初めに
北海道大学大学院文学研究科教授の千葉惠先生による『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』が、この2月末日に北海道大学出版会から出版されました。上下巻で1400頁に至る大著で、使徒パウロのローマ書を主な研究対象とされ、アリストテレス哲学を共約性基準として、その言語哲学により意味論的分析を行っています。著者40年にわたる研究成果に不思議に接することになり、ローマ書理解に新しい光をいただいています。
最初の接点は、2014年の文化の日、北大のキャンパスでした。その時から50年遡る1964年に北大に入学し、数名のクリスチャン仲間と宣教師と「クラーク聖書研究会」を発足しました。その50周年記念集会で、その時点でN.T.ライトの翻訳に関わっていましたので、ローマ書3章22節の「イエス・キリストのピスティス」をライトが主格の属格ととっていることを話しました。日本語の聖書翻訳でも取り上げられていたテーマでした。
千葉先生はクラーク会の顧問を長年してくださっています。話し終わって挨拶に伺いましたら、開口一番、その「の」は主格でも対格でもなく、「帰属の属格」であると言われました。「イエス・キリスト」という称号には行為の主体はないと説明されました。主格の属格ととること自体この30年ほどで世界の聖書学者がようやく認めてきたことを、千葉先生があっさりと否定されたことに衝撃を覚えました。それ以来研究室を訪ね、資料をいただき、先生の40年来の研究の一端に接することになり、結果的にローマ書のテキストに引き戻されました。
イエス・キリストの信を媒介にして ― 3章22節
ローマ書3章22節のこの箇所は、前節を受けて、「神の義」が「イエス・キリストの信を媒介にして」「信じる者すべてに」と動詞形なしに語られ、「というのも、分離はないから」で終わっています(以降聖書引用は、下巻の最後の附録にある千葉先生の『新訳』による)。従来通りに対格として「イエス・キリストを信じる信仰によって」ととると、その後の「信じる者すべてに」と繰り返しとして不自然であるだけでなく、神の義の啓示が私たちの信仰に寄ることになり、二千年のキリスト教は混乱をかかえることになりました。というのは、信仰者の心的状態で神の義の啓示が捉えられることになるからです。N.T.ライトも指摘していることです。
千葉先生がそれでも主格でもなく、帰属の属格と主張されるのは、ピスティスが初めからイエス・キリストに属するものと捉えることで、神の義とイエス・キリストの信には、その節で言われている「というのも、分離はないから」と結びつくと見ているからです。「というのも」という接続詞が、その前のことを説明していることになり、神にとって「義」と「信」に「分離はない」となるからです。
3章3節では、イスラエルの「不信仰/ア・ピスティス」に対して「神のピスティス」が語られていてます。「神の信仰」とは訳せませんので、「神の信/真実」と訳すのが適当です。それに対して「イエス・キリストのピスティス」は「イエス・キリストの信/信実」と訳すことができます。神にとっては義と信とには分離がなく、神の義の啓示は神のピスティス/真実の現れなのです。千葉先生が帰属の属格と主張されるのは、神の義の啓示の本質を見逃さないためであることが分かります。
なぜ神には義と信の分離はないか ― 3章23-26節
千葉先生は、聖書学者はローマ書のテキストの意味論的分析をしていないとまで言われます。当初その意味合いがつかめなかったのですが、23節に「なぜかといえば」という接続詞が使われているのは意味があって使われているのだと言われ、なるほどと思わされました。新改訳も共同訳も見逃しているのか、それとも、その接続の意味が分からないままで混乱の中にいるとも言えます。意味論的分析とは、言葉がそこで使われていたら意味があって使われているので、その分析に徹することなのです。
それで千葉先生は「なぜかといえば」で始まる23節から26節は、神の義と信には分離のないことを説明しているととります。しかもワンセンテンスで言い表されています。さらに「ご自身の義の知らしめ」「ご自身が義である」「ご自身の義の知らしめ」と3度も繰り返すように、目的が神の義そのものの啓示であって、いわゆる人間の側の信仰義認ではないことを明確にしています。前節の「イエス・キリストのピスティス」を対格として信じる私たちの信仰ととると、結局は信じる私たちの信仰義認が第一になってしまいます。二千年のキリスト教の混乱であります。
神の義の啓示が「イエス・キリストの信を媒介にして」いることのしるしのように、イエスの血による差し出しである従来「なだめの供え物」と訳されているヒラステーリオンを「現臨の座」と訳します。業ではなく信による神の義の啓示であるので「現臨の座」でなければならない結論づけます。N.T.ライトはMercy Seat/Meating Placeと表現しています。同じ意味合いで、刑罰代償説はとっていません。
信の律法を介して ― 3章27-31節
このことに基づいて次の27節で、律法を誇りにしているユダヤ人(2:23)に、その誇りは「閉めだされた」と宣言することになります。その理由として、「どのような律法を介してか」と自問し、「業のか、そうではなく、信の律法を介してである」と明言できるのです。その「信の律法」とはまさに「イエス・キリストの信」によることで、私たちの信仰のことではないからです。モーセの文字による律法に対して、イエス・キリストの信による「信の律法」による神の義の啓示が可能になったからです。このことは21節で「律法を離れて」、しかも「律法と預言者たちにより」と、すでに律法の意味合いを区別していることに対応します。
