「男性集会・顛末」2010年4月27日(火)

 過ぎる日曜日の夕方に秋田県下の、湯沢、十文字、大曲、秋田の
4つの教会の男性集会を16名の男性と持ちました。このグルー
プでの男性集会は回数として7,8回になります。十文
字の教会の70歳半ばの男性がこの集会を気に入ってくれてい
ます。特にこの数回は父親のことを分かち合ってきたのですが、こ
の方が心にある痛みをそのまま語ってくれました。十文字という地
名に導かれて、戦前に一人の婦人宣教師が開拓した教会で、有名な
ヴォーリス師の設計によるもので、その床板には年季が入っていま
す。歴史と雪の深いこのような教会での分かち合いが拙書『父よ、
父たちよ』の背景になっています。

 今回は十戒の「父の咎を子に報い、三代から四代にまで及ぼし」
ということばと、パウロが「父たちよ、あなた方も子供をおこらせ
てはいけません」ということばを中心に、自分が子供として父親か
ら受け継いでいる咎、父親から受けた傷、そしてさらに今度は、父
親として子供たちに受け継がせている咎、子供たちに与えている傷
を、いくつかの例を紹介して、自分のこととして振り返る時を持ち
ました。

 各地での今までの男性集会で数名の方が自分の父親のアル中のこ
とを語ってくれました。父親に守られるべき自分が、逆に父親を守
らないといけない環境で育ってきたときに、当然受けるべき愛も受
けられないために、人格のゆがみを持つことになります。一生の傷
になります。この1月にもそのような経験を分かち合ってくれ
た牧師がいます。

 このようなはっきりとした形で父の咎を受けていることがなくと
も、どこかで三代、四代前から自分の家系のなかで起こったことが
いまに影響しています。しかし多くの場合に、それがなんなのか意
識に上ってこないことがあります。自分で今回語りながら、自分で
自覚していなくても、それでも多分自分の妻はそれに気づいている
のだろうと気づきました。妻がいらいらするのは結局自分が生まれ
育ってきたなかで知らないで身につけているもので、ぬぐいきれな
いでいるものにいらだっているのだろうと思わされました。言葉を
換えれば、自分の闇に直面していないで、それは当然と思っている
ことに妻は夫の霊的鈍感さをみているのでしょう。

 用紙を用意して各自に自分が受け、自分が受け継がしている咎と
傷を振り返って書いていただきました。それは全く個人的なことな
ので分かち合うことはしませんでした。しかしこの作業をしての
「まとめ」だけを分かち合っていただきました。10分あれば
十分と思ったのですが、予定の時間より20分超過して集会が
終わりました。

 その「まとめ」の分かち合いで、一人の方が同じように自分の受
けている咎、受け継がせている咎は、自分では分からなくても妻は
分かっているのだろうと言われました。妻が自分にあれこれと言っ
てくるのはそのことなのだろうと言うのです。そして集会が終わっ
て、その方の家にたどり着いたとき、両方の妻が待っていて、「ど
うでしたか」と間をおかずに聞いてきました。その方が正直にご自
分の「まとめ」を奥様に語り出しました。それぞれの妻はそれぞれ
の夫をみながら、その通りという顔をしていました。何かのっぴき
ならないところに来たようです。

上沼昌雄記

「エレミヤ書の学びを課せられて」2010年4月19日(月)

 当然のことなのであるが、ユダヤ民族はいまでも旧約聖書に書か
れていることを自分たちの先祖たちに起こったこと、自分たちの歴
史そのものとして受け止めている。直裁的な連続性である。しか
し、その当然であることは私たちにとっては当然でない。過去のど
こかの誰かに起こった事実としては認めている。聖書の歴史性であ
る。それでも自分たちの先祖の歴史とはならない。結びつけるため
に信仰的、霊的な理解が求められる。この信仰的な理解にはすでに
読む側の枠が働いている。

 最近翻訳されたレヴィナスのラジオでの対話集『倫理と無限―
フィッリプ・モネとの対話』(ちくま学芸文庫)の初めで、このユ
ダヤ教徒の視点を端的に述べている。聖書のなかの出来事が、「世
界中に離散したユダヤ人の運命に現在、直接関係しているという痛
みの意識」(25頁)につながっている。現在の痛みの意識は
すでに聖書でも先祖たちが感じていたものである。痛みの意識の連
続である。そんな意識は、逆さになっても持つことはできない。

 ともかくユダヤ教徒の思想家のものを読むようになって、逆にこ
の違いに関心を持つようになった。民族が違い、歴史が違うものた
ちが旧約聖書を読むときに、自分たちの必要や、歴史的背景や民族
的背景から来る視点が働くことになる。その意味での聖書のとらえ
方は当然許されている。しかし、その視点で捉えたとらえ方だけが
聖書的だと主張してくると、そのユダヤ教徒の視点も排除してしま
う。それだけでなく暴力的な力を持って、その視点に同意しないも
のを排除してくる。

 最近ヨナ書に関しての書物を読んだ。ヨナ書を先祖に持つユダヤ
人の理解に興味を持っているからである。ヨナ書に関するこの書物
は信仰的なものとして私たちの間で用いられている。私たちの信仰
を促す視点で書かれている。その理解は許されている。そのために
ヨナの不信仰を取り上げている。しかもヨナの不信仰をただすため
にヨナ書が書かれたという。そのためだけに書かれたという言い方
である。そのように理解することが聖書的であり、福音的であると
までいう。つまり、その以外の理解は聖書的でないというのである。

