「モダンとポストモダンと福音主義」 2005年11月

神学モノローグ

 雑誌クリスチャニティー・ツデイーの10月号の最後の3分の1ページは各種神学校の宣伝になっている。それに沿ってNot Your Father’s Seminaryという記事が載っている。過去25年の神学校の置かれている社会、国、世界の変化に神学校がどのような変革をしてきているのか、またしなければならないのかを的確にまとめている。神学校の宣伝にはよく耳にする学校の名前が連なっている。
 この四半世紀の変化は、社会現象的にポストモダンと言われている。モダン、すなわち西洋の近世以来、理性の自律を確立して築き上げられてきた認識論と世界観のなかで普遍的な真理が標榜されてきた。しかし、そのような価値観や世界観が全面的には通用しない事態になってきている。すなわち西洋社会の聖書観や宣教論が必ずしも絶対でない現実に直面してきている。アメリカの社会自体が宣教地となってきている。また善し悪しの問題ではなくて、物質主義的な傾向から、人々が内面的な世界に目を向けてきている。コンピュータ情報化時代が価値観の多様化に拍車をかけている。確かに過去四半世紀はコンピュータの進展の時代であった。
 福音主義神学は避けることのできないかたちで、モダニズムの理性中心主義の流れのなかでそれぞれの教派の神学を築いてきた。福音主義神学が普遍的な真理として提示されてきた。それが通用したときがあった。あなたのお父さんが神学校で学んだときはまだそれで充分であった。しかしそれだけでは対応しきれないときになってしまった。文化と価値観の多様化の時代になっている。人々が知的なことより霊的なことに関心を持ってきている。善し悪しの問題ではなくて、ポストモダンが市場になっている。カリキュラムの変更をもたらしている。そうしなければ経営もできなくなってきている。
 福音主義はポストモダンを敵のように見ている。自分たちが築いたものが崩されると思うからである。その論理は福音主義がモダン、すなわち近世を精神基盤としていることを意味している。あるクラスで、神の存在を弁証論で全面的に証明できると言った教授の話を思い出す。そのときには自分でもできるかも知れないと思った。最近恩師の大村晴雄先生の言われた言葉を思い出す。日本には近世(モダン)がないので、ポストモダンもないと。近世哲学史が専門の先生の言葉に唸らされた。
 モダンの行き詰まりに気づいて人々はその枠からはみ出してきている。その流れは止めることができない。社会のすべての面に現れてきている。教会にも影響してきている。同時にそのような人たちに福音を届けている牧師もいる。際だってすばらしい説教をしているわけでもない。誰もができような話をしている。それでいて多くの人の心の届いている。福音が生きている。聖書が生き返ってきている。
 福音主義神学は時代の産物である。聖書は神の作品である。福音主義が、避けることができないポストモダンの流れを敵としてではなくて、挑戦として受け止める時が来ている。そして、福音主義のなかにあるモダニズムによる理性中心主義のシフトを変えることができる。聖書に対する全人格的なアプローチをもたらすことができる。そのように聖書を捉える枠を広げることによって、聖書の豊かさをさらに余すことなく言い表し、伝えていくことができる。依怙地になって自分たちの神学が絶対に正しいのだと言って、凝り固まってしまう必要はない。柔軟に構えて世界を見回し、人々の心に耳を澄ませる時が来ている。

上沼昌雄記

「新しいフォーマット」2005年11月21日(月)

ウイークリー瞑想

 新しいコンピュータに今までのものをすべて転送して、使い出して一 週間ほど経ちました。新しいおもちゃを手にして喜んでいる子どものよ うな感覚で使い始めたのですが、結構いろいろなところで調整が必要に なってきています。iBookの機能には日本語がそのまま使えるよ うになっています。iBookG4ではそれがさらに徹底してきている ようです。

 それでも基本的には英語環境のなかで日本語を使用しているという感 覚は残っています。新しい仕様方式になって、半角の取り方、カタカナ への変換、句読点の位置などで調整が必要になりました。そして慣れる のに結構時間がかかります。新しい仕様環境にいることを認めることに 抵抗を感じてしまいます。前のもののほうが使いやすかったと思うとき もあります。

 いずれは慣れていくのだろうと自分に言い聞かせています。新しい機 能を楽しんでもいます。それでもまだどこかで居心地の悪さを感じてい ます。新しいコンピュータの仕様方式を認めたくない変な意地も出てき ます。同時にその新しい機能をもっと知りたいと思います。自由にコン ピュータを操ってみたいとも思います。

 新しいコンピュータを楽しんでいる自分と、慣れるのにいらいらして 不機嫌になっている自分に気づいて、いま自分が神様の新しいフォー マットに置かれていてもがいている姿を語っているように思えてきまし た。振り返ってみると、この1年でも自分の置かれている環境も随分変 化してきています。妻の闘病があり、子どもが結婚していきました。こ の3月に還暦を迎えました。ミニストリーの事務所を物置に移動しつつ あります。山の教会の暗転があります。理事として関わっているJCF Nの太平洋を挟んだとてつもない大きな展開があります。

