の
哲学書と文学と詩を読んでいる。取っ掛かりはエマニュエル・レ
ヴィナスである。ナチに加担したハイデガーの哲学に対峙しなが
ら、なぜ西洋の哲学はナチスを容認することになったのかを根本的
に問いながら、自己のエゴを超えている他者を視点に倫理のあり方
を問い直している。その他者の他者はアブラハムを呼び出した神で
あり、その他者の先の先はメシアである。そんな旧約聖書の世界を
当然のように哲学の背後に絡ませている。なんと図々しい信仰なの
であろうか。旧約聖書への取り組みも変えられた。

 レヴィナスと同じホロコーストの生き残りと言えるパウル・ツェ
ランは、600万の同胞の伝えない死を何とか聞きながら、言葉
になり得ない世界を何とか詩で表現しようとしている。その中には
レヴィナスの家族もパウル・ツェランの両親も含まれている。当然
神はいないと叫びたい。そして西洋のキリスト教ではアウシュ
ヴィッツで神は死んだ。しかし、私たちの神はなおアブラハム、イ
サク、ヤコブの神であると言う。出エジプトを経験した民はホロ
コーストも通過の一拠点のように受け止めている。何とも図太い信
仰なのであろうか。信仰の姿勢も変えられた。

 そんなユダヤ教徒というか、旧約の民の信仰をもっと知ろうと
思って、書庫にあった岩波講座の「ユダヤ思想」を取り出した。こ
の道の日本の代表的な方の文章である。旧約の思想を、分析的に、
論理的に、整合的に説明している。同時にそのとらえ方は旧約と言
うより、西洋的な、ギリシャ的な論理と概念で説明していくもの
で、論文としてはそのようなことが必要なのであろうが、旧約の世
界とは違った西洋的に焼き回わされた神学である。それは見事に
整った説明である。しかもそのように理解しなければ旧約聖書がわ
からないという書き方である。何とも疲れる。

 振り返ってみると、旧約聖書を西洋の神学の枠で読むことを強い
られてきたというのか、そうすることが聖書を正しく読む手だての
ように思い、思わされてきた。誰の責任でもない。西洋の神学を通
して聖書を読むことが当然の手だてとして組み立てられているなか
で信仰を持ち、聖書を学び、神学をしてきたからである。聖書の原
語に立ち返り、釈義を施し、解釈をして、聖書の原則を組み立てて
いく。旧約の民がしてこなかったことを西洋の学問は可能にした。
その恩恵は十分ある。同時に生きたもの、生のものを失うことになった。

 西洋の学的手段の背後にあるギリシャ精神は、プラトンに代表さ
れるイデアの世界、理想の世界を追求してきた。見える世界に対し
て、見えないイデアの世界である。あるべき世界である。その精神
が聖書に向かっていったときに、聖書の文字の世界を分析しながら
キリスト者のあるべき世界を、釈義と解釈を通して原則として見い
だそうとした。そのような原則の体系がそれぞれの教派の神学であ
る。そしてその原則を適用することが説教であり、実践である。

 しかし、旧約の民はそのようなイデアの世界では生きていない。
選びの民であることの事実はたとえ困難があっても、罪を犯すこと
があっても、背くことがあっても、ホロコーストがあっても変わる
ことのない神との契約である。それを疑うことはない。アブラハ
ム、イサク、ヤコブの神のもとでの選びの民であることはどのよう
なことがあっても変わらない。思いがけないことがあって、また罪
を犯すことがあって、背くことがあって教会から退けられるような
けちな信仰でない。図々しい、それでいて贅沢な信仰である。

 西洋流の理想のあり方を聖書から求めて、これが自分たちの理解
したもので、聖書の教えだと言い張るときには、それに外れること
も、それと異なったことを言うこともできなし、許されない。いつ
もあるべき姿を気にしながら信仰生活を送らなければならない。道
徳的な信仰であり、何とも神経症的な信仰である。

 そんなことを思いながら旧約聖書を読んでいる。選びの民である
変わらない姿勢は、時には神に向かって叫び、文句を言い、問いか
けることで関わりが深まり、繰り返されていく。決して良い子であ
ろうとしない。駄目なときは泣き叫び、わからないときは文句を言
う。神に怒ることさえする。美しい信仰とはかけ離れている。何と
もむきだしの信仰である。

 夫婦のあるべき姿、家庭のあるべき姿、それにどれだけ自分たち
が近づいているか、そんな美しい、道徳的な、神経症的な信仰で疲
れてしまう。どんなことがあっても夫婦であることとしてこの地上
での歩が与えられ、家庭にどんな問題があっても、食卓のテーブル
があり、家族の交流があれば、それで良しとし、後は神が面倒を見
てくれるという図々しい信仰で良いのであろう。神の祝福は決して
去ることはないという贅沢な信仰でよい。問題がある時は神に叫
び、文句を言い、時には怒っても良い。そんなむきだしの信仰で良
いのであろう。

上沼昌雄記