 いまエレミヤ書の学びを課せられていて、この著者の主張が気に
なる。果たしてそのためだけにヨナ書が書かれたのだろうか。その
ためにあえて異邦の地ニネベへの宣教を命じたのであろうか。魚の
腹の中に三日間留められたことは何のためであったのだろうか。し
かもこの著者は、イエスがヨナを何度も取り上げていることに関し
て本文では何も言っていない。それで良いのだろうか。この著者の
主張は、レヴィナスやデリダがいう西洋の哲学と神学が持っている
暴力ではないだろうか。自分たちの解釈だけが聖書的だということ
で他を排除する暴力ではないか。

 こんなことを思いながら、ともかくエレミヤ書を当時の人がどの
ような思いで読み、聞いたのだろうかという視点で一緒に読んでみ
たいと思っている。当然ユダヤ人のようには自分たちの歴史の一部
のようには読めない。それでもそのような読むことになったらどの
ような読み方になるのか、想像しながら読んでみたい。教会に『新
聖書注解』がある。時々参考にしている。それでもそのエレミヤ書
の1章の終わりに関しては、エレミヤが一生をかけて信仰の従
順さを学んでいくためのようなことが書かれている。ともかくこの
ような枠を外して読んでみたい。どこまで読めるのであろうか。と
んでもない課題をいただいたものである。

上沼昌雄記

「秋田の教会」2010年4月12日(月)

 小高い丘の上の入り口に秋田の教会はあります。階段を上がって
すぐに台所とダイニングがあります。ルイーズのアイデアでユニー
クな配置をした生活の場です。台所の脇から6畳の畳の部屋に
通じています。階段を上がって左手にトイレ・洗面・お風呂があ
り、さらにもう一つの部屋があります。スーツケースを置いたりし
ています。階段からの右手に書斎として使っている部屋がありま
す。そこで記事を書いています。丘の上にあり、北国ですので二重
窓になっていて外からの音が遮断されていることもあって、とても
静かです。

 この部屋は北側に向いています。窓辺から礼拝堂の屋根の向こう
の東方に、まだ雪をかぶった人懐かしそうな太平山が見えます。こ
の丘を降りて畑のなかから、南側のずっと向こうに真っ白な威厳を
持った鳥海山が見えます。用事で出かけたときに車の中からルイー
ズが見つけて感動していました。先週は一人の牧師の友人が滞在し
て下さり、海を見たいのと言うので、新しくできた駅の脇の地下自
動車道をくぐって、県庁脇を通って、雄物川が日本海に出ている脇
の新屋海辺公園に入って、まだ寒い風の吹いてくる海辺を歩いてき
ました。

 湯沢の教会の方が栽培されている有機米のあきたこまちをルイー
ズが食べ、私はお店から買ってきたあきたこまちを食べています。
普段はカリフォルニア米でごまかしていますので、あきたこまちの
おいしさに参っています。それに多少のおかずかあれば十分といっ
たところです。今まで何度も滞在させていただいた石川宅で秋田の
海の幸、山の幸を味わってきて、この北国の豊かさをさらに実感し
ています。

 昨日は春休みが終わって帰ってきた3人の医学生が4
人の子供さんの教会学校をしていました。自分たちで自主的にプロ
グラムを決めてしているようです。その前日の土曜日の午後2
時から3時までは第一回目のエレミヤ書の学びをしました。ど
うしてエレミヤ書なのか聞いてみたのですが、後でわかったことで
すが、どうも石川兄はどうしてかわからないのですが、私の専門が
旧約聖書だとずっと思っていたこともあったようです。実は私に
とってエレミヤ書は全くのチャレンジなのです。大変なチャレンジ
です。ですが不思議にユダヤ教の思想家のものをこの数年読んでき
ているので、逆に学んでみたいと思っていたところなのです。

 昨日で続いて3回の説教をしたことになります。いつもは一
回限りの説教をして「さようなら」で済ませていたのですが、今回
はそうはいきません。続けて説教をしていたらだんだん隠せなくな
ります。アメリカで説教を聞く立場になって、会衆は説教者の心を
しっかりと読んでいることを知らされてきました。その立場に立た
されています。それもまた大変なチャレンジです。

 それでも不思議に、この教会が15年間無牧師で歩んできた
したたかさのようなものを感じます。月一度は近隣の牧師にお願い
して説教と聖餐式をしていただき、後は自分たちで証説教をしてき
ました。ルイーズは2年前に聞いた一人の姉妹の証は今でも覚
えていると言うほどです。牧師のその場限りのすばらしいメッセー
ジでは踊らされないしぶとさを持っています。何か聖書で出てくる
離散の民のしぶとさに通じるものがあります。どんなことがあって
も信じて進んでいく神の民のすごさです。

 昨日は礼拝の後に愛餐会を持ってくれました。15名ほどのうち10
名前後は医学関係者なのです。数名の年配の方々の短い自己紹介も
興味を注がれるものでした。したたかな信仰生活を支えるユーモア
を持ち合わせています。どんな歩をされてこられたのか何時かお聞
きしたいところです。教会の方がお産で入院されました。昨晩はご
主人が奥様の所に行かれるので、5歳の男の子のベビーシッ
ターをして今朝帰ってきました。まだ冷たい風が吹いています。桜
はまだ先のようです。

上沼昌雄記