「『箴言』を読みながら、、、」2018年7月30日(月)

 箴言の10章から11章、そして12章にかけて「正しい人」(新改訳聖書2017)のことが繰り返し語られています。妻が英語で読むとthe righteousとかthe righteous manとなっていてニュアンスの違いに驚かされます。「正しい人」では道徳的な意味合いが強く、また「正しさ」の基準よりは状況的に「正しい」と捉えがちです。現行の新共同訳では「神に従う人」となっていてます。英語では「義」に当たるヘブライ語が訳し出されていています。日本語でも「義なる人」と表現すると、神の義との結びつきが見えてきそうです。「実に、義を追い求める者はいのちにいたり、、、正しい(義なる)人の裔は救いを得る。」(11:19,21)
 この夏の初めに車の前面のガラスを取り替える修理をいたしました。見た目には直っているようでしたがエンジンの音が聞こえてくるので、再修理に持って行きました。シールをし直してくれたのですが、それでも運転すると外の音が聞こえてきます。臭いも入ってきます。マネージャーに説明しました。全面的にやりお直すと言うことで持って行きました。やり直しが終わったときにマネージャーが自分たちの不手際を全面的に認めていました。しかも他のお客のいる前でのことでした。何ともすがすがしいことでした。「主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、誠実に歩む人たちの盾となる。」(2:7)
 この国でニュースを聞いていると、何が真実で正しいことなのか分からなくなることがあります。かつてはそれなりの判断基準が明確にあったように思うのですが、今は何かの都合で事が進められ、それに合うように情報が動き、さらに自分たちの生活に都合が良い限りあたかも正しいことのように見なされてしまうところがあります。その度に『平気で嘘をつく人たち』の本を思い起こします。絶対に自分の非を認めないで、すべて他人の所為にしてしまうのです。それが社会で当たり前のようであれば、そのまま子供たちに影響していきます。この国の行く末が心配です。「正義 (義)は国を高め、罪は国民を辱める。」(14:34)
 子供の一人が時差3時間ある地で仕事に就いて、よく夕方電話をかけてきて母親と話をします。正直よくそれだけ話すことがあるなと思うときがあります。それでもよく聞いていると、子供の状況や考えに合わせながら上手に励ましていることが分かります。それは3人の子供たちに同じようにしてきたことです。それなりに互いに納得するまでとことん話し合ってきました。その度に母親の知恵深さに感心してきました。私は時々口を挟むだけです。「知恵ある女は家を建てる。」(14:1)
 箴言は、人として直面する問題をよく捉えています。それは古今東西誰にでも当てはまることです。読む度にそのまま自分に当てはまることばに出合います。妻とともに人間観察の鋭さに驚いています。同時に今までは箴言を単なる道徳的な教えとして捉えてきたように思います。すなわち、信仰は信仰、道徳は道徳と、別々に捉えてきたのではと反省しています。なんと言ってもこれだけの人間観察と具体的な勧めは「神の律法」をいただき、その上で人の生き方を考えているからではないかと思わされます。律法を与える神には知恵と英知が隠されているのです。「あなたの耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、、、主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ。」(2:2,6)
 神には知恵があり、その知恵に従って世界を造られたので、私たちもその知恵に従って生きることは理にかなったことです。神は同時に義でもあられるので、その義に従って生きることも理にかなったことです。神は真実(ピスティス)な方であるので、私たちも信仰と信実(ピスティス)を持って生きることは理にかなったことです。ただその理屈通りに行かないのが肉に住みついている罪です。そこに生きる者の様々な矛盾と葛藤か生まれてきます。そのままでは罪にのみ込まれそうになります。それでも信仰によって神に立ち返ることで、神の知恵と義と真実が少しでも実現される希望が沸いてきます。私たちのできることはその主を恐れて生きることです。「主を恐れることは知識の初め。」(1:7,9:10,)
 上沼昌雄記

「信と愛」2018年7月18日(水)

