「ユダヤ学事始め」2015年11月23日(月)

今回日本に入ってすぐ10月5日に、お茶の水での第4回 N.T.ライト・セミナーで「『クリスチャンであるとは』にみる N.T.ライトの歴史観」ということで発題しました。6章「イスラエル」となっているのですが、あえて1章を割かなければならないのは「クリスチャンの世界がそのルーツからいかに離れてしまったかを示す」ためであると言っています。そしてエルサレムのホロコースト記念館を訪ねたことに触れ、どんなことがあってもイスラエルについて語らないわけにいかないと言うのです。そうでなければ2千年来の「反ユダヤ主義」を黙認することになるからです。

その後山形、秋田、札幌、東京、熊本、札幌、山形、仙台という順での「ライト学び会」ごとにライト理解に欠かせない視点として語ってきました。どのように受け止めてられたのかは確認できないままです。2回目の札幌訪問での最後は、北大哲学教授の千葉恵先生を訪ねることでした。ロマ書における「キリストの信」のことで論文をまとめ本として出版されようとしておられます。ライトのロマ書理解にも関わることで何とも興味深いことです。クラーク像の向こうにある木造の建物の研究室で千葉先生は熱く語ってくださいました。

北大の正門を出て右に曲がってそのまま歩いて札幌駅のガード下を過ぎた角に紀伊國屋書店があります。西口を出たところになっていて、時間があると寄ることにしています。9月に出たばかりの徳永恂著『絢爛たる悲惨―ドイツ・ユダヤ思想の光と影』を見つけました。その初めが「私のユダヤ学事始め」となっていて、熊本バンドのメンバーであったお祖父さんをもつクリスチャン・ファミリーの中で育ち、ユダヤ学に関心を持ったことが記されていました。荷物になることは分かっていたのですが、ここで買わない次のチャンスがないかもしれないと思って購入しました。

家に戻ってきて時差ボケと戦いながら読み出しました。その前に出ている岩波新書の『現代思想の断層―「神なき時代」の模索』の姉妹篇にもなっているし、さらにその前の講談社学術文庫の『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』の続きにもなっています。徳永氏は哲学者としてユダヤ学に取り組んでおられるのですが、ドイツ文学の立場から隠れユダヤ人・マラーノのことに取り組んでおられるのが小岸昭氏で、同じように岩波新書で『離散するユダヤ人』、ちくま学芸文庫で『スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて』があります。お二人が一緒に旅をしたことがそれぞれに触れられています。当然それぞれの学術書もあります。ちなみに、小岸氏は現在札幌郊外の江別市にお住まいです。

私にとってのユダヤ学事始めはユダヤ人哲学者のレヴィナスを知ってからです。岩波文庫の『全体性と無限』と講談社学術文庫の『存在の彼方へ』と格闘しました。ユダヤ思想の他者概念、時間理解はギリシャ思想の自己理解と時間概念とは趣を異にするもので意識変革が求められます。西洋のキリスト教はイスラエルの歩みをもギリシャ化して観ているのですが、しかしイスラエルの歩みをそのものとして見つめていくと納得できるものです。捕囚・脱出と帰還の歴史です。

その繰り返しです。小岸氏と徳永氏はその歴史を訪ねる旅をしてくださいました。スペインへ脱出し、またスペインから追い出される歴史です。永遠の故郷を求める旅人です。ライトが6章で「旧約聖書の中心テーマー捕囚と帰還」と言っていることを今でも繰り返しているのです。もしそうだとすると、旧約聖書で働かれた神はいまでも人類の歴史で働かれていることになります。ライトがいう最後の幕はすでに始まっていて、しかもこれからのこととして現実味を帯びてきます。

ライトの1世紀のユダヤ教の研究書が今年中に翻訳されて出てくるようです。ユダヤ学の原点に返ることができます。ギリシャ化されたキリスト教が一度その上着を脱ぎ捨てて、元のつながりであるユダヤ思想との関わりで見直していくことで、ホロコーストで崩壊したキリスト教をもう一度生き返らせることができるのか、ライトとともに予断を許さない緊張状態に置かれます。

上沼昌雄記

Masao Uenuma, Th.D.
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