この箇所の「律法」が、従来「原理」とか「法則」と訳されているのですが、それは信仰義認における人間の側の心的状態に関心が移ってしまっているためであり、それは結果として、ローマ書理解の混迷を深めることになっています。幸いに新改訳聖書2017では「行いの律法」と「信仰の律法」に戻っているのですが、意味合いは人間の側の信仰のままです。正確には「イエス・キリストの信」によることなので、「律法」を「無効にするのではなく」「むしろ確認する」(31節)ことになります。7章と8章で再度「律法」の意味合いが問題になります。
「ピスティス/信」は、すでに見てきたように、神のピスティス(真実)、イエス・キリストのピスティス(信実)、私たちのピスティス(信仰)が言い表されています。さらに御霊の実としてのピスティス(誠実)が表現されています。神の側でのピスティスと人間の側でのピスティスを千葉先生は「信の二相」と言い、1章17節のいわゆる「信仰から信仰へ」に当てはめています。
ピスティスが「信じる」という心の深いところでの認知作業を備えているだけでなく、信じる者に備わる信実さ、誠実さという人格的要素も備えていることが分かります。その意味での「信」は、人間の心魂の根底での根源的要素であり、「共約性」を持っています。それゆえに、パウロはアテネのアレオパゴスで哲学者たちと議論することができました。千葉先生ご自身は、そこに至るためにアリストテレス哲学を先に修めたことになります。この心魂の根源的要素については、7章での「内なる人」との関わりで見ることになります。
内村鑑三とローマ書と
千葉先生がこのようにローマ書3章21節から31節までの解明に全力を注いでいることには、内村鑑三のローマ書研究が深く関わっています。内村鑑三は1920年1月から1922年10月まで60回のローマ書講義をしています。『ロマ書の研究』としてまとめられています。この講義に先立つ1914年にローマ書に関して、内村鑑三は次のような発言をしています。「旧約は新約を依て解すべし、新約は羅馬書を依て解すべし、羅馬書は其の第三章二十一節より三十一節を似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二十一節より三十一節までを解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず。」(『聖書の研究』172)
すなわち、ローマ書3章21節から31節を解く人は聖書全体を解く鍵を神からいただいていると言うのです。内村鑑三自身が解くことができたのかというと、どうもできないで最後まで格闘していたようです。自分の葬儀ではこの箇所を読むことを願ったようです。
千葉先生のご両親は内村鑑三の弟子の塚本虎二から聖書の指導を受けています。宮城の古川で家業の木材業を営みながら子供たちを聖書の訓戒で育てました。今回出版された『信の哲学ー使徒パウロはどこまで共約可能か』の構想はそのご両親から「自然に与えられた宿題」と受け止めていると言います。その宿題が、まさにローマ書3章21-31節の鍵を解くことなのです。原稿の段階での「あとがき」で触れています。
内村鑑三のローマ書研究における格闘は、直接的に千葉先生の探求の契機になったのですが、歴史的にはローマ書理解は混迷の歴史とも言えます。バルトの『ローマ書』は、第一版が1919年に第二版が1922年に出ていますが、テキスト解明には至っていません。遡るとルター、アウグスティヌスにまで至ることと言えます。その中での千葉先生の解明は、歴史的評価を待たなければなりませんが、ある一定の方向を示していることは明らかです。
その方向性が先に見た、第一に「イエス・キリストの信を媒介にして」であり、第二には「神には義と信の分離はない」ことであり、第三に「信の律法を介して」の理解です。それは端的にテキストの読み、すなわち、意味論的分析によっていることです。安易な神学的な投影は許されないのです。千葉先生は神学的枠組みのテキストへの「密輸入」と言い切ります。
テキストの言語網の分節と相補性 ― 1-4章と5-8章
テキストの意味論的分析から千葉先生が導き出しているローマ書の言語網を確認しておく必要があります。ここではローマ書8章までを紹介します。すなわち、1-4章と5-8章では著者であるパウロの視点が異なっていると言うのです。1-4章は「神の前の自己完結性」であり、5-8章は「ひとの前の相対的自律性」であり、それぞれ分節されていることと、その相補性がこの手紙の流れと見ています。
すなわち、1-4章では、3章の神の義の啓示と1章の神の怒りの啓示(後で取り上げます)は、神の啓示の事実の提示であって、そこにはこちら側の心的状態である信仰のあり方は問題にされていないと言うのです。このような言語分析をローマ書で施した人は誰もいないと思います。なるほどと思うのと同時に、ローマ書理解の解明のさらなる鍵になっていることが分かります。というのは伝統的に、3章で私たちの信仰である心的状態を初めから取り入れて混乱を起こしているからです。
その私たちの信仰との関わりはまさに5章からのテーマとして明確に分節されると見ています。すなわち、啓示された神の義にどのように対応しているのかが5章の初めで、「かくして、われらは(イエスの)信に基づき義とされたので」と、それまでの神の啓示の上で信仰者としての対応を語っているのです。その意味合いで、5節で初めて聖霊が信仰のあり方との関わで語られていると言います。その聖霊が「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」を結びつける役割をしているのです。