 過ぎる聖日の山の教会の礼拝で、クリスチャンになったら自動的に良い人になるわけでなくて、学び身に着けていかなければならないことを、忍耐と赦しと愛をテーマに、牧師が興味深く語りました。102歳の黒人のスラッツおばあさんの孫に当たる方ですが、メッセージのために多くの時間をさき、深く省察をしていることが分かります。具体的にドライブしていて渋滞に巻き込まれたり、人に抜かれたりするとイライラする自分の性格を取り上げていましたので、誰もが納得していました。
 聴きながらガラテヤ書5章6節の聖句を思い起こしていました。割礼を受けているかどうかが問題ではなくて、「大切なのは愛によって働く信仰です」と言われている信仰と愛の関わりです。「信の哲学」を提唱している千葉先生が繰り返し取り上げられている箇所です。それは「福音と律法」、「信仰と行い」の二千年のキリスト教会で論じられてきたテーマに対して、その調和をもたらすと見ているからです。
 ただ歴史的には、<愛を信仰の原理と目標>に置くトマスのスコラ哲学に対して、ルターはこの聖句を基に「信仰のみ」を提唱し、<信仰が愛の原理と目標>とみたと言われています。確かにどこかで、すべて信仰で解決するかのように教えられ、そのように思って、なんとか頑張ってきたのですが、山の教会の牧師はその限界に気づき、信仰者としての行動の規範を模索しているかのようです。信仰をどれだけ強調しても堂々巡りをしてしまうクリスチャンの現実をしっかりと見つめています。
 千葉先生はこの聖句を「愛を媒介にして実働している信が力強い」と訳して、信と業の調和を見ています。<愛を媒介にして、信が力強く実働している>と言い換えることもできます。「実働している」と、エネルゲイアという名詞形の動詞が使われています。もう一つの名詞形としてはエルゴンがあります。これはロゴスとエルゴンという対で、パウロ自身がローマ書の終わりで自分のなしてきたことが「キリストがロゴスとエルゴンによって成し遂げた」(15:18)ことによっていると、「ことばと行い」がキリストにおいても自分においても調和していることを提示しています。
 この背後には「福音と律法」に関して、「業の律法」、すなわち、モーセによる文字としての律法とは別に、「イエス・キリストのピスティス」を媒介とする「信の律法」の到来があります。イエス・キリストの信の故に神の意志である律法を確認できるからです。そしてその律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することに要約されています。「愛は律法の充足」(13:10)と言われているとおりです。「業の律法」は終わったのですが、「律法の行い」は「信の律法」によって方向性をいただいたのです。律法主義に陥る必要はないのです。
 この意味合いで、私たちがどのような状況でも、神と人を愛することに徹しているときに、信仰が力強く実働していることを確信できます。信仰の力強さが、隣人を愛することで現れ出てくると言えます。その時には、「信仰と行い」が自分のうちで切り離されていないで、むしろ調和していることに納得できます。
 さらに、「信」は神のピスティスですので、神には「愛」が初めから切り離せないで調和していることが分かります。神の義の啓示は、その意味で、神の愛の現れになります。具体的に「イエス・キリストの信」を媒体にして神の愛が現れています。それに対する私たちの信の対応も神の愛に応えていくものとなります。
 愛は御霊の実として約束されていますが、神を愛し隣人を愛することは私たちに許されている自由意志で決断していくことです。そうするときに、「愛」が「信」と同様にすべての人の心魂のボトムに喜びをもたらすことが分かります。信なしには人が生きられないないように、愛なしには人は人として生きられないのです。「信の哲学」が成り立つとすれば、「愛の哲学」も成り立つことになります。
 上沼昌雄記

「歴史の事実への歪曲と沈黙」2018年7月12日(木)

