4つの教会の男性集会を16名の男性と持ちました。このグルー
プでの男性集会は回数として7,8回になります。十文
字の教会の70歳半ばの男性がこの集会を気に入ってくれてい
ます。特にこの数回は父親のことを分かち合ってきたのですが、こ
の方が心にある痛みをそのまま語ってくれました。十文字という地
名に導かれて、戦前に一人の婦人宣教師が開拓した教会で、有名な
ヴォーリス師の設計によるもので、その床板には年季が入っていま
す。歴史と雪の深いこのような教会での分かち合いが拙書『父よ、
父たちよ』の背景になっています。
今回は十戒の「父の咎を子に報い、三代から四代にまで及ぼし」
ということばと、パウロが「父たちよ、あなた方も子供をおこらせ
てはいけません」ということばを中心に、自分が子供として父親か
ら受け継いでいる咎、父親から受けた傷、そしてさらに今度は、父
親として子供たちに受け継がせている咎、子供たちに与えている傷
を、いくつかの例を紹介して、自分のこととして振り返る時を持ち
ました。
各地での今までの男性集会で数名の方が自分の父親のアル中のこ
とを語ってくれました。父親に守られるべき自分が、逆に父親を守
らないといけない環境で育ってきたときに、当然受けるべき愛も受
けられないために、人格のゆがみを持つことになります。一生の傷
になります。この1月にもそのような経験を分かち合ってくれ
た牧師がいます。
このようなはっきりとした形で父の咎を受けていることがなくと
も、どこかで三代、四代前から自分の家系のなかで起こったことが
いまに影響しています。しかし多くの場合に、それがなんなのか意
識に上ってこないことがあります。自分で今回語りながら、自分で
自覚していなくても、それでも多分自分の妻はそれに気づいている
のだろうと気づきました。妻がいらいらするのは結局自分が生まれ
育ってきたなかで知らないで身につけているもので、ぬぐいきれな
いでいるものにいらだっているのだろうと思わされました。言葉を
換えれば、自分の闇に直面していないで、それは当然と思っている
ことに妻は夫の霊的鈍感さをみているのでしょう。
用紙を用意して各自に自分が受け、自分が受け継がしている咎と
傷を振り返って書いていただきました。それは全く個人的なことな
ので分かち合うことはしませんでした。しかしこの作業をしての
「まとめ」だけを分かち合っていただきました。10分あれば
十分と思ったのですが、予定の時間より20分超過して集会が
終わりました。
その「まとめ」の分かち合いで、一人の方が同じように自分の受
けている咎、受け継がせている咎は、自分では分からなくても妻は
分かっているのだろうと言われました。妻が自分にあれこれと言っ
てくるのはそのことなのだろうと言うのです。そして集会が終わっ
て、その方の家にたどり着いたとき、両方の妻が待っていて、「ど
うでしたか」と間をおかずに聞いてきました。その方が正直にご自
分の「まとめ」を奥様に語り出しました。それぞれの妻はそれぞれ
の夫をみながら、その通りという顔をしていました。何かのっぴき
ならないところに来たようです。
上沼昌雄記