肉の弱さの故に ― 5章と6章
このように言語網として分節を明確にした上で、私たち信仰者としての葛藤を同時に避けることなくパウロ自身が取り上げているのです。それは多分、神の側での啓示の確かさがあるので、「肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)ことを恐れる必要がないからです。「ひとの前」での葛藤を避けないで観ることができるとも言えます。5章から8章はこの弱さを持つものの葛藤の言語網なのです。
この点に関して、肉が悪そのものであったり、肉のおける罪の遺伝的理解を千葉先生は避けています。そのように理解される5章12節は、アダムによって「罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫き通したのである」と言われているからです。この点に関しては、肉が悪そのものであるというプラトン的な二元論からも解放されることになります。
それはまさに「ひとの前の相対的自律性」をいただいている者として責任になるのです。その背景には、3章で神の義の啓示が語られるまえに、1章で神の怒りの啓示により、私たちがすでに「心の諸々の欲望における不潔」(24節)と「恥ずべき情欲」(26節)と「叡智の機能不全」(28節)へと神による「引き渡し」がなされたからです。この意味での肉の弱さを誰もがかかえています。それでも、肉の思いのままに生きればその実を刈り取ることになりますが、悔い改めの道も開かれています。
内なる人がヌースによって ― 7章
肉はすでに死に支配されているのですが、律法によってさらに罪が罪であることを知らされます。それゆえにしたくないことをしてしまう自分の惨めさを認めないわけにいかないのです。パウロは7章でそんな自分を「われ」として言い表していきます。千葉先生は虚構的な「われ」と表現するのですが、肉を持つ者が誰でも当てはまる「われ」と言えます。
その最後の告白を千葉先生は「惨めだ、われ、人間」(24節)と文字通りに訳します。事実三文字で言い表されています。それだけ緊迫したものを感じです。同時にそのように言える理由をパウロはその前後で語っています。すなわち、「わがうちにつまりわが肉のうちに」(18節)罪が宿っているが、それにもかかわらず、「われ内なる人間に即しては神の律法を喜んで」(22節)いることを認めているからです。外側の肉ではどうにもならなくても、その内側では神の律法を認めている自分に気づくのです。
最後の25節で、さらにまとめるように言っています。「われ自らかたや叡智によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている。」この「仕える」は、6章での「罪の奴隷」と「義の奴隷」に対応します。すなわち、肉では罪の奴隷の状態なのですが、「内なる人」として神の律法を喜んでいる自分に気づいているのですが、さらにその深いところで「叡智」と訳されているヌースとして神の律法をよしとしている自分を認めているのです。
このヌースは、従来の訳では単に「心」と表現されているのですが、意味論的分析では、「心」は一般にカルディアとして表現されているので、ヌースがあえて使われているのには意味があって使われているので、その意味を明確にする必要があります。12章2節で一般に「心を新たにすることで」と訳されているのですが、「叡智の刷新によって変身させられよ」とヌースの意味合いを捉えています。
このヌースにはその前で「識別すべく」とあるように、何が神に喜ばれることなのかを識別する能力が備わっています。その反対が1章28節の「叡智の機能不全」となります。神の怒りの下ではそのまま罪人で終わってしまうこともあるのですが、聖霊が内なる人に働きかけるときに、ヌースが神を識別して、これで良いのだと促す作用をすることが分かります。
千葉先生はこのヌースの使用はすでにアリストテレスによって、感性界を超えた世界の把握能力として使われていることを紹介しています。それが心魂のボトムで誰にでも備わっていることを確認して、パウロはそれが分かってヌースを使っていると言うのです。心魂のボトムでは誰にでも共約的な要素があるので、福音の提示は可能と見るのです。福音を認め受け入れるかは聖霊の働きなのですが、福音がどのようなものかは言葉として理解できると見ていることが分かります。それゆえに「信の哲学」が可能なのです。副題の「使徒パウロはどこまで共約可能か」の意味していることです。
おわりに ― 律法の義の要求の満たしに ― 8章
内なる人としてヌースによって「神の律法」を喜んでいると、パウロは律法のことに最後までこだわっていることが分かります。律法は福音で終わったのではないからです。福音によって律法が成就するためだからです。それこそ神の義の成就に繋がるからです。それで千葉先生は8章4節を「神の義の要求が、、、満たされるため」と丁寧に訳しています。福音は神の義の啓示であり、それは律法の成就でもあるからです。
千葉先生の意味論的分析によってテキストに戻され、神の義の啓示とそれに対する信仰者の心魂のボトムでの出来事をパウロに沿って追うことが許されました。千葉先生はさらに、アウグスティヌス、アンセルムス、ルター、カントとハイデガーへと歴史的挑戦をしています。ローマ書はそれに耐えうるものだからです。
上沼昌雄 (聖書と神学のミニストリー代表)