 神様がシフトを変えて来ています。今までのものでは対応しきれない フォーマットになっています。調整するのにいらだっている自分がいま す。前と同じままで動こうとする自分がいます。今までのほうがよかっ たと思っている自分がいます。変革を恐れている自分がいます。これか らどうなるのだろうかと心配している自分がいます。神様の新しい皮袋 の前で古い皮袋を握っている自分をみます。

 コンピュータの場合は、キーボードのどこを押せばシフト変換ができ 操作ができるかを、マニュアルをたよりに学んでいくことができます。いらいらしながらも少しずつ対応きます。神様のフォーマットは同じよ うには行きません。何とか変革をし、操作を覚えて神様のフォーマット になれたかと思うと、また次のまったく異なったファーマットが出てき ます。どのように対応し、調整したらよいのか迷います。ようやく慣れ たと思ったらまた新しいキーボードが出てきます。その都度新しい ファーマットに対応することになります。しかもマニュアルがありませ ん。いつも試行錯誤です。

 コンピュータの場合はマニュアルをしっかり読めば何とか分かりま す。聖書はマニュアルではありません。いろいろな試行錯誤のパターン の収集本のようです。じっくりと読んで行くと、神様のフォーマットに 合わないでもがき、いらだっている神の民の苦悩が聞こえてきます。

上沼昌雄記

「新しいコンピュータ」2005年11月15日(火)  

ウイークリー瞑想

 3年以上使っていたマックのiBookのスクリーンが不調を来し てきて、思い切って新しいiBookG4を購入しました。3年間の保 証期限を過ぎてしまったので、修理に出すのと新しいものを購入するの とどちらが良いのかの判断が求められた末での決断でした。この記事は 最初の作品になります。

  ミニストリーではコンピュータを、メールでのやり取り、ウイーク リー瞑想や神学モノローグ、ニュースレターなどの執筆で毎日のように 使っています。コンピュータはミニストリーにとってなくてはならない 道具です。それよりもコンピュータの進展とともに歩んできたと言って も過言ではありません。16年前に小さなマックをいまの値段の3倍は 出して買いました。機能はいまのものに比べたらほんの幼稚なものでし た。それから数えるとこの新しいiBookG4が5台目になります。 まさに5代目です。機能は比較にならないほどです。

  最初のかわいい箱のマックでミニストリーの最初のモノグラフ『三位 一体の神』(1991年)を書きました。それから『存在の感謝』『痛 みと苦しみ』『三位一体の神との祈り』『結婚の神学』等を出して、そ れらを用いてセミナーをしてきました。インターネットができるように なってからミニストリーとしてのホームページを開設し、ウイークリー 瞑想と神学モノローグの記事を定期的に発信してきました。

  前のiBookになって男性集会のことを書いてみたいと思って 『夫たちよ、妻の話を聞こう』としてまとめました。原稿を自分のコン ピュータからそのまま出版社に送るという離れ業ができることが分かり ました。作家の村上春樹はマックでないと文章が書けないと言っていま す。ただ川端康成の文章はコンピュータでは書けないようなことを言っ ています。  自分の周りで起こったことと自分の心が結びついて『苦しみを通して 神に近づく』を同じようにiBookで書きました。スクリーンの中 の自分の原稿とにらめっこをしていました。最初は『夫たちよ、、、』 の続きを書こうと思っていました。しかし不思議に神が『苦しみ を、、、』を書くように導かれました。その意味は私にとって計り知れ ないものがありました。  この夏の始まり頃から雅歌を用いての夫婦のことを書き出しました。 男性集会から始まって夫婦のセミナーに至った道筋を、雅歌を追いなが ら書いてみました。原稿の推敲を始めた頃からスクリーンの不調が出て きました。何とか持ち堪えさせながら推敲を一応終えて、原稿を脱稿す ることができました。日本時間のこの月曜の朝でした。

  新しいiBookG4を起動して驚いたのは、前のiBookのド キュメントを含めてすべてを転送しますかと問いかけてきたことです。 一応大切なものは保存をしてきたのですが、いままでのメールやアドレ スはやり直さないといけないと思っていましたので、大変助かりまし た。コンピュータが分かっている人にとっては当然のことなのですが、 20分ほどで前のものをそのまま使いながら新しい仕様の下でいままで の続きを始めることができました。

  自分の働きを風のようなミニストリーと思うときがあります。イン ターネットでどこにでも飛んでいくことができます。もちろん顔を合わ せ、語り合うことはもっと大切です。私もそれを必要としています。そ れでもいまの時代にインターネットを通してどこにでも繋がることがで きます。日本、シンガポール、東海岸と信じられないほど遠く離れてい ても、どこかで共鳴と共感が生まれてきます。それが御霊によるもので あることを願いつつミニストリーをしています。

 上沼昌雄記

「年をとることと霊的識別」2005年11月7日(月)

ウイークリー瞑想

 前回のウイークリー瞑想「霊的観測」に対して、同年輩の方々からレスポンスをいただきました。神のみこころ、神に喜ばれることを「見分ける」霊的識別に関して、失敗をしてきて、いまだに難しさを覚えますという告白に近いものです。ひとりの方が次のように書いてくださいました。