 最上川の隠れ家に滞在の折、農民作家の友人が取り立てのキュウリとイチゴを土曜の午後に届けてくれました。礼拝で会えるからと家人に伝えて帰られました。その荷物には同人誌『手の家』に書いたご自分の連載小説「呼ぶ声がする(上)」も入っていました。反自叙伝とも言えるもので、(下)が楽しみです。もう一つ、『否定と肯定ーホロコーストの真実をめぐる闘い』という文庫本が入っていました。翌日の礼拝後、昼食時に「自分はすでに読んだから、上沼さんも関心があるだろうからプレゼント」と言われました。
 それからさらに旅を続けて、ようやく家に戻って、600頁近い文庫本を一気に読みました。”Denial”『否定』というタイトルで映画化されていて、DVDを取り寄せて2回続けて観ました。ナチスによる大量虐殺はなかったというイギリスの歴史修正主義者のアーヴィングから、史実を歪曲したと断じたユダヤ人歴史学者のリップシュタットが、イギリスで名誉毀損で訴えられたことで、逆にホロコーストが事実であると法廷で証明しなければならない法廷闘争の記録です。映画は要点をまとめて迫力のあるものですが、原書は当事者のリップシュタット教授による法廷での克明なやり取りの記述です。
 忍耐深く歴史の事実の証明に当たる弁護士とそのチームの努力と、その努力が報われて、最後に裁判で勝利して行く過程は息をのむほどの緊張感があります。歴史への誠実さと謙虚さが伝わってきます。それだけ逆に歴史修正主義者の事実を歪曲するだけでなく、話術によって民衆を巧みに自分の世界に巻き込んで行く狡猾さに脅威を感じます。弁護士たちによって事実を突きつけられても、それを巧みにかわすだけでなく、嘘のように思わせてしまう巧妙さにおぞましさを感じます。
 似たようなことが今住んでいるこの国でも起こっているのではないかと思わされます。それを思うと、それこそナチが台頭し、ホロコーストが起きて行った当時のドイツにおいても同じように、民衆は惑わされ盲目のうちに従ってしまったのではないかと思わずにいられません。教会もそこに含まれていたのです。この国でも教会が指導者の虚偽に飲み込まれてしまっているのではないかと思わされます。
 このことでもう一つ考えさせられることがあります。それは、このナチスと『存在と時間』(1927年)で一躍有名になった哲学者のハイデガーとの関わりです。大学総長になったときにはナチ党員にもなっています。しかし、ハイデガーは戦後その事実には完全に沈黙をしてきました。彼の死後、1980年代になってその結びつきを証明する記録が出てくるようになりました。総長就任式での「ドイツ大学の自己主張」と題する就任講演や当時の講義録が出版されるようになりました。
 ホロコーストの生き残りの詩人パウル・シェランが1967年にハイデガーに山荘に招かれた時に、当然謝罪の言葉が聞けるのもの思っていたのに一言も出て来なかったことで綴った詩「トートナウベルグ」があります。同じようにホロコーストの生き残りと言えるユダヤ人哲学者レヴィナスの、なぜハイデガーの哲学はナチスとホロコーストを容認することになってしまったのかという問いがあります。しかし、ハイデガーは貝のように固く口を閉ざしたまま亡くなって行きました。
 シェランは、「来るべき言葉」が発せられなかった絶望感に襲われました。 レヴィナスには、「実存」は自我の固執の是認であり、「他者」の排除をもたらし、さらにドイツ民族の優越さの是認にもなると見えたのかも知れません。 ハイデガーの沈黙は、しかし逆に、彼の哲学の言葉のなかにナチスと結びつく思想を見いだそうとする作業を引き起こしています。
 ホロコーストの事実への歪曲と沈黙は、当然同等には取り上げられないのですが、それぞれがあまりにも現実的なこととして迫ってきます。事実を歪曲しても話術でごまかして行くことが日常になりつつあることにはしっかりと見張って行く必要があります。そうでないとナチス下のドイツの教会と同じことを繰り返すことになるからです。
 信仰を持って大学に入り学んだのがハイデガーの代表作である『存在と時間』でしたので、ハイデガーの実存哲学がどうしてナチとホロコーストを容認することになったのかは、私なりに解決しておかなければならないテーマです。言い方を変えると、ホロコーストがどうしてキリスト教の影響下のヨーロッパで起こったのかとなります。それはこの国のことに関わってくるように思えるからです。
 
 上沼昌雄記