箴言の10章から11章、そして12章にかけて「正しい人」(新改訳聖書2017)のことが繰り返し語られています。妻が英語で読むとthe righteousとかthe righteous manとなっていてニュアンスの違いに驚かされます。「正しい人」では道徳的な意味合いが強く、また「正しさ」の基準よりは状況的に「正しい」と捉えがちです。現行の新共同訳では「神に従う人」となっていてます。英語では「義」に当たるヘブライ語が訳し出されていています。日本語でも「義なる人」と表現すると、神の義との結びつきが見えてきそうです。「実に、義を追い求める者はいのちにいたり、、、正しい(義なる)人の裔は救いを得る。」(11:19,21)
この夏の初めに車の前面のガラスを取り替える修理をいたしました。見た目には直っているようでしたがエンジンの音が聞こえてくるので、再修理に持って行きました。シールをし直してくれたのですが、それでも運転すると外の音が聞こえてきます。臭いも入ってきます。マネージャーに説明しました。全面的にやりお直すと言うことで持って行きました。やり直しが終わったときにマネージャーが自分たちの不手際を全面的に認めていました。しかも他のお客のいる前でのことでした。何ともすがすがしいことでした。「主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、誠実に歩む人たちの盾となる。」(2:7)
この国でニュースを聞いていると、何が真実で正しいことなのか分からなくなることがあります。かつてはそれなりの判断基準が明確にあったように思うのですが、今は何かの都合で事が進められ、それに合うように情報が動き、さらに自分たちの生活に都合が良い限りあたかも正しいことのように見なされてしまうところがあります。その度に『平気で嘘をつく人たち』の本を思い起こします。絶対に自分の非を認めないで、すべて他人の所為にしてしまうのです。それが社会で当たり前のようであれば、そのまま子供たちに影響していきます。この国の行く末が心配です。「正義 (義)は国を高め、罪は国民を辱める。」(14:34)
子供の一人が時差3時間ある地で仕事に就いて、よく夕方電話をかけてきて母親と話をします。正直よくそれだけ話すことがあるなと思うときがあります。それでもよく聞いていると、子供の状況や考えに合わせながら上手に励ましていることが分かります。それは3人の子供たちに同じようにしてきたことです。それなりに互いに納得するまでとことん話し合ってきました。その度に母親の知恵深さに感心してきました。私は時々口を挟むだけです。「知恵ある女は家を建てる。」(14:1)
箴言は、人として直面する問題をよく捉えています。それは古今東西誰にでも当てはまることです。読む度にそのまま自分に当てはまることばに出合います。妻とともに人間観察の鋭さに驚いています。同時に今までは箴言を単なる道徳的な教えとして捉えてきたように思います。すなわち、信仰は信仰、道徳は道徳と、別々に捉えてきたのではと反省しています。なんと言ってもこれだけの人間観察と具体的な勧めは「神の律法」をいただき、その上で人の生き方を考えているからではないかと思わされます。律法を与える神には知恵と英知が隠されているのです。「あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、、、主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」(2:2,6)
神には知恵があり、その知恵に従って世界を造られたので、私たちもその知恵に従って生きることは理にかなったことです。神は同時に義でもあられるので、その義に従って生きることも理にかなったことです。神は真実(ピスティス)な方であるので、私たちも信仰と信実(ピスティス)を持って生きることは理にかなったことです。ただその理屈通りに行かないのが肉に住みついている罪です。そこに生きる者の様々な矛盾と葛藤か生まれてきます。そのままでは罪にのみ込まれそうになります。それでも信仰によって神に立ち返ることで、神の知恵と義と真実が少しでも実現される希望が沸いてきます。私たちのできることはその主を恐れて生きることです。「主を恐れることは知識の初め。」(1:7,9:10,)
上沼昌雄記