  「『何が正しく、神に喜ばれるかを見極める』ことは、いつも求めていながら、自分でも実現しているとは思えません。自分でも気がつかないうちに、これとは逆なことをしていることもあります。自分の性格や習慣も関係しているかもしれません。でも、この自分の弱さを認めつつ、神との正しい関係に立ち返ることが、大切なのかもしれませんね。日々祈りつつこの修正作業をしています。」

 この方は拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』の「ある男性の物語り」の項目で証を書いてくださいました。そこで言われていることを思い出しました。「格言2ーー人は歳をとるほど『良い人』になるわけでない。」

 人は年をとれば、それなりに経験を積み、見識も豊かになり、それなりの風格も備わってきます。そのために社会的に責任のある仕事を任されます。私もある団体の責任をいただいています。年相応のことと納得しています。

 しかし内面的な面で振り返ってみると、神に喜ばれることを見極めることに関して、判断し損ねてきたことをむしろ思い出します。うまく見極めることができたという痛快さより、失敗してきたという悔いのほうが先に出てきます。どこかで自分のエゴやプライドで判断してきたことを知らされます。そして同じようなことを繰り返してきたようにも思います。

 それでは恵みがなくなってしまったかというと、そうではないことも知らされます。失敗をして遠道をしても、どこかで修正をいただいています。それが自分の通るべき道であったと納得もいただいています。ただ現実に見損なってきたことを思い出します。年をとったしるしなのかとも思います。

 前回の瞑想の最後に書きました。「取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。」そして「この言葉に共鳴しました。」という一言のレスポンスもいただきました。この方も年とともに同じような難しさを経験しているのだろうと想像しました。

 年とともに私のなかにももいろいろな経験があります。少しは知識もあります。しかしそれをたよりにしてしまったら、また見極めることで失敗をしてしまうのだろうとも薄々感じます。どこかでいつも自分の知識や経験で判断をしようとする力を感じます。しかし、それらを引っ込めて白紙の状態で神のみこころを求めていくことが、年とともに必要なのだろうと思わされています。結構難しいことです。「日々新たにされる」(2コリント4:16)ことの一面なのかも知れません。

上沼昌雄記

「霊的観測」2005年11月1日(火)

ウイークリー瞑想
 
 北加日本人クリスチャンリトリートに参加して「霊的祭典」という記事を書きました。事務局の姉妹に送りました。この日曜の午後に修養会を振り返っての委員会がありました。その折りにウイークリー瞑想「霊的祭典」をコピーして委員の方々に渡してくださったと言うことです。「的を得た、霊的観測」と受け止めてくださったと言うことです。
 
 霊的観測と聞いて、アンテナを掲げて霊の気象を観測している測候所のこと思いました。しかし霊的に正しいかどうか見張っているわけではありません。参加している人たちの霊的な反応を知りたいのです。修養会の霊的な流れを知りたいのです。自分にとっての意味を知りたいのです。神がこの時に何を求めておられるのかを知りたいのです。
 
 聖書に神のみこころ、すなわち、何が大切で神に喜ばれるのかを「わきまえ知る」(ロマ書12:2)、「見分ける」(エペソ5:10)ことが求められていることが分かります。その見分けることのできる人を「熟練した者」(2テモト2:15)と呼んでいます。そしてその人には「練られた品性」(ロマ5:4)が備えられると言っています。
 
 神学校でギリシャ語で調べて、つながりを見つけて感動しました。このことばの意味をよく語ってきました。それでは自分が神に喜ばれることを見極めてきたのかというとそうではありません。失敗をしてきました。そのために苦労もしました。人を悲しませて来ました。よく見ると周りの牧師も、教会も神学校も判断を誤ってしまったことがあります。聖書をどんなに知っていても、正しい解釈をしていると思っても、それだけでは神のみこころを見分けることにはならないようです。
 
 リトリートの最後の晩の集会の後に、講師と牧師を招いてくださいました。反省会とお茶会のときでした。事務局の姉妹が、集会での賛美を含めての霊的な流れについて語りました。講師の話が、聖書の教えをいったん懐に入れて、そこから出してくれたので、参加者が聞きやすかったと言われました。多くの場合に聖書からそのままなので聞き難いと、手真似をして語ってくださいました。私も感じたことでした。的確に表現してくださったので、同感ですとお伝えしました。
 
 霊的な判断や識別は、知識や経験ではありません。ただ霊的なこととしか言えません。「信徒は、霊的に何が真実なのかを見極めています。」と前回の記事に書きました。たとい言葉で表現できなくても、霊的には識別しています。それでこのリトリートにも多くの人が集ってきました。どうしてそのような霊的識別が可能なのか、大変興味があります。霊性神学の認識論の課題です。
 
 結婚相手を決めるときには、真剣にみこころかどうか求めます。今晩の夕食の献立を決めるときにはどうでしょうか。私たちはいつでもどこかで何かによって判断しています。聖書と信仰と直感との折混じったところで判断しています。取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。
 
 上沼昌雄記